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Title
後三年記の研究 上
Author(s)
笠, 栄治
Citation
長崎大学教養部紀要. 人文科学. 1968, 9, p.1-22
Issue Date
1968-12-25
URL
http://hdl.handle.net/10069/9566
Right
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE
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C a m p a i g n 1 0 8 3 ∼ 1 0 8 7 , P a r t I笠
栄治
E I J I R Y U H 目 次 は じ め に 後三年記の書名について 第一章後三年役の検討 第一節後三年役研究小史 第二節後三年役私見 付神宮文庫蔵﹁陸奥話後三年記﹂追加条の事 第三節﹁後三年﹂の名称 第二章後三年記に関する研究上 第一節後三年記研究小史 第二節静賢の所謂﹁承安本﹂について 第三節将軍三郎合戦絵について 第四節看間御記所載﹁後三年合戦絵﹂について 第五節玄恵草の所謂﹁員和本﹂についてr -玄 恵 草 の 序 文 存 疑 -後三年記の研究上 は じ め に 後三年記の調査研究にとりか上ったのは陸奥話記のそれと同じく島原 の松平文庫蔵本調査以来の事である。頭初部分の欠脱、寛文二年刊行本 との照合などから詳しい調査の必要を感じた。上京後、陸奥話記の調査 にか上る傍、後三年記の資料も少しずつ集める事が出来た。 昭和四〇年五月の軍記物談話会で口頭発表﹁奥州後三年記の本文につ いて﹂をし、寛文刊本と松平文庫蔵本との先後'寛文の刊本上巻前半部 分への疑問などを述べた。水原一氏を初め会員の皆さんの熱心な討議と 疑問点の指摘などを受け更に再調査をする事になった。そして昭和 四二年五月、中世文学会春季大会で﹃﹁後三年記﹂本文調査の中間報告﹄ をする事になった。諸本の分類など初歩的な事を中心としたが、渥美か をる氏を初めいろいろな御高見に接するに至りやっと後三年記の流れ に気づき、草稿をものする事が出来た。戦乱については歴史家の絵巻 については美術家の論ぜらるゝ所を以て、文学作品としての後三年記の 位置が考え得るようになったのである。 そもそもこの調査研究の私の主眼はよい本文を得る事にあったの が結局は池田家旧蔵本とその伝承という形でのまとめしか出来なかっ た。特に﹁承安本﹂についての詳細が知り得たらと思う。今後精査に努 力するのは勿論博識の方の御教示をお願いする次第である。 調査研究に当っては方々にお世話になった。池田家旧蔵本の原本を見 l笠 栄 治 るた竺口同峰富士彦氏に無理をお願いしたのを初め'諸所蔵の方に大変な 御迷惑をおかけしたにもかゝわらず'快く資料をお見せ下さった事を厚 -お礼申上げるものである。そして論ずる所に勧叱正御高見を承れれば 最 大 の 喜 び で あ る 。 後三年紀の書名について 所謂﹁後三年記﹂はその呼称がまちまちである。例えば国書総目録所 収の書名を整理するだけでも二十余の称呼を見出すのである。 