詩人黄瀛の再評価 : 日本語文学のために
著者 岡村 民夫
出版者 法政大学言語・文化センター
雑誌名 言語と文化
巻 16
ページ 92(1)‑74(19) 発行年 2019‑01‑18
URL http://doi.org/10.15002/00021665
「初生 うひを」である。(
12)梅森直之氏は、シンポジウム「方法としての越境と混血」における研究発表「大杉栄
( ていると見ていたわけだ。 音および固有の身体的・無意識的尺度に関連づけながら、そこに無技巧の技巧として「技術的コントロオル」がはたらい ロオルが我にもあらず潜入する」と書いていることにも注意を喚起しておきたい。高村は黄瀛詩のユニークさを、彼の吃 尺度の無数の目盛からは絶えず小さな泡のやうなものが体外へ立ちのぼる。泡のはぢけるところに黄秀才の技術的コント 黄秀才の体内にある尺度は竹や金属で出来てゐない。へぬあたりまへの言葉でどこまでも桁はづれの話をするか知れない。 捉えなおすこともできるかもしれない。なお、高村光太郎が『瑞枝』「序」で、「黄秀才は少しどもりながら、最大級を交 どもらなかったのだろうか。こうした角度から、彼が軍隊で伝書鳩や軍用犬の育成という動物相手の任務を担ったことを 将校としての道を十数年歩んだ。彼は士官学校で強いられる「号令調声」にどのように対処したのだろうか。中国語なら の関係を考えるうえでも示唆的な見解だ。黄も大杉と同じく陸軍士官学校へ入ったが、大杉のようには脱落せず、中国で 杉栄が自分の吃音を軍隊的な社会的制度に対する身体的抵抗の「方法」に練り上げていたと説いたが、黄瀛の吃音と詩作 支配に抗する生の躍動」で、大 い出す。思されていたことを回想りにくかった、と取き聞れるまでは 方言が混入し、講義は中国の諸慣ときどき日本語になったりするので、先生の黄「黄れたこと」忘き聞生に先のなかで、 黄瀛の教え子の宋再「詩人黄瀛と多文化間アイデンティティー」において、口頭新氏が発表学)での国際シンポジウム 13辻政信『潜行三千里』亜細亜書房、一九五一年、二七四―二七五頁。なお、二〇〇七年に四川外語学院(現四川外語大)
(表象文化論・近代日本文学/国際文化学部教授)
新民謡などを指しているのではないだろうか。(
( 太郎と論争した。 おける知的構成の重要性や、意味と韻律の排除を主張する詩論を次々と『詩と詩論』誌上に発表し、詩壇の重鎮・萩原朔 新精神詩に旗印に掲げ、を」「モダニズム」「春山はフランスやイギリスの現代文学の知識に依拠しながらて目立つ。 レスプリヌーボー 詩論』に寄稿し、様々なモダニズム詩人の名を引き合いに出している黄が、彼らにまったく言及していないのは、かえっ )『詩と『詩と詩論』を主催した詩人批評家・春山行夫や北川冬彦が含まれているはずだろう。黄のいう「評論家」には、3
( 七二頁。 )佐藤竜一『宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯日本と中国二つの祖国を生きて』コールサック社、二〇一六年、六四―4
( 内堀弘『ボン書店の幻)モダニズム出版社の光と影』ちくま文庫、二〇〇八年。5
( 峡を越えて行つた」(『亜』第一九号、一九二六年五月)を踏まえているのかもしれない。 )「海峡を越えてゆく」という表現は、モダニズム短詩の嚆矢として名高い安西冬衛の「春」の「てふてふが一匹間宮海6
( 二〇一六年、二三六―二三七頁)参照。 ふりおか文庫、も』宮澤賢治れあいの人々新装版)『森荘已池ノート(森大らかに書く手紙文字」「荘已池森7
( れている)がある。さ除削イトルの「心象スケッチ」はタリーズシが、 の「中風景」鏡」「夜さ校学士官「れた」「ルで発表探梅」(銚子ニれている収録さで順序にこの『瑞枝』外は以」探梅「テ というイトタリーズシ「心象スケッチ」誌(一九二九年六月)、『詩と詩論』一九二八年五月)『詩神』」(報三月一日上に チ」(心象スケツチ)(『詩神』一九二七年一一月)、「窓から記ジックザック詩」(『詩神』一九二七年一二月)、「心象日 (『文藝』一九二七年四月)、「夕景の窓にて心象スケツチ」(『詩神』一九二七年九月)、「芝浦からの帰り心象スケツ 、「心象スケツチ」『碧桃』一九二七年三月)」(象素描心、「窓の風景(『碧桃』一九二七年二月)る心象スケツチ」 「作品八十三番」該当作品には、『瑞枝』以外の初出を確認できていない)と「ここまで来た時」のほか、短編小説「あ8 妹へ)「の手紙9
