• 検索結果がありません。

西洋における理想的人間像の変遷について

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "西洋における理想的人間像の変遷について"

Copied!
3
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

61 1.  伝統的社会では、それぞれに理想的人間像が存在し た。そうした理想的人間像をモデルとして成長をめざ すというありかたが社会から消えてひさしい。既成の 社会的モデルに無批判にとりいれ、それに近づくこと をめざすのは、個性を無視した前近代的な教育の残滓 のようにも見える。確かに理想的人間像を必要とせず、 独自の理想像を描き、それに向かって成長をめざすこ とができる人もいる。しかし、それには、能力とそれ を可能にする環境が必要である。圧倒的に多くの子ど もたちは、独自な理想をつく上げることもできず、ま たそれを追求する能力も環境も欠いている。現代の多 くの子供たちが大人になることを困難になっているゆ えんである。  一方、理想的人間像そのものが社会から消えていっ ているように見える。これは、社会の理想のありかた そのものを描くことが困難になったことと無関係では ない。社会のあり方も人間のあり方も、目先の小さな 目的や目標に合致した理想しか存在しないのであろう か。  理想的な人間像を描き、それをモデルとして成長す るという人間形成のあり方を再検討することを本研究 はめざしている。そのために各時代の理想的人間像の 特色を明らかにすること、それが人間成にとってどの ような意味をもっていいたかを示す必要がある。また、 本研究は、西洋社会が表象した理想的人間像である社 会的モデルの成立、展開、衰退の歴史的変遷をたどる ことを通して、そうした社会的モデルの果たした意味 と役割について、とくに社交性の変容と公私の分裂と いう側面に焦点をあてて考察することを目的としてい る。  小論では、以上の問題意識の下に、近代社会で最初 の理想的人間像と考えられているイタリアの理想的人 間像「宮廷人」を対象として、その特質を示すことめ ざしたい。 2.  16世紀以降の西洋における主要な社会的モデルと しては、16世紀の「宮廷人」(cortegiano)、17世紀 の「オネットムhonnête homme」、16世紀から19世 紀 ま で 幅 広 く 影 響 を 与 え た「 ジ ェ ン ト ル マ ン gentleman」、 フ ラ ン ス 啓 蒙 期 の「 フ ィ ロ ー ゾ フ philosophe」、19世紀の「ダンディー dandy」など がある。しかし20世紀以降は、特定の階級の理想像は 反映したモデルは存在したものの、社会全体で支持さ れるような社会的モデルは存在しなくなっている。①  これまで、社会的モデルの日本における研究におい ては、ジェントルマンの歴史的研究など優れた研究が 蓄積されてきたが、「宮廷人」や「オネットム」など に関する研究は少なく、特に人間形成とこれらのモデ ルを関連させた研究は極めて少ない。近代以降に限定 すれば、これらの社会的モデルは、ルネサンスの理想 的人間像でもある「宮廷人」を起点としたものであり、 それ以降のモデルは、その継承と変容といってもよい が、その継承と変容の社会的意味については、これま でほとんど論じられていない。近代における理想的人 間像の出発点となった「宮廷人」という社会的モデル の誕生とその社会的意味について、その概念の形成と それが16世紀において社会的モデルとして機能した 社会的・文化的背景とともに明らかにすることが必要 であると考える。  本研究は、16世紀イタリアにおける「宮廷人」を、 西洋近代における最初の理想的人間像=社会的モデル という観点から分析し、その社会的意味を明らかにし ようとするところにある。 3.  「宮廷人」という概念を提示したのは、イタリアの 外 交 官 バ ル ダ ッ サ ー レ・ カ ス テ ィ リ オ ー ネ (Baldassare Castiglione 1478-1529)の『宮廷人 の書』(Il libro del Cortegiano 1528)である。この 著書は、カスティリオーネが友人のアルフォンス・ア オリストの求めに応じて執筆するという形をとってい