後三年記 後三年軍記 後三年絵詞 後三年絵(画)巻 奥州後三年絵巻並絵詞 後三年役絵巻 後三年之役絵巻 後 三 年 合 戦 絵 ( 画 ) 後三年合戦絵巻 奥州後三年合戦絵巻 八幡太郎絵詞 武 衡 記 一 名 奥 州 合 戦 記 後三年合戦之事 奥州後三年記 後三年軍記絵巻 後三年詞書 後三年絵(画)巻物 後三年役絵巻物 後三年合戦絵詞 後三年合戦絵巻物 八幡太郎草紙 ﹁ 八 幡 太 郎 絵 詞 ﹂ ( 学 習 院 大 学 蔵 本 ) ﹁ 八 幡 太 郎 草 紙 ﹂ ( 東 洋 文 庫 蔵 本 ) に ついて言えば'池田家旧蔵(現東京国立博物館蔵本)の転写本である。古 -前田松雲公(綱紀)の﹁桑華書志﹂(尊経閣蔵・鈴木登美恵氏御教示) に苦心して池田家の後三年合戦絵詞を見る謂を記してあるが'池田家旧 蔵本の上箱に記された黒漆の銘が﹁八幡太郎草紙﹂で'内箱の金粉銘が ﹁後三甲軍記﹂'巻物の題が﹁八幡太郎絵詞﹂である。つまり'偶々紘 二 巻の外蓋・内蓋・巻物の三者三様の名称の見出される事が混乱のもと で'﹁鮭井柿1箱﹂を挨拶に送った桧雲公も、これらの記の題には﹁後 三年軍記﹂を用いておられる。而して、学習院・東洋文庫両蔵本共'内 容・奥書の転写から元禄の改修以後の転写である事は間違いない。 ﹁武衡記一名奥州合戦記﹂について言えば、彰考舘蔵の陸奥話記との合 綴本に付けられたもので、本文の内容は松平文庫蔵後三年記や神宮文醍 蔵﹁陸奥話後三年記﹂(内題をとる)と同1で'同類本の転写本と考えら れる。この書名の起源は 一、彰考館蔵本中例えば﹁刀後聞﹂の如き'元来書名のなかったものに 本文の最初の数字を以って書名に代行させた-つまり﹁武衡者国司 追帰サレニ--﹂の頭字をとって付けた。 二'内容が武衡対義家の合戦であり、また歴史上もそう把握出来るとこ ろ か ら 。 ( 醍 醐 寺 新 要 録 の ﹁ 将 軍 三 郎 合 戦 絵 ﹂ が 武 衡 と 義 家 の 合 戦 記 と 推 定 出 来 る が ' そ れ か ら ﹁ 武 衡 記 ﹂ ま で の 具 体 的 結 び 付 け は 容 易 で は な い 。 が へ そ の 前 史 的 存 在 と 考 え る 事 は 許 さ れ よ う 。 ) という二つが想像出来る。細註の﹁奥州合戦記﹂は同名の書が扶桑略記 に見え'その所引内容は陸奥話記の今日通行のものの古形が感じられ る。勿論、扶桑略記の﹁奥州合戦記﹂が後三年役記事たる後三年記をも 含めての称呼であったかの確証はない。が、次に挙げる神宮文庫蔵本の 如き場合も考えれば、説話物の中で、往々前九年役と後三年役の時事な ど錯誤がある所から、或いは後三年記との合称であったかも知れない。 而して'彰考館蔵のこの合綴陸奥話記には﹁陸奥物語﹂の細註があるの で ' 疑 問 を 深 め る の で あ る 。 尤も神宮文庫蔵の﹁陸奥話記禦管一冊﹂(外題)に合綴されている 後三年記は、内容は松平文庫蔵本や武衡記と同一であるが'桜井清香氏 の﹁戦記絵巻の研究﹂に引かれるのと同じ-'義光説話に前後があるも のである。その内題は﹁陸奥話後三年記﹂となっている。奥書其他から
