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蕭常『續後漢書』昭烈皇帝紀についての覚書

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はじめに 南宋の人である蕭常が著した『續後漢書』は、蜀漢正統 論を説いた書として知られている。 この蕭常 『續後漢書』 は、 南宋における蜀漢正統論の隆盛の一環として捉えられる傾 向にある史料であり、蜀漢人士に関する記述を本紀・列傳 として扱う一方、孫吳・曹魏人士の記録は載記として扱っ ていることが有名である。だがそういった印象が広く知ら れている一方で、その具体的な記述内容についてはあまり 検証されたことがなく、そのためその史料的価値を見出さ れることも少ない。 本研究は、この蕭常『續後漢書』および著者の蕭常につ いての研究を通して、南宋における正統論の展開と朱子学 の影響力について新たな知見を得ることを目的とする。本 稿はその中から、同書の本紀一上・昭烈皇帝紀の序盤部分 について、訓注形式で具体的な検証を行った研究ノートで ある。 なお本稿では、本研究グループが前回発表した研究であ る、田中靖彦・石井仁・中本圭亮「蕭常『續後漢書』の基 礎的研究─序および四庫提要の分析を中心に─」 (『實踐國 文 學 』 九 七、 二 〇 二 〇 年。 以 下「 前 稿 」 と 呼 称 ) を 必 要 に 応じて適宜参照する。本研究で用いる 『續後漢書』の底本 についても前稿を参照。 本稿における『續後漢書』のテキストは、叢書集成初編 の『 續 後 漢 書 』( 本 稿 で は「 叢 書 集 成 本 」 と 呼 称 ) を 底 本 とし、 「四庫全書」史部 ・ 別史類所収の『蕭氏續後漢書』 (本

蕭常『續後漢書』昭烈皇帝紀についての覚書

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稿 で は「 四 庫 全 書 本 」 と 呼 称 )、 お よ び、 同 治 八 年 重 刊 と 記 載 の あ る『 續 後 漢 書 』 の 版 本( 本 稿 で は「 伝・ 同 治 本 」 と呼称 ) ( 1 ) を用いて校訂を行った。叢書集成本および四庫全 書本について、およびテキスト校訂に関する凡例などは前 稿を参照されたい。 一. 『續後漢書音義』について 『續後漢書』には、 『續後漢書音義』 (以下『音義』 )があ る。 『 續 後 漢 書 』 の 周 必 大 序 に よ れ ば『 音 義 』 も 蕭 常 自 身 の著である。 「四庫提要」 は、 蕭常の 「進續後漢書表」 に 『音 義』に関する言及が無く、周必大序がはじめて音義につい て触れていることを指摘した上で、 「音義は成書の後に補っ たものであろうか」と述べてい る ( 2 ) 。 「四庫提要」 の指摘する 「蕭常の 「進續後漢書表」 に 『音 義』に関する言及が無い」という点は確かに注意すべきで あるが、同じく「四庫提要」が言うように、蕭常が後から 『音義』を補った可能性は高いように思われる。宋代には、 自分の著した史書に自らが注釈を施すという気風が起こっ ていた。内藤湖南は以下のような指摘をしている。   なほ新唐書・五代史記以前の歴史は、之に注を作る ものがあつても、それは後の人がそれを解釈する為め のものであつた。然るにこの二書になつてからは、そ の注の趣が変つて来た。新唐書の音注は文字の解釈に 止 ま る が、 新 唐 書 に 附 属 的 に 出 来 た 唐 書 直 筆 新 例 は、 新唐書の書法の義理を自ら吹聴したものである。新五 代史の徐無党の注は、欧陽修が口授して書かせたと云 はれるもので、己れの書法を辯明するためのものであ る。さればこの頃から、歴史を書く人は、自画自讃的 の評を自分自身又は仲間のものですることになつたの である。 (内藤湖南『支那史学 史 ( 3 ) 』「九   宋代に於ける史学の進 展」 ) 『 五 代 史 記 』 の 徐 無 党 注 が 歐 陽 脩 の 思 想 を ど こ ま で 反 映 しているかは諸説ある が ( 4 ) 、歴史書の著者自身が自著に注を 施す傾向が宋代に看取できることは事実として認めて良い であろう。さらに、後述するように『音義』は蕭常自身が 書いたと解釈すべき表現が見られる。これらの史料や考察 に 基 づ け ば、 『 音 義 』 は、 蕭 常 自 身 が 自 著 の 解 説 と し て 著 したという側面を持っていると捉えられるであろう。 実際、 『 音 義 』 の 内 容 は、 単 な る 音 注 に 留 ま ら ず、 考 察 や 筆 法 に 関する内容も多く、蕭常の懐いていた歴史観を知るのに有

