目
次 序
章
︿ 言 の 侍
﹀
l ||詩人たちと︿文学者の戦争責任﹀論争
: :
: :
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: :
:
: : :
1
第
一節言の侍:::
第
二節︿文学者の戦争責任﹀論争の勃発
: : ・
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: −
J J
・ −
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j i
−−: : ・ :
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5
第一章戦時下の︿詩の力﹀:
:
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: :j i
− − j
i
− −
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・ :
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: 叩
第
一節 詩 は ︿ 力 ﹀ を 持 ち う る か
・ :
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: j i −
− : : :
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j i
−−
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叩
第
二節︿読むもの﹀から︿聴くもの﹀へ
・ :
j i
− − : ・
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・
:
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j i −
− −
M M
第
三節︿聴くもの﹀から︿歌うもの﹀へ
:
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j i
− − 叫第四節︿戦争協力文学﹀||︿書くか書かないか﹀という問題
: :
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・ :
: :
げ 第二章二種類の︿戦争詩﹀
||無
名兵士と本職詩人の︿戦争詩﹀;:−
j i
−− :
お
第一節無名兵士の︿戦争詩﹀|
|
実体 験に 基づ く戦 場詩
::
・:
::
・
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:
: ぉ
第
二節本職詩人の︿戦争詩﹀||﹁査井・岡本の評価﹂をめぐって:
・:
:: 初
第三章︿戦争詩﹀対︿戦後詩﹀
||世代
対 立 へ の 道
・
・
;
;
・
;
・
・ ぬ 第一節戦後に現れた︿世代の対立﹀・
:・:・:・:・
j i −
− ・
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: ・ ぬ
第
二節武井昭夫||戦後責任を問う・・:
:・: ・
:
: −
j
i
− − :−
J
J
・
−
J J
・ − 削
第四章︿前世代の詩人たち﹀からの反応
|
i 壷井繁治と岡本潤を中心に
::::判
第
一節壷井繁治の場合||
日
本における︿批判﹀はいかにあるべきか
・ :
: :
: 特
第
二節﹁仮面﹂における壷井繁治の反省・・::
・
・ :
: ・
: ・
: :
・ :
・ ・ :
::日
第
三節岡本潤の場合||﹁ウラことば﹂と﹁オモテことば﹂
: : : :
−
J J
・−
: 日
第四節岡本潤の連作詩﹁橋﹂における︿コミユニズム﹀・::
::
: :
・:
位
第 五 章 新 た な 論
者
||
清岡車行を中
心
に ・
・
・
・・
・
−−
−
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第
一節﹁前世代の詩人たち﹂に対する様々な反応
J J
・
− : −J E
− − :: −
J J
・−
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m w
第
二節 清
岡
卓行︵
一︶||若い詩人の﹁奇妙な幕開の告白﹂:::::
: :
:
・: 臼
第
三節 清 岡 車 行
︵
二
︶||文学青年の﹁
二律 背
反 ﹂
・ :
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:
J J
・ −
−J J
・−
: ・
花
第六章誰のために詩を書くか・::・::::
・ :
:
::
:: :
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: :
:
: :
加
第一節秋山清からの提議||︿戦争責任﹀は文学全体の問題::
J J
・
−: ・
:
:
閃
第
二節秋山清||文学の表現と︿戦争責任﹀について
: ・
: : −
J J
・ − : :
:
::
:閃
第
三節︿表現の責任﹀とは何か
: : ・
: J
J
・−
J J
・−
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−
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− : : :
・ :
:
:
: お
第四節誰のために詩をかくか
:・:
j
i
− − − −j i
−− : ・ ・
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−
J
J ・ − ;
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:;: 部
終章論争の終鷲と吉本隆明の︿反省﹀・
・
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・
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ω
第
一節︿文学者の戦争責任﹀論争の終駕
:・
: −
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・ −
