説 話 の 精 神 病 理 学

全文

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中 村

Tsuyoshi Nakamura:Psychopathological Study of Japanese Fairy Tales

< 索 引用語 : 説話, 鬼 , 精 神病理学 >

<Keywords:」 apanese fairy tale, oni, psychopathology>

岡J

は じめ に

馬 場 は, 著 書 『鬼 の研 究 』 ( 1 9 7 1 ) の 序 文 で,

「< 鬼 とは何 か > と い う命 題 は,   さか の ぼ るに し たが いた いへ ん むずか しく, 民 俗学 的 な把握 に も 未開 の部 分 を残 して い る。 ( 中略) 。以上 の よ うな, 鬼 の原 像追 求 の なか に民 俗学 の一分野 を見 る こと は, 今 日で はす で に常 識 とな った こ とで あ る」1 ) と述 べて い る。 じっさい, わ れわれが 目にす る鬼 の研究 はほ とん どが民俗学 の分野 で行 われ た もの で あ る。 そ して, 民 俗学 の分野 で の研究者 の主要 な関心事 は, 鬼 の正体 一つ ま り鬼 と呼 ばれ た人 た ちの正体 ―は何 か とい う点 に しば られて い るよ う に思 われ る。 た とえば若尾 ( 1 9 8 1 ) は, 鬼 伝説 が の こる地域 には きま って鉱 山 の跡 が あ るか ら鬼 の 正 体 は 「金工」 で あ ろ うと言 い2 ) , 柳田国男 や知 切 ( 1 9 7 8 ) は, 斉 明七年 ( 6 6 1 ) ノ`月一 日の夕方, 斉 明天皇 の葬 列 を朝 倉 山 の上 か ら見 下 ろ して いた 鬼 の正 体 を 「山人 」 と して い る3 , 4 ) 。

また詩 人 の 立場 か ら馬場 は, 上 掲 の著書 のなかで 「その よ う なか た ちで累 々 と屍 を積 み, 土 に帰 したで あ ろ う 鬼 とは何 か。 それ こそ王朝繁栄 の暗黒部 に生 きた 人 び とで あ り, 反 体制 的破滅者 と もい うべ き人 び とで あ った」 と述 べ て い る。 あ る特 定 の鬼 の正体 を 「金工」 や 「山人」 や 「反体制 的破滅者」 とみ

なす仮説 は,そ の鬼 にかんす るか ぎ り,そ れ な り に説得力 が あ るよ うに思 う。 しか し, さ まざまな 現 れ方 をす る鬼 たちの正体 を,す べ て 「金工」 や

「山人」,あ るいは 「反体制 的破滅者」 と して説 明 で きるはずが な く, このあた りに民俗学 的 な アプ ローチの限界が あ るよ うに思 われ る。 そ う した問 題点 を意識 しての ことで あ ろ うか,そ の名 も 「こ れ は F民俗学』 で はない」 とい う著書 の なかで小 松 (1989)は ,民 俗学者 の折 口信夫 が鬼 を福 ばか りで な く禍 を ももた らす 「まれ び と」 の概念 に包 摂 した ため に,鬼 も神 と同様 に両義 的 な存在 とさ れ て しま った ことを指摘 して い る。 そ して,鬼 を 本質 的 に反社 会 的 ・反道徳 的存在 と して再定義 し, 善 な る神 霊 の対 角 に位 置 す る存在 と して い る5)。

しか し,彼 の再定義 な る もの は 「悪鬼」 の概念 を あ らためて強調 した もの にす ぎない。 た とえば, この定義 は後述 す る 「都 良香 に漢詩 の対句 を教 え た鬼」 や 「桜 花 らん まんの京極殿 で 『こばれて匂 3、花桜 か な』 と朗詠 した鬼」 に相 応 しくない こと

はい うまで もないで あろ う。

この よ うに上記 の諸説 に物足 りな さを感 じるの は,研 究者 側 が事例 を一 つずつ丁寧 に観察 し,考 察 す る とい う基 本 的 な姿 勢 を もたず に,鬼 一般 を

自己の思 い込 み に合 わせて定義 して い るか らで あ る。 それ はせ っか く 「鬼 とは何 か」 で始 めて も,

著者所属 :富 山大学保健管理 セ ンター,The Department of Health Services,Toyama University

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論 ず るにつ れ て混 乱 が深 ま り,「 鬼 の正 体 はや は り謎 の ま ま」 で終 わ る著述 が多 い ことか らも知 ら れ る。

さて,鬼 を論 ず るとき忘 れて な らな いの は,鬼 はすべ て人間 の心 理 の所産 で あ って実体 と しての 鬼 は存在 しな い とい う,疑 う余地 のな い事実 で あ る。仮 にあ る鬼 が 「金工」 で あ ると して も,そ の

「金工 」 を 「鬼」 と感 じたの は,そ う感 じた人 間 の心 の作用 で あ り,そ れ以外 のな に もので もない ので あ る。 したが って多様 な鬼 の振 る舞 い は,心 理学的 0精 神病理学的側面か ら観察す ることによ っ て,は じめて鬼 が 出現 した ことの意味 が理解 で き るので あ る。 つ ま り, こ こで は人 び とが どん な心 理 的状態 の下 で鬼 を感知 したのか, ど の よ うな個 人 的 ・環境 的状況 が人 び とをその よ うな心理 的状 態 に導 いたのか, と い うことが重要 なので あ る。

人 び とが 鬼 とみ た もの が ,「 金 工 」 だ った の か

「山人」 だ ったのか,そ れ と も 「反体制 的破滅者」

だ ったのか とい った ことは副次 的 な問題 にす ぎな い。 鬼が 「本質 的 に反社 会 的 ・反道徳 的存在」 か ど うか とい う定義 も必要 で はない。 その よ うな予 断 的定 義 は,研 究 の科学 性 を そ こね るだ けの こと で あ る。

本 稿 で は,で きるだ け多 くの鬼 につ いて事例 を 一 つずつ丁寧 に観察 し,そ れぞれの鬼の性格 を明 らか に して い きたい。手始 め に,史 実 と して も有 名 な朝 倉 山 の鬼 につ いて詳 しく検討 す るが,そ の 過程 を通 じて筆者 の立場 が い っそ う明 白にな るで あ ろ う。

投   影

6 6 0 年 (斉明天 皇六 年 ),百 済 は唐 ・新 羅 の攻 撃 を うけて王城 は陥落 し,実 質 的 には滅亡 したが, その遺 臣 た ちはなお も抵抗 をつづ け, 日本 に救援 軍 の派 遣 を もとめ て きた。 翌年 (661)の 正 月六 日,斉 明女帝,中 大兄皇 子 を筆頭 に皇族 の多 くを 糾合 して大遠征軍 が進発,同 月十 四 日,伊 予 の港, 熟 田津 ( 松山市 )に 錨 を降 ろ し,石 湯行宮 (道後 温 泉) に 入 る。一行 は ここで 2か 月間 も逗留 す る

が,そ の理 由 は四国 ・中国地方 で の兵 力動員 の た め6)とも,高 齢 の女 帝 の温 泉療法 の た め と もいわ れ て い る。 と もか く,熟 田津 を出帆す る ときが来 た。全軍 の士気 を高 め るための儀式 が行 われ,女 帝 に代 わ って額 田王 が 『万葉 集 』 巻第 一 にの こる 有 名 な歌 を披露 す る。

熟 田津 に船乗 りせ む と月待 て ば 潮 もか な ひぬ今 は漕 ぎ出で な (熟田津 に停 泊 して 出航 の 日の た め に月 明 の夜 を 待 って い る と,月 も潮 も船 出 に都合 が よ くな った。

さあ強者 よ,今 こそ船 を漕 ぎ出そ う)。

「今 は漕 ぎ出で な」 は字 余 りで あ るが,か え っ て大遠征 の船 出の気分 にお、さわ しい,勇 壮 な調 べ を奏 で る効 果 が あ る。 二 月二十五 日,一 行 は郷 の 大 津 (福岡市)に 着 き,い ったん磐瀬行宮 に入 る が,五 月九 日,天 皇 は朝倉 の橘広庭 宮 に遷 る。

