、p
近世初 期 日 本 図 の 作成 に つ t ) て
丁
越 中国 か ら の 検討
深井 甚 三
(2 0 0 2年1 0月2 0日 受 理)
O
n T h e pr ep
a r atio n of Jap a n e s e Figu r e in a n e a rly pe riod
of E do e r a‑ Exa min atio n fr o m Ettyu
Jin z o F
U
K A IE‑m ail: fu kai @ edu.toya m a‑u.a cJ P.
キ ー ワー ド: 日本図 初 期日本図 江戸 幕府 絵図 越 中 、
Key w o rd s :Japa n e s e figu r e, e arly pe riod Japa n e s e figu r e, E do shogu n ate,E tt yu
は じ め に
川村 博忠 氏に よ る国絵図 研 究に と も なう 日本絵 図の研 究を契機に し て, 初期 日本図に つ い て の研 究が活 発化し た。 川 村 氏は, 幕府作 成の官撰 日本 図に は慶長 日本図と正 保 日 本 図の間に, 二 つ の寛 永 日本図があること を明 らかに し, 国 会 図書 館蔵 日 本 図 (以 下, 国 会 図書 館図と表記) は寛永1 6年 改訂の 日本図で あ り
., 佐賀県 立 図 書館蔵 日本図 ( 蓮池藩 鍋 島 家旧 蔵, 佐 賀県立図と表記) が寛永 1 0年に家 光 政権発 足 時に作成さ れ た国 土 掌 握の総 仕 上 げ 的 日本図 で あ る と い う 新 見解を提出 し
た ( 1 ) 。 川村 説に対 し て黒 田 日出男 氏の 批判 や 塚
本 桂大 氏の批 判が行わ れ てい る が (2) , とり,わ け 近 年は海 野 ‑ 隆 氏に よ る重 要な川 村 批 判が な さ れ (3' , 川村 氏も反 論し た もの の (4) そ れ は十 分な もの と はい えず, これに対して 海 野 氏に よ■
りさら
に批 判が行わ れてし
、
ゝるのが現 状で あ る (5) 0
こ の 一 連の論 争によ り, 初 期 日 本 図に つ い て 川 村 氏によ り明ち か にさ れ た, 次の 点が間 違い の な
い こ と が確 実に な っ た。 そ れ は, 第 一 に寛 永 期に 日 本 惣 図の編纂が幕 府によ り実 施さ れ た こと が 正
しい こと, 第二 に佐賀県立図は寛永1 0年の 国絵図 と広域 図を材 料に して作成された幕 府 作 成の 日 本 図の 原 図を も と に し た図 やあ る こと, 第三 に国 会 図書 館図は慶 長で はなく, 後の寛永1 5年以降に描 画さ れ た日本絵 図で あ ることで ある。
当 然に こ の重要な業 績を上 げられた川 村 氏にも 不十 分な点は あ る。 そ れ は川 村 氏の場 合, こ の 国 会 図書館図の原 図につい て の検討が十分で な か っ たこ とで, これ に対して̀
, 海 野
嘩
は原 図が慶 長3年 (19 5 8) か ら同6 年に成立し た との見解を示し た (6) 。 川 村 氏はこ の批 判に反 論し た もの の (7) , 自ら記して い る ように専ら徳 川 政 権の 日本図作 成
に目を向けて い ること と, 海 野 氏が批 判し た よ
う
に, 氏の記 載 事項に つ いての 検討が城 所 在 地に ほ ぼ 限 定さ れて い る点の問 題が あ る。 な お, 海 野 氏
は幕 府に・よ る寛 永1 5年の 日本 図 作 成の取 組みは認 め る が, 結 局こ の 時に正 式な日 本 図 作 成は実 現せ ずに , 正 保の国絵図 ・ 日 本 図 作 成と な っ た こ と,
そ して こ の時に応 急 処 置と して 豊 臣 期の 日本 図を 利 用 し た絵 図が作 成さ れ, これ が国 会 図 書 館 図で あ る との説を出さ れて い
畠
( 8 ) .な お, 先の塚 本 氏や海 道 静 香 氏は, 諸 種の初 期