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J J
・ −
−:
::
: 幻
第二節論争の問題点と吉本の︿反省﹀・:
・:
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・ :
・
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:: :
:
::
鉛
参考文献
序章
︿ 言
の 侍
﹀
|| 詩人たちと
︿ 文 学 者 の 戦 争 責 任 ﹀
論争
||この時卓に寄りて
文字 をつ づり
︑
こころ感謝に満ちて無限の思切々たり︒ーー
高村 光太 郎﹁ 彼等 を撃 つ﹂ 第一節
ことば
︿ニ 一一 口の 侍﹀ とは なに か︒ 筆者 は︿ 詩人
﹀と いう 言葉 を目 にす ると
︑言
・寺
・人 と分 割し
て︑眼の前で︑︿言の侍﹀というふうに新しく組み合わせることがある︒︿詩人﹀は︑実
際に文字通りの︿一吉の侍﹀であろうか︒詩人はどのような詩を書くのだろうか︒詩人が︿言
の侍﹀の役を担うのはいかなるときなのか︒詩で闘う︑などということはありえるのか︒
︿言の侍﹀という言葉は︑筆者に様々な疑問を起こす︒本稿は︑この︿一吉の侍﹀の闘いを
めぐ る考 察で ある
︒
太平洋戦争開戦以後︑日本の詩人たちは︑書斎の机に向かって︑筆を拾い︑︿戦争詩﹀
を書き始めた︒ここで︿筆を拾う﹀という言い方をするのはなぜか︒戦前はモダニズム詩
人の代表格と見なされ︑戦時下に数多くの︿戦争詩﹀を書いた高村光太郎︵一八八三ー一
九五六︶の詩﹁真珠湾の日﹂を意識するからである︒﹁真珠湾の日﹂は︑高村が戦後に発
表した﹁暗愚小伝﹂︵﹃
展望
﹄
一九
四七
・ 七 ︶
中の
一篇である︒﹁暗愚小伝﹂で高村は︑
みずからの人生を振り返り︑そして戦時下の詩人としての︿戦争責任﹀を反省する︒﹁真
珠湾の日﹂には︑高村光太郎が一九四一年十二月八日に抱いた感情が描かれており︑それ
は筆者にとってとても印象深い言葉遣いとなっている︒ 言の侍
︵ 前
略 ︶
私の 耳は 祖先 の声 でみ たさ れ︑
陛下が︑陛下がと
めくるめあえぐ意識は舷いた︒
身を すて るほ か今 ない
︒
陛下
をま
もら
う︒
詩を すて て詩 を書 かう
︒
記録
を書
かう
︒
同胞
の荒
廃を
出来
れば
防が
う︒
私はその夜木星の大きく光る駒込台で
ただ しん けん にさ う思 ひつ めた
︒
二
十二月八日の真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発した︒この詩で高村は︑自分の
日本
国民としての感情だけではなく︑詩人としての感情も描いている︒﹁詩をすてて詩を書か
一高
村光
太郎
﹁彼 等を 撃つ
﹂﹃ 高村
光太
郎全
集﹄
第三 巻︑ 筑摩 書房
︑
二高
村﹁
真珠
湾の
日﹂
﹃展
望﹄
一九
四七
年七
月︑
五八
頁︒
傍点
筆者
︒
一九 五八 年
二月
︑七
ー八
頁 ︒
う﹂という一行には︑詩人高村の決意がよく表現されている︒どういうことか︒フランス
への留学の経験をもち︑当時優れたモダニズム詩人と見なされていた高村は︑太平洋戦争
の勃発に際して︑﹁詩をすて﹂る決心をしたのだ︒それは︑高村が書き続けてきたモダニ
ズム詩を捨てることである︒しかし︑この詩人の場合︑詩あるいは筆を捨てることは︑詩
人あるいは文学者としての存在をも捨ててしまうことではなかった︒これまで書いてきた
詩は捨てる︒しかし新たな﹁詩を書かう﹂という決心をしたのである︒この時捨てられた
詩が︑光太郎が真珠湾攻撃の前日まで書いてきた詩だとすれば︑では以後書かれるのはど
のような詩か︒それが︿戦争詩﹀である︒高村をはじめとして︑多くの日本の文学者が︿筆
をすてて筆を拾う﹀決心をし︑︿戦争詩﹀を書き始めた︒彼らは︿銃後の守り﹀の役を担
い︑︿言の侍﹀として言葉を通した長い闘いに取りかかったのである︒高村の︑その闘い
への決意を表明したもう一篇の詩が﹁彼等を撃つ﹂︵一九四一年︶である︒
この﹁彼等を撃つ﹂は︑最も有名な︿戦争詩﹀のひとつである︒太平洋開戦の直後︑一九四一年十二月二十四日の第一回
﹁文 学者 愛国 大会
﹂で 高村 は︑ この 詩を
︑﹁ 一俣 を流 し﹂
三
なが ら朗 読し た︒
大詔ひとたび出
でて 天つ 日の ごと し︒
見 よ
︑
一億
の民 おも て輝 きこ ころ 躍る
︒ 雲破 れて 路ひ らけ
︑ 万里 のき はみ 眼前 にあ り︒ 大敵 の所 在つ ひに 発か れ︑ わが向ふところ今や決然として定まる︒
間髪
を容
れず
︑
一撃
すで に敵 の心 肝を 寒く せり
︒ 八十 阜県 帥の とも 遠大 の野 望に 燃え
︑
その鉄の牙と爪とを東亜に立てて
われを囲むこと二
世紀 に及 ぶ︒ 力は 彼等 の自 らた のむ とこ ろに して
︑
利は彼等の搾取して飽くところなきもの︒
理不尽の言ひがかりに
東亜 の国 々ほ とん と皆 滅さ れ︑
宗教と理想との摩可不思議に
東亜 の民 概ね 骨を 抜か る︒ わづかにわれら明津御神の御稜威により︑
東亜の先端に位して
わが 力い ま彼 等の 力を 撃つ
︒ 必勝 の軍 なり
︒ 必死 必殺 の剣 なり
︒ 大義 明か にし て惑 ふな く︑ 近隣 の朋 救ふ べし
︒
彼等の鉄の牙と爪とを撃破して
・ 2‑
三楼
本富
雄﹃
空白
と責
任|
|戦
時下
の詩
人た
ち|
|﹄
未来
社︑
一 九
八
三年
七月
︶ 二
ー二
二 頁 ︒
大東亜本然の生命を示現すること︑
これ
われ
らの
哲一
一口 な
り ︒
霜を含んで夜しづかに更けたり︒
わが同胞は身を捧げて遠く戦ふ︒
この時卓に寄りて文字をつづり︑
こころ感謝に満ちて無限の恩切々たり︒凶
高村は︑﹁彼等を撃つ﹂において太平洋開戦直後の感動を表現した︒この詩には︑興奮︑
喜び︑感動︑あるいは決心といった︑人間の理性を霧状にする感情があふれでいる︒筆者
の考えでは︑この詩は当時の︑︿大東亜共栄圏﹀と日本帝国主義の理念を見事に映し出し
ている︒﹁見よ︑一億の民おもて輝きこころ躍る﹂には太平洋戦争に入った喜びが︑﹁一
撃すでに敵の心肝を寒くせり﹂には敵を絶滅させる決意が︑﹁東亜の先端に位して/わが
力いま彼等の力を撃つ﹂にはアジアを開放するための︿聖戦﹀の誓いが︑﹁わが力いま彼
等の力を撃つ﹂には敵に対する優越感が表され︑そして最後に﹁この時卓に寄りて文字を
つづり︑/こころ感謝に満ちて無限の思切々たり﹂では文学者へ︿銃後の守り﹀が呼びか