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益な内容となっており、それらの具体例については本論で も述べてゆ く ( 5 ) 。 二.本稿における引用および考察の記述体裁につ いて 本稿における『續後漢書』の引用および著者による考察 の 体 裁 に つ い て 述 べ て お く。 本 稿 で は、 『 續 後 漢 書 』 本 文 を記述内容に基づいて段落分けを行い、 段落ごとに【本文】 【 音 義 】【 札 記 】【 校 勘 】 の 四 部 分 構 成 で 示 す 体 裁 を 採 る も のとする。 【本文】は『續後漢書』の本文、 【音義】は『音義』の引 用 で あ る こ と を 示 す。 『 音 義 』 は 本 来『 續 後 漢 書 』 と は 別 の 卷 と な っ て い る が、 本 稿 で は 閲 覧 の 便 宜 上、 「 本 文 の 引 用後、それに該当する音義を引用する」という形式を採っ た。また、 『音義』は本来、 『續後漢書』本文のうち注釈を 附した部分を引用し、それに続けて割注によって注釈が附 されるという体裁となっている。本稿における引用では割 注は用いず、 『音義』の本文部分(注が附されている語句) は亀甲括弧〔   〕でくくり、割注部分はコロン(:)以下 で示す形とした。本稿における音義の引用書式には、中華 書局の標点本のように〔一〕といった形で表記することも 検討したが、稀に『續後漢書』の本文と、それに対応する 『 音 義 』 の 本 文 が 一 致 し な い 場 合 も あ る の で、 こ の よ う な 形式による掲載とした。 【札記】は郁松年による『續後漢書札記』 (前稿参照)の 引 用 で あ る こ と を 示 す。 【 校 勘 】 は 著 者 に よ る 考 察 を 述 べ た 部 分 で あ る。 【 札 記 】 と【 校 勘 】 は、 本 文 に お け る 該 当 箇所を亀甲括弧〔   〕でくくった形で記し、 コロン以下に、 【札記】あるいは【校勘】の内容を記す体裁となっている。 【 本 文 】 や【 音 義 】 に 対 応 す る『 札 記 』 が 無 い 箇 所 や 考 察 を言及する必要が無いと判断した箇所には、 【札記】と【校 勘】の段自体を設置していない。なお、考察として書くに 及 ば ぬ が 言 及 し て お き た い 点 に つ い て は、 【 校 勘 】 に は 記 さず注記の形で記しておく。また、書き下し文は注で示し たが、書き下しの必要が無いと判断した文はこの限りでな い。 三.昭烈本紀・興平元年までの記述について 今回の考察対象である蕭常『續後漢書』昭烈本紀は、基 本的に『三國志』蜀書二・先主傳および裴注を元に構成さ れている。ここでは、それに該当しない箇所についてを中 心に注記する。

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【本文】 (6) 續後漢書卷第一 上 ( 7 )   宋   蕭常   譔 ( 8 ) 帝紀第一 上 ( 9 ) 昭烈皇帝諱備字玄德、 景帝子中山靖王勝之後也。勝子貞、 元朔二年、封陸城侯、因家於涿郡。祖雄舉孝廉、官至東郡 范令。父宏亦仕州郡 。 )(1 ( 【音義】 紀一 〔勝 子貞元朔二年封陸城侯〕 : 陸城、亭名、隷涿郡。按 『前 書』表、貞以元朔二年封。而陳壽『蜀書』作「元狩六 年」 、誤也。若此類皆刊正之。壽云 「封亭侯」 、表無 「亭」 字 。 )(( ( 【札記】 〔卷第一上・帝紀第一上〕 〔昭烈皇帝紀〕 〔勝 子 貞 元 朔 二 年 封 陸 城 侯 〕: 陳 志 作「 元 狩 六 年 封 貞 涿 縣 陸城亭侯」 。辨見『音義』 。 )(1 ( 【校勘】 〔昭 烈皇帝〕 : 蕭常『續後漢書』では、 『三國志』が 「先主」 と記す箇所に該当する部分は基本的に「昭烈」と呼ん で い る。 同 書 が 蜀 漢 お よ び 劉 備 を 主 軸 と し た 史 観 を 持っていたことが強く看取できる筆法である。 〔玄 徳 〕: 伝・ 同 治 本 は「 玄 徳 」 の「 玄 」 は「 元 」 と な っ ており、 同字が四角で囲ってある。四庫全書本は「玄」 の欠画、叢書集成本は「玄」と表記している。宋代に は 「玄」 の字の使用を回避する必要があった (陳垣 『史 諱挙例』科学出版社、一九五八年)ので、少なくとも この字に関して言えば伝・同治本が蕭常の原著に最も 近かった可能性が高いことになる。 この点については、 伝・同治本の位置づけや宜稼堂叢書本の行った校訂の 経緯を考察する上で非常に興味深いのだが、これにつ いては今後の課題としたい。 〔元 朔 二 年 〕: 紀 元 前 一 二 七 年。 こ れ に つ い て は、 蕭 常 自 身が『音義』にて解説してある通りである。該当部分 は 『三國志』 先主傳では 「元狩六年」 (紀元前一一七年) だ が、 蕭 常 の 言 う『 前 書 』 表( 『 漢 書 』 卷 十 五 上・ 王 子侯表上を指す)によれば「元朔二年」が正しい。な お、 『 音 義 』 に「 若 此 類 皆 刊 正 之 」 と あ る が、 こ れ は 蕭常自身が 「こういった間違いは、 私の著書である 『續

