ウィーンの救済者たち
──ユダヤ人を救った人々(13)──
Die Judenretter in Wien
平 山 令 二
要 旨
19世紀末から20世紀にかけてのウィーンでは,ユダヤ人に理解のあるフラ ンツ・ヨーゼフ皇帝のもとでユダヤ系学者・文化人が各分野で活躍したこと が知られている。しかしながら,1938年のナチス・ドイツによるオーストリ ア併合の際に,ウィーンの一般市民が,舗道をブラシで掃除するという屈辱 的な行為をさせられていたユダヤ人たちに,野次と喝采を浴びせたことも紛 れもない事実である。しかしながら,ヒトラーを賛美する圧倒的多数のウィ ーン市民のなかにも,Uボートと呼ばれたユダヤ人潜行者を命がけで救済し た人々は多かった。日本ではほとんど知られていないウィーンのユダヤ人救 済者の姿を明らかにしたい。
キーワード
ウィーン,ユダヤ人,Uボート,救済者,オーストリア併合
昨年の夏,25 年振りにウィーンを訪れた。さすがに長くハプスブルク 帝国の都であっただけに,25 年経っても目立った変化は見られなかった。
さて,今回のウィーン訪問の目的は,本シリーズのテーマである「ユダヤ 人を救った人々」をウィーンにおいて調査することだった。ベルリンを中 心としたドイツ本国における「ユダヤ人を救った人々」については本シリ ーズも回を重ね,かなり実態を明らかにすることができたのではないか,
と思っている。次の内容を考えていたとき,ヒトラーの出身国であるオー
ストリアでは「ユダヤ人を救った人々」はどのくらいいたのだろうか,と
いう素朴な疑問が浮かんだ。そこで,まずはユダヤ人の住民が一番多かっ たウィーンで調査してみようと思い立った。
ウィーンでは,ふたつあるユダヤ博物館を訪れ,書店もいくつか回り関 連する書籍を探そうとした。探そうとした,と書いたのは,実に幸運に も,最初に訪ねた書店で女性店員に「ユダヤ人を救ったウィーンの人々に 関する書籍を探しているのですが」と相談したところ,彼女はすぐに書棚 に向かって行き,一冊の本を片手にもどってきて,「ちょうどそのテーマ の本が出たばかりです」と言いながら本を差し出した。それが,これから 紹介するブリギッテ・ウンガル−クライン著『影の存在──ウィーンにお けるUボート
1938 1945』であった。まさしくこのテーマについてオーストリアで出された最初の包括的な本であると言えよう。なお,Uボートと は潜行ユダヤ人の異名であり,これまで本シリーズで書いたようにドイツ 本国でもそのように呼ばれていた。
1
.1938 年までのウィーンにおけるユダヤ人の生活
S.ベラーによると,1910年にウィーンで生活していたユダヤ人は 175,318人で,ウィーンの全人口2,031,498
人中8.6%を占めていた
(ベラー,54)
。オーストリアにおけるユダヤ人の生活は,拒絶・追放と受容・寛容
の間で揺れていた。支配者であるハプスブルク家,とりわけフランツ・ヨ
ーゼフに対してユダヤ人はとても親近感を抱いていた。フランツ・ヨーゼ
フはユダヤ人に理解のある皇帝として知られていたからだ。オーストリア
帝国軍ではユダヤ人はキリスト教徒と共に最前線で戦った。しかし,1934
年のドルフス暗殺から
38年のナチス・ドイツの「併合」にかけてのオー
ストリア・ファシズム体制下で,ユダヤ人に対する嫌がらせは次第にあか
らさまになっていった。大学の医学部などでもユダヤ人がその出自により
教授になれないような事態になった。
しかし,ユダヤ共同体はオーストリア・ファシズムをヒトラーのナチ ス・ドイツに比べ「より小さな害悪」と見なして,オーストリア政府によ る抑圧も甘受しようとした。ただし,ユダヤ共同体の内部も一枚岩ではな く,オーストリア帝国に郷愁を持ちあくまでもウィーンにとどまろうとす るユダヤ人もいたし,シオニズムを信奉しパレスチナに移住しようとする ユダヤ人もいて,家族のなかでも激しい論争が交わされていた。
ナチスの支配が始まってから,ユダヤ人は迫害から逃れようとさまざま な試みをしたが,それはドイツでは1933年のヒトラーの政権奪取から始 まり,オーストリアで始まったのは1938 年
3月のナチス・ドイツへの「併 合」からだった。イギリス人のあるジャーナリストは,「併合」の際にし た体験を書いている。「私がゲシュタポに追放される前に体験した最後の ウィーンは,本当のウィーンではない。私がウィーンについて持っていた イメージを壊したのは,オーストリアのナチスの蛮行ではなかった。それ は,グラーベンやケルントナー通りにいた普段着の人々の非人間的でにや けた表情だった。彼ら,「マイヤー氏」や金髪の「ミッツィー」たちは押 し合いへし合いして,目の前の光景を一瞬たりと見逃すまいとしていた。