けられている︒これがまさに︿言の侍﹀の呼びかけである︒
高村を先頭に︑日本の詩人たちは次々に筆を取り︑︿言の侍﹀として日本の勝利のため︑
︿大東亜共栄圏﹀という理想のために闘いを始める︒モダニズム系︑元プロレタリア文学
系︑あるいはアナキズム系というような様々な政治的︑また思想的な背景をもった詩人た
ちが︑力を注いで︿戦争詩﹀を書き続けたのである︒しかし︑一九四五年八月十五日︑敗
戦の日は来た︒
敗戦後まもなく︑多くの詩人は新しい思想としての民主主義の理念を強く抱くようにな
る︒ここで中心的な役割を果たすことになる新日本文学会五の文学者たちは︑民主主義を
唱えながら︑同時に文学者の戦争責任を聞い始める︒一九四六年六月︑小田切秀雄の署名
で︑﹃新日本文学﹄に﹁文学における戦争責任の追求﹂が載る︒二十玉名の文学者の名前
が挙げられ︑彼らの︿戦争責任﹀を追及する決意が表明される︒この︵小田切リスト﹀は︑
敗戦後に文学者の︿戦争責任﹀が中心に論じられた最初期の文章である︒先頭に立って﹁彼
等を撃つ﹂などの︿戦争詩﹀を書き続けた高村の名は︑当然このリストに記載されること
・ 3‑
四﹃ 高村 光太 郎全 集﹄ 第三 巻︑ 七八 頁︒
五新
日本 文学 会の 創立 大会 は︑
一九
四五 年十 一月
三十
日に 聞か れた
︒﹁ 創立 発起 人は
︑﹁ 帝国 主義 戦争 に協 力せ ずこ れに 抵抗 した 文学 者﹂ 秋田 雨雀
・江
口換
・
蔵原惟 人
・窪
川鶴 次郎
・査 井繁 治・ 徳永 直
・中
野重 治・ 藤森 成士 口・ 宮本 百合 子の 九人 であ った
﹂︵ 鎌田 慧編
﹃﹁ 新日 本文 学﹂ の六
O
年﹄七 つ森 書館
︑二
OO
五年
十一
月 ︑
一
O
頁︶
︒雑 誌﹃ 新日 本文 学﹄ の創 刊準 備号
︵一 九四 六・
一︶
に宮
本百
合
子
の﹁
歌声
よ︑
おこ れ﹂ が掲 載さ れ︑ 鎌田 によ れば
﹁新 しい 時代 の新 しい 文学 は︑ より 自由 で多 様に 開花 すべ きも の︑ と予 感さ れて いた
﹂の であ る︒
﹃新 日本 文学
﹄の 創刊 号は
一九
四六 年
三月
に版 行さ れ︑ 数多 くの 元プ ロ レタ リア 文学 者が 能動 的に 関わ るよ うに なっ た︒
﹁た だし
︑当 時の 日本 共産 党の 文学
・イ デオ ロギ
ー政
策の 反映 で︑ 過去 のプ ロレ タリ ア文 学運 動の 批判 的再 検討 に対 して
︑﹁ 文学 反動
﹂と か﹁ 近代 主義
﹂と みな して 封殺 しよ うと する 傾向 が強 く︑
﹁政 治の 優位 性﹂ とい う旧 来の 考え 方が 支配 的だ った
﹂︵ 同書
︑
一
O
頁︶
︒﹃ 新日 本文 学﹄ は︑ 二
OO
四年 の十
一・ 十二 月合 併号 を最 後に 終刊 した
︒
﹁新
日本
文学
会の
解 散﹂ につ いて
︑永 尾員 は﹁ 新日 本文 学会 の理 念
・
精神を 尊重 し大 事に した いか ら解 散し よう
︒︵ 中略
︶
﹃新 日本 文学 会﹄ は
一九
四五 年と いう 固有 の時 代と 社会 が生 みだ した 運動 体で ある
︒そ の文 学運 動体 が 掲げ た理 念と 精神 に基 づく 活動
︑創 造活 動と 普及 活動 であ る︒ その 結果
︑実 績と 蓄積
︑そ の歴 史的 足跡 への 断固 たる 我々 の自 損が ある から こそ の︑ 自主 的主 体的 な会 の解 散﹂ だと 述べ てい る︵ 同書
︑五 二四
五二
五頁
︶︒
にな
った
︒
﹁文学における戦争責任の追求﹂で小田切は次のように述べている︒
文学における戦争責任とは︑他の何かであるよりも先づ五口々自身の問題だ︒五口々自身の自
己批判といふことからこの問題は始まる︒自由の世界でごまかしは利かぬ︒五口々は戦争中
の吾々がどうであったかをみづから追求し検討し批判する︒そのことによって︑この十年
間の日本文学のおそるべき堕落・顔廃に対しての吾々自身の責任を明かにして行きたいと
思ふ
︒六
小田切のこの声明は︑文学者に戦争責任はあり得るのかということは問題にせず︑文学
者に戦争責任があるという前提で書かれている︒小田切の言葉は︑戦前から戦争中にかけ
てプロレタリア文学者の多くが転
向し
たことの反省の上に立っている︑とも解釈できる︒
一 九
三四年から終戦まで獄中で︿非転向﹀を貫いた宮本顕治らを除いて︑﹃新日本文学﹄に
集まった文学者たちの多くは転向した人々である︒﹁この十年間の日本文学のおそるべき堕
落・類廃﹂と書く小田切の頭には日本文学者における︿転向問題﹀が浮かんでいた︑と判
断する読者もいるかもしれない︒しかし小田切は︑﹁だが文学の堕落に第一に責任のあるの
はやはり文学者にほかならぬ︒五口々が文学における戦争責任者をまづ文壇の中からあげる
所以である﹂七と続ける︒小田切は﹁第一に責任のある﹂人々を文壇の中で探し出し︑二
十五名の名前を発表した︒戦争責任者として挙げられた文学者は次のとおりである︒
菊 池 寛 久 米 正 雄 中 村 武 羅 夫 高 村 光 太 郎 野 口米 次 郎 西 候 八 十 斉 藤 湖 斉 藤 茂 吉 岩 田 豊 雄
︵ 獅 子 文 六
︶ 火 野 葦 平 横 光 利 一 河 上 徹 太 郎 小 林 秀 雄 亀 井 勝 一 郎 保 田 輿 重 郎 林 房 雄 浅 野 晃 中 河 輿
一
尾 崎 士 郎 佐 藤 春 夫 武 者 小 路 実 篤 戸 川貞 雄 吉 川 英 治 藤 田 徳 太 郎 山 田 孝 雄
︵ 以 上
一一
十 五
名順
不同
︶八
‑ 4 ‑
しかしこのリストに並んだ名前を読むと︑小田切が書いた︑﹁文学における戦争責任とは︑
他の何かであるよりも先づ吾々自身の問題だ﹂という文章の中身は果たされていないと言
わざるを得ない︒小田切が上げた文学者の中には︑﹁吾々自身﹂という言葉で小田切がおそ
らく意図したであろう︑﹃新日本文学﹄周辺の文学者は一人もいない︒
政治的な立場から言って︑﹁吾々自身﹂という言葉が指すものとは正反対の文学者の名前
ばかりが載っているということに︑読者は疑問を感じるだろう︒なぜこの二十五名の文学
者を載せたのだろうか︒二十玉名の文学者は﹁主要な責任者のみ﹂であり︑この時は﹁第
一回発表﹂であり︑次の機会には戦争責任がある文学者の名前をさらに公開すると小田切は断言した九︒小田切は︑この二十五名を取り上げた理由を次のように説明している︒
ここでは特に文学及び文学者の反動的組織化に直接の責任を有する者︑また組織上さうで
はなくとも従来のその人物の文壇的な地位の重さの故にその人物が侵略賛美のメガフオ
六
小田
