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真宗研究50号 014下間一頼「専修念仏弾圧と貞慶伝――「興福寺奏状」再考――」

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Academic year: 2021

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専修念仏弾圧と貞慶伝

||﹁興福寺奏状﹂再考||

龍谷大学

は じ め 解脱房貞慶は﹁興福寺奏状﹂を起草し、南都仏教を代表して専修念仏を非難した僧侶と理解されている。この奏 状が弾圧を招く直接の原因であったかどうかは、よくよく検討されなければならないが、親鷺自身も﹁興福寺ノ学 徒︵貞慶を指すと考えられる︶﹂の奏達により、弾圧を被ったとの認識にある。 ところで、この貞慶は生存時の活動と没後の伝承が大きくかけ離れる僧侶の一人でもある。朝廷権力と密接に結 びつき行動する世俗性を有しながら、僧伝、説話の類には精進浄行の僧侶として、その清貧な態度が象徴的に描か れる。私は先に、戒律の聖者としての貞慶像が後世に具体化する戒律復興運動の思潮のもとに、彼の門弟達︵覚 真・戒如︶によって形成されたことを指摘した。貞慶のイメージが形成される要因を後世の教団︵弟子︶の宗教活 動に求めたのであるが、貞慶の専修念仏批判は彼自身の宗教活動とどのように連関するものであるのか。 これを考える場合、もう一方で気になることは﹁興福寺奏状﹂︵以後﹁奏状﹂とも呼ぶ︶起草という行動である。 専修念仏弾圧と貞慶伝

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専修念仏弾圧と貞慶伝

この﹁奏状﹂の執筆、および念仏批判に関する記事が当該史料に確認できないのである。したがって、今回は今一 度﹁奏状﹂の史料的性格を検討することから、貞慶と専修念仏との関わりを考察してみよう。 少し乱暴ではあるが﹁興福寺奏状﹂が貞慶の著作ではない、という仮説を立てて考察を初めてみよう。 まず、検討せねばならないことは、貞慶が興福寺の代表者として、この文書の作成にあたったのかという問題で ある。貞慶は興福寺の出身であるが、彼が﹁奏状﹂を起草した元久元ご二

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四︶年の段階では笠置寺に隠遁の身 であった。若い頃からその才能を発揮し、三会己講となり、出世・栄達の真っ直中にありながら、建久コ一︵一一九 一二︶年三十八歳で遁世にはいる。すなわち、この時期は笠置寺の住持であり、興福寺の住僧ではなかったのである。 では、笠置寺での活動が、興福寺と距離を隔てたものであったのかというと、そうではない。たとえば、建永二 ご 二

O

七︶年の八月には﹁興福寺僧綱等北円堂勧進状﹂﹁興福寺政所下文﹂と、いずれも興福寺の立場にある文 書を作製している。これらは貞慶を思慕した東大寺の宗性が貞慶草案の文書・願文を収集した﹃弥勅如来感応抄﹂ に収められているもので、貞慶の署名はないが、彼が興福寺の文書の作成にあたっていたことを知る材料といえよ ぅ。また、貞慶が遁世中にも関わらず、興福寺の立場を代弁したものはこれだけではない。建久九こ一九八︶年 の十一月一日には興福寺衆徒と朝廷の争いに際し、衆徒の強訴・合戦の正当を主張している。これは和泉国の国司 であった平宗信が興福寺の庄民に対し、すでに免除されていた課役を徴収したことにより、宗信の処分を求めて興 福寺が強訴におよんだ際の言動であった。そのほか貞慶の行動は、後鳥羽上皇を始め朝廷権力と非常に親密であっ ︵ 5 ︶ たことが知られるが、彼と後鳥羽院との個人的な繋がりは笠置遁世以降であり、それ以前に見出すことはできない。

