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第2節 なぜ実践者の「まなざし」なのか

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(1)「まなざし」の観点から再考する 子どもへの日本語教育実践 -実践者の「まなざし」の形成過程に着目して-. 2016 年 7 月. 早稲田大学大学院日本語教育研究科 中野 千野.

(2) 目次 第1章 子どもの日本語教育において、なぜ「まなざし」を語るのか ................. 1 第1節. 「まなざし」の観点不在の子どもの日本語教育 ......................... 1. 1.. 「まなざし」とは何か................................................. 1. 2.. 見落とされていく「まなざし」......................................... 4. 3.. 子どもの日本語教育だからこそ不可欠な「まなざし」の議論 ............... 8. 第2節 なぜ実践者の「まなざし」なのか ....................................... 9 第3節 なぜ筆者の「まなざし」に注目するのか ................................ 10 第4節 問いの設定と本研究の射程............................................ 11 第5節 本論文の構成........................................................ 13 〔本論文の構成チャート〕.................................................. 15 第2章 「まなざし」に関する先行研究と日本語教育 .............................. 16 第1節 人間のありようと「まなざし」についての議論 .......................... 16 第2節 人間の心理と「まなざし」についての議論 .............................. 19 第3節 幼児教育学、教育社会学、社会福祉学における子どもへの教育実践と「まなざ し」についての議論 ......................................................... 20 第4節 先行研究から得られた 3 つの観点 ...................................... 24 第3章 複数言語環境で成長する子どもの日本語教育に関する先行研究 .............. 26 第1節 実践者主体の研究群.................................................. 26 第2節 実践者主体の研究群に現れた「まなざし」 .............................. 27 第3節 研究協力者主体の研究群.............................................. 28 1. ライフストーリー研究からのアプローチ ................................. 28 2. 「移動する子ども」の概念からのアプローチ ............................. 31 第4節 研究協力者主体の研究群に現れた「まなざし」 .......................... 33 第5節 複数言語環境で成長する子どもの日本語教育を巡る「まなざし」とは ...... 34 第6節 本研究の視座........................................................ 35 1. 先行研究からの示唆................................................... 35. i.

(3) 2. 本研究の位置づけ..................................................... 37 3. 本研究における「まなざし」論とは何か ................................. 38 第4章 研究方法 ............................................................. 42 第1節 研究方法 ........................................................... 42 1. 自己エスノグラフィー研究採用の意義 ................................... 42 2. 分析構造 ............................................................ 44 図1. 本研究構造イメージ................................................. 46 第2節 分析対象データ...................................................... 47 第3節 研究協力者の背景と選出.............................................. 48 第4節 「実践者」の背景.................................................... 48 資料1. 「実践者」の背景................................................. 51 第5節 研究の手続き........................................................ 52 第6節 データ分析の観点と分析方法.......................................... 52 第5章 「まなざし」の形成過程(修士時代の調査・研究の時期) .................... 54 -対象化する「まなざし」-.................................................... 54 第1節 2009 年の「実践者」と研究背景 ....................................... 54 第2節 分析論文1の概要.................................................... 55 1. 分析論文1の研究目的................................................. 55 2. 分析論文1の研究方法................................................. 55 3.. 2009 年の「実践者」と研究協力者の関係 ................................ 56. 第3節 分析論文1 ......................................................... 58 第4節 2009 年の「実践者」の「まなざし」 ................................... 82 1. まなざす「主体」は誰か............................................... 82 2.. 2009 年の「実践者」とことばの関係 .................................... 85. 2.1. 2009 年の「実践者」の「まなざし」とことばの関係 ................... 85 2.2. さゆりさんとことばの関係.......................................... 87 第5節 2009 年の「実践者」の「まなざし」の形成と「実践者」の属する世界との関係 ........................................................................... 89 第6節 小括 ............................................................... 93 第6章 「まなざし」の形成過程(海外授業実践の時期) ............................ 95 ii.

(4) -客体化する「まなざし」-.................................................... 95 第1節 2013 年の「実践者」と研究背景 ....................................... 95 第2節 分析論文2の概要.................................................... 96 1. 分析論文2の研究目的................................................. 96 2. 分析論文2の研究方法................................................. 96 3.. 2013 年の「実践者」と研究協力者の関係 ................................ 97. 第3節 分析論文2 ......................................................... 99 第4節 2013 年の「実践者」の「まなざし」 .................................. 128 1. まなざす「主体」は誰か.............................................. 128 2.. 2013 年の「実践者」とことばの関係 ................................... 129. 2.1. 2013 年の「実践者」の「まなざし」とことばの関係 .................. 130 2.2. L 君とことばの関係 ............................................... 133 第5節 2013 年の「実践者」の「まなざし」の形成と「実践者」の属する世界との関係 .......................................................................... 135 第6節 小括 .............................................................. 139 第7章 「まなざし」の形成過程(博士課程入学後の調査・研究の時期) ............. 141 -相互主体の「まなざし」-................................................... 141 第1節 2014 年の「実践者」と研究背景 ...................................... 141 第2節 分析論文3の概要................................................... 142 1. 分析論文3の研究目的................................................ 142 2. 分析論文3の研究方法................................................ 143 3.. 2014 年の「実践者」と研究協力者の関係 ............................... 143. 第3節 分析論文3 ........................................................ 144 第4節 2014 年の「実践者」の「まなざし」 .................................. 176 1. まなざす「主体」は誰か.............................................. 176 2.. 2014 年の「実践者」とことばの関係 ................................... 177. 第5節 2014 年の「実践者」の「まなざし」の形成と「実践者」の属する世界との関係 .......................................................................... 179 第6節 小括 .............................................................. 182 第8章 総合考察 ............................................................ 184 iii.

(5) -「実践者」の「まなざし」の形成過程- ....................................... 184 第1節 「実践者」の「まなざし」はどのように形成されていくのか ............. 184 1. 時間軸からの「実践者」の「まなざし」の形成過程 ...................... 184 2. 空間軸からの「実践者」の「まなざし」の形成過程 ...................... 186 3. 言語軸からの「実践者」の「まなざし」の形成過程 ...................... 188 第2節 「実践者」の「まなざし」と実践の関係性 ............................. 190 第3節 「実践者」の属する子どもの日本語教育という世界や社会の文脈との関係性191 第4節 「まなざし」の観点から子どもへの日本語教育実践を捉え直すことで何がいえ るのか .................................................................... 192 1. 「まなざし」論における「再一体化」の過程とは ........................ 192 図2. 「実践者」の「まなざし」の「再一体化」の過程(「自己を客体化する経験」) ........................................................................ 194 2. 「自己を客体化する経験」の意味 ...................................... 195 第5節 小括 .............................................................. 197 第9章 結論 ................................................................ 199 -「まなざし」の観点から再考する子どもへの日本語教育実践の意義- ............. 199 第1節 見えてきた子どもの日本語教育という世界の「まなざし」 ............... 199 1. 不均衡な「まなざし」の存在 .......................................... 199 2. 「まなざし」の形成構造からの示唆 .................................... 201 図3. 「まなざし」の形成構造............................................ 203 3. 「まなざし」の観点不在が内包する問題 ................................ 206 4. 第2節. 実践者側からの一方向な実践展開 ..................................... 208 「まなざし」の観点不在からの脱却に向けて ......................... 209. 1.. 自己省察の方法を巡る矛盾........................................... 210. 2.. 「自己を客体化する経験」をどのように作るのか ....................... 213. 第3節. 日本語教育における本研究の位置づけ ............................... 214. 1. 本研究の意義........................................................ 214 2. 「ことばの教育」に欠かせない「まなざし」の観点 ...................... 215 3.. 「まなざし」を育む「ことばの教育」実践に向けて ..................... 217. 4.. 今後の課題と展望................................................... 219 iv.