朝 倉 の地 は海 か ら遠 く,福 岡県 で も東 に奥深 い と ころなので,西 征軍 の本営 を ここに移 す の は一 種 の退 却 とみ られ る。 しか も,橘 広庭宮 に遷 って か らの F日本書紀』 の叙述 には以前 の明 るさが影 をひそめ,不 吉 な事件 の記事 が めだつ よ うにな る。

宮 の造 営 の ため に朝 闇神社 の神木 を伐 ったので, 神 の た た りを うけて殿 舎 が壊 れ た とか,鬼 火が現 れ た とか い うのが それで あ る。 女帝 の近侍者 の な か に は病死 す る者 が少 な くな く,七 月二十 四 日に は斉 明天皇 自身 が崩御 され た。 八 月一 日の夕方 , その遺骸 を は こぶ喪 の列 を朝倉 山 の上 か ら大笠 を かぶ った鬼 が じっと見 て いた。 その くだ りを 『日 本 書 紀 』 巻 第 二 十 六 斉 明紀 は,「 朝 倉 山 の上 に, 鬼 あ りて,大 笠 を着 て,喪 の儀 を臨 み視 る。 ひ と び とみ な嵯怪 (あや し)ぶ 」, と記 して い る。

柳 田 は 「山 島民 諄集 (二)」 の なか で,間 接 的 で はあ るが この鬼 につ いて 「(諸国 に鬼 の足跡 と い う石 が あ るが),そ の鬼 とい うの はそ もそ も何 物 で あ るか。 これが なか なか面倒 な問題 で あ る。

朝 倉 山 の山 の上 に うず くま り笠 を被 って天皇 の葬 儀 を観 て いた とい う山人 の類 で あ ろ うか」 と記 し て い る3)。この文 脈 か らみて,柳 田 は朝 倉 山 の鬼 の正体 を 「山人」 と確信 して い るよ うで あ る。彼 の意見 は多 くの民俗学者 に支持 され てお り,た と

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え ば知 切 (1978)は ,「 中国 か朝 鮮 の移 民 族 (マ マ)の ア ウ トローの山 の民 か,朝 廷 に服 さぬ山の 民 の集 団 か 」 との べ て い る4)。しか し,朝 倉 山 (現在 ,麻 底 良 山 と呼 ばれ る)は 標 高 300メ ー ト ル ちか くもあ る ことを考慮 しな けれ ば な らな い。

暮 れ なず む朝 倉 山 のぶ、もとを しず しず と行 く葬 列 の供 人 た ちが ,笠 を被 って 山 の上 に うず くま る

「山人」 の姿 を鬼 と見 て,そ の迫 力 と不 気 味 さに 圧 倒 され,「 ひ とび とみ な あや しぶ」 とい う状 態 にな る もので あ ろ うか。 日常 の生活経験 にて ら し て,ず いぶ ん と不 自然 な話 で あ る。 実 際,山 人 は 見 え た と して も芥子粒 ほどの大 きさにす ぎない し, 木 立 の繁 みが あれ ば ―現 状 か ら推 して 山 は雑 木 に 覆 わ れて いたで あ ろ う一山人 の姿 な どは見 え るは ず もな い。

さすが に国語学 者 の大野晋 ,歴 史学者 の家永三 郎 らは, こ の鬼 の正 体 は 「山 に立 ちやす い雷 雲 で はな いか」 と,別 の見解 を提 出 して い る7)。陰暦 八 月一 日の夕方,刻 々 と騎 りをぶゝか くして ゆ く山 の端 に,葬 列 を見下 ろす不気味 な ものが出現 ・・・

先 入観 を もたず に,そ う した状 況 を想 像 す る と, 自然 に 「(鬼を想 いお こさせ る よ うな)雷 雲 」 が 心 眼 に映 じて くるの で は な いで あ ろ うか。 「山人 説 」 とはちが って,「 雷 雲 説 」 に はそれ ほ ど無理 が感 じられ な い。

しか し,ひ るが え って考 えてみ る と,鬼 が 「山 人 か,そ れ と も雷雲 か」 とい うこと自体,問 題 の 本 質 か ら遠 く離 れ て い る こ とに気 がつ く。 ほん ら い,鬼 は想像 の産物 で あ り,鬼 をそ こに見 いだす 人 の主観 的 な存在 で あ る。 しか も,朝 倉 山の鬼 は 一 人 や二 人の 目に映 ったので はな く,斉 明天皇 の 葬 列 に加 わ った多数 の人 び とに よ って 目撃 され,

それ を伝 え きいた人 び とがみ な 「さ もあ りなん」

と うなず いた はず なので あ る。 「鬼 の 出現」 が正 史 で あ る 『日本書 紀 』 に収 録 され たの はそ うい う 状 態 を意 味 す る。 したが って,「 山人 」 にせ よ,

「雷 雲」 にせ よ,人 び とが 「なぜ くそれ〉 を鬼 と 見 て しま ったの か」 とい う心 の問題 に迫 るので な けれ ば意 味 が ない。 その道理 をわ きまえず,い た ず らに柳 田 の 山人説 に従 うと,「 何 の 目的 で御 大

葬 の行列 を見 て歩 いたのか解 らな いが,   この有形 の鬼 の行動 は, 何 も しな いだ けに今一 つ不気味 な と ころが あ る」4 ) と, 結 局,   自説 の意 味 づ けに窮 して しま うので あ る。

この問題 を解決 す るための ヒン トは, ほ か な ら ぬ 『日本書紀』斉 明紀 の なか にあ る。蘇我赤兄 が 有 馬 皇 子 に, 「 天皇 に は三 つ の失 政 が あ る。 ① 大 きな倉庫 をたてて, 租 税 をため こん だ こと, ② 長 大 な水路 を堀 り, 血 税 を浪費 した こと, ③ 石 を舟 で運 び, 石 積 み の丘 を造 った こと」 と説 き, 謀 叛 を そそ のか した ことが あ る。赤兄 の指摘 した天皇 の事跡 はいずれ も事 実 で あ った一 じっさい奈良県 明 日香村 教 育委 員会 は, 平 成 四年 ( 1 9 9 2 ) 五月 に 斉 明女 帝 ( 在位 6 5 5 〜6 6 1 ) が 岡本 の宮 の東 の山 に 作 った石垣 , 平 成 十 二 年 ( 2 0 0 0 ) 五月 に は同村 岡 の酒船石遺跡北側 で斉 明朝 の饗宴施設 の一部 とみ られ る 「亀石」 と石組 みの広場遺構, 平 成十二年 ( 2 0 0 1 ) 十 一 月 に は同村 の飛 鳥 宮 ノ下 遺 跡 で 「狂 心 の渠 ( たぶ れ ご ころのみ ぞ) 」 の一 部 とみ られ る溝跡, が それぞれ 出土 した と公表 してお り, 土 木 工事 が好 きな斉 明女 帝 の姿 が考古 学 的 に も実 証

されて い る一。 これ らの出費 に追 い討 ちをか ける か の よ うな百 済 へ の大軍 の遠 征計 画 で あ る。 財政 の窮乏 は限界 を は るか に こえて いた。 しか も, 中 大 兄皇 子 を は じめ全皇族 を糾合 して 自 ら出陣 した 天 皇 は, 朝 倉 に行宮 をたて るため に朝 闇神社 の神 木 まで伐採 したので, 土 地 の住民 感情 を い た く傷 つ けて しま った。 その直後 の急逝 で あ る。 葬列 に 加 わ った人 び との うち に は, か ね て天皇 の政治 に 疑 間 を感 じて いた もの も多 くいた はずで あ る。蘇 我 赤兄 の指摘 した過酷 な課税 と労 役, そ れ に軍人 や防人 と して の徴用 が重 く生 活 を圧迫 して い る。