は(書写時も)松平文庫蔵本に近いと考えられるが'こ1では最初から 陸奥話記と共に合綴本として扱われている。これらの諸本が'池田家旧 蔵絵巻からの葡写本である事'その題が三つある事'池田家旧蔵絵巻は 武衡等金沢柵に移るという毎途から始まる(頭初部分欠文)故に'その都 度、﹁もの﹂に即して付けられたのが﹁武衡記﹂﹁陸奥話後三年記﹂の 称を生じたのではないかと思う。 最後の﹁後三年合戦事﹂は'国書総目録に後三年記と1緒に扱ってある が、これは﹁前九年合戦之事﹂と対をなすもので'東北大学狩野文庫と全く 同じ写本が岩手県立博物館(同筆?)にも蔵められている。その目録は、 ノ 上巻羽州住人秀武叛逆付清衡与力秀武井真衡舘事 ノ 秀武和睦付清衡心替井沼柵軍武衡与二子家衡1事 ノ 家衡武衡放野火将軍野軍智謀事 中巻置賜四郎用紙老塊密通干城中付家衡兵夜討秀武陳事 V t -ノ 武衡出夜討付清衡討死井加茂次郎義綱奥州下向事 金沢城責付景政武勇井源氏之家宝薄金兜紛失事義家被向羽州付 捜出於伏兵事 義家定剛勝之坐励軍士付臆病者略領事 下巻亀次鬼武強討武勇評付千任丸悪口将軍事 家衡武衡招新羅三郎義光干城中付義光止無道事 秀方為使者大子金沢城事 金沢落城付武衡被生捕井千任丸被抜舌事 となっている。前太平記等と同じく'後三年記の亜流と考えられるの で、別に検討する事として'後三年記そのものの1群とは扱わないこと と す る 。 以上'例外的な書名について見たが'他の大部分は概ね﹁後三年役﹂ に取材した﹁後三年記﹂﹁後三年絵巻﹂の称呼の小異に含め得ると思 ぅ。そして'﹁後三年役﹂に取材した﹁記﹂又は﹁絵巻﹂﹁絵詞﹂とい 後三年記の研究上 う事を意識した上で'﹁もの﹂に即した命名と言う事が出来よう。従っ て、この合戦を一般的称呼として﹁後三年役﹂と用いる事とし'本稿で は専らその詞書について考察するので'特に断わる必要のない限り'最 も簡単でもある﹁後三年記﹂をl般的称呼として使用する事とする0 第丁章後三年役の検討 第一節後三年役研究小史 所謂後三年役に関する研究は、概してこの戦乱の事実と称呼とゐ関係 究明から発したと言えよう。そして、戦乱の詳細については、所謂前九 年役研究に陸奥話記が果したと同じ-'後三年記に由るのである。大日 本史と本朝通鑑の修史事業は'資料拾集に目を見張るものがあるが、特 に林家に於ける本朝編年録当時既に後三年記の収集刊行が行なわれてい る。しかし乍ら、今日の処後三年役を考えるには、後三年記が中心に揺 えられる伝統も'唯一の資料なるが故にか、この時以来の事である。 一体'後三年役はその勃発と終結の認定に可成りな差異があり'戦乱 の三年なるが故に後三年役と確定的に言えない有様は、前九年役の場合 と同様である。以下'諸論考のうち'管見に入ったものをながめつゝI 後三年役研究史を綴ってみる事とするo 続本朝通鑑(巻三六白河天皇下)永保警年是年の条に割注をして日 ヽ く 按奥州之戦始二於是年一見二東鑑及源家譜7然武衡家衡之滅為二寛 治五年之事1去レ此在二九年之後1由レ是見レ之則与二俗所謂義家後 三年合戦者一不二相合一今唯拠下東鑑所謂永保三年十月義家赴〓奥州一之 文 分 明 上 以 二 是 年 一 為 二 軍 起 事 始 1 とし'寛治五年是年(巻三八掘河天皇二)の条末に割注して後三年合戦 絵巻の詞﹁寛治五年十一月十四日夜﹂金沢柵陥落分明なる事を説いて ≡