(6) 参考文献 .................................................................... 222 謝辞 ........................................................................ 233. v.

(7) 第1章. 第1節 1.. 子どもの日本語教育において、なぜ「まなざし」を語るのか. 「まなざし」の観点不在の子どもの日本語教育. 「まなざし」とは何か. 本研究の目的は、「まなざし」の観点から子ども1への日本語教育実践を再考することに ある。そのために、これまで注視されてこなかった「まなざし」に注目し、子どもの日本 語教育という世界が持つ「まなざし」を問い直す。 なぜ「まなざし」なのかに言及する前に、本研究における「まなざし」とは何かを述べ る必要があるだろう。本研究におけるその定義を「見る・見られるという関係性のもとに、 視線や態度、ことばなど、非言語・言語行動に現れる認識的枠組み」とする。その定義を 踏まえ、次の語りに注目したい。本研究の研究協力者の一人で、本博士論文(以下、本論文 とする)の第 5 章と第 7 章に登場するさゆりさん(仮名)の語りの一部を抜粋したものである (詳しくは第 7 章を参照)。次の語りの中で何が生じているのだろうか。. (S は研究協力者のさゆりさん(仮名)、*はインタビュアーである筆者) S:・・うーん、でも会社に入って、いちいち言われるじゃないですか。「おーお茶飲めるん だ、おーこれできるんだ」って言われるのが、なんか、もう、うざいなって(笑)思った りします。 (中略) S:いや、私、何歳から日本にいると思ってんだろうなって。 *:みんな、知らない・・の? S:たぶん知らないと思いますよ。もう、ほんとにその顔で△△(地方名/さゆりさんの実家) って言われるんですよ。毎回(苦笑)。. この語りは、 さゆりさんが 3 年前に就職した会社での日常の一場面を語ったものである。 さゆりさんは、幼少期に来日し、日本で成長した。しかし上記のさゆりさんの語りからも わかるように、さゆりさんは会社の人たちに自分たちとは異なる「外国人」として捉えら れている。会社の人たちは、日常的にお茶を飲むという自分たちが属する社会の慣習から さゆりさんを捉え、「外国人」は「お茶が飲めない」という先入観を持って接しているた 1. 幼少期より国を越えて移動し、複数の文化や言語に触れながら成長する子どもを指す。. 1.

(8) め、さゆりさんに「お茶のめるんだ」ということばを発しているのである。その判断基準 は、 「その顔で」という語りに現れているように、さゆりさんの外見にあることがわかる。 会社の人たちは自身のこれまでの経験に基づいて、さゆりさんの西洋的な顔立ち=外国人、 外国人=お茶が飲めない、外国人=日本の社会ではできることが少ないといった先入観や 価値観、世界観など、自らの「認識的枠組み」に基づいて接しているのである。その時、 会社の人たちにさゆりさんの背景を考える、あるいは自身の「認識的枠組み」からとった 言語行動を振り返るといったことはなかっただろう。だからこそ、前出の発言が現れたの である。逆にさゆりさんのことばに注目すると、さゆりさんも会社の人たちの言語行動を 見て、(この人たちはわたしが)「何歳から日本にいると思ってんだろうな」(=いつまで「外 国人」と見るのだろうか)と思いながら発話していることがわかる2。 したがって、この短い語りからもわかるように、人は異なる文化や言語を持つ人々と接 する際に、ことばをやりとりしながら、実は自らの経験や社会の慣習、歴史や言説などに 基づいて相手や状況を認識しようとするのである。 認識についての議論は、これまで様々な学問領域や哲学的思索の中で展開されてきた。 その一つに、人が他者や事象をどう見るかという「まなざし」を巡る議論がある。「まな ざし」を巡る議論は、存在についての探求である存在論や人は物事をどのように知るのか といった認識論の中で古代から展開されてきた。それは、「見るもの」という「主体」(以 下、「主体」とする)と「見られるもの」という「客体」(以下、「客体」とする)の二種類の 存在をどう捉えるかの議論(たとえばデカルト,2006〔1941〕)であったり、「まなざし」の 持つ暴力性や権力を論じるもの(たとえばフーコー,1977〔1975〕;サルトル,2007〔1943〕) であったり、人間のありようを問うといった議論(たとえばメルロ=ポンティ 3 ,1966 〔1953〕,1967〔1945〕,1974〔1945〕)の中で展開されてきた。哲学の領域から始まった「ま なざし」を巡る議論は、今日では心理学、教育社会学、幼児教育学など様々な学問領域で 行われている。なぜなら、そのような学問領域が人を扱う学問であり、そもそも人間とは 何か、人間とはどうあるべきかといった議論の上に成り立つと考えられているからである。 他方、子どもの日本語教育も人を扱う研究であり、人がことばを学ぶとはどういうこと かという観点から模索してきた。冒頭の例に登場したさゆりさん(中野,2009,2014)は、日 本語使用場面において十全的参加を強く求められることに葛藤し、日本語学級をやめ、学. 2 3. ( )内は筆者による補足。 訳者により表記が異なるため、本論文では参考文献以外の表記をメルロ=ポンティと統一した。. 2.

(9) 校教育という場面からも遠ざかっていった経験を持つ。その結果、学校や地域の人からは 「非行少女」とまなざされ、疎外されていった。本論文でも後に登場するが、親の都合で 海外に住む L 君(中野,2013)は、日本語教師や親の日本語継承に対する自明視から、日本語 教師や日本語との接触を避けることで抵抗を示した。そのようなかれらの姿を描いたこれ らの論考では、かれらがことばを学ぶ場で生じた葛藤や抵抗などとともに、かれらのこと ばの学びに対する主観的な思いが描かれていた。ところが筆者も含め、教育関係者や地域 の人々は、かれらの主観的な思いは議論の対象とは捉えず、子どもの日本語教育の場面や 日本語使用の場面に登場しない、あるいは消えていくといった原因は、かれら個人の性格 や能力といったように「個人の問題」として位置づけてきたのである(中野,2013)。その背 景には、子どもの日本語教育の潮流や言説がある。すなわち、国内の場合であれば、学校 教育場面に参加するには日本語が必要である、海外においては、日本語を学ばなければ親 子間のインターアクションや学習面に影響が出る、アイデンティティの喪失につながるも のとして議論されてきた。それは翻っていえば、日本語教師や調査・研究者といった子ど ものことばの教育に携わる者を実践者(以下、実践者とする)とするならば、実践者が日本 語の習得、(親の)「母語」を保持することは当然のこととして期待し、共有してきたこと にある。その結果、実践者の多くが、子どもの均衡型バイリンガルを目指そうとし、効果 的な習得方法や有効な教授法を模索しながら実践を展開してきたのである。それは、実践 者が子どもたちの日本語習得や(親の)「母語」を保持すること、均衡型バイリンガルにな ることに価値があるというその時々の歴史的背景や研究の潮流などによって形成された言 語教育観や価値観、人生観などを持って臨んでいたからである。 このような状況は、どの時代にも通底するといえる。たとえば、戦時中の日本語教育は、 帝国主義4の中で、日本語を通じて日本精神を植えつけ、日本人化をはかるという「普及理 念」のもとに国策として推し進められていた時代があった(牲川,2006,2012)。当時の実践 者は、その理念のもとに実践を展開し、その過程において価値観や言語教育観、人生観な どを育んでいったと推察される。しかし、ここで重要なことは、国策として打ち出された その理念に教育的価値が置かれ、実践展開がなされていたとしても、当時の現場の実践者 や学び手がそのすべてを受容し、実践展開をしていたわけではなかっただろう。実践者と 学び手が繰り広げる日々の実践の場では、双方それぞれにその理念や制度に対する葛藤や. 4. 牲川(2014)の定義に基づき、「非日本人を日本に取り込み従属させることを目指す」(pp.37-38)ことと する。. 3.

