89
チャガ社会における人間化の 文化装置について
一アフリカ民衆教育史研究ノート(2)一
柿 沼 秀 雄
まえがき
前研究ノートでは,0.F.ロームのrチャガの子ども時代』と・同じく「チ ャガ語に見る教育心理学」に依って,子ども観を探ろうと試みた。そこで主に 対象としたのは,子どもの成長過程を概括して表わす言葉で云えぽ・ムナング
期から,ムコク期,ムワナ期を経て,マナカ期に至る段階までである。チャガ 族を一事例としてその子ども観を探るにしても,実は・子どもという曖昧な存 在を断ち切り,一人前の男や女になっていく上で不可欠なイニシエ・…一ショソま で扱わなけれぽ,その課題に充分迫れないことははっきりしている・ひとつに は,割礼儀礼やイニシエーションを制度化している社会では子どもの社会的成 長過程を刻む儀礼の極点に,割礼やイニシエーショソが位置ついているからで ある。さらには,特定の児童観の成立は,つねに,ある歴史状況に置かれた社 会のなかに,やはり特定の人間観が存在することを,当然前提するからであ
る。そしてその人間観は,子どもから大人へのメタモルフォーゼを演出する文 化装置が集中的に作動する舞台において,もっとも鮮やかな姿を見せる・と考 えられる。チャガ社会のなかで死と再生の劇的プロセスを演出してきたこの文 化装置は,そこに子ども時代の滅却という形で,子どもなるものを排除する論 理を秘めている。いわぽ排除項としての子どもという形で,子どもなるものが 語られてもいる,ということである。
本ノートでは,子ども観を探ることを目的にしていない。社会的成長過程か
らいえば,マナカ期からムレウ・モノワカ期への移行期およびムレウ・モノワ
カ期そのものを対象にして,人間になることの問題一人前の男や女になるζ
90
との意味を考えることが本稿の目的である。したがって子ども観にかかわる問 題も,子どもを人間にする,あるいは子どもが人間になるという視角からの文 化意識の相において触れられることになろう。
使用文献は,前ノーtトと同じく0.F.ロームのrチャガの子ども時代』であ り,繁雑を避けるために,ロームの著書の該当箇所をいちいち示すことはしな
し・o
1.発達儀礼としての割礼
〈成人式とイニシェーション〉
チャガ族は,少年少女の双方に割礼を施す。子ども時代に終止符を打ち,一一 人前の男mleuや女monowakaの地位への移行を刻むという意味で,人の一一 生において・割礼は非常に重要な発達儀礼となっているのである。
この割礼の意味を考えていく際に,割礼をも含めた成人式・成女式puberty riteとイニシエーショソ儀礼とを混同しないようにすることが必要である。
0.F.ローム自身,割礼を,完全な成人としての地位へ移行するための資格試 験と定義し,イニシエーション儀礼とは一応区別して捉えている。
割礼は身体部分を切除するひとつの形態であるから,それに類いするものは 多様に存在する。入墨や彫り込み,一方の睾丸の摘出,陰核切除,外陰部の切 除,小陰唇の短縮あるいは拡大,陰部の乱刺,乳首の切除,抜歯,剃髪等々。
こうした多様な身体部分の切除や殿損の儀礼は,成人式に固有ではあるが,つ ねに成人式に伴っているわけでもない。その上でさらに,成人式がイニシエー
ションを制度化している社会に普遍的に存在するかといえぽ,これも必らずし もそうとはいえない。いわば事実の問題として成人式とイニシエーショソ儀礼 とは,必らずしも同義ではないということである。
一方すでに見たように,ロ・一ムは思春期における個人の地位の変更に,割礼
の定義を限定している・思春期の儀礼としての成人式の本来的な性格を,コミ
ュナルなものではなく,個人に対する通過儀礼(地位の変化を生ずる儀礼)と
見なしているのである。この点に関って別の例をとってみるとM.R.アレン
は,イニシエー一ション儀礼の定義をめぐって,次のように整理している。「イ
91 ニシエーション儀礼は,それを受けた者が明確な社会集団を構成するという点 で,他のすべての通過儀礼とは異っている。」「成人式は,他の個人的な通過儀 礼と同様,獲得された地位とそれに付随する権利や特権を社会的に認知するも
のではあるが,社会集団に導き入れるものではない(1)。」異なる側面をこのよ うに捉えたうえで,イニシエーショソ儀礼を,成人式の「連続体上の対極的理 想型」と規定するのである。この捉え方は,割礼とイニシエーショソを,連続 的なプロセスではあるが,概念的には区別しているロームの立場と共通するだ けでなく,本稿で意図している人間化の文化装置を考えていくうえで,必要な 前提的枠組を提供してくれてもいると考えられる。
〈成女式〉
割礼あるいは成人式は,本質的に個人に対して行われる通過儀礼でありコミ ュナルな性質をもたないから,儀礼を催す単位は家族集団になる。とはいえそ れは本来的な性格を指すものであって,実際上は思春期の子どもを持つ親たち が声をかけあって,3〜4人の割礼を一緒に行うのが普通である。ロームが調 査しているのは1930年代であろうから,成人式,成女式のいずれも,それが当 時の一般的な催され方であったのだろう。
成女式の場合から見ていくことにする。
大陰唇と陰核を切除する少女の割礼は,初潮が近づく頃に行われる。まず豆 と四国稗を準備し,両親およびその兄弟たちがそれらに牛乳を添えて,専門の 施術者のもとへ赴く。これは準備段階では重要な意味をもっている。往復の道
々で,水や小便に出くわすならば,それは凶の徴であり,少女が出血多量で死 ぬことがないように,父方の祖霊に供犠を捧げなけれぽならないからである。
割礼の日の朝,少女は呪術師のもとへ魔除けのウガ(2)をもらいに行く。呪術 師は,少女に唾を吐きかけながら,ウガを腰に巻いてやる。この吐唾にも魔除 けの意味が込められている。次に少女は川で沐浴をすませて,施術者の家へ向
う。そこにはすでに親戚の大人たちが集まっており,少女とその友人たちのダ
ンスの後で手術が行われる。手術が済むと少女の儀礼助手の妻である老婦人
が,割礼を受けた少女の額に,続いて出席者全員の額に塗脂する。そして祝福
のダソスと酒宴が始まっていくのである。