笠 栄 治 故今拠二此草子7分二割其段t而自二寛治三年l記レ之至二今年1而畢レ 事以合二世俗所謂後三年合戦之伝説一也如三永保三年為二此戦之始一 則 既 弁 こ 之 於 前 一 とする。寛治三年より筆を起したと認められる現存後三年記は惟久画・ 行忠等筆の絵巻の詞書きで'これにょり終結を寛治五年とし'俗称後三 年役の説を首肯しょうとしたのである。而して春斎は、寛文二年刊の輿 羽軍志に関係しているので'その本文の記述から戦乱勃発を永保三年と する考えは捨てていない。従って春斎は'実際の戦乱は十年であるがI 義家参戦を寛治三年とし'同五年終結として後三年役と称すると考えた も の と 思 わ れ る 。 新井白石の読史余論(巻五)は'前九年役後二十年にして後三年役が ﹁明る(永保)二年より奥の事起る﹂と記し真衡秀武の軍をあて、﹁同 三年、源義家陸奥守になされ俄に下向﹂し、清衡秀武を援助したとす る。寛治五年九月金沢柵攻撃開始'十1月十四日攻略とし、その割注に ﹁按ずるに永保二年より寛治五年に至て十年におよ﹂んだとする。(頼 義 義 家 二 代 へ 奥 前 後 の 戦 二 十 余 年 と も 言 う 。 ) 大日本史が'本朝通鑑・読史余論の所説を見たか否かは別として、大 日本史は考証を以て大分縮少して考えた。永保三年陸奥守兼鎮守府将翠 となった義家は﹁急に陸奥に赴き、真衡を助けて家衡を出羽に攻む。刺 あらずして還る﹂に及び、武衡等が家衡に応じ金沢柵に拠って抗戦'そ こで義家は寛治元年九月自ら金沢柵を攻め十1月攻略'武衡以下討伐の 国解を奉り認められなかった由を叙し'その割注に﹁奥州後三年軍記 ○按ずるに中右記・百錬抄に皆元年の事と為す。本書に五年に係くるは 誤なり﹂と寛治元年終結の五年説を立てた.後三年役に五年説を出もた 大日本史であったが'その依拠したのが恐ら-寛文二年刊奥羽軍志所収 本 又 は 本 朝 通 鑑 所 収 本 ( 現 存 彰 考 館 蔵 本 が 大 日 本 史 の 全 資 料 と は 思 わ な い が ' 彰 考 館 現 存 の 後 三 年 記 関 係 書 は 武 衡 記 も 含 め て 絵 詞 か ら の 転 写 本 で あ る ) で ' そ 拷 の上巻の中途閲文の影響がありありと看取出来る。従って'清原武則以 下の項に'その疑問点を次のように述べている。 按ずるに'真衡、秀武を攻むるの後'本書に復た真衝の事を書せず' 其の終る所を知らず。清衡亦然り。説上に見ゆ。武衡兵を率ゐて沼柵 に造るの前'亦見る所無し。何に由りて、兵を連ね、勢を合せたるか を知らず、蓋し真衡は始有りて終無-'武衡ほ終有りて始無し。皆閲 文なり。今並に致ふる所無し。(原漢文) この閑文と'その生ずる疑問点とは'三浦周行氏の康富記の紹介まで解 決出来ないものであった。 其他、例えば黒川道祐(遠碧軒随筆下之t)の﹁武衡家衡との合戦も' 永保二年より寛治五年まで'かぞふれば十年に及ぶ'然れども世に後三 年の戦と云伝ふ'但対陣の内をば除て、合戦の年ばかりを取て云なり﹂ は大日本史以前の本朝通鑑的視点である。夢の代の山片蜂桃も主旨から ほ奥羽軍志を拠り所としているし'春波楼筆記の所説も同様である。甲 子夜話の後三年役を詠んだ川柳﹁亦事体を想像するに足れり、雑兵は普 た来ましたと後三年﹂も'恐ら-白石の二十余年の如き長征を抜きには 考 え ら れ ま い 。 明治に入って'国華に後三年絵巻の紹介が載せられたり(第八号)した が'岡田正之氏の論文が最も早いものと思うO史学雑誌(四三号)の﹁後 三年の役﹂は'大日本史の五年説を検討し﹁五ヶ年の役を以て三年と呼 ぶは亦疑﹂わしいとし、後三年役の称呼は信じ得るものとし'後二条関 白師通記以下水左記・為房日記等から﹁応徳三年に起り寛治元年十二月 に詰る﹂と考え'﹁其間は二ヶ年なれども大略に後三年の役と呼﹂んだ と断定された。余論に'義光奥州参陣と古今著聞集・時秋物語等の'足 柄山で秘曲を伝授する辞の論がある。(後の'大森金五郎氏の武家時代之研 究 に ﹁ 嘗 て 物 し た ﹂ 文 と 断 り へ ﹁ 近 時 学 者 の 研 究 に よ れ ば ﹂ と し て 梗 概 が 載 せ て あ る 。 ) 次 で 、 華 峰 ( 阿 部 伝 ) 氏 の ﹁ 後 三 年 の 役 ﹂ が 歴 史 地 理 ( 第 五 巻 t ∼ 五 号 )