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すなわち、遁世時の貞慶の活動は本寺である興福寺と密接に関わり、興福寺の利益伸張を図るため、権力との聞を 行き来するきわめて政治的な側面を有した行動でもあったのである。したがって、彼が興福寺の立場から、 その代 表者として﹁奏状﹂という政治的な文書の執筆にあたることは、隠遁中とはいっても不自然な行動とはいえないだ ろ ﹀ つ 。 では、﹁興福寺奏状﹂が貞慶の作ではないと論じる場合、貞慶の著作と﹁奏状﹂の内容の相違を指摘するという 方法が次に考えられよう。たとえば、﹁奏状﹂では称名に対する観想の優位が述べられるが、彼の著作である﹁心 要抄﹄には同じ念仏でも弥勅仏を念じる観心念仏がその主義として述べられる。このように、貞慶の著作と﹁奏 状﹂の文言を細かく対比さすことで、﹁奏状﹂ の 宣 ﹁ 、 偽 を 裁 く や り 方 で あ る 。 しかしながら、この方法は貞慶に限った場合、有効な手段にはならないだろう。なぜなら、貞慶が関わった願 文・講式等は多数確認できるが、彼の場合、制作に際しての条件や環境がそれぞれ異なりをみせるからである。た とえば、建久七︵一一九六︶年の二月には﹁弥勤講式﹄﹃地蔵講式﹄を著しているが、前者は菩提山︵専心︶、後者 は小田原︵膳空︶の依頼でそれらを撰述している。両者とも別所を中心に各所を駆けめぐる勧進僧であることが知 られている。また、秋には﹁同法等﹂の勧めにより﹃欣求霊山講式﹄を作製しているが、この﹁同法等﹂も同じく 勧進集団と考えてよかろう。すなわち、貞慶の講式や願文はこういった人々の求めに応じて制作される、 い わ ば 注 文生産なのである。したがって、 そこには自然に言説の矛盾や信仰の多様性が創出されることにもなる。 ︵ 刊 ︶ たとえば、貞慶は現時を﹁像法末﹂と認識している場合もあれば、ある時は﹁末法﹂と捉え、その救済を祈念し ︵ 日 ︶ ている場合がある。こうした矛盾はなにも現状認識のみに限られたものではなく、その信仰に関する記述にも見出 すことができる。たとえば、貞慶の願文に弥陀弥勅信仰の混同や真言神呪の混在などが認められることはすでに指 ︵ ロ ︶ 摘されている。同様のことは浄土観にもいえ、こうした言動を挙げてみると枚挙に暇がないのだが、ここでは神祇 専修念仏弾圧と貞慶伝

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専修念仏弾圧と貞慶伝 0 四 に 対 す る 一 一 百 説 に つ い て 少 し 確 認 し て お こ う 。 貞慶の春日信仰は生涯にわたって、その厚い信心ぶりを確認することができる。 集﹄の伊勢参宮説話を通して著名であるが、貞慶の直接の言動は思った以上に少ない。管見の限りでは、建久六年 から九年の四年間のみである。この短さは何を意味するのであろうか。貞慶が隠遁した笠置寺は、建久五 一方、伊勢への信仰は﹁沙石 九 四︶年八月三日に般若台六角堂の上棟が行われるのを皮切りに伽藍整備が本格化し、 五年後の建久九︵一一九八︶ 年十一月七日、十三重塔供養を終える。貞慶の願文に伊勢への信何︵しかも、きわめて部分的に︶が見られるのは つまり、笠置寺の伽藍を整備する最も多忙な時期に限られているのである。この時期の貞慶の活 な ぜ か こ の 期 間 、 動 を 詳 し く 辿 っ て 、 その問題を考えてみよう。 般若台六角堂上棟が行われた翌年十一月十九日には上棟を終えたその堂で大般若経供養が行われている。この堂 は、貞慶が十一年の歳月をかけて作製した大般若経六百巻を納める、笠置寺の中でも特に象徴的な建物でもあった。 先述のように、翌建久七年の二月十日に﹁弥勅講式﹄、同月十七日に﹃地蔵講式﹂を作製する。四月四日には一千 日舎利講のための仏供を勧進し、八月十五日には重源より究鐘、宋版大般若経、白檀釈迦如来像を授かっている。 授与の翌年、重源が建立した播磨浄土寺落慶に貞慶が導師として赴いているのは、その返礼の意味とも理解できよ ぅ。秋には、前述のように﹃欣求霊山講式﹂を執筆している。 ﹂のように建久七年の活動はめざましく加えて ﹃文殊講式﹄もこの年に著されたと考えられている。そして、 この翌々年に十三重塔の供養を行うのだが、貞慶の言葉に伊勢への信仰が述べられるのはこの期間なのである。こ の 理 由 は 何 で あ る の か 。 一つ考えられることは、この時期に伊勢への信仰が深まったのではないかということであ る。しかしながら、太神宮について僅かが語られるだけで、格別な信仰の深まりなどは見ることはできない。やは り、この期間の活動は天照大神への信仰が深化したというよりも、伊勢信仰者、大仏勧進僧、山丘町信何者等、様々