92
こうして割礼を終えた少女は,その後3ケ月の間,祖母に見守られて,かの 女用の特別の小屋で隔離生活を過すことになる。割礼によって切除された部分 は,牛糞にくるんで一本のバナナの根元に埋められ,このバナナの果実は,ど の子どもも食べてはならないとされている。
少女の割礼のプロセスは,概ねそのようであるが,その舞台装置の詳細は,
ロームの著書による限り,知ることができない。たしかに地位の変化を示す事 例はある。それを顕著に示しているのは,割礼を受けた娘に対して,父親が財 産である家畜(山羊か雌牛一頭,あるいは雌鳥一一羽)を贈るという事実であ る。しかし,たとえば隔離期間を経て人々の前に姿を現わすときの,肩に山羊 皮の特別衣裳,陰部に飾りという出で立ちは,それぞれに一体何を象徴するの か,となると舞台装置の叙述が欠けているために,特定しにくいのである。
その点ではむしろ少年の割礼の場合は,儀礼の象徴性がずっと明瞭な形をと るので,はるかにその意味は理解しやすい。
〈成人式〉
割礼を受ける少年は,まず最初に儀礼助手を務める母方の伯(叔)父の家を訪 れて,宗教儀礼上の優位者である「左側の祖先」による加護を求める。一方
「右側の祖先」に関しては,割礼当日,少年が沐浴を済ませた後に,父は男の 祖先に神酒を,母は女の祖先に牛乳を供えて祈りを捧げる。これが済むと父と 儀礼助手がバナナの木を釦りに行く。少年はその背を親戚の老人に支えてもら い,バナナの幹に跨がって手術を受けるのである。
少年の割礼儀礼に見られる舞台装置の特微には次のようなものがある。
ひとつは父の兄弟が唱う歌である。その内容は「私の子どもよ,それがお前 に割礼を施したのだ。覚えておきなさい,お前の父が稲妻だということを。ま がいもない,お前の父は稲妻なのだ。覚えておきなさい,お前の母が蝸牛の殻 だということを。まがいもない,お前の母は蝸牛の殻なのだ。その殻のなかに お前は隠れていた」というものである。
さらに施術者の行う儀礼手続きがある。施術者は大地に窪みをつくり,そこ
にバナナの葉を敷きつめて水を注ぐ。そしてそのなかにヤンデという植物とイ
ワタヌキの毛皮を浸して,邪視除けと沈静効果をもつとされる液体をつくり,
93
参加者にふりかけるのである。そして妬み深い精霊たちの怒りから被割礼者を 守り,施術者が手術に失敗することがないように家畜が屠られ,かれらにその 皮でつくった魔除けの腕輪がはめられる。
このようにして割礼が済むと,少年は傷が回復するまで隔離生活を送ること になる。その間少年達は羊皮の衣装を身につけており,個人名ではなく,ムポ
ラmporaの用語で呼ぽれる。それは修練者という意味であると同時に,一般 に若い女性を指すときに使われる用語でもある。
ところで少年の割礼儀礼は,チャガ族が王国をなしていた時には,新しい戦 士集団の形成という政治的・社会的機能と結合されて,部族の儀式として集団 的に行われていた。この部族全体の儀式を組織したのは首長と支配的地位にあ る年齢組である。その場合集団の儀礼上の統合者として,儀礼の指導者が一人 選ぽれた。かれは父たちの世代に属する若者という資格を与えられ,「バナナ
の幹」に関する限り,特権的地位に立ち,一番最初に割礼を受けた。
割礼を終えると少年たちは帰宅したが,傷が回復すると,切除された包皮を 処理する特別の儀礼が行われた。施術者は少年達の腐った包皮にピー一ルを吐き
かけ,新しい世代の人間としての再生を徴す割礼を実行させてくれた初代先祖 に対して,感謝と祈りを捧げる。かれは,新たに生まれた集団の成員の血が大 地と混じり合ったときに,その成員たちはひとつに結び合わされ,連帯の義務 が生じたことを告げ,かれらすべての豊饒を祈願する。こうして聖化された包 皮は森のなかに撤き散らされ,上に牛糞をかぶせて処理される。
〈割礼儀礼の意味するもの〉
チャガ族における文化装置として割礼とその儀礼過程を検討するためには・
もっと多様な事実が必要とされるだろうが,ここでは文献上の制約もあって,
いくつかの他の事実を補足しながらその意味を考えてみるほかない。
まず第一に気づくことは,死のイメージまたはシソボリズムである。それは
とりわけ切除部分の処理の仕方に顕著に現われている。B・グッドマソに依り
つつPt 一ムが述べているところによると,部族儀礼として行われた割礼におけ
る少年の包皮の処理の仕方は,戦いで殺された戦士の処理の仕方を連想させる
という(3)。家族の儀礼としての割礼における処理の仕方は,成女式の場合で示
94
したように,牛糞にくるんでバナナの木の根元に埋めるものである。変形して はいるが,そこには明らかに死者処理のイメージが付き纒っており,死のシン ボリズムを見てとることができる。そのバナナの果実を子どもが食べることは 禁じられていることを考慮すれぽ,もっと限定的な意味で,子どもの死の象徴 と見なすことができよう。この子ども時代の死のシンボリズムは,「生殖能力 のない状態からの浄化」という意味では,すでに沐浴儀礼から始っているとも 見られようか(4)。隔離期間にある少年たちが個人名を失い,ムポラと呼ばれる のも,明らかに子ども時代を死んだ状態を意味している。
第二は,この死のシンボリズムが,蝸牛の殻のなかに隠れていたという表現 で暗示され,母の衣裳を纒うという形で現実化される,母胎への象徴的な回帰 という再生へのテ・一・一マに不可欠に結びついていることである。儀礼の過程とし
てみれば,隔離期間中のムポラなる存在は,包皮や大陰唇・陰核切除が表現す る子ども時代の滅却後の匿名性の状態をものがたっている。それは死と再生と いう際立った事態を媒介する,曖昧模糊とした中間段階の形象である。人間と しての再生がなされるためには,人間ではないものとしての子どもを殺すとい う段階と,子どもでも大人でもないリミナルな段階が一一連のドラマとして構成 され,修練者は,そのドラマの過程を演じ,生きこむことによって,自らメタ モルフォーゼを経験しなければならないのである。
