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はじめに  1959 年 12 月,東南アジアなどの「低開発地 域」の産業開発への寄与と,日本輸出入銀行(以 下,輸銀)の投融資機能の補完を目的とした, 日本政府の全額出資による新たな金融機関の 設置が決定した.翌年 12 月には海外経済協力 基金法案が国会で可決され,1961 年 4 月に資 本金 54 億円をもって海外経済協力基金(以下, 基金)が設立された1).基金はその後,1966 年 か ら 直接借款業務 を 開始 し,プ ロ ジェク ト・ ローンなどを通じて,日本と途上国とを政治経 済的に結びつける中枢機関となる.  基金設置に関連する研究は,外交史と経済 史の二つの領域に存在する.外交史の領域で は,樋渡由美[1989]2),黒崎輝[2000]3),権 容奭[2000]4),[2008]5),保城広至[2001]6) [2008]7)な ど が 岸内閣時代 の 日米外交 に 注目 し,岸首相 の「東南 ア ジ ア 開発基金構想」に ついて,対米自主外交なのか,それとも協調 外交なのかを中心に議論を展開してきた.ま た,末廣昭[1995]8)は,岸首相による積極的 な対東南アジア政策のなかで,経済協力の枠 組みが整えられたことを指摘する.  経済史の領域においても,基金の設置は岸首 相による外交政策と強く結び付けて論じられて いる.たとえば,浅井良夫氏が執筆した『昭和 財政史』第 12 巻9),お よ び 寺村泰氏 の 執筆 に よ る『通商産業政策史』第 6 巻10)は,基金設 置の端緒を岸首相による 1957 年の「東南アジ ア開発基金構想」に求め,設置の経緯を簡単に 記述している.  他方,浅井良夫氏 は 2005 年 の 研究 で11),今 までの外交史の視点に対して,経済協力と日本 の輸出振興政策との関連に着目し,1957 年外 貨危機対策のなかで経済協力が推進され,その 結果,1958 年度予算に輸銀の特別勘定として 50 億円の「東南アジア開発協力基金」が計上 されたと指摘する.しかし,1959 年 12 月の設 置決定に至るまでの経緯 , また,その過程にお ける省庁間や経済界の利害関係は検討されてい ない .  『通商産業政策史』第 5 巻によると,通産省 は,1950 年代後半の通商政策の基調に輸出振 興の一手段,とくに資本財の輸出市場対策とし て,対外経済協力方針を重視していた12).した がって,経済協力を促進するために設置された 基金 は,1957 年 の 外貨危機対策,輸出振興政 策と緊密な関係にあると推定される.こうした 点は,従来の外交史研究では見落とされていた.  もちろん,基金の設立における,途上国開発 に協力し,共産主義の浸透を防衛するという政 治的動機を否定することはできない.しかし, 前述のように,当時経済協力が重視された背景 において,経済的動機が大きかったことを考 えると,基金の経済的意義は捨象すべきではな い.そこで,本稿の課題は,1950 年代のプラ ント輸出促進政策に着目しながら,基金設置の 経緯および経済的意義を考察することとする.  以上の課題にアプローチするために,以下の

海外経済協力基金の設置経緯

──プラント輸出促進の視点から──

湯     伊  心

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三つの分析視点を設定する.第一に,構想レベ ルに焦点を当てて,1950 年代後半における「海 外投資機関構想」から岸首相の「東南アジア開 発構想」まで,さらに基金設置決定に至るまで の経緯を詳細に分析する.第二に,以上の経緯 とプラント輸出振興政策との関連に着目する. 第三に,自民党,通産省,大蔵省,外務省を含 め て,日本経済団体連合会(以下,経団連), 日本機械工業連合会(以下,日機連)にも焦点 を当てる.この三つの分析視点を合わせて,基 金設置の経済的意義を考察し,さらに,その過 程における省庁間や経済界の利害対立などの動 的実態にまで踏み込んで検討したい.  資料について,今までは政府側に関する文献 を中心にして議論がなされたことに対して,本 稿では,通産・大蔵・外務省,経済企画庁,自 民党のそれぞれの資料を含め,さらに,機械工 業,経団連が発行した雑誌,団体史,社史など も緻密に調べて,課題接近に努める.周知のよ う に,日本 は 1970 年代以降,輸出主導型経済 構造のもと,重化学工業製品の輸出が躍進した. 本稿は,政府および経済界の動向に焦点を当て て,1950 年代 の 重機械輸出促進方針 の 一端 を 解明することによって,1970 年代以降の実績 の本格化の端緒をより理解することできると考 えられる. 一 機械輸出促進政策の新展開 1 海外投資促進による機械輸出市場の開拓 ⑴ 背 景  1950 年下半期に始まる朝鮮特需は日本経済 に大きな成長をもたらした.1952 年の消費景 気による輸入増にもかかわらず,特需ブーム によって国際収支の均衡は保たれた.しかし, 1953 年に入り,朝鮮戦争の休戦協定が結ばれ ると,輸出の停滞と輸入の増加により,国際収 支が悪化し,外貨危機が起きた.外貨危機の対 策として,引締め政策が実施され,輸出振興政 策が打ち出された.輸出第一主義のもと,プラ ント輸出振興政策の一環として,輸銀法改正, 重機械類技術相談室の設置,出血補償リンク制 度の創設などが実施された.1953 年の輸銀法 改正は,より長期,低利の信用供与を実現した (輸出貸付:原則 7.5% 以上→ 6.5% 以上,特例 4.5%~6.5%;償還期間:原則 3 年以内→ 5 年以 内,特例 5 年以内→ 10 年以内)13).また,貿易 に伴う海外投資事業について,輸銀から融資を 受けられるようになった.重機械類技術相談室 は,日本機械輸出組合が国庫補助を受け,運営 する機構である.インド,パキスタン,タイ, ビルマ,アルゼンチン,ブラジルといった海外 の必要箇所に技術者を常駐させ,重機械類関係 のサービス機能を確立し,プラントの輸出促進 を図ることを目的とする14).さらに,1954 年 2  (単位:百万ドル) 年 度 船 舶 その他プラント 合 計 輸出金額 対総額比 輸出金額 対総額比 輸出金額 対総額比 1953 年 14.8 26% 19.3 37% 34.1 31% 1954 年 91.1 58 37.9 58 129.0 58 合 計 105.9 49 57.2 49 163.1 49  注:対総額比は各品目の輸出承認額に対する比率.  出典:日本輸出入銀行『十年の歩み』1963 年,42 頁.原資料は通産省と精糖工業会の調べによる. 表 1 粗糖リンクによるプラント輸出承認実績