(10) 矛盾があっただろうし、抵抗や変容もあっただろうと考えられる。つまり、日々の実践に 、、、、、 おいては、実践者が学び手をどのようにまなざしながら実践を展開し、逆に学び手はその 、、、、、 実践や実践者をどのようにまなざしていたのかという主観的な思いが存在するはずである。 そして、そこには必ず「見る・見られる」という関係性が生じており、そこに生ずる「ま なざし」とともに人のことばの学びは形成されていったと考えられるのである。そうであ るならば、「見る・見られる」という関係性の中で、その主観的な思いが形成される過程に 注目する必要がある。そうすることで、初めてまなざす「主体」がどのようにまなざして いたのかが可視化され、実践者の持つ矛盾や抵抗、言説、対抗理念なども浮かび上がって くると考えられるからである。 これらの議論を踏まえて冒頭のさゆりさんの語りに立ち返ると、あの短い語りにあって も、そこには会社の人たちが、自分たちとは異なる「外国人」としてさゆりさんを捉えよ うとする「まなざし」が現れている。その「まなざし」を受けてさゆりさんは、(この人た ちはわたしが)「何歳から日本にいると思ってんだろうな」(=いつまで「外国人」と見る のだろうか)と思いながら発話に至っており、さゆりさんにも会社の人を捉える「まなざし」 が形成されている。さゆりさんに形成された会社の人を捉えるこの「まなざし」は、彼女 が成人した今に至ってもこのトラウマ的な語りを生んでいる。その背景には、さゆりさん が幼少期に来日したにもかかわらず、幾度となくこのような日常を経験しながら成長して きたということがあるのだろう。そして、このトラウマ的な語りは、さゆりさんのその後 の生き方にどのようにつながっていくのだろうかという思いに駆られる。 したがって「まなざし」は、人がことばをやりとりする中で、相手への先入観や価値観、 教育観、人生観、世界観などとともに、時に態度や視線として、あるいは具体的な発話と して、あるいはそれらをともなって立ち現れるのである。そこには必ず「見る・見られる」 という関係性が生じており、人はその関係性のもとに、ことばをやりとりしながら相手や 状況を認識しているのである。. 2.. 見落とされていく「まなざし」. 前節で紹介したさゆりさんの語りは、あえて「まなざし」に注目しなければ、会社での ごくありふれた会話として捉えられ、その場合はその人個人がとった言語行動として帰着 していく。そこに立ち現れた個人の価値観や教育観、人生観などといったものの裏側に潜 む歴史的文脈や矛盾、違和感、差別や偏見、排除といったようなものは見落とされ、その 4.

(11) 積み重ねはやがて、異文化や異質なものへの無寛容な態度や相互理解の欠如、摩擦などを 生み出し、ひいては迫害や紛争などにつながっていく可能性をはらむ。人が他者や社会を 、、、、、 どのように見るのかといった「まなざし」の観点からの議論がないということは、さゆり さんの会社の人だけでなく、教育関係者や地域の人々が、前出のさゆりさんや L 君のこと ばの学びへの主観的な思いやかれらの持つ複数言語や複数文化に対する思いに気がつかな いまま授業を展開したり、接したりすることを意味し、そこに一方向的な「まなざし」が 存在することは問題視されないということになる。 では、なぜ「まなざし」は見落とされていくのだろうか。これまでの子どもへの日本語 教育実践は、学び手である子どもが効率よく日本語を習得し、各々の日本語使用場面でい かに十全的参加を果たせるようにするのかといったモノリンガリズム 5の観点から施され てきた。ここでいうモノリンガリズムの観点とは、言語の存在を前提として「単一言語使 用観」のもとにすべてを見ていこうとすることを指す。その一方で、子どもへの日本語教 育実践においては、これまでも子どもの置かれた社会的文脈への配慮は欠かせないとして 重視され、他者との関係性の中で子どもたちの言語活動を捉えようとしてきた(川上他 編,2009)。そのために、子どもたちの社会参加を考え、(親の)「母語」や日本語、規範の 習得を目指し、子ども自身も「声」が持てるような実践が目指されてきたのである(中 野,2009 他)。そのような中、とりわけこの 10 年ほどは、子どものことばの学びをライフ コースの中で捉えていこうとする動きもある(齋藤・佐藤編,2009) 。 他方、欧州では、個人の持つ複数言語に注目し、複言語・複文化主義という概念6が登場 した。この概念は、欧州評議会言語政策局(Division des Politiques linguistiques, Conseil de l’ Europe:以下、欧州評議会とする)が、 「ヨーロッパ言語共通参照枠」(Common European Framewaork of Reference for Languages:以下、CEFER とする)7を作成し、その 観点からの教育(Main Version:18)を推進する中で提唱するものである(西山,2010:28)。そ の概念の基盤には、CEFER の「複言語複文化能力」に対する捉え方がある。そこでの「複 言語複文化能力」とは、「程度に関わらず複数言語を知り、程度に関わらず複数文化の経. 5. 「単一言語使用観」(川上,2015:62) 「国家-国民-国家語という国民国家イデオロギーとそれにかかわる言語の利害関係を解体・再構築す るために導入された概念」(福島,2010:40)であり、「複数言語、複数文化の参加行為者による、複数の形 態、複数の組合せの交流、仲介からなるもの」とされている(コスト他,2011:250)。 7 ヨーロッパの言語教育のシラバスやカリキュラムなどの向上のために示された基盤。言語学習者がコミ ュニケーションのために言語を使用する際に何を学び、どんな知識や技能を身につければよいかが総合的 に記述されている(Conseil del’Europe,2001(吉島・大橋他,2004))。 6. 5.

