• 検索結果がありません。

王維の乘如禪師に寄せた詩とその

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "王維の乘如禪師に寄せた詩とその"

Copied!
11
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

一、はじめに二、「蕭和

靈 銘」

五、 四、結語 三、乘如禪師の人物と生涯 陽の缺字部分について

一、はじめに

本稿では、新たに「蕭和

靈 銘」

し、その上で拙論「蕭和 の缺字部分を復元

靈 銘の 王縉兄弟との交流を物語る石刻 文について王維・

においてに復元した報第五十八集』、二〇〇六年) 料の復元」(『日本中國學會

文、そして『大宋高 陰の本

傳』乘如傳の記

乘如禪師の人物像を探っていきたい。 などを參看しながら、

二、 「蕭 和

靈 銘」

陽の缺字部分について

は、拙論「蕭和

靈 銘の

「蕭和 文について」において、

靈 銘」(以下「靈

の銘」と略記)

『宋高 陰を復元し、

傳』の乘如傳には見えない禪師の事績を明らかにし

王維の乘如禪師に寄せた詩とその

邊(中)

乘如禪師の人物像を中心に

(2)

た。その際、石

の復元は

陰のみにとどまった。今回、

陰よりも

滅の

んだ

る 陽の缺字を、わずかながら復元し得

『 料を特定できたので、一部ではあるが復元してみたい。

文續拾』卷十三に「會善寺殘

」なる石刻が

ている。その本文は、安國寺で示寂し、建中元年二に され

れた ら

について記している。示寂した場

と 二點で、「靈 られた年の 銘」

陰に記された乘如禪師に關する記

合 と

する。「會善寺殘

」は行數

九行であり、「靈

銘」の 陽が十五行であるのと

なる。しかし、

際、下截部分がそうであったように、斷裂した折に、石 陰の復元の

一部が粉々になって の 失した可能性もある。よって一

關係の殘 に無

とすることはできない。

に「會善寺殘

數を表す。□は缺字。 」の本文を載せる。行頭の算用數字は行

1畢竟空□歸我2可於

3 邇未嘗知倦

4山之 而接細侶畫力而衞法 □ 5佛事 引是旋奉

6旦日於上

7姑以建中元年二廿五日 安國寺趺坐如

8矣授官

9銘曰 之印蓋已久

に「下缺」とある。それ以外は單に「缺」とある。「靈 文續拾』では、「畢竟空」の上に「上缺」、「銘曰」の後

の 銘」

陽とこの「會善寺殘

」を上下にあわせ、「會善寺殘

を左右に移動させてみたところ、文意が 」 れた( じるところが現わ の復元圖參照)。

【「蕭和

靈 銘」

陽復元圖】

王維の乘如禪師に寄せた詩とその

邊(中)(

田) 1

故臨壇大

乘如下闕

!

2(空行)3大師號乘如姓蕭梁武

"六代下闕

!

4皇

#太子洗馬大師

$龍年中七下闕

!

5以律

%爲生□□□□□□子□中闕

!

畢竟空□歸我下闕

!

6學於大照長老人莫得而知中闕

!可於

邇未嘗知倦下闕

!

7故□□□餒實甚□身有□時

&

中闕

! 8門居臨壇之首 而接細侶畫力而衞法 '八年□□□□中闕

!山之

□ 引是旋奉下空

!

(3)

「會善寺殘

ら「靈 」第三行末の「而衞法」か(復元圖第七行末)

銘」

」となる。また、門「會善寺殘(而して法門を衞る) 陽第八行行頭の「門」へと繋がり、「而衞法

末(復元圖第八行末)の「旋奉」から「靈 」第四行 銘」

となる。更に、「會善寺殘 行頭の「恩詔」へと繋がり、「旋奉恩詔」(旋いで恩詔を奉り) 陽第九行

「姑以建中元年二 」第七行(復元圖第十一行)の 廿五日

」から「靈

銘」

の「於嵩岳寺中 陽第十二行 之西」へと繋がり、「姑以建中元年二

五日 廿

於嵩岳寺中

之西(姑らく建中元年二

岳寺中 廿五日を以て嵩 の西に る)」となる。そして「會善寺殘

の「銘曰」から「靈(復元圖第十三行末)(銘に曰はく) 」第九行 銘」

陽第十四行の銘文「秉律大師・・・・」へと繋がるのであ よって、『 る。

文續拾』卷十三に

される「會善寺殘

は「靈 」

銘」の失した下截部分のうちの

よう。そして「會善寺殘 陽であると言え 」は、「蕭和

銘」・「安國寺

殘 きよう。 」とともに本來一つの石刻であったと斷ずることがで

三、乘如禪師の人物と生涯

王維が詩を寄せた相手である乘如禪師とはいかなる人物であったのか、その人物と生涯を探っていきたい。「靈

の 銘」

陽はすでに

げた。

に 和 陰の復元圖(これは拙論「蕭 靈 銘の 文について」で復元した

て『大宋高 、そし陰の本文である)