西洋における理想的人間像の変遷について

A History of Idealized Character in Modern Europe

喜名 信之

Nobuyuki KINA

滋賀大学教育学部 <キーワード> 理想的人間像、16世紀イタリア

(2)

のではなく、さわやかで、明晰に話すことが必要であ るとされる。  こうした資質・能力の表出や振る舞い方において、 その基盤となるのが気品である。カスティリオーネは、 次のように述べている。  「宮廷人は、その行為、その身振り、その作法、よ うするにあらゆる体の動きに気品を伴わせなければば らない。あなたはそれをあらゆるものに必要な味付け とみなしているように思われる。それなしでは、あら ゆる資質が価値のないものなってしまうと思われるの である。」 ③  それでは、この気品とはどのような性格を持つもの であろうか。  アラン・ポンスによれば、カスティリオーネの気品 が使われる領域は幅広い。④ それは、政治、法律、 神学、感情、美学にまで及ぶ。しかし、この語のあら ゆる用法において、前提にしているのは他者との関係 である。《気品》とは、個人がまたはある物が保有し ているものであり、他の誰かを喜ばせるにいたるもの である。その結果、その人が感謝し、好意を与えると いうことになる。したがって、気品は、内在的な特質 ではない。それは、他者によって認められたときだけ に、存在するものである。カスティリオーネは、『宮 廷人の書』の冒頭で、「この書で重要なことは、君主 からは寵愛を、他の人々からは賞賛を勝ちえるためで ある。」 ⑤と述べているが、これが達成できるかどうか は「気品」にかかっている。気品とは《君主のよき寵 愛》を獲得するために宮廷人が示さなければならない ものである。現実の人間関係は、相互的なものではな い。それは、ハイアラーキーの多様な階層を前提とす る。自分よりも上位のものからは、寵愛を引き出し、 同等あるいは下位のものからは賞賛を引き出そうとす る。⑥ これを可能にするのが「気品」である。気品 とは、人がもつ内在的な性格や徳ではなく、他者の心 を引きつける何かである。  カスティリオーネは、気品を定義しない。知性では とらえることができず、感覚によってしか理解できな いものであろうか。この問題に関して、ポンスは次の ようにいう。「カスティリオーネの優れたところは、 こうした問題の困難を前に降伏しないところであり、 気品を定義しないまでも、少なくともそれが表現され るときの形式的な条件を論じたり、その起源を説明し た。」 ⑦ と述べている。  次の一節は、カスティリオーネが気品をどのように 現れるのかを説明している部分である。「私はこれま でこの気品の起源についてしばしば考えてきた。天の 恩恵からそれを与えられ維持している人を無視するな らば、私は以下のように考えます。この点に関しては、 人がなしたり語ったりするあらゆる人間的なことのた めに、他より価値があるように思われる、普遍的な法 実践センター紀要      第 23 巻       2015 62 る。1528年にベニスにおいて出版されてから、1587 年までに、イタリア本国で40回再版されている。また、 イタリア本国以外では、今日まで100か国で翻訳され ている。② 16世紀最大のベストセラーの一つといっ てよい。特にこの著書は、18世紀末までヨーロッパで 宮廷での作法、しきたり、礼儀作法、会話術を教える 著書として読まれ続けていった。  『宮廷人の書』は、ウルビーノ公グィドバルドの宮 廷を舞台として描かれている。公は病弱であったため、 夕刻になると自室に戻った。グィドバルド公が自室に もどった後、公妃エリザベッタのもとに集まった人々 の夜会、すなわち、昼間の政治・社交空間である宮廷 ではなく、サロン的な空間がその舞台である。カステ ィリオーネは、この夜会になされた談論を描くという 形式を採用している。これは、プラトンやキケロの対 話編のモデルとしている。ただし、プラトンやキケロ の対話編と違うのは、作者のカスティリオーネ自身は 不在であり、談論の内容は後に人々から聞いたことを 描くという文学的な形式をとっていることである。  『宮廷人の書』は、1507年3月の4夜にわたって行わ れた談論を描くという設定である。登場人物は、公妃 エリザベッタら4人の女性と20名前後の貴族であり、 彼らの中には文学者のピエトロ・ベンボのような文学 者、後に枢機卿となるベルナルド・ビッビエーナなど 実在の著名人であり、その多くは人文主義者や文人で ある。  4夜の談論の内容は、「諸侯につかえる貴人にとって もっともふさわしい宮廷人らしさ」を描くこと、また 「最も完全な宮廷人の真髄」を描くことである。つまり、 「完全な宮廷人」とは何か中心に議論が進められる。 このテーマに関して多様な議論が行われる。第1夜は、 貴人の出自と教育について、2夜は、貴人の宮廷にお ける振る舞い方について、第3夜は、宮廷における女 性のあり方について、第4夜は、二つのテーマが語ら れる。一つは宮廷人と君主の関係について、もう一つ は、プラントン的な愛の理論である。  以上のように幅広い内容を持つが、小論では、カス ティリオーネが「完全な宮廷人」をどのように見たか を、「気品」graziaと「さりげなさ」sprezzaturaと いう概念からでみておきたい。 4.  第1の書から第2の書で、完全な宮廷人に必要な特質 が列挙される。第1に勇敢な武人であること、そのた めには武具の使用に通じ、馬術や格闘技にも優れてい る必要がある。次に身だしなみを整え、身のこなしも 洗練されていることが重要である。さらに人文学を十 分理解し、彫刻・絵画・音楽の世界にも通じていなけ ればならない。さらに、宮廷人が話す言語は、行き過 ぎのトスカーナ方言、フィレンツェ方言は好ましいも