切秀
雄﹁
文学
にお
ける
戦争
責任
の追
求﹂
﹃新
日本
文学
﹄
七
同論
文︑
六五
頁 ︒
八同
前︒
九同
前︒
一九
四六
年六
月︑
六四
頁︒
ンと化して恥じなかったことが広汎な文学者及び人民に深刻にして強力な影響を及ぼし
た者︑この二種類の文学者に重点を置いて取上げた︒一
O
﹁反動的組織化に直接の責任﹂を持ち︑侵略戦争を賛美し︑﹁広汎な文学者及び人民に深 刻にして強力な影響を及ぼした者﹂には特に戦争責任がある︑という︒東京裁判というよ り大規模の出来事をきっかけにして文学における︿戦争責任﹀を追及しようとする勢いは 納得できる︒しかし
︑ 小 田切の﹁
文学の戦争責任者﹂の定義にはひとつ弱点がある︒それ は︑小田切が出した条件を︑厳密に言えば︑元プロレタリア文学者あるいは﹃新日本文学﹄
周辺の文学者にもあてはめることができるということだ︒こうした動きに対して︑みずか らも︿戦争詩﹀を書いた詩人北川冬彦︵
一九
OO
九
O
︶は︑小田切ら新日本文学会周辺 の文学者に対して批判を述べている二
o
この戦後すぐに行われた︿文学者の戦争責任﹀論 争は間もなく終わる
︒新日本文学会の文学者たちの注目が︑︿
死の灰詩集﹀論争へ移った からである二万次に予定された発表は︑結局実現されないままであった︒しかしその後も 戦争責任をめぐる議論は続き︑
一九四七年には︑高村の
﹁暗
愚 小 伝
﹂が大きく取り上げら れた
二 二
︒ほぼ二年
間岩手県花
巻の 山林に引き
こもった高村が︑この作
品でみずか
らの戦争
責
任 に つ い て 反 省し︑その感情を詩に
したのである
︒﹁暗愚小伝﹂は詩壇で高い評価を受け︑
批判の声は少なかった
︒
第 二 節
︿ 文 学 者 の 戦 争 責 任
﹀ 論 争 の 勃 発 敗戦から十年後の一九五五年︑当時若手の詩人として力を伸ばしていた吉本隆明︵一九 二 四 二
O
二一︶が︑敗戦直後の日本の文学者の︿戦争責任﹀論争を復活させることにな る︒吉本は︑今度は逆に新日本文学会の︿民主主義文学者﹀たち||主に詩人査井繁治︵一
八九
七
e
一九七
O
︶と岡本潤︵一九O
一一四の︿戦争責任﹀を追及しはじめる︒吉本が︑‑ 5 ‑
七八
︶
一
O
同前
︒二
北川
冬彦
は︑
査井
繁治
など
新日
本文
学会
の詩
人の
︿戦
争責
任﹀
を︑
問う
べき
問題
とし
て投
げか
けた
︵﹁
敗
戦後
の
詩と
詩人
﹂﹃
東京
新聞
﹄一
九
四六
年九月十三日十五日︶︒鶴岡喜久の編集した﹃北川冬彦詩集﹄
︵沖
積舎
︑一
一
000
年九月︶に添付された年表によれば︑映画批評家でもあった北川は︑一九四二年一月に陸軍の報道班員として徴用され︑シンガポールなどでマレl
半島
にお
ける
戦線
撮影
指揮
に従
事し
︑
翌一
九四
三年
一月
南方
より
帰還
した
︵二
五七
頁︶
︒
=
一吉本が﹁前世代の詩人たち﹂によって︿文学者の戦争責任﹀論争を開始する前︑﹁荒地﹂派の詩人鮎川信
夫︵
一九
二
O
l
一九
八六
︶は
﹃死
の灰
詩集
﹄を
批判
し︑
いわ
ゆる
︿﹃
死の
灰﹄
詩集
﹀論
争を
行っ
た︒
一九
五四
年三月一日︑ビキニ環礁でアメリカの水爆実験によって日本のマグロ漁船第五福竜丸をはじめ約千隻以上の漁船がいわゆる︿死の灰﹀を浴びて被曝した︒この︿第五福竜丸事件﹀をきっかけに︑現代詩人会が全国から原水爆問題に関する詩作を募集し︑およそ千編の詩が集まる︒その中から百二十一篇が編集委員会によって選ばれ﹃詩の灰詩集﹄︵宝文館︑一九五四年十月︶が刊行された︒初版の印税は第五福竜丸の被害者に寄付された︒鮎川がこの詩集を批判し︑一九五四年から一九五五年にかけて︑いわゆる︿詩の灰詩集論争﹀が行われた︒論争の中心となったのは︑新日本文学会の伊藤信吉と鮎川であった︒︒鮎川の批判に関して坪井は︑﹁詩人たちの戦争責任ともリンクしてくる問題であったが︑批判はただそうした符合の指摘だけにとどまる水準のものではなかった﹂︵﹃戦争の記憶をさかのぼる﹄筑摩
書房
︑二
OO
五年
八月
︑
一八
五頁
︶と
書い
てい
る︒
三 一
一高村﹁暗愚小伝﹂を論じた評論は数多くある︒特に︑北川冬彦の﹁高村氏の﹃暗愚小伝﹄﹂︵﹃朝日新聞﹄一九四七年九月十五日︶はこの作品を評価し︑一方壷井繁治の﹁高村光太郎の場合﹂︵﹃東京新聞﹄
一九
四七
年九
月十
七日
︶︑
秋
山清の激烈な高村批判である﹁高村光太郎の﹃暗愚﹄について
﹂︵
﹃コ
スモ
ス﹄七号︑一九四七年十月︶や金子
光晴
の﹁
郁達
夫そ
の他
﹂︵
﹃コ
スモ
ス﹄
七号
︑一
九四
七年
十月
︶な
ど
が︑新日本文学会の周辺から出された﹁暗愚小伝﹂についての批判である︒一四査井繁治は新日本文学会の発起人の一
人で
ある
︒
一九二
0
年代︑アナキズムに関心を持ち︑萩原恭次評論﹁前世代の詩人たち||壷井
・岡本の評価について||﹂︵﹃詩学﹄ 一
九五五
・十
一︑
以下本稿では
﹁前世代の詩人たち
﹂と略記︶で上げた批判は︑非難と言えるほど過激なも
のだった︒その激しさは︑吉本に対する︑様々な感情のこもった反応を生む︒吉本に賛同
し︑吉本と肩を並べて︿前世代の詩人たち﹀の責任を問う文学者も現れ︑
一方で︑吉本に
対して激しい反批判を行う文学者も現れた︒それはまさに︑︿
言の侍﹀たちによって行わ
れる論争であった︒︿論争﹀という
言葉には︑文字通り︿論﹀で︿争﹀うという意味が宿
っている︒そのため︑本稿で︿言の侍﹀というときには︑戦時中に︿戦争詩﹀を通して言
葉で闘った文学者たちだけを指すのではない︒戦後に行われた︿文学者の戦争責任﹀論争
も︿言の侍﹀たちの闘いだった︒厳密に壬
一日んば︑論者である︿言の侍﹀たちによる世代間
闘争である︒この論争で明らかになったのは︑前世代を代表
する詩人高村︑査井︑岡本と︑
若い世代の代表として現れた吉本︑武井昭夫︵一九
二七
t二 O
一O ︶
一五との聞の葛藤である︒
本稿で明らかになるように︑この喜藤は︑刃物できれいに分かたれた線のごとく︑前世代
と若い世代を切り分けているわけではない
︒例えば︑︿前世代﹀に属すると言える詩人秋
山清
︵一
九
O
四ー八
八︶
二
ハが︑明らかに吉本らの立場からの批判を持ち込み
︑若い世代であ
る芸術派の詩人清岡卓行︵
一九
二二 ー
二
OO
六 ︶
一
七が吉本らへの批判を展開するということ
が起こっている
︒吉本と肩を並べて前世代を批判した武井は︑﹁戦後の戦争責任と民主主義文学運動﹂︵﹃現代詩﹄一九五六
・一 二
︶において︑壷井の他に︑文芸評論家窪川鶴次郎
︵一
九 O
三ー七四︶の評論と小説家・劇作家藤森成吉︵