‑ 12 9 ‑
の日 本 図を図 形と記 載 内容か ら検 討して い る。 塚 本 氏は前 記 点か ら初 期 日本図に三系 統を見い だ し,
最も古い の が松平 定 信が 旧 蔵して い た南波 家 蔵 日 本 図 犀 風の 系 統 図 (第3 系 統) であ り, 佐賀県立 図書館図もこれ に含ま れ る とする。 国 会 図 書館蔵 日本 図な どの 同 系 統絵図 (第1 系 統) は島原の乱 以 降に 作 成さ れ た が, 原 拠の 国 絵 図は不 明で, 残 りの 家 光枕図 犀 風 系 (第2 系 統) は承 応 頃か らの 作成とする (9) 。 海 道 氏は, 国 会 図 書館図と関 係
の あ る現存す る山本氏 蔵 日本図 犀 風 図 ・ 下 郷 氏 所 蔵 日本図な ど は か の慶長 日本図 系諸図は国 会 図書 館 蔵 図 以 外に も参考と し た絵図が あ る こと, 肥 前 国に島峡名が多い の は島原の乱よ り は文禄・ 慶 長
の役との関連を想 定さ せ る と指 摘して い る が (I O) ,
これ らの 図は塚本氏の分 類 で第2 系 統と さ れ る図
であ り, 海 道 氏の指 摘が も し正 し け ればこれ も原 図が豊 臣 期に まで遡るこ とにな る。
本 稿で は, これ らの 3 系 統あ る と さ れ る図の う ち代表的な絵図を そ れ ぞ れ取り上げること にする。
こ こ で は川 村 氏が特に着目し た国 会 図 書館図と佐 賀県立 図 書館図を主に して取り上 げたいが, 前 者 は塚本氏の いう第1 系 統 図, 後 者が第3 系 統 図と な る。 残りの第2 系 統 図は下 郷 氏 所 蔵 日 本 図 ・ 秋 岡 氏 旧 蔵 日本図(‖) を対 象に, こ の際に第3 系 統 図の南 波 氏 所 蔵 日 本 図も 一 緒に取り上 げて初期 日 本図の作成につ い て検討して み たい。
検 討に当たっ て は, 越中の 図 形と地名を見るこ とに な る。 地 名の 場 合は, これ まで城 所と して 記 載さ れ た地名が検討の 主と な っ て い た が, 海 野 氏
の 指摘に あ る よ う に (12) , 城 以 外の 地 名 記 載 も 含 めて全 国に及ん で検 討す る余 地がある し, ま た海 道 氏は慶 長 日 本 図 系 諸 図にて誤 記 地 名の点か ら試 みて い た。 し か し, 全 国の地 名 総 点 検は容 易で は ない。 こ の た め初 期の 地理に変 化の あ っ た地 域を 対 象に して検 討す るの が と り あ えず 有 効な方 法と な る。 そこ で, こ の原 図 成立 を考え る 上 で重 要な 記 載を持つ, 筆 者が居 住す る・越 中 国に つ い て取 り 上げること が有 効なの で あ る。 越 中は, 初 期の城 下町変 更や, その ため の 中心街 道 交 替が あ り, 初 期日本 図の作 成 年 代 判 定の 参 考と な る地 域であ る。
も ち ろ ん, こ の国 会 図 書 館 図だ けで はな く, 佐賀 県立 図書 館 図な どの初 期日本 図も含めて こ の両 国
の記 載に つい て調べ , こ の初 期 日 本 図の成立に つ
い て考えて み たい 。
これ まで 国 会 図 書 館 図・佐賀県立図書 館図は幕 府 撰 日本図ない し その 写と考え ら れて き た が, 念
の た め に越 中に つ い て も見てみ る必 要は あ る。 そ の た め幕府 へ 提 出さ れ た国 絵 図や広域図と対 照す る必 要が あ る が, 初期 北 陸 道の図を見る こと が で き な かっ たの で, こ こ では国絵図の検討に し たい 。
ま た, これキこあ わ せて 国 会 図 書館図, 慶 長 日 本 図 を も と に し た と さ れて い る 「日本分 形 図」
(13 )
が本 当に同 図を も とに して い る か も念の た め越中につ