(12) 験を持ち、その言語文化資本の全体を運用する行為者が、言語でコミュニケーションし文 化的に対応する能力」(コスト・ムーア・ザラト,2011)を指す。それゆえに、個人の持つ言 語能力に対して、「能力としての複言語主義」と「価値としての複言語主義」を軸として 理解を促そうとするのである。ところが現状は「能力としての複言語主義」に焦点化され、 「価値としての複言語主義」、たとえば異文化間教育や言語的寛容、国家アイデンティテ ィなどにはどのように向き合い、具現化していくのかといった議論は不十分であるとの指 摘もある(ザラト,2003,2006;福島,2010 他)。 日本でも、個人の持つ複言語・複文化に注目し、「JF スタンダード」(国際交流基金)8が 作成された。ところが、そこでの複言語・複文化の捉えられ方は、日本語能力育成、日本 語での場面参加に焦点化され、日本語一言語を主として展開し、相互理解を追求する形と なっている。 国内外のこれらの言語教育の動きは、個人の持つ「複言語複文化能力」に注目しながら も、結局は言語能力を熟達度別に捉えるなど、個別に言語を捉えていこうとする。そこに 理念や定義との矛盾が存在する。このことは、個別言語の価値判断につながり、巨大言語 の拡大や滅びゆく言語問題の加速化(言語の相対化とは逆流)、同化主義への回帰というよ うに解決とは乖離した方向へ向かっているように見える。 そのようなモノリンガリズムの観点からの言語教育の展開に対し、この数年は、多様な 言語や文化背景を持つ人々の言語活動の生成プロセスに着目した研究(たとえば Otsuji & Pennycook, 2010,2011,2014,2015;尾辻,2011; Garcia & Li Wei,2014 など)や実践(たとえ ば Krumn,2011;Busch,2012;姫田,2013; Garcia & Kano,2014 など)も見られるようになって きた。Otsuji & Pennycook(2010,2011,2014,2015)は、多様な言語背景を持つ人々が混成言 語を使用しながら、場の持つ様々な要素とともに言語使用の場を生成していくありように 着目し、メトロリンガリズムの概念9を提唱した。その概念をもとに尾辻(2011)は、言語教 育のあり方そのものを捉え直し、学習者がメトロリンガル10としての言語環境を自ら構築 できる力を育成する言語教育の展開を提案した。Garcia & Li Wei(2014)は、子どもの言語 8. 「JF 日本語教育スタンダード」の略式で、「日本語の教え方、学び方、学習成果の評価のし方を考える ためのツール」であり、「日本語で何がどれだけできるかという熟達度」がわかり、「コースデザイン、 教材開発、試験作成などにも活用」できるツールを指す。https://jfstandard.jp/summary/ja/render.do (2016 年 5 月 13 日閲覧) 9 固定・規範的な言語文化理解とそれを打ち破る動的な理解の相互関係から生まれる言語使用の場を捉え る概念(尾辻,2011)。 10 言語を実践行動と見なし、固定的・分別的な言語観と流動的・非分別的な混成言語が相互に作用しなが ら「言語」を生み出す場と捉えることを指す(Otsuji & Pennycook,2010;2011)。. 6.

(13) 活動を個別言語の活動として見るのではなく、複雑に混じり合う複言語活動として捉える べきであるとし、トランスランゲージングという概念を提唱した。 具体的な実践展開では、自らが持つ「複言語複文化能力」を子ども自身が自覚し、主体 的に捉えていくことを育もうとする言語ポートレートや言語バイオグラフィの実践 (Krumn,2011;Busch,2012;姫田,2012)などが登場し、先述のトランスランゲージングの概念 を応用した授業実践(Garcia & Kano,2014)も報告されている。 これらの概念や実践は、多様な言語や文化背景を持つ人々が移動によって生じる異なる 言語や文化に対し、どのように言語活動を行っているのか、その生成プロセスを明らかに し、言語教育に携わる者はそのプロセスにどのようにかかわることができるのかを議論し ていた。その意味で、それらの概念や実践は、人の移動が日常化した現代においては欠か せない議論であり、実践展開であるといえるだろう。 国内外のこれらの動きで最も注目すべきは、前出の関係性やライフコースを重視した議 論であれ、複言語・複文化主義の概念であれ、メトロリンガリズム、あるいはトランスラ ンゲージングの観点からの実践展開であれ、子どもたちの視点に立って、子どもたちのこ とばの学びに有効であるとして展開されてきたということにある。 しかし、これらの実践展開は、本当に子どもたちの視点から展開されているといえるだ ろうか。子どもの視点としながらも、結局は実践者側の視点からの展開になっていないだ ろうか。「まなざし」の観点に立てば、子どもの日本語教育関係者は、子どもたちの言語 習得そのものに焦点化するあまり、複数言語環境で成長するかれらが、実践者を含む周囲 にどのような「まなざし」が向けられる中でことばを学んだり、規範を習得したりしなが ら生きているのかということには注視してこなかった。それは、冒頭のさゆりさんや L 君 もそうであったように、子どもたちは、周囲のさまざまな「まなざし」の中でことばの学 びに至ったり、至らなかったりしているのである。複数言語環境で成長する子どもが置か れた社会的文脈に寄り添うには、「見る・見られる」という観点からの議論は不可欠であ る。その議論なくして、メトロリンガリズムであれ、トランスランゲージの概念であれ、 あるいは他の実践であれ、どんなに「優れた」と称され、「効果的」とされる教授法であ 、、、、、 っても、子どもがその実践の場をどのようにまなざしているのかが見落とされる限りにお いては、それらの概念や実践も実践者側から見た一方向的な議論や展開であったといわざ るを得ない。なぜなら、子どもがその実践の場をどのように捉えているのかというかれら の「まなざし」が見えないため、その実践に潜む矛盾やイデオロギー、対抗理念なども見 7.

(14) えず、その実践に潜む問題も不透明なまま、繰り返されているからである。. 3.. 子どもの日本語教育だからこそ不可欠な「まなざし」の議論. それでは、子どもの日本語教育において、なぜ「まなざし」の議論が必要なのか。それ は、子どもであるがゆえに置かれている社会的文脈にある。ここでの社会的文脈とは、社 会での子どもの位置づけにある。日々、繰り広げられる子どもへの日本語教育実践の場に は、実践者と子どもが存在し、そこには必ず「見る・見られる」という関係性が生じてお り、このことは留学生や成人対象の日本語教育であっても同じである。ところが、子ども の場合ではそこに内在する力関係は大きく異なる。 F.アリエス(1980〔1964〕)の「<子供>の誕生」11によれば、12 世紀までは、子どもは、 社会において子どもとして認められていなかったという。その頃の世界では、子どもは「小 さな大人」であり、大人の社会の中で徒弟制度のように社会化されていくべきものとして 捉えられていた。ところが学校教育制度の進化とともに子ども期への捉え方が変化し、子 どもは保護の対象となっていったのである。それは、1989 年に国連総会で採択された「子 どもの権利条約」12で、18 歳未満を子どもと捉え「その生存、成長、発達の過程で特別な 保護と援助を必要と」するという条文に明確に現れている。このことは、子どもが守られ るべき対象であり、大人に随伴する立場にあることを示している。翻っていえば、子ども は、学びの場においては、その主体であるにもかかわらず、かれらが自分の意思で授業へ の参加をやめたり、転校したり、他の実践者を選ぶといったことは許されず、大人の管理 下において存在するのである。留学生や成人の学び手であれば、その選択は自分の意思に よってなされ、実践以外の場を見つけることも可能であるが、子どもは学びの場がかれら の「生」の中心にあり、その場から逃れることは大人の許可なしにはできない立場にある。 それでも子どもが自らの意思でやめたり、他の選択肢を選んだりといった場合には、前節 に登場したさゆりさんのように、授業への不参加、不登校、あるいは非行といった形で抵 抗を示すことになり、その抵抗は問題行動として、あるいは時に反社会的行為として一方 向的に捉えられていくことになる。実践者はその不均衡な力関係のもとに存在し、その力. 11. 子供の表記は原文ママ。 公定訳は「児童の権利に関する条約」。1989 年(平成元年)11 月 20 日に第 44 回国連総会において採択 され、「世界的な観点から児童の人権の尊重,保護の促進を目指したもの」。日本は、1990 年(平成 2 年) に条約に署名し,1994 年(平成 6 年)に批准している(文部科学省)。 http://www.mext.go.jp/a_menu/kokusai/jidou/main4_a9.htm(2016 年 3 月 13 日閲覧) 12. 8.