一八九二
一九七七︶の戦争短歌
の︿戦争責任﹀を訴えた︒この論争において興味深いことは
︑文学者たちの中では︑武井
および武井の批判の対象となった窪川
︑藤森以外が︑詩人であることだ︒
ここで
一九五五年からの︿文学者の戦争責任﹀論争の経過を見てみよう︒
・
6‑九 九 論 四 四 争
七 六 の 年 年 前 七 九 震
月 月
}北川冬彦﹁敗戦後の詩と詩人﹂﹃東京新聞﹄
高村光太郎﹁暗愚小伝﹂﹃展望﹄
一九五五年七月
一
九五五年八月 吉本隆明﹁高村光太郎ノ!ト||戦争期について||﹂﹃現代詩﹄
岡本潤﹁プロクルステスの寝台﹂﹃現代詩﹄
一九五五年八月
︻
論争の勃発
︼九五五年十
一月吉本隆明﹁前世代の詩人たち﹂﹃詩学﹄
郎 ︑
川 崎
長 太
郎 ︑
岡 本
潤 と
共 に
詩 誌
﹃ 赤
と 黒
﹄ を
創 刊
す る
︒ 後
に マ
ル ク
ス 主
義 に
接 近
し
一
九
三0
年 代
に
何 度
も 投
獄 さ
れ ︑
転 向
し た
︒岡
本潤
は︑
査井
と同
様︑
一九
二
0年
代前
半に
アナ
キズ
ムに
接近
し︑
査井
ら
と ﹃
赤 と
黒
﹄
を 創
刊 す
る ︒
一 九
三
三
年
︑ 第
二
詩
集 ﹃
罰 当
り は
生 き
て い
る ﹄
︵ 解
放 文
化 連
盟 刊
︑ 一
九 三
一三
年 二
月 ︶
は 発
禁 処
分 と
な っ
た
︒
戦
時 下
に 転
向 し
︑ 四
O 年
頃 花
田 清
輝 ら
と 雑
誌
﹃
文
化 組
織 ﹄
を 創
刊 す
る
︒
戦 後
︑ ア
ナ キ
ズ ム
か ら
コ ミ
ユ ニ
ズ ム
に 転
向 ︑
新 日
本 文
学 会
の メ
ン バ
ー と
な る
︒
一
五武 井
昭 夫
は ︑
論 争
の 当
時
二
十
九 歳
︑ 本
稿 で
取 り
上 げ
る 論
者 た
ち の
中 で
唯
一
︑
詩 人
で は
な い
︒ 論
争 に
お
い て
︑ 武
井 は
文 学
者 た
ち の
︿ 戦
後 責
任 ﹀
を 強
調 し
て 論
じ よ
う と
し た
︒二
ハ
一九 二
0 年
代 に
詩 人
と し
て 詩
壇 に
登 場
し た
秋 山
清 は
︑ ︿
文 学
者 の
戦 争
責 任
﹀ 論
争 当
時
︑
す
で に
五 十
一
歳
で あ
っ た
︒ 一
九 三
O 年
に ︑
小 野
十
三
郎
と 雑
誌 ﹃
弾 道
﹄ を
創 刊
し た
︒
一九
四六
年に
は
︑
金
子 光
晴 ︑
小 野
十
三郎
︑岡
本潤
と雑
誌﹃
コス
モス
﹄を
創刊
し︑
新日
本文
学会
に入
会し
た︒
一七
清 岡
卓 行
は ︑
論 争
の 当
時 で
三
十三歳 で
あ り
︑ 吉
本 よ
り
二
歳
だ け
年 上
で あ
っ た
︒
大
連 生
ま れ
の 詩
人 ︑
評
論 家
で あ
り ︑
戦 後
に 小
説 も
書 く
よ う
に な
っ た
︒
一九五五年十
二月一九五六年一月
一九五六年二月
一九五六年三月
一九五六年四月
一
九五六年五月
一
九五六年七月
一九五六年八月
一
九五六年九月
一
九五七年
一月
岡 本 潤 ﹁ ぼ く の な か に い る
﹃ 敵
﹄ ﹂
﹃ 現 代 詩
﹄
壷井繁治﹁わたしの詩的主題﹂﹃現代詩﹄
岡 本 潤 ﹁ 詩 人 の 対 立 ﹂
﹃ 詩 学 ﹄
壷井繁治二番こわいこと﹂﹃新日本文学﹄
武井昭夫﹁戦後の戦争責任と民主主義文学﹂﹃現代詩﹄
秋山清﹁戦争責任と詩の方法﹂﹃現代詩﹄
一九五六年三月
清岡卓行﹁
奇妙 な幕 開の 告白
﹂
﹃現
代詩
﹄
加藤新玉﹁詩人の
責任
﹂﹃ 現代 詩﹄
平林敏彦﹁ある
告発 者﹂
﹃今 日﹄
岡本潤﹁文学の仮構性と真実性関根弘にこたえて︵詩人の対立
E
︶ ﹂
﹃ 新 日本
文学
﹄
井手則雄﹁詩人と近代自我
l
l 鮎川
・吉本
・武井の告発をめぐって|
﹂ ﹃
現 代
詩 ﹄
中 村 稔 ﹁ 詩 論 批 評
﹂
﹃
詩
学 ﹄
﹁︿ 座談 会﹀ 芸術 運動 の今 目
的課題﹂
﹃ 現 代 詩
﹄ ︵ 花 田 清 輝
︑ 岡 本 潤
︑ 吉
本 隆
明 ︶
﹁ ︿ 座 談 会 ﹀ 戦 争 責 任 を 語 る
﹂
﹃
近 代 文 学
﹄ ︵ 出 席 l 者
l l
小田切秀雄︑平
野謙︑原田義人︑白井浩司
︑大熊信行︑吉本隆明︑本多秋玉︑杉浦明
平︑佐々木基一︑武井昭夫︑村上兵衛︑︵司会︶荒正人︶
吉本隆明
・武井昭夫﹃文学者の戦争責任﹄淡路書房
鮎川信夫﹁吉本隆明
・武 井 昭 夫 著 ﹃ 文 学 者 の 戦 争 責 任
﹄ ︹ 書 評
︺ ﹂
﹃ 近 代
文学
﹄
‑ 7 ‑
論争中本稿におもに関連するものは以上のようになる︒
ここで本稿にとって重要なことを書いておく︒︿文学者の戦争責任﹀論争と現在呼ばれ
ているこの論争の特徴は︑︿詩人の戦争責任﹀論争とも呼べるものだということだ
一八
︒ 高
村光太郎の戦争詩および戦後の反省である﹁暗愚小伝﹂をめぐる議論が︑吉本隆明にとっ
て﹁前世代の詩人たち﹂での壷井
・岡本批判のきっかけになったということである︒とこ
ろが︑高村の﹁暗愚小伝﹂を中心とする批判はおもに
一九四七年の暮れに行われたもので
ある︒吉本の﹁前世代の詩人たち﹂が発表されたのは︑一九五五年十
一月であるから︑吉
本が
﹁
暗愚小伝﹂議論へと突入するまで︑ほぼ七年経っている︒吉本の査井
・岡本への批
判は
︑
一九五五年以降の︿文学者の戦争責任﹀論争の発起点となった︒戦後間もなくの︿小
田切リスト﹀と違って
︑ 一
九五五年以降の論争のでは︑火野葦平︑
横光利
一や保田輿重郎
のような︿反動文学者﹀ではなく︑元プロレタリア
・左翼系のおもに詩人である文学者が
中心におかれている︒さらに若い世代が前世代の詩人の戦争責任を追及するかたちになっ
ている︒すなわち︑元プロレタリアあるいは左翼系の詩人の世代の中に︿戦争責任﹀とい
う問題が深い亀裂を生んだのである︒議論の戦線ははっきりと分かれ︑吉本のような若い
世代 の詩 人が
︑
壷井・岡本のような前世代の詩人に対して不信を感じるだけではなく︑こ
一
八戦後︑︿戦争責任﹀をめぐって︑小説家あるいは批評家が対象となった論争がなかったわけではない︒ ほぼ同時期に︑﹃近代文学﹄誌上などでは︑中野重治︑平野謙と荒正人を中心とした︿政治と文学﹀論 争も行われている
︒の不信を激烈な批判において表現したのである︒
この論争を通してわかることは︑戦後のこの時期
︑日本の文学者にとって︑戦時下にお
ける文学者が︑また言葉自体が︑どのような役割を担ったかという問題が重要な主題だっ
た こ
と だ
︒