( られたという邦題より東京で封切に映画付が割り出される。である。以上から一九二八年一月という日 ヴaBoatman(一九二六年)、つまり一九二七年一〇月に「のォルガ船唄」Volgしたッウルがデミ・Bル・シセのド監督 「一月」に観た「ン」というヴオルガ・ボートマ」で詩人は、映画を妹に薦めている。このは、ハリ映画
( さこの国の夜景」という文が立し、「国」と「国」の識別を考え並せ執るれている。さが表現で中国と日本の確仕方うなよ のやうな冷寒さ」と「熱情のうたい眼で見よぢやないか、るとこの針へ「国を」『碧桃』一九二七年一一月)でも、.1.No考 10つけない中国人を子学生の様留の寄寝で宿舎にした校学士官題材)「nocturn」(『瑞枝』/初出タイトル「Nocturnee 11」(青の公の主人九二七年六月)一四号、第『碧桃』苦渋)ちるい明「ない短編小説の一つ数少黄瀛のに、みな年の名は
詩人黄瀛の再評価
(18) 75
れは彼を過度に中国人視した認識だろう。また彼らを含めて戦前戦後の評者は、時代的限界か時勢ゆえの沈黙か、黄瀛詩に刻印されているアイデンティティーの葛藤に言及していない。青年期の黄が日本語を特殊なアクセントで話したということや、吃音だったということは、確かに多くの友人が言及し、黄本人も述べてはいた (
て黄と会った元日本軍高級参謀・辻政信は、彼を「中国語の下手な中国人であつた」と語っていた ( 国語が母語で日本語は第二言語だったのかといえば、そう単純ではない。一九四六年に国民党軍による捕虜となっ 。しかし、中 )
語も、彼の外 。日本語も中国 )
国
人
性
が
顕
わ
れ
る
母
語
研究の現状にとっても大きな批評性をもつのである。 ストーリーの水準に読み取れる作家の思想が論じられるにとどまりがちである。詩人黄瀛の再評価は、日本語文学 書いた文学の研究が、小規模ながらも一潮流となっている。しかし、管見するかぎりでは小説ばかりが対象とされ、 近年、日本近代文学研究のなかで「日本語文学」というコンセプトが立ち上げられ、中国人や朝鮮人が日本語で るべきだろう。 「方法として越境と混血」自覚しながら、それを特異な日本語の創造に開くという稀有な細い道、を開拓したと見 異語の混入、ぎくしゃくした構文や展開などを、詩的表現力に昇華しようとする道、自分の日本語のマイナー性を ントからも解放される。ただし、彼は自分の日本語を標準的日本語に解消しようとするのではなく、ずれた語法や する、主体的対処という意義をもっていたはずだ。書く際には慎重に言葉を選ぶことができ、吃音や特殊なアクセ 対する自己の微妙な関係、異言語・異文化の混在、政治的対立によって引き裂かれたアイデンティティーなどに対 だからこそ、彼にとって詩を書くことは、流暢でない不自然な日本語、発話に関する身体的抵抗、日本と中国に だったのだ。
注
(
( )「黄沢民」としている文献もあるが、佐藤竜一に従い「黄沢」としておく。1
)問題視されている「この三種類」がなにを指すのかは、記述が簡略すぎて確定しがたいが、散文詩、シネポエム、童謡・2
いまの僕にとつてほんとになつかしい思ひ出の一つも早『すぎ去つた純真時代』と云はれてゐます。
つまり「喫茶店金水天津回想詩」は、半植民地的な多言語都市での耳の体験をモチーフとした作品であり、ある意味と別の意味や、意味と非意味のあいだで振動している詩なのだ。正規な用法や標準的な用法からずれた語法や構文、意味に解消しがたい語音や文字や断片的文章などが、かえって詩的魅力となるといったケースは、黄瀛において非常に多く見受けられる特色にほかならない。例えば、「妹への手紙
は理解しがたい。ただ、この名は、そこにもi音が含まれており、珍しい綴りとあわせて印象に残るのだ ( 際の妹の名だから「宇比雄」は黄瀛自身を指しているはずだが、なぜ「宇比雄」という奇妙な名になっているのか 宇比雄」という宛名と署名で終わる。寧馨は黄瀛の実寧馨/お兄の一人の兄多いのだ。そして「私の一人の妹 りする雪の夜に/先ず静心を得やうとする者の思服を考へてくれい」というように、この詩にはi音e音の反復が とって意味としては理解しがたいが、「しんみi音やe音の鋭いリズムによって訴えかける。エキゾチシズムと、