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後漢書』ではみんな訂正しました」と言っていると解 釈できる。 『音義』 を蕭常自身の著述とみる所以である。 そしてこの一文からは、蕭常の自著に対する誇りと自 信を読み取ることができよう。 〔陸 城侯〕 :『三國志』先主傳では「陸城亭侯」 。『音義』は、 これも『前書』表の表記に倣ったといっているが、実 際、 『 漢 書 』 卷 十 五 上・ 王 子 侯 表 上 に は「 陸 城 侯 貞 」 とある。 【本文】 昭烈生於桓帝延熙四年、少孤、與母販履織席自給。舍東 南有桑、高五丈、童童如車蓋。或謂當出貴人。昭烈與諸兒 戲 桑 下 曰、 「 吾 當 乘 此 羽 葆 車。 」 叔 父 子 敬 謂 曰、 「 毋 妄 言、 滅吾門也。 」 )(1 ( 【音義】 〔延熹〕 :音僖。 〔羽 葆 車 〕: 合 聚 五 采 羽、 名 爲 葆 車。 上 建 羽 葆、 故 曰 羽 葆 車 。 )(1 ( 【校勘】 〔延 熙 四 年 〕: 延 熙 は、 三 国 蜀 の 後 主 の と き に 用 い ら れ た 元号(二三八~二五七)であり、これは「延熹」の誤 記であると思われる。延熹四年は、西暦一六一年に該 当し、 劉備の生年。なお『音義』該当部分では「延熹」 としており、これは蕭常の単なる誤記と見るべきであ ろ う。 ち な み に、 『 三 國 志 』 お よ び 裴 注 な ど に 劉 備 の 生年を記した史料は無いので、没年からの逆算で記さ れた記述と思われる。 〔滅 吾 門 也 〕: 四 庫 全 書 本 で は「 族 矣 」 と な っ て い る。 ど ち ら が 蕭 常 の 原 著 に 近 い か は 断 定 で き な い が、 『 三 國 志』蜀書・先主傳の該当箇所が「滅吾門也」であるこ とを考えると、四庫全書本のほうが誤りである可能性 が高いと思われる。 〔合 聚五采羽、 名爲葆車〕 : これに類似した表現は 『後漢書』 本紀一下・光武帝本紀下の李賢注や、これを参照した とする『資治通鑑』卷四十三の胡三省注に見られる。 【本文】 年十五、母使行學、與同宗劉德然・遼西公孫瓚師事故九 江太守同郡盧植。德然父元起給其貲用與德然等。元起妻有 難 色、 元 起 曰、 「 吾 宗 有 此 兒、 非 常 人 也。 」 而 瓚 亦 與 友 善。 昭 烈 不 甚 樂 讀 書、 喜 狗 馬・ 音 樂・ 美 丰 儀。 身 長 七 尺 五 寸、 垂 手 過 膝、 顧 自 見 其 耳。 寡 語 言、 善 下 人、 喜 怒 不 形 於 色、

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好交豪俠、年少爭附之。中山大賈張世平・蘇雙等、貲累千 金。見而異之、多遺之金、以故得合其衆 。 )(1 ( 【音義】 〔公孫瓚〕 :才贊切。 『後漢書』有傳。 【校勘】 〔丰 儀〕 :『三國志』蜀書 ・ 先主傳の該当箇所は 「衣服」 。「丰 儀」とは風采・美しい容貌のこと。蕭常のいう「美丰 儀」とは「美しく着飾った風采」といった意味であろ うと思われる。 【本文】 靈帝中平元年、黄巾賊帥張角起魏郡、遣 八 )(1 ( 使、假善道以 化天下、陰相連結、自稱黄天、分三十六部、部各萬人、一 時倶發、天下響應。州郡各舉義兵 。 )(1 ( 【音義】 〔黄 巾 賊 帥 張 角 起 魏 郡 〕: 按、 陳 壽『 志 』 與『 後 漢 書 』 皆 云「鉅鹿人張角」 、而孫堅傳則云「張角起魏郡」 。蓋角 雖鉅鹿人、而起於魏。魏與鉅鹿爲隣郡。今從堅傳 。 )(1 ( 【校勘】 〔靈 帝中平元年~天下響應〕 :『音義』 の記述内容を見ると、 「孫堅傳に従い、 『張角が魏郡で挙兵した』と表記した」 と言っているようにも読めるが、その後の黄巾の決起 の様子についての記述も『三國志』先主傳には該当部 分 が 無 く、 『 三 國 志 』 吳 書 一・ 孫 破 虜 傳 を ベ ー ス と し ていると思われる。なお、蕭常が「三十六部」と記す 箇 所 は、 『 三 國 志 』 吳 書 一・ 孫 破 虜 傳 で は「 三 十 六 萬 」 )(1 ( 、『後漢書』列傳六十一 ・ 皇甫嵩傳では「三十六方」 と な っ て い る。 「 部 各 萬 人 」 は『 後 漢 書 』 列 傳 六十一・皇甫嵩傳に見える「大方萬餘人」との類似性 が指摘できる。 【本文】 昭 烈 帥 其 屬、 從 校 尉 鄒 靖、 討 黄 巾 有 功、 除 中 山 安 喜 尉。 其後有詔、罷免軍功爲吏者、昭烈亦在遣中。頃之、大將軍 何進遣都尉毌丘毅募兵丹陽。昭烈與倶至下 邳 、遇賊、力戰 有功、除下密丞、復去官 。 )11 ( 【音義】 〔下 邳 〕: 音 皮。 故 東 海 縣、 東 京 永 平 十 五 年、 爲 侯 國。 應 劭曰、 「邳 、本在薛、其後徙此、故曰下 邳 。 )1( ( 」 )11 (