吉本は︑論争開始から数年が経った一九五九年ごろには︑詩人の︿戦争責任﹀をめぐる︑ 言葉を通した激しい闘いは﹁実を結ばなかった﹂一九と反省を述べることになる︒しかし︑
戦後の︿文学者の戦争責任﹀論争を厳密に追うならば︑﹁実を結ばなかった﹂とは言いが
たい︒ひょっとすると︑論争の当事者にとって︑つまり非難した文学者︑非難された文学
者にとっては︑﹁実を結ばなかった﹂ように見えるかもしれない︒すなわち︑それぞれの
論者は論争に対して様々な︿期待﹀あるいは︿希望﹀を持ったが︑その︿期待﹀や︿希望﹀
が実現されないままに論争が終わったと感じたのではないか︒吉本が﹁実を結ばなかった﹂
と 言うのはここに 原因があるのかもしれない︒しかし︑当事者でない者にとってこの論争
は﹁実を結ばなかった﹂と言えるだろうか︒日本の文学史に関してだけではなく︑日本の
文学研究にとっても︑この苛烈な︿言葉での闘い﹀は大きな実りをもたらしたというのが
本稿の考えである︒その実りは︑論争の参加者が期待した実りとは異なるものであるかも
しれない︒しかし︑一九五 0 年代後半に行われた︿文学者の戦争責任﹀論争は︑文学史の
上で非常に重要な論争の
一つである︑というのが本稿の立場である︒しかしこの論争が︑
現在まで文学研究において十分に対象化されているとは 言えない︒吉本が 中心となった論
争は︑いわば激しい︿暗
一 嘩
﹀であり︑様々な背景や経験をもっ参加者が︑それぞれの立場
から様々な意見をもって論争に突入したはずである︒にもかかわらず︑論争が進むにした
がって︑世代聞の衝突という特徴が目につくようになる︒前世代と後続世代との間のギャ
ップは︑たしかに︿文学者の戦争責任﹀論争の一つの要素であるが︑唯一の要素では決し
てない︒文学研究において︑
一 九
五 0 年代後半の︿文学者の戦争責任﹀論争について触れ
る場合には︑論争の厳密な流れは分析されず︑概括的なまとめにとどまっている︒これに
対して︑みずからも詩人である浅尾忠男による﹃詩人と権力
l l
i 戦後民主主義詩
論 争
史 ﹄
一
一
O
のような書物もある︒浅尾はこの書において︑批判を展開した吉本だけではなく︑その批
判の対象となった壷井や岡本 ︑またその 他の論者の発言を細かく紹介する︒しかしこの書
の大きな弱点は︑浅尾が客観的研究の態度で分析していないことである︒それぞれの論者
の発言の紹介のあとに︑浅尾が発するコメントは︑浅尾みずからの政治的な立場から︑出
てくるものである︒この論争は︑戦争︑政治と文学︑世代間の争いをめぐる問題を扱う論
争であるから︑冷静で客観的な分析︑外部視点からの分析が不可欠だ︑というのが本稿の
心 構
え で
あ る
︒
先に名前を挙げた北川は︿文学者の戦争責任﹀に関して 一 九四六年に︑﹁これは︑その 資格ある新人の手に待つより外はない﹂と書いている二一︒第二次世界戦争を経験しておら
ず︑書物を通して以外は論者たちとの接触が
一切なかった者による考察は︑様々な感情が
表れ︑多くの問題点をもたらすこの論争を客観的に分析できるのではないか︒論者のどち
一九 吉 本 隆
明﹁思想的不毛の子﹂﹃吉本隆明全集﹄第六巻︑晶文社︑二
O
一四
年三
月︑
浅尾忠男﹃詩人と権力||戦後民主主義詩論争史﹄新日本出版社︑一九七二年十一二
O
章は︑演劇﹁免罪符﹂︵一九六一年十二月十九日︶のパンフレットに発表された︒O
玉七頁︒この文月 ︒
二一
北
川冬彦﹁敗戦後の詩と詩人︵中︶||指摘される三件||﹂東京新聞︑一九四六年九月十三日︑第二面︒
国
8 ‑
ら側にも立たずに︑この論争を客観的に分析すること︑戦時下の︿言の侍﹀だけではなく︑
戦後の︿言の侍﹀による︿言葉での闘い﹀を通してどのような実りが生まれたか︑を分析
していくこと︒これらの課題を担うのが︑本稿の役割である︒
吉本の起こした︿戦争責任﹀論争に入る前に︑重要な問題をまず解決しなければならな
い︒それは︑論争において問題とされた︿戦争詩﹀とは何かということだ︒吉本が︑日本
の文学者の戦争責任を問題にするとき︑壷井と岡本が戦時下に書いた︿戦争詩﹀を取り上
げたのはなぜなのか︒第一章では︑この︿戦争詩﹀をめぐる問題が解かれる︒太平洋戦争
中に詩は何か特別の力をもったのだろうか︒この間いを解くために︑まずは︑戦時下の︿詩
の力﹀と︿戦争詩﹀の特徴の分析が行われる︒
・ 9‑
第一章 戦時下の
︿ 詩 の 力
﹀ 第一節詩は︿力﹀を持ちうるか
︿文 学者 の戦 争責 任﹀
論争と︿詩の力﹀ということを考えるとき︑実際に︑吉本隆明に
は ﹃
詩 の
力 ﹄
︵ 新
潮 社
︑ 一
一
OO
九
・一︶という著作がある
︒この著作において吉本は︑萩
原朔太郎を出発点とし︑現代の詩歌を﹁表現としての特徴をもとにしてできるかぎり類別 し
﹂一︑と解説
している
︒ところがここには︑吉本にとって︿詩の力
﹀とはいかなるもの
かについては︑はっきりとは書いていないのであるこ︒しかし︑もし吉本自身が︿詩の力﹀
という言葉を選んだのでなくても︑吉本にとってある︿詩の力﹀が存在していることはこ
の本からわかる︒萩原朔太郎の第一詩集﹃月に吠える﹄について︑﹁韻律をもたない口語
自由詩で自己の感情や官能に忠実な表現を実現していた﹂と書き︑︿現代詩﹀の出発とし
て評価している
三︒この点からわかることは︑吉本が︑﹁自己の感情
﹂あるいは自己の内
面から生まれた詩に高い評価を与えるということだ
︒戦後十年が経過した
一九五五年から
の︿戦争責任﹀論争で吉本は︑詩人の内部世界が現実とぶつかり合う詩の創作過程を問題
にしたのである︒﹃詩の力﹄で吉本は︑﹁戦後詩も現代詩には違いなく︑形式上は戦前と
の違いはあまりない﹂が︑﹁主題や詩の意味内容が変わってきた﹂と敗戦以前と以後の詩
の主題と内容における変化を強調している四︒戦時中の詩については︑吉本は次のように
述べている
︒﹁ 戦
後 ﹂
詩 が
特 に
強 調
さ れ
る 背
景 に
は ︑
日 本
の 詩
が
﹁ 戦
中﹂詩あるいは﹁戦争﹂詩
をすっ飛ばして空白のままにしたことがあると思う︒恥ずかしい︑みっともないというの
もあるだろうし︑政治的に﹁あれは侵略戦争だったから取り上げるのも嫌だ﹂という風潮
も あ
る の
だ ろ
う ︒
五
‑10 ‑
ま た
︑
吉本が前世代の詩人たちを激しく批判したのは︑戦時中を﹁空白﹂にしてはならないと
いう思いからだとは考えられないか︒吉本からの︑︿前世代の詩人﹀査井繁治︑岡本潤ら
に対する批判の論点のひとつは︑彼らの︿戦争詩﹀には現実と内部世界がぶつかり合わず︑
︿戦後詩﹀にも現実と内部世界との対決がない︑という点である六︒すなわち︑吉本が批