い て検 討してみ た い 。 な お, 初期 国絵図の詳しい
検 討は先に行 っ て い るの で (1 4) , 本 稿で は そ れ を 踏ま えて取り上 げる が, 残 存 する初期の越 中 国絵 図に は内 容が簡 略さ れ た ものが あ る な ど, 越 中で
は その検 討に も限 界が あ る こと を断っ て おき、たい
。
‑
,
日 本総 図
の検討
I , 国会図書 館蔵 日本図
国 会 図 書館蔵 日本図 (3 7 0セ ンチ ・ 4 3 3セ ンチ)
は, 慶 長 .( 後に寛永) 幕府 撰 日本図と さ れて き た、
日 本 図の代表的な絵図で あ る。 幕 府に よ る慶 長の 日本図と さ れ たの は, かつ て の国 立 上 野 図 書館に
収 蔵さ れ た大 型で美麗, かつ 立派な日本図で あり,
徳 川 期 以 前の日 本 図に は み ら れ ない格段にす ぐ れ た姿を措い て い ること か らで あ る(' 5) 。 し か し,
前 述の よ う に同 図は、 記 載 内 容か ら寛永 後 期の 作 成とする見解が出さ れて い る。
こ の絵図は貴重な絵図だ け に現物を見 られ ない が, その写 真が 入手 可 能で あ り, これに も と づい て検 討 する。 こ の写 真な ど を も と に, 初 期 日本図
の越 中の図形 を次 真の 図に示し た。
図ア に 見る よ うに , こ の日 本 図に は十二 町潟 (元は布 施 潟の呼 称, 現 氷 見 市) が描か れて い る ちの の, 越 中 最 大の潟で あ る放生津 潟が省か れて
い る重 大な特 徴が あ る。 これは後に検討す る越 中 慶 長 系 国 絵 図の大き な特 徴 であ る
、。
次に越 中の 記 載 都 市を街 道 ご とに 記 載す る と、
次の よ うに記して い る。
○(金 沢 一 森 山) 一 今 石 動 一 守 山 ‑ (能 登)
O 「い ま ゆ き」(今石動)‑ 「黒 河」‑ 「戸 山」‑ 「魚 津」‑
園 ,
初
期 日 本 国 の越
中 の 図 形凪T 、 再 会 回 書 dr所 Jt F) 本 威
河 ウ、 舟 汝 氏 所 Jt 日* 包
申オ、 ItPq 氏 所 Jkfl ホ 酔
飯 キ、 内 閣 文庫JE rヰ中 EZ[ 固l
国イ、 佐 兼 れ立 回 書 d[ 所 Jk 日本 内 ( 壬 NL文 JL)
阿エ 、 下♯ 氏 所Jt 日♯ 可
F カ、 r 戸♯ 分 形 PIJ
●ー
←
画 ク、 頼 美 文 J k Jt r越中 国 園l
‑ 13 l ‑
「境町」 ‑ (越 後)
○ 守 山 一 富 山 O 「黒 河」‑ ( 高山)
絵 図に は城 下 町に □の記 号が記 載さ れ る が, 上
の越 中の 町に はいずれ も城 下 町 記 号が ない。 加賀 藩の城 下 町は金 沢で あ り, 富山藩が成立するの は 寛 永1 6年 (1 6 3 9) で あ っ た (‑ 6) 。 ま た, 日本図の 関係上,. 藩主の居 城す る城 下 町だ け に城 下 町 記 号 を付して い たの で あ り・, 富山の ように富山 藩 成 立 以 前に城 下 町と し て幕府に認め ら れ てい て も, 港 主 以外が居 城す る町は城 下 町
記
号は付け ら れ な かった と見ること がで き る。 こ のた め川村氏の よう.に 富山 藩 成 立 前の寛永1 0年代の状 況を記し た もの と 見ること もで き る。
し か し, 重 要なの は寛永 期に存 在し た越 中の重 要都市で あ る高岡の記 載が こ の絵図に は ない こと
であ る。 こ の 日 本 図で は高岡が記 載さ れずに, 代 わ りに守 山が記さ れて い る。 守 山か ら富山や今 石 動の道が措か れ た街 道 筋か らする と, 絵図は高岡 が ま だ建 設さ れて い ない時
廟
