ホッブズにおける人間と社会 : 市民社会と宗教
その他のタイトル Hobbes on Man and Society : Civil Society and Religion
著者 妹尾 剛光
雑誌名 関西大学社会学部紀要
巻 16
号 1
ページ 133‑166
発行年 1984‑12‑21
URL http://hdl.handle.net/10112/00022748
関西大学「社会学部紀要」第 1 6 巻第 1 号 , 1 9 8 4 , p p . 1 3 3 ‑ 1 6 6 ISSN 0 2 8 7 ‑ 6 8 1 7
ホ ッ ブ ズ に お け る 人 間 と 社 会
――市民社会と宗教—
妹 尾 剛 光
Hobbes on M a n and Society
― Civil Society and Religion ―
Goko Seno
Abstract
Thomas Hobbes's religious ideas centre around "the difficulty of obeying both God, and the Civi 1 1 Soveraign on earth" ・
I n his arguments on religion Hobbes takes God's laws, especially the laws of na‑
ture, a s the origin o f believer's obligation. The key point, supported by various verses o f the Scriptures, i s that the l a w s o f nature command simple obedience to the c i v i I sovereign. This remains unchanged through his various works. But his ar‑
guments f o r i t are n o t quite the same.
I n this paper I propose to ascertain the structure and development of his reli‑
gious ideas through a comparative study of The Elements of Law,PhUosoph;ca/ Rud;‑
ments concernfog Government and Soc;ety (De c;ve} and Ledathan1, referring al‑
so to De Hom;ne and Behemoth, and at the same time to point out where and how his arguments in each work f a i I .
key words : Thomas Hobbes, man and society, state and religion, law of nature, law of God, moral obligation, rights of the sovereign, kingdom of God, Christianity.
抄 録
ホッブズが宗教に係わる問題として取り組んだ基本的な問題は,「神とこの世の世俗主権者に 共に従うことの難しさ」の問題である。
ホップズは,宗教論では,神の法とりわけ自然法が,神を信ずる人間の義務の源であると考え ている。醜書のさまざまな個所を根拠としてホッブズが主張した基本的な論点は, 自然法は主権 者に対する絶対の服従を命じているということである。この論点は,彼のさまざまな著作を通じ て変っていない。しかし,これを支持する彼の鏃論は完全に同じではない。
小論では, The Elements of Law, Philosophical Rudiments concerning Government and S o c i e t y (De C i v e ) , Leviathan を比較検討し, De Romine, Behemoth をも参照しながら,彼 の宗教論の構造と発展を明らかにしようとする。 また, それぞれの著作での彼の鏃論が, どこ で,どのようにして成り立っていないかを指摘しようとする。
キーワード:トマス・ホッブス`,人間と社会,国家と宗教, 自然法,神の法,道徳義務,主権者
の権利,神の国,キリスト教。
関西大学「社会学部紀要」第 1 6 巻第 1 号
ー
宗教の領域に係わる問題としてホップズが取り組んだ基本的な問題は, 「われわれは, 人間に よりはむしろ神に従うべきである」叫 だから,人間は主権者に「神の掟に反しないすべての事 において炉従うべきであるけれども, 神の命令と主権者の命令とが食い違う時には, 神の命令 に従うべきである,しかし,社会の構成員が主権者に従わなければ,社会は崩れ,平和は失われ る 3 ) ー一人間はこのときどうすべきか,という問題である。
この問題についてのホッブズの考えの骨格は, EL で既に明確に示されており,それは, PR,L を通じて変っていない。しかし,ホッブズは,この問題について, PR, L では, それぞれ EL, PR でと比べて,大きく書き加えており,また,幾つかの点でそれぞれの考え方には違いがある。
書名,論文名の略称が示しているものは次の通り。
EL Thomas H o b b e s , T h e E l e m e n t s of Law, N a t u r a l and P o l i t i c , E d i t e d w i t h a P r e f a c e and C r i t i c a l N o t e s by F e r d i n a n d T o n n i e s , PH. D . , London : S i m p k i n , M a r s h a l l , And C o . , 1 8 8 9 . 2 n d e d . , London: Frank Cass & C o . L t d . , 1 9 6 9 . 該当個所は, P a r t ,C h a p t e r , S e c t i o n . の順に 数字で示した。
PR Thomas H o b b e s , P h i l o s o p h i c a l R u d i m e n t s c o n c e r n i n g G o v e r n m e n t and S o c i e t y , L o n d o n , 1 6 5 1 . R e p r i n t e d i n The E n g l i s h Works of Thomas H o b b e s of Malmesbury; now f i r s t C o l l e c t e d and E d i t e d by S i r W i l l i a m M o l e s w o r t h , B a r t . V o l . I [ , L o n d o n , 1 8 4 1 . 該当個所は, C h a p t e r , S e c t i o n . の順に数字で示した。
L Thomas H o b b e s , L e v i a t h a n , o r T h e M a t t e r , F o r m e , & P o w e r of a Common‑W e a l t h E c c l e s i a s t i c a l ! and C i v i l ! , London : Andrew C r o o k e , 1 6 5 1 . R e p r i n t e d w i t h an Essay by t h e L a t e W. G . Pogson S m i t h , Oxford: a t t h e C l a r e n d o n P r e s s , 1 9 0 9 . 該当個所は, P a r t ,C h a p t e r , Page (初版).の順に数字で示した。
D H Thomas H o b b e s , De H o r n i n e , T r a n s l a t e d by C h a r l e s T . Wood, T . S . K . S c o t t ‑ C r a i g , and Bernard G e r t , i n Thomas H o b b e s , Man and C i t i z e n , E d i t e d w i t h an I n t r o d u c t i o n by Bernard G e r t , Anchor B o o k s , 1 9 7 2 . 該当個所は, C h a p t e r ,S e c t i o n . の順に数字で示した。
B Thomas H o b b e s , Behemoth o r T h e Long P a r l i a m e n t , E d i t e d f o r t h e F i r s t Time from t h e O r i g i n a l MS. by F e r d i n a n d T o n n i e s , PH. D . , London : S i m p k i n , M a r s h a l l , And C o . , 1 8 8 9 . 2nd e d . , London: Frank Cass & C o . L t d . , 1 9 6 9 . 該当個所は, D i a l o g u e , P a g e . の順に数字で示
した。
「ホッブズにおける人間と社会 1 」 妹尾剛光「ホッブズにおける人間と社会_人間の自然, 自然 権,自然法ーー」(行沢• 田中・平井•山口編『社会科学の方法と歴史」ミネルヴァ書房, 1978年)
「ホップズにおける人間と社会 2 」 妹尾剛光「ホッブズにおける人間と社会一ー自然法,誓約,市 民社会ー一」(関西大学「社会学部紀要」 1 4 巻 2 号 , 1 9 8 3 年 )
引用文中( )は原文の括弧,〔 〕内は引用者。
1) EL, 2 , 6 , 1 . c f . PR, X V I I I , 1 . L , 3 , 4 3 , p . 3 2 1 .
2) PR, XV, 1 . c f . P R , X V I I I , 1 3 . L , 2 , 3 1 , p . 1 8 6 .
3) EL, 2 , 6 , 1 . PR, XV, 1 . L , 2 , 3 1 , p . 1 8 6 .
ホップズにおける人間と社会(妹尾)
I l
神について, EL では,「すべての力の最初の力, すべての原因の最初の原因」°である全能の 神が居られる,と書いている。この神は「その力によって地球全体の C 人間だけでなく,動物,
植物,生命のない物にも及ぶ)王である」 5) 。 このような神は,永遠のものでないとすれば, 神 を作り出すものが神以前に居ることになるから,永遠のものである凡 しかし,神のそれ以外の 性質については,人間は何も知ってはいない叫 とホップズは考えている。「全能の神は(人間 の有限な力で)理解し尽すことのできないものであるから,われわれは神の観念あるいはイメー ジを持つことができないということになる。それ故に,神の性質と考えられているものはすべ て,われわれが神の性質については何も思い浮かべることができない,われわれにそんな力はな . . . . . . . . . . .