(15) を持って子どものことばの学びに臨み、その実践が子どもに有効だとして実践を展開して いるのである。 だからこそ、子どもの日本語教育においては、実践者と子どもの「見る・見られる」とい う固定化された関係性を崩し、日々の実践の中に立ち現れる「まなざし」を可視化し、議 論の俎上に載せていくことが必要である。. 第2節 なぜ実践者の「まなざし」なのか では、なぜ実践者の「まなざし」なのか。前節で述べたように、ことばの学びの過程は、 子どもの主観的な思いが形成される過程でもあり、その過程に最も深く関与するのが実践 者だからである。 「まなざし」と実践の密接な関係については、これまで教育学など他領域の分野では盛 んに議論されてきたが、子どもの日本語教育においてはほとんどなされていない。それは 翻っていえば、子どもの日本語教育においては、実践者の「まなざし」が問われてこなか ったことを示している。実践者の「まなざし」が自明視されるということは、実践者側か らの視点で一方向的に子どもやかれらの持つことばを捉え、実践展開をしていくことが可 能だということになる。そのことは、時として、前出のさゆりさんのように、幼少期の日 本語での体験が成人になった今でもトラウマ的に語られることを生むのである。幼少期の 体験と影響との関係については、発達心理学の分野で指摘されているように、子どもの持 つ「柔軟性」(伊藤,2015:3)にあると考えられる。発達心理学の分野では、成長過程にある 子どもは「他からの影響を否応なく受けて、人間形成を行」(p.3)っていくと考えられてい る。このことは、子どもが大人に比べ、自己認識の形成過程おいて生じる影響の受け入れ に「柔軟性」があるために、幼少期の体験が後々にまで影響することが指摘されているの である。そうであるならば、発達過程にある子どもが実践の場でどのようにまなざされる のかは、 後々に影響するほど大きな意味を持つことになり、子どもの日本語教育において、 実践者が子どもの「ことば」や「ことばの力」をどのように捉えるのかによって実践の方 向性が決定づけられるという議論(川上,2011)とも通底している。それゆえに、子どもがこ とばを学ぶ実践の「場」でどのような「まなざし」を育むのかについて実践者が考えるこ とは、 子どものことばの教育実践を語る上では極めて重要であり、欠かせない議論である。 その点を踏まえ、改めて私たち実践者を省みるならば、授業実践や調査・研究において、 子ども(だった人)たちをまなざす対象としては捉えても、私たち実践者も、かれらからま 9.

(16) なざされる対象であることには十分に自覚的ではなかったといえる。そのことを踏まえ、 改めてこれまでの子どもへの日本語教育実践を振り返ると、「まなざし」の観点不在の教 育実践が展開されてきたといわざるを得ないのである。 このことを別の観点から考えてみたい。たとえば、「まなざし」の観点からではなく、 「まなざし」を実践者の言語教育観や価値観などに置き換えて個別に議論する場合を考え てみる。それらの議論は「見る・見られる」という関係性を必要としないため、実践者個 人が持つ考え方や見方として帰着する可能性が高い。その実践者個人が持つ考え方、見方 で議論が進めば、実践に潜む根本的な問題は見えてこないことになる。なぜならば、その 議論には「まなざし」の観点がないからである。「まなざし」の観点不在の議論は、「見 る・見られる」という関係性をともなわないために、まなざす「主体」が固定化される。 まなざす「主体」が固定化されるということは、先述したように一方向的に問題を捉えよ 、、、、、 、、、 うとするために、誰がどのように他者や事象を認識し、それは同時に、相手からもどのよ 、、 うに認識されていくのかといった動態的な動きが見えなくなる。その結果、言語教育観や 価値観に潜むその実践者の矛盾やイデオロギー、抵抗や言説、 対抗理念などは見落とされ、 結局はその実践者「個人の問題」として収斂していくのである。 それゆえに本研究では、実践者の「まなざし」に注目する。その実践者の「まなざし」 には、実践者である筆者自らを研究対象とし、自らの「まなざし」を再帰的に省察する。. 第3節 なぜ筆者の「まなざし」に注目するのか では、なぜ他の実践者ではなく、筆者自身の「まなざし」を問うのか。それは、筆者も 実践者の一人だからである。日々、日本語を教え、研究し、その成果を現場に還元させな がら、また教えるという流れの中で生活をしており、その流れの中で考え続けていくこと が、筆者の考える「ことばの教育実践」だからである。本研究は、まさにその流れの中か ら生まれ、その流れに対する筆者自身の意味づけへの問い直しである。 この問い直しは、筆者のライフストーリーや実践者としての成長の物語といった筆者個 人に帰結させるものではない。筆者が属する子どもの「日本語教育」という世界への問い 直しでもある。「まなざし」は、極めて個人の主観に根差していると考えられるが、その 一方で「まなざし」の形成には、実践者自身の経験や実践者が属する社会の慣習や歴史、 言説など多様な要素が複雑に影響すると推察される。そうであるならば、「まなざし」の 形成は、実践者個人の資質や個人の問題というよりは、むしろ社会的に形成されていくも 10.

(17) のとして捉えるべきであろう。その観点に立てば、実践者は自身の属する社会の慣習や歴 史、政治的なもの、受けてきた教育、言説などと、実践の「場」に立ち現れた「まなざし」 がどのように関係し、形成されているかを、その人自身に振り返ってもらうことが有効だ と考えられる。その振り返りを、他の多くの実践者に行ってもらい、かれらの「まなざし」 を問う必要があるが、他者の「まなざし」を問う前に、まずは、実践者の一人である自分 自身はどうなのかを問う必要があると考えた。なぜなら、筆者の人生や生活世界といった 「生」と筆者が展開する実践との関係については他の実践者ではわからないからである。そ の上で、筆者が自身で自己の「まなざし」を問うことがどのような意味を持つのか、その 省察の過程や結果を踏まえ、他者の「まなざし」を問うという手順を踏んだほうが、「ま なざし」の議論が深まり、洞察できると考えられるからである。 、、 しかし、そこには自身で自己をどうまなざすのかという課題が生じる。というのは、筆 者自身が自分の授業実践、調査・研究については熟知する反面、自身で自己の姿をどのよ うにして見るのか、そもそも自身で自己の姿を見ることが可能なのかという矛盾を抱える。 その矛盾を乗り越えるために、本研究では「まなざし」論を構築する。その理論を用いて、 子どもの日本語教育の実践者の一人である筆者を研究対象とし、自身で自己の「まなざし」 、、、、、 をどのように問うことが出来るのかを論証する。 本研究では、筆者が自身の「まなざし」の形成過程を追い、筆者の属する日本語教育と いう世界や、筆者が属する社会の文脈がどのように関係しているのかを明らかにする。そ のため自己エスノグラフィー研究(第 4 章にて詳述する)として位置づけられるが、その中 でも、自身の経験を対象化して再帰的に振り返ることに主眼を置くため、再帰的エスノグ ラフィー13の研究の方法論を採用し、議論を進めることにする。. 第4節 問いの設定と本研究の射程 本研究の目的は、本章の冒頭に掲げたように、「まなざし」の観点から子どもへの日本 語教育実践を再考することにある。そのために、これまで注視されてこなかった「まなざ し」に注目し、子どもの日本語教育という世界が持つ「まなざし」を問い直す。 この目的を遂行するには、子どもをまなざす立場にある筆者と、まなざされる立場であ る子ども(だった人)の固定化された関係性を崩し、子ども(だった人)の「まなざし」から. 13. 自己エスノグラフィー研究の一つ。「自己の文化の中の自分自身の経験を対象化して、自己について再 帰的に振り返り、自己-他者の相互行為を深く理解しようとする」研究(Ellis & Bochner,2006:137)。. 11.