の越 中を措い て い る ことに な る。 富山 城に隠 居して い た前 田 利 長が慶 長1 4年 (1 6 0 9) の大火により 火 災に弱い富山を越 中の本 拠 地にす るこ と を や めて, 新たに関 野の 地に新 城 下 町高岡を同 年よ り建 設し たの で あ る(1 7) 0 そうす る と絵図は, 慶 長1 4年を さ かのぼる時 期の 作 成とい うことにな る。
守 山が城 下 町と して 建 設さ れ たの は, 天 正1 3年 (1 5 85) に秀 吉か ら前田利 長 へ 越 中 川 西 地 域が与 え ら れ た際で あ っ た ‖8) 。 こ のと き利 長は中世 以 来の重 要な山 城の 守
中
城を拠 点と して 城 下 町 建 設を実 施 し た の で あ る (1 9) 。 ま た, 今 石 動は, 天 正 1 3年の地震に よ り
′
木 船 城が崩壌し た た めに, 翌年
に建 設さ れ た城 下町で あ っ た (2 0) 。
魚 津は前 期に は小 津と も記 載す る が(2 1' ,
中
世 以 来の町で, 魚 津 城は こ の中 世 後 期に は存 在してい た。 境町 は越 後との境に あ る町で, 古く か ら越 後へ 通 ずる北 陸 道はこ の土地を通 っ た要 所であ り,
境 関 所が設 置 さ れ た町で あ る。
富 山の 町 は 「戸 山」 と記 載さ れて い る が, 富山 は元は外 山 郷と記 載さ れ た こ と も あ り(2 2) 。 近 世 初 期に は富 山や外 山で な く, 戸 山の 記 載なの は単 な る誤 字か, あ る いは作 成さ れ た時 代に ま だ富 山
の 記 載が定 着して い な か っ たこ との表れで あ る。
描 写さ れ た街 道に つ い てみ る と, 金 沢 一 今 石 動 一 黒 河 一富山の街 道が近 世初期の 北 陸 街 道で あ る。
寛文初 年に今 石動一高岡 一 小 杉 新 町 (明暦4 年町 建 設) (2 3) 一 富 山の街 道が北 陸 街 道に 変 更さ れて い るo 今 石 動 一
.守 山か ら能 登へ の道 も, 元 和 2 年 (1 6 1 6) に宿 役の定め が出さ れ た際に(2 4) , 北 陸 街 道な ど と と もに宿役が設 定さ れて い た越中の重 要 街 道で あ っ た。
絵図で注 目さ れ る街 道は, 黒 河から高山へ い た る飛 騨街道で あ る。 富山か ら高山では なく, 黒 河 か ら飛 騨 街 道が措か れて い・るの は, 飛 騨 へ の物 資 運 送ル ー ト と して岩瀬から 神 通 川を利 用 して富山
へ い た り, 富山か ら神通 川 沿い に飛 騨 へ 抜け る飛 騨 街 道の重 要性がこ の当 時に大き な もの では な か っ
た か らで あ ろ う か。
佐々成 政の 富山 城 下 建 設の詳しい こと は不 明で あ る が, 彼が越 中を領 有し た際に , 城 下 町 建 設を 行 っ た こと は柴田勝 家の北 庄 建 設, 前田利 家の所
口建 設か ら も間 違い ない。 も ち ろ ん, 上 杉と対 略 す る前線の 地であっ た だ け に, 富山の城 郭 整 備は と も か く, 城 下 建設に つ い て は限 界が あ っ た よう
で , こ の た め に慶 長1 0年の 利 長に よ る富山の再 逮 (2 5) が行わ れ る必 要が あ っ たの であ る。
こ の再 建 以 降に富山か らの 飛 騨 街 道は 一 段と重 要に な っ た と考え ら れ
争
が, そ れ以 前は黒 河も水運との関わ りで重 要で あっ た と み ら れ る。 すな わ ち, 中 世の越 中の代表的 都 市は守 護 所も設け ら れ た湊 町 放 生津で, こ こに は元将軍足 利 義 材 も 身を 寄せて いた (2 6) 。 放生津に加え, 三津 七 湊に数え ら れ た岩 瀬 湊も重 要で あ る が, 中 世 後 期の岩
輝