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な人々と交流を結び、ネットワークを拡張させていくものであった。それ故、伊勢、弥勅、文殊、観音など多彩な 信仰がその著作に表出されていったと考えるのが自然ではなかろうか。すなわち、笠置寺伽藍の整備を円滑に実現 させるためのネットワークを結び、 なおかつ取り巻く人々、周辺の宗教者へ配慮しながら講式や願文の作成に取り 組んでいったことが、この多様な宗教性の原因になっていると考えられるのである。 したがって、この﹁奏状﹂も基本的には依頼によるものであるため、他の著作との聞に多少の阻酷が表れること に な る の も 当 然 と な る 。 む し ろ 、 それこそが貞慶の著作の特徴ともいえよう。すなわち、﹁興福寺奏状﹂は興福寺 の三綱や衆徒の見解を集約した上で、経典や典籍の文言を巧みに織り交ぜながら作製された文書なのである。それ は貞慶の個性的な思想表現といったものではなく、南都教団の一般的見解が貞慶によってまとめられたきわめて匿 名性のある、尚かつ政治性の強い文書であったといえよう。そして、この美文作成能力も貞慶の並は、ずれた才能の 一 つ で あ っ た 。 また一方で、この文章が成立することにより、興福寺内の漠然とした法然教団に対する不満が論理 的な批判へと昇華され、彼らの見解に一定の統合と整合をもたらした可能性も指摘できよう。 このように、貞慶の﹁興福寺奏状﹂執筆の可能性は決して低いわけでなく、殊更に疑うべき事柄でもないのだが、 気になるのは貞慶が﹁奏状﹂を執筆したとの事実が伝わっていないことである。したがって、ここでは貞慶の﹁奏 状﹂執筆がどのように認識されていたのかを確認していこう。 ﹁興福寺奏状﹂は日本思想大系﹃鎌倉旧仏教﹄に原文と書き下し文が収められているが、底本には大内文書︵東 京大学史料編纂所所蔵︶が用いられ、東大寺図書館所蔵天保九年写本と大日本仏教全書二一四興福寺叢書二所収本 専修念仏弾圧と貞慶伝 0 五

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ノ、 ︵永正十八︵一五二ご年書写奥書︶が参考にされている。底本の原本は、天保八︵一五三九︶年に快尊院良願に よって書写されたものである。また、本学︵龍谷大学︶にも明和元︵一七六四︶年、寛政十二︵一八

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︶年、享 和元︵一八

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一︶年書写の三本が現存している。それ以外に他の機関にも数点が存在するが、 いずれも龍大本同様 に近世の写本である。そして、これらには総じて貞慶の署名形跡︵奥書筆写︶はなく、表紙に﹁法然上人流罪事 貞慶解脱上人御草﹂とあることが共通の特徴といえる。すなわち、﹁奏状﹂は古いものでも十六世紀以降の写本し か存在せず、しかも当初から﹁貞慶著﹂として盛んに書き嗣がれた代物でもなく、したがって、それほど人目に触 れた史料でもなかったのである。また、先述したように、東大寺の宗性は貞慶の願文や講式等を集めて﹁弥勤如来 感応抄﹄﹁讃仏乗抄﹄を編集したが、この中には﹁奏状﹂は収められていない。これも﹁奏状﹂の史料的性格︵他 の著作との相違︶を物語るものであろう。 それでは、貞慶の行動を当時の人々はどのように認識していたのだろうか。﹁はじめに﹂でも述べたように、貞 慶が﹁奏状﹂を執筆したとの記述は当時の史料には見当たらない。弾圧時の彼の行動を示すのは、三条長兼の﹃三 長記﹂建永元年二月十九日条のみである。 謁解脱房、念仏宗口宣事一不子細、衆徒難不可然之白示之、但寛宥背訴訟本意欺 二人の間でどういったことが話し合われたのか、具体的な内容は良く分からない。しかし、長兼がわざわざ貞慶に 面会して異議を示すこの出来事は、貞慶が念仏弾圧と深い関係にあったことを充分推察させられる。また、長兼は 弾圧について五師三綱と意見を交わしているものの、特定の僧侶と対面しているのはこの貞慶だけである。偶然か も知れないが、翌日から興福寺は長兼ではなく、摂政九条良経に直接言上するようになる。長兼に接した貞慶が、 興福寺の手続きを変更させた可能性も残る。いずれにせよ、彼の強い影響をこの記事から推察できよう。 それでは、当時の人々がこの﹁奏状﹂をどのように認識していたのか。まず、これに対して強烈で露骨な怒りを