真っ青な顔色のユダヤ人外科医が,ハーケンクロイツの腕章をして鞭を手 に持つ若いならず者たちに囲まれ,跪いて舗道を磨いている姿だった。外 科医のきゃしゃな手は,これまで多くのウィーン市民の命を救ったであろ うに。見物しているウィーン市民の姿は,私がよく分かっていると思って いたウィーンの民衆のやさしい,センチメンタル過ぎるほどの姿とどうし ても一致しなかった。」
(117 118)ウィーン脱出の際,ユダヤ人は最初に短期間,数日から数週間,非ユダ
ヤ人の友人や親戚のところに避難した。脱出に必要な書類を平穏な環境で
準備し,脱出前の日々を穏やかに過ごすためだった。11 月のポグロム
(い わゆる「水晶の夜」)の間も,ナチスによる暴行,略奪,放火などの被害を
受けないようにと,多くのユダヤ人が他人のところに保護を求めた。1941
年
2月に東方へのいわゆる「移住」,実際には強制移送が始まってから,多くのユダヤ人は非合法な地下生活に入った。ウィーンの弁護士,ルート ヴィヒ・ハイドンは1942年から
1944年にかけて日記をつけていて,その時期のことを次のように書いている。
ポーランドに移送されそうになると,何千人ものユダヤ人が見つか らないように,自分の住まいを放棄して,住所不定の彷徨う生活をし た。今日は地下室に住み,明日は倉庫に住み,それからまた同情心の あるアーリア人のもとに住み,わずかばかりの持ち物はあちこちに分 散しておいた。──本当の意味での「さまよえるユダヤ人」である!
私の知っている
65歳の弁護士は,何週間も前から明かりのない,換 気孔もない倉庫に暮し,外が暗くなるとはい出して,知人のところで パン一切れと野菜の施しを受けるのだった。
(120)2
.Uボートの統計的分類
戦後のウィーンでの調査によると,判明したUボートの人数は1,634 人 であり,一番多い年齢層は51 歳以上の25%,次に多い層は41 歳から
50歳
の
24%である。中年層が多かった。男女比では,女性が52%で男性が47%,不明が
1%である。Uボートの潜行した住居数は,1 軒だけが
53%,2軒が19%だが,5軒 以上も
13%ある。潜行生活の期間は,1年以内が274 人,1 年以上が
1,022人である。
Uボートひとり当たりの救済者数は,1,003人のUボートについて調べ
ると,救済者ひとりが386 人,ふたりが260 人,
3人が179 人,
4人が
103人,5 人以上が
75人である。意外にひとり当たりの救済者数は少ない。
救済者がUボートを途中でほうり出すことなく,あくまで救済行為を続け たということだろう。救済者の男女比では女性が1,036 人,男性が621 人 となっている。性別不明も含む全体の人数1,827 人のうち,女性が
60%,男性が36%となっていて,予想通り女性の救済者の割合が多い。年齢層 で見ると,31 歳から
40歳の層がもっとも多く
38.2%,次に41歳から
50歳 の層で29%と,救済されたUボートの年齢層よりは若くなっている。比 較的若い層のほうが救済するエネルギーがあるということだろう。「ニュ ルンベルク法」の分類に従うと,「アーリア人」が133 人,ユダヤ人が
117人である。ユダヤ人が救済者になるケースも多かった。宗教については,
カトリックが92 人,プロテスタントが
14人などである。救済者の職業を 見ると,商人が18%,家事が
16%,労働者が12%であるが,サービス業,サラリーマン,自由業,役人,医師,年金生活者など実に千差万別であ る。さまざまな人々が自らの決断で救済者になった,ということである。
3
.救済者の動機
ユダヤ人と親しい関係であることを公然と示したドイツ人の血統の人々 は,教育的な理由から一時的に保護拘禁施設に入れられるか,重大なケー スでは
3か月間,第
1級強制収容所に収容された。ユダヤ人の側はいずれ のケースでも,強制収容所で保護拘禁に処せられる。1942 年
4月からユ ダヤ人は,「アーリア人」の住居や「異人種間結婚」の住居を訪れること を禁止され,数か月後には,ユダヤ人に対する滞在場所の申告義務が厳格 化された。規定通りに申告しなかったユダヤ人を宿泊させた者は,国家警 察に引き渡すと脅された。