か?)」日本人読者に(「伊人」ルファベット表記された中国語音ア」。n! Ire
可愛い「リフレインのは、
)。「作品八十三番」も、言葉の非意味伝達的・強度的用法が顕著な作品である。第三行の「わからないん?」は「わからないの?」の語尾が撥音便となった口語表現として一応理解できる。けれども、第一一行の「その度毎に面白いん」、第一二行の「ぐり
した勇しい心象も一寸みだしてくるん」と第一三行の「ごう
飾するには妙な「ぐり を修「勇しい心象」はずしたのだろう。を「?」たぶん黄もそのつもりで受けたユーモラスな脚韻となっている。 を「わからないん?」文法的には異常といえるが、文脈から疑問形とは思われず、は、「ん」のの物音もするん」
する都会の夜
」というオノマトペも、「ごう
ところで、朔太郎と杢太郎は、黄瀛が日本語を母語とせず中国語を母語とする中国人と思っていたようだが、こ
」と共鳴しあっているといえる。
詩人黄瀛の再評価
(16) 77
室 へやの隅にすね、氷雨 ひさめの窓にわぶる。(中略)而もその詩品は尖端派中の尖端、アンチ・ユウクリツトの情線、構想粒子の搏撃。
杢太郎は、中国人である黄が日本語を通して、日本人以上に「鋭く」韻律を駆使していること
,
しかもそれが定型の「規矩の繋縛を脱し得た」生動に達していることを、日本人による漢詩の歴史と比較して感嘆している。第三連前半で、詩の文体の混質性や、匂いの表現、規格をはずれた前衛性といった他の人物が語っていない特徴に言及しているところも、さすがである。ただし、私は朔太郎や杢太郎の評価を大枠では肯定的に受けとめながら、彼らがはっきりと語っていない側面を指摘しておきたい。「喫茶店金水天津回想詩」の特異な「ようく」は、ゆったりしたノスタルジックな雰囲気を醸しているばかりでなく、頻度を表す副詞の「よく」が、「しっかり、念入りに」の同義語の「ようく」にずれ込んだ個人言語、「しばしばようく」というダブルミーニングを帯びた黄瀛語となっていると思う。この詩のリフレインとなっている「フネフネ」が、天津の日本租界の路地で車夫たちが黄に投げかけた言葉、しかも黄には何を意味しているのか理解できなかった言葉だという側面も注目にあたいしよう。最終連を引用する。あの朝鮮の美しい女が沢山ゐるといふ富貴胡同近くでアメリカの無頼漢兵士の一人歩きを不思議に思つたりフネ
どうしてもわからなかつた去年の夏は
とよぶ車夫の言葉が
木下杢太郎の「詩集「瑞枝」の序に代へて作者黄瀛君に呈する詩」の美しい第三連、第四連にも、朔太郎の評価に近接した評価が記されている。
まるで考へられないことだ、こんなにも美しい詩の数数 かずかずが言語 ことばを殊にするあなたの指先から咲き出でようとは。ここに方言、ここに郷土の倍音、一瞬に消える影、二度と想ひ出せぬ匂 にほひ、それが此邦の人より鋭く、深く、柔く、痒 かゆく、また些 ちと酸つぱく、言語 げんぎよ、韵律の微 かすかな網に捉へられて居る。網の目に金銀の雨、天門を滑る律動……
昔はわれわれの先祖たちもむづかしいお国の韵語を藉りて数世紀の間漢詩 からうたといふものを作りました。だが果して幾人か能く規矩の繋縛を脱し得たでせう。誰か能く国人 くにびとの涙を促し得たでせう。それをあなたはその詩に由り、われわれの悩を悩み、わらわれの喜を喜び、
詩人黄瀛の再評価
(14) 79
本論の締めくくりとして、トランスナショナルな「越境と混血」が黄瀛文学の重要な形成ファクターの一つとなっているという点を浮び上がらせておきたい。すでに戦前の大詩人たちは、黄の「越境と混血性」が詩語の独自性に関係していることを洞察していた。この方面でもっとも具体的な指摘をしたのは、萩原朔太郎だ。朔太郎は、『日本詩人』一九二五年九月号に載った黄の「喫茶店金水天津回想詩」(『瑞枝』)を、同誌の同年一一月号で以下のように評した。
君が表現に卓抜な天稟をもつてることは、以前からも認めてゐたが、今度の支那景物詩「喫茶店金水」をよんで、その語韻上の音楽的天稟に始 ママめて気付いた。君は実に音楽的な好い耳を持つてゐる詩人だ。
あの日本租界の富貴胡同近くでフネフネといはれた夏の夜はようくアイスクリームやソーダ水をすすつたものです。