傳』卷十五の乘如傳(以下「乘如傳」と略記)を 中國詩文論叢第二十六集

58

9恩詔

赴上

爲安國西明兩寺

中闕

佛事

下闕 10代宗多可其奏行年八十一大

□□□

中闕 旦日於上

安國寺趺坐如

11□□巳□

六十有一門人哀

中闕

姑以建中元年二

廿五日

12於嵩岳寺中

之西兄曰時和□

中闕

矣授官

之印蓋已久

下闕

13矣歎曰大師

我而

中闕

銘曰

下空 14秉律大師深

下闕 15法 之

大師

下闕

(4)

げる。また、必

に應じて幾つか

論「蕭和 料を用いる。なお、拙 靈 銘の 績について少々觸れており、一部それと重複する箇 文について」において、乘如禪師の事

がある。

【「蕭和

靈 銘」

陰復元圖】

王維の乘如禪師に寄せた詩とその邊(中)(

田) 2和 1(空行)

3度於東 法諱乘如俗姓(以下闕)

崇先寺 4殊 求佛事(以下闕)

之域世問心地於寂公

5玄宗以其行密 (以下闕)

高特詔爲臨壇大

且統釋門等濟

6歸會冤 (下闕)

解以釋憾嘗以念佛功

爲 蒙因

易 □願故

男 7坐或行耳無輟聽非天淺深善誘 (下闕)

可 □孰能

人 俗至於奉

8以弘 佛以(下闕)

雖委身險艱竭己衣

9和 皆不之倦□□□□□天寶末羯胡□□飮馬洛川悉索聞人脅從爲□

振錫箕頴南登江

因依而行

!忠義智是不一姓時(下空)

10肅宗

"位之明年也聞而嘉之

#$長安親同其

%

&三之奧旨會不二之妙門詮經(下闕)

11立與隨趣定惠而得將

'對上

(稱歎因留

場安置

)(下空)

12代宗御極禮有加焉於對□之時

*付囑之□佛

有因循舛駮

咸得奏 +以革之正法載行曠劫

, 13 -.以 /老懇 +閑居優詔許之

0宴安國寺大

1十三年三

2三日示有□

3疾沐浴趺坐謂門 14弟子曰法性無

4世相不留

報寄形形盡□□□□□□而享年九九之數

5臘六十有一同俗

6 15赴哀震京師佛日以之昏霾禪林以之摧折詞畢恬□□□□□□門人等號泣罔

7窮戀靡極乃相

(5)

「乘如傳」(『大宋高

釋乘如、未詳氏族。 傳』卷十五) (1)