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月から始まった出血補償リンク制度は,プラン ト輸出の拡大に大きく貢献した.プラント輸出 承認額でみると,1953 年度は 1 億 9 百万ドル 中 31%,54 年度 は 2 億 22 百万 ド ル 中 58% が この制度によるものであった[表 1].しかし, この制度は外国からの非難を受け,10 月に廃 止されることになった15)  そこで,出血補償リンク制度に代わって新た なプラント輸出促進方法が模索されたのであ る.と く に,1955 年 の 化繊・衣類・鉄鋼・造 船・合板などの輸出好調により外貨事情は好 転し16),外貨運用方法として海外投資が注目さ れはじめた17).また,1954 年にビルマとの賠 償問題が解決し,賠償条約と同時に経済協力条 約が締結されたことは企業に海外進出の好機を もたらした.経団連,日機連は,途上国の工業 化における資源開発,工場建設は,プラントに 対する需要が拡大していくことに大きな期待を かけた.これらの事業に日本が加われば,プラ ント輸出,資源輸入が確保されると考え,1955 年から海外投資に対する政府の助成措置を求め た.具体的には,海外投資保険制度の新設,租 税優遇措置の制定,輸銀による海外投資金融の 改善などであった18)  経済界の主張に呼応して,通産省は 1956 年 7 月 26 日付の「昭和 32 年度予算に関連して当 省として主張すべき新規重要事項」において, 新政策の方向として,海外投資の促進による輸 出振興策を取上げ,そのための政府資金の確 保,調査活動・コンサルティング活動の展開, 投資保険制度の強化などを打ち出した19).また, 1956 年 9 月 10 日の「今後の通商産業施策の大 綱」に,プラント輸出不振の打開策として海外 投資を促進することを掲げた20).こうして,海 外投資による輸出振興という方策が注目される ようになった.そこで,政府の助成措置とし て,1956 年に輸出保険制度が改正され,海外 投資保険 が 新設 さ れ た(補填率 60%,保険料 率 1.5%).  また,プラント輸出振興に欠かせないコンサ ルティング体制は,1955 年に日本輸出プラン ト技術協会(1956 年 6 月に日本プラント協会 と改称)の設立によって整備された.同協会は, 政府から 2 億円の補助金を受け,重機械類技術 相談室を改組して,電気機械,産業機械,船舶 などのメーカーを中心に作られた機関である. 海外市場における工場建設計画等に調査団を派 遣し,必要なアドバイスを行い,また,設計見 積りなどコンサルティング業務を行うことを目 的とする21)  このように,1950 年代半ばから,途上国と の合弁事業に,プラント輸出促進の大きな期待 がかけられた.プラント輸出振興政策は,長期 的視点から企業の海外進出を促進するために, 金融,税制,保険,補助金などの制度まで拡大 されたのである.戦後の輸出振興政策における 新たな転換であった. ⑵ ウジミナス製鉄所計画  海外投資促進によるプラント輸出拡大への期 待は,1957 年のブラジルとの製鉄所合弁事業 として実現された.この事業は,機械と鉄鋼業 界が中心となって,経団連の主導もとで,日 本政府と協議しながら,ブラジルとの交渉が進 められた22).1957 年 4 月の閣議了解の後,政 府によるミナス製鉄所に対する支援声明が発表 され,6 月に日本側 40%,ブラジル側 60% の 出資比率で設立が合意され,協定が調印され た23).12 月,鉄鋼企業 7 社が 55%,機械企業 7 社が 44% の合同出資によって日本ウジミナス 株式会社が設立され,合弁事業が正式にスター トした24)  ミナス製鉄所は,日本の製鉄会社にとっての 直接的利益は大きくなかったが,製鉄所設備の 6 割近くの 1 億ドル余りが日本から調達された ことは,大きな意味をもった25).1 億ドルとい う金額は,1955 年の船舶を除くプラント輸出 認証額の約 7 千万ドルを上回る[表 2].また, 機械輸出のほかに,欧米からの調達については 日本商社を利用し,日本の海上保険や船会社も この事業に参加した26).日本が輸出優先,外貨

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確保第一主義を掲げた時代に,ミナス製鉄所の 貢献は大きかったと言える.  他方,ミナス製鉄所計画をめぐる政府の援助 方法は,大きな争点となった.政府が日本ウジ ミナス株式会社に対して直接出資するか,それ とも融資とするかが検討され,直接出資の場合 には,輸銀が機能を拡張して行うべきか,それ とも別の「海外投資機関」を設けて行うべきか という選択肢も議論された27).政府による直接 出資とは,政府が民間投資会社の株を取得し, 事業のコストとリスクを負担することである.  通産省,外務省,経団連の間では,「輸銀融 資分は,政府が輸銀を保証する方法を考えるも のとするが,将来別の海外投資機関が設立され た場合には,輸銀融資分はこれに肩代わりさせ るものとする」,また,日本側出資金の 3 分の 2 は政府が負担するという点で意見が一致した28) その後,石橋湛山通産大臣が記者会見で同様の 考え方を述べた29)  しかし,以上の経団連と通産省の方針は,大 蔵省の猛反対を招いた30).対立が約半年続いた 後,3 月末に大蔵省案が採用され,輸銀が投資 会社に対して,日本側出資額の 2 分の 1 を融資 することが決定された(証券担保で金利 4.5%, 期間 15 年).経団連としては,この決定に当然 不満であったが,日本側の国際的信用を保つた  (単位:千ドル) 年 度 船 舶 プラント一般         合 計 プラント (プラント 協会調) 鉄道 車両 自動車 電気機械 通信機械 繊維機械 その他 1953 56,968 52,577 22,737 3,955 568 20,657 4,660 109,545 3,986 1954 157,134 65,404 20,001 2,311 416 23,669 19,007 222,538 14,081 1955 439,072 73,330 33,856 9,400 3,604 232 11,247 14,991 512,402 6,007 1956 689,848 71,684 31,295 11,666 2,862 192 14,105 15,760 761,532 3,729 1957 302,016 56,002 22,129 7,292 5,088 1,614 4,206 15,673 358,018 22,509 1958 266,395 98,030 34,354 3,891 9,706 405 8,891 40,783 364,425 34,252 1959 122,930 134,692 5,916 49,674 18,239 1,091 26,421 33,351 257,622 26,072 1960 200,898 221,114 34,461 15,416 23,365 3,046 23,022 121,804 422,012 (116,677)158,860 1961 312,510 373,347 74,319 50,633 35,752 970 28,810 182,863 685,857 (45,839)145,983 1962 286,829 295,567 43,560 47,165 16,966 18,519 36,199 133,158 582,396 (482)68,719 1963 775,287 407,638 50,365 40,440 23,271 6,435 35,933 251,194 1,182,925 250,344 1964 584,625 445,687 16,038 47,630 46,738 11,622 26,466 297,193 1,030,312 (3,403)331,788  注 1:輸出認証額は,通商産業省「輸出認証統計」の中からプラント類だけを抽出したものである.集計の対象は 1 件 3 万ドル 以上のものであって,標準決済に属さないものだけを集計してある.「輸出認証統計」は,外国為替銀行が認証した輸出 申告書の写しを通商産業省に送付させ,同省でこれを集計したものである.(東洋経済新報社『昭和国勢総覧』上巻,東 洋経済新報社,1980 年,675 頁).  注 2:プラント協会調のプラントとは,プラント類に含まれた一件当たり受注総額 50 万ドル以上のものである.( )内はウジ ミナス製鉄所分.  出典:東洋経済新報社『昭和国勢総覧』上巻,東洋経済新報社,1980 年,651 頁 ; 日本プラント協会『日本プラント協会十年史』 1967 年,234 頁;重化学工業通信社重化学工業課『日本のプラント輸出戦略』1972 年度版,重化学工業通信社,2 頁よ り作成. 表 2 重機械類輸出認証額の推移