といふ書き出しを読んでも、すぐにそれがわかる。「フネフネ」といふ語の鼻音的な発韻が、いかに美的でよく利いてるか。それから三行目で「よく」と言ふべき所を故意に「ようく」と言つてるのを見ても、語調の節奏的美感に神経の過敏なことがはつきりわかる。(中略)いつたい外国人といふものは、他国語に対して非常に鋭敏な耳を有するものだ。(中略)黄君が日本語に好い耳を有してゐるのも、思ふに恐らく彼が外国人(支那人)のためであるだらう。(「日本詩人九月号月旦」)
日本語を単純に母語とする日本人でないがゆえに、かえって黄は意味を離れた日本語の聴覚的印象に敏感で、それに重きを置き、スタンダードな表現からずれた表現をものしていると見て、朔太郎は高評価しているのだ。
七月の情熱
(『朝』一九二五年一〇月)白いパラソルのかげから私は美しい神戸のアヒノコを見たすつきりした姿で何だか露にぬれた百合の花のように涙ぐましい処女を見た父が母がその中に生まれた美しいアヒノコの娘そのアヒノコの美しさがかなしかつた美しい混血の少女に対して一九歳の青年が覚えた「かなしさ」が、単なる憐憫ではなく、自分自身の混血性の自覚を含んでいることは想像にかたくない。黄瀛詩において、政治的なものは、私的なものの外縁におぼろな陰影として揺曳する。東京市谷の陸軍士官学校に在籍していた一九二八年一月の作と推定される「妹への手紙
/ふと腹が立つ』この言葉にこゝの国の芸術家は不健康な 「妹よ、手紙の体裁をとった詩であるが、国境ほど私を惹くものはない/局部的にふるへてる私達の国/『国を思
」(『瑞枝』)は、天津に移住した妹寧馨へ宛てる (9)関して解釈を要する極度に簡潔な表現が、詩的強度ともなっている ( という一節は、指示内容にの「国」の北伐に関連していよう。こに行つた若い将軍のことを思ふ/兄は彼を愛す」 大陸では蒋介石が国民党内の反対勢力や共産党と闘争しながら、北伐を進めていた。この詩の中の「兄はかの西北 「こゝの国」の「国」は日本を指していると解釈できる。当時、中国「国を思ふと」の「国」は中国を指しており、
笑をするのだ!」や「私達の国」という一節がある。。 )
詩人黄瀛の再評価
(12) 81
される過程を意味しているのだろう。いくつかの賢治作品、たとえば火山性のガスで意識が薄れる過程が描かれている「真空溶媒」(『春と修羅』)や、早池峰山山麓の岩に横たわって休息しているうちに修行僧の入眠時幻覚を見る経験を描いた「河原坊 かわらのぼう(山脚の黎明)」(『春と修羅第二集』)、あるいは眠りにはいる過程を浮遊感として表現した童話「山男の四月」(『注文の多い料理店』)を想わせる。「作品八十三番」は、意識自体の質的変化、水準の変化を意図的に乱調の文章で表現しているという点で、黄瀛詩のなかでもっとも賢治的といっていいものだろう。ただし、賢治の心象がもっぱら屋外の田園で展開し、動的で精緻な風景描写と重なるのに対し、黄の心象はしばしば室内で展開し、窓から見える風景が描写されるという違いがある。屋外で出来事が展開する場合でも、賢治に比べれば風景描写がずっと静的で簡略だ。また賢治の自然がもっぱら宗教的昂揚や畏怖などと結びつくのと異なり、黄の自然は、心地よさや淋しさ、友人・母・妹・恋人などへの思慕など、慎ましい世俗的抒情と結びつくという、本質的な方向性の違いも存在する。けれども、賢治の「心象スケッチ」は、詩の形式的完成度や統一性に囚われずに自己の心の揺れ動きと周囲の表情を見つめ、表現する「方法」として黄によって受容されたと考えられる。彼の作品に「心象」や「心象スケツチ」という語彙の登場するのが文化学院時代から陸軍士官学校時代であるのも、これが日本で暮らしながら自分の進路に思い悩んでいた時期だったからではないだろうか。
四 方法としての越境と混血
他のモダニストとの比較に戻ると、エキゾチシズムのなかに混血児としての悲哀や不安、煩悶が混じる点も黄瀛的というべきだ。一九二五年三月、青島日本中学校を卒業した彼は、東京帝国大学へ進学して詩人として活躍するという青雲の志を抱いて神戸港に上陸した。そして、そのとき見かけた混血の少女のことを哀切にうたった。
対する賢治の影響といえば、草野心平と中原中也が論じられるにとどまってきた。黄瀛と宮沢賢治の比較考察は、宮沢賢治受容史を考えるうえでも大きな意義があるのだ。『瑞枝』において「ここまで来た時」の一つ前に配置されている「作品八十三番」は、やはり夜の自室での孤独な心象をスケッチした詩であり、「夜のごう
