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社会科における人間の探究

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(1)Title. 社会科における人間の探究. Author(s). 田沢, 巌. Citation. 北海道學藝大學紀要. 第一部, 6(1): 97-108. Issue Date. 1955-09. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3560. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第6巻 第1号. 北 海 道 学 塾 大 学 紀 要 (第一部). 昭和30年9月. 就曾科における人間の探求 田. 沢 ・. 巌. 北海道学蔓大学旭川分枝史学研究室. ′ lwao 【an in Soc I Studi ia es , TAZA“ A : lnquiry into the M ,. 1、 人間学的接近 ) 4年の教育課程審議会は社会科の基本的なねらいの正 しさを認め1 195 、 今年指導要領の改訂を期 しているの である。 それについて、 雑誌 「教育」 「教育技術」 「カリキュラム」 等々の所論に聞く べき所甚だ多いと感ず るのであるが、 多くは教育方法論から教育技術との関連に就いて論ぜられるか、 道徳教育その他時代的ト ピッ クと連繋して取り上げられている様である。 私は社会科教育論が技術学的様相を持つことを、 必要でもあり一 面正しいとも思うのであるが、 更らに本質的なものを追求 して見たいと思うのである。 それは方法論的には一. 面社会科学の成果の上に、 他方哲学的な思索の上に立って、 本格的 に学問をなすか否かは暫く措くとしても、 少なくとも教育関係大学に於いては試論されてよいと考えるのである。 当初の指導要領は社会科の分野を、 人間の相互関係、 対自然関係、 対社会関係に置いているのである め。 こ の規制の根底に、 現代社会の人間観が横たわっているのである。 その人間観は如何なるものか、 社会科を安易 eedom に轍 入教科と見て、 それはジェームスやデューイ 等のアメリカ哲学を見たらよいと考え、 デューイ が Fr ; : i ) b l l t and Cu ur e 等で示す様に、 現実社会の中に、 プラグマチックな適腫発展を求め基礎構造として oogical ’とかで簡単に済ま してよいものであろうか。 叉この立場から反対や批判が単純 ix を持つ人間存在である4 t r ma に社会科にむけられてよいのであろうか。 此処に私の疑問と課題があるわけである。 この問題に接近して行く方法と して、 私は人間学的な考察を取り上げようと思うのであるが、 社会科の根底 として考えられるものは所謂 「哲 学的人間」 ではない様である。 この語を最初に使用 した人と云われるヤコブ i i ) とを対立せ しめて、 人間学は後者 l kenn t ) と真の人間知 (Mens t n L chenkenn s n s 、 世聞知 (We 6 の立場に於いて可能であると見た ) のであるが、 私は寧ろこの世聞知の対象としての人間学を考えたいのであ 〉 に近いと言える doc i t t r )6 na humanae na る。 それは人間学というょ 似はカスマソが云う所の人間性論 ( ur ae 三 h のであろう。 或はマックス・ シェラ-の人間学についての五分類の中の第 、 人間を omofaber と考える人 ) に於いて見て行くと云ってもよいのである。 この様な立場に於いて果 して人間存在の贋実を煽く事が出 間学7 ・ フ リ ー スは. 来るだろうかという事は、 所謂哲学的人間の立場に於いては問題になると思うのであるが、 少なくとも社会科 が、 近代社会人を予想する場合、 観念論的理論の人間では無いようであり、 叉人間は神とか贋理とかの概念 に 対立する前に行動の場に置かれていると思うのである。 アリストテ レスは人間の形態を身体の地盤の上に建造 された精神の構造と見たというのであるが、 現代社会が上部 構造もさる事乍ら、 その地盤を人間論に於いて、 より問題としているとは云えなかろうか。 この様な立場に於いて人間学を試みようとする事も可能であり、 高 山岩男氏の哲学的人間学と称するものは、 実はこの立場に立つものと見られるのである。 氏は、 我々の homo f aber と しての人間知が理性的原理と同様な普遍性と必然性を持って現実を支配 している事から出発 して、 異色. ある人間学を構成しているのである2) 。 こ. で氏は、 理性以外のもの 中 に豊富な人間性を見出したいと願い 乍ら 「それは単純に反理性的或は無理性のものとして一括 して駁 し去るべきものではない、 それは或は理性が 却って、 そこから輝き出る前理性的の基本的存在であり、 或は理性が却ってそれにより限界を悟得する超理性 ) 的の超越的実在である9 」 とも言っているのである。 ・実存哲学に於ける超越と存在の理論を連想されるものが - 97 -.

(3) . 田. 沢. 疑. あるが、 この様に考える事も確かに可能であろうし、 叉この立場からの人間探求を社会科に於ける人間考察に 甚だ有益であるとも思うのである。 勿論高山氏の場合、 それは、 人間が本質的存在と対立 し、 超越者に直面す る人間の理解にまで、 結局哲学的人間学 にまで、 高められるのであるが、 氏は人間存在を対人存在とし、 更に o ) 」 に見 出そうとする立場は、 人間学 の基本的命題を 「人間を自然環境 に於いて生存する者という根本的命題l こも拘わらず、 正に社会科的人間を駁上げていると言えよう。 社会科とは其の学問的性格の甚だ遠い▽ i i t と言われる教育学者心理学者の一群によって唱道されて来た r 叉アメリカの社会科が、 主として pr og e s s v s のであるが、.その根底に存するデューイ の人間観も現実の経験や実験に根ざすもの 〉様である。 彼は人間存在 i on という実践的課 題の中に捉えてい を自然と文化の間に、 更に人間と人間の間に回復さるべき con・municat i thi l ng と on は ”the making of something common“ で あ る が、 son るのであり、 人間生活の communicat U i ) i i t i t n この omm a o n a を意味 o n 意 味が t のである c u c c については認識論的な や n した は根元的には ac o 。 j 強く附会されているのであるが、 結局それは use であり enoy であって、 直接的な人間生活の事実にひき廃. されるものであり、 観念的なものとはかなりの距離があるのである。 寧ろ homo faber の人間学に近い人間理 解を持つと言えよう。 以上の見地から私は社会科に於ける人間存在について、 シェラ- の第三類の人間学に近い立場から接近 しよ うと試みるわけ である。 そこで規定される人間について更に詳細な分析検討が加えられなければならないので あるが、 煩を避けて、 此処では只一つ homo faber は技術的人間であるという命題を中心に して論究して見た し、o. まず技術的人間は、 物と人間の結合に於いて考え られるのである。 物 は技術を通して人間に意味を持つので あり、 人間は技術を通 して自己の存在を確立し発展するのである。 人間は道具を持つ動物と云われるのである i t ・ e する事を意味 し、 人間はそれを以て更に道具をつくり、 un ca が、 道具とは物が技術を通 して人間に comn i i t 新たなる con ・mun on を生み、 やがて女化に迄到達す るのである。 而 もそれは人間の本来的な在り方に起 ca 2 ) 因するものである。 手が既に最初の道具であったとは、 早くアナクサ ゴラスが喝破した所である1 。 この場合 知性は手と共に新な技術に参加 しているのである。 人間存在に於ける 「知性と技術」 「知る事と行う事」 の本 質的意義に関する古い論争を、 こ で考えて見る必要を私は認めない。 たゞ近代哲学者メーヌ. ド・ ビラソや 3 ) ベルグソン等の結論 「我行う故にあり1 」 を挙げて進もう。. さて、 この事か ら私が抽象したいと 思う事は、 技術とは本質的に人間と外界との関係概念であるという事、 而もそれは、 常に目的意識を持つ 「行う」 とか 「作る」 とかの行動を通 して生れる関係を条件とする観念であ るということである。 更に換言すれば、 技術とは 「関係」 を維持し叉は創 造する事であるという事になろう。 これは今日社会科 で追求される人間の顧 著な一面であると 思う。 此処 ではあくまでも物、 外界を媒介として人 間がその関係領域を拡大し、 生命を遂げんとする行 動が主体となっているのであって、 単に相互依存の関係り という事ではないも のがある。 而も関係そのものと共に関係の場即ち社会も叉重要な問題とな らねばな らない のである。 この様な関係に於いて捉え られる人間は如何なるものであろうか。 私はそれは正に政治的人間であ ると答えたい。 而 も今日の技術は政治に於いてあらゆる分野を包含 し、 そこに於いて探索される人間こそ今日 的人間であると思われるのである。 次に考察したい点は、 技術的人間は物の存在を質的に叉は贋値的に轄模するものであり、 この事によって人 間は自らを拡大する1めという事 である。即ち技術は望まれた膜値の実現の鴬に、 物或は条件に向って発揮される 人間の行動 であり、 叉新たな贋値を創造しっ 継続的に進展することを意味 していると思う。 停滞とは技術な きを意味する。 而も技術の進展は、 その主体即ち人間自身を進展せしめるのである。 進展は贋値と共に時間・ 変化を条件とする。 社会科で教えられねばならぬ技術とは正にこの様なものであろう。 この事から私は次の様 な命題を抽象したいのである。 即ち、 技術的人間とは歴史的人間を意味するという事である。 歴史は人間が単 に頭脳的に理解したり、 条件を静止的に受 容する断に生れるものでは無く、 批判と革新 に立ち向う所に生れる のである。 デューイ は実験主義の人間を 「観想的な享受から行動的な操作と管理への、 静止から連動への、 永 6 ) 」 変化を劃するものであると見て、 ガリ レオに論及 しているのであるが、 遠なる諸対象か ら時間的連続への1 こ でも歴史的人間が捉えられてい るのである。 社会科に於ける人間探求の一方向を暗示していると思う。 - 98 -.