(3)

63 西洋における理想的人間像の変遷について 則がある。すなわち、できる限り、危険で鋭い暗礁で あるかのように、わざとらしさを避けなければならな いことである。そしてまた、新しい言葉を用いれば、 あらゆることにおいて、さりげなさsprezzaturaを示 すことである、これは、人工的なことを隠し、なしたこ と、かたられたことが、何の苦労もなく、何も考えられ ることなく、現れたかのように示すことである。」 ⑧  さりげなさsprezzaturaは、カスティリオーネの造 語であるが、彼はこの語を用いることによって、月並 みな表現を避けることと同時に、sperno(軽蔑する) というラテン語に由来するということを喚起させるこ とによって、正統性と権威を与えることをめざしたと 考えられる。⑨ ただし、この語は、イタリア語の近 隣の諸言語にも相当する適切な語がなく、訳すことが 困難である。「さりげなさsprezzaturaという新しい 語を作りあげることによって、カスティリオーネは、 その書物の栄光を獲得し、その翻訳者に絶望をもたら す」 ⑩ことになる。  ポンスによれば、sprezzaturaの語源は、カスティ リオーネの意図を明瞭に示唆している。それは、価値 の低いこと、軽蔑をしめす。軽蔑は優れて貴族的な感 情である。高貴な人間は、卑賤ignobleを軽蔑する。 では、卑賤ignobleとはなにか。それは、欠乏による 欠陥である。すなわち手を加えられていない粗野な性 格、なおざりにされた、だらしのない性格、よくしつ けられていない性格である。  一方、過剰による欠陥もある、すなわち、配慮のし すぎ、入念すぎること、やり過ぎること、研究しすぎ る こ と、 一 言 で 言 え ば、 技 巧 す ぎ る こ と で あ る。 sprezzaturaは、したがって、言葉のプリミティフな 意味で、中庸を目指す態度である。しかしながら、中 庸が達成することが最も難しいことである。というの は、中庸は、両極端の中間であるからだ。中庸は、自 然と人工の単なる混ぜ物ではない。ポンスによれば、 カスティリオーネが十分に知っていたことは以下のこ とでる。人間によってなされる偉大なことは、自然と 言うよりも人為(人工・術 art)によるものである。 また、術の最高のものは、術であることを隠すことで あり、努力の跡をけすことである。その結果、自然に 現れたものであるかの様相をあらわす。   カ ス テ ィ リ オ ー ネ は、 術artを 隠 す と い う。 sprezzaturaは、人為、努力、専心を「隠すこと」、 簡単さ、率直さ、自然さを「装うおうこと」を前提と する。隠すことと装うおうことが、宮廷人の生活全体 の源泉である。巧妙な(人工的な、人為的な)な生活、 しかし、その巧妙さ(人工、人為)は、レトリカルで、 説得的な目的のために、第2の自然を構成することに ある。 それは実際よりもよりふさわしく、より自然らしい ものである。スタイルが、内容よりもより重要である。 宮廷人という存在は、君主や他の宮廷人の視線の基に 置かれ、自己の永続的な制御が求められる。計算予測 するという困難な理解の範囲を持つために、より少な い言葉、より少ない沈黙、より少ない身振りを要求す る。しかしながら、わざとらしさ、すなわち過度の術(人 為)、過度にうつることであり、これらは、得ようとし ているものをこわすことになる。そこでは、「自然と 人為、存在と外見の間に無限の弁証法」がある。⑪  18世紀フランス啓蒙期の思想家J・Jルソーは、人 間的自然を高く評価したが、ルソーの自然は、何も人 為が加わらない自然であった。この点で人為によって 自然らしさを作り上げることをよしとする、カスティ リオーネとは厳しく対立する。実際、ルソーは2世紀後、 カスティリオーネの「宮廷人」を断罪することになる。 しかし、ルソーのいうようないわば「零度としての」 自然は、現在から見ると虚構にすぎないように見える。  カスティリオーネの〈気品—さりげなさ〉の精神は、 オネットム、ダンディと引き継がれていく。今日のク ール〈cool〉も 、さりげなさsprezzaturaの精神を引 き継ぐ人間的特質である⑫ さりげなさsprezzatura は、長い生命力を有しているのである。  徹底的に努力の跡をみせないsprezzaturaは、一面 で は 徹 底 し て 自 己 を 律 す る こ と で あ る。 こ の 点 で sprezzaturaは、西洋文明を創り上げていくことにな る〈自己制御〉(エリアス)のもう一つの道具立てで あったいうことができる。  