判するのは︑戦争プロパガンダのために︿戦争詩﹀を書くこと自体ではないのだ︒吉本に
とって︑詩において﹁自分の感情﹂と﹁内面性﹂を表現として生みだすことが重要であり︑
それが︿詩の力﹀につながるのだとすれば︑戦争中の詩歌には力がなかったことになるだ
ろうか︒筆者はそうは考えない︒戦争中の詩歌を見るならば︑吉本が要求するような︑
由に表現された
︿内面性﹀あるいは︿自分の感情﹀は確かに少ないかもしれない︒
白出
に も
か
一
吉
本 隆
明 ﹃
詩 の
力 ﹄
新 潮
社 ︑
二 OO
九 年
一 月
︑ 六
頁 ︒
傍 点
原 文
︒
二
新
潮 社
か ら
刊 行
さ れ
た 吉
本 隆
明 ﹃
詩 の
力 ﹄
は ︑
二 OO
三 年
四 月
に 毎
日 新
聞 社
よ り
刊 行
さ れ
た ﹃
現 代
日 本
の 詩
歌 ﹄
を 改
題 し
た も
の で
あ る
︒
三吉 本﹃ 詩の力
﹄︑
二
ニ 頁︒
四 同
書 ︑
一 四
頁 ︒
玉同 書
︑
一四一玉頁
︒
六吉 本隆 明﹁ 前
世 代
の 詩
人 た
ち ﹂
﹃ 詩
学 ﹄
一 九
五 五
年 十
一 月
︑ 二
四 頁
︒
かわらず︑戦時下日本において詩はやはり力をもったと考えるのが本稿の主張である︒本 稿で︿詩の力﹀とニ一一口う場合には︑吉本の言う︿詩の力﹀とは別の︿詩の力﹀が考えられて
いる︒それは︑あるひとりの詩人が自己の感情を表現として生みだすところにあるのでは
なく︑大衆を刺激し︑感動させる詩の力のことである︒すなわち︑本稿で検討されるのは︑
戦時下の日本において国民に対して詩がもった力である︒本稿での結論を先取りすれば︑
筆者は︑詩に︑ある特定の力があったと考えている︒
この論争で吉本は︑新日本文学会に集まる︿民主主義文学者﹀の︿戦争責任﹀を追及し
ようとしたが︑この際︑吉本は特に新日本文学会の発
起人の
一人である壷井繁治と︑戦前
のアナキズムから戦後コミユニズムに転向した岡本潤という二人の詩人を批判した七︒︿文
学者の戦争責任﹀論争では︑小説家や批評家ではなく︑なぜ詩人の戦争責任が中心に論じ
られたのか︒吉本自身も詩人であり八︑戦争中の青年時代に高村光太郎の︿戦争詩﹀に影
響を受けたから︑というのが第一の理由として考えられる︒しかし︑吉本自身も詩人であ
るからというだけではなかった︒その答えは︑吉本に言わせれば詩の性質に理由がある︒
吉本は一九九五年に受けたインタビューで︑﹁詩の言葉が散文の言葉と何が違うかと一言守つノ
と︑単純化して言ってしまいますと︑詩の言葉はどこかで内向する意識を表現するところ
があるわけです﹂九と述べている︒一方で︑吉本にとっては︑七五調の詩と口語自由詩と
の違いもあるようだ︒その差異について吉本は︑﹁島崎藤村のような七五調の詩が隆盛な
時には︑内向するよりも︑七五調を使って事実なり心の動きを表現すれば詩になりますが︑
それが﹁七五調を壊さないといけない︒自由詩じゃないといけない﹂という時期になった﹂
と言い︑また﹁自由詩は韻語も韻律も何もなくて︑どこに特徴があるかというと︑一口に
言えば︑詩の言葉には一種の内向性というのがあって︑その内向性というところで︑自分
の心の中の動きを言葉に表現しなければいけない﹂と語っている一 O ︒すなわち︑口語自由
詩は文字通りの自由詩である︒あるいは︑自由な自由詩であるべきだ︑と吉本は言ってい
るのである︒作者を縛ることがない形式をもっ散文とも似ていると言える︒詩人を批判の
対象としたことについて吉本は︑﹁物語が主体であるのが小説だとすると︑詩はそこが違
うのだとひとまず考えて︑詩の言葉の問題を追及しないと駄目なんじゃないかと考えて
いったわけです﹂と説明している︒つまり︑吉本は︑︿文学者の戦争責任﹀論争で︑﹁詩
の言葉﹂がもっ﹁内面の問題﹂を中心におき︑そこから︿戦争詩﹀を書いた詩人の戦争責
任を追及しようとしたのではないか︒玉 0 年代の終わり︑︿戦争責任﹀論争が﹁実を結ば
なかった﹂あと︑吉本が言葉を問題として論じたこともこのことを示している
一一︒またさ
‑1 1 ‑
七吉本の
一連の批判は︑﹁前世代の詩人たち﹂で開始され︑後に武井昭夫との共著﹃文学者の戦争責任﹄
︵淡路書房︑一九五六年九月︶にまとめられている︒八一九五二年八月︑吉本は処女詩集
﹃固有時との対話﹄を自家版として発表し︑さらに
一九 五
三 年
九 月
︑
﹃転位のための十篇﹄を発表する︒初期吉本の最も評価される詩は﹁火の秋の物語||あるユウラシア人に﹂ペンネーム逸見明で一九五二年六月︑﹃大岡山文学﹄第八八号に発表︒後に﹃転位のための十篇﹄に収録︶と﹁ちひさな群への挨拶﹂である︒川上春雄は︑﹁ちひさな群への挨拶﹂は︑一九五二年に制
作された作品と推定し︑未発表のまま﹃転位のための十篇﹄に収録された︑と書いている︵﹁解題
﹂﹃
吉
本隆明全著作集﹄第一巻勤草書一房︑一九六八年十二月︑二九
O
頁 ︶ ︒
九吉本隆
明研究会編
﹃吉本隆明が語る戦後五五年﹁第六回
﹂政治と文学をめぐって||心的現象
・歴
史・
民族
﹄コ
一交
社︑
二
OO
一年
九月
︑二
七頁
︑傍
点筆
者︒
一
O 同前
︒二吉本がみずから語るように︑︿戦争責任﹀論争のあと︑吉本の関
心は急速に一言葉という主題に向かう
︒らに吉本は︑論争当時の自身の動機について︑﹁詩と散文の区別をしようじゃないかと考
えて︑そういう観点で詩を主体にして追求していったと思います﹂と述べている三
一 ︒
さて︑吉本にとって︿戦争責任︶論争はおもに詩の言葉をめぐる問題ということであっ
たが︑太平洋戦争中に文学ジャンルとしての詩そのものはどのように扱われたのだろうか︒
戦争中︑詩と散文はどういう経過を辿ったか︒
第二節︿読むもの﹀から︿聴くもの﹀
︿戦争協力の文学﹀として︑詩と散文︑この二つの文学ジャンルのうち︑どちらがより
力を持ったのだろうか︒どちらが国民により大きな刺激を与えたのだろうか︒古代以降︑
日本文学とは和歌を中心とした広い意味での︿歌﹀のことであったと言えるだろう︒だが︑
明治維新以降︑西洋の影響によって日本では小説||近代小説ーーというジャンルが盛ん
になった︒では太平洋戦争開戦以降には︑日本の文学にどのような変化が起きたのか︒
文芸批評家の奥野健男︵一
九二六九七︶は︑﹁対中国戦争に対しては漠然たるうしろ
めたさを感じていた大衆︑侵略戦争としてはっきり批判的だった知識人﹂の態度が一九四
一年十二月八日の︿大東亜戦争﹀開戦をきっかけに急変したと書いている=一一︒この時生じ
た態度の急変とはどういうことか︒満州事変から始まる軍事行動を中国への侵略行為とし