土地 の住民 の圧 し殺 した怨念 も黒 い潮 の よ うに寄 せ て くる。 その よ うな状況下 で葬列 が動 きだ した ので あ る。葬列 が朝 倉 山のふ もとに さ しかか った と き, 山 の上 に下 界 を眸 晩す るか の よ うに雷雲 が 立 ちの ぼ って いた。 ロール シャ ッハ ・テス トの イ ンク ・ブロ ッ ト ( イ ンクの染 み) に ,   しば しば被 検 者 本 人 さえ気 づ いて いな いよ うな深 層心 理 が投 影 され る ことが あ るが, 朝 倉 山 に立 った雷 雲 は期

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せ ず して イ ンク ・ブロ ッ トの はた らきをす る こと にな った。 頭上 に 目をむ けた供人 たち は,天 皇 の 遺骸 とそれ を運 ぶ 自分 たちの行動 を 「鬼 が見下 ろ して い る」 と実感 したので あ る。黙 った まま葬列 を凝視 す る鬼 の不気 味 さにつ いて は, これ以上 の 説 明 は要 らないで あ ろ う。

心 か ら鬼 と も見 ゆ る雲 の峰 小 林一 茶8 )

『日本書紀』 の編纂 に さい して, と きの権力者 は 自分 たちの都合 にあわせて,ほ しい ままに事実 を改変 した はず で あ る。 しか し彼 らは,「朝倉 山 の鬼」 が苛政 にたいす る うっ積 した民衆 の怨念 の 投影 で あ る ことに気 づ か なか った。 したが って後 世 の歴 史家 に と って は幸 いな ことに,   この鬼 の出 現 にかん す る記述 は単純 な事実 と して無 修正 の ま

ま後世 に伝 え られ ることにな ったので あ る。

葬 列 を見 お ろす朝 倉 山 の鬼 は, 民 衆 の怨念 が意 識下 の心 理機制 によ って雷雲 に投影 され た もので あ った。 この よ うに投影 は,客 観 的現実 を主観 的 に歪 曲す る機制 で あ り,恐 怖 や妄想 の形成 に関係 が深 い無意識 的 な防衛機制 とされて い る9 ) 。

イ ン ス ピ レー シ ョン

都 良 香 ( 8 3 4 〜8 7 9 ) は 菅原道真 ( 8 4 5 〜9 0 3 ) の 官吏 登 用試験 の さいに は試験 官 をつ とめた ほ どの 秀 才 で あ り, 特 に漢詩 にか けて は自他 と もにゆ る す 天 才 といわ れ て い た。 また,彼 はみ ず か らを

「天下 の狂 人」 と称 して,後 年 ,仙 に は い った と いわれ るほ どの人物 で あ る (『本朝 神 仙 伝』 都 良 香伝 ) 。『十 訓 抄 』 下十 ノ六 には, 次 の よ うな神秘 体験 の説 話 が残 されて い る。

あ る と き,良 香 は 「気番 レテ,風 新 柳 ノ髪 ヲ杭 ズル」 とい う一句 を得 た けれ ど も, ど う して もそ の対 句が でて こない。 案 じ暮 ら した夕暮 れ,そ の 句 を吟 じなが ら羅生 門 の下 を通 るとき も, や は り 対句 が うか ばず絶句 した……と, 羅 生門の楼上 で, その後 を うけて声高 らか に,

氷 消 ヘ テハ, 波 旧苔 ノ髪 ヲ洗 フ

と付 けた者 が あ る。 は っと して見 あげたが,影 も

形 もな い。 ほ どな く御所 で道 真 と同席 した と き, そ の詩 を披露 す ると,道 真 は小 さ く吟 じて みて,

「この第 一 句 に は,貴 兄 の詩 才 が躍動 して い ます が,対 句 の ほ うに は神韻 が あ る。 後 の句 は鬼神 が 付 けて くれ たの で しょう。 羅 生 門 あ た りの鬼 で す か」,と 言 った。 良香 が菅公 を ただ び とで はな く, 神 人 の権 化 で あ る と知 ったの は この と きか らで あ る といわれ る。 詩 の意 味 は 「陽光 は う ららか に, 風 は芽 吹 いた ばか りの柳 の枝 を そ よがす,ま るで 美 人 の髪 を く しけず るよ うに。 池 の氷 は消 えて水 辺 の苔 が さざ波 にゆれ動 く,去 年 か らの古 い髪 を 波 が洗 って い るよ うに」, と い った と ころで あ る。

ここで,都 良香 が教 え を うけた とい う 「羅生 門 の鬼 の付 け句」 の本質 はな にか, と い う問題 を考 え てみ た い。 彼 には鬼 の声 が <聞 こえ た >の で あ るが,状 況 か らみてその体験 は錯覚 や幻覚 (幻聴) で はな く,イ ンス ピレー シ ョンと考 え られ る。 イ ンス ピレー シ ョンの原義 は 「空気 を吸 うこと」 で あ るが,そ れが転 じて息 を吸 い込 む よ うに 「労 せ ず して外界 か ら着想 が入 りこんで くる こと」 を い うよ うにな った。 しか し, こ の イ ンス ピレー シ ョ ンが作用 す る過程 には,

①課 題 に と り くん で努 力 す る期 間,

②課題 が少 しずつ解 けか けて い るが,そ れをは っ き りと自覚 で きない期 間,

③インスピレーションを呼びこむきっかけ,

が あ ると考 え られ る。 た とえ ば, ア イ ンシュ タイ ンは相対性原理 の論 文 を神 の啓示 を受 けたか の よ うに 1カ 月 ほどで書 きあげた といわれ るが,そ れ 以前 の 7年 間 は もっぱ ら光 の速度 の問題 につ いて 考 え つ づ けて い た の で あ る。 「香厳撃竹 」 の逸 話 で名高 い中国 の禅僧香厳 のばあ いは,師 家 に課 さ れ た公案 「未生 已前」 の一 句が ど う して も解 けな い。 そ こで意 を決 して経典 を全部焼 いて山 に入 り, 庵 をむす ん で独 りで修行 を して いたが,あ る日, 道 を掃 除 して い るとき偶然 に とんだ瓦 の破片 が竹 を撃 ち,そ の響 きに こつ ぜん と して大悟徹底 した とい う10)。

この よ うに,ね ば り強 い努力 をつづ けて い ると, 眠 って い る ときや他 の作業 を して い る ときに,無

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意識 の うちに課題解決 への糸 口が た ぐりよせ られ, お、と した誘発刺激 によ って新 しい着想 が閃光 の よ うに意識化 され る瞬間 が訪 れ る。 この最終段 階が イ ンス ピ レー シ ョ ンで ,そ の心 的 メ カ ニ ズ ム は

『管 子 』 巻第 十 三 ( 心術下 第 二 十七 )の 一 句 に,

「之 ヲ思 ヒ之 ヲ思 フ,之 ヲ思 ヒテ得 ザ レバ,鬼 神 之 ヲ教 フ。 鬼神 ノカ ニア ラザル ナ リ。 ソノ精気 ノ 極 ナ リ」1 1 ) と

描 写 されて い るが,   これ をその まま 現 代 の科学 的見解 と して よいで あ ろ う。芸術家 の ば あ いは,同 じよ うな体験 が い っそ う劇 的 に感得 され る ことが あ る とい う。 ニーチ ェは ジェノヴ ァ で の散歩 の途 中,突 然 に忘我 の状態 にな った。 同 時 に イ メー ジが有 無 を いわ さず に襲 いか か り, ま た た く間 に 『ツ ァラ トゥス トラ』 の全容 がで きあ が った とい う。 多 くの芸術家 は,そ の よ うな イ ン ス ピ レー シ ョンを 自分 の力 で手 にいれ た とす るよ り も, 啓 示 と して何者 か にあたえ られ た と表現 す る こ とが多 いよ うで あ る。 た しか に,偉 大 な芸術 の イ ンス ピ レー シ ョンはその芸術家 の個 人 的人格 を超 えて あ る もので, 人 格 はその表現 の媒体 にす ぎな い の か も しれ な い。 写 真 家 土 門 拳 の こ とば