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め,大蔵省案を呑むこととなった31).他方,機 械輸出金融 に つ い て は,80% 協調融資率,金 利 4.25~4.5%,期間 14.5 年 と い う 有利 な 条件 で融資を受けられた32). 2 国策の「海外投資機関構想」 ⑴ 構想のきっかけ  ウジミナス製鉄所への政府支援方法をめぐっ て,新機関による出資方針が検討されたこと は,前節で述べた.この新機関とは,政府出資 による国策的な「海外投資機関」である.ウジ ミナスと同じように,当時の途上国との合弁事 業は,輸出促進の効果が大きいが,資本金の確 保,リスクのカバーなどの点で,多くの問題を 抱えていた.それを解決するために,政府機関 の設置が検討された.  従来の研究では,武田晴人氏がこの「海外投 資機関」設置構想を,アメリカの「ジョンスト ン構想」によって生れ,アメリカの構想に沿っ て展開しようとした対外経済協力構想であると 位置づけ33),最終的に 1957 年 5 月の輸銀法改 正に結実したと指摘している34).「海外投資機 関構想」はあくまでも構想レベルに止まってい るが,1950 年代の経済協力政策の一環として, それなりの意味をもつに違いない.本節はより 多くの資料を用いて,「海外投資機関構想」を 再検討する.  1956 年 2 月 29 日,アメリカ開発顧問団長と して来日中のジョンストンは東京商工会議所主 催の歓迎会において,東南アジア経済開発を推 進するため,アメリカの資金を用いた,日本主 導による金融機関の設立構想を発表した35).い わゆる「ジョンストン構想」である.この構想 はただちに注目され,翌日,一万田尚登蔵相は ジョンストンを招いて,かねてから考えていた 東南アジア地域開発専門の国際金融機関設立の 構想を説明した36).また,高碕達之助経済企画 庁長官も「東南アジア開発公社」構想を提案し た37).注意すべきことは,この二つの提案はい ずれもジョンストン演説に触発されたもので, アメリカなどの資金を用いて国際的な金融機関 を設立しようとするものである38)  他方,海外市場開拓策 と し て,1956 年 の は じめから経済企画庁が中心となって国策の「海 外投資機関」の設置が検討された39).この構想 に最も積極的に動き出したのは機械業界を代表 する日機連である.日機連は,輸出市場を確保 するためには海外投資の促進が必要という見地 から,資金源を確保するため,政府に積極的な 方針を求めた.日機連は海外投資対策懇談会を 設け,経済企画庁との懇談を行い,3 月の「海 外投資機関設置について」の要望では,正式に 全額政府出資による「海外投資機関」の設置を 要求した40).そして,経済企画庁は海外投資促 進対策として,事業の調査,事業会社への資本 金出資,貸付などを行うため,「海外投資機関」 を設置する方針を立てた41)  経団連も積極的に動き出し,この問題を検討 した.その結果,「国内の投資促進機関と国際 的機関と結びついて日本の対外投資を円滑な らしめることを併せて考える」42)という結論に 至った.すなわち,一万田蔵相,高碕企画長官 が提案した国際金融機関とともに,日本国内の 機関を設置するという構想である.通産省は, 新機関は海外投資金融,輸銀はプラント輸出金 融と位置づけ,両機関の分野を明確に分けて考 えていた43).自民党外交調査会も,新機関は民 間の海外投資を促進するための補完的な役割を 担い,民間で採算が乗りにくい事業を行うこと とし,出資・貸付・債務保証・技術協力などの 業務を検討した44).そして,この新機関の設置 を見込みつつ,ミナス製鉄所の計画の政府援助 の方法が検討された.  このように,「海外投資機関構想」が「ジョ ンストン構想」を受けて,議論されたことは確 かであるが,輸出振興,市場確保政策との関連 も 重要 で あ る.つ ま り,「海外投資機関構想」 は対米外交に限らず,むしろ国内の通商政策の 一環としての性格を強くもっていた.そのた め,機関が果たすべき役割として,次の二点

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が期待された.一つは,輸出市場確保対策とし て民間の海外投資を促進する役割である.もう 一つは,日本がアメリカの資金に頼らず,自力 で東南アジア経済開発に協力する役割である.  前者は主に,機械業界や経団連の働きを受 け,経済企画庁,通産省,自民党外交調査会が 考えたものであった.後者は,外務省の外交方 針として打ち出された.湯川盛夫外務省経済局 長は「東南アジア開発協力問題について,アメ リカへの依存は排すべき」との発言をし45),外 務省経済局は以下の文書において,「ジョンス トン構想」に基づく高碕構想とは別に日本独自 の国内機構として設置する意向を述べている46)  「東南アジア諸国の経済開発と産業発展を図 るためにわが国に強力な対外投資機関を設立す ることについては,広く米国その他各国の資本 を合わせ対外投資金融会社設立を計画する一万 田構想,エリック・ジョンストン構想の他,同 じく外資を期待するも差当たり賠償円滑実施の 部面を主とする高碕構想等が行われているが, 外務省としては時期の関係等もあり,最初から アメリカの資本に頼ることなく日本独自の計画 をたてるべきだと考え,日本輸出入銀行内に海 外投資部を設置するか,または同銀行の姉妹会 社として特殊法人を設立してこの仕事に当たら しめるのが妥当であり,高碕構想のごとく米国 等との合弁により投資会社が設立された場合に は,これとの協力関係を設定することが時宜に 適していると考え経済企画庁とも連絡検討を進 めている」.(傍線引用者)  「海外投資機関」の設置は,あくまで構想段 階に止っているが,その構想は二つの契機に よって生まれ,さらに二つの役割が想定された ことは注目すべきである.これらは,基金設置 の過程でも議論され,基金を理解するための重 要な前提となる. ⑵ 構想断念の理由  「海外投資機関」設置の検討が進むにつれ, 経団連では意見の対立が表面化した.輸銀の規 定では,海外の合弁事業の株式を直接保有でき ず,またリスクが高くて輸銀の金融ベースに乗 らないものがあるので,別個に投資機関の設立 が必要であるといった賛成意見に対して,消極 的な意見も出された.消極派は,国策機関の設 置は,民間投資と競合して海外投資を妨げるこ とになるので,まずは保険や税制などの制度改善 によって民間投資を促進すべきだと主張した47)  経済界の意見を調整するため,経団連は複雑 な立場に置かれた.輸出や海外進出を促進する に当たって,資金源の確保,リスクの回避は企 業にとって自力で解決できない問題である.し たがって,政府による強力な援助体制が不可欠 だ.しかし,東南アジア諸国の民族感情を考え ると,政府による海外投資は,政治的進出とい う誤解を相手国に抱かせる恐れがあった.また, 経団連には,政府主導による海外投資が,民間 企業の商業ベースの投資に制約を与えることへ の不安もあった48).前後 8 回にわたって意見を 調整した結果,6 月 25 日の委員会では,海外 投資は商業ベースを基本原則とし,国家資金を 投入するような独自機関の設置には反対すると いった内容の要望書が作成された49)  しかし,注意すべきことは,経団連が商業 ベースに乗る事業と乗らない事業を分けて建 議したことである.商業ベースに乗る案件に 対 し て は,設備等輸出為替損失補償,海外投 資保険,輸銀の金融業務の改善拡充などを要求 したが,他方,商業ベースに乗らない案件に対 しては,国策の「海外投資機関」に代わって, 官民合同の投資審査機関の設置を提案した50) この官民合同の審査会は,商業採算に乗らない 事業を審議し,政府の援助措置を決定する.さ らに日本の海外投資政策を総合的に立案するこ とも審査会の目的とされた51).すなわち,賛成 派の意見を取り入れた形で,国策の「海外投資 機関」の代替案として,官民合同の審査会の設 置を提唱したのである.審査会であれば,相手 国の警戒を和らげ,また民間人参加によって,