いということを示しているのであって,神が居られるということだけを別にすれば,神の性質に ついての何かの観念を示しているのではない。」 8) だから,神という名と結びついていることは,
「永遠であること,理解し尽せないこと,全能であること」 9) である。
しかし,人間の感覚だけを基にする時, 「最初の原因」である全能の神は居られるとも,居ら . . . . . .
れないとも言い切ることはできない。だから,神が居られるということも,ホップズの言う知 識 1 0 ) ではなくて,人間の信念に根差したことである。
PR では,全能の神が居られることを前提にしながら,大抵の人間は「自分の弱さの自覚と自 然の出来事への感嘆とから」「神が目に見えない物すべての, 目に見えない造り主であると信じ て」神を恐れるけれども,神に対するこの恐れは, 多くの人間の場合, 「正しい理性」と結びつ いていない「迷信」であって,人間はそのとき「偶像崇拝」を行い,神を正しく敬っていなかっ た 1 1 ) と書いて,神を正しく敬うことと偶像崇拝とを区別している。神を正しく敬う仕方を神が人 間に初めて示されたのはアプラハムに対してである 1 2 ) , とホップズはそこでは書いている。
L でも,ホップズは,宗教の種子は,物事の原因を知ろうとする人間の欲求を基にしたもので ある 1 3 ) と考えて,それに次の区別を立てている。この欲求が,その人間の未来についての心配と 4) EL, 1 , 1 1 , 2 . c f . L , 1 , 1 1 , p . 5 1 . 1 . 1 2 , p . 5 3 . 2 , 3 1 , p . 1 8 6 . 4 , 4 4 , p . 3 3 5 . 「世界の原因」 ( P R ,XV,
1 4 . L , 2 , 3 1 , p . 1 9 0 . )
5) L , 1 . 1 2 , p . 5 8 . c f . EL, 1 . 1 1 , 9 . PR, XV, 2 . L , 2 , 3 1 . p . 1 8 6 . 3 , 3 5 , p . 2 1 6 . p . 2 1 7 . p . 2 1 9 . 3 , 4 1 , p . 2 6 4 . 4 , 4 4 , p . 3 3 5 . R e v i e w , p . 3 9 2 . B , I , p . 5 .
6) EL, 1 . 1 1 . 2 . c f . PR, XV, 1 4 . L , 1 , 1 1 , p . 5 1 . 1 . 1 2 , p . 5 3 .
7) EL, 1 . 1 1 , 2 . 1 . 1 1 , 3 . c f . PR, XV, 1 4 . 1 5 . L , 1 , 1 1 , p . 5 1 . 1 . 1 2 , p . 5 3 . DH, X I V , 3 . 4 .
8) EL, 1 , 1 1 , 2 . c f . PR, XV, 1 4 . 1 5 . L , 1 , 1 2 , p . 5 3 . 2 , 3 1 , p p . 1 9 01 9 1 . 3 , 3 4 , p . 2 0 8 . 3 , 3 6 , p . 2 2 8 . 4 , 4 5 , p . 3 5 8 . 4 , 4 6 , p . 3 7 0 . p . 3 7 1 . p . 3 7 4 . R e v i e w , p . 3 9 4 .
9) EL, 1 , 1 1 , 2 . c f . PR, XV, 1 4 . L , 1 , 1 2 , p . 5 3 .
1 0 ) ホップズは, EL では,これを知識と書いている。 c f .EL, 1 , 1 1 , 2 . 1 , 1 1 , 5 . 1 1 ) PR, XVI, 1 .
1 2 ) PR, XVI, 1 .
1 3 ) L , 1 . 1 1 , p . 5 1 . 1 , 1 2 , p . 5 2 . p . 5 3 .
関西大学「社会学部紀要」第 1 6 巻第 1 号
結びつかないで働いて,人間が物事の原因からその原因へと探ってゆくとき, その人間は, 「 す べての物の,初めの,永遠の原因」である「永遠,無限, 全能の一神」 1 4 ) が居られるという考え に辿り着く。しかし,自分の未来に降りかかってくる事についての心配が先に立って,物事の原 因の追求を十分にしない人間は,自分に降りかかってくるさまざまな物事の本当の原因を知らな い時には,自分の想像や自分以外の権威ある人間の考えに従って,目に見えないさまざまな力が そのような物事の原因であると考えて,それらの力を恐れ,敬いやすい 1 5 ) 。
L では更に,人々の中にあるこの宗教の種子を「神の掟と指示によって」養い,育ててきた者 . . . . . .
と,「自分たちが作り出したものに従って」養い,育ててきた者とを区別して,「アプラハム,モ . . . . . .
ーセ,われわれの聖なる救い主」は前者であり, 「コモンウェルスの創立者,異教徒の立法者の すぺて」は後者である 1 6 ) と書いている。
DH では, すべての人間は「〔目に見えない)神が居られるということ…•••神は全知, 全能,
すべての物の創造者であり支配者であるということ…•••神は御自分の意志により順境,逆境の配 分者であるということを信じている」 1 7 ) 。神に対するこの信仰を基にして, 神による人間の罪の 赦しを通して 1 8 ) , 自然状態の人間には「愛」と「正義, 衡平」(神の掟「自分以外の人間が自分 に対してするならば公正でないと考えることを自分以外の人間に対してすべきではない」に従う こと) 1 9 ) が生み出され,この信仰,愛,正義はあわさって,人間の自然にある「神に対する敬 食 」 2 0 ) を形作る 20 と書いている。
これらの考えの中で,少なくとも P R , L に書かれている考えは,旧約,新約聖書に証されて いる神に対する信仰を受け容れた時に初めて成り立つ考えである。ホップズは,正しい命題の源 は,「経験」と「聖書」である 2 2 ) と考えている。 それに加えて, P R ,L で明らかにされたホップ ズの考えには,アプラハム,モーセ,キリストの信仰は「正しい理性」にかなう信仰であるとい う信念が基にある。それは,言い換えれば, 「正しい理性」に明らかに反する考えは,本当の宗 教信仰の中にはないという信念である。
DH で書かれていることについても,すべての人間は神を信じている,あるいは,神の存在と 支配だけに対する信仰から正義と愛が生れてくる,などの考えには問題があるけれども,ホップ ズはここで, キリスト教の核心の中から,理性に反しないとホップズが考えた「信仰,正義,
愛」を「人間の自然」にある「神に対する敬虔」として取り出そうとしていたと言える 2 3 )
01 4 ) L , 1 , 1 2 , p . 5 3 . c f . L , 1 , 1 1 , p . 5 1 . 1 5 ) L , 1 , 1 1 , p . 5 1 . 1 , 1 2 , p p . 5 25 6 .
1 6 ) L , 1 , 1 2 , p . 5 4 . p p . 5 75 8 . 1 , 1 6 , p . 8 2 . c f . L , 4 , 4 5 , p p . 3 5 23 5 3 . p p . 3 5 63 6 6 . B , I I , p . 9 5 . 1 7 ) DH, X I V , 1 . c f . DH, X I I , 5 . X I V , 4 . 8 .
1 8 ) DH, X I V , 6 .
1 9 ) DH, X I I I , 9 . X I V , 1 . 2 . 5 . 2 0 ) DH, X I V , 1 . c f . DH, X I I , 5 . 2 1 ) DH, X I V , 7 .