湊に つ いて は不 明な所が多い 。 よ く知ら れて い る よ うに寛 文 期に神 通川の 流 路が大き く変わ り, 東 岩 瀬が神 通川の川湊と して 発 展 して いくこ とになっ た。 寛 文 期に東 岩 瀬に住 民が移 転し た と さ れて い る が (2 7) , 富 山 藩 領の 年 貢 ・ 役 銀 負 担 者が勝 手に 他 藩の加 賀■
藩 領 へ 移 転す るの も限 度が あ り, 家 持 層の移 動は次三男 移 住や店 舗 利 用のみ と み ら れ る。
寛 文7 年の家 数は 16 3軒で あ る が (2 8) , 中 世 後 期の 西 岩 瀬もこ の家 数と そ う変わ ら ない 規 模の湊 町で あっ た と み ら れ る。
中 世 後 期の飛 騨 へ の物 資は, こ の 湊 町 岩 瀬だ け
で なく, 放 生津から も 送 り 出されてい たこと が予 想される。 放生津か ら神通 峡 谷を経て飛騨へ の物 資輸 送は, 下 条川 ・ 鍛 冶川の水運 を使用し, 黒 河 近 辺の河 岸 場で荷 揚 げし, 馬に積み替えて黒 河か ら分 岐 する飛 騨 路を利 用す ること が可 能と な る た めである。 こ の点を裏付け るの に, 黒 河 へ中世後
,
i
期に真 宗 寺 院の専福 寺が八 尾よ り移転して き た こ
と がある (2 g) 。 こ の寺は瑞泉 寺 ・ 間名 寺と ともに 天 正1 3年 (15 8 5) に秀吉から 制 札を与え ら れ た有 力 寺 院で あっ た(30 ) 。 こ の制札に専福 寺 内の百 姓 ・ 町 人を記 載して串り, 当 時 同寺は町 人 も 居 住 する
寺内を形成して い た こと が わ か る。 中 世末の黒 河 は, こうし た寺 院が移転して くる は ど経済 的に重 要 な土 地に な っ て い た と み られる。
さて ,
「戸 山」 ・ 黒 川 記 載も含め て, .以 上から する と, 原 図はやはり 近 世初期の天
丘
1 4年か ら慶 長1 4年の間の越 中を措い て い た と み な しうる。2 , 佐 賀県 立 図書 館 蔵日本図
佐賀県 立 図書 館図は蓮池藩鍋島家が所 蔵 して い た蓮 地 文庫の 日本図 ( 中部3 8 4×27 9セ ンチ) で あ る。 これ は幸い に も, 現物を拝 見さ せて いた だ き,
北 陸 地 域と その周 辺の 写 真 (写真1 参照) を撮ら せて い た だい て い る。
こ の日本図は街 道描写が国 会 図書 館図よ り詳し く なっ てい る。 前項 掲載の 図イ に示し た ように,
これ も十二町 潟のみ記 載さ れて い る。
写 真1 佐 賀 県立 図書舘 蔵 日 本 図
主 要な街 道と町 名だ け を下に整理 す る。 な お,
同 図と同 系 統の山口県 文 書館蔵 毛 利 文庫の日 本 図 (中 部3 7 4 ×2 9 2 セ ンチ) (3 1) は ( ) 内に記 載す る。
O 「は にう」(「ハ ニ ウ」)‑ 「今ゆ す る き」(「今 ユ ス ル キ」)‑ 「新 町」(同)‑ 「黒 川」(同)‑ 「戸 山」< □ で
囲む >(「富山」< 同赤塗 り >) ‑ 「高月」(同)‑
「魚 つ‑」(「魚津」)‑ 「新
町
」(同) ‑ 「堺町」(同) ⊥ [ 越 後] (同)O 「高 岡」< □ で囲む > (同 赤 塗り)‑ 「森 山」(同)‑
「水 上」(「氷 見」)‑ [能 登])
O 「黒 川」(同)‑ 「城の尾」(「城 野 尾」) ‑ [ 杉 原 ・ 高 山] (杉 原 ・ 高山)
O 「高岡」(同) ‑ 「新 町」(同) ‑ 「石 丸」(同)‑ 「中野」
(同)‑ 「城か はな」(城カ ハ ナ) ‑ 「赤尾」(同) o 「今ゆ す る き」(「今ユ ス ル キト 「安 井」(同)‑ 「福
光」(同)‑ 「小俣」(同) ‑ [加賀] (同)
O 「戸 山」(「富山」) ‑ 「長 戸」(同) ‑ [杉 原 ・ 高山] (杉 原■・ 高山)
○′「
戸 山」(「富山」)‑ 「うれ」(ウレ)
こ の絵図に は高岡が措かれ, し か も富山と同様