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示すのが、今更言うまでもない親鷺の﹁後序﹂ である。﹁教行信証﹂に一層の魅力を与えているこの言辞なのだが、 ︵ 引 ︶ ︵ 幻 ︶ ﹁承元丁卯ノ歳﹂という記述が史料解釈の問題として検討されてきた。この問題に関して、石田充之氏や平松令三 氏による重厚な先行研究があるのでこれ以上差し控えたいが、注目したいことは親鴛が﹁奏状﹂の主体を﹁興福寺 ノ学徒﹂とみなしていることである。 更にもう少し、時代が下がると日蓮が﹁念仏者令追放宣旨御教書集列五篇勘文状﹂の中で﹁奏状﹂を部分的に引 用 し て い る 。 つまり、何らかの形で閲覧しており、 それが弾圧の要因と理解した上で用いているのである。 すなわち、親驚・日蓮、 いずれもこの﹁奏状﹂が弾圧の原因であると考える一方で、 そこに貞慶の名は出してこ な い の で あ る 。 二人が貞慶をかばう必要などは全くなかろう。このことは、内容のみ伝わっても貞慶著とは伝わっ ていなかったことの証左となるのではなかろうか。当時、﹁興福寺奏状﹂が貞慶の著作であると伝わっていなかっ たとすれば、我々が貞慶に対して抱いてきた印象も少し変わるのではないだろうか。 と は い え 、 親 驚 、 日蓮に貞慶 著という認識がなかったということは、単に彼らの現状認識、 つまり情報収集力に原因があった可能性もある。し た が っ て 次 章 で は 、 ︵少なくとも現代人には︶念仏弾圧の首謀者と見なされている貞慶が他でどのように認識され ているのか確認していこう。 中世の南都仏教にはいくつかの僧伝が形成される。これにより南都仏教の系譜を我々は比較的明解に知ることが できるのだが、これらを最も精力的にまとめ上げたのが東大寺の凝然である。彼の著書は﹃八宗綱要﹄が著名であ る が 、 それによるとインド、中国への伝播、教義・宗派の系譜などを最も意識的に研究・整理した学僧であること 専修念仏弾圧と貞慶伝