2 2 ) 「ホップズにおける人間と社会 1 」 1 1 6 頁 。
2 3 ) c f . DH, X I V , 5 . 6 . , ] ヽ 論 V .V I .
ホップズにおける人間と社会(妹尾)
I l [
ELでは,このほか,宗教に係わることとしては次の事が論じられている。
「聖書は神の言葉である」 2 4 ) ということは,知識ではなくて,信仰である 2 5 ) 。この信仰は,「全 能の神の,肉となられての驚くべき業を見た人々の時から,互いに跡を歩み続けてきた神の教会 の信仰篤い人々」 2 6 ) に対する信頼を基にしている。だから,聖書の解釈も,信仰の原点が問題と ならない限り,それぞれの人間のそれぞれの解釈よりは,この教会の人々の解釈がより安全であ る 2 7 ) 。
聖書から知ることができるキリスト教信仰の原点は,「イエス・キリストは肉となって来られ
キ リ ス ト
た 。 」 2 8 ) あるいは「イエス・キリストは生ける神の子である。」 2 9 ) つまり「イエスは救い主である。」 3 0 )
ということである。また,「神を愛するということは,聖書では, 神の掟に従うことであり,互 いに愛し合うことである。」 3 1 ) 神を信頼するということは,自分の力の及ばないことはすべて神の 意志に任せるということであるし,キリストを信頼するということは,キリストを神と認めると いうこと,即ち,キリスト教信仰の原点を信ずるということである 3 2 ) 。さまざまな霊 s p i r i t s や 霊感の善悪を判断する基準は,この信仰の原点である 3 3 )
0キリスト教信仰の原点について書かれたこれらのことは,神が全能で,永遠であるということ 以外の神の性質に係わることである。しかし,これらのことは確実なことであるとホップズは考
キ リ ス ト
えている。たとえ教会が「イエスは救い主である」ということに異議を唱えたとしても,これが キリスト教信仰の原点である りとホップズは考えている。そうであれば,このキリスト教信仰 の原点が究極の真理としてあらかじめ前提されていなければならない。しかし,これは,ホップ ズの言う知識ではない。これは,正確には,ホップズが,聖書から,ホップズ自身の信念と判断
2 4 ) EL, 1 , 1 1 . 8 . c f . PR, X V I , 1 1 . X V I I , 1 5 . 1 6 . L , 3 , 3 6 , p p . 2 2 22 2 3 . 2 5 ) EL, 1 , 1 1 . 8 . c f . L , 3 , 3 3 , p . 2 0 5 . 3 , 4 3 , p . 3 2 4 .
2 6 ) EL, 1 , 1 1 , 9 . c f . PR, X V I I , 2 8 . L , 1 , 7 , p . 3 2 . 3 , 4 3 , p p . 3 2 33 2 4 . このことにあてはまる人々は,
アングリカンだけでなく,カトリック教会の聖職者でもある。 c f .B , I , p p . 5 65 7 . な お , PR,X V I , 4 . L , 3 , 4 3 , p . 3 2 3 . では,信仰 f a i t h ,b e l i e v e という言葉が, 自分に対して現われる神に対する直 接の信仰という意味で使われている。
2 7 ) EL, 1 . 1 1 , 1 0 . c f . PR, X V I I , 2 8 . L , 3 , 3 2 , p . 1 9 6 . 但し, L , 4 , 4 7 , p . 3 8 5 . では,「争いがなく,キ リストに仕える聖職者の人柄に対するわれわれの愛着によって, キリストの教えを判断するというこ とがなければ」それぞれの人間の理性に従う方がよい,と書いている。
2 8 ) EL, 1 . 1 1 , 7 . c f . EL, 1 . 1 1 , 1 0 . PR, X V I I I , 9 . 1 0 . L , 3 , 3 4 , p . 2 1 0 . 3 , 3 6 , p . 2 3 1 . 3 , 4 2 , p . 2 7 3 . 3 , 4 3 , p . 3 2 6 .
2 9 ) EL, 1 , 1 1 . 1 1 . c f . EL, 2 , 6 , 6 . PR, X V I I I , 6 . 1 0 . 1 3 . L , 3 , 4 2 , p . 3 0 1 . 3 , 4 3 , p . 3 2 6 . 4 , 4 5 , p . 3 5 5 . 3 0 ) EL, 2 , 6 , 6 . c f . EL, 2 , 6 , 79. PR, X V I I , 7 . X V I I I , 611. L , 3 , 3 4 , p . 2 1 0 . 3 , 4 2 , p . 2 7 2 . p .
2 8 1 . pp. 3 0 13 0 2 . 3 , 4 3 , pp. 3 2 43 2 9 .
3 1 ) EL, 1 , 1 1 , 1 1 . c f . EL, 2 , 7 , 9 . PR, X V I I , 8 . X V I I I , 3 . DH, X I V , 2 . 5 . 3 2 ) EL, 1 , 1 1 , 1 1 . c f . PR, X V I I I , 5 .
3 3 ) EL, 1 , 1 1 , 7 . c f . PR, X V I I I , 9 . L , 3 , 3 6 , p . 2 3 1 .
3 4 ) EL, 1 , 1 1 , 1 0 . c f . EL, 2 , 7 , 1 0 . PR, X V I I I , 9 .
関西大学「社会学部紀要」第 1 6 巻第 1 サ
に基づいて引き出したことである 3 5 ) 。そうであれば,それぞれの人間の信念の中には,正しさの 基準となることのできるものがあると考えなければならない。しかし,ホッブズは,宗教の頒域 では,個人の判断,信念を正しさの基準とは認めていない。これは矛盾である。
EL では更に,「人間によりはむしろ神に従うべきである」ということが問題になるのは,「個 々の個人の解釈によって,あるいは,公の権威がその仕事へと命じていない人々の解釈によっ て,とられる聖書の意味を, 聖書の意味と考えることを許されているキリスト教徒」 36) の場合だ けであるとして,聖書を引き合いに,次のように論じている。
1 . 「個々の個人の解釈に従う人々」については,人間の法は良心を義務づけるものではな く,言葉と行為だけを義務づけるものである 37), 社会の主権者に,言い換えれば,人間の法に従 うことによって,人間は自分の救いを危くするということはなく, むしろ, 救いに必要な,「神 の法に従うこと」を行っているのであって,ただ,主権者に従えば地獄に落ちると考える時に は,抵抗せずに自分の生命を犠牲にすべきである 38) (詳細は後述, c f .V . ) 。
2 . 「公の権威がその仕事へと命じていない人々の解釈に従う人々」については,次のように 論じている。
旧約聖書によれば,モーセの時にも王の時にも, 「ユダヤ人の間では, 宗教と世俗の権力は,
いつも同じ人(モーセあるいは王〕の手にあった。」 3 9 )
キリストは「天国〔即ちまた教会 4 0 りの王であるだけでなく,特にユダヤの人々の正統な王で もあったから」 41¥ モーセと同じく,宗教の領域で最高の地位にあった 4 2 ) 。即ち, キリストは,
モーセと同じ仕方で,自分の代理人である 1 2 人の使徒と 70 人の弟子を選び 4 3 ¥ キリスト昇天後の 原始教会では,この使徒たちが各地域の教会の長老(そのうちのある者は,他の長老に対する叙 任,支配権を持っていた)を選んだ 44)
0しかし,「天国の法〔これはここでは, 自然法のことと考えられている〕は, ……良心だけに 命じられており,良心は強制,無理強いには従わない」し,「その法の要は愛である」,「その上, . . . . . . . . . . . . . .