(4) . 社会科における人間の探求 さて以上見て来た様な人間学的な探求は、 現代社会に於ける技術的人間への信頼 人間の勝利と言う様なも 、 のを深い思索なしに予想している様に見える。 特に我々が現行の社会科という教科を通観するとき 技術的 人 、 間、 政治的人間、 歴史的人間教育への殆 ど懐 疑を許さぬ確信を発見するのである。 その確信は或はヒューマニ ティへの確信と言い替えてよいかも知れない。 併し果して此処に何等の懐疑を入れないものであろうか。 近来 実存主義の哲学者達は、 先ずこの技術的文明への懐疑と絶望感から出発している様にも見える 。 この点私の所 論を確かにするためにいささか触れる必要があろう。 ヤスパースは 「私達が新 しいヒューマニズムを探求する 7 のは、 私達自身についての、 即ち、 人間についての憂慮から出発する1 ’ 」 と言っているのであり、 サルトル・ 8 カミュ等も 「絶対の絶望」 とか 「悪意の人1) 」 等々の現代人間に対する歴史的な立場から出発 している。 この 様な人間への懐疑は更に深く、 文明や理性への不信として 前世期末以来特徴的に観察される所である。 而も 、 深い哲学的な思索を通して考究されて来たのである。 併し、 それ等が如何に否定的な論理や言辞に摘されてい るにせよ、 それは新たなる文明への期待であり、 人間がそれに答える技術を持たねばならぬ事を希願するもの であるという事が出来よう。 ヤス パースに於いても結論的には新たなるヒューマニ ズムの可能性を説くのであ って、 「人間存在をその可能性の包越的な枠の中で見極める事が出来れば人間に最後的な絶望を感ずる事はな い」 とも言っているのである。 叉その人間存在の条件を技術的なものと肯定し乍ら、 新 しい人間については、 「凡そ技術的なものに対する内的な態 度が、 即ち自然との交渉に於ける意識の拡大がなくてはならない。 技術 というものの可能性によって自然のうちなる生 き方を萎縮させるのでなく 、 これに依って、 おのれを掘 り下げ 9 ) る様に仕向けるのが私達の任務である」 とも言っているのである1 。 サルトル等に於いても勿論 学績対の絶望 に於ける希望 から、 叉は 悪意の八になろうとする決意に生きる事 によって、 新らしい学問や聾術を創造 0 ) して行こ うというのである2 。 私は是等の八達の結論に到る哲学的思索のあとを省略しても筒おここに、 人道 主義への懐疑の超伏があると言って差支えないと思うのである。 而も是等の人達は政治や歴史の中に人間存在 の意義を発見しようという顕著な傾向性を示 しつ〉理論づけているのであって、 全く特異な哲学に立ち乍ら、 技術を疎外しない現代 人間観の共通性を持 つものと考えるのである。 以上見る所によって、 私は、 homafaber の人間学の立場から、 政治的人間と、 歴史的人間を、 現代社会科 に探求される人間であると見 て行こうとするのである。. (副っ 1) 2 ) 3) 4) 5) 6). o 上田薫 : 厳金科の基本的なねらい、 教育技術、 K.l , 増刊、 P .8 . 1 文部省 : 学習指導要領融会科濡1 p , 、 ,. Dewey: Fr ture eedom and Cul ,chapt . V, 山 元 一郎 : ジョ ソ、 デ ュ ーイ、 そ の思 想 の 根 拠 と現 代、 i b i d N 3 4 0 9 6 0 思想 o p , . . . . i Jakob Fr i l es: Handbuch der psychi schen Anthropo og e . .4 .S .4 . 城戸 幡太郎 ; 哲 学的 人間 学 p i ot l to. Casmann: Psychol ogi a Anthropo og a の人間性は、 身体学、 心理学を意味して、 文化科学的 i R 6 C な も の で は な い が、 F G k l r e s u s . に深く影響 して 十九世紀の人間学に及んでいる。 此 , . c e, ar. 、 処では、 観念論的人間 に対応 する具体的人間を注目するとい ラ、 歴史的始原性に着眼 したのである。. f i t c . 城 戸 幡 太 郎、 op.c .pp ‘ 5-13 .. l 7 ) Max Scheler: Phi osophi l s che We t an s chaung は人間学を宗教的人間学、 理性人の人間学、工作人の 人間学、 敗北者の人間学、 超人の人間学と五分類している。 氏の立場は、 宗教的人間学である。 城戸 i bi d pp ‐49 .48一 .. 8 ) 高山岩男 : 哲学的人間学、 岩波、 昭和13 .時の日本哲学の色が濃い。 . 氏の所論は当 9 ) 高 山 :ibid, p.2. lo ) 高山氏は、 ,氏の 人間学を、 ①存在論に反 対②認識論に反 対③理性人に反 対するものと規定 して、 物的 篠件をも含む、 具体的 人間 を考えている。i i b d .pp .13一22 . i 1 1) John Dewey: Human nature and conduct t , 山 元、 ap ,c . p,954 , i 12) Anaxagoras が 人間 は 手 を 有 す る が 故 に 賢 な り と、 Ar l tot s e es は 賢 な る が 故 に 手 あ り と い い、homo faber と hon i f l 126 os ap enc e の人間論上の解釈論争は今日も残る課題であろラ。 c t .pp . 高山 op .c , 一135 . i 3) Bergson: Lenerglespirtuel 1 l t e .p .23 . 城 戸 ;op .c .p.52 . 14 ) 今日の厳会料批判の主要点の一つである。 岩波講座 : 教育、 日本の学校其他, i i 15) Dewe t i nmun ca onによる人格の拡大に特殊の意義を発見している : The Quest for Certainty yはCo. 9- -9.