そのような厳しい状況にもかかわらず,なぜユダヤ人を救済しようとし
た人々がいたのだろうか。いくつかの例をあげよう。アデライド・オーヴ
ァルというフランス人女性精神科医は,1942年に非合法的にヴィシー政
権下フランス領に入ろうとして逮捕された。その際ユダヤ人家族がドイツ 官憲により虐待されるのを見て,「彼らだって,他の人と同じように人間 です。彼らに手を出さないで」
(233)と抗議した。監獄に入れられても,
オーヴァルは抗議を続けた。それに対して,ドイツ人の監視人は「ユダヤ 人をそんなに弁護したいならば,あんたもユダヤ人の運命をたどるがよ い」と言い捨てた。オーヴァルは,ゲシュタポの命令でダビデの星と「ユ ダヤ人の友」と書かれた腕章をオーバーに縫い付けられた。オーヴァルは
1943年にアウシュヴィッツに移送され,医師として働かされた。しかし,彼女は人体実験に関与することは拒否した。
友人のロザリア・イスタを強制移送から救済したアンナ・クハールは,
「ただそうしただけのことです」と自分の行為を説明した。友人がユダヤ 人として迫害されるのを見過ごすことができなかったのだ。彼女の若さと こだわりのなさも,救済行為をしやすくしたのだろう。シャルロッテ・ベ ッヒャーは自分の動機を次のように説明している。「私はプロテスタント でしたが,我が家で宗教が話題になることはありませんでした。それで私 がポシレス兄弟の救済の手助けしたとき,彼らがどんな信仰を持っている のか,肌の色が何なのかということは問題にはなりませんでした。問題な のは,彼らが不当に迫害されているということだけでした。私も好きなヴ ァルターを姉のために救わなければと思っていました。ナチスは嫌いでし た。」
(158)迫害された人々との連帯感とヒューマニズムが,おそらく大部分のユダ ヤ人救済者の動機の中心にあったと思われる。救済行為をした結果につい て長く考えることはなかっただろう。マリア・グラウゼンブルガーに匿わ れたユダヤ人たちは,彼女が「深い人間愛の動機」によってそうした,と 語った。マリア・グラウゼンブルガーは,ウィーン解放のあと,「私は,
ユダヤ人女性と彼女の素晴らしい子どもたちが殺害されるのではないか,
という不安に常に駆られていました」
(235 236)と話している。
4
.組織による救済
オーストリアのナチス・ドイツへの「併合」のあと,ユダヤ人をさまざ まな方法で救済する多様な組織が立ち上がった。初期の救済行為の焦点 は,とりわけユダヤ人のオーストリアからの脱出を助けることに向けられ ていた。これは,ナチスの利害にも合致するものだった。ナチスはパレ・
ロートシルトに「ユダヤ人移住中央事務所」を設立し,「スウェーデン・
イスラエル布教会」といった組織に,ユダヤ人の移住活動を進めるよう,
またそのために資金を出し移住
(本来は追放であるが)を速やかに実現する よう圧力をかけた。
クェーカー教徒のグループは,1934年から
1938年の間に迫害された社会民主党員の支援をしていたが,「併合」後にはユダヤ人の支援活動をす るようになった。クェーカー教徒は,ユダヤ人の子どものイギリス移住に も関与した。2,800 人以上の子どもが安全なイギリスに移住できた。
ギルデメースター活動も同様にユダヤ人の移住の手助けをしたが,対象 となったのは,ユダヤ教徒ではないのに「ニュルンベルク法」でユダヤ人 と見なされていたいわゆる「モーセ教徒ではない」ユダヤ人だった。裕福 なユダヤ人たちはその資産で,移住費用の出せないユダヤ人同胞を援助し なければならなかった。この活動の名前の由来であるオランダ人,フラン ク・ファン・ヘール・ギルデメースターは,第
1次世界大戦後に迫害され て収容されたドイツ人を援助して有名になった。ギルデメースターは,
1934年から36
年の間,ナチスともコンタクトを持ったため,ユダヤ共同
体にとって望ましいパートナーというわけではなかったが。1938年
5月
初旬に活動が開始され,1939年初めにギルデメースター活動の事務所は
拠点を移した。その時点で
98人の職員を擁し,その他にボランティアも
いた。クェーカー教徒やスウェーデン・イスラエル布教会など他の組織と の協力関係も報告されている。
4.1.「厩」──非アーリア人カトリック教徒のための司教救済組織