われわれの救い主御自身が,私の国はこの世のものではない,と言われている」から,教会の外
キ リ ス ト
の人々に対しては, キリストが使徒に与えた権威は, 「イエスが救い主であるということを·…••
説き,天国に係わるあらゆる点についてこのことを説明し,われわれの救い主の教えを受け容れ るよう人々に説き勧めるということであって,誰かを無理にでも自分達に従わせるということで
3 5 ) c f . L , 3 , 3 2 , p . 1 9 8 . 3 6 ) EL, 2 , 6 , 2 . 3 7 ) EL, 2 , 6 , 3 . 3 8 ) EL, 2 , 6 , 414.
3 9 ) EL, 2 , 7 , 3 . c f . EL, 2 , 6 , 2 . 4 0 ) EL, 2 , 7 , 5 .
4 1 ) EL, 2 , 7 , 4 . 4 2 ) EL, 2 , 7 , 67.
4 3 ) EL, 2 , 7 , 46.
4 4 ) EL, 2 , 7 , 8 .
は決してない。」 4 5 ) また,教会の中の人々に対しては,破門された者が世俗の主権者の命令に従 ぃ,あるいは,主権者によって許されていることをすることをキリストや使徒は禁ずることがで きなかった 4 6 ) 。「従って,コモンウェルスの主権者権力が, キリストその人の権威以外の教会の 権威に従うべきであるということは絶対にありえない。」 4 7 ) コモンウェルスの主権者は,教会に属
していない人間に対して支配者であると同時に,教会の支配者でもある 4 8 )
0このホッブズの考えについて,次の点を指摘することができる。
モーセと同じ地位にあると言われているキリストが,モーセと同じ世俗の権力を持っていな ぃ,ということは矛盾である。しかし,もしもキリストに世俗の権力がないということが事実で あるならば,キリストはモーセと同じ地位にいるのではない。そうであればまた,キリストの国 はモーセの国と同じ性格の国ではないことになる。しかし,ホッブズは, EL では,この違いが あるということをどこにも書いていない。当然,何故そのような違いがあるのかについても何も 書いていない。
その上,宗教の領域の権威は教会にあるという前段での議論と,世俗の主権者は教会の支配者 であるという後段での議論とは,矛盾している。このことと関連して,後段で教会の中の人間と して論じられている破門された人間は,実際には教会の外の人間であるから,教会の中の人間に 対する使徒の権威については,ホッブズはそこでは何も論じていないことになる。また,キリス トの権威と教会の権威とをホッブズが書いているように区別するということは,主権者の信仰を 正しい信仰の基準と考えるということを含んでいるけれども,ホッブズの沓いていることの中に その根拠を見つけ出すことはできない。
こうして, EL での,宗教に係わる議論は,特に 2 の点で, 明らかに幾つかの問題点を含んで いる。 P R ,L では,ホッブズは,以下に述べるように,とりわけ 2 での自分の結論に,それぞれ EL, PR でよりも,より確かな根拠を与えようとしており,あわせて, 1 と 2 両方の場合を貫く
ことができる根拠を見つけ出そうと努力していた,と言うことができる。
I V
1 . P R , L では,ホッブズは,「何が神の法であり掟であるか」 4 9 ) を明らかにするために,宗教 について論ずる時にまず,「神の国 t h ekingdom o f God 」とは何であるかを明らかにしようと している。そこでは,「神の国」は,「神がすべての物の支配者であるということを認め,神は . . . .
〔神の言葉によって〕神の命令を人間に与え,背く者には罰を定められたということを認める人 4 5 ) EL, 2 , 7 , 9 .
4 6 ) EL, 2 , 7 , 1 0 . 4 7 ) EL, 2 , 7 , 1 0 . 4 8 ) EL, 2 , 7 , 1 01 1 .
4 9 ) P R , XV, 1 . c f . L , 2 , 3 1 , p . 1 8 6 .
関西大学「社会学部紀要」第 1 6 巻第 1 サ
々だけ」 5 0 ) から成る国であると考えられている。
そうであれば,神の存在を認めない人間は,「神の国」の構成員ではない。 このことは, ここ ではっきりと書かれている。 また,そうであれば, 「自然法を破った結果として自然に生れてく る」「自然の罰」 5 1 ) は , 「その力によって地球全体の王である」神の罰ではありえても, それだけ で,神の言葉がなければ,「神の国」での罰ではありえない。 しかし, ホッブズはこの区別を明 確にしていない。 また, ここ以外のところでも, ホッブズは,地球全体の王としての神の支配 と,「神の国」での神の支配とを十分明確に区別していないところがある 5 2 ) 。ホップズの考えの この不十分さは,「神の自然の国」での神の支配の根拠もまた神の力であると考えていたことに 基づいている 5 3 ) 。
神がその命令即ち法を,その言葉によって,神の国の構成員である人間に伝える仕方には三通 りある,即ち,「正しい理性の無言の命令」によるか,「直接の啓示」によるか,神の代理人であ る「預言者」の言葉によるかである 5 4 ) , このうち,「匝接の啓示」は少数の人間に, しかも, そ れぞれの人間にそれぞれの仕方で来るだけであるから,この仕方でどの人間にも当てはまる神の 国の法が人間に伝えられることはない 5 5 ) , だから, 神の国には, 「正しい理性」によって神が支 配する「自然の国」と,神が選び取った人々に対して「預言者」の言葉によって支配する「預言 の国」との二つの国があることになる 5 6 ) とホップズは書いている。しかし,神が「預言者」に対 して自らの意志を伝えるのは「超自然の啓示」によってである 5 7 ) から,そうであれば,神の国の 法は「超自然の啓示」によっても伝えることができるはずである。
また, L には,個々の人間は,神を代表する人間を仲立にしなければ,神と誓約を結ぶことは できない 5 8 ) と書いているところがある。この仲立となる人間は,後に述べるように,神の下にそ の社会の主権者である人間である。また別のところでは,市民社会の主権者だけは,新約聖害を 法として,神とキリストに直接に従うことができる 5 9 ) と書いている。この考えは, EL に既にあ ったけれども,しかし,神の国に入るのに,主権者とそれ以外の人間との間に何故このような逃 いがあるのかは,わからない。
. . . . . . .
2 . 神がその「自然の国」で主権者として支配する権利は,神の「抵抗できない力」 6 0 ¥ 人間
5 0 ) PR, XV, 2 . c f . L , 2 , 3 1 , p p . 1 8 61 8 7 . 3 , 3 5 , p . 2 1 6 . 3 , 3 7 , p . 2 3 5 . 5 1 ) L , 2 , 3 1 , p . 1 9 3 .
5 2 ) L , 1 , 1 2 , p . 5 8 . 3 , 3 5 , p . 2 1 6 . p . 2 1 7 . p . 2 1 9 . p . 2 2 0 . 5 3 ) c f . 小論 I V ,2 .
5 4 ) PR, XV, 3 . L , 2 , 3 1 . p . 1 8 7 .
5 5 ) PR, XV, 3 . L , 2 , 3 1 , p . 1 8 7 . c f . PR, X V I I I , 1 3 . 5 6 ) PR, XIV, 4 . XV, 4 . L , 2 , 3 1 , p . 1 8 7 .
5 7 ) EL, 1 , 1 1 , 7 . PR, XVI, 1 . 4 . X V I I , 1 3 . L , 1 , 1 2 , p . 5 7 . p . 5 8 . 2 , 2 6 , p . 1 4 9 . 3 , 3 2 , p p . 195 1 9 8 . 3 , 3 6 , p p . 2 2 62 3 0 . 3 , 4 3 , p . 3 2 3 . Review, p . 3 9 3 . DH, XIV, 3 .
5 8 ) L , 2 , 1 8 , p . 8 9 .
5 9 ) L , 3 , 4 2 , p . 2 8 5 . p . 2 9 6 .