(18) 筆者の日本語教育実践に立ち現れる「まなざし」を捉える必要がある。つまり、これまで まなざす「主体」であった筆者を、まなざされる「客体」として捉えるのである。そして、 現在の筆者から過去の自身の実践における「まなざし」を再帰的に省察し、時間軸を追い ながら、その「まなざし」の形成過程と実践の変容を見ていく。それは、筆者がことばの 教育に携わり、日々、日本語を教え、研究し、その成果を現場に還元しながら、また教え るという流れの中で生活し、その流れの中で考え続けていくことが「ことばの教育実践」、 すなわち子どもへの日本語教育実践であると捉えているからである。そうであるならば、 授業実践に立ち現れた「まなざし」や調査・研究において立ち現れる「まなざし」のみを 断片的に取り上げて議論するのでは、実践者の子どもへの「日本語教育実践」という流れ の中で立ち現れてくる「まなざし」は見えてこないと推察され、「まなざし」が人とこと ばと社会とどのようにかかわっているのかも議論することはできないと考えられる。なぜ ならば、実践者はさまざまな経験を重ね、歴史という時間軸の中で、どこで実践を行った のかといった「場」の空間軸、そしてその時々の歴史的、政治的、社会的文脈にかかわる 教育理念や教育制度の中でやりとりされる言語軸を通して、他者や社会や物事を認識し、 その認識に基づいて生きているからである。だからこそ、筆者自らが実践者としてかかわ った授業実践の「場」と調査・研究の「場」を例にとり、自身の「まなざし」がどのよう に形成され、実践がどのように変容していくのかを、子どもへの日本語教育実践という中 に位置づけて明らかにする必要がある。 したがって、本研究では、実践者が行った子ども(だった人)への日本語教育実践を時間 軸、空間軸、言語軸の 3 つの観点から「まなざし」の形成過程を明らかにし、その背後に ある子どもの日本語教育という世界や実践者が属する社会との関係を描き出し、議論する。 本研究の課題は、 1.. 一人の実践者の「まなざし」はどのように形成されていくのか、. 2.. その実践者の「まなざし」と実践はどのように関係しているのか、. 3.. 上記 2 点を踏まえ、その実践者の属する子どもの日本語教育という世界や社会の 文脈と「まなざし」がどのように関わっているのか、. 4.. 上記 3 点の議論を踏まえ、「まなざし」の観点から子どもへの日本語教育実践を 捉え直すことで何がいえるのか、. の 4 点である。これ以降、筆者が実践者であることを記す場合は「実践者」と表現する。. 12.

(19) 第5節 本論文の構成 本論文の構成を述べる。最初に、各章の概要を説明し、その後、本論文の構成をチャー トで示す。 第 1 章では、本研究の目的を述べ、子どもの日本語教育実践において、なぜ「まなざし」 を議論する必要があるのかについて言及する。その言及のために、本研究における「まな ざし」の定義を紹介し、これまでの子どもへの日本語教育実践がいかに「まなざし」の観 点不在の実践展開であったかを研究背景とあわせて説明する。その結果、なぜ「まなざし」 が注視されてこなかったのか、なぜ実践者の「まなざし」に注目する必要があるのかを問 題点を踏まえて論述する。その結果を踏まえ、本研究の目的を遂行するために、なぜ筆者 の「まなざし」を取りあげ、論証しようとするのかという意義を説明し、その方法と研究 課題を示す。 第 2 章と第 3 章は、先行研究の章である。第 2 章では、「まなざし」に関する先行研究 を概観し、子どもの日本語教育の立場から批判的に検討する。子どもの日本語教育、およ び日本語教育では、「まなざし」については議論されていないため、他領域において「ま なざし」論がどのように展開されているのかを、三領域に焦点をあててレビューを行う。 その三領域とは、人のありようを問うことで「まなざし」論の最も先駆的な役割を果たし てきた哲学の領域、人の内面的な心理に着目しながら「まなざし」との関係を論じる臨床 心理学の領域、「まなざし」と教育の関係から子どもの教育実践を論じる領域である。こ れらの三領域での「まなざし」を巡る議論を子どもの日本語教育の立場から批判的に検討 し、その議論を踏まえ、得られた観点を示す。 第 3 章では、第 2 章で行った先行研究から得られた観点をもとに、複数言語環境で成長 する子どもの日本語教育に関する先行研究を概観する。そして、子どもの日本語教育にお いては、どのような「まなざし」が形成されているのかを検討する。その結果を踏まえ、 本研究において構築した「まなざし」論を説明する。 第 4 章では、研究方法を示す。研究方法には、自己エスノグラフィー研究の一つである 再帰的エスノグラフィーの研究方法を採用する。その研究方法の具体的な展開方法として 「入れ子構造」の手法を援用し、その方法と援用理由について詳述する。その後、分析対 象データ、研究協力者、「実践者」の背景、分析の観点を説明する。 第 5 章から第 7 章にかけては、「実践者」の「まなざし」の形成過程の章である。2015 年現在の「実践者」の立場から分析する。第 5 章は、調査・研究の事例である。それをも 13.

(20) とに執筆した論文に立ち現れた 2009 年の「実践者」の「まなざし」を分析する。第 6 章は、 海外での授業実践の事例である。それをもとに執筆した論文に立ち現れた 2013 年の「実践 者」の「まなざし」を分析する。第 7 章は、第 5 章と同じ研究協力者のその後を追った調 査・研究の事例である。それをもとに執筆した論文に立ち現れた 2014 年の「実践者」の「ま なざし」を分析する。 第 8 章は、総合考察の章である。第 1 章で掲げた本研究の課題 1 から 4 に則し、応答す る形で、2015 年現在の「実践者」から第 5 章から第 7 章にかけて行った分析に立ち現われ た自身の「まなざし」を、時間軸、空間軸、言語軸の 3 点から分析する。研究協力者であ る子ども(だった人)も、まなざす「主体」と捉え直すことで明らかとなったことは何か。 そして、明らかとなったものは、子どもの日本語教育にとって、どのような意味を持つの かを議論する。 第 9 章は、結論の章である。第 8 章の総合考察を踏まえ、本研究の目的である「まなざ し」の観点から子どもへの日本語教育実践を再考する意義を明らかにし、本研究の結論を 述べる。そして、構築した「まなざし」論も含め、今後の課題と展望について述べる。. 14.

(21) 〔本論文の構成チャート〕. 15.