カトリックの聖職者による個人的な救済行為──これは,イニツァー枢 機卿の承認のもとで行われたのだが──がなされたあと,イエズス会の神 父,ゲオルク・ビヒルマイルは,「非アーリア人」カトリック教徒の救済 を組織的に行おうとした。ビヒルマイルはゲシュタポの監視下にあり,
1939年11
月に逮捕され,シュレジアに連行された。「非アーリア人」カト
リック教徒の精神的な問題としては,自分たちがユダヤ人であるという自 覚がないことだった。両親はカトリックの洗礼を受けていて,自身も幼児 洗礼を受けていたからである。「アーリア人証明書」の提出を求められて 初めて,自分たちが排斥された人種のグループに属することを知ったのだ った。
同じくイエズス会士だったイニツァー枢機卿は,1940 年半ばに「非ア ーリア人カトリック教徒のための司教救済組織」という名称の組織を始動 させた。組織の置かれた場所は,救済行為をごまかすために「厩」という 通称で呼ばれた。この組織もゲシュタポの監視下に置かれた。組織の指導 者はボルン神父であった。カリタス・ソキアリスの一員であったヴェレー ナ修道女は,ボルン神父と緊密に協力し,救済活動を行った。戦後,ヴェ レーナ修道女は「私のしたことはすべて当たり前のことでしたので,それ について話す必要はありません」と述べている。
教会によって救済された
35人の例がある。神父たちは,細かいことを
聞かずに洗礼を授けた。洗礼そのものは,「ニュルンベルク法」に基づく
保護される身分を与えるものではないが,洗礼によって「アーリア人」で
ある証明書を得ることができた。神父信徒会の協力者が,偽の誕生・洗礼
証明書を出してくれ,しばらく教会に避難場所を求めることができた。あ るいは,信頼の置ける信徒のところに隠れ家を見つけてもらうことができ た。
パウラ・ヴァイトホルツはスコットランド修道院にしばらく匿われ,そ の後1942 年秋にハンガリーに脱出することができた。カローラ・フィッ シュマンは1938年に家を追い出され,Uボートとして生き延びたが,何 度も隠れ家を変えなければならなかった。とりわけ教会の支援を受けるこ とができた。「修道院は私の妹たちを暖かく受け入れてくださった。ただ,
日中しか修道院にいられなかった。晩には時々ゲシュタポの捜索が行わ れ,妹たち全員が危険な目に遭いかねなかったからだ。」
(242)4.2.スウェーデンのイスラエル布教会
スウェーデンのイスラエル布教会は
1876年にストックホルムで設立された。ウィーンでは「ユダヤ人への布教」を目標として,1920 年から同 布教会は活動を始めた。ウィーンのユダヤ教徒は人口の10 パーセントに のぼるので,布教にとって有利な状況があると見なされていた。布教の重 点は青少年への働きかけに置かれていたが,布教会とユダヤ共同体の間に は軋轢が生じた。プロテスタント教会も布教会の活動をそれほど肯定的に は見ていなかった。プロテスタント教会の多くは反ユダヤ的とは言えない ものの,ユダヤ人には距離を置く姿勢を取っていたからだ。
しばらくの間,ユダヤ系のフリードリヒ・フォレルが布教会の指導者と なっていた。フォレルは,1933年ナチスの政権奪取のあと,ドイツから オーストリアに亡命してきたのだった。しかし,オーストリアの「併合」
のあと,ウィーンを去らなければならなかった。後継者になったのは牧師
のゲーテ・ヘーデンクウィストだった。後に書いているところでは,彼は
アドルフ・アイヒマンと距離は置いたものの,良好な信頼関係を築くこと
に成功し,それにより布教活動はある程度スムーズに進むようになった。
それは,ユダヤ人のできる限り迅速な国外脱出が焦点になっていた頃のこ とである。
布教会は,ロートシルト・パレに置かれた「ユダヤ人移住中央事務所」
に独自の代表部を持っていた。1938年
7月から布教会で活動していたアン ナ−レーナ・ペーターソンによると,各教会でプロテスタントの洗礼を受 けた人々が布教会に送られてきて,そこからさらに他地域に送る支援がさ れていた。1939年
2月に
60人の子どもをスウェーデンに送り出すことが できた。全体で約3,000 人のユダヤ人が布教会の支援で国外へ脱出した。
救済行為はユダヤ人のための宿泊所の斡旋や食料の調達に及んだ。潜行 生活に入ったユダヤ人,アレクサンダー・アルチェルは,布教会による救 済活動について次のように述べている。
スウェーデン布教会の助けにより,私はワイン畑の近くの小さな家
に潜むことができた。雪に覆われた小さな家だった。時々,人が缶詰
を持ってきてくれた。冬を乗り切るための食料だった。寒さがかなり