律部、頗善

循則。代宗 宣繩準。緇徒罔不 數。先是五衆身 經、如預其任。應左右街臨壇度人、弟子千 、衣什

悉入官庫、然

累 革。如乃 、曷由釐 引 律。出家比丘生隨得利、死利歸

。言其來 本無物也。比丘貪畜、自茲而

、職由於此。今

例同 歸官、

世 事、闕人

其輕重。大 揚。今屬文明、乞循律法、斷 二年十一

二十七日敕下、今後

、物隨入 、仍班

已、抑亦奮 中書門牒、天下宜依。如之律匠、非止訓二衆而 衆之 事、立功不朽。如公是乎。

律部をを詳らかにせず。 國上座。有文集三卷、圓照鳩聚流布焉。(釋乘如、未だ氏族 西明・安 し、頗る繩準を

緇徒循則せざるは罔し。代宗 宣するを善くす。

經し、如其の任に預かる。 衆身 左右街臨壇にて人を度するに應り、弟子千數なり。是より先、五 あた

ぶれば、衣・什

悉く官庫に入る。然るに累

て、曷に由りてか釐革せん。如乃ち

律を 生きては利を得るに隨ひ、死しては利は 引す。出家の比丘 に歸すとは、其の來 の本より無物なるを言ふなり。比丘貪畜するは、茲よりして

ること、職 もとより此に由る。今

し官に歸せば、例 ならひ

に同じ。

世の 事は人に

くは律法に循ひ、其の輕重を斷められんことを。大 さだ 揚せらるるを闕く。今文明に屬り、乞ふら あた

二年十一

二十七日に敕下る。今後

じては、物は

りて中書門牒に班 に入るに隨へ。仍 に二衆に訓ふるのみに非ず、抑も亦た し、天下宜しく依るべしと。如の律匠、止だ

衆の 立てて朽ちざらしむ。如公是なるかな。西明・安國の上座に 事を奮はし、功を

る。文集三卷有り、圓照鳩聚して流布す。) は 中國詩文論叢第二十六集

60

16 曰我居士和

之仁兄也東山未旋有姪櫟陽縣(中闕)

曰(下闕)

17和

!與和

常居中嶽雖生滅之理

"廟之儀孰敢專

#遂

$%於山北寺將有俟焉居士名時 18

&

'身

"於嵩丘不

(本也和

昔與已齊友愛之心

)切以建中元年正

十七日自山北寺

* 19之

+而數公薀崇

,馨

-居臺輔莫不隨其

.河 /公綰 0陵崔公渙太原王公縉弘農楊公綰爲支許 20堂□□□□上乘如何一

空 1□□淨歎我□殊(中闕?)

2定水之□□之峻極(中闕?)

矣良輔昇(下闕)

21

建中元年龍集庚申仲秋

(6)

■禪師の

としているが、「靈 「乘如傳」では、禪師について「未だ氏族を詳らかにせず」 生と出家

銘」

蕭(よって蕭和 陽第三行の記載により、俗姓が と 稱される)、梁の武

また、後で詳 ことがわかった。 の六代の孫である することであるが、「靈

銘」

師は大 陰に、禪 十三年に八十一で示寂し、(七七八)

であったことが見える。このことから、禪師は 臘六十一 家したことがわかる。そして出家した寺は、 開元六年の生まれであり、に二十一で出九八)(七一八) 元年(六 る洛陽の崇光寺であった。これらの基本 陰第三行にあ な履

が『大宋高

傳』には

く見えないので、

贊 關する の手許には、乘如に 料がさほどなかったことが窺われる。

陽第十二行に「兄曰時和(兄は時和と曰ひ)」、

六行に「我居士和 陰第十 之仁兄也(我が居士は和

」、の仁兄なり)

陰十七~十八行に「居士名時

(居士名は時

る。王維の詩に登場する蕭居士と ぞれ記されており、少なくとも二人の俗兄がいたことがわか )」とそれ

稱される蕭時

杜 、そして

傳の作

ある。また、 (2) と同一人物ではないかと考えられる蕭時和で 陰第十六行に「有姪櫟陽縣

曰(姪の櫟陽 縣

」とあり、有りて曰はく)

甥で櫟陽縣 陰の本文が書かれた當時、

■嵩山に居す の職にあった人物がいたものと思われる。

年 乘如は嵩山に居したようである。

「和 陰第十七行に 與和

常居中嶽。(和

とあるのがそれを物語っている。「和 」と常に中嶽に居す)

」の直

「時」字が刻されていたのであろう。禪師の俗兄蕭時和は、 十六行の末尾部分で石が缺損しているが、おそらく蕭時和の 陰第 い頃に禪師とともに嵩山に

んだらしい。「和

」の直 が缺損していてわからないが、蕭居士(蕭時

えられていたならば、 )の名も加

俗の兄弟三人が、

■臨壇大 でそろって修行したことになる。 かりしころ嵩山 乘如の才能が中央で となる

臨壇大 められるのは、意外にも早かった。

となったのは、玄宗

のことである。

とから、開元十九年、三十四の時に臨壇大(七三一) 「居臨壇之首八年(臨壇の首に居すること八年)」とあるこ 陽第八行に なったものと思われる。また と 陰第五行にも「玄宗以其行密

!高、特詔爲臨壇大

(玄宗其の行密にして

特に詔して臨壇大 !高きを以て、

と爲す)」とあり、皇

からの信

"が厚かっ

王維の乘如禪師に寄せた詩とその

#邊(中)(

$田)

(7)

たことが想像される。■

律と

「乘如傳」には、「律部を 經

し、頗る繩準を

た。これは、 くす」とある。律部に詳しく法度をときあかすのに長けてい 宣するを善 ることと呼應する 陽第十四行の「銘」にある「秉律大師」とあ では禪師を稱揚して「上 容である。陸長源「嵩山會善寺戒壇記」 (3)