(22) 第2章. 「まなざし」に関する先行研究と日本語教育. 本章では、子どもの日本語教育における「まなざし」論を検討する前に、「まなざし」 論が積極的に展開されている次の三領域に焦点をあててレビューを行う。その三領域とは、 人のありようを問うことで 「まなざし」論の最も先駆的な役割を果たしてきた哲学の領域、 人の内面的な心理に着目しながら「まなざし」との関係を論じる臨床心理学の領域、そし て「まなざし」と教育の関係から子どもの教育実践を論じる領域である。これらの三領域 で、「まなざし」はどう捉えられ、議論されているのかを検討する。そして、子どもの日 本語教育の立場からそれらの議論を捉えると、何がいえるのかを考察したい。. 第1節 人間のありようと「まなざし」についての議論 「まなざし」には、「見るもの」と「見られるもの」の関係が存在する。この二元論的 な見方は、古代ギリシャの哲学者であるプラトンの「イデア」論にあると考えられる。な ぜなら、「イデア」には「見られたもの」14という意味があるからである(貫,2008)。プラ トンは、「イデア」による「永遠不滅」の世界と「感覚によって捉えられる現実の世界」 を区別し、「二元論的世界観」を示した(小川,2014)。その後「二元論的世界観」は、懐疑 を考察の出発点とするデカルトの認識論15へとつながっていった。その認識論の中でデカ ルトは、「主観/客観」図式16と呼ばれる思考法を編み出した。その思考法では、「わたし」 の意識だけは疑い得ない絶対的なものとして捉え、「私」という主体を中心に据えて考え る近代思想を築いたのである。そこでの「見る」ことは「主観」、「見られる」ことは「客 観」と捉えることができ、「見る・見られる」という関係論は、デカルトのこの「主観/ 客観」的な考え方17に基づくと考えられる。その後、この「見る・見られる」といった行 為と関係性を論じる研究は、カントの人間の認識能力の限界性18やヘーゲルの「弁証法」 14. ここでいう「見られたもの」は「物の姿や形」であるが、「精神の目」によって「洞察される物事の真 の姿、事物の原型」を指す。プラトンの提唱する「イデア」論では、「イデア」は「永遠不滅の存在」で あり、あらゆる物事は「イデアの影」にすぎないために「真の姿」を求めなければならないとされている (小川,2014:22-23)。 15 哲学的認識論に基づき、人がどのように物事を認識するかについて考える領域を指す。 16 デカルトは、万物は「私」にとっての認識対象、思考対象と捉え、主観としての「私」がすべての存在 根拠となると考えた(貫,2008)。 17 デカルトは、「私」の根底に置かれたものを「主観」とし、「主観」の前に置かれたものを「客観」と した。この両者はペアであるという思考法を指す(貫,2008)。 18 カントの「物自体」の概念に基づく。カントは、客観的世界それ自体(「物自体」)は認識が不可能であ るが、主観に現れた世界の「認識装置」が同じであれば、他者との共通了解が成立するとした (山 竹,2011:79-80)。. 16.

(23) による認識プロセス19、フッサールの主観と客観の一致を主張 20する議論などに発展した (山竹,2011)。 具体的に「まなざし」論として展開したのは、1960 年代の構造主義の時代においてであ る。フランスの哲学者である M.フーコー(1977〔1975〕)は、『監獄の誕生』において「一 望監視施設(パノプティコン)」の原理21を使い、「監視する者と監視される者の眼差しの 不均衡」(小川,2014:172)に注目し、「まなざし」の持つ暴力性と社会の権力構造を明らか にした。その一方で、実存主義者のジャン=ポール・サルトルは、 『存在と無』(2007〔1943〕) の「対他存在」論の中で、「まなざし」を他者や自己を対象化するものとして議論した。 サルトルの「対他存在」論とは、私の存在証明は他者からまなざされることによって認識 され、その認識による存在を「対他存在」と称し、人間はこの「対他存在」から逃れられ ないとして論じたものである。このサルトルの「まなざし」論では、他者を対象化して見 ることが、結局は自己も対象化することになるとして議論された。 そのサルトルの「まなざし」論に反論したのが、「身体論」を掲げた M.メルロ=ポンテ ィ(1966〔1953〕,1967〔1945〕,1974〔1945〕)である。メルロ=ポンティが掲げる「身体 論」では、「主観」と「客観」の間に「身体」が位置づけられる。そこでの「身体」は、 「私」のものでもなく「他者」のものでもないとして非人称化され、「身体」が対象を意 味づけるものでありながら、その対象でもあるという「身体」の「両義性」(1966〔1953〕:110) が唱えられた。その「身体論」における「両義性」とは、たとえば「わたしが自分の二つ の手をたがいに重ね合わせたとき感じられる」感覚を指し、それは「二つの手がそれぞれ <触れるもの>と<触れられるもの>」(1967〔1945〕:165)との機能のなかで生じる二つ の感覚である。つまり「身体」は、右手で左手を触れているというように知覚し、意味づ けるものであり、同時に右手は左手に触れられているとして対象化されるという「両義性」 である。それゆえに非人称化された「身体」が「両義性」を持つのであれば、その同じ構 造を持つ「身体」を通した経験は「私」だけではなく、他者も同じように経験することが 可能であり、「他者」も私と同じように経験することで、その知覚の経験が共有できると 19. ヘーゲルの「弁証法」に基づく。意識の対象は自己に相関して現れており、あらゆる意識は「自己意識」 であることを主張した(山竹,2011:90-92)。 20 現象学の創始者であるフッサールは、これまで自明とされてきた客観的世界の存在を疑い、主観的な意 識の世界から出られない限り、その存在を確認することが出来ないとした。そしてすべては意識に現れた 世界であると主張した(山竹,2011:104-115)。 21 「一望監視施設」とは、パノプティコンと呼ばれる監獄の建築学的考案である。パノプティコンは、中 央に監視塔が置かれ、周囲には円環状の独房の建物がある。監視塔からは独房の受刑者が見られるが、受 刑者からは監視塔の監視人が見えない仕組みとなっている。. 17.

(24) し、他者理解が可能だと考えたのである。 そのことは、『眼と精神』(1966〔1953〕)において、幼児の知覚にもとづいて説明され ている。一つは、他者を対象化して捉える「まなざし」であり、もう一つは、「癒合性」 (p.138)を持つ「まなざし」である。前者の「まなざし」は、サルトルの提唱する「まなざ し」に相当する。「癒合性」を持つ「まなざし」は、メルロ=ポンティによれば、2 歳半 以前の子どもに見られるという。この年頃の子どもは、自分の部分的な身体の感覚と他者 の部分的な身体の感覚の区別がなく、連続的に一体化されて知覚するという。この一体化 された「まなざし」が「癒合性」を持つ「まなざし」である。ところが 3 歳くらいになる と、他者からの「まなざし」による羞恥や見られているという意識が働くようになる。こ れは自己の他者からの分離を意味するが、それは同時に自立ともなる。他者の「まなざし」 によって自分に「まなざし」がいくと、対象への関心が抑制され、自分へと関心が行く。 つまり、他者を対象化して見ることは他者の存在を知ることでもあり、その他者によって 自身がまなざされることで自身の存在を知り、 自身に目が向くということになる。 そして、 それが結果的には自身で自己を対象化して見ていることになるのである。そうなると、サ ルトルの「まなざし」論のように、対象化して見ることから生じる孤独や不安から「まな ざし」が恐怖となる。そうならないためには、「他者や自己を対象化するまなざしから、 合体し、一体化するまなざしへの転回が必要」(福井,1984:225)なのである。メルロ=ポン ティは、この「まなざし」への転回を「私が他人の表情の中で生き、また他人が私の表情 の中で生きているように思う」(メルロ=ポンティ,1966:177)といった「共感的な世界を体 験する方法」(福井,1984:225)で可能だと論じた。その「共感的な世界を体験する方法」、 すなわち「一体化」する具体的な方法については示されていないが、「身体論」に従うな らば、「身体」を通した経験である「まなざし」を非人称化することで、「まなざし」は 「見る・見られる」という「両義性」を持ち、「まなざし」の「一体化」が可能だという ことになる。つまり、まなざす「主体」である「私」の「まなざし」は、翻ってみれば、 他者もまなざす「主体」となることで、同じ経験を共有し「一体化」できると解釈できる のである22。 ここまで、哲学の領域における「まなざし」論を概観してきたが、哲学の領域で「まな ざし」は認識と捉えられていた。つまり、人と世界、事象との関係をどう認識するのかを 22. メルロ=ポンティは、非人称的な「共通の基盤を共有することで『私』も『他者』も同等の者である」 考えたが、そうであるならば「なぜ『私』は『私』であり、『他者』は『他者』なのか」という「個別性 と人称性」の説明がつかなくなるという批判がある(鶴,1998:102)。. 18.