厳しい冬だったし,雪も多かった。再び暖かくなったときに,私はそ
こを出て行った。助けてくれた人々を危険にさらしたくなかったから
だ。この時期に軍服を着ていない若者はとても人目についた。布教会
から私より
2歳年上の男性の洗礼証明書を手に入れた。その日付を暗
記しなければならなかった。ときにその名前をかたって民宿に泊まる
ことさえした。しかし,常に宿泊先を変えなければならなかった。そ
れは自明のことだった。同じ宿に長く泊まれば泊まるほど,危険だっ
た。ハイドリヒが暗殺されてからは,とても困難な時期だった。暗殺
者が探されていたし,検問が厳しくなったからだ。そのため,普通の
宿に泊まることは実際には不可能になった。ある時など危機一髪で逃
れることができた。ゲシュタポが隣の部屋までやって来て,私はすべ て置きっ放しで逃走しなければならなかった。夜には常時,検問,そ れも路上での検問が行われた。親衛隊の部隊が一列に並んでいて,通 りは通行止めになって,くまなく捜索された。私はウィーンの隅々ま で知っていた。それが役に立った。他人が知らない通り抜けることの できる家や横道をたくさん知っていた。それで逃げ延びることができ たのだ。
(245)アルチュルは
9か月間Uボートの暮らしをしたあと,スイスに無事脱出 することができた。1941年
11月,布教会はナチス当局の命令により閉鎖 され,協力者はスウェーデンに帰国した。アンナ−レーナ・ペーターセン は
1941年11月にウィーンを去った。
5
.「私のところにいなさい!」──個人による救済活動
「私のところにいなさい!」という言葉で,女優のドロテーア・ネッフ は,友人のリリー・ヴォルフを自分のところに引き受け強制移送から救 う,という決意を表明した。彼女は自伝のなかで,救済の決心につながっ た精神状態を印象深く描いている。似たような場面がどれほどあったこと だろうか。関係者の回想録を読むと,とても多かったことが分かる。この ような場合に必要な決心の準備をしていた人は滅多にいなかった。
アロイス・ピペルガーはそのような決心を次のように描いている。
私たちはコーン夫人──それが私たちのUボートの名前だったが
──を以前はまったく知らなかった。友人たちは,私たちが引き受け
ることが彼女の生き残る唯一のチャンスだと言った。それで私たちは
彼女を引き受けることにした。今となっては,当時の向こう見ずな大
胆さを理解できない。ひとりの人間をうまくいけば救うために,私た ちは自分の命を危険にさらしたのだ。ひどい不安を覚えながらもそう した。自分たちの救済行為を自慢する気はさらさらない。私たちがし たことは,当時友人たちの何人かも同じようにしたことだ。何人かは その償いを生命でしなければならなかったが。私たちは幸運だった。
コーン夫人は見つかることがなく,終戦により潜行生活から抜け出す ことができたのだ。
(248)不安を覚えたのは,このように潜行ユダヤ人だけではなく,救済者も同 じように神経に触る不安を覚えていた。ドロテーア・ネッフはあるインタ ビューで次のように述べている。
私が当時体験した神経の大変な苦しみは,私がユダヤ人リリーをそ うならないように守っているもの
(殺害)と比べればなんでもないこ とでした。私は外部を遮断して生きていました。
4年間,個人的な付 き合いは一切拒絶しました。外部の人間では,劇場の同僚としか付き 合いませんでした。それが,リリーのために私のできるたったひとつ のことでしたから。
(248)救済者はきわめて慎重で,まったく目立たない暮らしをしなければなら
なかったが,他方でこれまでの暮らしぶりを変えてしまうのも許されなか
った。あまりに暮らしぶりを変えてしまうのは目立ってしまうし,周囲の
人々に疑いの気持ちを起こさせるからだ。同じ建物の住人,友人,義務労
働といった生活のすべての領域で,危険に備えていなければならない。万
が一の場合,ゲシュタポに見つからないためにはどうすべきなのか。隠れ
家のなかでの隠れ場所を確保しておかなければならない。当時のUボート
の証言によると,突然の訪問があると,衣装棚,台所や石炭の箱のなか で,危険が過ぎるまで身を潜めていなければならなかった。
Uボートの存在のため狭くなった居住空間は,ときにもうひとつベッド を入れる場所もなく,もともと少ない配給の食料を分かち合わなければな らない。長期間そのような共同生活を送ることがどんなに困難であったの か,本当に想像できない。家族ならば,そのような生活もある程度我慢で きるだろうが,赤の他人が必要に迫られて共同生活を送らなければならな くなった場合にはどうだろうか。