「い い写 真 とい う もの は,写 したので はな くて, 写 ったの で あ る。 計 算 を踏 み はず した時 にだ け, そ うい ういい写真 が 出来 る。 ぼ くはそれ を,鬼 が 手 伝 った写真 と言 って い る」1 2 ) は, そ ぅ した機 縁 を うが ちえて妙 で あ る。

宗 教 的体 験 に は憑依 。脱 魂 や幻覚 とい った病 的 な ものが少 な くな いが,香 厳撃 竹 の よ うに イ ンス ピ レー シ ョンの作 用 とみ られ る もの は特 に尊重 さ れ ね ば な らな い。前者 の体験 は人格 の解離反 応 の 副産 物 で あ るの に対 して, 後 者 で は修 行者 の 自己 同一 性 が常 に保 たれ て い るの で あ り,   したが って その体験 は清 明 な意識状 態 にお いて獲 得 す る求道 の成 果 で あ る。 「施身聞偶 」 や 「雪 山成道 」 と し て しられ る,釈 迦成道 にまつ わ る伝説 は,求 道者 釈迦 が悟 りを開 いた と きの心 の はた らきが イ ンス ピ レー シ ョンで あ った ことを ものが た って い る。

「涅 槃経 」 十 四 に よ る と, 釈 迦 は いわ ゆ る< 過 去 世 > で 雪 山 ( ヒマ ラヤ山脈 ) に お いて修 行 し, 悟

りを開 き成道 した とされて い る1 3 ) 。

雪 山 で一 童 子 (後の釈迦)が 修行 中,帝 釈天 が 修 行 中 の童子 を試 そ うと して羅刹 鬼 とな って近 づ いた。童子 は羅刹が唱え た 「諸行無常,是 生滅法」

とい う,偶 の半分 を聞 いて歓喜 し,残 りの半分 を 聞 こ うと したが,羅 栞1は 「飢 えて力 が な いため, 言 うことが で きな い,食 物 を くれれ ば教 え よ う」

と言 う。童子 は 「食物 はないか ら,代 わ りに この 身 を あ げ よ う」 と約 束 し,残 りの 「生滅滅 己,寂 滅為 楽」 を教 え られ た。童子 はその句 をか たわ ら の樹 に書 きつ け,衣 服 を木 にか けて谷 に身 をなげ たが,羅 栞1は帝釈天 に返 り,童 子 を助 けて礼拝 し た。

カ ピラ城 の王子 と して,な んの不 自由 もな い 日 常 の うち に青年 期 をす ご した ゴー タマ ・シ ッダー ル タは, し だ いに人生 の根 源 にひそむ苦 の問題 に 思 いを深 めて い った。 そ して,苦 の本質 の追究 と その解放 であ る解脱 を希求 して,二 十九歳 の とき, 何 もか もうち捨 てて きび しい修行生 活 にはい った。

6年 後,ブ ッダガヤの菩提樹 の下 で悟 りをひ らき,

「ブ ッダ」,す なわ ち 「悟 った人」 とな った といわ れ て い る。 したが って,釈 迦 が <過 去世 >に お い て雪 山で修行 した とい う物語 は,真 理探究 の ため に は命 を惜 しまぬ とい う求道 の神髄 を大衆 に説 く た め に創作 され た もので あ ろ う。 同 じ境地 と して は 『論 語 』 (里仁)の 「朝 に道 を聞 か ば夕 べ に死 す とも可 な り」が広 くしられているが, ゴー タマ ・

シ ッダール タの 「捨 身供養」 とい う鮮烈 な垂範 は 人 び との心 の うちに深 い感動 と尊崇 の念 を もって うけいれ られ た。 法隆寺 の玉虫厨子 の 「施身聞掲 図」 は この物 語 を描 い た もので あ る。

釈迦 が鬼 に教 えて も らった 一つ ま り,長 年 の苦 行 が み の り,イ ンス ピ レー シ ョンのか た ちで悟 り を開 いて 自得 した一 「偶」 は 「諸行無常 偶」 あ る もヽは 「雪 山偶」 とい う。 お お よそ,「 もろ もろの つ くられ た もの は無常 で あ る。 これ は生 じて は滅 す る もので あ る。生 じて は滅 し,滅 し已 って,そ れ らの静 ま る ことが安 楽 で あ る」 とい う意 味 で,

「い ろ は歌 」 に は この四句 が うま く詠 み こまれ て い る。

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色 は匂 へ ど散 りぬ るを ( 諸行無常) , わが世 たれぞ常 な らむ (是生滅法), 有為 の奥 山 け= ゝ越 え て ( 生滅滅 己) , 浅 き夢 み じ酔 ひ もせ ず ( 寂滅為 楽 ) 。

潜 在 す る記 憶

意 識 の うえで は完全 に忘 れ去 って い る過去 の記 憶 が,   とつ じょと して蘇 る ことが あ る。本 人 はそ うい う体験 の処理 に とま どい,声 が聞 こえて きた か の よ うに感 じる ことが あ る。 次 の事例 が それで あ る。

上 東門院彰子 が京極殿 にいて,南 面 の桜 が見事 に咲 いたのをみて い る と,正 面 の階隠 しのあた り に,気 高 い声 で 「こばれて匂 ふ花桜 か な」 と朗詠 す るのが聞 こえ た。 院 は 「何者 が い うので あ ろ う か」 と,御 簾 の うちか ら眺 めたが人 の気配 はない。

人 び とを呼 び探 させ たが, あ た りい ったい人影 は な い。 「鬼 で あ ろ うか」 と院 は驚 き,関 白頼 通 に

「こんな ことが」 と告 げると,「なぜかその声 はち ょ い ち ょい聞 こえ ます な」, と の答 え。 院 はいよ い よ恐 れて その あた りへ近寄 らなか った とい う。 こ の鬼 は,

あ さみ ど り野辺 のかすみ はつつむ と も こばれて匂 ふ花桜 か な

とい う歌 を知 って いたの に違 いない。 (『今昔 物語 集』 巻第二十七) 。

上東 門院 は, 以 前 に ど こかで見聞 きは したが, と っ くの音 に意識下 に しまい忘 れて しま って いた

「あ さみ ど り……」 の和 歌 の下 の句 が, きれ い な 桜 に誘 われて彼女 の意識野 に不意 に再生 され たの で,一 瞬,何 者 かの声 が聞 こえ たか の よ うな気 が したので あ る。 したが って, この心 的機制 は外形 的 に はイ ンス ピ レー シ ョンに似 て い るが, 実 体 は 記憶 の単純 な再生 にす ぎず創造性 が欠如 して い る ので,イ ンピレー シ ョンとはま った く異質 な もの で あ る。 同様 に,富 山大学 の ブ ラジル人留学生 セ ル ジオ君 は,「 日本 人 と話 して い る と, 自分 が知 らな い はず の単語 が 口か らとび出す ことが あ る」, と筆者 の前 で首 をか しげた ことが あ る。 しか し彼

に は五歳 にな るまで富 山県氷見市 で養育 され た と い う生活史 が あ るか ら, この間 に獲得 した多数 の 単 語 が意 識下 に蓄 え られ て い るはず で あ り, そ れ らが 日本人 との会話 の流 れ に誘 われて不意 に口か らほ とば しり出 たので あ ろ う。 この セル ジオ君 の 体験 は上 東 門院 の それ と同一 の心理 機制 ( 意識下 の記憶 の突然 で意 図的 で はな い再生)に よ る もの で あ り,イ ンス ピレー シ ョンで はない。

解 離 ヒス テ リー

日本 の鬼 が もっと もい きい きと活動 したの は, 平安 時代, 特 に摂 関政治 の ころで あ る。 華 やか な 平 安 王朝 , そ の舞 台裏 に は多彩 な鬼 の跳 梁 が あ っ たが,次 の説話 は内容 が ユ ニ ー クかつ シ ョッキ ン グで あ るために古 くか ら人 び とによ く知 られて い る。