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〔下 密 〕: 故 膠 東 國 縣。 東 京 隷 北 海 國、 以 同 郡 有 高 密、 故 曰下密 。 )11 ( 【校勘】 〔其 後有詔~昭烈亦在遣中〕 :蕭常の記述では、 『三國志』 蜀書二・先主傳にある「直入縛督郵、杖二百」といっ た表現は削除され、裴注の引く『典略』の「其後州郡 被詔書、其有軍功為長吏者、當沙汰之、備疑在遣中」 という記事を採用した記述となっている。ただし『典 略』はこれに続けて、劉備が督郵を捕らえて殺そうと したことが記されるが、蕭常はこれを採らない。すな わち劉備が督郵を打った上に自ら官位を棄てて亡命し たことは丸ごと記述されていないことになる。劉備が 暴力事件を起こしたという一面を描くのを避けた蕭常 には、劉備を美化せんとの意図があったと思われる。 【本文】 中平末、至京師。會董卓之亂、義兵起。昭烈亦聚衆從討 卓。後爲高唐令。縣爲賊所殘。往奔幽州公孫瓚。瓚表爲別 部司馬、使與青州刺史田楷拒冀州牧袁紹、數有戰功、試守 平 原 令、 竝 領 平 原 相。 郡 人 劉 平 素 與 昭 烈 有 隙、 耻 爲 之 下、 結客刺之、客不忍、語之而去。歳大饑、民苦鈔暴。昭烈外 禦 寇 難、 内 振 貧 乏、 士 之 至 者、 必 與 同 席 而 坐、 同 器 而 食、 衆多歸焉。北海相孔融屯都昌、爲賊管亥所圍、遣太史慈來 告急。昭烈曰、 「孔北海知世間有劉備耶。 」即遣精兵三千赴 之、賊尋解散。袁紹攻公孫瓚、昭烈與田楷東屯齊 。 )11 ( 【音義】 〔高唐〕 :平原縣。 〔袁紹〕 :字本初。 『後漢書』有傳。 〔平原令〕 :平原郡治平原。 〔孔融屯都昌〕 :『後漢書』有傳。都昌、北海縣。 【札記】 〔試 守 平 原 令、 竝 領 平 原 相 〕: 陳 志、 「 竝 」 作「 後 」。 郝 書 無「竝」字。舊脱「令」 。案、 陳 ・ 郝皆有「令」字、 『音 義』亦列「平原令」 。今補 。 )11 ( 【校勘】 〔中 平 末 ~ 昭 烈 亦 聚 衆 從 討 卓 〕: こ れ に 該 当 す る 部 分 は 先 主傳本文にはなく、裴注の引く『英雄記』によると思 われる。ただし『英雄記』該当部分は「靈帝末年、備 嘗在京師、後與曹公倶還沛國、募召合衆。會靈帝崩、 天下大亂、備亦起軍從討董卓」となっており、これと

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比較したとき、蕭常『續後漢書』の記述は、劉備が曹 操とともに沛國へ赴き兵を募ったことが省略されてい ることが分かる。曹操と劉備が良好な関係にあったこ とへの言及を避けたものであろうか。 〔試 守平原令〕 :四庫全書本には「令」 の字がない。 『札記』 の指摘するように、 「令」の字を補うべきであろう。 〔竝 領 平 原 相 〕: 「 竝 」 は 四 庫 全 書 本 で は「 立 」。 平 原 令 と 平原相を兼務というのは有り得ないので、四庫全書本 のほうが正しいように思えるが、蕭常の原著の記述が ど う で あ っ た か は 不 明 と す る 他 な い。 『 札 記 』 の 指 摘 する通り、 該当字は 『三國志』 蜀書二 ・ 先主傳では 「後」 で、このほうが無理なく解釈できる。 〔歳 大 饑 ~ 衆 多 歸 焉 〕: こ の 部 分 は 先 主 傳 に 裴 注 と し て 引 かれる『魏書』によっている。 〔北 海 相 孔 融 ~ 賊 尋 解 散 〕: 劉 備 が 太 史 慈 の 要 請 を 受 け て 孔融の救援に赴いたくだりは先主傳に記載が無く、 『三 國志』吳書四・太史慈傳の記述に基づいていると思わ れる。 【本文】 獻帝初平四年、曹操攻徐州、陶謙遣使告急於楷、楷與昭 烈救之。時昭烈有兵千餘及幽州烏丸雜胡騎、又得饑民數千 人。既至、謙以丹陽兵數千益之。昭烈遂去楷歸謙。謙表爲 豫州刺史、屯小沛 。 )11 ( 【音義】 〔陶 謙表爲豫州刺史〕 :謙時爲徐州牧。 『後漢書』有傳。郡 國志、豫州所領七郡。 〔小 沛〕 :即沛縣。以有沛郡、故曰小沛。猶槐里之小槐里、 弋陽之小弋陽。昭烈雖喪師失地、及其復振、未嘗不還 小沛 。 )11 ( 【札記】 〔獻帝初平四年、興平元年、二年〕 :舊竝不跳行。今改 。 )11 ( 【校勘】 〔獻 帝 初 平 四 年、 曹 操 攻 徐 州 〕: 曹 操 の 徐 州 侵 略 の 年 に つ いては先主傳に記載が無い。 【本文】 興平元年春、操引兵還。夏、操復遣荀彧 ・ 程昱等攻豫州、 昭烈爲彧等所敗 。 )11 ( 【音義】