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政府の過大な介入を回避することもできると経 団連は考えた.  国策 の「海外投資機関」設置 に つ い て,そ の 後,高碕達之助経済企画庁長官 は,戦前 の 満州国開発会社の二の舞となり,相手国に誤 解を与えることを恐れ,乗気薄な態度を示し 始めた52).7 月には通産省も新しい機関の設立 に固執しないと発表し,「海外投資機関」の代 わりに審査機関を設立するという財界の提案 に対して,「審査は政府の責任でやるべきこと なので特につくる必要がない」とした53) ⑶ 助成策の拡充改善  機関設置が断念された後,市場確保のための 助成策は輸銀法の改正およびその他の保証制度 の改善拡充に絞られた.経団連は,1956 年 11 月に「現行海外投資保険制度の改正に関する要 望意見」,翌 1957 年 1 月に「日本輸出入銀行法 ならびにその運用の改正に関する要望意見」を それぞれ提出した54).そして,5 月に輸銀法の 大幅な改正が行われた.輸銀法改正によって, 海外投資金融業務 の 拡大,海外事業金融 の 拡 充,技術提供金融の拡充,外国政府に対する開 発事業金融の新設,貸付金利の引下げ(輸出: 特例 4.5%~6.5% → 4.0%~7.0%;海外投資:原 則 6.5% 以上,特例 4.5%~6.5% → 4.5% 以上), 償還期限の延長(輸出:特例 10 年以内→ 15 年 以内;海外投資:特例 15 年以内→ 20 年以内) など海外経済協力に対する金融面の態勢は大幅 に整備された55).また,海外投資保険制度の改 善,海外投資利益送金保険の新設も実施された. 3 経団連の意向の変化  しかし,以上のような一連の改正に対する経 済界の不満は大きかった.それは,同年 11 月 に経団連が行った各業界の「対外経済協力の促 進策に関する要望調査」にはっきりと現れてい る56).たとえば,海外投資保険制度の補填率が 低率に過ぎること,保険料率が高いこと,担保 される危険範囲が狭いこと,輸銀の協調融資比 率および融資金利と償還期間などに対する批判 が 強 かった.実際,経団連 は,海外投資保険 制度改正 に つ い て,補填率 90% 以上,保険料 率 0.5% 以内を要求したのに対して,実現した 内容は,補填率が 60% から 75% に引上げ,保 険料率の 1.5% から 1.25% への引下げに過ぎな かった57).同様に,新設された海外投資利益送 金保険制度も,補填率 90% 以上,保険料率 0.5% 以内という経済界の要望からかけ離れた,補填 率 75%,保険料率 1.25% と い う 基準 が 設 け ら れた.また,保険事由について,従来の「非常 危険の範囲は,戦争・革命・内乱等」を拡大し, 「暴動・騒擾・投資相手企業に対する当該国政 府等の差別的行為,利益供与の保証の不履行等 の不当行為」をも保険事由の構成要件に加える べきだと経団連が主張したが58),これに対し て「暴動また騒乱」のみが加えられたに止まっ た59)  さらに,輸銀法改正において,経団連が要求 した直接出資機能の拡張は大蔵省の反対により 実現されず60),また,通産省と経団連が考案し た長期貸付保険制度の新設も(相手国企業に対 する社債・貸付金債権取得にかかわる信用危険 を補償する制度),大蔵省と折衝した結果見送 られた61)  このように,金融,保険などの制度が改善拡 充された後も,依然として企業にとって,重要 な資金確保,コストとリスクの問題が残されて おり,実際の運用上でも効用が少なかったと言 わざるをえない.他方,政情が不安定な途上国 への経済進出は,民間投資の危険度が高いので, 国家的保障を与える措置が不可欠である.その ため,商業ベースに乗ることと,乗らないこと の判断は難しくなる.民間ベースによる海外投 資を手段として輸出を振興するには限界がある と経済界は認識しはじめた.  すでに 1957 年のはじめ頃には,経団連では, 途上国への投資のリスクを認識し,政府の後押 しが必要であること,また輸銀による直接出資 ができないことなどをあげ,輸銀とは別に,政 府の投資機関を設置することに同調する意見

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が強まっていた62).1958 年 1 月に経団連が新 たな要望書を提出し,1956 年に商業ベースを 強調したのとは対照的に,商業ベースの再検討 を主張した.また,商業ベース再検討や対外経 済協力の認許可を審議決定する場として,官民 合同による海外経済協力審議会の設置を要求し た.つまり,前回の商業ベースに乗る事業を前 提にした考えとは異なって,今回は,商業ベー スに乗らないものを念頭に置き,より一層強力 な助成措置の必要性を強調したのである.具体 的には,輸銀に対して資本金量の確保,輸銀融 資比率の引上げ,金利の引下げ,融資期間,据 置期間の延長,審査手続きの簡素化を要求した. また,租税,保険,現地調査の補助を含めて, 円クレジット供与の推進など広範にわたる政府 の補助体制の確立を求めた63).さらに,後述す る岸構想を契機とした予算が計上された直後, 経団連は日本単独でも投資機関を設置するべき だと唱えた64)  経団連の意向が変わった背後には,一つは, 以上述べたような民間ベースの海外投資を手段 に輸出振興を図ることの難しさ,もう一つは, 1957 年下半期から日本経済が大きな変動に直 面したことがあった.次章では,この第二点目 について詳しく論じる. 二 1950 年代後半のプラント輸出振興措置 1 経済協力促進によるプラント輸出振興  1955 から 56 年にかけての神武景気のなか, 国内投資ブームの進展に伴って輸入が増加し, また,輸出の伸び悩みが表面化し,1957 年に 入ってから,国際収支の悪化と外貨の減少が生 じた.重機械輸出において,とくに船舶は輸出 ブームの終了に伴い,輸出認証額が 1956 年の 689,848 千ドルから 1957 年の 302,016 千ドルま で半減し,その他の重機械類も 71,684 千ドル から 56,002 千ドルまで落ち込んだ[表 2].そ こで,外貨危機,輸出不振を打開するために, 輸出振興政策をさらに拡張し,経済協力の促進 方策が重視されるようになったのである.  1957 年 5 月,通産省 は「新政策樹立 に 際 し て検討すべき事項」を作成し,対外関係の項目 に,輸出振興と経済協力の推進を二本の柱とし て取上げた65).経済協力を重視した点は,前年 に検討されたプラント類の輸出振興のための海 外投資の促進をさらに展開したものである66) 7 月に通産省は輸出振興策を決定し,輸出保険 の改善,輸出税制の優遇,輸出手続きの簡素化, 輸出金融の優遇を掲げたほか,経済協力の促進 策について,輸出クレジットの推進,およびコ ンサルティングや技術協力を中心とした輸出振 興予算の拡大などの方策が盛り込まれた67).12 月,経済閣僚懇談会は輸出振興重点施策を決定 し,産業政策の重点を輸出振興に集中するため に,海外新市場の開拓,輸出取引秩序の確立, 重化学工業製品の輸出振興などを列挙した68) 経団連と日機連もそれぞれ輸出振興措置として 経済協力の促進を取り上げ,政府による推進策 を要求した.日機連は,延払・円クレジット・ 海外投資における資金源の確保,融資条件の改 善,保険制度の充実などの諸対策の実現を求め た69)  1957 年の外貨危機の対策として緊縮政策が とられたため,翌 58 年に景気の停滞が続いた. 通産省 は,1958 年 5 月 に「新政策樹立 に 際 し 検討すべき事項」として,輸出振興,経済協力 の推進,産業基礎の強化と産業体制の確立,中 小企業の振興,産業技術の振興の 5 つの項目を あげた70).輸出振興政策の重点は,延払輸出の 拡大ないし円クレジット供与の積極化といった 面に置かれ,それによって,通産省は東南アジ アを中心とする「後進国」市場の確保に全力を 挙げて取り組もうとした.すなわち,長期化が 予想される過剰生産不況のもと,国内の過剰生 産能力のはけ口を海外,とくに「後進国」の市 場に求めようとするもので,そのため輸出代金 の延払条件の緩和,クレジット供与などを促進 しようとしたのである71).そして,経済協力に おける資本協力態勢の整備,技術協力態勢の強 化,コンサルティング業務の強化などの一連の