(5) . 田. 沢. 巌. i t ;、 OP,c . P.186 .96【 .P .…… 山賃 16) Dewey:ibid. p,92. 山 元、 P,957. i i i i ten e nesneuen Huma n smus: 橋本丈夫氏訳、 理想 chke 17 ) Jaspers: Uber Bedingungen und M6gl 1 no.209 .p . . ires 紙の会見記 l t tera es Li 18) 安井源治 : サルトルとカミュに開く、 理想 no.245, Les nouvel i t pp 19) Jaspers: 橋 本、 op,c .7-8.. i 20) 安井 :op tp.52, ,c 2、・政 治 的 人 間 技術を関係についての概念と把握 したのであるが、 技術を発明や発見、 操作に関連させる狭義の解釈は、 今 日に於いては、 より本質的に社会的関係に対して働き掛ける人間行動の仕方を意味するというよ うに拡大され なければならないと思う。 この段階に於いては技術はより高次に本質的に、 更らにより現実的に理解きれると 思うのである。 而も今日の社会関係に於いて最 も張大なそして根源的な拘束性を持つものは政治なのである。 これに立向う人間の中に技術的人間の員実が見出されると思う。 而も近代の社会構造はあらゆる個人をこの立 場に狩り立てているのであって、 政治的人間はもはや普遍的に人間存在を意味付ける言葉の様に思われるので あ る。. ・. この政治的人間の把握についてはアリス トテ レスが 人間を政治的動物と規定 して以来、 人類史を通 じてあら ゆる現象が関連的に論じられなければならない様 であるが、 私は現代社会に於ける政治的人間について、 只二 つだけ考えて見たいと思う。 一は政治的支配の中にある人間、 即ち権力と人間 の関係 であり、 二は危機に対瞳. せしめられた政治的人間の内面性の問題である。 私は社会科教育の実務者達が最も深い関心を持ち乍ら、 触れ てよいのかどうかすら困惑する問題がこれであると思うのである。 勿論 その結論がたとえ私自身にも不確かな 事柄であるにしても考究しなければならない責任も感ずるわけである。 近代国家論は人間を権威的組織の中に把握する様である。 ジャソ・ポー ダ ソ以来の絹対的主権論は、 秩序体 系の中にある人間理解を強調するものであり、 その後の政治学の華々 しい進歩にも係らず今日に於いても、 こ .の事は現実の人間存在を規定する重要な要因となっているのである 。 この被支配的存在としての人間は、 古く は個人を意味したのであるが今日に於いては人間集団を意味し、 集団支配のルール として権力が考えられて来 たのである。 こ で権力の許にある集団的人間の理解が問題となるのであるが、 まず提起されなければならな ) f l l de t ) の問題である。これは今日に e s s cha r Gegensatz von Staat und Ge いのは 「国家と社会との対立1 」 ( 於いては、 特殊な具体的政治的 な意味を持っているのである。 即ち国家的権力と社会との不調和を予想 し、 そ の調和のための問題解決が内容をなすのである。 この解決が古く 「国家は主観的意志と客観的意志の統一体と ) 」 という様なヘーゲル的な考え方によって奥えられていた して、 現実的 でありまた贋理でなければならない2 事に対して、 近代人 が最早、 現実生活に根を置く技術人として自覚する時、 縞足されないものとなり、 新たな 権力の吟味、 若 しくは抗議的意図を以て提起せざるを得ない問題なのである。 この様な立場を容認し乍ら、 ま ず原理的問題として見て行こう。 近代政治に於ける権力関係を 合理化 しよ うとする一つの立場を、 シュタイ ン に求めて見よう。 氏は社会について日く 「…人間生活の、 この有機的統一体、 財貨の分配によって制約され労 ● 働の有機的組織によ って規別 きれ、 欲求 の体系に上って運動の状態におかれ、 そ して家族とその権利によって i l l l t ) d i schaf lensch che Gese en 一定の人間瞳扇にま で永続的に結びついている、 この有機体これ が人間社会 ( では、 現在社会が、 財貨生活の秩序が、 人間とその活動の秩序となるという homo faberの 人 dasl t ) であるとも言い、 結局に n e r e e 間観を避ける事なく認容 し乍ら、 而もその社会の運動の原理は利益 ( s s である3)」 こ. 於いて、 それは所有階級と非所有階級との、 階級対立と して現象するのであって、 社会は不断の利盗の対立に ・しかし氏の所論によれば、 かるが故にこそ止との調和のため よって不調和 であるとも言っているのである。 …・ 請として国家がなければならぬのであって に社会の要 、 「国家は意志と行罵と してその人格の中にあらわれる ) 共同体 である4 」 と見るのである。 確かにこ で調和の理論が窺われるのであるが、 本来国家的権力と、 人間 の意志は、 人間社会の秩序の原理と しては対立するのである。 この対立を前提として、 人間の共同体が実現さ ) 」 と見るのである。 この様な考え方の中に近代 れ 「諸国民のす べての内面的歴史の員実の内容が形成される斤 人とは国家と社会・権力と利益、 の何れの一方も絶対的優位の地位におくことなく、 その対立的調和の中に八. 一 100-.