この経験をへてはじめて若者は人間として甦えり,社会的に承認される人格 を獲得する。そうした新しい人格としての再生の事実は,新しい名前,つまり 戦士名の命名に端的に表現される。その昔,チャガ族が王国に分かれていた時 代には・新しい名前を付けることは,割礼そのものもそうであったように,イ ニシエーション過程の一部を成し,最終日に行われる終幕の儀礼であった(5),
といわれるが,命名行為のもつ意味そのものは,家族集団による儀礼として行 われる場合でも基本的に変わらない。この戦士名は本人自身によって選ばれる
とロームは述べているが,そうであれば少年の生きている社会の文化歴史的状 況を反映して,選ばれる名称はさまざまに変ってくるであろう。そこに着眼す れば,民衆意識の古層と変化の動態の一端を探り出せるかもしれない。
第三は,割礼そのものが,生命の再生産の源泉を開く儀礼だということであ
95 る。割礼は性交渉のさまざまな危険から若者や娘を守ると同時に多産を確実に
し,かつてない試練を受けることによって性生活を聖化し,子孫の正統性を保 証するものと観念されてきた。そうした観念は,部族儀礼としての少年の割礼 で包皮が処理されるときの豊饒祈願や,非割礼者に結婚資格を認めない規制,
私生児を生むことへの犯罪視等々に表現されている。しかもその場合儀礼その ものが祖先によって開始され,祖先によって締めくくられることに示されるよ うに,それはつねに祖霊の管理下に置かれている。一人前になる端緒が,この 儀礼によって開かれ,これ以後結婚が制度上可能になるのだとすれば,割礼 は,いわば種の正統な持続を意志して祖先に捧げられる供儀の性格をもつと云
うべきであろう。
祖霊たちは自分たちの血統が絶えることなく再生し,再生産されることに深 い関心をよせている。生ける死者,精霊としてのその存在は,正統な子孫が捧 げる供儀によってはじめて保障され,それなしでは非存在化するほかないから である。祖霊たちが子孫繁栄の守り手となっているのも,福福と呪いの巨大な 力を与えられているのも,子孫再生産の条件を子どもに対する社会的統制とい う側面から見れぽ,親はこの祖霊の力と意志を媒介にして子どもを教育的に統 制する,ということもできよう。祖霊信仰にもとつく生者と死者の円環的思考
のなかで生きなけれぽならない者にとって,子どもの世代の子孫に関わる親の 間接的統制,すなわち再生産の源泉を開く儀礼を行う決定権の掌握による統制 は,究極的な意味をもっているのである。
最後に,割礼が成人の地位への移行承認の儀礼であることから発生する権利 の問題,とくに財産権に触れておくことにしたい。
割礼は法的には財産相続権及び財産の所有権を発生させる。チャガ族の相続 法によれば,ある男が死亡すると,その妻は男の兄弟の一人と結婚するが,そ
の財産をなす家畜は故人の息子たちが相続し,伯(叔)父が管理することにな
る。もし伯(叔)父がその財産を私有してしまった場合には,故人の息子たち
は,母の兄弟の助けを得て,割礼後に首長の法廷でその財産を取り返すことが
できる。娘の場合はこの相続権からは除外されている。ただし財産権はもつよ
うになる。だから割礼を受けたときには父から贈られる家畜はかの女のもので
96
あり,その自由な処分権をもつわけである。また財産権の発生にともなって,
それまで法的に父の所有に帰していたかの女の労働生産物の所有権もかの女の 方に移転する。こうした娘の財産権の発生は,同時に息子のいない婦人が死ん だ場合のかの女の私有物を,その娘に相続させる規定へもつながっていく。
ここに見られる財産上の法的側面は,当然のことながら,結婚権の問題と結 びついて,自立へ向う若者や娘の,世俗的関係における社会的認知の中心をな すものである。
割礼のもつ意味を4点にわたってのべてきたが,その基本性格は,やはり完 全な成人の地位へ移行するための資格試験であり,その目的は,子どもなる状 態の滅却にあると考えるべきであろう。グキ・ワジオンゴの『一粒の麦』の象 徴になぞらえるならぽ,「一粒の麦が地に落ちて死ななければ,それはただ一一 粒の麦である。しかしもし死んだら,豊かに実を結ぶようになる(6)」(ヨハネ による福音書第12章第24節)という脈絡における,一粒の麦の死を,発達儀礼 としてセットし演出すること,そこに割礼儀礼の機能も意味も凝集されるので はないか。M.エリアーデが指摘するように,この死は「新しい人間形成を目 的とする次々の啓示がやがて書き込まれる真白な石板,タブラ・ラサを準備す
ることなのだ(7)。」
この死んだ「一・粒の麦」に豊かな実を結ばせるために,修練者は引き続くイ ニシエーション儀礼に入って行かなけれぽならない。
2.共同儀礼としてのイニシエーション
チャガ族の政治構造は,年齢組システムに基づいていたから,成人式は同時
に新しい年齢組の誕生と結びついている。つまり年齢組への加入は,割礼をと
もなう成人式を経てはじめて許可されるということである。この年齢組システ
ムの社会的重要性は,J.ビアッティによれば4点に要約される(8)。①自立的
集団を確立する手段,たとえぽ常備軍の形成。②ひとつの地位から別の地位へ
の,個人の公的移行。③政治的権威の系統的な行使。④部族的統一と団結さえ
もふくむ,広範な社会的接触を樹立する手段。こうした4つの機能は,年齢組
が共同体全体を基盤にして組織されていることと関連している。この部族全体
97
を基盤にした強固な社会集団をどう形成するか,イニシエーション儀礼が,個 人の発達儀礼とちが6てコミュナルな形で組織されるのは,共同体の全成員に
とって重要な,その社会的課題性に依っているのである。
したがってまた共同儀礼としてのイニシエーションが行われうるのは,年齢 組が重要な意味もっていた場合に限られてくる。チャガ族の場合,女性が年齢 組に組織される意味はないので,ここでの叙述からは除外される。(しかしそ のことは,娘が若者のイニシエーションに類似した教育を受けなかったという
ことではない(9)。)同時にすでに植民地支配のなかで年齢組力}崩壊させられて いる20世紀になると,ここで叙述するイニシエーショソは行われなくなる,と いうことと,叙述の中心を,イニシエーション・キャンプで修練者が経験する 知の包括的側面に置いていることを,はじめにお断りしておきたい。