浸透しあう。 うに、内容の不明瞭な「心象」が、寝室に侵入してくる界隈の響きや、寝室を満たすユリの花の匂いや時計の音と 葉の青つぽい匂ひ」が、ある映画の思い出を喚起し、詩人は「人生をしらずに人生をはかなむ」。そしてつぎのよ さてこいつに悲しい心象を与へたのか?/わからないん?」という自問からはじまる。外から入り込んだ「夏の青
とする音をきく/ベツドの上に浮遊しない重力のある物体/何が
ぐり
ごう
した勇しい心象も一寸はみ出してくるん いろ きゝ耳を立てるといやにしんみりしてる
する都会の夜の物音もするん どんづまりオレも浮遊してく 重心を忘れると眼が云ふことをきかなくなり 鳩時計への耳 百合の花の香こいい部屋
の首をぶちこはしては一つの首につくり上げる
冒頭で「ベツトの上に浮遊しない重力のある物体」と描写されていた「オレ」の身体が、最後に浮遊している。これは眠りかけている「オレ」が重力の感覚を失う推移を表しているに違いない。「いろいろの首をぶちこはしては一つの首につくり上げる」という奇抜な表現は、夢うつつの状態で複数の人物の顔が無意識的に一つの顔へ合成
詩人黄瀛の再評価
(10) 83
私が特に着目するのは、黄の作品に、賢治がみずからの詩法を指して言った「心象スケツチ」という用語や、「心象」という賢治語彙がたびたび登場することである (8)。宮沢賢治の「心象スケッチ」とは何かを述べることは優に一論文にあたいするが、とりあえず、外界に触発された知覚・想像・思考の展開を包括的かつ連続的に記述すること、と定義しておこう。賢治は外出する際、つねに手帳と筆記具を携帯し、「心象」の展開を感じるとそれをその場で記し、そうした筆記をもとに詩や童話を書いた。黄の詩「ここまで来た時」は、「ここまで来た時/五十八頁の心象スケツチが停止する。/それはオレ自身にもわからぬ渋滞だ」という詩行からはじまり、なぜ「心象スケツチ」を書きつづけることができないのかをめぐる自省が綴られたあと、
そして百合の花の匂ひ蚊の聲風の音と風鈴の音いい位な心もちにいい位なヂクザツクだから今夜はこのノートを眺めるのだ。
という知覚(嗅覚と聴覚)のスケッチによって閉じられている。要するに、「心象スケッチ」が書けないという逆説的な心象スケッチになっているのだ。心象の流れを五八頁もノートに綴っていたことが記述されている点に注目する。これは、黄が詩作の方法論の水準で賢治から影響を被っており、それを周囲の詩人に対して明示してもいたということを含意する。なお、賢治自身の詩においても例えば、花巻農学校の生徒の岩手山登山を引率した経験を題材にした「東岩手火山」(『春と修羅』)のなかで「まだ一時間もありますから/私もスケツチをとります」という自分自身の発言を記しているように心象スケッチへの自己言及が見つかる。従来、同時代の詩人の作に
いたことが明かされ、その女への命令をもって詩が終えられている。第二の「短章」では、三行目で不在の他者へ語り手が手紙を書こうとしていたことが明かされ、それが書けないことに対する謝りの言葉によって詩が終えられている。要するに、どちらの「短章」も、光景の純粋な描写ではなく、自己の身体感覚や、意識の持続の表出、相手への語りかけとなっているのだ。エスプリの効いた隠喩性の方は、モダニズム短詩一般の特徴というより竹中郁の特徴というべきものだが、主体や相手や身体性が稀薄な描写は、モダニズム短詩の一般的特徴である。これに対し、黄の短詩は、相手への語りかけが多く(語りかける相手が自分自身であることもある)、その語り口はざっくばらんな口調を取る。気さくな語りかけと相関して詩人の身体や対他意識が前景化されることこそ、黄瀛的と呼ぶべき特色なのだ。そしてこうした特色は、『瑞枝』に収録されている比較的長めの詩のなかでさらに表情豊かに展開されている。奥野信太郎は、このことも的確に指摘していた「彼の書翰がしばしば詩であるが如く、また逆に彼の詩はしばしば好朋友へのなつかしい書翰でもある」(「詩人黄瀛のこと」)。
三 黄瀛の「心象スケッチ」