(6) . 社会科における人間の探求 間が共同体として、 自己を完成して行くものであるという人間認識があるという事は見遁 し得ない。 この様な 人間観が社会科に於ける政治的人間としてかなり多数の教育者の脳裏にある様に見受けられ るのである。 併し 学者はシュタイ ンは断詮保守改良主義であり、 倫理的理念、 或は人格的自由の体現と して、 国家の理念を社会 ) に上位せしめて考える ドイ ツ観念論の国家観を出てないと評するのでありG 、 更らに国家の優位から社会との 均衡をめざす国家理論を展開するのである。 その方向は社会が国家に対して自主性を確立し、 国家を社会の一 形態としてのみ存在せしめるという行 き方である。 それは国家につい ての倫理的理念を喪失せ しめて 単なる 、 制度的存在た らしめる方向なのである。 現実的には市民社会とその構成員たる個人に一切の秩序原理が帰着す る事になり、 社会の自然的な存在法則が運用される保証機構としてのみ権力機構が意味を持つことになるの で ある。 従ってそれは、 飽くまでも合目的性、 計算性、 合理性が核 心となるのである7)。 この立場 にあっては、 国家は法的機能の担当者として、 機械的に、 技術的に社会に利用されるものとなるの である。 こ}では人間は自己に対立する権力を全く自己のために利用運営するのであるが 問題は 人間が自己を 、 如何なるものと規定してこれを利用せんとす るかにか っ て 来 る の であ る。 シュ タイ ンの 言 うlnteresse を原理 とした人間規制から市民社会、 市民国家の特質が生れる様である。 併し 一般的にその原理は社会の主体的な 、 選択にかつて来るのであって、 只に経済国家 (Wi f t t t t r ) のみならず、 文化国家 (Ku l s cha t s aa t t ) 縄諺国 ur s aa i i t t ) の形態も可能であり、 そこでは文化的贋値や幸縞が人間存在を規制する根本的原理となる 家 (F r s or aa s ge わけである。 この様に多元的に可能な社会が、 政治的権力機構を一元的に把握するものとするならば 或は擾 、. 頭期の資本主義下の絶対主義国家、 或は観念論的理念国家に逆鈍する危険も一方に存在するであろう 我々の 。. 社 会科が、 文化国家を単純に教え込む事の如何に細りないものであったかも関連的に聯想される所である こ 。 の場合、 権力との関係に於ける政治的人間の自己規定が先ず要求されねばならないのである 。 兎もあれ近代の 社会優位の国家論が多元主義国家への危険を含む事は否み得ない様 である。 ト←マスは是を許して日く それ 、 は 「一元主義の危険と専制主義への変質をま ぬがれるために、 多元主義の危機と国家権力の繍庫を買いとる 8)」 ものであると。 而も、 近代社会はこの様な危険を冒 しつ し、 力←ル,シュミッ 、 国家に対する優位性を獲得, ● トの言う 「国家は社会の自己組織となり、 社会自体が国家となり 国家と社会が原理的に同一になる9)」 段階 、 につき進んで行くのである。 この場合、 社会的成員たる人間が、 全く政治的人間として主体的立場を確立した 事になるのであろうか。 先ず投ぜられる疑問は、 現実の社会が果して、 斉一な そして一元的な権威機構に移 、 行 し得る様態にあるであろうかという事である。 労働組合や 経営者団体或は生産者や消費者の組合 さては 、 、 文化やスポーツの団体等一切の考え得る社会的結合が、 各権威関係、 政治関係に同等の発言を行い それ自体 、 が政 治化し得るとするならば、 正にトーマの指摘する様に多元主義の危機と国家の減坤が起るのであろう 更 。 に叉、 各社会に於ける個人が、 この様な立場で政治的人間として自己確立を逸げ得るとするならば 、 逆説的に 人間の政治的存在を喪失せしめると言い得るのではなかろうか。 国家権力に対する社会の従属は否定されなければならないにもかかわらず、 社会の優 位が多元主義の危機を 含むとすれば、 現代の政治的人間は一体如何にあるべきものなのであろうか。 現実の場合は 社会と個人の生 、 , の を要望しっ 権力の体系の中にあると言わなければなりますまい それは社会 乃至人間が権威 存への配慮1 機 。 構に、 自同化する事への要求 では無く、 権力の社会や人間の生存のための支配空間の減少への要求であり や 、 が て自らの発 意に基く、 自己支配の権威を創造する所にまで遮るものと考えるのである 。 併し歴史的に現われ た生存への顧慮は、 一は自由への獲得 一は旧権力の敗退と言う形で見られるのであり 近年特に権力の支配 , 、 室間は減少し、 自由の意識は拡大せられて来た事は顕著である。 併し他方 その減少された支配力の有効室間 、 f f ive Ra (e ekt um) が甚Lく拡大された事も現実である。 これを資本主義社会を分析して理 論づけることも必. 要ではあろぅが、 こ では避けて、 この様な現実に生きる人間が筒お政治的人間と して主張する断は何かを考 えたい。 勿論それは、 「支配塞間の減少」 であり、 その 「有効塞間の減少」 である。 それは 「自由の嬰“ ≧ 」と いう事でもあるが、 私は哲学的人間学の課題としてでは無く、 人間を政治的 存在と見る技術論的な面からこれ を考えて行こう。 この様な立場から自由は 「現代文明において個人的幸幅の必要な保証たる社会的諸条件の存在に対する拘束 のないこと」 であると、 ハロル ド・ラスキ教授はいうので ある”) 。 自由を精神上の問 題と見る事もさる事乍ら 1- -lo ,.

(7) . 田. 沢. 巌. 私はこの 「幸縞に必要な保証たる社会的諸条件」 に着目する断に如何にも人間を政治的人間と見る現代の人 間 観に根ざす自由論であると共感するのである。 この事を度外脱 しては今日の社会科に於ける、 人間教育はその 最も主要な軸を失うものになると思うのである。 この様な自由論は甚だ しく現実主義的であって、 観念的な 理. 想主義の立場には」 それが如何に政治的に技術化されたものであっても、 明らかに対立的な立場をとるのであ s enc e ofrestraint)で は な る。 ラスキは、 ボザソケの理想主義的な所論 「自由 の本質は単なる拘束の欠如 ( ab 及個人に存在意味を附興す i i f …… したがって団体 d l t t ) に求められる ‐ e e r m n a o n くて、 積極的な自己決定 ( s e 。 2 〉 」 という見解に対 して、 そ る最高の全包括的普遍者たる国家の強制への服従のなかに個人の自由は発 現する1 の根底をなす理念論的立場を駁し 「理想主義国家論は少く とも最もす ぐれたる近代的公理としては、 醍念と現 実についての本質的問題を満足の行く様に解決してはいない。 なぜならばその論ずる国家は単に観念の上に止 り……たゞその行篇を判断する手段規矩に過ぎないものである。 こうしたものとして、 それは現実世界の政治 8 ) 的義務の問題を解決するものではない1 」 と言い、 自由はもっと政治的具体性 の中に捉えられ、 現実的支配機 構との関連において、 論ぜられるべきであるとなすのである。 この二つの議論の根底に、 対立する二つの人間 観が横たわっている事は勿論である。 ポザソケに於いては人間を個人として捉えるのでは無く、 個人の現実意 l l f a l l lwi l l )とか社会的道徳人 (mor ) から区別せられる贋意志 ( e 志( l wi ) 即ち共同我 (commons t r ea ac ua r s on) とかに基礎を求めているのである。 而も是等の概念はやがて国家意志に合致せしめられるのであるo pe こ では勿論国家という権力機構と贋我とは完全に一つであって、 そこには個人叉 は社会として、 これに対立 する存在は本質的にはあり得ず、 個我の拡大が国家であり、 国家の縮少が個我であるわけである。 こ には先 に見た、 自同化による政治的人間の自己喪失があると言えるのではなかろうか。 是に対して、 ラスキの人間観. は国家権力と相互否定的機能を持つ人格を考え、 その共通欲求充足のために合目的、 合理的な Association と 4 ) して、 国家は存在すると考えるのである1 。 叉人格に就いても抽 象的な人間存在論を取らず、 具体的な欲望の 総合体としての個人を考えているのである。 而もこれは素朴な唯物論的人間 観であるのではなく、 現代社会に 生きている具体的な人間把握であって、 一両氏にはヒューマニ ズムの基本的な底流のある事 を我々は読みとる 事が出来るのである。 ・従って氏の人間観には、 欲望と人格の自由 と国家機構とを抽とする活動的な政治的人間 があらわれて来るのである。 氏の説く人格とは、 如何なる意志にも本質的に不統 合であり、 究極的な独自性若 ima i l t くは孤立性 (U1 t t ei s o a on) を保持するものである。 而もそれは共同の目的のためには一つの 「全人格」 5 )であるとも説明され l i l fimpu l bund l ) となって活動するもの1 ( e a tota persona ty) と して 「衝動の束」( s eo るのである。 これによって、 自由の保証、 自己実現のための権利の体系を打ち立てんとする政治的人間の本質 を明らかにするわけである。 私はこの理論から次の様な事を考察するのである。 即ち近代の政治的人間は、 集団的存在と して権力に対立 し、 これを社会の優位に於いて克服すると共に、 多元論の矛盾に祐着せざるを得なかった。 この矛盾をラスキ は更らに個としての政治的人格を吟味 し、 その独 白性を確保 しっ>権利の体 系に結束せしめる事によって 解決 しようと試みて居るのであると。 若 し然りとするならば、 個人として確 立される政治的人間こそ今日的個人の 姿であるとも言い得るであろう。 個人の人間存在に沈潜する実存哲学者が政治に示す深い関心も此の点では相 通ずるものがあり、 共に個としての政治的人間の主体性を離れては国家も社会も存し得ないとの自覚に立つも の}様である。 併 しラスキに於いてもこの個的存在と権利体系を生み出す全的存在は、 困難な論点を残すのであって、 批判 も峻烈なのである。 而も問お私は我国の社会科に於ける人間理解として学ぶ所多いと信ずるので更らに触れて 見たい。 氏はあくまで政治的人間の主体性に立って、 国家や政治を考え、 社会の一般的意志の様な外在的存在 l ofs i l t ) の行使であるという主張 l wi を拒否 している。 「国家の行島は究極に於いて社会の贋実意志( e r oc ea y f i t e l l ではなく して、 相互に孤立的なs r epa a は我々の遭遇す る日常的経験に矛盾する。 国家の意志は uni ed wi l が目的の同ー性に導かれてなす所の種々なる程度に於ける結合であり 個人意志相互の間には それが機 l wi 、 、. 能するに当っての目的の統一性はあり得ても、 意志そのもの 同一性はあり得なし-….国家の意志とは被支配 R ) 者たる市民によって是認されたる政府の意志に外ならないI 」 こふに権威機構に主体 的立場を確立する政治的 個人の意味が強調されているのを見るのであるが、 我々が基本的人権を説き乍ら、 全体的意志について甚だ慶 一102一.