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政策が検討された72)  1958 年春以降,輸出の不振が目立ってきた. 6 月から 9 月に輸出振興策が検討された73).7 月に通産省が作成した「輸出振興対策」にも, 経済協力の促進策として,①海外事業(直接投 資)の促進,②国際的なアジア開発基金の設 立,③国際協力による開発計画への参加,④円 クレジットの拡大(機械類だけではなくセメン ト,鋼材などの生産資材にも拡大),⑤延払方 式の積極的活用,⑥賠償の弾力的運用(消費財 も賠償指定品種として認める)などが掲げられ た74)  通産省が円クレジットの積極的拡大を目指し た背景には,1958 年 2 月に日本がインドとの 間に円借款が成立したことによる影響が大き い.当時の借款対象品目はプラント類に限定 され,重機械輸出拡大に大きく貢献した75).ま た,この時期に造船メーカーの不況対策として 陸上部門への本格的な進出がはじまった.原動 機,産業機械を中心に多角経営が展開されたこ とも,機械業界が海外市場を強力に求める一因 となった76).さらに,表 3 でみるように,1958 年に機械工業の新規受注が大幅に縮小したこと は,景気停滞に対する危機感を強めた.このよ うな一連の動きは,通産省の経済協力,円借款 の拡大によるプラント輸出振興志向を強く促し た. 2 プラント輸出振興政策について  1957 年下半期からプラント輸出振興措置は 税制,保険を中心に実施された.1957 年には, 輸出所得控除制度の控除率の引上げ(プラント 輸出 5% → 7.5%),輸出代金保険の料率の引下 げ(約 2 割),設備等輸出為替損失補償制度 の 契約締結限度額は従来の 200 億円から 450 億円 へ拡大が行われた.1958 年には,普通輸出保 険 の 料率 の 引上 げ(平均 12%)と 担保危険 の 明確化,延払輸出承認手続きの簡素化などが実 施された.さらに 1959 年にはプラント建設工 事に対する危険補償制度が新設された77).以上 の措置はもちろんプラント輸出拡大にインセン ティブを与えたが,しかし,日本製品の価格の 割高,需要国における日本技術への認識不足, 支払条件をめぐる国際競争の激化のなかで,こ れらの措置は十分な効果を発揮したとはいい難 い.  たとえば,延払条件が厳しかったことなどの ために,当時プラント輸出引合件数の 90~95% は成約に至らなかった78).また,表 4 で示して いるように,日本のプラント製品は他の先進諸 国より,約 2 割以上の割高となっていた.国際 市場における価格格差を補うために,当面の措 置としては,やはり金融面からの補助の拡充 が,プラント輸出拡大における重要な決め手と なる.すなわち,より緩和された条件での貸付, (単位:百万円) 年 度 原動機 重電機 通信機械 産業機械 工作機械 鉄道車両 船 舶 合 計 1953 35,710 62,640 21,035 66,549 2,539 20,045 49,586 258,109 1954 28,447 54,453 21,092 61,198 1,899 19,590 68,496 255,180 1955 38,197 55,458 17,379 70,680 1,903 20,854 165,979 370,450 1956 92,698 116,356 27,495 149,454 6,800 28,559 283,440 704,802 1957 111,635 160,112 34,612 155,813 8,230 44,567 218,040 733,009 1958 71,558 95,668 42,468 111,626 5,983 37,791 91,077 456,171 1959 99,084 155,678 52,776 209,700 17,119 40,076 84,356 658,789 1960 174,599 227,287 68,453 287,853 31,161 54,479 129,595 973,427  出典:通商産業大臣官房調査統計部編『機械統計年報』各年度版より作成. 表 3 機械類の機種別新規受注額の推移

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出資,円クレジットなどの長期信用は,企業の リスクとコストをカバーすることができる.そ のため,企業の利潤増に直接的に結びつき,商 品価格の低下にも効果がある.そこで,商業ベー スを無視してまでも,途上国の開発事業への参 加,円借款拡大などによるプラント輸出市場を 開拓することは,当面の重要な課題となる.そ れを促進するために,より充実した金融面の体 制整備が必要であった. 3 輸銀の限界  通産省,経団連などが主張した経済協力の拡 大による輸出振興策に対して,大蔵省は慎重な 態度を示した.とくに,円クレジット拡大に対 して,大蔵省は,①日本の外貨準備の状況,② 日本の生産力,③輸銀の資金ワクの三点が円ク レジット総額を制約していると指摘し,このう ち,①②については差当たり大きな制約はない が,輸銀の資金ワクの面ではかなり制約が大き いので,これ以上大幅なクレジット供与をする ことは日本の国力からみて不可能であると主張 した79).さらに,経済企画庁も,「わが国の海 外投資,対外信用供与,賠償等の供与余力につ いて」と題する資料のなかで,当面は輸銀の 資金確保がもっとも大きな問題であると指摘し た.輸銀の資金確保の問題が対外投資や信用供 与を規制する限界となるとの結論をづけた80)  1952 年から業務が始められた輸銀は,1959 年にその貸付残高が 943 億円に達し,設立以来 の最高を記録した[表 5].その頃から輸銀の 業務は急速に発展した.このような変化は,対 印円借款,アラスカ・パルプ,ウジミナス製鉄 所,アラビア石油に対する投融資によるもので あった.他方,貸付残高の急増により,輸銀に とって 資金源確保 が 緊急問題 と なった.同 じ く表 5 に示しているように,輸銀の所要資金は 1954 年以降,年々 50 億円,210 億円,143 億円, 20 億円の追加供給が行われてきたが,1959 年 度の所要額 280 億円は従来の水準より大きく上 回った.そしてこの年を起点に,輸銀追加資金 が急増し,とくに借入額の上昇幅が目立つ.輸 銀が政府から資金を借入れられるようになっ たのは,1952 年の法改正以降である.当初は, 資金の借入額と債務保証の現在額との合計額は 自己資本(資本金と準備金との合計額)を超え てはならないものとされた81).1957 年の法改 正で,借入金の限度額を自己資本の 2 倍に拡大 した.それによって,輸銀は借入資金を,大幅 機 種 仕向国 日本との価格比(日本= 100) 入札年月 変圧器 インド 80(イタリア) 89(アメリカ,ベルギー) 1958 年 12 月 W/W Generater ブラジル 92(西ドイツ) 1959 年 2 月 タービン及びタービン発電機 インド 68(イタリア)79(西ドイツ) 1959 年 5 月 変圧器 インド 75(イタリア) 81(イギリス) 1959 年 6 月 Crane ブラジル 77(不明) 1958 年 11 月   インド 86(不明) 1959 年 1 月   アラビア連合 78(不明) 1959 年 1 月 Gate タイ 82(不明) 1959 年 7 月 Dredger アラビア連合 89(不明) 1959 年 2 月 SwitchGear インド 80(イタリア) 86.5(西ドイツ) 1958 年 12 月 製糖プラント パキスタン 80(西ドイツ) 1959 年 6 月  出典:通商産業省重工業局『日本の機械工業─その成長と構造─ Ⅰ総論』機械工業振興協会,1960 年,288 頁.原資料は  通産省重工業局資料による. 表 4 プラント国際入札価格の比較

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 (単位:億円) 年 度 出資額 借入額 合 計 新規貸付金 貸付残高 1950 50 ─ 50 11 11 1951 120 ─ 120 86 70 1952 40 ─ 40 83 56 1953 ─ 30 30 127 94 1954 ─ 50 50 287 247 1955 130 80 210 451 448 1956 48 95 143 586 636 1957 ─ 20 20 587 638 1958 ─ 35 35 471 660 1959 60 220 280 648 943 1960 135 386 521 844 1,404 1961 200 450 650 1,036 1,986 1962 200 480 680 1,086 2,610 1963 260 630 890 1,484 3,426 1964 225 957 1,182 1,979 4,435  出典:日本輸出入銀行『二十年の歩み』1971 年,358─359 頁. 表 5 輸銀の追加資金および貸付の推移  (単位:億円) 年 度 (資本金+準備金)自己資本 借入金 産投会計 借入金 資金運用部 借入金 1953 213 30 30 ─ 1954 216 80 30 50 1955 347 160 30 130 1956 398 252 27 225 1957 401 263 18 245 1958 404 281 12 269 1959 467 464 6 458 1960 602 789 ─ 789 1961 802 1,174 ─ 1,174 1962 1,002 1,595 ─ 1,595 1963 1,262 2,120 ─ 2,120 1964 1,487 2,914 ─ 2,914  出典:日本輸出入銀行『三十年の歩み』1983 年,412─413 頁より作成. 表 6 輸銀の資金調達状況