『夜と霧』の著者であるヴィクトル・フランクルは,Uボートだった親 戚の女性を救済した男爵夫人について,次のように書いている。「男爵夫 人の側から言えば,突然の感情の高揚であり,義務の感情であった。彼女 はとても宗教的な人間だった。いずれにせよ,道徳的で人間的な偉大な行 為だった。」
(250)ヨーゼフ・ルビン−ビットマンを救済したアンナ・マ リア−ハースは後に述べている。「きわめて困難な状況にある人間を救う ことは,だって当たり前のことですもの。」
(250)しかし,この「当たり 前のこと」は当たり前のことではまったくなかった。なぜなら,あまりに も多くの人々が見て見ぬ振りをしたし,それどころかユダヤ人の隣人たち の迫害に手を貸しさえしたからである。しかし,にもかかわらず市民とし ての勇気を示し,自らも迫害される危険を買って出た人々がいたのであ る。名前の分かっている救済者たちは1,800 人以上いて,そのうちの
1,000人以上が女性だった。
ナチスの機関紙「フェルキッシェ・ベオーバハター」で「ちょっとした
失敗を重ねた天使
(エンゲル)」と皮肉な仇名をつけられたゲオルク・エン
ゲルハルトは,以前の顧客だったユダヤ人の家族に配給券が必要な品物を
届けた。エンゲルハルトはそのためゲシュタポの収容施設に11 か月間入
れられ,1942 年
1月
17日にグロース・ローゼン強制収容所に移され,
1942年5
月
7日に死亡した。石炭商の妻,カミーラ・プラシュカは,ユ ダヤ人女性を家に匿い,外国逃亡の手助けをした,ということで夫のリヒ ャルトに密告され,1943年
2月に保護拘禁処分を受けた。カミーラ・プラ シュカはアウシュヴィッツに移送され,1944年
1月まで収容された。戦 後行われたリヒャルトに対する裁判で,カミーラは次のように証言してい る。「ゲシュタポに連行されてから
1時間もしないうちに夫が現れて,店 の鍵を渡すように要求した。私が収容されているとき,夫は離婚証明を送 ってきた。そこには,離婚の責任は私だけにあると一方的に書かれてあっ た。その内容を収容所事務局が私に伝えた。」
(251)レオノーレ・ローリングは
1942年11月
19日に逮捕された。「1942 年
2月
14日にユダヤ人との交際に関してゲシュタポに警告されたにもかかわ らず,ユダヤ人女性を強制移送から救済するため,最近彼女を何日か自宅 に匿った。さらに,ウィーンの収容施設からワルシャワ近郊に逃亡したユ ダヤ人とコンタクトを持ち,下着を送った。」
(252)と当局の記録にある。
その数週間前に,ドクター・エラ・リンゲンスが逮捕された。1942年
11月
19日の保護逮捕命令には理由が次のように書かれている。「彼女は,国 家警察の尋問結果によれば,ユダヤ人ゴルトシュタイン一家がスイスに脱 出するのを助け,財政的に支援したことにより,民族と国家の安全を危険 に陥れた。」
(252)ドクター・エラ・リンゲンスは,アウシュヴィッツ強 制収容所に移送され,悪名高いドクター・ヨーゼフ・メンゲレのもとで働 かされた。彼女の夫,ドクター・クルト・リンゲンスは懲罰的徴兵を受け たが,まもなく重傷を負い,彼の従軍は終わった。
他方,救済者のなかには救済の対価を求める者もいた。知られている範
囲では18 のケースが明らかになっている。ヒルシュベルク一家を救済し
ようとしたという嫌疑でゲシュタポに逮捕された建築士のフランツ・ヴィ
ツァニは,ヒルシュベルクの家を買い取ろうとしていた,少なくとも遺言
に自分への遺産として書かせようとしていたことが明らかになった。大管 区血統管理局専門員のアントン・リステルは,血統証明書を偽造したとい う疑いで1944 年
5月
17日逮捕された。リステルは,9 件のケースで「混 血」の血統証明書を偽造した,と自白した。「混血」の証明によりユダヤ 人には有利な地位が得られたからである。リステルはこのような「救済行 為」により500 から
1,000ライヒスマルクを報酬として得た。もちろんこのようなケースは稀だったが,共同生活をする際につきもの の,掃除や洗濯の手伝いはしばしば行われた。しかし,これは「支払い」