文徳 天皇 の后 明子 は藤原良 房 の一粒種 で, 良 房 の邸宅 「染殿」 にいたので染殿 の后 とよばれて い た。 彼女 は嘉 祥 三 年 (850)に 惟仁親 王 (清和 天 皇 ) を 産 み,   この年, 文 徳 天皇 の即位 に と もな っ て女 御 にな った。 天安 二 年 (858)に 文徳 天皇 は 崩御, 清 和天皇 が史上最年少 の九歳 で即位 す ると, 今上 は未 だ幼 少 とい う理 由で, 外 祖父 良 房 は人 臣 の身 で初 の摂政 にな り,以 後 の政治 を菫 断 す る こ とにな る。良 房 に とって,明 子 はかわ いい娘 であ る と同時 に,藤 原北家政権確立 のための貴重 な持 ち駒 で もあ った。

良 房父娘 のゆ くて は順風満 帆 にみえ たが, そ の じつ,明 子 は心 を病 んでお り, しか もその臨床症 状 が鬼 に悩 乱 され る とい う シ ョッキ ングな もので あ った。貴顕第一等 の女性 が演 じる見苦 しい姿 を 見 て, 内 心 で は快 哉 を叫ん だ人 び とが大勢 いた。

この ときとばか り,彼 らは噂 に尾 ひれ をつ け加 え て ゆ く。后 が鬼 に悩乱 され た話 とい うの は こうで あ る : 染 殿 の后 は物 の怪 に悩 ま され,多 くの僧 に 祈 らせ たが効 果 が なか った。 しか し, 金 剛 山 の聖 人 が祈祷 によ って侍女 に憑 いて いた狐 を と らえた。

と ころが,そ の まま滞在 す る うちに,聖 人 は帳 の 隙 間 か ら后 の美 しい薄着 姿 を見 て 自制心 を失 い,

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后 を犯 そ うと して捕 らえ られ,獄 につ なが れ た。

放 免 され て山 に帰 った聖人 は,思 いを遂 げ るため に絶食 して死 に,鬼 とな って后 の帳 の側 に来 た。

鬼 が来 るた び に后 は正 気 を失 い,鬼 を帳 に入 れ て 同会 な さる。 その後,祈 祷 が功 を奏 して,后 の状 態 が回復 したので,天 皇 は染殿 へ行幸 され た。 そ こへ例 の鬼が現 れた。 后 は鬼 とお、せ り,だ れ はば か る ことな く見苦 しい行為 をな さる。 天皇 は途方 に くれ,嘆 き悲 しみなが らお帰 りにな った。 (『 昔 物語 集』 巻第 二十 )。

この説話 を伝 え る書 はほか に もい くつか あ る。

その うち 『今昔物語集』 や 『善家秘記』 は,鬼 と な って后 を惑乱 した聖 人 の名前 をあか して いない が ,F宝 物 集 』 (平安 末 期 〜鎌 倉 初 期 成 立 )で は

「紺青鬼 にな った柿 本紀僧正真済」,『古事談』 (鎌 倉初期成立)で は 「天狗 と化 した紀僧正真済」 と, 鬼 と天狗 の違 い はあ るにせ よ,そ の前 身 が紀 僧正 真 済 とい うこ とで は一 致 して い る。 そ して時代 が 下 るにつ れて 「真済 =紺 青 鬼」 とい うイ メー ジが 固定 して ゆ くが,そ の経過 は民衆 の 目を通 した摂 関 時代 の皇 位継 承 の あ りさまを反 映 して いて興 味 深 い。

真 済 が紺 青 鬼 にな った本 当 の理 由 は権 力争 い に ま き こまれ たか ら, と い う見方 が有 力で あ る。 文 徳 天皇 に は紀 名 虎 の娘 静 子 が産 ん だ惟 喬 親 王 が あ り,天 皇 は この親王 に皇位 をゆず る ことを望 んで いた。 しか し太政大 臣藤原良房 は,染 殿 の后 が産 ん だ生後九 ケ月 の惟仁親王 を強引 に皇 太子 に した のであ る。 そ して,文 徳天皇 は三十 二歳 の若 さで とつぜ ん に崩 じ,惟 仁親王 は九歳 で即位 (清和天 皇 )す る ことにな る。

惟 喬親 王 と惟 仁親 王 との凄惨 な皇 位 争 いを講 談 調 に描 い た話 が ,F平 家 物 語 』 巷 第 八 名虎 に記 載 されて い る :惟 喬皇子 は帝 の寵愛 篤 く,惟 仁皇 子 は母方藤原氏 の勢威 を後楯 と して, と もに皇位継 承者 の条件 を そなえ て いた。 そ こで どち らが皇位 に即 くべ きか の選定 は人意 的 に決 すべ きで はない と して,競 馬 と相撲 の勝敗 に賭 けることにな った。

勝利 祈願 の た め に,惟 喬 側 で は紀 の僧 正 真済,惟 仁 側 で は恵 亮 和 尚 に祈 祷 を命 じた。 競 馬 の十 番勝

負 で は, 初 めの四番 は惟 喬側 が勝 った。 そ こで惟 仁 側 は一 計 を案 じて 「恵 亮 が死 ん だ」 とい う噂 を 流 した。 案 の定 , 真 済 の心 に緩 みが生 じたので, 後 の六 番 は惟仁側 の勝 ちにな った。相撲 に移 って, 惟 喬側 か らは名虎 の右兵 衛督 とい う巨漢 が, 惟 仁 側 か らは, 能 雄 の少将 とい う小兵 が選 ばれ た。惟 仁 側 の敗色 濃厚 とい う報 を受 けて憤然 と した恵 亮 和 尚 は独鈷 で 自分 の脳髄 を突 き砕 き, 脳 を と って 炉 壇 に くべ て激 しく祈 ったので形勢 が逆転 し, 能 雄 が勝利 を お さめ た。 こ う して惟仁親王 の皇位継 承 が きま った とい うので あ るが, 話 が で きす ぎて い るの は,聴 衆 を魅了す るため に語 り手 の琵琶法 師 た ちが あれ これ手 を加 え た結 果 とみて よ いで あ ろ う。 琵琶法 師が聴衆 か ら揚 げ銭 を稼 ぐための作 り話 はそれ な りに面 白いが, そ れで も 「良房 ・惟 仁 ・染殿 の后 ・恵亮 ( 天台) 」派 が 「文徳 ・惟喬 0 紀 静 子 ・真 済 ( 真言) 」 派 を腕力 で ね じお、せ た と

い う印象 は拭 え きれず, したが って,判 官 びい き の世論 が敗者側 に同情 を よせ るよ うにな るの も自 然 の な りゆ きで あ ろ う。 「良 房 に望 み を絶 たれ た 惟 喬親 王派 の真 済 は さぞ心 残 りだ った ろ う」 とい う人 び との推測 が ス トー リーを育 み, 時 の流 れが

「后 を悩 乱 させ た,あ の鬼 の前 身 は真 済 なの だ」

とい う伝承 を確 固 た る もの に した。 南北朝 の ころ 成立 した 『源平盛衰記』 には, す で に 「柿本紀僧 正 ( 真済) , 御 修法 のつ いで に思 ひを懸 け奉つ り, 紺青 鬼 と変 じて, 御 身 ( 染殿 の后) に 近 づ きた り けん」 とあ り,   この伝承 が事実 と して定着 した観 が あ る。

この伝承 の発端 にな った 「染殿 の后 と鬼 との交 渉」 の実 態 は, 后 の精神 症 状 に ほか な らな い。 そ の臨床像 は意 識変容 を と もな う夢幻様 の体験 で あ り, 病 名 は解離性 ( 転換性) 障 害 で あ る1 4 ) 。解離 性 障害 で は, 3 ゝだん は意 識 の深層 に封 じこめ られ て い る本能 的欲求 や願望 が, しば しば理性 によ る チ ェ ックを素通 り して,露 骨 に表 出 され る。 染殿 の后 のば あい,症 状 は彼女 の フラス トレー シ ョン が 「鬼 との交 渉」 とい うか たちで表現 され た。 明 子 の人生 は,   も っぱ ら父良 房 と義 弟基経 の権勢 の