〈イニシエー一ショソ・キャンプの世界〉
キャソプは森のなかに設営される。それは各々周囲に柵をめぐらせた3つの 円形地からなり,一本の道で結ぽれている。外部から近づくことのできるのは 第一の円形地だけであり,修練者たちが寝食をともにし,個々の教育を受ける のは最深部の円形地である。中央の円形地は,キャソプ全体の中心としての位 置を占め,その中央には柱が建てられるか,一本の樹が残されて天に向って立 っている。この柱ないし樹は,イニシエーションが行われる儀礼空間の宇宙軸 を象徴するものである。教導師はその樹に登って「雨で天空を洗い浄める,永 遠の王座にまします神」に秘儀言語で訴えかけ,その呼びかけのフレーズに合 わせて,「おお,ンガイNgai,おお,ルワRuwa」と修練者たちが唱和する。
ソガイとルワはいずれも至高神を表わす用語である。この中心空間は,若者を 強健にするウショソゴリョ・ダソスが踊られる場でもある。
修練者たちは衣服を剥がれて裸のままキャソプ生活を過し,身体を洗ったり 水浴したりすることは許されない。眠るときは地面に堀った窪みのなかで数人 寄り添うようにして睡眠をとった。修練者を指す名辞モクララmokulalaが
「眠れる者たち」を意味しているように,乾期を選んで数ケ月にもわたって行
われるキャソプ生活のなかで,外気のなか裸で眠ることは,イニシエーショソ
試練に欠かせない要素になっていた。
98
キャソプのなかには修練者のほかに,一人ひとりの修練者に付いている介添 入(10),部族の教導者,部族の解説者(教導者の補佐)(11)がいたが,かれらは 夜間はキャソプから引きあげていていない。かれらがキャンプにいないときに キャンプ生活を監督するのは「キャンプの王」である。この「王」には社会構 造のなかでは低位に位置する貧しい境遇の若者が選ばれた。これは甦えりつつ
ある世代の生死を司どるわけで,儀礼空間に関わる限り,絶対的権威を付与さ れている。ここにキャンプ生活,儀礼的に聖化された世界の重要な特徴が示さ れている。V.ターナーが強調する「リミナリティ」と「コムニタス」の世界
である(12)。
修練者たちは衣服を剥がされている。それは社会構造における地位・身分・
職務・財産といった世俗的標識を剥ぎ取った状態を象徴しており,そこに平等 主義原理に立つ世界が現出していることを表象する。この平等主義が,匿名性 やタブラ・ラサなどの形態をとって表現されるのがリミナリティ期の特徴であ
る。このことは,リミナリティが,社会構造上の優位者に立とうとする者を卑 しめ・平凡化するという,いわぽ逆転の過程を含むことも意味している。平等 主義の原理が支配する世界で修練者が経験するものは,優位者と劣位者を差別 する社会構造とはちがって,人間の社会を社会たらしめている「本質的で包括 的な人間のきずな」,すなわち「コムニタス」である。このコムニタス経験を 可能にする文化装置として逆転の過程がセットされるわけである。そうであれ ぽこそ,「王」には社会構造上の優位者ではなく,劣位者,被抑圧者が選ばれ る必要がある。構造上の劣位者こそが,不正,不平等を告発し,正義と平等を 告知できる力を潜在させているともいえようか。
コムニタス経験は,キャソプ生活における共食の儀礼においても明瞭であ る。家族から送られてくる食物を大皿に盛り,教導者がそこから修練者一人ひ とりに分け与えるのであるが,その際教導者は,修練者を鞭打ちながら訓戒を 与える。「これはお前たちを結びつけている偉大な絆なのだ。お前たちは偉大 な人間になるべく結びつけられたのだ。もはや子ども時代は終りつつある。子
どもっぽい強情はすてなけれぽならない。非難を浴びるような振舞いはとらぬ
大人であることを,自ら証明しなければならない。ひとりの母から生まれてき
99
た同胞のように,ともに生き,互いに支え合わなけれぽならない」と。
同じ釜の飯を食うことはひとつの共同感覚を生みやすい。この共同感覚が,
同じ状況にいる人間と人間との間に安定した交流を可能にしてくれる(13)。共 食とは本来そうした場をさすものであるが,その場を支配するのは,飯を共通 項とする同席者の対等平等の関係である。したがって共同感覚や交流はそこに 生ずるコムニタス状況にほかならない。共食の場で修練者たちに対して教導者 が与える上記内容の訓戒は,このコムニタス状況を,言語表現を通して意識化 する(ここでは人間を結びつける絆)ことによって,深い共通経験にさせてい
く。
年齢組の成員が,親兄弟以上に深く結びついて相互扶助の関係を一…一一・生涯続け ていくとすれぽ,そこには人間と人間とを結ぶ根源的な経験が共有されていな けれぽなるまい。それを「コムニタス」経験ととらえることができるのではな いか。そうだとすれば,キャソプの全過程を貫く秘儀性の問題も,機能的には
この経験の共有という点に収敏させて考えることができよう。
教導者が神や祖先に祈りを捧げるときの秘儀言語あるいはイニシエーシ滋ン 言語は,もともと修練者がその言語の意味を理解することを予定していない。
ある意味ではステレオタイプ化されたそのような言葉の連鎖とリズミカルなフ レーズの繰り返しは,時空を超え,因果論などともおよその関わりなく,イメ
・一一・
Wの連合として成立しているのである。だからそれらは同時に詩的言語でも ありうるわけで,修練者たちを秘儀として情緒的に一体化させる共通経験を創 造できれば,その機能は果されるのである。
ロー一ムは,イニシエーショソ・キャンプの中心的な教えは,「アヌスを塞ぐ」
ことにおかれていたと述べているが,それも同じく,秘儀経験の共有の問題で ある。もっともそれは,あまりに散文的であるためにコムニタス経験とはなり にくいが。
アヌスを塞ぐためには栓が必要であり,その栓Ngosoが男性の優位性を最 も具体的に象徴するとされる。それに関して,修練者たちを刺草の床に坐らせ たり立たせたりしながら行われた教えは,短かくすると次のようである。
「女やイニシニーショソを受けていない少年の前で屍を放てはならぬ。排便
100