6 0 ) PR, XV, 5 . L , 2 , 3 1 , p . 1 8 7 . c f . PR, XV, 6 . L , R e v i e w , p . 3 9 2 .
ホップズにおける人間と社会(妹尾)
の側から言えば, 「神の力と比べての自分の弱さの不安あるいは自覚」 6 1 ) に基づいている,つま り,神の「すべての物に対する権利」に基づいている 6 2 ) , とホップズは考えている。 しかし,
「抵抗できない力」「すべての物に対する権利」は,それを認める者だけではなくて,すべての人 間に対する力あるいは権利である。その上, 「すべての物に対する権利」は正しさとしての権利 ではないし,「抵抗できない力」から引き出すことができるのは, すべての人間に対する支配と いう現実であって,その支配を正しいとする権利ではない。だから, これらは,「その力によっ て地球全体の王である」神の支配の根拠ではありうるけれども, ホップズが考えている 「神の 国」での神の支配の権利の根拠ではありえない。
「神の自然の国」の法には,人間が自分以外の人間に対してどうあるべきかを示す自然法と,
神に対してどうあるぺきかを示す聖法 s a c r e dl a w s (聖法も,正しい理性が指し示す法であるか ら,自然法と呼ばれているところがある 63)) とがある 6 4 ) , 聖法の内容は,神の存在・摂理を認め ること,神が全能・無限であることを認めること,そのような神を敬うにふさわしい行為を行う こと(とりわけ,自然法を守るよう最善の努力をすること)である 6 5 り と ホ ッ プ ズ は 考 え て い る 。
自然法の核心である「平和を求めよ」ということは,神が全能であるということだけから生み 出されてくることではない。全能の神が「人の間の平和」を求めておられないとすれば, 「平和 を求めよ」という自然法が神の法であるということはできない。だから,自然法が神の法である と考える「正しい理性」の基には,全能の神が同時に「人の間の平和」を求めておられるという 信念がある。聖法もまた,そのような神を敬うにふさわしい仕方を示すものであると言うことが できる。
ホップズは,これらの神の法が具体的な状況の中で人間にどのような行為を指し示すかを解釈 する権利,あるいは,神の法に示されていないことを決めて行わせる権利は,その社会に,即 ち,その社会の主権者にある 6 6 ) と書いている。その根拠は,俗法については,市民社会の形成に ついての考えの中で述べられており,聖法については,社会にその権利がないと,その社会で神 はさまざまな仕方で敬われることになって,みなが自分以外の人間は神を侮辱していると考える から,本当の意味で,即ち,他人の眼に神を敬っていると見えるという意味で,神を敬っている 人間は誰もいなくなるからである 6 7 ) と書かれている。
別のところでは,ホップズは,主権者は神を直接侮辱したり,神を敬うことを禁じたりするこ 6 1 ) PR, XV, 7 .
6 2 ) PR, XV, 5 . L , 2 , 3 1 , p . 1 8 7 . 6 3 ) PR, XV, 1 5 . 1 6 .
6 4 ) PR, XV, 8 . L , 1 , 1 2 , p . 5 7 . 2 , 3 1 , p . 1 8 8 . c f . L , 3 , 4 3 , p . 3 3 0 . 6 5 ) PR, XV, 1 4 . 1 5 . L , 2 , 3 1 , p p . 1 9 01 9 2 . DH, XIV, 4 .
6 6 ) PR, XV, 1 6 . 1 7 . L , 2 , 2 6 , p p . 1 4 91 5 0 . 2 , 3 1 , p p . 1 9 21 9 3 . 社会は神についての法を作る権利を 持っていない,と書いているところもある。 c f . PR, XIV, 1 0 .
6 7 ) PR, XV, 1 7 . c f . L , 2 , 3 1 , p . 1 8 9 . p . 1 9 2 .
関西大学「社会学部紀要」第 1 6 巻第 1 号
とを命ずる権利はないし,主権者が自分を神として敬うよう命ずる権利もない,言い換えれば,
社会の構成員は主権者のそのような命令には従ってはならない 6 8 ) と書いている。このことは,神 を敬う仕方が妥当かどうかを決める権利がそれぞれの人間にあるということを前提にしている。
しかしまた,主権者が,直接には神に不名啓な事ではないけれども,推論すれば不名誉な結論が 引き出せる事(例えば,偶像崇拝)を命ずる時には,それが正しい理性に反することであって も,命じられたことに従うべきである 6 9 ) とも書いている。このことは,神を敬う仕方を決める権 利が市民社会の主権者にあるということを前提にしている。この二つのことは矛盾している。
ホップズの結論は, PR では,前者の考えを基にして,神を言葉と行為で敬うことを主権者が 禁ずる時には,彼に従うべきではない,それ以外の主権者の命令には,神の命令として,従うべ きである 7 0 ) ということである。しかし, L では,この矛盾について十分に論じないままで,後者
. . . . . . . . . . . . . .
の考えに従って,結論を「人間によりは神に従う方がよいと聖書に言われていることは,誓約に よる神の国で言えることであって,自然による神の国で言えることではない。」 71) と書いている。
しかし,主権者は,市民社会の形成についてのところで既に述べたように 7 2 ) , 自然法に反する ことを行い,あるいは,自然法に反する内容の法を作る権利を持っていない。聖法についても,
それが神の法であるならば,主権者はそれに反する権利を持っていない。その上,神を敬うとい うことは,人間の心のあり方に根差していることであるから 73), その仕方が他人にどう思われる かということは,神を敬うということにとって二次的な問題であるし,そもそも,人間の心に根 差していない仕方で神を敬うということが矛盾である。
こうして,「神の自然の国」についてのホッブズの考え,特に L での考えには,根本のところ に矛盾がある。
3 . 「神の預言の国」としてホッブズが考えているのは,旧約および新約によって作られる神 の国である。
旧約によって作られる神の国について,ホップズは, PR,L では,聖書を基にして,次のよう に論じている。
多くの人々が正しい理性に従わず,迷信に囚われ,偶像崇拝を行っていた中で, 「神は, 聖史 に嘗かれてあるのをわれわれが読む通りに,アブラハムを通して人々が神を本当の仕方で敬うよ うにと,すべての人間の中からアプラハムを呼び出し,自らを超自然な仕方でアブラハムに啓示 . . . .
し,彼および彼の子孫との間に旧い誓約 o l dc o v e n a n t o r t e s t a m e n t と呼ばれているあの一番有
6 8 ) PR, XV, 1 8 . c f . L , 2 , 3 1 , p p . 1 9 21 9 3 . 6 9 ) PR, XV, 1 8 ,
7 0 ) PR, XV, 1 9 . 7 1 ) L , 2 , 3 1 , p . 1 9 3 .
7 2 ) 「ホッブズにおける人間と社会 2 」 1 5 頁 。
7 3 ) PR, XV, 9 . 1 7 . L , 2 , 3 1 , p , 1 8 8 . 4 , 4 5 , p p . 3 5 7362. DH, XIV, 8 .
ホップズにおける人間と社会(妹尾)
. . . . . . . .
名な誓約を立てることを喜ばれた。」 74) こうして,「アプラハムから誓約による神の国が始まる。」 75)
(但し, PR では,誓約による神の支配は,アダムとイヴに対して既にあったけれども,その誓 約はすぐに破られて,新しく立て直されなかったから,これは誓約による神の国の源にはならな
ぃ 76) と書き, L では,あるところでは,神はアダムの時から, 自然理性とは別に,自分の声によ . . . . . .
っても支配する「神の国」を持っておられたけれども,アプラハムは「信仰篤い人々,即ち,...
. .