(25) 議論しながら、人間のありようとその普遍性を問うていたのである。その一方で、それら の議論は、精神、すなわち心とそれ以外のものを切り離して考えるといった二元論的見方 がその中心にあった。しかし、人とことばの関係を考える子どもの日本語教育の立場から いえば、社会における他者との関係性の中では「まなざし」はどう捉えるのかという疑問 が出てくるのである。. 第2節 人間の心理と「まなざし」についての議論 哲学の領域で生じた疑問に取り組んでいるのが、人間を探求する心理学である。とりわ け、心の問題を個々人の事例から考える臨床心理学では、「まなざし」を社会における他 者との関係性の中で捉えようとした(福井,1984;村田,2009 他)。 中でも臨床心理学の立場から視線に注目した福井康之(1984)は、視線が人間関係にどう 関係するのかといった切り口から「まなざし」論を展開した。福井は視線恐怖症の人の治 療経験をもとに「人間の生活は、見ることの問題を除外して成り立た」ず、「まなざし」 を議論することは「全ての人にとっての関心事」(p.i)だという理解に至った。つまり、視 線行動と人間関係は深く関係すると考えたのである。福井は、「まなざし」は「目で見る ことなのだが、たんに眼球に、どう写っているかという問題ではなく、まなざすというこ とから派生するさまざまな現象が、人間の生きざまをめぐって展開する」(p.i)ことだとい う。そして、その定義を「対象に向けられた目の表情のこと」(p.9)だとした。しかもそこ には、「見る・見られるという関係」(p.8)が生じ、「まなざすという行為は見ること」で もあるが、「判るということでもあ」(p.9)るとし、「まなざし」は認知にかかわることと して捉えられた。 では、福井は、なぜ「まなざし」が認知にかかわると考えたのか。福井は、神経生理学 的にものが見えるというのは「物体の反射光が網膜に映る」(p.42)ことであるが、人は単 に網膜に映っているものを受動的に見ているのではなく、「見ている」のだと主張する。 なぜならば、人は「自分の経験を通じて獲得している意味に即するように」(p.86)見るか らだと説明し、そこに「まなざし」が知覚や認知と直接的に関係すると捉えたのである。 さらに「まなざし」は、「見る・見られる」という二者間の関係性において相反する「両 刃の剣」(p.224)にもなるという。その「両派の剣」とは、「敵意」と「親愛」であり、「対 人関係の状況」によってそれぞれが現れるとする(pp.35-36)。なぜなら「対人関係の最も 基本的な出発点は、二人の人間の目の出合い」(原文ママ)(p.158)であり、「他者に対する 19.

(26) 知覚の複雑な関係」(p.156)から生じるからである。だからこそ「まなざし」は、単に「見 る」という行為だけではなく、非言語コミュニケーションでもあると述べ、「まなざし」 論を「人間同士の出会いの原点に据えて考察した人間論」(p.i)だと主張した。それは「ま なざし」を議論することが「その論点の背後の意味を検討すること」になり、「どのよう にまなざすことが人間にとって普遍的なのかを改めて問い直す作業」(p.216)だと考えてい るからである。 これらの議論から、人間の内面に注目する臨床心理学では、「まなざし」は、認知にか かわる重要なものであり、内面を映し出し、「言外のことばとして語られる」非言語コミ ュニケーションの一つとして捉えられていた。子どもの日本語教育もコミュニケーション 教育であり、社会における他者との関係性の中でコミュニケーションを捉えようとする。 そう考えると、「まなざし」は非言語コミュニケーションのみならず、言語コミュニケー ションにおいても生ずるのではないかという疑義が湧く。. 第3節 幼児教育学、教育社会学、社会福祉学における子どもへの教育実践と「まなざし」 についての議論 ここまでの議論では、社会における他者との関係性において「まなざし」は重要なもの として捉えられていた。では、子どもに対する「まなざし」は、どう論じられているのだ ろうか。他領域の子どもへの教育実践に焦点をあて検討する。 子どもを語る用語として「まなざし」が用いられるようになったのは、1960 年に出版さ れた歴史学者であるF.アリエスの『<子供>の誕生』(1980〔1964〕)で、国内ではその邦 訳の出た 1983 年頃だと考えられている(山本,2003)。アリエスは、「まなざし」という用 語をその書の第一部で「子供期へのまなざし」として、その結論にも「子供期への二つの まなざし」と称して記述している。アリエスは、近世・近代における家族形成の変化に関 心を持ち、中世の末期以降に現れてきた子どもに対する大人の態度や意識に注目した。そ の関心から「まなざし」は、子どもに対する大人や社会の「意識」であったり「態度」で あったりと、「社会や大人が持つ子どもへの視線であり、見方」(山本,2003:108)として捉 えられていた。 その「まなざし」の用語を子ども論に採用したのが本田和子(1982)である。本田は、児 童学という立場から、新しい子ども論を展開した。本田は、従来の子ども論は、子どもを 大人への一成長過程として捉え、教育者の目で語られていたと述べ、子どもを異文化であ 20.

(27) り、他者として位置づけ直すことが必要であると批判した。本田の子ども論には、度々「ま なざし」という用語が登場する。ここでの「まなざし」は「子どもを認識する枠組み」(山 本,2003:109)として捉えられていた。なぜなら「まなざし」は、子どもたちの「ありよう」 であり「問いかけ」であり、それを大人が「内なる異文化」(本田,1982:12 )として捉える 際に子どもに向ける「まなざし」として表現されているからである。本田は「見る・見ら れる」という関係において、大人が子どもと「見下ろし、見下ろされる関係」にあったこ とに気づくことではじめて子どもの「まなざし」に近づくことができ、その「まなざし」 を通して「人間を見直」し「すべてを相対化する視力」(p.225)を得るのだと主張した。 したがって、子どもの「まなざし」を巡る研究においては、大人の視点からだけではな く、子どもの視点からもまなざすことの重要性が論じられていた。その意味は、大人も子 どもからまなざされる「客体」であること、その関係性に気づくことでしか、子どもの「ま なざし」に近づき、大人の既成のものの見方を相対化する視座は得られないということで あり、メルロ=ポンティの議論とも重なっていた。 子どもへの教育実践では、このように子どもをまなざす「主体」として捉え直すという 潮流と重なり、その観点からの論考が多く見られる(たとえば岡本,2006;菊池,2005;中 村,2012;布川,2009)。ところが、これらの「まなざし」論の中心は関係論の議論であった。 その場における人や物事をどのように認識するかによって、人間関係や実践が編み直され ていくと考えられているのである。しかし、子どもの日本語教育の立場からすれば、その 場の関係論で終わらせることはできない。なぜなら、子どもの日本語教育はことばのやり とりにおいて「まなざし」がどのようにかかわり、主観的な思いの形成にどのようにかか わっているのかを見ていくことが必要だからである。 では、これらの論考を子どもの日本語教育の立場から見ていくと何がいえるのだろうか。 社会福祉学の観点から岡本(2006)は、児童養護施設職員の「記録」シートに立ち現れる 「まなざし」に着目した。職員は、子どもの退所後の生活を見通して「成長・発達」(p.57) を捉え、人間関係を育みながら「人生を歩んでいく力」(p.65)を培う働きかけを行ってい た。そこには、職員が子どもを「生活主体者」(p.65)として捉える「まなざし」が存在し、 それが専門的な視点であると主張した。その例として、多忙な職員に配慮した「中学生女 子」(p.63)の行いに対し、職員がこの「中学生女子」を同じ「生活主体者」として捉え感 謝を伝えたというエピソードをとりあげている。岡本は「このようなやりとりをそこに居 合わせた子どもたちも見守っているはずであり、何らかの影響を与えている」と解釈し、 21.

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