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}\ が即座に額ける。そして、この関心は日本仏教を考える際にも当然貫かれた意識であった。凝然が伝通をまとめた ものに﹃三国仏法伝通縁起﹄﹃律宗理鑑章﹂﹁円照上人行状﹂等があり、おおむね以下のように、貞慶は評される。 一、廃れていた戒律を興す願いを発し、実範にはじまり、蔵俊、覚憲と引き継がれた南都の戒律を相続し、戒 知・覚真の両哲に伝える。 二、後の南都戒律興行︵覚盛、継尊、覚澄、修禅、禅観、蓮位、蓮覚等︶は戒如の門流から生まれる。 コ一、興福寺に常喜院を建立し、律学を専門に学ぶ弟子を養成する。 すなわち凝然によると、貞慶は興福寺における律学興行を願い、それが南都仏教の戒律復興運動の胎動と言うべ き役割を果たしたと考える。貞慶は唯識の著作も多く、その教学を受け継いだ弟子もいるが、ここでは戒律興行が その中心的業績として語られる。そこには、東大寺戒壇院に身を置きつつ、戒律を重視しながら教学研究にいそし んだ凝然の貞慶に対する共感が見えないわけでもない。両者とも本寺の法灯︵貞慶は法相宗、凝然は華厳宗︶を強 く意識し、律僧とは異なる立場にあり続けたことが共通しているのである。 ところで、これらにも念仏批判・弾圧に関する内容は記されていない。凝然にとって、それは重要事項ではなか ったのか。はたまた、南都教団にとっても専修念仏弾圧は忌避すべき事柄であったがためか。これらの問題を説話 等に見られる貞慶伝を辿りながら、続けて考えてみよう。 鎌倉後期に、東福寺の禅僧虎関師練が﹃元亨釈書﹄を著す。それには、最勝講に弊衣で現れ、失笑をかい、その 後笠置へ遁世したことや、後鳥羽の堂宇供養の際に輿に乗らず破れ笠で登場し朴素を貴ばれたことが描かれる。こ れは﹃元亨釈書﹄のみが著す貞慶伝であり、他の史料には見えず、内容自体も到底史実とは認めがたい。けれども、 このイメージが後世の人々に与えた影響は非常に大きかった。現代でも貞慶の人となりが語られる場合、この逸話 が最も頻繁に用いられるのではなかろうか。

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もう一つ、貞慶の清貧ぶりを示すものに﹃太平記﹄がある。ここには悪神阿修羅が﹁自分の魔障が弱まり、逆に 帝釈天が力を得るのは、日本に貞慶がいて化導利生するからである﹂と考え、貞慶に騎慢僻怠の心が起こるよう画 策する場面が描かれている。 いずれも貞慶の世俗性など感じさすことのない、 むしろそれと全く離れた、清貧で潔癖なイメージで描かれるが、 ﹂こで大事なことは ﹁ 興 福 寺 奏 状 ﹄ の執筆はもちろん、専修念仏批判については一言も出て来ないことである。貞 慶が﹃興福寺奏状﹂を執筆し法然批判を行ったことこそ、彼の最も大きな業績と我々は考えがちである。しかし、 現実︵鎌倉後期以降︶はそうではなかったということではないか。 最後に、実際に弾圧を被った浄土宗教団が後世に貞慶をどのように描くか確認していこう。法然伝はいわゆる ﹁四十八巻伝﹂を中心にいくつかの系統に分類されるが、貞慶の登場はいわゆる﹁大原問答﹂に集約される。﹁大 原問答﹂は大原談義とも呼ばれ、文治二 ︵一一八六︶年に法然と南都・天台の碩学が交わした論議である。浄土宗 関係の研究者はこの大原談義を史実と認める傾向にあるが、貞慶を初め明遍、重源など法然と論を交わした僧侶の 関係史料にこの出来事は全く出てこないので、史実と認めるには更に検討を加えねばならないだろう。 ただし、ここでの最も重視したいことは史実か否かということ以上に、貞慶が後世の浄土宗教団にどのように見 なされていたのかということである。貞慶はいかに描かれたのか。 ある時貞慶己講解脱上人是也、澄憲法印、明遍僧都会合して、 われら一族三人いざ宗論し侍らんと申されける に、澄憲法印筆をとりて、二一論に明遍あり、敵のつるぎをとりて敵を害す、法相に貞慶あり、寸をとへパ寸を こたふ、宗論さらにかなふべからずとぞか﹀れたりける、すべて一期の問、議論につまらずとぞ申ったへ侍る、 その評判無下にハ侍らじかし こ れ は 、 ﹁ 四 十 八 巻 伝 ﹄ の巻四十が伝える法論の際の貞慶の様子である。通俗的に考えると、法然を非難した僧侶 専修念仏弾圧と貞慶伝