(8) . 社会科における人間の探求 味な判断 を持つことも反省させられるわけである。 氏によれば人間はあくま で人間 として何よりも尊重きれな 7 ) i ければならないのである。 従って国家は・「 thelevelat which men areto l ve as men1 」 の確立に向って その機能を発揮す べきものとなるのである。 その内容として考えられなければならない同一目的については、 消費者の制慾、 市民としての利盆, それなく しては各人が最善の自己たる事の出来ない社会生 活の諸条件たる 8 i ) 諸権利の体系 ( t ) の確立の三つが挙げら れるのである1 em ofr s s s ght y 。 こ }に言う ,国家的結合の媒介と し d ての目的の同一性に対して、 ラスキ が c ommon nee として、 所輿的な客観的同一性を考えた事には、 批判さ れる断も あり、 それは寧ろ、 灘得 さ● るべきものと解すべきものの様である。 少くとも我国での経験は この三 、 つの目的が権力的支配を通 して現実化される過程を予想するとき、 異質的な諸利益と して 社会的共存関係の 、 中 で、 int egrat e されるには、 社会集団の抗争を待たねばならぬ様である。 これに立向う人間をラスキは勿論. 「煽動の束」 の概念の中に指摘も しているのである し、 叉此処に多元的国家論から階級的国家への麹機があっ たとも説明される“) のである。 ラスキの目的の同一性と孤立的人間の理論関係には政治学的に多くの弱点を持 同様の困難は今日の我々の社会科にも残されていると思うのである。 併し それにも拘わらず最 、 。氏 が前大戦以来、 ヨーロッパの政治や、 敗戦後の日本にさえ示 した政治的関心2 0 ) の深さは我々社会科を学び教え つ様であり. tual に政治と人間を考察 し、 現実的な政治秩序の創造に活力を輿えるものと して注目したいのである も ac. るものに人間存在の虞意を示唆する所大であると思うのである。 我が国に於いて早く 河合栄治郎 中村重 、 、 、 長谷川如是閑等の学者によって紹介された ラスキの多元的国家論 (P 1 l i r u a sm) が今日どの様 に批判されるかは 一蹴置いて、 今 日再び活綾に論じられている事の中に 政治的な Ac t l men が探求されねばな ua ・らぬ時代性を 、 感ずるわけである。 それは過去の政治家達が個人と して無覗し得る量 (Quan iggab i l t t enegl e) に 過 ぎ な か っ た 政治的人間が、 政治的人間の集団として増量されて具体的力となった今日 正につきとめられなければならぬ 、 人間の実態探求であり、 デモクラ ットの人間論的理論づけという様な抽象性を越えた具体的な時代相を示すも のであろう。 以上の様 に見て来ると今日の政治的人間は直ちに 、 政治の実際に技術的な係合を持つ存在にな って来るので ある。 それは政治の革新や維持についての行動を期待する事であり ラスキに於いても当然論じられねばなら 、 ない問題であった。 氏の 「同意による革命」 はその 「現代革命の考察2 1 ) に於ける重要な提唱になっているので ある。 政治的人間としての 各人が c ommon need を自覚する所に同意の革命があるわけであるが それは旧 、 来の革命という用語にはふさわしくなく、 寧ろ革新と呼ばれるものであって 、 ここに氏の革命論の不徹底さが あると評さえ てもいるが、 現象的に異 質的な利益社会の対立を否定し得ざる現代社会に於いて 、 この対立抗争 を経て更らに integrate さ れ た common need に到達するものとすれば 革命と呼んでよい過程 が生起するで 、 あろう。 我々はこの様な言葉には馴れないのであるが、 氏の 「同意の革命」 には 更らに建設的な意味があり 、 而もその根底にある人間理解が、 前述の様に現実社会に於 ける生活主体として 叉権利の体系の創造者として 、 の人間理解であるとすれば、 社会改良料でなければならぬと言われる我々の社会 科教育に於いて この種の改 、 良的人間、 革命的人間の意味するものを把握する事は必要であろう。 ′ こ で私は、 実在哲学者達の顕著な関心事 である 1 ′ homme r 6vo i i l t homme r ona r u eを聯想 e と か、 1 l t evo ・ するものである。 それは私にとっては殆ど踏み込難い哲学的思索の世界からの提唱の様に見 られるのであるが. 確かに廿世紀文明の不安や危機感乃至は虚無思想を通して、 政治や革命に係わる具体的人間に思索の基調があ ると読み取れるのである。 「人間とは己れが決意する所のもの以外の何ものでもなく 己れ自身が実現する限 、 りに於いてのみ実存し、 その故に己れの行動の総計以外の何ものでもなく、 己れの生である所のもの以外の何 ものでもなし-…・如, 何なる実在性も行動の中以外にはない」 というのが、 サルトルが革命的人間を論ずる場合 2 ) の人間に対する基本的な理解である2 。 この具体的行動の実存の人が政治的人間となる断に革命的人間が生れ その主著の題名ともなるのである。 サルトルの意味す る革命とは 「諸制度の変化が所有制度の深い変革を伴う 3 )にあると説明されるの であって 所2 、 人間を現実の政治の場に置き、 社会制度を技術的に問題とする行動人と して捉えていると言えよう。 併しこの革命的人間は必ずしもラスキの様に人格の総合とか 大衆的な意味では 、 捉えられ● ていない様である。 氏の 「革命者は己が置かれている状況の′総越によって特質づけられる“) 」 の であ って、 一般の被抑圧者が、 例え革命の歌況内 ( i i t t ens ua on)にあったとしても、 彼等がその状況を将来に向って -103-.