のときには女の不意打ちを喰わぬように注意せよ。いつも一本の棒を携える ようにして,それで,便の根跡を残さぬように処理せよ。結婚したら特別の 注意が必要だ。腹痛を病み,下痢に苦しむとき,妻には知らせず,年齢組リ カの一人を呼んで,男たちの家一各コンパウソドにひとっつつある一で世話 をしてもらえ。もしお前が,誰に対してであれ,男の秘密を洩らしたりすれ ぽ,お前のリカ,部族の長老,首長が,有無を言わせずお前の所有物一切を 剥奪することになろう。それは,お前の同時代の人々ぼかりか,死者たちの 面子まで潰したことになるからだ。男の秘密なんて絵空事だということにな ってしまうからだ。」
ソゴソに一人前の男性性を象徴させ,その秘密を厳守することが,すべての 男にとって至上の義務だと教えられるのである。それは秘儀というよりも,共 通の秘密を持つところに成立する共犯意識に近いかもしれない。
キャソプ中に行われる狩猟遠征の例を見ても,実は狩そのものが目的ではな い。狩場とキャソプの往復の途次,居住地域を通過するときに,遠征部隊全員 で手を叩き,雄叫びを挙げ,イニシエーション・ソングを唱うのは,女や子ど もたちを家へ閉じこもらせるサインであった。獲物は何によらず,便壷に浸 し,秘密を守る誓いを立てて食べられたのである。そしてその獲物は,そのリ カにとってのトーテム性を付与された。
こうした秘儀性ないし秘儀を装った共犯性は,明瞭に女・子どもを排除項と するところに成立させられている。若者たちは,その排除項によって支えられ たコムニタス経験や共犯意識を媒介にして,年齢組というひとつの集団の絆に 結ぼれるのである。
ここでいわば「卒業試験」ともいうべきものが行われる閉社儀礼についても 触れておきたい。これは地区(王国)によりかなり形式のちがいがあるよう で,ヴンジョ地区では急流を横切ることがそれにあたり,モシでは最終的に特 定の大石を頭上に差し上げることが試験であった。状況によってはキャソプ期
間中と同様の知識を試される場合もある。
モシのケe−・・スを取り上げてみると,修練者たちは,教導者の氏族の祖先が埋
葬されている森に連れて行かれる。そこには骸骨の形をした大石が,ビーズ,
101
蝸牛の殻,象牙で飾られて,半分土中に埋まっている。象牙は「雄牛」と呼ぽ れる男根のシンボル,石は金床,つまり女性のシソボルである。この囲りでダ ソスとレッスソがなされ,石と象牙の苔生す年齢と生殖能力が強調された。そ してここに開陳された諸物に関する知識を試験されたのである。
キャソプの最終日,修練者は介添人の手で断髪され,バナナの靱皮でつくっ た魔除けを腰に巻く。このベルトは,修練者と祖先を結び血統の拡大を許す紐 であること,また同質の紐は,妻が子どもを持ったときに腰に巻かれることに なる,と説明された。こうした儀礼がすむと,沐浴儀礼に移り,修練者は戦士 名を獲得するのである。
〈円環と神話のイメージ〉
イニシエーショソには,身体的能力の試験だけでなく,口承文化に関する口 頭試問も当然ともなっていた。共同儀礼としてのイニシエーションにおいて は,とりわけ部族の神話・伝承は不可欠のカリキュラムとなる。もちろんそう
した事柄に関する知識は,祖父母による炉端の昔語りなどを通じて累積されて きているから,イニシエーション過程における教育は,そうした蓄積の集大成 としての意、味をもっている。
教導者と解説者は,ナゾ問答の形式で問いを出した。修練者は,その問答に 通底する意味を発見して,それに説明を加えなけれぽならなかった。この試問
は十分な説明ができるまでくり返し行われた。修練者にく知者〉と呼ばれる介 添者が付いたことの主たる意味は,まさしく修練者が,そうした知識を叩き込 まれ,知者として甦えらなけれぽならないという点にあるとすべきであろう。
ここではロームが一つだけ掲げている例がチャガの世界視ともかかわって興 味深いので,一部を除きほとんどそのまま訳出しておきたい。
教導者:汝,思慮もないのに人間の問題にしゃしゃり出たがる汝・お前は一体 どこにいたのか。私に教えてみよ。
解説者:かくも美しく歌う貴方,首長の教導者たる貴方,御質問をありがたく 思います。お答えいたしましょう。私は万物の父とともに居りました。
教導者:答えてくれたことをありがたく思う。汝首長の臣下よ,もう一度尋ね
る。お前はどこから来たのか。
102
解説者:教導者様,貴方はなんと詳しく私を吟味されることか。イニシエ…シ ョソを受けた者でなけれぽ,一体誰が貴方に御満足いただけましょうか。で も沈黙しますと私の不面目となりますので,お答えいたします。私は首長の ところ,ソガレNgareから参りました。
教導者:なるほど。男よ,お前の答えを聞いて嬉しくもあり,満足もしてい る。お前はもっと問いただして欲しいのだな。お前は首長のところ,ソガレ のところからやってきた。ソガレでは貧しき者も富める者も平等に保護され て居る。だがお前は,目下ここに居る。教えてほしい,どこを通ってやって きたのか。
解説者:そういう問いをしたいお気持になっていらっしゃるのですね。今日私 は貴方と一緒にどこから参りましたでしょうか。その道程は一体何のためだ ったのでしょうか。ここへくるべき道ではないのでしょうか。これまでその 道を通りたくないと拒絶した者が居りましょうか。貴方に申し上げます。私 はその道を通って参りました。
教導者:異をとなえるつもりはない。お前のいうことは真実以外の何ものでも ない。だがそれが満足な答であるかどうか,実に疑わしい。もう一一度尋ね る。その道を造ったのは誰か。
解説者:お聴き下さい。今日不思議なことに出くわしました。自分を指して,
この長老はどこから来たかなどという問いを発する長老,その人はいったい どこの人間なんでしょうか。神の長老よ,私は貴方に申し上げます。この道 を堀ったのは首長でございます。
教導者:気に入らない答えだと私はいった。それではだめだ。それが誰か教え てほしい。
解説者:私の長老にして神なる先生よ,御満足いただけないのですか。だめな らば人間は脆つくほかございません。でも私は諦めません。道は人間たちが 堀ったと申し上げます。