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拡 張 に利 用 され るた め にあ った。 三十 歳 とい う若 さで文徳天皇 に死別 し,皇 太后 と して後宮 に長 く 禁欲 的で不 自由な生涯 を強 い られ たので あ るか ら,

ス トレス もなみ大抵 の もので はなか ったであろ う。

後 宮 とい う外 目の華 やか な生 活 とは裏 腹 に, 染 殿 の后明子 は心 を病 んでお り,そ れが 「鬼 との交渉」

とい う臨床 的病態 とな って表 出 され たので あ る。

合 理 化

藤原 高 子 ( 8 4 2 〜9 1 0 ) は 染殿 の后 ( 明子) の い と こに あ た り,後 に明子 の産 ん だ清 和 天 皇 の后 ( 二条 の后) に な る。 『伊勢 物 語 』 に は, 高 子 が入 内す る前 ので き ごとと して, 彼 女 と在原 業平 との 道 行 が, 後 世, 人 口に檜 実 され た 「鬼一 口」 の話

と して載 って い る。

美 男 の総 代 で あ る業 平 ( 8 2 5 〜8 8 0 ) は , 平 城 天 皇 の皇子 阿保親王 を父親 , 桓 武天皇 の皇女伊都 内 親 王 を母親 とす る皇族 で あ る。 平城 天皇 は大 同 四 年 ( 8 0 9 ) に 弟 の嵯 峨天皇 に譲 位 したが, そ の後 , 両者 の間 に争 い 「薬子 の乱 」 ( 8 1 0 年) が 起 きた。

この事件 の結果,平 城天皇 の第二皇子高岳親王 は 皇 太 子 を廃 され, 親 王 の兄宮 にあた る阿保親王 は 太宰府 に流 され た。帰京 を許 され た後, 子 供 たち の行 く末 を案 じた阿保親 王 の願 い出 によ って,行 平 と業平 ( 行平 は業平 の異母 兄) は 皇 籍 を離 れ, 在 原 姓 を賜 り臣籍 に下 った。 その結 果 「業平 王」

は 「ただ人 の在原業平」 にな ったので あ る。

業平 は, 高 嶺 の花 だ った女 を よ うや く奪 い, 闇 に ま ぎれて京 を逃 げだ した。 芥河 まで きた とき, 女 は深窓 の姫 君 ら しく草 の上 の露 を見 て 「あれ は 何」 と聞 く。折 か ら雷雨 が激 しくな って きたので, 女 を蔵 に入 れ,   自分 は戸 口を守 って い たが, 鬼 が 現 れ て女 を一 口 に喰 って しま った。 女 の悲 鳴 も雷 鳴 にか き消 され て聞 こえ なか った。 業平 は歌 を詠 み,足 ず りを して嘆 く。

白玉 か な にぞ と人 の問 ひ しと き 露 と答 えて消 え な ま しもの を これ に続 けて 『伊勢物語』 は 「この話 は高子 が まだ若 く, 入 内 な さる前 の ことだ った。 彼女 の兄

の藤原基経 (836〜891)と 国経 は,当 時 まだ官位 が低 か ったが,出 仕 の途 中 にひ ど く泣 いて い る人 が い るのを聞 きつ け,男 が連 れて い くのを引 きと どめて,彼 女 を と りかえ したのだ。 それ を この よ うに鬼 とい ったの さ ( それ をか く鬼 とはいふ な り け り) 」 と, 注 釈 を くわ えて い る。 ただ人 の業平 は, み ず か ら 「身 を用 な き もの に思 ひ な して」

( 『伊勢 物語 』 九 段) い るほ ど力 が無 いので, 良 房 の命令 で高子 を と りかえ しに来 た基 経 たちの公権 力 の実 力行使 に は と うて い対 抗 で きな い。 結 局 ,

「あれ は鬼 の しわ ざだ った のだ」 と自分 自身 を納 得 させ, わ が身 の3 、が い な さを合理化 す る しか な か った, とい うので あ る。

良房 とその子 の基経 に してみれ ば, 高 子 は惟仁 親 王 ( 後の清和 天 皇) の 后 候補 と して 自家 の権 勢 を のばす ための持 ち駒 で あ る。斜 陽貴族 の業平 ご と きに盗 まれて はな らない。彼 らに とって は当然 の措 置 で あ った ろ うか ら,『伊勢 物 語 』 も 「高子 は鬼 に食 われ たのだ」 とい ったん は フ ィク シ ョン めか して はみ た ものの,す ぐ後 で 「じつ は彼女 の 兄 た ちがつ れ去 ったの だ」 と,   こ との真相 を明 か して い る。 それ に して も,平 安初期 とい う時代 を 思 うと き,   この事 件 がつ くりごとで あ ろ うが なか ろ うが, 「 鬼」 の解釈 の合理 性 に は驚 か ざ るをえ な い。 なお,史 実 によれ ば,高 子 が清和 天皇 の女 御 にな ったの は貞観 八年 ( 8 6 6 ) 十 二 月二 十七 日, 高 子 が二 十五 歳 の ときで あ る。

昔 , 男 あ りけ り」 で始 ま る詩 的小話 を集 め た

『伊勢 物語 』 は,全 体 をつ う じて, こ の男 が物 語 の主人公 とみ られて い る。 そ して, この優美 な歌 物 語 の主 人公 にお、さわ しい モデル と して は, 容 姿 端 麗 で恋 の和 歌 を巧 み に詠 む落 塊 の貴 公子 , 在 原 業平 を お いて他 にな い。 当時, 政 治 の中枢 を外 れ たか,外 され たか した貴族 の なか には才能 に恵 ま れ た文化人 が多 く, 彼 らの集 いには文芸 サ ロ ンの 香 気 が 漂 って い た。 そん な彼 らの 目に は, 「 そ の 心 余 りて, 詞 た らず。 しばめ る花 の色 な くて匂 ひ 残 れ るが ご と し」 ( 『古 今和 歌集 』仮 名序 ) と 評 さ れ た業平 の歌 は, 王 朝版 「ロ ミオ とジュ リエ ッ ト」

の創作 に うってつ けの素材 とな って映 ったで あ ろ

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う。 シェー クス ピア初期 の名作 「ロ ミオ と ジュ リ エ ッ ト」 はイ タ リアの名 門 モ ンタギ ュー家 の子息 ロ ミオ と仇敵 キ ャ ピュ レッ ト家 の娘 ジュ リエ ッ ト との悲恋物語 で あ るが,平 安王朝 の ジュ リエ ッ ト 役 に は北 家藤原 氏 の高子 が ぴ た りとは ま る。 こ う して業平 と高子 をめ ぐる恋 の葛藤 は,『伊勢物語』

の い くつ もの章段 を彩 る ことにな り,色 と りど り の花籠 をつ らねた よ うな歌物語 の傑作 へ と昇華 し て い ったので あ る。

さて,そ の後 の業平 が美男 の歌人 と して虚実 な い まぜの女性遍歴 と伝説 の衣 を過剰 に着 せ られて, こん にちに及 ん で い る ことは周知 の事 実 で あ る。

い っぽ う,高 子 は清和天皇皇子 の貞明親王 を産 み, 元 慶元年 ( 8 7 7 ) , 親 王即位 ( 陽成天皇) の 後 に皇 太 后 とな った。 ところが僧善祐 と通 じた とい う理 由で寛 平 八 年 ( 8 9 6 ) │ こ廃 后 の処 分 を うけ, 善 祐 は伊豆 国講 師 に左遷 され た。 高子 が洛東 白河 の地 に東光寺 を建立 した ことで両者 が接 近 した といわ れて い る。高子 の側 に,藤 原一 族 の権勢拡 大 の た め に利 用 され, 自由な生 き方 を封殺 され た 一鬼 に 食 われ た 一 とい う思 いが あ り, そ れが不祥事 の誘 因 にな ったので はな いか, 日 さが な い世 間 はそ う 噂 を した。 「業 平 との恋 」 や 「鬼一 口」 の説 話 に は そ の よ うな要 素 も加 味 され て い るで あ ろ う。