次に、『瑞枝』収録の黄瀛詩の特色を、宮沢賢治を補助線として浮び上がらせてみよう。黄瀛は草野心平を通して『春と修羅』(一九二四年四月)を、刊行後の早い時期に知り、宮沢賢治を『銅鑼』(二号までは広東で発行)に誘う手紙を草野と連名で送ったという。かくして賢治は第四号(一九二五年九月)から『銅鑼』同人となった。黄は賢治と文通し (7)、一九二九年六月に花巻で賢治と面談した。彼らのあいだの書簡は見つかっていないが、黄が賢治を高く評価していたことは、「春さきの風」(一九二九年一一月)、「詩人交友録」(一九三〇年五月)、「らくがき」(一九三三年六月)、「日本東京」(一九三三年一二月)での言及や、追悼文「南京より」(一九三四年一月)が証している。
詩人黄瀛の再評価
(8) 85
エッフェル塔
エッフェル塔。鉄の竪琴。風が美しい音をかなでる。伴奏はセイヌ河よ。一般的にモダニズム短詩は、和歌的な抒情や風景をしりぞけ、意味や自己表現や社会性が希薄な即物的・視覚的描写と、モダンな都市的ないし植民地的形象を好む。黄瀛の「アトリエ」は、竹中郁の「エッフェル塔」と同様、モダンで都市的な形象だ。引用した短詩からはうかがわれないが、『景星』には植民地的エキゾチシズムの濃厚な作品も多い。黄の年長の友人だった中国文学者・奥野信太郎は、的確にそのことを指摘していた。「彼の第一詩集『景星』を繙くものは、中国といふ古い大陸の一角に鏤められた一つの宝石にも比すべき、ヨオロッパ風の都会青島を極く極く身近に感じて、その植民地的香気の立ちもとらふのを、新鮮なレモンの匂のやうに思ひなすことでもあらう」(奥野「詩人黄瀛のこと」『日時計のある風景』一九七四年)。黄の短詩は、竹中の短詩と意味の希薄さも共有している。「短章」という題は無題に等しい。けれども両者のあいだには、本質的な差異を指摘することができる。竹中の短詩は、一文一文がそれぞれ別個の簡潔な映像に対応可能であるという点で、視覚的であり、モンタージュ的、シネポエム的だ。さらに、この視覚性は隠喩的=オーヴァーラップ的でもある。「エッフェル塔」では、エッフェル塔が「鉄の竪琴」に見立てられ、エッフェル塔の傍らのセーヌ河の流れが竪琴の演奏の「伴奏」に見立てられている。「子供」では、子供が水たまりをまたぐさまが「海峡を越えてゆく」ことに見立てられている (6)。黄瀛詩の場合、隠喩表現は希薄であるか二義的で、その意味で竹中の詩より即物的といえなくもないが、概してさほど視覚的ではない。特に第二の「短章」は非視覚的だ。そのかわり、そこには竹中には稀薄な語り手の身体性が刻印されている。第一の「短章」では、アトリエの白さと「疲れた瞳 め」とのあいだに一種の生理的抵抗感があり、第二の「短章」だと、長い手紙を書こうとする意志に対し、寒さから来る「くしやみ」が生理的抵抗を示している。他者ないし相手の存在が示唆されている点も黄瀛的といえる。第一の「短章」では、四行目で、目の前に「女」
『景星』から、二篇の同タイトルの短詩を全文引用する。
短章
疲れた瞳 めに見えるものは三月の白さだアトリエ一ぱいの風景だ女よその花をくづすな!短章
寒い夜ですくしやみばつかり出て長い手紙がかけませんごめん下さい。試しにこれらを、竹中郁の『一匙の雲』(ボン書店、一九三二年)に収録されたつぎの二篇と比較してみよう。
子供
雨があがる。水たまりが残る。子供は踏まないやうに海峡を越えてゆく。詩人黄瀛の再評価
(6) 87
二 『景星』の短詩
生前刊行された詩集は、一九三〇年の『景星』(田村榮発行)と一九三四年の『瑞枝』(ボン書店)の二冊である。第二詩集『瑞枝』は四〇〇部発行された高額な豪華装丁詩集であり、復刻版が存在するので、比較的よく言及される。これに対し、第一詩集『景星』は初版一〇〇部が発行されただけで、閲覧困難な詩集なので、内容が取りあげられることはほとんどない。黄瀛におけるモダニズムの影響とそこからの偏差を、まず『景星』を通して確認しておこう。『景星』の顕著な特徴は、『瑞枝』に収録された詩よりずっと短い詩ばかりから構成されていることである。ともすれば、黄の詩業が短詩からはじまって比較的長めの抒情詩へ発展したと思いかねないが、初出を確認してみると、『景星』収録の詩よりも古い作品が『瑞枝』に数篇収録されていること、つまり黄が短詩と普通の長さの詩を平行して作っていたこと、意図的に短詩のみをセレクトして『景星』を編集したことがわかる。短詩を多く作った背景には、一九二〇年代半ばから日本の詩壇で短詩(シネポエムを含む)がモダニズムの一傾向(「短詩運動」)として流行していたということがあるはずだ。彼は、短詩運動の前期の中心となった詩誌『亜』(大連、一九二四年一一月―一九二七年一二月)には参加していないけれど、『亜』の影響を受けた『詩神』や、『亜』を引き継いだ『詩と詩論』(一九二八年九月―一九三一年一二月)には、自作や、中国の新詩人(郭沫若、章衣萍、成