安國寺臨壇大

秉律 乘如、修業廣、

、志度有

、法庇群動(上

安國寺臨壇大

を修めて業廣く、律を秉りて 乘如、

く、志有

「乘如傳」にはまた、「代宗 群動を庇ふ」と記している。 を度し、法 に る。「 る。左右街臨壇にて人を度するに應り、弟子千數なり」とあ あた 經し、如其の任に預か 經」とは、代宗

の梵文經典の

■ ことを言う。禪師は、梵文にも詳しかったのであろう。 (4) 譯事業に加わった 代皇

の 崇 和 陰第八~第十一行に「天寶末、羯胡□□飮馬洛川。・・・・

振錫箕頴南登江

・・・・肅宗

位之明年也。聞而嘉之 長安、親同其

。和

(天寶の末、羯胡□□馬を洛川に飮ひ・・・・和 三之奧旨、會不二之妙門。

ひ、南のかた江 錫を箕頴に振 を登り・・・・肅宗

位の明年なり。聞きて之を 嘉し、

して長安に

らしめ、親しく其の

を同じうす。和

三の奧旨を

がおさまらぬ中、箕頴の地に き、不二之妙門に會る)」とある。禪師は安史の亂 いた

て佛 錫し、肅宗から長安に召され の奧義を

肅宗・代宗の三代の皇 いたのであった。このように、禪師は玄宗・

■ に重んじられたようである。

さて、皇 の改革

の信任を得て活

する禪師が、

ことが「乘如傳」に見えるが、その記 を改革した の紙幅の大 がなんと「乘如傳」

を占めている。出家の五衆が

の財 すると、そ

は 師はこれを改革しようとし、律を 收されて官庫に入るという慣例になっていた。禪

たいと奏上した。すると、大 !引して、改めてもらい

"二年に敕が下され、今後、

#

したならば、その財

は 贊 たのであった。 #徒集團に歸屬することになっ 非ず、抑も亦た $は禪師をこう賞贊する。「止だに二衆に訓ふるのみに をし

衆の む。如公是なるかな」在俗の佛 %事を奮はし、功を立てて朽ちざらし

&を らず、 'するのみな (き

#侶の ようとした。なんと正しいことか。 %した事績を發揚してその功績を長く留め

陰第十二行の「佛

因循舛駁 有

&、咸得奏

)以革之(佛

に因循舛駁なる せんばく

&有らば、 こと 中國詩文論叢第二十六集 62

(8)

な奏

」は、この一件をもするを得て以て之を革む) あらた

記 含する

と考えられる。佛

積極 界において改革すべき點があると、

に皇

に奏上して裁可を

うたのである。

禪師は、因襲に從することなく、佛 には「代宗多可其奏(代宗多く其の奏を可とす)」とある。 陽第十行

界の改革を推し

■會善寺戒壇の再興、そして榮光の ていたのである。 め 縣嵩岳會善寺戒壇 嵩山の會善寺の西、戒壇の左にあるという「河南府登封 (5) 年 」(俗稱・代宗御書

の上)

奉敕 には、「中書 」が刻されている。そこには安國寺

乘如が大

十(七六七) 二年 に、東

白馬寺・

愛寺などの

七人を

で、洒 ん

律に當らせることを願い出たことが記されている。

廢した戒壇を再興し、

場で戒律を

宣せしめようという い意志が現れていよう。

の中には「右河南副元帥

侍 門

章事王縉奏」とあり、王維の弟王縉によってこの (6)

を奏上されたことがわかる。改革の推

のこと、時の 興といい、禪師が卓越した政治手腕を備えていたことは勿論 といい、戒壇の再 力 心」とする「寺院復興・ 像される。池田宗讓氏は、代宗期における「長安・洛陽を中 王縉らとの深い繋がりがあったことが想

團改善」をめぐる佛

團の動き 「不空を中心 について、

指 とし、元載・杜鴻漸・王縉等の

勢貴族からの厚い信仰と經濟

る寺院復興・ たことは容易に想像ができるが、加えて、代宗期に於け 助を背景とするものであっ けた律 團改善には、律大乘如等の實務にも長

の大きな活

西明寺圓照の『代宗 と分析している。 !があったことが知られる。」 (8)

"