『伊勢物語』 を,藤 原氏 の権力欲 に翻弄 された人 々 の ための鎮魂 の歌物語 とみ る こと もで きそ うで あ る。

デ     マ

清和 ・陽成 0 光 孝三 帝 の治 世 ( 8 5 8 〜8 8 7 ) を 記 録 した正 史 『三 代 実 録 』 は延 喜 元 年 ( 9 0 1 ) に 成 立 した。 その仁和三年 ( 8 8 7 ) 八月十七 日の条 に次

の記事 が あ る。

仁 和三年 八 月十 七 日の夜 , 武 徳殿 の松 原 を二 人 の美女 が内裏 の方 へ歩 いて い ると,松 の下 か ら男 が ひ とり出て きて女 のひとりを引 き止 め,手 を とっ て話 し始 めた。 あ との女 ふ た りは待 って いたが, なか なか戻 って来 ない。 その うちに話 し声 も聞 こ え な くな ったので,そ ば まで行 って よ く見 る と,

女 の手 足 が ば らば らにな って落 ちて いた。 首 も胴 もな い。報 せ を うけた衛 門府 の者 た ちが行 ってみ る と,死 体 は消 えて いた。人 び とは 「鬼 が人 に化 けて女 を食 ったのだ」 と言 いあ った。

仁 和三年 は五 十 八歳 で光 孝 天皇 が崩 御 した年 で あ る。 第五十 八代光孝天皇 は五十五歳 とい う高齢 で即位 したが,そ れ に はわ けが あ った。清和天皇 の后高子 が産 ん だ陽成 天皇 はひ ととな りが帝 位 に お、さわ しくな く,元 慶八年 (884)に 退 位 す る。

皇 位継承者選 びは難航 したが,陽 成上皇 か らみれ ば曾 祖 父 に あ た る仁 明 天 皇 の第 四皇 子 時 康 親 王 (即位 して,光 孝 天 皇 )に きま った。 そ の光 孝 天 皇 の最終年 の八月 に上掲 の噂が流 れ出たのであ る。

同 じ話 は 『今昔物 語集 』 や 『古 今 著 聞集 』 に も 載 って い るが,内 容 は女 が鬼 に食 われ た <猟 奇 的 な >事 件 と して興 味本位 にあつか われて い る。 そ の点 ,『 三 代 実 録』 は さす が に正 史 と して の冷 静 さを保 って お り,話 の顛末 を次 の よ うに続 け る : そ の翌 日,転 経 の修法 の ため に諸寺 か ら百人 の名 僧 を招請 したが,僧 た ちは深夜 に騒動 の声 を聞 き, 我 さ きに部 屋 の外 へ とびだ した。 ま もな く鎮 静 し たが,自 分 たちの行動 を自覚 していた者 はいなか っ た。 もの に心 をた ら (証)さ れたのだ ろ う,と 彼

らは口 ぐちに言 いあ った。 この月 に,宮 中 と京都 に こ う した根 も葉 もな いデマ (不根 の妖語)が 三 十 六種 も流 され たので,そ れ らを詳 細 に記 す こと

はで きな い, と。

『三 代実録』 は,女 が鬼 に食 われ た <事 件 >を

「不根 の妖語」,つ ま り 「デマ」 の一語 で切 って捨 て る。 『伊勢 物 語』 六 段 に は 「鬼一 口」 を権 力 の 発動 とす る解 釈 が付 され て い たが,平 安 時代 の初 期 にお いて も,我 々 は随所 に この よ うな合 理 的思 考 の存在 を確 か め る ことがで きる。 む しろ問題 は, 半 月 の間 に この種 の デ マが三十六 も発生 す る とい う異常事 態 の ほ うにあ る。 『三代実録』 によ ると, この年 は諸 国 に大地震 が あ り,伊 豆 に は新 島が 出 現 した。七 月二十 日には五畿 内六道 を襲 った大震 災 で宮 殿 や民家 が倒壊,津 波 も発生 し,圧 死,溺 死 を8、くむ大勢 の犠牲者がで るとい う大惨事 にな っ た。 その後 も強 い余震 が八 月半 ば まで連 日の よ う

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に続 き,多 くの死体 が街角 や川原 に放 置 されて犬 や カ ラス に食 いあ らされ るままにな って いた。 武 徳 殿 の松 原 で < 鬼 に食 わ れ た > 女 の手 足 が落 ちて いた とい うの も,野 良犬 が くわえて きた死体 の一 部 で はなか った ろ うか。 その うえ大震 災 に はデ マ がつ き もので あ る。大正 十二年九 月一 日の関東大 震 災 の とき, デ マ によ つて朝 鮮 人虐殺 とい う惨 劇 が発生 した ことは,あ ま りに も有名 で あ る。

天災 ばか りで はな い, 平 安 初 期 の社 会 は律 令 制 崩壊 の危機 に ひん して いた。 律 令制 の国家 財政 は 戸 籍 や計 帳 に登録 され た一 定年齢 の男子 (課丁) の課役 に依存 して いたが,人 び とは この過酷 な課 役 を さけ る方 法 を い ろい ろ とあみだ した。 そ の結 果, 三 善 清 行 の 「意 見封事 十二 箇条」 に は 「備 中 の運磨郷 で は,天 平神護年 間 (765〜767)に 1,900 余人 いた課丁 が, 貞 観年 間 ( 8 5 9 〜8 7 7 ) に 7 0 余人, 延喜十一年1 ( 9 1 1 ) に はひ と りもいな くな った」1 5 )

とあ る (坂本 1974)。政府 は律令制 支配 を転 換 し な いか ぎ り,国 政 を維持 で きな くな って いたので あ る。 そ こへ大震 災 が追 い うちをか け る。 時 の政 府 は こ う した社 会 不安 を あお る 「不根 の妖語 」 を 鎮 め よ うと名僧 を集 めて祈祷 を させ たが, 肝 心 の 名 僧 た ちが深夜 の集 団 幻覚 にお びえ て右 往 左 往 す る始末で,こ れで は効果が期待で きるはず もなか っ た。

集 団 ヒス テ

『古今著聞集』 には,「武徳殿 の松原 で女 を食 っ た鬼 の話」 を筆頭 に,当 時 の一連 の デマや集 団幻 覚 の事例 が 6 つ も並 べ て収載 されて い る。 その う

ちの 2 例 を紹介 しよ う。

延長八年 ( 9 3 0 ) 六 月, 宇 多院 の身辺警護 官 が, 三位 と五位 の公卿 が人 に松 明 を持 たせ て右近 の陣 に入 るところをみか けた。 しか し現実 に は,そ れ に該 当す る者 たちが陣 中 に存在 しなか ったので, 人 び とは鬼 の仕業 か と怖 が った。 ( 『古 今 著 聞集 』 巻 第十七)

天 慶 八 年 ( 9 4 5 ) 八 月 の夜 , 内 裏 の宣 陽 門 と建 春 門 の間 に, 馬 2 万 頭 ばか りの音 が した。 内裏諸

門 の警 備 員 が み な それ を聞 いた。 は じめ は馬 の ひ び きだ ったが後 には数百 の人 の話 し声 が聞 こえた。

5 日 後 の朝 に また,紫 震殿 の左近 の桜 の下 か ら永 安 門 まで, 鬼 の足跡 と馬 の足跡 が い っぱ いあ った。

昔 は こ う した こ とが よ くあ った とい う。 ( 『古 今 著 聞集 』 巻第 十七 )

これ らの説話 は,だ れかが体験 した幻視 「公卿 を見 る」,幻 聴 「馬 の ひび きや人 の声 を聞 く」,あ るい は錯視 「人馬 の足跡 を鬼 の もの と思 い こむ」

が巷 間 に噂 とな って流布 し,記 録 され た もので あ る。 このよ うに,短 時 日の うちに精神感染がお こっ て,集 団 が幻覚 を共有 す るよ うな病理現象 は,一 般 に集 団 ヒステ リー といわ れ る。 集 団 ヒス テ リ