ではない。もし,金銭的支払いが救済活動の動機だったとすれば,金銭が なくなればUボートを救済する理由がなくなることになる。だが,多くの 場合,Uボートは金銭を支払うことができなかった。「誰かに助けてもら ったお礼に,マルクやシリングを支払う必要はまったくなかった。そんな ことはなかった。私はまったく金銭を持っていなかったのだから。」
(254)とヴァルター・フォルクはインタビューで述べている。エルフリーデ・ゲ ルストルは,救済者たちは皆「とても品がよく,いつも助けようとしてい て,自分たち母娘のために買物をしてくれ,食料をくれた」
(254 255)と 述べている。母親の宝飾品や貴重品が所有者を変えたのも,彼女は当然の ことと考えていた。「なぜなら,救済行為は命の危険のあることでしたし,
大変なリスクだったからです。」その際,考えなければならないのは,食 料は闇市で手に入れなければならず,そのためには当然,金銭が必要にな る。
6
.管理人の役割
Uボートの救済には,多くのファクターが関係している。ひとつは,U
ボートが匿われている集合住宅の住人の態度である。Uボートが匿われて
暮らしている集合住宅では,いつも完全に秘密にしておくことは不可能だ
ったからである。地下室に暮していたエーラース一家はさまざまな反応に 出会った。彼らのことは皆が知っていた。ある住人はナチスの理念に共感 していて,エーラース一家を密告すると繰り返し脅していた。しかし,結 局は密告しなかった。クッテルヴァッサー一家の隣人の女性は密告しよう としたが,ユダヤ人たちがトラックで移送される際にひどく殴られている のを目撃してから,密告するのを止めた。ある種の人々が救済行為の成否 にとって大きな意味を持った。管理人のことである。管理人たちは,「彼 らの家」のすべてを見張り,聞き耳を立てた。管理人のかなりはナチス党 のいわゆる「集合住宅代表者」であり,彼らはナチス体制の熱烈な信奉者 として目立っていて,とりわけ不穏な動きに目を光らせていた。ナチス当 局もこれら管理人グループの間接的協力に期待していた。賃貸人のリスト を作ること,さまざまな配給切符の注文は,これら管理人の手によってな された。
管理人だったアマリーア・ジーゲルは戦後,次のように証言している。
「私は
1933年から管理人をしていました。1942年4月か
5月,たったひと
間しかない壊れそうな四阿に住むエストライヒャー氏が,ミッツィー・グ ルーバーさんをパートナーとして紹介してくれました。規則通りに住民届 けをするために,彼女に何度も身分証明書を見せてくれるように言いまし た。ところが,彼女はその度に言い訳をして,すべて規則通りに届け出を しているので問題はない,と言い張りました。時間が経つにつれ,彼女は 届け出をしたがらないのだと気づいて,私の頭に疑いが生じました。それ で,彼女はユダヤ人だ,という確信を持つようになりました。ただ,彼女 の境遇に同情したのと,彼女が何時でも手助けしてくれたので,彼女のこ とは放っておくことにしました。」
(256)いくつかのケースでは,管理人自らがユダヤ人を匿うこともあった。例
えば,エリーゼとアルベルト・ハースの管理人夫妻は,弁護士のフェリッ
クス・フリートレンダー博士を自分のところでしばらく匿い,それから最 後に集合住宅の別の住居に匿った。50 人以上の管理人が,自分の集合住 宅にUボートがいることを知っていた,と証言している。ほんのわずかの ケースでは,管理人が買収されてUボートの存在を黙っていた,というこ ともあった。
管理人は共同住宅の入口を開閉し,階段や廊下の掃除をしたりする だけではなく,住宅全体を監視していた。住人全員,また各々の住人 の動向を監視していて,怪しげな行動がないかチェックしていた。ラ ジオで外国放送を聞いていないか,住人でない人物が何度も姿を見せ ていないか,といったことである。というのも,闇取引が横行し,U ボートが潜伏している可能性があるからだ。管理人に気づかれないよ うに,トイレの水を流さないようにしたり,水道の水をポタリポタリ と落としたりする人もいた。他方,管理人の歓心を買うために,食料 品や衣料品をあげたり,それどころか闇市で購入した葉巻やタバコを 渡したりした。タバコを渡すことはかなり危険なことだったが,どこ で買ったのかと問われることはほとんどなかった。
(256)7
.救済者とUボートの関係
以上のように,ひとりのUボートを引き受けて見つからないように世話
するという仕事はとても困難なことだった。いわんや,複数のUボートを
同時に引き受けることの困難さは想像を絶するものだった。例えば,その