(9) . 田. 沢. 巌. ま、 アメリカ黒人やイ スラエルの被抑圧者の様に革命的人間にはなり得ないのである。 超えて行くのでなげれも j ) t i dgvo l e o nt )する認識の冷徹さと、将来に向って一切を企投(Pr ・ n e この点から氏の革命的人 間は現実を剥被 ( する行動性を条件とするのである。 革命の獣況内に存在する限りでは革命的人間ではないのであって、 たとえ それは、 観想的にではなく実践行動の中で行われるにせよ、 超越は必須の条件 であり、 この点 でマルキシズム l ranscendance)で あ る2め と 言 e del at osphi の革命論とは異るとし、 自らの革命の哲学は超越 の哲学 (une phi うのである。 一面氏は労働者の革命的意義を分 析強調するのであるが、 実存哲学者としての持つ限界を踏み切 6 ) らない限りそこに革命の哲学を貫く事は困難 の様である2 。 私は今日の現実を、 深い哲学的沈潜から具体的に. 把握 しようとする事が、 哲学的に どの様な困難に追い遣るものであるかは関知しないが、 内なる人間の本質的 な存在が政治や革命にか わるものと して、 捉え られる所に、 意義を発見したいと思うのである。 確に超越に よって特質付けられる サルトルの革命的人間は、 ラスキが政治学的考察から人間を、 現代政治に対して等質的 に働きかける政治的独自の人格と考えた立場とは異るもの である事を感ずるのである。 而も現代社会に贋の政 治的活動的人間として生きる事の遇 しさは、 前者に著 しいものがある様に思われるのである。 それは革命的人 間を内面的に捉える事の強さであるかも知れない。 或は現実剥被という徹底的な現実の贋相暴露と明日へ企図 する事の激しさから来るものかも知れない。 我々は社会科における人間を探求するに当りこの様な人 間観にも 無関心では有り得ないであろう。 ′ hommerevol te は叉更 サルトルの革命的人間に比 べて更に多く政治や革命に関聯するかに見えるカミュの 1 らに内面的な人間認識である,様である。 氏の反抗とは次の様に説明される 「反抗は単なる否定では ・なく、 何も のかのための反抗であり、 それ自身の中にある値値を前提と しており、 且つその贋値のた めに反抗する事は同 7 ) 時に他人のために反抗する事であり2 」 、 その反抗は形而上学的反抗と、 歴史的反抗の二方向に展開するのであ る。 その基礎理論と して、 現代女明に於いて, 顧られなかった所の 「不条理」 なるものへ情熱的な理論があるの である。 それはニヒリズムを通過して、 希望や善を認識する事であり、 不条理の意識を尊重する事は生命を贋 値とする事であると考えるのである。 不条理の体験は集団的な反抗の思想に、 人を導き、 不条選の形而上学的. 意識は現実の不条理に抗して、 償値を建設する歴史的行動に移行し、 それによって人間存在が確立すると見、 8 ) が導き出されて来るのである。 その哲学については勿論批判も多い様 「我反抗す、 故に我あり」 という命題2 である。 或は、 反抗対革命を形而上学的対立に置きかえて観念界に遊離 しているとか (ジャ ソソソ) 歴史から 9 ) 等々、 その何れもが 蹴落してい るとか (サルトル) その純粋性は古典的浪漫主義に過ぎないとか (ベガソ)2 カミュの弱点を衝いているのであろう。 私もこの特異な理論に寧ろ、 現代人間論の動揺と奇矯なるものを感じ ないではない し、 叉一方氏の反抗 が将来のために現在を犠牲にして顧みない権力政治に対する抗議に一貫 し乍 らも、 その問 題点はこの様な権力を 「是認する思想」 と、 それに 「反抗する思想」 に置かれて居る事な どは甚 しく内面的、 主観的な感がして、 物足りぬとも思うのである。 勿論氏の反抗的人間は私が考えて来た技術的、 政治的人間とは距離がある様である。 現代人は好むと好まざるとに拘わらず、 政治の場に置いて自己を確 立し、 幸編を追求せざるを得ない。 それ は一面に於いてラスキに見られる様な経験的 ヒューマニズムに立って、 技術的に政治に関連する具体的行動を 呼び起すと同時に、 他方、 社会の革新や革命を考える時に実存哲学に引かれるものを持つのであるo 而も後者 は一方ではマルキシズムの革命論とも関連して、 現代人をとらえている様でもある。 それは現代の政治的人間 がその本源的な理論を求めつ ある事であり、 而もその本質探求を大陸哲学に期待している事であるとも見ら れる。 ともあれ両者とも、 その究極に於いて問題とする所は革命の人である所に、 今日的な意味があり、 明日 に蓮る人間の率閥が権力との関連に於いて捉えられる事実に注目すべきであると思うのである。 曾って、 社会 と権力の対立として出発した人間の政治的在り方への追求が、 ラスキに於いては 「独自的人格」 として、 サル トルに於いて 「己れ自ら決 意するもの」 として、 カミュに於いては 「個人的な 不条理の体験者」 として、 直接 ′ 生活体としての人間に就いて政治的人間の本質が探求 され、 それが、 common need、 1honlme revolution、 ′ hon 1 te 等の考察を媒介として、 社会的行動集団として政治に技術的関連性を持って行く人間が説か lmerevol. れているのが、 今日の政治的社会人のあり様であるといえるのではなかろぅか。 基本的人権を軸として育て上 げられなければならない社会科の人間論も此処から学ぶべきものが多大であると思 うのである。 現代の幸編へ -104-.

(10) . 社会科における人間の探求 の倫理もこ. から滴輝されると確信するのである。. (誉め 1) 近代国論第二部、 長浜政瀞 : 国家機能の分化と集中、 p .50 . 2) 長浜政詩 : 構成としての政治思惟、 知慧 No.lo . p.3 . f fder Gese 3 l l ) Lorenz von Stein: Der Begri t und di t schaf e Gese ze ihrer Bewe gung (五十嵐豊作 訳 P.60. 4) ibid p.49. , 5) ibid p.74. 54 6) 長浜 op.ci t . p,. . 7) ibid p.56. i 8) Richard Thoma: Die Funkt b i l dp t onen der St aat sgewa ,i .58 . i fas i 9 t t: Der Hi t dp b er der Ver ) Carlschmi sung . .58 ,i f がこの語を用いたのは 権力の譲歩を意味した 長浜r o) Forsthof i i b i d p.63. 、 、 11) Laski: Liberty inヒhe modern state.; 横 越 英 一、 ハ ロ ル ド、 ラ ス キ ー 研 究、 p.54 . l i 12) B. Bosanquet: Phi b i d pp osoph ta t caltheory ofthe s e .i , .40一41 i id p b 13 ) Laski: Thestatein theory and pract ce p .56 .i .42. 14) 富田容甫 : ラスキの自由理論 pp.117-8. 15) ラスキに於ける結束の基本理 念先験的共通意志と独自的自由の問題は驚くべきパラドックスであると t 論難されている。 横越 op.ci .p .79 . 尾 形 典 男 : 近 代 国 家 と 政 治的 自 由、 pp.49 .98一108 . i i i b t 16) Laski: A Grammar of Pol d pp.ー00-lol cs pp .30-33 . 富田 i . 17 ) Laski:ibid p.70. 富 田、 p.135. b i d pp 5 18) Cf .i .70一9 . 日高、 横越訳、 政治学大綱二章 19 横越 ラスキに於ける多元的国家論 : ) Cf . .40一43 . 、 pp 20) 鈴木安薮: ラスキ 「近代に方 やける自由」 の諸問題、 四 ・ 五節 21 ime ) Laski: Renecti。nson therevolution 。f ourt , 笠原美子訳 22) 原桁: 実存哲学に於ける政治意識の問題 : 理想 258, p.29. i l tuat 23 i osophi ons l e del ) Sartre: Si t ar evo on: 斎藤信治、 サルトルに於ける革命的人 u .皿 . La phi 間。 思想 358, p.34 . 24) Sartre:ibid p. 179 . 斎 藤、 pp .34一35 . 25) ibid p.35. 26 ) ibid p.41. 27 餅作 : カミュ、 サルトル論争、 理想 245.p.3. ) 失内原・ ′Hommerevo e l b i 8) Can・us:1 t d p.3-4 2 .36 ,p . 矢 内 原、 i . 2 9) Cf . 岩瀬孝訳、 ベガソ; 反抗と幸編。 3、 歴 史 的.人 間 私は前節に於いて政治的人間に就いて考えて見たのであるが、 それは常に現代を意識して 私の社会科を教 、 えるものとしての現実の立場から現在に生きる人間について学ぼうとするもの である。 現在とは未来を媒介と する過程性を本質とするのである。 過去を媒介とするとき現在は、 結果乃至は終結と して自ら過去に属する事 になろぅが、 未来を契機として媒介されるときには、 未来への傾向として叉は手続としてその過程性を明 らか ) にする1 s chehen) である。 歴史的存在とは成りつ}ある (werden) 事でなけれ 。 歴史とは生起し行く事 (ge ばならない。 歴史意識とは観想的に過去と未来を考察する事によって得られる事ではなく、 行動体と しての人 間の実践の中にのみ体得されるのである。 ラスキに於いても、 実存哲学者に於いても人間はかく の如きものと して捉えられて居るのである。 正にそれは歴史的人間の把握であるという事ができる。 ラスキは 「政治哲学の ) 基盤は本来歴史哲学である2 」 というのであるが、 私が考える歴史的人間とは 政治的人間そのものの他の一面 を意味しているのである。 この歴史的人間を私は前節同様に技術的人間論 から考察して見たいのである。 それは現在を過程性、 手続性 に於いて把握することから出発するのである。 技術とか技舗と呼ばれるものは、 自己の立場を問題とし 恒に 、 用心深く批判し乍ら次の行篇を発見する事であり、 その発見が生活 力の実現となるものを意味する3 ) 。 とする 」 を以て次の段階を創造するという歴史的発 ならば、 技術は人に新たな自己認識とそこから生れる目的必然性4 -105-.