は,現 在 で も精神構造 が未熟 で,知 的 ・情緒 的 に 似 か よ った人 た ちの間 に しば しば発生 す る。 こ う した人 たち は もと もと被 暗示性 が克進 して お り, 自我 意 識 の確 立 が じゅうぶ ん で はな いので同一 視 の機制 が働 きやす く,仲 間 の言動 や病者 の症状 を と りこんで たやす く精神感 染 をお こ して しま うの で あ る (中村 1980)) 。 しか し,集 団 ヒステ リー の発生 と転帰 は,個 体 的要 因 よ りも社 会 0文 化 的 要 因 の ほ うに大 き く影 響 され る。 迷 信 が支配 す る 未 開社 会 で は精 神 感 染 は 日常 茶 飯事 で あ る し, 顕 在 的恐 怖 に さ らされ ( P a r i n   1 9 4 8 ) 1 7 ) , ぁるい は 潜 在 的 不 安 の 浸 透 す る社 会 ( 」o h n s o n   1 9 4 5 ;

」a c o b s   1 9 6 5 ) 1 8 , 1 9 ) では さ さい な き っか けで集 団 ヒステ リーが発生 す る ことはよ く知 られて い る。

そ うい う意 味 で は, 自 我 の確立 が不十分 とい う個 体 の条 件 , 迷 信 が支配 す る生 活環 境 , 種 々の社 会 不安 な ど, 平 安 時代 は集 団 ヒス テ リーや デマの発 生 と伝播 の た め の格好 の培 地 で あ った とい って よ

いで あろ う。

錯   覚

後 世 , 「延 喜 ・天 暦 の治 」 とあが め られ るよ う に, 第 六十 代醍醐 ( 在位 8 9 7 〜9 3 0 ) , 第 六十二代 村 上 ( 在位 9 4 6 〜9 6 7 ) 両天 皇 の善 政 はた いへ ん名 高 い。 醍 醐 天皇 は, 大 寒 の夜 に諸 国 の民百 姓 は ど ん なに寒 い思 いを して い るだ ろ うか,   と衣 を脱 い

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で投 げ出すなど,王 道聖主 のあるべ き姿 を身 を もっ て示 され た とい う (『大 鏡 』,『 十 訓 抄 』 ほか)。

『大 鏡 』 は 「もろ こ しに は尭 ・舜 の帝 と申 し, こ の国 に は延喜 0天 暦 とこそ は申す めれ」 と讃 えて い る。 したが って,延 喜 か ら天暦 にか けて鬼 が し き りに内裏深 く進 入 す る とい うの は,奇 妙 な話 で あ るが (「延 喜 ・天暦 の治 」 の観念 は十 世紀 後半 に生 まれ るが,そ れ は受領任 官希望 の 申請書 (申 文)か ら出た。 中下級貴族 の抱 く現実 への不満が, 延喜 ・天暦 時代 を人事 が公正 に行 われて いた聖代 と幻想的に美化する思 いを生んだのが真相 らしい)20), と もあれ その実 態 を観 察 す る と しよ う。 まず 『大 鏡』忠平伝 か ら,藤 原忠平 が紫震殿 (南殿 と もい

う)で 鬼 に襲 われ た事件 を と りあげた い。

忠 平 の屋敷 に は宗像 明神 が祀 って あ り, こ の明 神 は忠 平 に は実 際 に話 を され た。 あ る と き明神 が

「自分 よ りお前 の位 が高 いの は苦 痛 だ」 と仰 せ ら れ たので,忠 平 はその神位 を高 め る ことを朝 廷 に 奏 請 した (前段 )。 延 喜 ,朱 雀 院 の御 代 の こ と。

忠平 は宣 旨を承 って,そ の趣 旨を執行 すべ く陣座 に行 く途 中,南 殿 の御 帳 の後 ろに ものの気配 が し て,太 刀 の鞘 の先 をむんず と捉 え られ た。奇妙 な

ことだ と思 い,触 って み る とその手 に は毛 が む く む くと生 え,爪 は長 くて刀 の刃 の よ うで あ る。

「鬼 だ」 と恐 ろ しか ったが,意 を決 して 「公 の宣 旨を うけた まわ って議 定 にお もむ く者 を捕 まえ る の は何者 か。手 を放 さない と身 のためにな らぬぞ」

と言 い,太 刀 を抜 くと,鬼 は うろたえて手 を放 し て艮 (東北)の 方 向 に逃 げ去 った (後段)。

忠 平 (880〜949)は 基 経 の四男 で,二 十歳 の と き兄 時平 の死 によ って嫡 家 を継 いだ。 そ して妹穏 子 を后 とす る醍醐 天皇 の政務 を補佐 し,穏 子 が産 んだ朱雀天皇 が即位す ると,摂 政,関 白 と,朱 雀 ・ 村上 両 朝 を通 じて政 治 の枢機 を 占め た。 その第六 十 一 代 朱 雀 帝 (在位 930〜 946)の 時 代 ,摂 関政 治 の周縁 に は貧寒 と した民百 姓 の暮 ら しと貪欲 な 受 領 た ちの領 地 争 いが あ り,そ の きわ み と して平 将 門 と藤 原純 友 が公然 と朝 廷 に反 抗 す る,承 平 天 慶 の乱 が起 こ った り した。 一 連 の事 件 は律 令制 度 の崩壊 を象徴 す る もので,内 裏 の奥深 くまでお よ

ぶ 鬼 の跳 梁 は上下公卿 の気 のゆ るみ を反 映 して い る。

さて,忠 平 の一 喝 にあ って鬼 はあ っけな く逃 げ さ ったので,研 究者 の多 くは単純 に 「忠平 は豪胆」

と説 いて い る21,2の。 しか し忠平伝の前 ・後段の内容 を照 らしあわせ ると,忠 平 の別の顔がみえて くる。

忠平 は, 自 身が祀 る<宗 像明神の声 を聴 く>な ど, 自己暗示 にかか りやす い精神構造 の持 ち主であ った (前段)。 その彼が漆黒の闇のなかを饉魅胆煙の影 に おびえなが ら,南 殿 の御帳の後 ろを通 りかか ったと き,腰 の刀がなにか に触れたとす る。動転 した忠平 の心 に鬼が出現す るのは, ご く自然 のな りゆ きで, 文字 どお りの疑心暗鬼 であ る。 しか し,皇 威 を楯 に か ろうじて発 した叫びによ って,誰 よ りも忠平 自身 が 自己暗示 の呪縛か ら解放 されたのである。醒 めた 目で見 ると鬼 な どど こに もいなか った―鬼 はあ っけ な く逃 げ うせた―のである。 自己暗示下 の心 には, 鬼 は艮 の方向に逃 げたよ うに映 る。忠平 は豪胆 だ っ たのではな く,夜 の闇 におびえ る平均的な平安貴族 のひとりにす ぎなか ったのである。

悪     戯

醍醐天皇 (在位 897〜930)の 御代 に,毎 夜,仁 寿 殿の対代の御灯油を盗みさった鬼があった。

醍醐天皇 の御代。仁寿殿 の対代 に真夜中になると 怪 しい ものが現 れて,灯 火 を紫寝殿 の方 に盗み さっ てい くことが続 いた。源公忠 (889〜948)が 天皇 に,

捕 らえ ることはで きないで しょうが,な ん とか正体 を見 とどけてみま しょう」 と奏上 した。公忠が紫農 殿 の脇戸 のそばに隠れて いると,午 前二時 ころ灯火 を盗んで行 く重 そ うな足音が し,灯 火が動 いて行 く。

公忠が走 りかか って蹴上 げると,足 に何かが強 く当 た り,怪 物 は油 を こぼ しなが ら逃 げさった。翌朝, 現場 に行 ってみ ると,真 っ赤 な血が紫震殿 の塗籠 の 方 に続 いてお り,塗 籠 の中 は一面 に血 が こばれてい た。

天皇 は公忠 の勇気 をたいそ うおほめにな った, と い う (『今昔物語集』巻第二十七)。

仁寿殿 は紫寝殿 の北 にあ り, も とは天皇 の常 の ご

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