#司空大辨正廣智三

卷一に收載される廣二年の「(七六四) $和上表制集』

四十九員敕一首」に、大の一人として「東 置大興善寺大 愛寺

の名が見える。この頃まで洛陽の 乘如」

愛寺に

善寺に移ったことが知れる。また、同じく圓照の『大 %し、以後、大興

續開元釋 &貞元 '』卷上には、乘如が奉った仁王經の

る表が收載されるが、その表の末尾には「永泰元年八 (譯に關す

(七六五)にはすでに、安國寺に 大安國寺上座臨壇大沙門乘如等上表」とあり、永泰元年 八日

「乘如傳」には「西明・安國の上座に %していたことがわかる。

の大安國寺・西明寺の上座として )はる」とあり、長安

*崇を受けつつ、榮光の

+

年を

■禪師の示寂 ,ごしたのであった。

王維の乘如禪師に寄せた詩とその

-邊(中)(

.田)

(9)

陰第十三行に「

以 老懇 寺。( 閑居、優詔許之。遂宴安國 いで 老を以て閑居を懇

」とあり、大安國寺に宴ふ) いこ するに、優詔之を許す。遂に 年 坐したようである。 に老齡を理由に安國寺に宴 陰第十三~十四行に「大

十三年三

三日、示有□疾、沐浴趺坐。・・・享年九九之數。

十一(大 臘六

十三年三

享年九九之數なり。 三日、□疾有るを示し、沐浴し趺坐す。・・・

■俗兄蕭居士による靈 して長命であったと言えよう。 」とある。享年八十一は當時と臘六十一)

建立發願

陰第十七行に「和

與和

常居中嶽。雖生滅之理・

廟之儀、孰敢專

。 於山北寺、將有俟焉。居士名時

、 身 於嵩丘、不

本也。・・・・(和

嶽に居す。生滅之理・ と常に中 廟之儀と雖も、孰か敢へて專ら

北の寺に せん。山 し、將に俟つ有らんとす。居士名は時

、身

丘に を嵩

て、本を

」とある。俗兄の蕭居士れざるなり。)(蕭時 )は、思い出深い嵩山に、禪師の靈

かったようで、 意したのであった。しかし、その計畫はすぐには完遂できな を建立することを發 骨は一旦、山北の寺に假埋

■ かったらしい。 せざるをえな ・王縉ら官僚の參列

陰第十八~十九行に「以建中元年正

十七日自山北寺

之・・・數公薀崇

馨、更

居臺輔、莫不隨(建中元年正

十七日を以て山北の寺より之を

す・・・數公薀崇く

更 馨しく、 かぐは

こもごも臺輔に居るも隨はざるは莫し)」とある。禪師の示寂から二年後の建中元年(七八〇)正

、山北の寺に假埋

た してあっ

人物が付き從った。同じく第十九行に「其 骨を嵩岳寺に移した。その儀式の際、宰相になるほどの

河 公 ・ 崔公渙・太原王公縉・弘農楊公綰爲支許(其れ 陵 河 公 ・

陵崔公渙・太原王公縉・弘農楊公綰支許を爲す)」とある。

崔渙・王縉・楊綰がその人物であり、禪師はこれらの高 ・ は、拙論「蕭和 をしたのであった。王維・王縉と禪師の交流の發端について 僚たちと「支許」、すなわち支遁と許詢のような親しい交際 官

靈 銘の

■再度の假埋 文について」を參照されたい。

を經て靈

拙論「蕭和

靈 銘の 師示寂後、 文について」執筆段階では、「禪 骨を山北の寺に假埋

春に骨函を掘り出し、嵩岳寺の西に埋 し、二年後の建中元年の して靈

と考えていた。ところが今回、 を建てた」

事實が 陽の一部を復元して新たな 明した。

!の

"り、今回の復元で

二行が「姑以建中元年二 陽第十一~十 廿五日

於嵩岳寺中

之西(姑ら 中國詩文論叢第二十六集

64

(10)

く建中元年二

廿五日を以て嵩岳寺中

の西に

として繋がった。よって、山北の寺に假埋 」という一文る)