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〔荀 彧〕 :音欲。 『後漢書』雖有傳、而彧専爲曹氏腹心、謀 代漢者。又其事迹皆見於魏、故併傳之 。 )11 ( 〔程昱〕 :音郁。 【札記】 〔興 平元年夏、操復遣荀彧・程昱等攻豫州、昭烈爲彧等所 敗〕 : 案陳志魏武紀、 「使荀彧 ・ 程昱守 鄄 城、 復征陶謙。 」 「謙將曹豹與劉備屯 郯 東、 要太祖。太祖擊破之。 」『通鑑』 同。此誤。以非傳冩肴訛、仍之 。 )1( ( 【校勘】 〔興平元年春〕 :この年は先主傳に記載が無い。 〔夏 、操復遣荀彧 ・ 程昱等攻豫州、昭烈爲彧等所敗〕 : この 箇所は『札記』が「此誤」と切り捨てているように、 大きな誤りがある。この部分は『三國志』魏書一・武 帝紀にある「夏、使荀彧・程昱守 鄄 城、復征陶謙、拔 五城、 遂略地至東海。還過 郯 、 謙將曹豹與劉備屯 郯 東、 要太祖。太祖擊破之」 を元にしたと思われる。ただし、 武帝紀該当部分の概要は「曹操は荀彧・程昱らに甄城 を守らせ、自らが再度陶謙を攻撃し、陶謙は曹豹・劉 備らと 郯 の東に駐屯したが曹操に撃破された」という ものである。ところが蕭常によれば「曹操が荀彧・程 昱らに豫州を攻撃させ、劉備は荀彧らに敗北した」と いうことになっている。こういった記録が見える史料 は管見の限り他に類例が無く、蕭常が史料を誤読した 可能性が高い。あるいは蕭常が参照した『三國志』の 該 当 部 分 が そ の よ う な 記 述 と な っ て い た の で あ ろ う か 。 〔『後 漢書』雖有傳~故併傳之〕 :蕭常は荀彧を漢臣ではな く 魏 臣 と し て 捉 え て い る こ と が 分 か る 記 述 で あ る。 実 際、 蕭 常 は『 續 後 漢 書 』 魏 載 記 三 に 荀 彧 載 記 を 設 け て い る。 か か る 評 価 は 范 曄 と は 対 極 的 で あ り、 司 馬 光 の 荀 彧 評 価 と も 大 き く 異 な る こ と が 興 味 深 い。 北 宋・ 南 宋 に お け る 荀 彧 評 価 の 転 換 を 示 す 一 つ の 事 例 と し て 注 目 に 値 す る で あ ろ う。 こ れ に 関 す る 考 察 は今後の課題としたい。 おわりに 今回検証した範囲を見る限り、蕭常の『續後漢書』は基 本的に『三國志』をベースとした内容になっているという 従来の説はおおむね妥当であるといえる。それでも蕭常の 著述内容からは、彼が『三國志』の誤りを正そうという意 思のもとに同書を執筆したことが窺えるのであり、特に劉 貞 が 陸 城 亭 侯 に 封 ぜ ら れ た こ と に 関 す る 記 述 は、 『 漢 書 』