教導者:お前は,それが賢明なる長老を満足させる答えだと思うのか。バカな 人間ならばさもあらん。だが私は騙されない。その道を造った者は一体誰
か。
103
解説者:そもいかに。長老よ,私はどうしたらよろしいのでしょう。どうした ら貴方に御満足いただけるのか。残された答えはひとつしかございません。
その道を造ったもの,それは万物の父でございます。
教導者:なるほど。お前は正しい答えをしてくれた。お前とお前を生んでくれ た人の生命の長からんことを。その答えでお前は私の知恵の座に辿り着い た。だが,どうか,お前の旅程を教えてほしい。
解説者:長老よ,ためらわずお答えいたします。私の旅は円環にいたるまで続 きました。
教導者:ようこそ,首長の家臣よ。その答えを嬉しく思う。でも尋ねる。その 円環の中心に何がいるか。
解説者:教導者にお答えいたします。そこには人食い鬼irimuが居ります。
この問答はさらに続き,則るべきマナーをもって終る。修練者に課されるこ とは,ここに通底する意味の解明である。意味が説明できなけれぽ,できるま で打たれ続けることになる。
この問答は人間の生誕の表象なのである。万物の父とは神,ソガレの首長と は母の子宮,その道とは生殖管を意味している。子どもは生殖管を通ってこの 世に誕生してくる。生まれ落ちた世界は円環の世界である。
それはこの問答が行われている場がそうであるぼかりか,現実には,まず円 形の小屋であり,さらに小屋を囲む庭であり,住居から見晴かすセンゲニ台地
である。チャガの住居は,4つの石を置いた炉を中心にして,キボ山の方角を 上座,セソゲニの平原を下座とする円形の小屋である。小屋の入口に面しても
うひとつ半円を描くような形でドラセナの生垣を廻らし,そこが庭になってい る。そして生垣の下方に公道に続く細い道が切られており,小屋のすぐ外,下 座の方角がバナナ林になっている。つまりチャガの人々が見知っている世界は
円形空間なのである。それは空間概念だけに留らない。
近代世界の時間が,いわば無限に分割されうる線分からなる直線の概念で語
られうるとするならぽ,それを知らぬ農耕社会において,農事暦で生きられる
時間は,「円環的に回帰する(14)」時間である。自らの生きている世界を,時間
的にも空間的にも円形で捉えていくく観〉は,すでにイニシエーショソ・キャ
104
ソプの図像において象徴的に表現されているところでもあった。
ところで円の中心にいる人食い鬼,イリムによって何が語られているのか。
イリムとは神の住まう太陽であり,神と同一視される。そしてそこには重ね合 わせになって,チャガの部族伝承も隠されている。チャガの伝承神話のなか で,人類をむさぼり食う巨人がイリムであり,その巨人が人類の唯一人の残存 者に殺されたのちに,その腹のなかから現われてくるのが女性と子どもたちで
あるとされている。
こうしてみると,この問答ひとつ取ってみても,そこにはチャガの宇宙(世 界)観そのものと同時に,神話的世界が,象徴的な文化コードによって圧縮し た形で提示されていることがわかる。ましてたとえば子どもの誕生に重要な役 割を果たす父方の祖母と,新婚カップルがイリムと呼ぼれることもあるとなれ ば,その文化コードは日常世界にも及んでいるわけで,そうしたコードを解読 し,その意味を把えることなしに,チャガ社会のなかで自分がなにものである かを位置づけ,確認することはできない。ここで修練者に求められている知は そうした性質を帯びているのである。
(付)符木の教育と寝床の上のレッスソ
共同儀礼としてのイニシエーショソ・キャソプで,イニシエーション教育が すべて尽されるわけではない。共同儀礼で扱えなかった部分の知育が,別だて になってさらに続いている。しかしそれは時期的にもキャソプに直結してはい ないし,期間の点でもせいぜい1日,2日のことであり,個別的に先生を頼ん で行われたものである。
キャンプが終った後の適当な時を選んで集中的に行われた知育に,符木を中 心とした人生の節目の教育njofundo,寝床の上のレッスンmbia tsa lany,
結婚式のための教育があった。結婚式のための教育は,その限定された目的か
らして意味も明瞭であるが,それを含めたこれら三つの課程は,成人としての
生活に必要とされる行動規範や知識を全般的に付与するものであった。それは
部族的規模ではないけれども,キャンプの延長としての補足的各論の教育とも
いうべき性質をもっている。つまりイニシエーショソの一環と考えられている
から,当然世間からの隔離と儀礼という秘儀様式は保持されている。教導者と
105
解説者と修練者は一つの円の同行者たちと呼ぽれたし,符木の教育は聖化され た特別の森陰で,寝床の上のレッスソもまた浄化されたコンパウンドで夜行わ れた。年齢組が崩壊した段階ではむしろこうしたイニシエーショソ形態が残る
ことになる。
符木は,壷のかけら,蝸牛の殻,調理用ポットを支える小石ひとつを埋めた 上に立てられる。壷のかけらは糧食,蝸牛の殻は子宮,小石は子ども,そして 符木はその形状からして男のシソボルである。これが符木の教育の教材になっ
ているわけだから,そこに生殖と子どもの誕生というテーマが貫流しているこ とは明らかであろう。事実符木は,やがて長子誕生の儀礼のなかで,胎児の成 長過程を促進するために使われ,祖先に感謝の祈りを捧げながら,供儀に付さ れた家畜の肉を煮ている火のなかに投げこまれてはじめて,その役割を終える のである。つまり符木の教育は主に,胎児の器官成長に関する知識と・それに 対応する母体への夫の配慮の仕方に言及するものなのである。だがそこに教育
が限定されているわけではない。
ロームの収集した符木を見ると,生殖と胎児に関って刻み込まれたシソボル のほかに,首長の庭や四国稗用倉庫,腕に装着された王家の飾り物,象の頭と 牙,象を補獲するための穴,穴堀り用の鍬,リアナのロ 一一プ,割礼用ナイフな
どのシンボルが刻み込まれている。この場合にはほぼ首長に関するものに集中 されているが,それにしてもそれらを素材にしてある程度民事への教育に言及 することが予定されている。胎児の身体器官の成長に関する教えの場合でも,