に 口 で囲む城 下 町の 扱い が さ れ てい る。 高岡が城 下 町で あ っ たの は
, 建 設さ れ た慶長1 4年か ら 一 国
‑ 城令の元 和 元 年ま で で あ る(3 2) 。
国 会 図書 館図に重 要 地 点と して記 載さ れて い た 守 山は,
「森山」 と して 記 載さ れ てい る。 利長に よ る富山 建 設後にも 守
,LLJに は町 人が残っ て いた が,
高岡 建 設後に ほ と ん ど高岡へ 移 転し た と考え ら れ,
その後の守 山は能 登 路の宿場 町となっ てい た。 な お, 富山はこ の絵 図でも 「戸 山」 記 載と な っ て い た。
北 陸 街 道の今 石 動 一 黒 河間に新 町が記 載さ れ て
い る が, 新 町 (戸 出 新 町) が成 立し たの は元 和3
年の羊と で あっ た(3 3) o 前 で
省
略し た今 石 動 ‑ 宿 光 間の街道筋にある安 居 (‑r安 井」) も元 和2 年に町立て さ れて い る(34) 。 つ ま り, こ の点か ら す る と元 和 期に下る内容とい うこと に な る。
街 道 筋を
あ
る と, 北 陸街道の飛 騨 路 へ の分 岐 点 は富山では な く, こ こ でも黒 河と な っ て い る。 高 岡 建 設 以降に富山 城は破 却さ れずに その ま ま温存さ れ, 町 人ら も あ る程 度 居 住して, そ れ な りの 町 と して 存 続は して いた (3 5) 。 し か し, 富山 が城 下 町と して重 要 性を再 び 帯 びて く るの は寛 永1 6年に 富山 藩が成立 して か らで あ る。 こ の結 果, 富山か ら黒 河を経 由し ない 飛 騨 街 道で は な く, 西か らの
道を も考 慮し た黒 河か らの ル ー ト が飛 騨 へ の交 通 路と して捉え ら れ たの で あ ろ う。
以上の よ うに , 古い形 態を示す とい わ れ る こ の
‑ 133 ‑
絵 図も その記 載 内 容で は, 越 中は国 会 図 書館図よ り も新 しい記 載で あっ た。 高岡 ・ 戸 出 ・ 安 居の 記 載か らすると, 元 和 以降の内容と な る・。 し か し,
佐賀県 立 図書 館図 ・ 山口県立図 書 館 図の作成 年 代 と さ れてV) る寛永1 0年を下ること は な い。
3 , 南波氏蔵 日 本 図 と 下郷氏 所 蔵 日本国 ・ 秋同 氏 旧蔵日 本 図
こ の個 人 所 蔵の著 名な絵図は当 然な が ら現物を 見ること な どで き ない。 し か し, 幸い に も 『日 本
の古 地 図』 と 『日本古 地 図 大成』(
3 6)
に図版が収 録 さ れて い るの で これ を使 用す る。
南 波氏 蔵 日本図 (5 6 ×1 2 4セ ン チ) は, は し が きで記し た ように佐賀県立図 書館図と同 系 統 図と さ れて いる。
「越中の 図 形」 の 図り を見る と, や は り十二町 潟 図のーみ が描 写さ れ, その形 は佐賀県 立図 書 館 図と同様であっ て、 国 会 図 書館図と は若 干 異な る。
街 道と町 村の地 名は次の通 りで あ る。
○(金 沢, 城 所の赤 色□) 一 高岡(城 所の赤 色□)‑ (黒 川 無 記 載)一富山(城 所の赤色□)‑ (越 後)
○(能 登)一高岡
○(黒 川 無 記 載)‑ ( 高山, 赤 色□)
南波 図に は高岡が城 折と して 記 載さ れ て い る。
こ の点, 佐賀県 立 図 書館図と や はり 対 応す る。 た だ街 道 筋の 重 要な分 岐 点と して 黒 川の位 置が記さ れ て い る. 加賀は小 松 ・ 大 聖 寺 記 載は ない の で ,
こ の絵図は高岡 建 設か ら廃 城まで の慶長1 4年か ら 元 和 元 年の 状 況を示す ことに な る。
次に, 塚 本 氏が第2 類 型と し た二 つ の絵図を見
て お き たい 。 下 郷 氏 所 蔵 日 本 図 (1 0 4 ×2 6 5セ ンチ,