(11) . L田. ,沢. 巌. ) と名付け 展的概念 であると言い得ると思う。 この事はベル ンハイムが近代の歴史学を発展或は発生の歴史学5 その発展ともも. 二つの作用が相関嚇しつ. 存在することであると言う場合の歴史と相通ずるものがあるのであ. f r の立場か l abe り、 また過程性を内容とする歴史理解にも通ずるものである。 これが私の歴史的人間を 1 omo. ら 技術を以て過程を結ぶもの として理解せんとする所以である。 歴史性を過程性と理解する時に先ず問題になるのは、 人間存在の連続性である。 ニーチェやカミュ等によっ ) の であるが、 それには叉別な 意義が存するとして、 て歴史の連続を切断することの現代的意義が強調される6 i i 先ず歴史的 人間の連続性が吟味されなければならないであろう。 私は先に、 デュ←イのcon t ・mun a on に学び c 乍ら技術の歴史性に触れたのであるが、 こ でも叉デューイ に学ぶ断が多いと思う。 氏は経験的実験主義の哲 学から存在論に関聯 して論 じているのであるが、 生存について 「生きるという事は、 そこに於いて先行行罵が } imt i ty off t を生み出す事を意味する7 t 」 と説明する ac 後続行馬生起の諸条件を準備する様な connec ed cont のである。 連続性を人間存在の本質的要件として強調 しているものと思われる。 勿論この連続性は氏の哲学に 於ける中心的概念の一つであり、 その哲学が自覚的に主張 した人間存在の基礎構造でもある。 それは次の様に i i ) という概念 は必ず しも自明ではない、 その意味は一面に於いて完鵠 t t 説明される 「連続性 ( nu c on 全な切断 y ・ を他面に於いて同 ー性の単なる反覆を拒否する。 高級なものを下級なものに換算する事を許さぬと共に、 完鵠 全 粉 な遮断や裂溝を許さぬ、 膝種から成体に到る有機体の生長と発展が連続性の意味を説明 しているであろう 」私 はこの説明をそのま 歴史論に妥当すると思うのである。 歴史の反覆、 歴史の断続等言い古された課題にデュ ーイ はこふで明快に答えていると思うのである。 氏は之を、 存在と記号と行動、』樹生と経験、 普遍と異体等々 の関係を説く哲学的概念として提起するのであるが、 叉 人間と人間、 過去、 現在また歴史の起原に及んで説き ) i lcontekt すふめられる原理にもなっているのであるq e r a 。 従って人間存在は確実に連続的関連の中に、即ちs の中に完成する事になるのである。 デューイ に於いて、 歴史と歴史的人間の連続性 は同時的に説明 されている と 思われるのであるが、 是を歴史家の理論に求めるならば、 セノポルの継続現象 ( i f ssucc es s phgnomきne. シ. i bar ュペ ソグラーの不回帰性 ( t ) ア ソ. n リ・ベルの歴史の綜合 (Lasynthete en histoire) 等 々、 そ umkehr ch れは殆ど自明の贋理であるかの様に数多いのである。 併しその根底をなす人間観は必ずしも同様ではないので ある。 デューイ は論理的贋値を含めて人間一般 に妥当す べき普遍的憤値を論 じているが、 こふに人間観が更ら によく窺われると思う。 「より効率的な行動系列の実験的展開そのものが贋値である。 確実なる善のある断、 o ) そこに、 常に行動への刺戟があるl 」 という言葉の中に、 氏が行動に於いて人間を捉え、 善とは、 より多くの t を持つ行動 t より多く行動の系列を展開 し得る行動であると見ていることが知られるのである。 その n e o x c 、 行動は当然より高度の技 術的確実性と組織的企劃性に繁るも′ のでなければならない。 正に技術的人間として捉 えられていると言得ないだろうか。 この技術的人間が行動能力を一定の社会状況 下に於 いて実験的に育成する ことの理論として氏の教育学も存在するのである。 氏の連続性の人間は歴史的人間であり、 社会的技術の人間 であると私が理解するのは無理であろうか。 否私はこの様な人間こそ社会科という具体的教科の中 で捉えてい なければならないと思うのである。 然らば、 」方歴史の断絶にこそ人間存在の贋実が把握されるという考え方は意味のないものであろうか。 ニ ーチェは歴史的教養は 「一種の生れつきの白髪 生であるIP」 と朔笑うのである。 そこには只昔語があるだけで 何等の生命的なるものを喚起する事の出来ない老頗性 だけが残るという事である。 その根底に生命の哲学があ り、 氏にとって 歴史は生命性を持たねばならず、 観想的な歴史は正 に断切る べきものであり、 寧ろ自己が未来 に生き得るためには過去は積極的に破壊 し、 過去の集 積たる現在も叉克服 しようとする意識こそ何よりも肝要 2 ’ という事らしいのである。 この考え方は私 であり、 こうしてこそ虞実の歴史家のいう批判的歴史がはじまる1 が歴史意識を行動的実践的意識として、 その故に最も現在的であると考える事と矛盾しているとは思われない のである。 この場合歴史の切断そのものも叉歴史的であると張弁 したいのである。 併したゞこの場合、 その生 命を歴史的連続の中に考えるの でなく、 本来新興的な現存として、 超歴史な存在であると見るならば、 その抽 象性には反対せざるを得ない。 歴史的人間は歴史の中に創造的に過程性を荷う個人として生命を持ち、 それが 独自性を保ち乍ら未来を契機として集団叉は 社会として生きる力になると見るのが政治的人間に於いても強調 した所である。 人間乃至生命を抽象的に把握する歴史学に就いてクロ←チェは言う 「彼は個体を抽象に墜す事 -106-.