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として批判的に取り上げられそうなものだが、明遍と同じく大変優秀な論客であったことが象徴的に語られる。法 敵ともいえる人物をこのようにスマートに取り上げることは当時の良識と考えられていたのだろうか。貞慶・明一遍 だけでなく他の僧侶に対しても同様に穏健である。 け れ ど も 、 そこには一つの例外が存在する。法然批判を行ったもう一人の僧侶である明恵である。明恵は法然没 後﹁推邪輪﹄を執筆し、痛烈に専修念仏を攻撃した人物である。当初は法然を敬っていたが ないて没後に刊行された﹁選択本願念仏集﹄を見て反駁を決意したという。貞慶と共に中世南都仏教復興の立て 役者と見なされており、説話等には﹁解脱上人・明恵上人﹂と一対に扱われる傾向にある。このように、両者はそ ︵ た だ し 出 会 っ て は い の共通性から同一で語られることが一般的であるのだが、 それが﹁法然伝記﹂になると類似でなく対比的となる。 前掲の史料には﹁その評判無下にハ侍らじかし﹂と著された後、 されパかの明恵上人、菅宰相為長卿のもとへおハしたりけるに、擢邪輪の事を申いたしたりければ、 さる事侍 り し か ど も 、 ひが事なりけりとおもひなりて、 いまは後悔し侍なりと、申されけるとなむ とその違いが強調される。 では、明恵が死後に少女に取り癌き、﹁提邪輪﹂執筆が原因で魔道に堕ちたこと を嘆くシ l ンが描かれる。明恵は少女の体を借りて、﹁早く推邪輪を焼くべし﹂と訴えるのである。 ま た ﹃ 法 然 上 人 伝 記 ︵ 九 巻 伝 ︶ ﹄ すなわち、﹁法然伝﹂に登場する明恵は法然批判の悪玉として、尚かつ ﹃擢邪輪﹄という悪書の執筆者であるこ とも充分認識されているのである。これは貞慶とは随分異なる取り上げ方といえよう。 研究者は﹁興福寺奏状﹂と﹁催邪輪﹄を専修念仏批判書として一対で捉える傾向にあるが、このことは両者のイ ンパクトや背景が大きく異なっていたことの証拠でもある。﹁奏状﹂が実際の弾圧に与えた影響は大きかったに違 は教学面で後世まで尾を引いたのではないか。信寂や道光により批判書が

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し ゃ 臼 し し か し そ れ 以 上 に 、 ﹃ 擢 邪 輪 ﹄

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著され、親鷺の菩提心論にも影響を及ぼす。すなわち、﹃催邪輪﹄ の内容を法然教団がどのように受け止めていく その後の教団にとって弾圧以上に重要な課題となったのである。法然伝において、明恵の﹁推邪輪﹂執筆 がこうも厳しく誹諒されるのも、この理由によるものと考えられよう。これは﹁奏状﹂が朝廷に提出される基本的 ηJ h d 土 、 L 2 l には公開性を持たない書物であったのに対し、﹁擢邪輪﹄が早い段階から開板されて世間に流布したことも要肉で あ る 。 たことが一切出て来ないことである。僧伝、説話、﹁法然伝﹂を辿ってみたが、 だが、ここで注意したいのは、明恵に対する厳しい描き方よりも貞慶の記事に﹁奏状﹂、法然批判、弾圧といつ いずれにも﹁興福寺奏状﹂は出て ﹂ な い の で あ る 。 このような結果になると、貞慶と﹁奏状﹂は無関係である、 もしくは貞慶は﹁奏状﹂ の作者ではなかったという 結論も導けそうではある。それは極論として差し置いたとしても、当時の人々には貞慶が﹁奏状﹂を執筆して専修 念仏を批判した人物であるという認識はなかったと考えてもいいのではないか。 つまり、貞慶が﹁興福寺奏状﹂ の 作者であると考えてはいなかったということである。我々は貞慶を﹁奏状﹂ の著者であると考え、念仏弾圧の首謀 者と捉えてきた。しかしながら、中世の人々はこのように考えてはいなかったのである。当時の人々との認識の相 違に、我々はもっと意識的にならねばならないのではなかろうか。 お わ り 貞慶は従来から﹁輿福寺奏状﹂を起草し、専修念仏を弾圧に導いた人物と理解されてきた。しかし、当時の人々 からは﹁輿福寺奏状﹂を執筆した人物であるとは認識されていなかったのである。貞慶の﹁奏状﹂執筆を自明なも 専修念仏弾圧と貞慶伝