図エ) と秋岡 氏 旧 蔵 日 本 図 (5 6 ×1 2 4セ ン チ, 図 オ) で あ る が, こ の越 中の 図 形は海岸線を ギ ザ ギ ザに して い る点の特 徴が あ る。 し か し, 潟 記 載が な く, と もに これ まで取り 上げた日 本 図と異な る。
下 郷 氏 所 蔵 日 本 図で あ る が, これに記 載さ れ た 主 要 地 名を交 通 路ご とに示す と次の 通りで あ る。
○(七尾) ‑ 「黒川」‑ 「と山」 ‑ (越 後)
○(金 沢) ‑ 「黒川」‑ 「と 山」
O 「黒 川」‑ (飛 騨高山)
秋 岡 氏 蔵 日 本図は街 道 筋の記 載が な く, 地 名だ けで あ る が, こ の地 名は次の土 地であ る。
○富山(城 所の 赤口) I 「黒 川」 ・ 「鳥 山」
下 郷 図は黒 川 以 西に は越 中の 地 名 記 載は な い。
黒 川が飛 騨との 分 岐 点と して 記 載さ れて い るの で
初 期の もの と な る。 ま た, 七 尾と金 沢 へ の街 道 分 岐 点は国 会 図 書館図と異な り黒 川か ら と な っ て L,、 る。 これ は国 会 図 書館図より簡略な記 載の た め と み ら れ る。 次に越中の地 名に は城 所 と して の記 号 は ない が, 富山の ところ に は大 名 名 前の貼り付け が あ る。 守 山・ 高岡の 記 載が ない の で, 守 山か ら 前 田 利 長が富山 へ 移 っ た慶 長 2 年 (3 7) か ら高 岡 建 設の 同1 4年の問の状 況と な る。
とこ ろ が, 加賀に は小松が城 所と して 記 載さ れ
て お り, 富山に は前 記の 張 り紙が あ るの で , 小松 城が建 設さ れ富山 藩が分薄さ れ た, 三代 目藩主 利 常隠 居の 寛 永1 6年 以降の状 況と な る。、
し か し, こ の小松記 載を よ
く
見る と, 本来は北 陸 街 道 沿い なの 古手, 北 陸 街 道を はずして 記 載さ れて い る。 これ は本図 作成の 際に, 原 図に対して作成 時の状 況を
書き加え る必 要が あ り, 街 道を はずして書き加え た こと を示す もの で あ る。 つ ま り, 原 図は少なく と も越 中と その 隣 接の小 松に限っ て い えば, 慶 長 2 年か ら同1 4年の 問の作 成と な る。
秋 岡 図は高岡の記 載が な く守 山が記さ れて い る。 し か も 「鳥 山」 の 記 載 間 違い で あり, そ れ は原 図
に あっ た地 名の写し間 違 いとい うこ とに な る。 加 賀に は小松・ 大 聖 寺が城 所と して記 載さ れて いる。
これ は下 郷 図の よ うに原 図に付 記し た もの と なり, 原 図は高岡 成 立 前の慶 長14年 以 前の もの と な る。
図 形が同じで 同 類 型に分 類さ れて い るこれ らの
同 系 統 図と さ れ る図は, その原 図 成 立が内 容か ら す る と慶長2 年か ら同1 4年の成立に ふ さ わ しい 。
は し が きで触れて おい艇よ う に, 海 道 氏はこ の 下 郷 図な どの 日 本 図は, 肥 前の 島 喚 記 載か ら す る と文 禄 ・ 慶 長 役の 頃の もの と して いた が, 越 中で も ほぼ 同 様で あっ たことに な る。 た だ し, 囲 形に
つ いて は後の国 絵 図 分 析で考え る点が ま だ残さ れ て い る ことに つ い て 予め記して お く。
ニ,
初 期 越 中 国 絵 図
日本 惣 図の越 中の 記 載に つ い て見て き た。 その
記 載が い つの 国 絵 図を も とに して い た か を考え る た めに, 次に現 存す る初 期 国 絵 図か ら う か が う こ
と にする。
加賀 藩が延 宝5 年 (1 6 77) に所 蔵
す
る国絵図を調 査し た際に, 次の 国絵図が存在 し た(38) .
