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博士(文学)学位請求論文審査報告要旨
論文提出者氏名 高井 康行
論 文 題 目 遼代地方統治の研究−渤海と藩鎮−
審査要旨
本論文は 10 世紀初頭に成立し、その後二百余年にわたってモンゴリア、マンチュリア、中国本土北辺を支配した 遼朝の、東アジア史上におけるその歴史的意義を、既存の文献史料に加え新出史料を利用しながら考察した論考 である。この課題に対し、論者は「渤海」と「藩鎮」をキーワードに遼朝地方統治の実態解明という角度から考察を進 める。本論文の最大の特色は、この分析視角設定の卓抜さにある。
今から 80 年以上も前に、津田左右吉博士が遼朝の二重統治体制に言及して以来、遊牧社会を対象とする北面 官と農耕社会を対象とする南面官から構成される「一国二制度」の先駆けとして遼朝国家は注目されてきた。戦後、
ウィットフォーゲルは「征服王朝論」を提起し、文化人類学の文化変容(Acculturation)概念を援用しつつ、漢族の 文化要素の摂取を規準とする文化変容という観点から、純遊牧社会である遼・元をその制限された変容により抵抗 型、半農半猟社会である金は大きな文化変容によって屈服型、農耕の要素がより強い清は中間型の三類型に分け て 10 世紀以降の非漢族中国王朝の歴史を理解しようとした。これに最も敏感に、かつ唯一反応を示した日本の学 界は、「征服王朝論」を批判しつつも、遊牧社会の発展段階の最終形態として非漢族中国王朝の出現を理解しよう とした。しかし論争への参加は内陸アジア史研究者が中心で、本来、10 世紀以降の歴代中国王朝理解に関する問 題提起にもかかわらず近世中国史研究者からの参加は殆どみられなかった。加えて近年の内陸アジア史研究は、
ユーラシア史の枠組みで展開しており、大多数の研究者は、ユーラシア大陸東端の一部にしか過ぎない中国の歴 史を中心に東アジア・東北アジア・内陸アジア全域の歴史を語ることは著しくバランスを欠き、依然「中華思想」の呪 縛のうちの議論に過ぎないと主張し、「征服王朝論」に至ってはまったく問題にされない。こうして 10 世紀から 14 世 紀の東アジア史理解の現在は、唐−五代−遼−金−元の流れを主流とするのか(北流)、唐−五代−北宋−南宋
−元を主流とするのか(南流)にほぼ二分され膠着した状況にある。従って、これら北流と南流を統合した 10 世紀か ら 14 世紀の東アジア史の提示が本論文の最終目標となろう。
第一部「遼における渤海的秩序の継承と変化」は、まず「征服王朝」の嚆矢とされる遼朝の渤海支配の考察から二 重統治の再検討を行う。第一章「東丹国と東京道」では 982 年に完全廃止されたとする旧渤海遺民から構成された 東丹国が、史料を丹念に追うことで 1030 年の渤海人の大反乱まで存続したことを明らかにする。また史料は、929 年に遼陽地方に移住させられた以降の東丹国でも以前の領民統治方法が踏襲されていたことを示し、漢人地域の 州県制とは異なる地方統治組織が 11 世紀まで機能していたことを主張する。すなわち農耕・遊牧社会に対応する 二重統治という単純な二元論では「征服王朝」遼の地方統治は語れなくなる。第二章「十世紀の東アジアの地域秩 序−渤海から遼へ−」は、遼が継承した、首領層の在地支配を認めつつ間接支配をおこなう渤海式地方統治は、
同時に首領層の朝貢貿易ないし地域間交易への参加を保証する要素を含み、これは遼・中国・高麗・東北アジア 諸集団間の相互交流、さらには相互関係の問題として現れることを確認する。その上で五代後周の軍事活動による 交易路の途絶によって地域秩序の再編がおこり、南方における政治統合すなわち宋の出現に並行して、北方にお ける政治統合も進み、遼は中国との仲介者(=渤海的秩序)から中国そのものの役割をはたす方向へと向かう。そ の先に東アジアに二人の皇帝が並立する「澶淵体制」とも呼ばれる新たな東アジア国際秩序が出現したと見通す。