を、建中元年の正 してあった骨函 に掘り出した際には、靈

はまだ完

ていなかったことが想像される。そこで同年二 し

中 に、嵩岳寺

の西に、また一時

ったわけである。

(しばらく)」の一字がそれを物語っている。そして數ヶ 陽の「姑

に骨函をまた掘り出して、 後 元年八 陰第二十一行の年記にある建中 に、靈 の中に骨して靈

が完 れる。そしてその靈 したものと思わ るのが自然であろう。完 は、嵩岳寺の寺域に建てられたと考え を 八十數 えることのできた蕭居士は、

の老齡に

していたのだった。

四、おわりに

本稿では新たに一部復元できた「蕭和

靈 銘」の 二〇〇六年に復元した 陽と 陰、そして『大宋高

その他の 傳』乘如傳や 梁の武 料をもとに、乘如禪師の人物と生涯を探った。

の六代の孫という名流に生を享け、二十一で出家。

くして玄宗の

眼を得て臨壇大

宗と となり、續いて肅宗・代 代皇

崇を得た。佛

界における

善寺戒壇の再興といった大事業をてがけ、西明・安國兩寺の の改革や會 上座に

わった。そして俗兄蕭居士によって嵩岳寺に靈

りには、これまで少なからず を賞贊しつくしている。實のところ、王維のあまりの賞贊ぶ 師に寄せた詩の中で、王維は多くの典故を踏まえながら禪師 これが王維が詩を寄せた相手、乘如禪師の生涯である。禪 建てられたのであった。 が 和感があった。しかし今回、

くして臨壇大

となるほどの北宗禪の奇才なるがゆえに、

意を のであろう。大照禪師普寂を中心とする ある。また俗兄の蕭居士も禪師に負けず劣らず修行していた めつつ斯かる詩を寄せたのであると理解できたので

俗を交えた佛

親しみからだけでなく、禪師兄弟が人物才能ともに ループに、禪師兄弟も王維兄弟も屬していたという、單なる グ いたからこそ、王維も最大 出して の あろう。 をこめて詩を寄せたので 側に刻された詩題中の「僕竊

焉(僕竊かに焉 これ

」が、それを端ふ)

考察したいと考えている。 王維が禪師に寄せた詩を解釋し、かつその作品の制作年代を 稿では、拙論(上)(中)で得られた事實を踏まえて、 に示している。

王維の乘如禪師に寄せた詩とその

!邊(中)(

"田)

(11)

五、

(1)范

擁點校『宋高

傳』(中

たが、一部、句讀の 書局、一九八七年)を用い

(2)陶 りを正している。

『 詩人名彙考』(

出版

「 、二〇〇六年)は、 乘如禪師蕭居士嵩丘

」において、陳

君 『

補 文

』(二〇〇五年)に收載される「蕭和

靈 銘」の

と 陽

陰(當然のことながらいずれも上截部分のみ)を

いる。陶 げて 氏は 陽・

「其兄蕭居士名時和」と 陰の上截部分しか見ていないので り、さらに『太

の『杜 廣記』卷三〇〇 』の末

「出處士蕭時和作傳」を引いて、「

人」としてしまっている。 此 した

士名時 陰十七~十八行の「居 (居士名は時

れている。そのため、拙論「蕭和 )」は「時」字までが下截に刻さ

靈 銘の く蕭時 における復元によって初めて、蕭居士の本名が蕭時和ではな 文について」

であると

(3)『嵩陽石刻集記』卷上、 明したわけである。

中州古 一。(『嵩岳文獻叢刊(第二冊)』、

出版

(4)西明寺圓照『大 、二〇〇三年)

貞元續開元釋

』卷中には「經 !

大 臨壇 !

"西明安國寺上座乘如表

#集三卷」(傍點

(5)『 名が見える。 $田)という書

%嵩』卷十四(『嵩岳文獻叢刊(第三冊)』、中州古

出 版

(6) 、二〇〇三年)

(3)

&

書。卷下、

(『財團法人戒壇史」三康文 (7)池田宗讓「一行禪師創建嵩岳會善寺戒壇(一)會善寺 三。

'(究

一九九〇年) &年報第二十一號』、 中國詩文論叢第二十六集

66

参照

関連したドキュメント

を軌道にのせることができた。最後の2年間 では,本学が他大学に比して遅々としていた

2Tは、、王人公のイメージをより鮮明にするため、視点をそこ C木の棒を杖にして、とぼと

ロボットは「心」を持つことができるのか 、 という問いに対する柴 しば 田 た 先生の考え方を

 トルコ石がいつの頃から人々の装飾品とし て利用され始めたのかはよく分かっていない が、考古資料をみると、古代中国では

老: 牧師もしていた。日曜日には牧師の仕事をした(bon ma ve) 。 私: その先生は毎日野良仕事をしていたのですか?. 老:

※お寄せいた だいた個人情 報は、企 画の 参考およびプ レゼントの 発 送に利用し、そ れ以外では利

今回、新たな制度ができることをきっかけに、ステークホルダー別に寄せられている声を分析

夫婦間のこれらの関係の破綻状態とに比例したかたちで分担額