…神に誓った忠誠を踏みにじらない人々の父」である 77) と書き, 別のところでは, 「誓約による 神の国」はアプラハムに始まる 7 8 ) と書いている。)
誓約の内容は,アブラハム及びその子孫は,アブラハムに対してそのようにして現われ,語り かけられた者を神と認めるということ,それに対して,神はアブラハムがその時余所者として住 んでいたカナンの地をアブラハム及びその子孫に永遠の所有として与えるということ,この誓約 の印として,アプラハム及びその子孫の中の男子は割礼を受けるということである 7 9 ) 。
この誓約でアプラハムの神がアプラハムに与えた法は割礼だけであるけれども, 「道徳法 C と
「自然の国」の聖法と〕に対しては, アブラハムは, この誓約の前に既に義務を負っていた」 8 0 )
から,アブラハムが守るべき法は,「自然の国」の神の法と割礼とであった 8 1 ) 。このことは,「神 の預言の国」の基には「神の自然の国」があるということである 8 2 ) 。その上,割礼は,誓約にな くてはならぬ本質ではなくて,誓約の印に過ぎないから,ホッブズの考えは,アブラハムによっ て伝えられた神の言葉には,神の法として基本的なものはない,ということであったと言える。
アプラハムは,その家族や子孫,つまり,彼の臣民に対して,聖・俗,すべての法の解釈者で あった 8 3 ) 。 PR では,それは,聖書にそう書かれているし,また, 誓約の中で, 自分だけではな くて,自分の子孫についても,神に対する服従を約束したからである 84) と書き, だから, 「アプ
. . . .
ラハムが,神の存在あるいは摂理を否定するよう,あるいは,神の尊敬に明らかに反することを するよう命じない限り C 言い換えれば,「自然の国」の聖法に反しない限り〕,アブラハムの臣民 がアプラハムに従うことで罪を犯すということはありえなかった。」 85) と書いている。 L では,そ
7 4 ) PR, XVI, 1 . c f . L , 3 , 3 5 , p p . 2 1 62 1 7 . 3 , 4 0 , p . 2 4 9 . 7 5 ) PR, XVI, 1 . L , 3 , 3 5 , p . 2 1 7 . 3 , 4 0 , p . 2 4 9 .
7 6 ) PR, XVI, 2 .
7 7 ) L , 3 , 3 5 , p p . 2 1 62 1 7 . 7 8 ) L , 3 , 4 0 , p . 2 4 9 .
7 9 ) PR, XVI, 3 . 4 . L , 3 , 3 5 , p p . 2 1 62 1 7 . c f . PR, X V I I , 7 . 8 0 ) L , 3 , 3 5 , p . 2 1 7 . c f . PR, XVI, 5 . L , 3 , 4 0 , p . 2 4 9 . 8 1 ) PR, XVI, 5 .
8 2 ) PR, X V I I I , 1 1 . L , 1 , 1 2 , p . 5 8 . 2 , 3 1 , p . 1 8 7 . 3 , 3 2 , p . 1 9 5 . 3 , 4 0 , p . 2 4 9 . 3 , 4 1 , p . 2 6 4 . c f . 「 預 言の国」では, 神は自分の臣民として選ばれたユダヤの人々を「自然理性によってだけでなくて,そ の雖なる預言者たちの口を通してその人々に与えられた実定法によっても支配された。」 ( L ,2 , 3 1 , p . 1 8 7 . )
8 3 ) PR, XVI, 6 . L , 2 , 2 6 , p . 1 4 9 . 3 , 4 0 , p . 2 5 0 . 8 4 ) PR, XVI, 6 . 後段は理由づけになっていない。
8 5 ) PR, XVI, 7 .
‑143‑
れは,
関西大学「社会学部紀要」第 1 6 巻第 1 号
アプラハムだけが神の言葉を伝える預言者であったからである 8 6 ) と書き, それと重ねて,
アプラハムが社会の主権者であったからである 8 7 ) と書いている。 L での後段の議論は,宗教の権 威は政治の権威に従うぺきであるということを既に前提にしている議論であって,議論の筋道の すりかえである。
この誓約は,アプラハムの死後,
その後,この誓約は,
神は, モーセを通して,
イサクとの間, ヤコプとの間で改めて立てられた 8 8 )
0モーセを通して,神とイスラエルのすべての人々との間に立てられた。 . . . . . . . . . . . . . . . .
「汝らが私の声にしかと従い,私の誓約(即ち,アブラハム,イサク, . . . . . . . . . . . . . . . . . .
ヤコプとの間に立てられた誓約)を守るならば,……汝らは私にとって祭司の国 . . . . . . . . . ak i n g d o m o f p r i e s t s となり,聖き民となる」 8 9 ) と言われ,
セを通して,神が言われるすぺてのことに従おう, . . . .
る神の国」が作り出された 91) と書いている。
始まる」 9 2 ) ということと矛盾する。 もしも,
それに対して,イスラエルのすべての人々は,モー . . . .
この時に「設立によ . . . . . . . .
このことは,「アプラハムから誓約による神の国が アプラハムの誓約に対して, その社会の構成員が同
と答えた 9 0 )
0PRでは,
意していなかったのであれば, その誓約は,神とアプラハムとだけの誓約であって, それ以外の 人々との間に「誓約による神の国」はその時作られていなかった 9 3 ) のであるし,もしも「誓約に よる神の国」がその時作られていたのであれば,その社会の構成員はその国をモーセの時と同じ 仕方でしか作ることができなかったはずである。 L では, これと対応するところでは,
時には,
国」と呼ばれることになっただけであると書いて,
ころでは,神はモーセに十誡を伝えた時に初めて,
によって神が支配する独自の国を作られた 9 5 ) と書いていて,矛盾はなくなってはいない。
モーセが伝えた神の法には, 「自然の国」で既に神の法であるものと,
アプラハムの誓約が改めて立てられたのであって,ただ,
モーセの . .
そうして作られた国が「神の この矛盾をなくしている 9 4 ) けれども,別のと 書かれた法即ち十誡
「自然の国」とは別の,
基づく神の法とがある (PRでは,前者は,十誡の内, 7 , 8 ,
4 「安息日を憶えてこれを聖潔すべし」
きよく9 7 )
0「無神論と神の摂理の否定と」であり,
その上に「偶像崇拝」が付け加わる,
2 ' 3 ' 5 ' 6 '
アプラハムとの誓約に 9 , 1 0 , 後者 は ,
し ,
1 「汝…我の外何物をも神とすべからず」 96),
PRには,
但
「神の自然の国」での神に対する反逆は
「旧約による神の国」での神に対する反逆は, というもう
8 6 ) L , 3 , 4 0 , p . 2 5 0 .
8 7 ) L , 3 , 4 0 , p p . 2 4 92 5 1 . モーセについても,同じ趣旨のことが書かれている。
251. 3 , 4 2 , p p . 2 8 22 8 3 . p . 3 1 2 . 8 8 ) P R , X V I , 8 . L , 3 , 4 0 , p . 2 5 0 .
8 9 ) P R , X V I , 8 . c f . P R , X V I I , 7 . L , 3 , 3 5 , p . 2 1 7 . 9 0 ) P R , X V I , 8 . L , 3 , 4 0 , p p . 2 5 02 5 1 .
9 1 ) P R , X V I , 9 . 9 2 ) c f . 7 5 ) .
9 3 ) P R , X V I , 9 . c f . P R , X V I , 6 . 9 4 ) L , 3 , 3 5 , p . 2 1 7 . 3 , 4 0 , p p . 2 4 92 5 0 .
9 5 ) L , 3 , 4 2 , p p . 2 8 12 8 2 . 4 , 4 4 , p . 3 3 4 . p . 3 4 1 . 4 , 4 5 , p . 3 5 6 . B , I , p . 5 . 9 6 )出エジプト記 2 0 : 3 .