器官そのものを事実として教えるのではない。たとえぽ身体器官のひとつ・首 の筋を問題にするときには,荷物の運搬の仕方についてのチャガの習わしが語
られるという具合に,文化・慣習のレベルにまで拡張されて教えられていくの である。胎児の身体器官の形成は,人間になる過程を意味しているが,そのひ とつひとつの刻みを誰が入れるのかという形で,祖先へ言及することも決して 忘れられることはない。刻みを入れることによって身体をひとつひとつ形成
し,人間にしていくのは祖先なのである。
寝床の上のレッスソの内容は,符木の教育と重なる部分もあるが,もっと全
般的事項に及んでいる。婚前交渉の問題性,妊娠した妻への心使い,不義密通
106
の問題性といった・性をめぐる社会生活上の教えは,血族関係の義務の遵守と 結びつけて語られた。それは,生まれる子どもの正統性や保護と関連して,食 糧の貯蔵や財産の問題にまで及んでくる。
社会的行動規範については,一人前の男にふさわしい振舞いや態度の誇侍が 要求される。女・子どもとの戯れを避けるべきであることは言うまでもない が,一人前の男の中心的任務は,家族(あるいは拡張して部族)およびその富
と財産を守ることにあるから,それにかなう行動が期待されるのである。この 種のレッスソは格言を中心としてなされることが多い。
たとえば「ゆっくり歩く者は爪先を痛めない」は,自制と勤勉による富の確 保にかかわっているし,「けちは死をよぶ」というのは,財産と身を守ること のできる人間の資質を語る格言である。同様にして「小屋に隠れた小羊は雌羊 と番わない」という格言は,家のなかに閉じこもる習慣を身につけてはなら ぬ,閉じこもっていれぽ敵の攻撃から,妻も子どもも財産も,そして国も守れ ないことを意味する,という具合である。
寝床の上のレッスンとは,つまるところ社会生活を円滑・調和的に営んでい く上で必要なモラルと世渡りの教育だともいうことができるであろう。これに 結婚式のための教育が加わって,割ネLから結婚にいたるまでのイニシェーシ.
ン教育は完成をみることになる。
3. まとめにかえて一人間になることの問題
ムビティはカンパ族の割礼式をとり上げた箇所で,性器から皮ふを切除(4 歳から7歳の頃に行われる)する儀礼の意味を,「無知,無活動,潜在的イン ポテソツ状況」から解放し,別な状態へ移すことだと述べている(15)。割礼のも つ中心的な意味はそれに尽きるであろう。他者を再生産することができるとい
うことに一人前の男や女としての本質を認めるならぽ,人間としての無知,無 活動インポテソツは・まさしく子どもなるものの属性と見なされる。この属 性を持つ限り・子どもは永遠に人間になることはできないと観念されるなら ぽ,子どもを人間にするためにその属性を取り除いてやらなければならない。
取り除いて人間の状態へ移行させてやらなけれぽならない。
107
子どもから人間へというこの過程は,生命体の自然過程として見れぽ連続し ていて,そこに断絶はない。しかし他者の再生産に人間の歴史的契機を見るな
らば,それは生命体のたんなる自然過程ではなく,文化過程として意識されて くる。そして文化過程としては連続ではなく,むしろ非連続が強調される。こ の自然過程と文化過程,連続と非連続との接点に成人式とイニシエーショソが セットされるのである。それは一種のブラックボックスであり,外からは決し て見えることのない闇の世界としてセットされる文化装置である。子どもから 大人へのメタモルフォー一一 tiを可能にし,人間を生成する場が,ブラックボヅク スとして,闇と森の世界として設定されなけれぽならないとする文化意識の提 起する問題を,私たちはあらためてどのように捉えなおしていかなけれぽなら ないのであろうか。人間になることの意味を問うとき,私たちはそうした問題 提起に直面させられているのではないか。
成人式とイニシェーショソというブラックボックスを生きることは,介添人 が知者と呼ぼれていることに示されるように,知者として甦えるための経験で あることは論を待たない。その経験は,宇宙軸や円形地といった舞台装置その もの,秘儀言語,神話と結びついた人間の誕生をめぐる問答などが示すよう に,人間と社会の根源あるいは聖なる生の源泉そのものに関っている。しかも それは人間の原初状態としてのコムニタスに支えられた経験である。
ターナーによれぽ境界状態にある修練者は,「性,色,配列,密度,温度と
いったシソボルの示す重要な属性から,宇宙や社会の重大な要素がどのように
関連しているかを学び,このような結びつきにみられるヒエラルキーについて
分かるようになる」「神話や儀礼の細部に宿り,視覚,聴覚,触覚のさまざま
なコードで示された出来事と事物との相同性の下に横たわるものを知ることと
なる(16)。」知者として甦えるというときの知がそうした内容を帯びるとすれ
ば,それはどうしても日常性を脱した時空でしか獲得されえない。法や経済や
伝統によって身分,役割,職業等の諸関係として様式化された社会構造それ自
体を相対化ないし象徴的に破壊することなしに,社会構造そのものも把握する
ことができないことは明らかである。それを可能にする状況としてコムニタス
経験がある。いわばコムニタスは知の母胎なのである。
108
こうした経験が知者としてよみがえるために不可欠だと考えて,ブラックボ ックスのなかにその状況をつくり出す文化の,人間化への方法意識を,私たち はあらためて捉え直していかなければならないのではないか。人間の社会を社 会たらしめている本質的で包括的な関係というものの経験を,知あるいは知者 としての人間を分秘する母胎として,私たちの文化は,どのように構想し組織 しうるのであろうか。
〈注〉
(1)M.R.アレン,中山和芳訳, rメラネシアの秘儀とイニシエーション』,7項。
(2)ウガugaは,蛇の腱に小さな皮袋がつ結びつけられたものである。この皮袋のなか に少女を守る強力な魔術が込められている。
(3)戦士の死体はまず荊棘でおおい,腐敗したのちに,その骨が撒き散らされた。