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専 修 念 仏 弾 圧 と 貞 慶 伝

のとして専修念仏弾圧が考察されてきたのだが、 それが貞慶著と伝わってはいなかったという前提で見てみた場合、 我々の貞慶に対する認識も多少違いが生じてくるのではなかろうか。没後の貞慶は世俗性や政治性が抜け落ち、精 進練行の潔白なイメージのみが強調的に語られる。このイメージは彼の弟子達の行動を基に形成されたものである が、﹁奏状﹂を執筆し法然を弾圧に追いやったという認識が人々の心に存在していなかったことが、貞慶の清貧な イメージ形成を思った以上に容易に進めたとも考えられよう。 このように中世の人々には、﹁興福寺奏状﹂執筆者として理解されていなかった貞慶なのだが、 では﹁興福寺ノ 学徒﹂が貞慶であるといっ頃から言われ出すのだろうか。 それは近世の宗学研究の中で確定されると思われるが、 検証は後日の課題としたい。 註 ︵ 1 ︶拙稿﹁貞慶像の形成﹂︵中尾莞編﹃中世の寺院体制と社会﹄二

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二 年 ︶ ︵ 2 ︶平岡定海﹃東大寺宗性上人之研究並史料﹄下二四三頁一九八八年改訂 ︵3 ︶ 同 右 二 四 五 頁 ︵ 4 ︶ 寸 鎌 倉 遺 文 ﹄ 一

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九 号 ︵5 ︶上横手雅敬﹁貞慶をめぐる人々﹂︵平松令三先生古希記念論集﹁日本の宗教と文化﹂一九八九年︶に詳しい。 ︵ 6 ︶石田充之氏は貞慶が﹁性唯識一心観成就する法相的な中道体達の立場︵﹃心要紗﹄︶に基礎を置いて観勝称劣念仏 論を説いたとする︵石田充之﹃鎌倉浄土教成立の基礎研究﹄一九六六年︶ ︵7 ︶山田昭全・清水宥聖編﹃貞慶講式集﹂二

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年 ︵ 8 ︶ 同 右 ︵ 9 ︶ 同 右 ︵ 叩 ︶ ﹁ 地 蔵 講 式 ﹂ ︵ 同 右 ︶ ︵ 日 ︶ ﹁ 舎 利 講 式 ﹂ ︵ 同 右 ︶ ︵口︶上田さち子貞慶の宗教活動について﹂︵﹃ヒストリア﹄七五・七六号 一 九 七 七 年 ︶

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︵日︶﹁沙石集﹄巻一五 ︵H ︶この点については、拙稿﹁︵共同研究︶日本仏教史における﹁仏﹂と﹁神﹂に関する研究︵貞慶研究の課題︶﹂ ︵﹁仏教文化研究所紀要﹄第四十三集二

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四 年 ︶ 参 照 。 ︵日︶﹁讃仏乗抄﹂第八︵藤田経世編﹁校刊美術史料寺院篇下巻﹂九七・九八頁一九七六年︶ ︵凶︶註︵ 7 ︶ ︵口︶註︵ 2 ︶二三八頁 ︵同︶﹁南無阿弥陀仏作善集﹂建永七年八月十五日条 ︵叩︶﹁播磨鑑﹂︵﹁大日本史料﹄四編十二二八

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頁 ︶ ︵却︶この動向に関しては赤松俊秀﹃︿人物叢書新装板﹀親鴛﹄一九八八年に詳しい。 ︵訂︶日本思想大系﹁親鷺﹄︵﹃教行信証﹄補注︶四六二頁一九七一年 ︵幻︶平松令士一﹃︿歴史文化ライブラリー﹀親鷺﹄一四一頁

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一 九 九 八 年 ︵お︶﹃昭和定本日蓮聖人遺文第三巻﹄二三五九頁

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︵ M ︶市川浩史氏は凝然の自宗意識︵南都中心・華厳至上主義︶を指摘し、 批判している。市川著﹃日本中世の歴史意識三国・末法・日本﹄ ︵ お ︶ ﹁ 元 亨 釈 書 ﹂ 巻 第 五 ︵訪︶﹃太平記﹄巻十二﹁千種殿井文観僧正脊惨事付解脱上人事﹂ ︵幻︶﹁浄土宗全書﹂第十七巻一四三頁 凝然を禅律僧と規定した細川涼一氏の説を 二

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五 年 専修念仏弾圧と貞慶伝

参照

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