9 7 )出エジプト記 2 0 :8 .
c f . L , 3 , 4 0 , p p . 2 5 0
ホップズにおける人間と社会(妹尾)
一つの考え 9 8 ) がある。 L では,後者の考えに従って,十誡の内「主権についての法」である 1 ' 2 , 3 , 4 はイスラエルの人々にだけ与えられた独自な法であって, 5 , 6 , 7 , 8 , 9 , 1 0 は
「一人の人間のもう一人の人間に対する義務」を示す自然法である 9 9 ) と書いている。しかし,
「最初の原因」である全能の一神が前提とされている「神の自然の国」では,神の支配を信じな
おのれ
いことも偶像崇拝も法に反することである 1 0 0 ) から, L でも,別のところでは, 2 「汝自己のため に何の偶像をも彫むべからず」
きざJ O I ) は , 神に対して人間がどうあるべきかを示す「自然の国」の進 法であると考えられている 102)) ほか,モーセによって初めて伝えられた政治, 裁判, 儀式に係 わる法(出エジプト記 20 章 22 節から申命記の終りまで)がある 1 0 3 ) 。 ホッブズは, 十誡以外のこ の第三の種類の法は変更が可能であったと考えている 1 0 4 ) けれども, その理論上の根拠について は何も書いていない。これらのことから, ホップズはここでも, 「神の預言の国」の基には「神 の自然の国」があると考えており, しかも, 「預言の国」に独自な法で重要なものは, 整理して みるならば,「預言者に現われたこの神を神とすべし」(十誡の 1) ということだけである,とい
うことが明らかである。
旧約聖書によれば,世俗と宗教,両方の領域での主権者としての権威は,モーセの時にはモー セに 1 0 5 ) , モーセの死後は大祭司エレアザルに 1 0 6 ) , その後の士師時代には, 権利としては大祭司 に,事実としては預言者たちに 1 0 7 ) , 神の下に祭司が副王として治める「神の国」が, イスラエ ルの人々によって神の同意を得て棄てられ,サウルが神に替って国の王となってからは,ィスラ エル人がバビロンに囚われの身となるまで,王にあった !OB) 。バビロンから帰ってからは, PR で は,誓約によって再び祭司の国が作られたから,聖・俗の権威は,イエス・キリストの時まで祭 司にあった 1 0 9 ) と書いているけれども, L では,この時神との間で誓約は改めて立てられたけれど も,祭司に従うという約束はそこではされなかった 1 1 0 ) とだけ書いている。こうして, PR では,
「神の国」は,キリストの時までこの世にあったと考えられている lll) のに対し, L では,ィスラ エルの人々が神を王から退けて, サウルを王に選んだ時以来, 「神の国」はこの世にはないと考
9 8 ) PR, X V I I I , 1 1 .
9 9 ) L , 3 , 4 2 , p . 2 8 2 . c f . L , 4 , 4 5 , p p . 3 5 63 5 7 . 1 0 0 ) PR, XV, 1 4 . 1 9 . L , 2 , 3 1 . p p . 1 9 01 9 1 . 1 0 1 ) 出エジプト記 2 0: 4 .
1 0 2 ) L , 4 , 4 5 , p . 3 6 0 .
1 0 3 ) PR, XVI, 1 0 . L , 3 , 4 2 , p p . 2 8 1283.
1 0 4 ) PR, XVI, 1 0 .
、1 0 5 ) PR, XVI, 1 3 . L , 3 , 3 8 , p . 2 4 0 . 3 , 4 0 , p p . 251252. 3 , 4 2 , p . 2 8 2 . p . 3 1 2 . 1 0 6 ) PR, XVI, 1 4 . L , 3 , 3 8 , p . 2 4 0 . 3 , 4 0 , p . 2 5 3 .
1 0 7 ) PR, XVI, 1 5 . L , 3 , 3 8 , p . 2 4 0 . 3 , 4 0 , p . 2 5 3 . p . 2 5 5 .
1 0 8 ) PR, XVI, 1 6 . L , 3 , 4 0 , p p . 2 5 4255. 3 , 4 2 , p . 2 9 3 . p . 2 9 9 . p . 3 1 3 . L で は , この時にも, 預言 者たちが,事実としては,王を支配することはよくあった ( L ,3 , 4 0 , p p . 255256.) と書いている。
1 0 9 ) PR, XVI, 1 7 .
1 1 0 ) L , 3 , 4 0 , p . 2 5 6 . しかし, 大祭司は, この時も市民社会の主権者であった ( L ,3 , 4 2 , p . 2 8 4 . ) と書 いているところもある。
1 1 1 ) PR, XVI, 1 7 . 1 8 .
関西大学「社会学部紀要」第 1 6 巻第 1 号
えている 1 1 2 ) 。
神と誓約を交す時に,アプラハム,モーセ,大祭司ら(そして,後には,キリスト)は,神に 対して人間を代表している 1 1 3 ) とホップズは書いている。 しかし, 社会の構成員(臣民)の代表 者が主権者と誓約して国を作るということは,ホップズが誓約によって市民社会が作られる仕方
と考えていたこととは違っている。
アプラハム,モーセ,大祭司らは,神の国では,神の副王として, その国の主権者であり 1 1 4 ) ,
人間に対して神を代表している 1 1 5 ) 。 こうして,「旧約によって作られる神の国」は,神が「神の 代理人である預言者たちによって治められる」 1 1 6 ) 「地上でのユダヤの人々の政治的統治」 1 1 7 ) であ
った。 . . . . . . . . . . .
PRでは,この神の国では,主権者が「神の摂理の否定」あるいは「偶像崇拝」を命じない限 り,ユダヤの人々は主権者にすべての事において従うべきであった,ということが結論である 1 1 8 ) 。 しかし, L では,ユダヤの人々のコモンウェルスの主権者は,このコモンウェルスで神を敬う行 為(心の中の信仰とは区別された行為)についても最高の権威を持っていた,ということが結論 である 1 1 9 ) 。 L では更に,それ故に, キリスト者のコモンウェルスでの世俗の主権者は,神の言 葉を解釈する権利を持っていると言える 1 2 0 ) と書いている。 PRと L とでの考え方のこの違いは,
「神の自然の国」についての結論のところの考え方の違いと同じである。
4 . 新約によって作られる神の国について,ホップズは, PR,Lでは,聖書を基にして,次の ように論じている。
PRでは,初めに,ィエス・キリストは,「神の国を新しい誓約によって再建する」 1 2 1 ) ために神 から遣わされて,「ユダヤの国の人々に,彼等が待ち望んでいた神の国はもう来ている, 自分が 王,即ち, キリストであると断言し, その法を明らかにし,(モーセの型に従い)族長と . . . . . . . . . . . . . . . 7 0 . 人の .
長老の数に従って 1 2 人の使徒と 7 0 人の弟子を聖職に選び,自分とこれらの人々で救いの道を教え,
神の宮を清め,大きな奇跡を行い,預言者たちが未来に来るキリストについて預言してきたすべ
1 1 2 ) L , 3 , 3 5 , p . 2 1 9 . 3 , 3 8 , p . 2 4 4 . p . 2 4 7 . 3 , 4 1 , p . 2 6 3 . 3 , 4 2 , p . 2 9 3 . p . 3 0 3 . 4 , 4 4 , p p . 3 3 43 3 5 . p . 3 4 1 . サウル以後も,「神の国」はこの世にあることがあった,と書いているところもある。 c f .L , 3 , 3 6 , p . 2 2 8 . 3 , 4 1 , p . 2 6 4 .