I , 寛永1 0年の 国 絵 図 控 ・ ・ 巡 見 使へ 提 出 2 , 寛 永1 9年の 国絵図 控 (場 合に よっ て は寛永
1 6年か ら同1 9年まで の作成)
3 , 正 保3 年の 国絵図 伺 図
3 は 金 沢 市 立多摩 川 図書 館に現存して い る が
,
1 と 2 は現 存して い ない。 し か し, 1 の寛永 国絵 図の簡略 図と さ れ る絵図は多数 現存 して い る ( 秩
田県立公 文書 館 ・ 国 会 図書館 ・ 富山 県 立 図書館他)0
ま た, 2 の 図の写と み ら れ る絵図が南 英文
庫
に架蔵 さ れて い る (39) 。 こ こで は まずこ の 二 つ の 図の 越中の国絵図を対象に見て み ること に す る。
1 . 寛永1 0年国絵図
川村氏により寛永1 0年図と さ れ た国絵図 写は各 所に所 蔵さ れて い る。 こ こ では, 氏に よ り近 年 注 目さ れて いる佐竹 文庫所 蔵の 「日本六 十余州 国々 切 絵 図」 (7 5 ×9 2セ ンチ,
L 写真2 参照) (4 0) と同じ 原 図 写の 国立公 文書 館内 閣 文
庫
蔵の r越中国 図」(7 3 ×9 2セ ンチ) を見る こ と に し, 先の 図 形の と
ころで は後 者より 図を作成し た。
写真2 佐竹 文庫所 蔵 日 本 図
「日本六十余 州 国々切絵図」 の 越中 図は写 真で は わ か りにく いが、 川 を河口 に重 点を置い て詳 し く措く特徴が あ り, こ の た めに海 岸線が ギ ザ ギ ザ 状 態に な る。 内 閣 文 庫の 囲も当 然に 川 を同様に措 く もの の, これ は そ れ ほ ど ギ ザ ギ ザ と は な ら ない。
「日本 六 十 余 州 国々切絵図」 の 海 岸 線を持つ 各 国
の 図は同 様に川 ・ 半 島な どの存 在か ら, これ を も とに海 岸 線を図 示す る と ギ ザ ギザに な らざる を え
ない。 先に取り 上 げた下 郷氏の 海岸線がギ ザ ギ ザ であるの は, 詳しい川 ・ 河口 の 表現に基づく もの と み られる。
こ の寛永の 国 絵 図の場 合, や は り潟と して十二 町 潟を措く だ けで放 生津潟を欠い て い る。 国の形 は下 郷 図に似て い る が, 前 記の ように下郷 図に は 潟が ない の で, 寛永 図との関 係を結び 付け ら れ な い。 他方, 佐 賀 県立 図書 館図や国 会 図書 館図と図 形は異なっ て い る。
地名と交 通路を整 理し て み る。 < > は内閣文庫 図である。
O 「恒生」< 同> ‑ 「記 載 欠 落」< 今 石動> ‑ < 街 道 記 載な し > ‑ 「新 町」‑ ‑「黒 川」< 三戸 田> ‑ 「富
・ 山 町 ・ 城」< 同> ‑ 「高月」< 高月> ‑ 「魚 津 ・ 古 城」< 同> ‑ 「荒 町」 < 同> ‑ 「堺 町」 < 同> ‑ (越
姦
)O 「高岡 古 城」 < 同> ‑ 「守 山 町」 < 同> ‑ 「氷 見 町」
< 水 石 町> ‑ (能 登)
O 「高岡」< 同> ‑ < 街道 記 載な し > ‑ 「新 町」 < 同
> 丁 < 街 道 記 載な し > ‑ 「中野」 < 同> 一「井 波」
< 同> ‑ 「城鼻」 < 同> ‑ (赤 尾 越) O 「三戸 軌 ‑ 「八 尾」 ‑ 「切 詰」 ‑ (切詰 越)
O 「欠」< 今 石 動> ‑ 「安 居」< 同> ‑ 「福 光」< 同> ‑
(加賀 木坂 越)
O 「富山 町 ・ 城」 < 同> ‑ 「小 黒」 < 同> ‑ 「牛ケ増」
< 手力増> ‑ 「猪谷」< 同> ‑ (猪 谷 越) O 「富山 町」< 同> ‑ 「長棟」< 同> ‑ (長 横 越) O 「富山 町」< 同> ‑ 「有 峰」< 同> ‑ (ウ レイ越)
まず, 城の所 在か ら ふ れ る と, 高岡 ・ 魚津が古 城 記載で, 富山に城が記 載さ れ てい るので, 一 国
‑ 城令 後の絵図で あ るこ と は間 違い ない。 注 目さ
れ るの は, 北 陸 街 道で埴 生 ・ 今 石動と黒 川間の新 町 記 載の他に, 魚 津 ・ 境間に、も新 町に対 応 する荒 町 記 載がある ことで あ る。 こ の新 町は北 陸 街 道に 面し た石由 新町村̀4 1' の こ と
.と み ら れ る。 ま た, 高 岡 ・ 守 山の街 道 記 載も あ り, こ の南 街 道は佐 賀 県立図書館図に対 応す る。 た だ し, 飛 騨 へ の道 筋 は富山か らとな っ て お り, 佐 賀 県立図 書 館 図と異 な る。 し か し, 城 端 へ の 道 筋は対 応 して い る。
以上 のよ うに, 寛永1 0年の 国 絵 図を簡 略に し た と さ れて い る こ の'絵図は, 佐賀県立図 書 館 図に近
い。 し か し, 飛 騨 へ の道 筋は異なっ て い る。 これ
f
‑ 1 35 ‑