。ム詩の出版をもっぱらとした出版社である (5) モダニズを出版したボン書店は、『瑞枝』にも参加しているモダニストだった。『詩と詩論』と『亜』形亀之助は 高く評価した竹中郁、坂本遼、岡崎清一郎は『詩と詩論』の代表的短詩詩人であり、彼と『銅鑼』で同人だった尾 が彼載っている。が「中国詩壇の現在」評論主催者・春山行夫のモダニズム詩論とともに、の『詩と詩論』には、
吾等)の詩の翻訳・紹介を発表していた。(一九二九年一二月)世界新興詩派研究』『現代詩講座第三巻これは、回顧的な詩壇批評であるとともに、彼自身の詩人としてのスタンスを教えてくれる貴重な詩論となっている。そこで黄は、ふたたび「僕のやうな詩を書く者はいはばフリー・ランサーで、それが故気軽で人見知りもしないし、何処の波をも風をも関せず、かうしてわがまゝだ」と自己規定する。そのうえで、日本から遠ざかったことが「日本の詩を客観的に見させた」と述べ、近年の日本の詩が、リズムを忘れた「読む詩」、かえって映像的でない「見る詩」、自由の乏しい「唄ふ詩」という三方向へ分裂しつつあると批評し、「この三種類をごつちやにして詩を書いてる連中の作の方がいゝものがあつて、読み対へがある」という自分の価値観を表明している (2)。詩派の境界を越境してそれらを混血させるのが良いと説いているのも同然だ。黄は、同人誌を通した「団体進出」の弊害を率直に指摘してもいる。同人たちが、詩の広がりを狭く限定する評論家の「妄言」を信じてしまった結果、彼らの詩が「清楚となるか、イミテエシヨンのイミテエシヨン」となり、詩派の「評論家の提燈が高く明るくても、まるで意味がなかつたことは僕のやうな鈍助でもすぐわかつた位つまらなかつた」と (3)。なお、黄の団体主義にとらわれない越境性は、日中間ないし中国国内においても確認できる。すでに触れたように、黄は中国の現代詩人を評論や翻訳によって盛んに日本の詩壇に紹介した。さらに一九三三年から一九三四年頃、黄は国民党陸軍将校だったにもかかわらず、党のブラックリストに載っていた魯迅と上海租界で数度密会し、築地小劇場や東西の文学をめぐって歓談したという (4)。「日本東京」の中で、黄が近年の自分自身を、日本の詩壇から「忘れられ、忘れやうとしてる詩を作るやつこさ ・・・・
ん」と規定している点も興味深い。一見卑下しているかのようだが、自分は詩の三極化や団体主義や理論先行の弊 ・
から自由な詩人だよと自負しているのだろう。実際、黄瀛詩は当時のモダニズム詩から実験的なフォルムを吸収しながらも、身体性、対他性、自己批評、独自のリズムやのびのびした口調などを保持することで、モダニズム詩一般から一線を画しているのだ。
詩人黄瀛の再評価
(4) 89
〇月二二日に、四川外語大学で同大学日本学研究所主催シンポジウム「方法としての越境と混血」において行った研究発表「詩人黄瀛の再評価日本語文学のために」に基づくものであることを断っておく。
一 詩壇のフリーランサー
黄瀛は混血児として人にいいがたい孤独を抱えていたが、日本の詩壇で孤立していたわけではなかった。むしろ彼は非常に社交的で、たがいにへだたっていたり対立したりしていた様々なグループに参加していた。グループの中心を占めはしなかったが、そのぶん自由な媒介者の役目を果たしたのだ。逆説的にも、こうしたとらわれのない身軽な越境性が、特定の詩派に還元できないユニークな陰影やしなやかさを彼の詩にもたらす一方で、彼の詩を文学史的に論じにくくする一因となってきたのかもしれない。中野電信隊中隊長として阿佐ヶ谷に住んでいた頃、黄は「詩人交友録」(『詩神』一九三〇年九月)というエッセイのなかで、栗木幸次郎、安藤一郎、木山捷平、長田恒雄など中央線沿線の詩人との交友や、野長瀬正夫、伊藤信吉、井上康文、森竹夫、岡本潤、尾形亀之助、サトウハチロー、赤松月船、村野四郎、山崎泰雄、あるいは鹿児島の平正夫、兵庫の坂本遼、前橋の萩原恭次郎、草野心平、仙台の関谷裕規、花巻の宮沢賢治など、活動地域や文学的志向を異にした多くの詩人たちと交友を語り、みずからを「詩壇のフリーランサー」として位置づけている。