1 1 3 ) P R , XVI, 1 . 3 . X V I I , 7 . L , 3 , 3 5 , p p . 2 1 62 1 7 . 3 , 4 0 , p . 2 4 9 .
1 1 4 ) P R , X V I , 7 . 1 31 8 . L , 3 , 3 8 , p . 2 4 0 . 3 , 4 0 , p p . 2 4 92 5 2 . p . 2 5 6 . 3 , 4 2 , p . 2 8 2 . p . 2 8 5 . p . 2 9 3 . p . 2 9 4 . p p . 3 0 53 0 6 . p . 3 0 7 . p . 3 1 2 . 4 , 4 5 , p p . 3 5 63 5 7 . p p . 3 6 03 6 1 . 4 , 4 7 , p . 3 8 3 . R e v i e w , p . 3 9 2 .
1 1 5 ) L , 2 , 1 8 , p . 8 9 . 3 , 3 3 , p p . 2 0 42 0 5 . 3 , 4 0 , p . 2 5 1 . p . 2 5 6 . 3 , 4 1 , p . 2 6 6 . 3 , 4 2 , p p . 2 6 72 6 9 . p . 2 7 4 . p . 2 8 2 . 4 , 4 5 , p p . 3 5 63 5 7 . R e v i e w , p . 3 9 2 . DH, XV, 3 .
1 1 6 ) L , 3 , 3 8 , p . 2 4 0 .
1 1 7 ) L , 3 , 3 8 , p . 2 3 9 . c f . L , 3 , 3 8 , p . 2 4 1 . 3 , 4 2 , p . 2 8 5 . 1 1 8 ) P R , XVI, 1 8 .
1 1 9 ) L , 3 , 4 0 , p . 2 5 6 . c f . L , 3 , 4 0 , p p . 2 4 92 5 0 . 3 , 4 2 , p p . 2 8 22 8 4 . 1 2 0 ) L , 3 , 4 0 , p p . 2 4 92 5 0 . p p . 2 5 22 5 3 . 3 , 4 2 , p . 3 1 2 .
1 2 1 ) PR, X V I I , 1 . c f . PR, X V I I , 3 . L , 3 , 4 1 , p . 2 6 3 .
ホップズにおける人間と社会(妹尾)
ての事を為し遂げられた。」 1 2 2 ) と書いている。 しかし, PR のこれ以外のところ, また, L で は,キリストによって再建されるべき「神の国」は, キリストが再びこの世に来られる時まで,
. . . . . . . . . .
即ち,裁きの日までは「この世のものではない」,しかし,裁きの日以後,「神の国」はキリスト がこの地上で治められる現実の国である 1 2 s i , L では更に,今キリストを信じている者は,「神の 国」で神の支配に服することを約束しており,だから,キリストが再び来られて「神の国」が再 びこの世に打ち立てられる時には「神の国」に受け容れられるという約束を得ているという意味 で,「恵みの国 t h eKingdome o f G r a c e 」の構成員であるけれども,これは現実の「神の国」で はない 1 2 4 ) , だから,今ある教会は「神の国」ではない 1 2 5 ) と書いている。 PR で,「旧約による神 の国」はキリストの時にこの世にあったと考えられていたことと, このこととの矛盾は, L で は,「旧約による神の国」はサウルを王に選んだ時以来この世にないと考えることによって, な くそうとされている 1 2 6 ) 。 しかし, ホップズが引用しているキリストの言葉「私の国はこの世の ものではない」 1 2 7 ) は , キリストの国が歴史上の特定の時によって限られることなく持っている性 格について言われていることであるから, キリストの国が歴史上のある特定の時まではこの世に なくて, その時以後は現実の国となるという考えは,このキリストの言葉と矛盾している。 . . . . . . . . . .
PR では, 「新しい,言い換えれば, キリストの誓約によって人間の側で誓約されていること . . . . . . . . . . . . . . . . .
は,アプラハムの神にイエスが教える仕方で仕えることであり,神の側では,人々の罪を赦し, . . . . . . . . . . . . . .
人々を神の天の国へと導くことである。」 . . . . . . . . . . . . . 1 2 8 ) と書かれている。 イエスが教える仕方で神に仕える とは,「神に対してなされるべき服従」(神は意志を行為と受け取られるから,これは,言い換え . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
れば,「悔い改めるということ」)と,「イエスに対する信仰, . . . . . 即ち, イエスは神が約束された救 い主であると信ずること」 1 2 9 ) とである。
. . . . . . . . . . . . . . .
キリストが神の法として宣べていることは,結局,「汝,心を尽し,精神を尽し,思を尽して
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
主なる汝の神を愛すべし」 1 3 0 ) と,「おのれの如く,汝の隣人を愛すべし」 1 3 1 ) との二つに要約でき る。前者は, モーセが与えた法であって,そこには, アブラハムの神を認める者にとっての聖法 のすべてが含まれ,後者は,正しい理性に始まる自然法であって, そこには,自然法,市民法の
1 2 2 ) PR, X V I I , 3 . c f . PR, X V I I , 2 4 . L , 3 , 4 1 , p p . 2 6 12 6 5 .
1 2 3 ) PR, X V I I , 5 . L , 3 , 3 5 , p . 2 1 9 . 3 , 3 8 , p p . 2 3 92 4 1 . p . 2 4 4 . p p . 2 4 62 4 8 . 3 , 4 1 , p p . 2 6 12 6 4 . 3 , 4 2 , p p . 2 6 92 7 0 . p . 2 7 4 . p . 2 7 9 . p . 2 8 5 . p . 2 8 6 . p . 2 8 9 . p . 2 9 4 . p . 3 0 2 . p p . 3 0 43 0 5 . p . 3 0 7 . p . 3 1 7 . p . 3 1 8 . 3 , 4 3 , p . 3 2 8 . p . 3 3 1 . 4 , 4 4 , p p . 3 3 43 3 7 . p . 3 4 5 . p . 3 4 7 . 4 , 4 7 , p . 3 8 2 . 1 2 4 ) L , 3 , 3 5 , p . 2 1 6 . p . 2 1 9 . 3 , 4 1 , p . 2 6 3 . 4 , 4 4 , p . 3 3 5 . 4 , 4 7 , p . 3 8 1 .
1 2 5 ) L , 4 , 4 4 , p p . 3 3 43 3 7 . 4 , 4 7 , p . 3 8 1 . p . 3 8 3 . c f . L , 3 , 4 2 , p . 2 8 1 . p . 2 8 9 . p . 2 9 4 . PR では,直 接そう書かれているところはないけれども,実質的にその意味のことが書かれているところはある。
c f . PR, X V I I , 2 2 . 1 2 6 ) c f . 1 1 1 ) . 1 1 2 ) . 1 2 7 ) ヨハネ伝 1 8 :3 6 .
1 2 8 ) PR, X V I I , 7 . c f . L , 3 , 3 8 , p . 2 3 9 . 3 , 4 1 , p . 2 6 3 . 1 2 9 ) PR, X V I I , 7 . c f . PR, I V , 2 4 .
1 3 0 ) マタイ伝 2 2 :3 7 .
1 3 1 ) マタイ伝 2 2 :3 9 .
関西大学「社会学部紀要」第 1 6 巻第 1 号
すべてが含まれている。だから,キリストが宣べている法は,アブラハムの神を認める者のすべ
. . . .
てが従わねばならぬ法である。キリストが新しく付け加えた法は, 「洗礼と聖餐という聖礼典の 制度」だけである 1 3 2 ) 。
. . . . . . . . .
救い主を約束された神は旧約の神であるから, 「イエスに対する信仰」には,神に対する信仰 と,旧約に対する信仰とが含まれている 1 3 3 ) 。新約で新しく付け加えられたことは,「イエスが寂
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