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に増やすことが可能となった82)  留意すべきことは,表 6 に示されているよう に,借入金のほとんどが,大蔵省理財局管理下 にある資金運用部から融資されていたことで ある.資金運用部の年金利は 6.5% である.他 方,輸銀の貸出金利は輸出が年 4.0~7.0%,海 外投資が年 4.5% 以上と設定している.すなわ ち,通常輸出金融年 4%,投資金融年 4.5% で 融 資を行う場合に,逆鞘が生じる83).つまり,資 金運用部からの借入により不足資金を補うには 限度がある.輸銀にとって,貸出予定額が一定 限度をこえることとなれば,どうしても無利子 の出資金が必要となる.とくに,1958 年に次年 度予算計画作成にあたって,輸銀における国策 的案件への融資額は,1957 年度 40 億円,1958 年度 190 億円,1959 年度 430 億円の見込みと激 増し,出資金の確保が重要な問題となった84) そこで,輸銀は 1959 年度の予算について,大 蔵省に 370 億円の出資,246 億円の融資,合計 616 億円の追加額を要求した.しかし,それが 大蔵省の批判を招き,結果的に,1959 年度の 予算案の再査定が行われた85)  以上 の よ う に,1959 年 は 輸銀 が 設立以来, 事業発展における大きな転換点であった.その 転換にあたって,輸銀の資金枠,コスト状況悪 化への懸念が高まった.そして,この問題は, 通産省の経済協力促進によるプラント輸出振興 方針に反対する根拠となった.そこで,輸銀の 限界を打開し,とくに出資金を確保する方法と して,新機関の設置が注目されたのである.  資本金問題以外に,当時輸銀業務について以 下二つの特徴がみられる.第一に,輸銀の輸出 金融が船舶輸出に大きく影響されていることで ある.表 7 で輸銀の業種別業務をみると,1954 年から 58 年まで,輸銀資金の大部分は船舶融 資に向けられ,一般機械や重電機などのプラン ト類への金融助成は十分とはいえない.第二に, 市場確保のため海外投資への支援は決して広範 に展開されたわけではない.1957 年から 60 年 まで輸銀の海外投資金融総額の 47% はアラス カ・パルプ,27% はアラビア石油であったた め,両事業だけで海外投資金融の 7 割以上を占  (単位:百万円,%) 年 度 輸出計 輸 入 投 資 直接借款 合 計 船 舶 プラント 1953 17,973(99) 7,393(41) 10,580(59) 86(0) 176(1) 0(0) 18,235(100) 1954 35,719(100) 22,066(62) 13,653(38) 0(0) 63(0) 0(0) 35,782(100) 1955 60,320(98) 49,259(82) 11,061(18) 0(0) 958(2) 0(0) 61,278(100) 1956 57,372(99) 44,819(78) 12,553(22) 44(0) 669(1) 0(0) 58,085(100) 1957 46,673(82) 38,023(81) 8,650(19) 737(1) 9,475(17) 0(0) 56,885(100) 1958 42,663(98) 28,827(68) 13,836(32) 272(0) 391(1) 374(1) 43,700(100) 1959 55,578(80) 30,088(54) 25,490(46) 1,528(2) 7,657(11) 4,999(7) 69,762(100) 1960 79,826(78) 42,629(53) 37,197(47) 187(0) 8,009(8) 14,184(14) 102,206(100) 1961 95,592(67) 46,531(49) 49,061(51) 2,752(2) 13,008(9) 30,694(22) 142,046(100) 1962 87,495(84) 55,380(63) 32,115(37) 488(1) 2,442(2) 13,853(13) 104,278(100) 1963 151,553(79) 98,460(65) 53,093(35) 499(0) 7,264(4) 31,680(17) 190,996(100) 1964 177,252(81) 127,515(72) 49,737(28) 105(0) 13,955(6) 28,696(13) 220,008(100)  注:( )内は構成比.  出典:日本輸出入銀行『二十年の歩み』1971 年,362─365 頁より作成. 表 7 輸銀年度別・融資承諾額の推移

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めていた86).その原因は輸銀の融資案件の厳選 体制からくるものと考えられる.それに対する 経済界の不満もかなり強かった87) 三 海外経済協力基金設置の意義 1 基金の設置 ⑴ 東南アジア開発基金構想による 50 億円予 算の確保  1957 年 2 月に首相となった岸信介は,熱烈 な反共主義者として知られる.共産圏に対抗す るため,1957 年 5 月,岸は,アメリカの資金, 日本の技術,東南アジアの資源を結びつけて, 国際的な金融機構,「東南アジア開発基金構想」 を提唱した.岸構想に対して,アメリカが積極 的な態度を示さなかったため,日本側は苦慮し た88).岸首相の二回目の東南アジア歴訪に向け て,対外信用を考慮し,11 月に藤山愛一郎外相 は来年度予算に 54 億円(1 千 500 万ドル)を要 求,円資金だけで発足することを決意した89) 翌 12 月,自民党は政調副会長会議で 1958 年度 の予算案にアジア経済協力基金 50 億円を留保 財源の内から出すことを決めた90).予算の使途 に つ い て,外務省,通産省,大蔵省 が そ れ ぞ れの意見で対立したが,1958 年 2 月の閣議で, 50 億円はタナアゲ方式として,将来国際機構 に出資する方針が決定された91) ⑵ 50 億円予算の使途  1958 年 に 輸出振興政策 が 検討 さ れ る な か, 50 億円の運営について,8 月に通産省は日本の 余剰物資を輸出し,現地の開発事業に参加する などを目的とする「東南ア貿易振興会社」構想 を打ち出した92).他方,外務省は「アジア開発 基金構想」を立てたが,50 億円の使途に明確 な方針がなかった93).それらに対して,大蔵省 は 50 億円を取り崩すことなく,将来国際機構 に出資する意見を固持した.  膠着状態のなかで,自民党が動き出し,1959 年 7 月,「対外経済協力特別委員会」を設置し, 一万田尚登が委員長として就任後ただちに経団 連に協力を求めた94).それを受け,9 月に日機 連は「海外投資機関の設置に関する要望」を発 表した.ここにおいて,1956 年にいったん終止 符が打たれた「海外投資機関」の設置構想が, 正式に復活したのである.その背景には,プラ ント輸出の拡大に伴い,相手国から投資の要 請があり,機械輸出の方法が多様化したことが あげられる.具体的には,①プラント類の輸出 に伴い,その輸出総額のある程度の部分を株式 で持つことが条件とされたこと,②機械工業に 直接関連する海外投資の形態として,比較的大 規模な工場施設を引受ける場合に先方から合弁 の要請があったこと,③相手国の輸入制限のた め,生産工場設置や企業の進出が図られたこ と,④電力,運輸,化学工業に関するプラント 輸出の場合,そ れ ら 工場 の 生産品(電力,運 輸,化学工業製品 な ど)の 売上代金 の 一部 に よってプラント代金の支払を賄うこととされ たため,支払期間が長期になるなどの事態が 生じた95).とくに,1959 年 4 月から 12 月まで の間に,プラント輸出に伴う投資要求額は 13 件 52,750 千ドル(約 190 億円)にのぼり,機械 業界は資金調達に苦慮した96).他方,唯一の金 融補助機関である輸銀は商業ベースに乗ること を基準に厳選体制をとっていたため,経済界の 不満が高まり,「海外投資機関構想」が再び台 頭したのである97)  以上の事態を受け,通産省は 10 月にプラン ト輸出振興策の一環として,メーカーの資金負 担を解決するために新機関の設置を考えた98) 通産省は,国内余剰生産物を供給し,円建てで 返済することをもって,プラントメーカーに融 資を行うことを視野に「海外経済協力会社案」 を立てた.会社の資金は,初年度が政府出資 100 億円を予定し,その後毎年 100 億円を支出 し,合計 500 億円にすると計画した99).また, 具体的な業務は,①国内余剰生産物を現地通貨 建てで輸出,②長期低利クレジットの設定,③ 輸銀ベースに乗らない事業に特別の貸し付け条 件で投資資金などを貸し付けることである100)  経団連は自民党からの要請を受け,7 月から