従来の研究では、単純に中国的制度の導入として理解されてきた遼の州県制は、その具体的な内容を検討する と、原則的に中央政府の人事によって一元的に管理される中央集権的官僚統治という中国の州県制とは異なる側 面を有することに気づかされる。そもそも 10 世紀の唐末五代は分権傾向の強い藩鎮支配が主流であり、文官による
2 氏名 高井康行
民政は従属的におこなわれてはいたが、それのみが当時の地方統治でないことはいうまでもない。とすれば藩鎮と 遼との関係は当然検討されるべき課題であったが、こうした視点からの研究はなおざりにされてきた。本論文第二部
「遼の州県制と藩鎮」の第三章「遼の燕雲十六州支配と藩鎮体制−南京道の兵制を中心として−」、第四章「遼の 斡魯朶の存在形態」、第五章「オルド(斡魯朶)と藩鎮」、第六章「頭下州軍の官員」は、この問題を扱う。
これらの章では、歴史史料としての信頼性が十分ではない『遼史』制度記事の緻密な考証、新出墓誌を利用して の裏付けなどにより、先行研究の考証結果を修訂・補正しながら、実証可能な地域を絞りつつ、遼代地方統治の実 態解明に迫っている。燕雲十六州など漢地の割譲によって遼に属した州県が唐末以来の藩鎮体制にあることはい うまでもなく、契丹固有の制度が起源と見なしうる斡魯朶の所属州県、頭下州県においても、それらが分封制や契 丹人主導の武人優位の支配体制において藩鎮体制と親和性を有していたと指摘する。さらに従来からいわれるよう に唐・五代の藩鎮体制は、河北・山西における胡漢混交状態のなかでの歴史現象であり、遼による藩鎮体制は単 なる漢化の結果ではなく、五代の後唐・後晋・後漢の「沙陀政権」による漢地支配と共通点を見出すことができる、と する。五代政権と遼における藩鎮の遠心力に対抗する中央集権化の動きは、宋における徹底した文治主義、遼に おける武人政治の要素を残した部分的な文治主義とにそれぞれ結実するが、その出発点が藩鎮体制にあったこと は共通していた。
第三部「遼の選挙制度と地方政治」は、第七章「遼の武臣の昇遷」、第八章「遼朝科挙と辟召」、第九章「遼朝に おける士人層の動向−武定軍を中心に−」からなる。遼の武臣の銓選制度が唐の武散階の崩壊をへて始まったい くつかの動きを継承して成立したとして、そこに唐宋変革の反映をみる。実際、職事官の寄禄官への読み替えなど 宋朝官制との共通性も顕著である。また遼朝の科挙導入と前後して藩鎮による地方官の辟召制は、科挙官僚の幕 職官任命による中央への人事権の回収という方向へと変わり、遼朝の中央支配が地方に浸透し、科挙を目指す地 方士人層が台頭したことを確認した。第三部では、新出を含め石刻史料が積極的に利用される。
以上のように、遼における渤海的秩序と農牧二元論の再検討から始めた本論文は、北流と南流がいずれも藩鎮 体制を出発点とする唐宋変革の動きのなかで捉えられるべきものとして、10 世紀から 14 世紀にかけての北流と南 流の統合の歴史に一つの枠組みを提供した。これは、近年盛んとなっている東ユーラシア史上の農牧接壌地帯の 歴史的位置付けの議論にも寄与する成果である。数少ない日本の現役遼代史研究者からの貴重な提言であり、今 後は、遼・金交代、金・元交代での国制や社会構造における継承と断絶が大いに議論されることが期待され、本論 文はそれら論議の出発点としての位置を占めるであろう。以上により、本論文は、博士(文学)早稲田大学授与に相 当する論文と評価する。
公開審査会開催日 2010 年 6 月 23 日
審査委員資格 所属機関名称・資格 博士学位名称 氏 名
主任審査委員 早稲田大学文学学術院 教授 博士(文学)早稲田大学 近藤 一成 審査委員 早稲田大学文学学術院 教授 博士(文学)早稲田大学 李 成市 審査委員 早稲田大学教育・総合科学学術院 教授 博士(文学)早稲田大学 石見 清裕
審査委員
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