「以上、僕の交友録はまとまりなくなりすぎた。月原橙一郎[『地上楽園』同人で民衆詩派の詩人]に云はせると、僕なぞは詩壇のフリーランサーだと云ふが、わるく云へばルンペンだ。もつともルンペンであつたつて構はないには構はないが、先述がないと云つた詩壇の友人でもかうして書いて行くと可成な数である。この原因は蓋し僕がフリーランサアな故であらう」。「詩人交友録」発表の数ヶ月後、黄は国民党軍将校の任に就くために南京へ移住した。そして、東京の詩壇から距離を置いて二年数ヶ月たった頃、「日本東京」というエッセイを『詩人時代』(一九三三年一二月)に発表した。
降し、一九六二年まで獄中生活と労役に服した。自由の身となったのもつかの間、四年後には文化大革命に巻き込まれ再投獄され、一九七八年まで拘束された。戦後、久しく忘却の淵に沈んでいた混血詩人が、日本で再び注目を浴びるようになったのは、一九八〇年代以降である。一九八二年、蒼土社から詩集『瑞枝』(一九三四年)が復刻され、その別冊として『詩人黄瀛回想篇・研究篇』が上梓された。一九九四年には、佐藤竜一による評伝『黄瀛その詩と数奇な生涯』(日本地域社会研究所)が刊行された。佐藤はその後も伝記的研究を続け、『宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯日本と中国二つの祖国に生きて』(コールサック社、二〇一六年)を刊行した。しかし、伝記的研究に比べると、黄の詩業の文学的な解明や再評価は、いまだに著しく遅れているといわざるをえない。この不均衡を補う意図をもって、私は本誌第六号(二〇〇九年一月)に「詩人黄瀛の光栄書簡性と多言語性」を発表している。だが、その時点では、研究対象が『瑞枝』所収の詩に限られており、当時の詩壇との関係についての私の知識も乏しかった。その後、「黄瀛展」(宮沢賢治イーハトーブ館、二〇一六年四月一五日―一〇月一三日)を、王敏、榊昌子、佐藤竜一、杉浦静と共同で監修した経験を通じて、私は様々な文芸同人誌に掲載されていた未読の黄瀛詩を知った。そこで本稿では、『瑞枝』に収録されていない詩や散文を取り込みながら、モダニズム詩の短詩運動との関係、および宮沢賢治の「心象スケッチ」との関係を軸に、黄瀛詩の特色と意義を論じることにする。なお、本稿の論旨が、二〇一六年一
詩人黄瀛の再評価
(2) 91
四川外語大学の黄瀛詩「ある夜」碑(筆者撮影)
詩人黄瀛の再評価
岡村民夫
黄 こう瀛 えい(一九〇六―二〇〇五年)という中国人が、昭和初期、日本語で新鮮な優れた詩を書き、日本の詩壇で活躍していたことを、ご存知だろうか。一九〇六(明治三九)年一〇月四日、黄瀛は、四川省重慶で、川東師範学校初代校長だった中国人の父・黄沢 こうたくと (1)
日清交換教授の母・太田喜 き智 ちの長男として生まれた(中国籍)。三歳で父を喪い、母と妹・寧 ねい馨 けいとともに中国各地を転々としたのち、一九一四(大正三)年に母の故郷の千葉県八日市場へ移住し、日本語を本格的に学ぶと、東京の正 せい則 そく中学校に進んだが、関東大震災をきっかけに青 チン島 タオ日本中学校へ転校した。準母語となっていた日本語で口語自由詩を書きはじめたのは、正則中学時代の一六歳頃だったという。詩誌『詩聖』一九二三年三月号掲載の「早春登校」によって中央詩壇にデビューし、一九二五年一八歳にして、詩壇の公器かつ登竜門だった『日本詩人』に「朝の展望」を投稿、新詩人第一席の栄誉を受け、一躍脚光を浴び、『銅鑼』創刊同人ともなった。一九二六(大正一五)年三月、東京へ戻り、文化学院に入学するが、一年ほどで自主退学、一九二七年一〇月、市ヶ谷台の陸軍士官学校本科に第二〇期中華民国留学生として入学した。一九二九(昭和四)年七月、卒業すると中野電信隊に配属されたが、北伐を敢行する蒋介石に共鳴し、満州事変直前の一九三一(昭和六)年初頭、中華民国新首都・南 ナン京 キンへ渡って南京軍政部特殊通信部教導隊長となった。一九三三年、王蔚霞と結婚。日中戦争勃発の頃、陸軍中尉に昇進し、その頃から日中戦争終結まで日本語で詩を書くことをやめた。一九四九年、黄は共産党軍に投