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11 月 の 間 に,外務省,通産省,大蔵省,自民 党対外経済協力特別委員会とそれぞれ懇談会を 開き,50 億円の運用や経済協力方針について 検討した101).11 月に経団連は「対外経済協力 政策の確立に関する要望意見」を作成した.要 望書では,民間人参加の対外経済協力促進会議 の設置を第一項目に掲げ,機関の設置について, 「東南ア諸国等から輸銀の金融ベースにのらぬ 対日協力を要請されるケースが増加しつつある 情勢にかんがみ,これら諸国の経済開発への協 力を一段と推進するため,とくに長期・低利の 融資業務のほか,国内過剰消費財の提供による 現地通貨の積立活用の方法をも併せもつ専門の 開発協力機関を,速やかに政府資金をもって設 置すること.また,この経済開発協力機関は, 上記の経済協力促進会議において国策上とくに 必要と認める場合に限って,国内の投資会社や 相手国との合弁企業にも直接出資ができる途を 開いておく」などの要求が記された102).つま り,途上国への経済進出の困難さに直面するな かで,1958 年の商業ベース再検討をさらに進 め,金融ベースに乗らないものを前提に,補助 機関の設置を求めたのである.その要望書は, 事前に自民党委員会の了承を得て,政府各局に 提出した.  自民党は新機関の資本金を 200 億円とし,そ の半分を民間出資とすることを非公式に経団連 に打診した.経団連は,新機関の性格は,輸銀 ベースに乗らない投融資を対象とするものであ り,政府全額出資とする意見を堅持した.そこ で,自民党は,通産・大蔵省と折衝した結果, 財源上の制約により,タナアゲのまま具体化を 見なかった東南アジア開発協力基金などを初年 度払い込みに充てることになった103)  以上の経緯を経て,12 月 18 日に自民党は経 済協力案を決定した.新機関設置ついては,① 輸銀の投融資業務の補完的な機関を設置する, ②新機構は公法人の性格をもつ特別基金とし, 1,2 年中に財政支出 200 億円(さしあたり 1960 年度は 100 億円)を期待する,③ 1960 年度の 財政支出のうち 50 億円は東南アジア開発協力 基金により,あとは一般財源によるといった方 針が,自民党政策審議会で了承をえた.業務内 容については通産省案に沿って検討していくこ ととなった104)  自民党,通産省,経団連,機械業界の圧力に 対して,大蔵省は譲歩を余儀なくされた.1959 年 12 月,各省が輸銀の投融資業務を補完する 新機関の設置に合意し105),経団連が要望した 対外経済協力審議会 も,1960 年 2 月 に 設置準 備が整えられた106) 2 基金設置の意義 ⑴ プラント輸出振興   1950 年代の日本のプラント輸出振興政策は, 三段階の展開がみられた.第一期(1953~55 年) には,1953 年の外貨危機以降,金融,租税,保険, 市場開拓などの政策が行われた.たとえば,輸 銀法改正により輸出貸付条件が緩和された.補 助金政策としての出血リンク制度が実施され, さらに,重機械類技術相談室の改組によって, 日本プラント協会が設立された.また,官民協 力を増進するために輸出会議もつくられた.こ れらの政策はその後の輸出振興方針の基礎と なった.  第二期(1955~57 年)に は,以上 の 政策 を 補完するため,海外投資の促進が重視された. 長期的な視点から日本の機械製品の市場を開拓 することは,戦後プラント輸出振興政策におけ る新たな展開であった.その資本金およびリス クを保証するため,国策の「海外投資機関」の 設置が検討されたが,最終的に,輸銀法改正に よる業務拡充,海外投資保険制度の改善,海外 投資利益保険の新設などの政策によって助成が 図られた.  第三期(1957~60 年)には,1957 年からの 外貨危機,輸出不振のなか,プラント輸出振興 政策の一方策として,経済協力の促進が重視さ れた.この動きは,1960 年代の日本の輸出振 興政策,経済協力方針の土台を作り出した.民

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間ベースの海外投資によるプラント輸出拡大方 針は,政治経済不安定な途上国への経済進出の 困難に直面し,行き詰まりの状態となった.そ れを打開するために,政府による強力な助成措 置が検討された.輸銀による経済協力の業務拡 大の見込みが立たないため,最終的に,輸銀投 融資業務を補完するための新機関が設置された のである.  基金設置は,輸銀ベースに乗らない事業に対 して,融資の道を開いた.また,貸付金利は輸 銀より緩和された条件で,年 4.0~6.5%,償還 期間は 20 年以下に設定された(輸銀の輸出金 利 4.0~7.0%,償還期間 5~15 年,海外投資金 利 4.5%,償還期間 10~20 年)107)  輸銀との違いについて,さらに,以下の二点 に注目すべきである.第一に,輸銀の資金調達 においては資金運用部からの借入金が出資金を 上回ったのに対して[表 6],基金の原資は一 般会計からの出資によって賄われる108).1965 年の基金法改正によって,借入も可能となった が,表 8 に示すように,1960 年代は一般会計 からの出資が中心であった.つまり,出資金確 保によって,資金コストが低くおさえられ,輸 銀より緩和された条件で長期信用を行う条件が 作り出された.第二に,輸銀は大蔵省の監督下 におかれているのに対し,基金の監督官庁は経 済企画庁であり,さらに,事業の許可,承認を, 外務・大蔵・通産各大臣が協議する場として運 用協議会が設けられた109).大蔵省の権限を制 約し,輸銀の融資案件の厳選体制や輸銀業務に 対する大蔵省の過大な介入を打破し,輸出振興, 経済協力政策の拡充を図ろうとするものであっ た.  実際,1957 年輸銀法改正 に あ たって,経団 連および各省からは「主管官庁たる大蔵省のみ ならず,外務,通産,企画庁等の関係長官や民 間有識者の意向を輸銀業務に反映せしめるた め審議会を設ける」ことを要求した.それに 対 し て,大蔵省 が 反対 し110),結局,日本輸出 入銀行懇談会を充実させることに結実した111) また,1957 年に輸銀法改正の際に実現されな かった出資業務も,基金の業務によって整備 された112).このように,従来の政策決定方法 の変化,および資金の確保手段の拡大は,経済 協力によるプラント輸出振興政策を実施する基 盤を作り出し,振興政策における大きな進展で ある.  1950 年代後半から模索されたプラント輸出 促進政策は,海外投資から経済協力へと展開さ れた.基金と「海外投資機関」との性格は,こ のようなプラント輸出振興政策の展開のなかで 類似したものとなった.「海外投資機関」と基 金とは,機関名は異なるが,市場確保を目的と するプラント輸出促進という性格においては, 同じであった.経済協力は,海外投資を含めた 形に拡張された輸出振興政策であった.他方, 経済協力は外資の侵入に対する途上国の警戒を 和らげることができる.  「海外投資機関」と基金におけるプラント輸 出振興という目的からして,機械工業にとっ て,両機関の性格に違いはない.日機連の『日 機連 20 年の歩み』,および『日機連三十年史』 に,「日機連は海外投資等経済協力の促進のた め,かねてから政府の強力な措置による海外投  (単位:億円) 年度 増資額 借入額 1960 54 ─ 1961 50 ─ 1962 65 ─ 1963 ─ ─ 1964 ─ ─ 1965 10 ─ 1966 75 10 1967 90 75 1968 60 235 1969 224 173 1970 290 120  出典:海外経済協力基金『海外経済協力基金二十年史』 1982 年,565 頁より作成. 表 8 基金の増資と借入