① Alain Montandon, Mod`eles de comportement sociale, 1995, p.401.

② 我が国においても、カスティリオーネのこの著作は、1987年 『カスティリオーネ宮廷人』という書名で翻訳されている。清

水純一他 東海大学出版会

③ Baldassar Castiglione, IL libro del cortegiano, 1987, p.79.

④Alain Pons, Le livre du courtisan, 2009, p.21.  以下の記述もポンスの研究に負うところが大きい。

⑤ Baldassar Castiglione, IL libro del cortegiano, 1987, p.49.

⑥ Baldassar Castiglione, IL libro del cortegiano, 1987, p.49.

⑦Alain Pons, Le Livre du courtisan, 2009, p.22.

⑧ Baldassar Castiglione, IL libro del cortegiano, 1987, p.81.

⑨ Alain Montandon, Dictionnaire Raisonne de la politesse, p.847.

⑩Alain Pons, Le livre du courtisan, 2009, p.23. ⑪Alain Pons, Le livre du courtisan, 2009, p.23. ⑫デビット・ロビンス, 『クール・ルールズ』, 2003, p.269.

参照

関連したドキュメント

従って、こ こでは「嬉 しい」と「 楽しい」の 間にも差が あると考え られる。こ のような差 は語を区別 するために 決しておざ

仏像に対する知識は、これまでの学校教育では必

つの表が報告されているが︑その表題を示すと次のとおりである︒ 森秀雄 ︵北海道大学 ・当時︶によって発表されている ︒そこでは ︑五

わかりやすい解説により、今言われているデジタル化の変革と

に至ったことである︒

自然言語というのは、生得 な文法 があるということです。 生まれつき に、人 に わっている 力を って乳幼児が獲得できる言語だという え です。 語の それ自 も、 から

必要があります。仲間内でぼやくのではなく、異

神はこのように隠れておられるので、神は隠 れていると言わない宗教はどれも正しくな