(4)J.S.ムビティは,割礼をともなわないンデベレ族の成人式を述べたくだりで「幼 児期とのけつ別は水浴に示される。水浴儀礼はさらに生殖能力のない生活状態からの 浄化といういっそう深遠な宗教観念のあらわれであるかもしれない」と述べている。
J.S.ムピティrアフリカの宗教と哲学』p.154
(5)修練者たちは沐浴をして草地に腰をおろす。イニシエーションを執り行なう教導者 が,修練者一人一人に付いている介添人に向って尋ねる。「池のなかで,そなたの被保 護老は,どんな名前を授かったか?」介添人たちが,授かった名前を告げると,教導 者が修練者たちに祝福の言葉を述べる。それが命名の仕方であった。
(6)グギ・ワ・ジオンゴ,小林信次郎訳r一粒の麦』参照。
(7)M.エリアーデ,堀一郎訳『生と再生』10項。
(8)J.ビアッティ,蒲生正男・村武精一訳『社会人類学』194項。
(9)女性の場合イニシエーションにあたるのは,シガshigaとよばれるレッスンであ る。割礼を終えた娘に結婚の準備をさせようと親が決めると,同じような娘をもつ親 に声をかけ,先生を頼んで,可能ならば一緒に儀式を催す。この儀式には,すでに女
性でイニシエ・・一・・ションを終えている友人,親戚,隣人が出席するが,ただ一人例外がいる。それはシガを司どる「女王」で,これには割礼は受けたがまだ初潮はみていな
い娘がなる。シガの舞台はバナナ林のなかに円形にセットされる。そしてバナナ林の外れにはビ ー・ルが置かれており,先生の同僚たちの手で火が起されている。先生はかの女たちの ほかにモリカmorikaと呼ばれる若い婦人たちを従者として従えており,そのなかの 一人が修練者の介添人になる。
女王は最初に,ビール置場に行って赤熱した燃えざしをもらってくるようにと,介
添人に命ずる。介添人は,ムリンゴヌの木でつくった2本の棒,それをくるんだバナ
ナの乾葉,壷のかけら,および小鳥か鼠の巣を携えてビール置場に行く。これらはシ
ガの儀礼シンボルになる。ビール置場では介添人とそこに居る老婦人との間で歌形式
109
の問答が行われる。
「扉よこんにちは。私は冷たい外気に運ばれてやってきました。」
「扉のところにいるのは誰?……そこに扉を置いたのは誰だったか?」
「それは首長,それは偉大なる神でございます。だれもが必らず通らなけれぽなら
ぬ扉を作ったのはかれでした。」すると婦人は松明を灰のなかにつっこみながら歌う。
「松明を灰につっこむのは誰だ?」
「それは父なる者でございます。そして炉床は母なるもの。父なる者が炉床のなか に松明を入れると子どもが現れてくるのです。」
「お前が持ってきた壷のかけら,その壷を造ったのは誰か?」
「私の母はケへ地区の女陶工のもとへ行きました。陶工の名前はマキナフ,その夫 はマキナルと申します。この婦人が壷を造りました。母が壺を頭にのせて運べるよ うに,台座を準備してくれたのはその夫で,かれはスキと呼ぼれる一葉の草もくれ
ました。(以下鰐のいる川を渡って母が帰宅する話が続く。)」「この巣を造ったのは誰か?」
「それは鼠のすぐれた妻でございます。かの女は巣造りにふさわしいしっかりした 葉を苦労して集めました。生まれてくる子どもが,そこで安全に生きられるように
でございます。」こうした問答が済んではじめて,介添人に燃えさしが渡される。
かの女が燃えさしを持ち帰ってくる頃,円形地にいる先生たちは歌いはじめる一
「私たちは蛇鳥の羽をむしりとった(火を手に入れたの意)。今やすべてが順調には
こぶだろう」と。介添人が円形地に着くと,先生たちは,修練者に女の胎持を教えるさまざまな歌を 歌いはじめる。その歌が終ってはじめて介添人はもらってきた燃えさしを地面におく。
ここで使われている道具だてであるが,扉は子どもが誕生してくるときの通路,松 明は男性器,灰は女性器,燃えさしは女性の体内にある子種のシンボルとなっている。
巣は家壷は糧食を表わしている。
こうした儀礼が済むと,女王はモリカに黄色に黒の縞文様のキリギリスを平原から 探してくるように命ずる。このキリギリスが見つかると,大きな草の束のなかに入れ
られ,私たちの手で豹をつかまえたと歌いながら林に運びこまれてくる。カエルやお たまじゃくしについても同じような手だてがとられる。補獲された「豹」は女王と修 練者たちに見せられ,先生が宣言する一「これがシガだ。今では男たちのものになっ
ているが,その昔これは私たちのものであった。しかし角をもつ人々がやってきて,
力ずくで,私たちから男性性を奪い取ったのだ。」
以下特殊な塊茎,カエルやおたまじゃくし,双子の果実など多様なシンボルを用い た儀礼がつづくのであるが,シガとは若者のイニシエーションの教えの中心とされる
ングソの,いわぽ女性版と称すべきものである。ここでは男の社会構造上の優位性を
110
象徴するングソが,もともと女性のものであったとされて,儀礼世界のなかで構造の 逆転が果されていることが興味深い。それは女性の偉大さをさまざまに説くシガの教 えと見事に連結されている。
2日目には符木のレッスンが行われ,それがシガ儀礼の最終部分をなしている。た だし後述する若者の場合とちがって,女性の符木は,イニシ=t・ 一ションをおえた若者 を見つけて,娘が刻み目の説明を求めた後,若者の手で砕かれてしまう。
シガとは別に寝床の上のレッスンも行われる。こうしてみると,女性の割礼後の儀 礼は,いくつかの違いはあるが,若者のイニシエーションに対応する形で行われてい
ることがわかる。⑩ 介添人はムウィチmwichi(知者)と呼ばれ,修練者の前にイニシエーションを済ま せたぼかりの者がなった。それは修練者の兄か父方の従兄でなければならない。その 役割は・修練者を守り,キャンプでの教えを修練者に解説してやることである。
⑪ この職務は世襲で,モシのンシワNshiwu氏族のように,固有の神話にもとつく専 門家集団が,それぞれの王国に存在していた。
㈱ V.W.ターナー,富倉光雄訳r儀礼の過程』参照。
⑯ 川田順三『,サバンナの博物誌』参照。
働 山口昌男「アフリカの円環的世界」,月刊言語,1974年別冊1参照。
㈲ J.S.ムビティ,前掲書,143項。
㈲ V.W.ターナー・,梶原景昭訳『象徴と社会』223項。