ような救済者のひとり,マリー・マイバウムについて,救われたユダヤ人
5人が戦後,次のように証言している。「私たち生き残ったUボート全員
は,マリー・マイバウム夫人が私たちUボートに対して,実の母親のよう
な態度で接してくださったこと,そして迫害され困難な状況にあった私た
ちひとりひとりが彼女に助けを求めることができたこと,彼女がいつでも Uボートを引き受けてくれ,ときには
6,7人を同時に匿っていたことを 証言します。」
(258)90
弱のケースにおいて,Uボートは後に夫になったり,妻になったり するパートナーのところや後に家族になる人々のところで生き延びること ができた。3 つのケースでは,一度離婚していたのだが,後に再婚するこ とになった。これらのケースでは,パートナーになった人々は協力して困 難な時代を生き延びた。Uボートと救済者の親密な関係は,しかし恐怖の 時代が過ぎ去った後まで必ずしも続いたわけではなかった。そうなる理由 は山ほどあった。救済者であるドロテーア・ネッフとUボートのリリー・
ヴォルフの関係について,ドロテーアの姪は次のように書いている。「リ リー・ヴォルフにとってドロテーアは絶対的な救済者だった。万能の存在 であり,超人的な存在であり,実際に超人的なことを成し遂げたのだっ た。今日から見ると,彼女は巨大な事業を成し遂げたのだ。リリーにとっ て,ドロテーアはまさしく地上を超えた存在だった。そのような関係を絶 つということは,リリーにとってとても困難なことだったので,そのこと で長く苦しんだ。」
(259)エーデルトルートとヴァルター・ポジーレスは戦後の1947 年
6月に結
婚した。しかし,数年後に結婚生活は破綻した。ふたりは協力してドラマ
のような時代を生き延びることができた。エーデルトルートはヴァルター
を救うためにあらゆることをした。しかし,その後に共同生活を続けるに
はエネルギーが足りなかったのだろう。エーデルトルートは,自身の新し
い人生を創造し,大学で学び始め,ウィーン市図書館で長く司書として働
いた。彼女は倦むことなく生徒たちに自らの体験を語った。高齢になって
も,いつでも自らの体験を語ろうとした。100 歳になってまもなく亡くな
った。
先に見たように,1938 年のナチス・ドイツへの「併合」の際のウィー ン市民の熱狂,そして何よりもユダヤ人に対する冷酷極まりないウィーン 市民の仕打ちを見ると,19 世紀末から
20世紀初頭にかけてユダヤ文化人 たちの才能により花咲いたウィーン文化全体も幻想だったようにも思えて しまう。
野村真理は「併合」時のウィーン市民のユダヤ人に対する仕打ちの描写 を引用している。「人々は,ユダヤ人の老若男女をかまわず通りに引きず り出し,力ずくで跪かせ,舗道や家の壁に書かれた「ヤー」や,シュシュ ニク
(オーストリア首相)支持のスローガンをこすり落とすように命じた。
当時76 歳の高齢であった主席ラビのタークリヒトもまた,首に「私は汚 いユダヤ人」などと書かれた札を掛けられ,舗道磨きに引き出される。」
(野村,387)
さらにユダヤ人に衝撃を与えたのは,そのように屈辱的な行為を強いら れている自分たちをウィーン市民が野次を浴びせ,ほえたてながら,勝利 感を楽しみつつほくそ笑む姿だった。「ユダヤ人たちに明らかにされたの は,自分たちが住んでいたのは幻想の楽園でしかなかったということのみ ならず,文字どおりの地獄であったということだった。平均的なウィーン 人を知っている人なら誰でも,ウィーン人がこのようなレベルにまで落ち ることができようとは,この時点にいたるまで信じられないだろう」
(野 村,388)ウィーン市民の掌を返したような冷酷なユダヤ人に対する仕打ちは,潜 在的に彼ら内面に潜んでいた暗黒の部分だったのかもしれない。しかし,
そのような暗流のなかでも,ドイツ本国と同様に,自分たちの同胞である
ユダヤ人を助けようと命を懸けたウィーン市民も数多くいたのである。こ
れもまた,暗闇に灯る小さな,しかし消えることのない人間性の明かりで
ある。
* ( )はページ数を表す。
テ キ ス ト
Brigitte Ungar-Klein: Schattenexistenz Jüdische U-Boote in Wien 1938 1945, Picus.2019.
参 考 文 献 野村真理『ウィーンのユダヤ人』御茶ノ水書房,1999年
S.ベラー『世紀末ウィーンのユダヤ人1867 1938』刀水書房,2007年