(12) . 社会科における人間の探求 によって、 これを不合理な非人間的なものにしてしまった。 その抽象性に於いて、 その他の個的原因と異る所 8 のない自然的原因に到達する。 ……それは人間主義と して出発 して分離した筈の自然主義に還ってしまう1 )事 4 である」 と。 歴史とは具体的生命 によって 「生き直す事な しには把握出来ない1 ) 」 として、 個的生命の具体性 を強調するクローチェにとって、 抽象的 生命の哲学に立つ歴史が、 自然主義或は十九世紀歴史主義の有機体説 ・ i l ( ) 等と共に、 具体を擬装する抽象と映 じたであろう事は肯かれるのである。 勿論ニーチェの立場 or og e gano にこの批判が妥当かどうかは評論す る必要があろう が坊) 、 生命の哲学による歴史の切断の理念の略奔の一つが こ. で批判されているとは言い得るであろう。 こ私は生命の実存からなされるカミュの歴史的反抗を聯想す るのである。 更らむ. 「現代に於いて実際に吾人を. 貧欲にむさぼり食っている怪物の一つ、 歴史の偶像的崇拝を告発する」 とか、 「か〉る絶対的歴史主義独裁的 全体主義こそ人間の抹殺である」 とか、 「歴史の内に自己完成すべき運命を担って在り乍ら歴史そのもの囚虜 となる人間」 とか、 カミュ←の反抗的人間には歴史に対する悪罵と呪が満ちているのである。 これに対 してサ ルトルは厳しく批判する 「単に人間という観念を救うために戦うことは、 必ず しも人間を本当に救い、 生命を ト側から襲って来る暴 員に擁護する事になるとは限らない。 自らを歴史のタ トに位置 しつ 、 自己を守るためにタ ・歴 力に抵抗する事はナチスに対する場合正しかったけれ ども今日は事膚が異る」 「つまり力ミューはそれまで G 〉 史の外で小島の縛りに耳を傾けていたのであるI 」 。 その他の学者によっても、 カミュの歴史的反抗は、 その形 而上学的反抗よりは遥かに激しく論難されている所である。 併し果してカミュは歴史的なるものを否定 し、 歴 史を切断する人間を確立し得ているのであろうか。 贋実は寧ろその逆の様である。 カミュがその理論に於いて 歴史を無硯しようとするのは、 歴史の中に 「形而上学的反抗の論理的帰結、 解明、 変る事のない諸 命題を見出 7 ) からであって、 そこで彼は反抗の純粋性、 無垢性という理論を確立せんとするもの 様 す」 事に重点を置く1 である。 歴史的経験の教える所には、 殺人無き歴史は存在 しない。 それは否定されなければな らないものであ る。 彼は一切の革命の歴史を否定する。 それは彼の 「不条理」 の意識から正当に導かれる結論である。 併 し、 彼は其処に止まっているのではない様である。 如何に彼が思想と理論の問題であると抗弁してもジヤソソソが s ) 言っている様にカミュは 「思想を問題にするという形で現実を問題にせざるを得ないl 」 のであり、 そこでは 暴力の世界に対して、 永遠の贋実に連る力、 即ち、 「永遠を語る哲学」 のみが非暴力を守り得ると言い、 「神 け ) の薦めにのみ在る歴史1 」 について語ら ざるを得ないのである。 それは一つの天使主義であり、 彼の云う 「正 午の光」 n場光の思想」 なのである。 そこで人間は 「愛他的個人」 として虞の反抗により歴史の担い手となり i i i da i l l t ) 人間が連帯的 ( ) 人間と して、 その存在を確立するわけである。 これが反抗の r e 而も孤独な ( o o r e s a s 理論によって貫かれた彼の反歴史意識の行方であって、 被自身歴史から退脱 しているとは思いもよらず 「われ 0 ) われは歴史の中に入った2 」 と言い、 不条理の個人的体験が反抗という歴史的行動に轄化する事を示すのであ る。 彼に於いても叉、 ニーチェと同様員の歴史の切 断はあ り得ないのである。 而も叉、 観想的歴史に対する激 しい批判を通して、 更らに具体的に明日への過程を担う歴史的人間に到達しているとも言得ると思う。 歴史を切断するものとしての人間論が以上見る如く、 貫き得ざるものとすれば、 人間の歴史的存在は明らか である。 歴史性を私は過渡性と把握して、 連続を本質とするデューイ の理論に学んだわけであるが、 連続の本 質が更らに問題であろう。 デューイ はそれを脈絡 ( t ) であると解するのである。 それは個人なものが全 con ext 的なものに於いて意義ある地位を 占める事を示すと共に、 それなしには個の存 し得ない存在論的な意味を持つ のである。 それは本質的に人間存在論に係わる、 即ち私は之を、 人間論として把握して見た所以である。 さて以上私は社会科に於ける人間探求を技術的人間論として進め、 特にその政治的歴史的存在の面を考察し て見たのであるが、 これが現行社会科から帰納される過程、 或はこの人間論を全社会科に貫く 労作は社会科教 育者としての我々の活動面に負わされているものと思う。 技術的人間と道徳、 整術との関係もこの点から論ず る必要を認めるのであるが、 此処では、 何よりも現在の社会科が観念論的立場を止揚 して、 哲学その他一般社 会科学の学問的成果の上にその基本理念を確立しなければならぬという事を強調したかったのである。. (註) 1) 三木清 :理論、 歴史政策……全集二巻、p .227 . 107- -・.

(13) . 田. 沢. 巌. i 2) 原楯、 op t p.25. .c l i i k t 3) F. Dessauer: Phi e der Te osophi chn .c . は哲学の方法そのものも技術であると説く、 城戸、op 4) 5) 6) 7) 8) 9) 10) 1 1) 12) 13) 14) 1 5) 16). p .38 .p .53 . i 高 山 :op t pp , 145-6 氏は本能的動作と人間労働の区別として強調する。 .c Bernhe im : Binl i f tnng in der Geschi t e swi senscha cht s .25 . . 坂 口、 小 野 訳、 p ′ I Cf N i i h N江 d N h ld H i i i i l t t t t ta r e z s c e ;v om z e n u n e e o r ef rdas Leben a c s nI . le rev . . Camus:1日o Dewey: The Ques inty.p,214 i 6 2 tf ta tp r or Ce . 山 元 op .c . , Dewey: Log ik,the theo・ iげ p,23. 山 元 ibid p,21. nqu y ofi. 長嘉吉、 大類伸、 その他 : 史学概論 Dewey: Essaysin exper imenta I Log ik p i t ,370 , 山 本 op,c .p ,27 , 三木満 op,cit p.225, i id b . p.228 . r e: 羽仁五郎訳 : 歴史の理論と歴史 p.129. oc c 青木巌 : クローチェの哲学 p.146. 三木満 :歴 史哲学 pp.271一279 .. Cf i i t t . 岩 瀬、 op . 矢 内 原、 op .c .c . i b dp 矢 内 原、 i .7 . 1 8) ibid.p.7-8. 19 t ) 岩瀬 op.ci .68 , ,p 17). 20) 白井浩司訳、 ドイツ人への手紙. -108-.

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参照

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