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の 記 録 と 照 合 し て 陳 寿 の 誤 り を 正 し て い る こ と が 認 め ら れ、 そ の 真 摯 な 執 筆 態 度 は 嘉 せ ら れ る べ き で あ ろ う。 「 若 此類皆刊正之」という表現からは、蕭常の同書に対する自 負を読み取ることができる。 また、 劉備の孔融救援など、 『三 國志』先主傳には見えない劉備の活躍を補った記述がある ことは、蕭常の作業が単なる先主傳の焼き直しではないこ とを物語っているが、それでも記事の取材範囲の多くは陳 寿『三國志』内におさまっている点は否定しがたい。 また、劉備のことを「昭烈」と呼ぶことが徹底されてい る点や、 劉備の督郵への暴行を採録しないことなどからは、 劉備を美化せんとの意図が濃厚に看取し得るであろう。加 えて、劉備が曹操と共に沛國へ行って募兵したことに言及 しない執筆態度からは、蕭常が劉備と曹操との若き日の良 好な関係にあまり触れたくないのではないかという推測が 成立する。荀彧を漢臣と捉える見方への真っ向からの反論 は、司馬光との対比を考えると、北宋から南宋期における 歴史評価の転換の一側面がうかがい知れて興味深い。 た だ し そ の 一 方 で、 「 劉 備 が 荀 彧・ 程 昱 に 敗 北 し た 」 と いう記録は、蕭常が極めてお粗末な史料誤読をした可能性 を示唆する結果となっており、後世において蕭常『續後漢 書』がその史料としての価値を認められなかったのも仕方 がないと思わせるものがある。劉貞に関する記録を精査し た の と 同 一 の 人 物 が 書 い た と は 思 え ぬ 記 述 で あ る が、 『 資 治通鑑』とは異なり個人による著作としては検証にも限度 があったということであろうか。 ( 1 ) 本 研 究 グ ル ー プ は 本 年 度 、同 治 八 年 刊 行 と 記 載 の あ る 『 續 後 漢 書 』 版 本 を 入 手 し た 。 同 版 本 一 冊 目 の 冒 頭 に 「 同 治 己 巳 重 鐫 / 續 後 漢 書 / 師 古 山 房 藏 板 」( / は 改 行 を 示す) と 大 書 し て あ り 、 序 文 に よ れ ば 、 上海 の 郁 氏 の 刻 本 ( 前 稿 で 言 及 し た 郁 松 年 の 宜 稼 堂 叢 書 本 で あ る と 思 わ れ る ) を 元 に胡 芳 秋 ・ 杜 邦 浚に よ っ て 刊 行 さ れ た と あ る 。 同 版 本 は 古 書 店よ り 購 入 し た も の で あり 、 実 際 に 同 治 年 間 の 本 で あ る か を 含 め た 詳 細 な 検 証 は 今 後 の 検 討 課 題 と す る 。 ( 2 ) 周 必 大 序 お よ び 四 庫 提 要 に つ い て は 、 前 稿 を 参 照 。 ( 3 ) 弘 文 堂 、 一 九 四 九 年 。 本 論 で は 平 凡 社 よ り 一 九 九 二 年 刊 行 の 東 洋 文 庫 版 ( 全 二 冊 、 東 洋 文 庫五 五 七 、五 五 九 所 収 ) を 参 照 し た 。 ( 4 ) 『 五 代 史 記 』の 徐 無 党 注 を 巡 る 説 に つ い て は 、小 林 義 廣 『 欧 陽 脩   そ の 生 涯 と 宗 族 』( 創 文 社 、二 〇 〇 〇 年 ) 第 四 章 「 欧 陽 脩 に お け る 歴 史 叙 述 と 慶 暦 の 新 政 」を 参 照 。 小 林 は 、「 徐 無 党 注 は 欧 陽 脩 の 考 え そ の も の で あ る 」 と い う 意 見 と 、

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「 徐 無 党 に 独 自 性 が あ り 、 欧 陽 脩 の 意 図 と は 必 ず し も 一 致 し な い 」 と する 意 見 が あ る こ と を 指 摘 し た 上 で 、 前 者 に 軍 配 を 上 げ て い る 。 ( 5 ) 『 音 義 』 を も 自 ら 著 し た 蕭 常 の 心 中 に は 、 同 郷 の 偉 人 で あ る 歐 陽 脩 の 筆 法 に 倣 お う と の 意 識 が あ っ た 可 能 性 も 考 え 得 る 。 こ れ に つ い て は 今 後 の 検 討 課 題 と し た い 。 ( 6 ) 四 庫 全 書 本 は 一 行 目 に「 欽 定 四 庫 全 書 」。 以 下 の 卷 も 同 様 。 ( 7 ) 「 卷 第 一 上 」 は 、 四 庫 全 書 本 で は 「 卷 一 」。 ( 8 ) 「 譔 」 は 、 四 庫 全 書 本 で は 「 撰 」。 ( 9 ) 「 帝 紀 第 一 上 」 は 四 庫 全 書 本 で は 「 帝 紀 一 」。 ( 10) 烈 皇 帝   諱 は 備 、 字 は 玄 德 、 景 帝 の 子 た る 中 山 靖 王   勝 の 後 な り 。 勝 の 子 の 貞 、 元 朔 二 年 、 陸 城 侯 に 封 ぜ ら れ 、 因 っ て 涿 郡 に 家 す 。 祖 の 雄   孝 廉 に 舉 げ ら れ 、 官 は東 郡 の 范 令 に 至 る 。 父 の 宏 も 亦 た 州 郡 に 仕 ふ 。 ( 11) 城 は 、 亭 の 名 、 涿 郡 に 隷 つ く 。『 前 書 』 表 を 按 ず る に 、 貞   元 朔 二 年 を 以 て 封 ぜ ら る 。 而 る に 陳 壽 の『 蜀 書 』の 「 元 狩 六 年 」 に 作 る は 、 誤 り なり 。 此 の 類 の 若 き は皆   之を 刊 正 す 。 壽 は 「 封 亭 侯 」 と 云 ふ も 、 表 に 「 亭 」 の 字 無 し 。 ( 12) 志 は「 元 狩 六 年 封 貞 涿 縣 陸 城 亭 侯 」に 作 る 。 辨 は『 音 義 』 に 見 ゆ 。 ( 13) 烈   桓 帝 の 延 熙 四 年 に 生 ま れ 、 少 くし て 孤 、 母 と 履 を 販 り 席 を 織 り て 自 給 す 。 舍 の 東 南 に 桑 有 り 、 高 さ 五 丈 、 童 童 た る こ と 車 蓋 の 如 し 。 或 ひ と 當 に 貴 人 を 出 す べ し と 謂 ふ 。 昭 烈   諸 兒 と 桑 下 に 戲 れ て 曰 く 、「 吾   當 に 此 の ご と き 羽 葆 車 に 乘 る べ し 」 と 。 叔 父 の 子 敬   謂 ひ て 曰 く 、 「 妄 言 す る 毋 れ 、 吾 が 門 を 滅 ぼ さ ん 」 と 。 ( 14) 采 羽 を 合 聚 し 、 名 づ け て 葆 車 と 爲 す 。 上 に 羽 葆 を 建 つ れ ば 、 故 に 羽 葆 車 と 曰 ふ 。 ( 15) 十五 に し て 、 母   行 學 せ し め 、 同 宗 の 劉 德 然 ・ 遼 西 の 公孫 瓚 と 故 の 九 江 太 守 た る 同 郡 の 盧 植 に 師 事 す 。 德 然 の 父 の 元 起   其 の 貲 用 を給 す る こ と 德 然 と 等 し 。 元 起 の 妻   難 色 有 る も 、 元 起 曰 く 、「 吾 が 宗 に 此 の 兒 有 り 、 非 常 の 人 な り 」 と 。 而 し て 瓚 も 亦 た 與 に 友 善 す 。 昭 烈   甚 だ し く は 讀 書 を 樂 は ず 、 狗 馬 ・ 音 樂 ・ 美 し き 丰 儀 を 喜 この む 。 身 長 は 七 尺 五 寸 、 手 を 垂 る れ ば 膝 を 過 ぎ 、 顧 み れ ば 自 ら 其 の 耳 を 見 る 。 語 言 寡 く 、善 く 人 に 下 り 、喜 怒   色 に 形 あらは さ ず 、 好 み て 豪 俠 と 交 は り 、 年 少   爭 ひ て 之 に 附 す 。 中 山 の 大 賈 た る 張 世 平 ・ 蘇 雙 等 、貲 は 千 金 を 累 ぬ 。 見 て 之 を 異 と し 、 多 く 之 に 金 を 遺 り 、 故 を 以 て 其 の 衆 を 合 あつ む る を 得 た り 。 ( 16) 治 本 は 「 入 」。 ( 17) 帝 の 中 平 元 年 、 黄 巾 賊 の 帥 た る 張 角   魏 郡 に起 り 、 八 使 を遣は し 、 善 道 を假 り て 以 て 天 下 を 化 せ ん と し 、 陰 か に相   連 結 し 、 自 ら黄 天と 稱 し 、 三 十六 部 に 分か ち 、 部 ご と に 各 々 萬 人 、 一 時 に 倶 に 發 し 、 天 下   響 應 す 。 州 郡  