て見ていた多くの人々が︑アメリカに対する戦争を自衛のため︑およびアジアのための﹁聖
戦﹂として見たということである一四︒戦争に対して起こったこの感情は︑当時の大衆︑文
学者に共通して募っていった︒高村光太郎の詩﹁彼らを撃つ﹂が︑その感情をよく表現し
た詩であることは序章ですでに述べた︒奥野は︑当時の詩歌が果たした役割について次の
ように書いている︒
\
‑ 1 2
・十二月八日の︑そして緒戦の大戦果の感激は︑まず詩歌に表現された︒ほとんど全ての詩
人︑歌人︑そして俳人が競いあって戦争をうたい︑国民の感動を伝えている︒浪漫的な詩歌が復活し︑新聞︑雑誌を埋めた︒詩歌が︑戦争の感動を直裁に表現するにもっとも適わ
しい芸術であることが確かめられた
一 五
︒
本稿で︑戦時下の︿詩の力﹀と呼ぶのは︑ここで奥野によって述べられていることであ
る︒奥野から引用した箇所のうち︑﹁緒戦の大戦果の感激は︑まず詩歌に表現された﹂と
いう点が︑最も重要である︒新聞や雑誌などに戦争の感動を表現するために︑詩歌が散文
よりもふさわしかったのだ︒そして︑次の点がさらに重要となる︒それは︑詩が︑︿読む
もの﹀として存在するだけでなく︑︿聴くもの﹀にもなったことである︒プロパガンダの
ために視聴覚メディアを巧みに使用することについて︑ナチ・ドイツは典型的な例である︒
ナチのプロパガンダ手法においては︑新聞や雑誌だけではなく︑またラジオも重要な役割
結果
とし
て︑
吉本
は
一九
六五
年 ︑
﹃言 語に とっ て美 とは なに か﹄
︵勤 草書 一房
︶を 刊行 する こと にな る︒ 三 吉
本隆
明研
究会
編﹃
吉本
隆明
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六回
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文学
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民族
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︑ 二
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一年
九月
︑
二七 頁
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奥野
健男
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・太平洋
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英社
︑
五 頁 ︒
一四
同書
︑ 四九 四 頁 ︒
一五
同書
︑四 九五 四九 六頁
︒傍 点筆 者︒
一 九 六四 年八 月︑ 四
九
を担った︒ラジオが戦争のプロパガンダのための重要な道具になったのは︑ナチ・ドイツ
だけではない︒太平洋戦争下の日本も同様である︒日本の場合の︑戦争と新しいメディア
であるラジオの関係については︑戦争中の詩歌を収集し︑詩人および歌人の行為を検証し
続けている樫本富雄が|書いている︒一九二
0
年代前半までは︑﹁マスコミ﹂として新聞が独占的な立場を持っていたが︑一九二三年に公布された﹁放送用私設無線電話規則﹂によっ
て日本の放送事業が制度化され︑翌年には︑社団法人東京放送局が開設された一六︒一
九二
五年には︑名古屋放送局と大阪放送局が開設された︒棲本は︑新たなメディアとしてのラ
ジオの普及の早さについて︑﹁聴取加入数は一九三五年四月に二百万を突破し︑一九四
O
年五月現在で五百万に達した﹂ことを書いている一七︒また︑坪井秀人は︑戦争と詩とのつな
がりについて論じている︒坪井は︑当時大政翼賛会の主導によって発足した﹁朗読研究会﹂
を挙げている︒この﹁朗読研究会﹂が︑﹁日米開戦を契機として︿愛国詩献納運動﹀によ
るテクストの整備を経て︑さらに愛国詩の朗読放送のレギュラー化へと発展していく﹂の
である一八︒これらのことからわかるのは︑朗読放送のレギュラー化だけではなく︑放送の
ための詩作の整備も行われたということだ︒太平洋開戦の宣言から敗戦時の天皇による玉
音放送︵ポツダム宣言受諾の布告︶まで︑日本のメディアの中でラジオが大きな役割を担っ
た︒そして︑坪井が言う︑﹁そのラジオの前に座って詩のモチーフを得た詩人たちは少な
くなかった
﹂ 一
九
ということも事実であろう︒本稿の冒頭に引用した高村の﹁彼等を撃つ﹂
も︑第一回文学者愛国大会で朗読されたことによって︑︿読むもの﹀を超えて︑︿聴くも
の﹀となったのである︒この﹁彼等を撃つ﹂は︑一九四一年十二月十八日︑︿愛国詩﹀と
いうタイトルでラジオ放送された一δ︒ラジオで放送されたのは︑高村など︿戦争詩﹀作者
の作品だけではない
︒ 一
九三八年以降︑戦場の真ん中から﹃糞尿謂﹄︑﹃麦と兵隊﹄︑﹃土
と兵隊﹄などの小説群を書き出し︑戦場における兵隊たちの生活を描写した小説で高村よ
りも先に︿戦争文学者﹀として出発していた火野葦平の作品もラジオで流された︒作品を
具体的に見てみると︑火野の詩作品が朗読された︒例えば一九四一年九月二
十六 日に は︑
﹁詩の朗読﹂というタイトルでこの芥川賞作家の﹁西湖畔より﹂が︑また一九四三年十月
十八 日に は︑
﹁愛国詩﹂という番組で﹁
比島独立の日の朝に﹂が朗読された一一
一︒
戦争とメディアと詩との聞に特殊な結びつきが発生していることが分かるだろう︒︿共
生﹀とも言えるような関係である︒この関係については奥野も︑﹁ながい問︑小説の下風
にたっていた詩人たちは︑新たなる詩の時代が英雄の時代の至ったことに勇躍を感じたよ
うに 思わ れる
﹂
一一
と︑詩とメディアがうまくかみ合った時代の流れを指摘している︒戦時一 一
下における︑メディアと詩の特殊な関係は︑太平洋戦争中に散文よりも詩が流布したこと
に大きく影響したのである︒
二ハ樫本富雄﹃歌と戦争|
l l
みんなが軍歌をうたっていた﹄アテネ書房︑一七
同前
︒一八
坪井
秀人
﹃
士戸
の祝
祭|
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本近
代詩
と戦
争
﹄名
古屋
大学
出版
会︑
者︒一九
同 書 ︑
一六
四
頁︒
ニ
O
同書 付録
﹁朗 読詩 放送 の記 録
﹂ ︑二
一同
付録
︑一
六頁
およ
び
三二
頁
︒二二
奥野
︑前
掲書
︑四
九六
頁
︒ 二
OO
五年
三月 ︑
一八
頁
︒
一六三頁︒
傍点
筆
一九
九七 年八 月
一六 頁
︒