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資機関の設立を推進してきたが,海外経済協力 株式会社案などが検討された揚句最終的に全額 政府出資による基金形態がとられることにな り,海外経済協力基金が設立される運びとなっ た」と記述していることは,両機関の関連性を 物語っている113)  さらに,もう一つ留意すべきことは,基金 が 1966 年からウジミナス株式会社に出資しは じめたことである.1956 年,ウジミナス製鉄 所に対する政府の支援方針が検討された際に, 当時の合意として,「将来投資機関が設置され た場合は,輸銀融資分はこれに肩がわりさせ る」,また当時石橋通産大臣も同じ内容の発言 をした.これを根拠に,ウジミナス株式会社は, 1964 年資本金増資の際に,基金による出資を 要求した114).基金はそれに応じて,1978 年ま で日本ウジミナス株式会社に 115 億 5 千万円 の出資を行った115).「海外投資機関構想」の検 討,断念,そして基金設置までに至る連続性が うかがえる. ⑵ 政財官の相互関係  以上の分析を通じて,基金設置の決定に至っ て,機械業界,経団連の関与が大きかったこと が明らかとなった.そこで,機械業界と経団連 の影響力の背景を明らかにする必要もある.紙 幅の関係で,以下ではそれについては,簡単に ふれるに止める.  1950 年代後半は,機械工業が急速に発展し た時代である.機械工業が製造業全体に占める 比率は,1955 年の 18.6% から 1960 年の 30% 強 に急上昇し,以降も約 30% の比率を占め続け た116).機械 メーカーの う ち,年間売上高 お よ び資本金が上位の企業から順に並べると(1957 年 10 月~58 年 9 月),第 1 位 か ら 第 5 位 ま で は,それぞれ,日立製作所,東芝電気,新三菱 重工,三菱造船,三菱電機であった117).そこで, 日機連会長(日立製作所 の 倉田主税),日本 プ ラント協会会長・経団連経済協力委員会委員長 (三菱電機の高杉晋一),経団連会長(東芝電気 の石坂泰三)などの財界の重要なポストも,こ れらの企業によって独占された.経済界におい て機械工業の地位を固めたことがうかがえる.  また,経団連が基金設置過程に大きな影響を 与えた要因として,経済協力の性格を指摘する ことができる.経済協力は外交・通商・財政な どの諸政策が絡みあうため,方針の決定過程に おいて,外務省,通産省,大蔵省などの省庁間 の対立,権限争いが生じた.また,自民党が積 極的に動き出したことに対し,大蔵省が強い警 戒をもった.政府内の対立を緩和するため,自 民党は経団連に協力を求め,大蔵省も民間人の 「中立的立場」に期待するようになった118).こ うしたなかで,逆に経団連の影響力が拡大され たのである. おわりに  本稿が「はじめに」に設定した三つの分析視 点に沿って,「おわりに」をまとめたい .  第一の視点,基金設置の経緯および第二の視 点,その経緯がプラント輸出振興政策との関 連について,以下の結論が得られる . 基金は, プラント輸出振興の手法が拡張された時期に 設置 さ れ,1956 年 の 国策 の「海外投資機関構 想」の延長線上にあったのである.1950 年代 半ばの海外投資への助成による輸出拡大方策 は,戦後のプラント輸出振興政策における新た な展開であった.さらに,1950 年代後半にな ると,民間ベースの限界性を打破するため,政 府ベースによる経済協力の促進が重視され,プ ラント輸出振興政策のさらなる拡張と転換が図 られた.振興政策における一連の展開の背後に は,日本のプラント製品の割高,国際競争の激 化,途上国の外貨不足などの問題が存在した. それらの問題を解決するために,当面の措置と して,相手国の開発事業への参加,および紐付 き円借款の供与などの方法が考えられた.そし て,より拡張された方法で,より緩和された条 件で,対外投融資を行うことは,金融面に止ま らず,企業のコストとリスクをカバーするため の,保険,税制に至るまで振興政策が拡張され

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たことを意味する.基金の設置における,外交 的要素の重要性を否定する意図はないが,本稿 の分析を通じて,経済的要因は遥かに大きかっ たことが明らかになったといえよう.1960 年 代半ば以降,基金は経済協力を実施する中枢機 関として,紐付きプロジェクト・ローン業務を 拡大していく119).基金は外交関係の改善と市 場確保の一石二鳥の役割を果たした.その後, 1999 年に輸銀と基金が統合され , 国際協力銀行 となった . 最近はその国際協力銀行をフル活用 して , 発展途上国に限らず , 先進国向けのイン フレ売込みによるプラント輸出促進に乗り出そ うとしている120).  また,第三の分析視点,すなわち,自民党・ 各省庁・経済界に焦点を当てることによって, 以下の二つの実態が明らかになった.第一に, 「海外投資機関構想」,輸銀法改正,基金設置を めぐって,大蔵省と通産省,自民党,経団連の 利害が対立したこと,第二に,政府や各省間の 対立が深まるなか,財界・民間人の「中立的立 場」が期待され,経団連のなかで機械工業分野 の発言力が強まったことである.  最後に今後の研究展望として,産業政策の動 向や産業構造の変化との関連を考察したい. 謝 辞  本稿執筆にあたって,成城大学経済学部浅井良 夫教授に貴重な助言を頂きました.記して謝意を 述べます. 1)海外経済協力基金『海外経済協力基金二十年 史』1982 年,p.23. 2)樋渡由美「岸外交における東南アジアとアメ リ カ」(近代日本研究会編『年報 近代日本研 究 11 』山川出版社,1989 年). 3)黒崎輝「東南アジア開発をめぐる日米関係の 変 容 1957─1960 」(『法 学』64 巻 1 号,2000 年 4 月). 4)権容奭「岸の東南アジア歴訪と『対米自主外 交』」(『一橋論叢』123 巻 1 号,2000 年 1 月). 5)権容奭『岸政権期の「アジア外交」─「対米自 主」と「アジア主義」の逆説─』国際書院,2008 年. 6)保城広至「岸外交評価の再構築─東南アジア 開発基金構想の提唱と挫折」(『国際関係論研究』 17 号,2001 年 9 月). 7)保城広至『アジア地域主義外交の行方:1952─ 1966 年』木鐸社,2008 年. 8)末廣昭「経済再進出への道─日本の対東南ア ジア政策と開発体制」(中村政則編『戦後日本: 占領と戦後改革─戦後改革とその遺産』第 6 巻, 岩波書店,1995 年). 9)大蔵省財政史室編『昭和財政史:昭和 27─48 年度』第 12 巻,東洋経済新報社,1992 年. 10)通商産業政策史編纂委員会編『通商産業政策 史』第 6 巻,通商産業調査会,1990 年. 11)浅井良夫「 IMF8 条国移行と貿易・為替自由 化(上)─IMF と日本:1952─64 年─」(『成城 大学経済研究所 研究報告』42 号,2005 年 3 月). 12)通商産業政策史編纂委員会編,前掲書(第 5 巻),第一章第三節「通商産業政策の基調」(執 筆者武田晴人)を参照. 13)日本輸出入銀行『十年 の 歩 み』1963 年,pp. 248─250. 14)日本機械輸出組合『機械輸出組合 30 年史』 1982 年,p.57. 15)出血補償リンク制度とは,プラント輸出に よって生ずる損失を粗糖の輸入によって生ず る輸入価格と国内価格との差益により補償す る制度である.同上. 16)経済安定本部『経済白書』1956 年版,p.2. 17)「座談会 手持外貨の増大と今後の通商・為 替政策」(『経団連月報』4 巻 3 号,1956 年 3 月) pp.23─27. 18)日本輸出入銀行,前掲書,p.79. 19)通商産業政策史編纂委員会編,前掲書(第 5 巻,執筆者武田晴人),pp.139─140. 20)同上,pp.142─143. 21)高杉晋一「輸出プラント技術協会の使命」(『実 業展望』28 巻 4 号,1956 年 4 月)pp.76─78. 22)日本ウジミナス株式会社『十年史』1969 年, p.16. 23)同上,p.130. 24)同上,p.94. 25)同上,p.161. 26)同上,第 5 章「買付けおよび輸出業務」を 参照. 27)同上,p.124. 28)同上,p.125. 29)「輸銀法を次期国会に 通産相語る」『日本経 済新聞』1956 年 6 月 29 日. 30)日本ウジミナス株式会社,前掲書,pp.124─ 125.

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