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各 々 義 兵 を 舉 ぐ 。 ( 18) ず る に 、陳 壽 の 『 志 』 と 『 後 漢 書 』 と は 皆 「 鉅 鹿 人 張 角 」 と 云 ふ も 、 而 れ ど も 孫 堅 傳 は 則 ち 「 張 角 起 魏 郡 」 と 云 ふ 。 蓋 し 角は 鉅 鹿 の 人と 雖 も 、 而 れ ど も 魏 に 起 る 。 魏 と 鉅 鹿 と は 隣 郡 爲 り 。 今   堅 傳 に 從 ふ 。 ( 19) 衲 本 に よ る 。 陳 乃 乾 に よ る 標 点 本『 三 國 志 』( 中 華 書 局 、 一 九 五 九 年 初 版 ) は 、「 萬 」 を 「 方 」 と す る 説 に 従 っ て い る 。 ( 20) 烈   其 の 屬 を 帥 ゐ 、 校 尉 の 鄒 靖 に從 ひ て 、 黄 巾 を 討 ち て 功 有 り 、 中 山 安 喜 尉 に 除 せ ら る 。 其 の 後   詔 有 り て 、 軍 功 も て 吏 と 爲 る 者 を 罷 免 し 、 昭 烈 も 亦 た 遣 中 に 在 り 。 之 を 頃 くし て 、 大 將 軍 の 何 進   都 尉 の 毌丘 毅 を 遣 は し て 兵 を 丹 陽 に募 ら し む 。 昭 烈   與 と 倶 も に 下 邳 に 至 る や 、 賊 に 遇 ひ 、 力 戰 し て 功 有 り 、 下 密 丞 に 除 せ ら る る も 、 復 た官 を 去 る 。 ( 21) 漢 書 』 地 理 志 八 上 注 に こ の 應 劭 の 説 が 引 か れ て い る 。 ( 22)   皮 。 故 もと は 東 海 縣 、 東 京 の 永 平 十 五 年 、 侯 國 と 爲 る 。 應 劭 曰 く 、「 邳 、 本 は 薛 に 在 り 、 其 の 後   此 に 徙 り 、 故 に 下 邳 と 曰 ふ 」 と 。 ( 23) は 膠 東 國 の 縣 。 東 京 に て は 北 海 國 に 隷 く 。 同 郡 に 高 密 有 る を 以 て 、 故 に 下 密 と 曰 ふ 。 ( 24) 平 の 末 、 京 師 に 至 る 。 會 々 董 卓 の 亂 に 、 義 兵   起 こ る 。 昭 烈 も 亦た 衆 を 聚 め て 卓 を 討 つ に 從 ふ 。 後 に 高 唐 令 と 爲 る 。 縣   賊 の 殘 す る 所 と 爲 る 。 往 き て 幽 州 の 公 孫 瓚 に奔 る 。 瓚   表 し て 別 部 司 馬 と 爲 し 、 青 州 刺 史 の 田 楷 と 與 に 冀 州 牧 の 袁 紹 を 拒 が し む 。 數 々 戰 功 有 り て 、 平 原 令 に 試 守 せ ら れ 、 竝 び に 平 原 相 を領 す 。 郡 人 の 劉 平   素 よ り 昭 烈 と 隙 有 り 、 之 が 下 と 爲 る を耻 ぢ て 、 客 と 結 び て 之 を 刺 さ し め ん と す る も 、 客   忍 び ず 、 之 に 語 り て 去 る 。 歳   大 い に饑 ゑ 、 民   苦し み て鈔 暴 す 。 昭 烈   外 に は 寇 難 を 禦 ぎ 、 内 に は貧 乏 を 振 ひ 、 士 の 至 る者 、 必 ず 與 に 席 を 同 じ くし て 坐 り 、 器 を 同 じ く し て食 ら ひ 、 衆   焉 に歸 す る も の 多 し 。 北 海 相 の 孔 融   都 昌 に屯 し 、 賊 た る管 亥 の 圍 む 所 と 爲 る や 、 太 史 慈 を 遣 は し て 來 た り て 急 を 告 げ し む 。 昭 烈 曰 く 、「 孔 北 海   世 間 に 劉 備 有 る を 知 る か 」 と 。 即 ち 精 兵 三 千 を 遣 は し て 之 に 赴 か し め 、 賊   尋 い で 解 散 す 。 袁 紹   公 孫 瓚 を 攻 め 、 昭 烈   田 楷 と 東 の か た 齊 に 屯 す 。 ( 25) 志 は 、「 竝 」 を 「 後 」 に 作 る 。 郝 書 に は 「 竝 」 の 字 無 し 。 舊   「 令 」 を 脱 ぬ く 。 案 ず る に 、 陳 ・ 郝 に は 皆   「 令 」 の 字 有 り 、『 音 義 』 も 亦 た 「 平 原 令 」 と 列 す 。 今   補 ふ 。 ( 26) 帝 の 初平 四年 、 曹 操   徐 州を 攻 め 、 陶 謙   使 を 遣 は し て 急 を 楷 に 告 げ し め 、 楷   昭 烈 と 之 を 救は ん と す 。 時 に 昭 烈   兵 千 餘 及 び 幽 州 の 烏 丸 雜胡 騎を 有 し 、 又   饑 民數 千 人を得 た り 。 既 に 至 る や 、 謙   丹 陽 兵 數 千 を 以 て 之 を

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益 す 。 昭 烈   遂 かく て 楷 を 去り て 謙 に 歸 す 。 謙   表し て 豫 州 刺 史 と 爲 し 、 小 沛 に 屯 せ し む 。 ( 27) 郡 有 る を 以 て 、 故 に 小 沛 と 曰 ふ 。 猶 ほ 槐 里 の 小 槐 里 、 弋 陽 の 小 弋 陽 の ご と し 。 昭 烈   師 を 喪 ひ 地 を 失 ふ と 雖 も 、 其 の 復 た 振 る ふ に 及ぶ や 、 未 だ嘗 て 小 沛 に 還 らずん ば あ ら ず 。 ( 28)   竝 び に 跳 行 せ ず 。 今   改 む 。 ( 29) 平 元 年 春 、 操   兵 を 引 き て 還 る 。 夏 、 操   復 た 荀 彧 ・ 程 昱 等 を 遣 は し て 豫 州 を 攻 め し め 、 昭 烈   彧 等 の 敗 る 所 と 爲 る 。 ( 30)   欲 。『 後 漢 書 』 に 傳 有 り と 雖 も 、 而 れ ど も 彧 は 専 ら 曹 氏 の 腹 心 爲 り て 、 漢 に代 は る を謀 る 者 なり 。 又   其 の 事 迹   皆   魏 に 見 あらは れ た れ ば 、 故 に 併 せ て 之 を 傳 す 。 ( 31) 志 魏 武 紀 を 案 ず る に 、「 荀 彧 ・ 程 昱 を し て 鄄 城 を 守 ら し め 、 復 た 陶 謙 を 征 す 」「 謙 の 將 た る 曹 豹   劉 備 と 與 に 郯 東 に 屯 し 、太 祖 を 要 むか ふ 。 太 祖   之 を 擊 破 す 」 と 。『 通 鑑 』 も 同 じ 。 此 れ 誤 り な り 。 傳 冩 の 淆 訛 す る に 非 ざ る を 以 て 、 之 に 仍 よ る 。 本 研 究 は、 J S P S 科 研 費 JP19K00114 の 助 成 を 受 け た ものである。       ( たなか   やすひこ・実践女子大学准教授/ いしい   ひとし・駒澤大学教授)

参照

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