に四回にわたって連載されたo清原氏の起源考証からその繁栄と前九午 役に於ける存在と役割を論評された。前九年役後一層勢威を伸長した清 原氏は、真衡・武衡・家衡・成衡の宗家系'秀武・清衡等傍系とに大別 され'同族間の不和不満と'傍系野心家の宗家系との抗争で'﹁武別の 遺領﹂をめぐり家衡一党(武衡も加わる)と清衡党との争いに義家が清衡 党を援助したとされる。従って後三年の義家は﹁真衡の没後、清衡家衡 の争乱を言ふた事で、実際其問が三年位かゝつた﹂事とし'義家を中心 とせぬ清衡家衡争乱説を発表された。 降って明治四四年は後三年役研究の重要な年となったO一月に二論文 が発表されたが'その一は三浦周行氏の﹁後三年役に関する新研究﹂ (史学雑誌第二二巻言号)で'此後の後三年記・役研究に重大な転機をも たらすものであった。後三年絵巻関係の分は後に触れるが'氏は'中磨 康富の日記(康富記)文安元年閏六月二十三日条の、康富が伏見殿で偶 見した後三年絵の梗概を記した本文を全文紹介された。康富記と後三午 記とを対照し'大日本史等を欺かせた欠文の事を始め、異同八個所'級 三年記欠文の部分的主旨七項について論じられた。後三年記の一等史料 ならぬ事を諸記録に徹し'大日本史以来の寛治元年終結説を採り'岡田 正之説を検討した上で'後三年記本文中の﹁二年の愁眉﹂等の詞文と康 富記より、戦役の二ヶ年なるを論定された。また康富記にょって﹁後の 臆説﹂(秀武等の去就などを初め)を検討弁別し'私闘内紛についても論 じられた。かくて﹁康冨記の後三年合戦絵に関する記事は、後三年軍記 と相侯って此戦役の史実を発揮すべ-、殊に其中間'清衡・家衡の反覆 と'義家のこれに対する態度を説ける三百冊六字は悉-軍記の閲文に係 り'従来史上の一大秋陥と看撤されつゝありしものに向って明噺なる聯 給を与ふるもの﹂と評価された。 そ の 二 は 鹿 鳴 閑 人 ( 喜 田 貞 吉 ) の ﹁ 曝 々 斎 閑 話 ﹂ ( 歴 史 地 理 第 l 八 巻 言 ち ) に収められた﹁前九年後三年と言ふこと﹂の所説である。前九年役は十 後三年記の研究上 二ヶ年の合戦を言い'後三年役は﹁唯一の史料なるべき後三年記﹂の記 事'永保三年義家下向'寛治五年清原氏滅亡を採り'寛治五年は元年の 誤りを証して五ヶ年説を成された。なお、﹁前後十二年合戦﹂を説明し て'頼義は前九年役の所謂九年間専ら当り'義家は其後'三ケ年間清原 氏の乱に専ら当った故、その合算数とされた。従って﹁清原氏の役を以 て後三年﹂と呼ぶ事になったと言われる。 またその六号には'和田英桧氏の﹁前九年後三年合戦絵巻考﹂が発表 された(歴史地理第一八巻六号)。岡田説をとり﹁応徳三年より'寛治元年 まで'三年間の戦争﹂とされた。この論文は'絵巻に関する研究(後述) のためか史実等の考証、特に三浦氏所説に触れないなど併せて新しさは な い 。 次 い で 岡 部 精 一 氏 の ﹁ 前 九 年 役 と 後 三 年 役 ﹂ ( 奥 羽 沿 革 史 論 所 収 へ 第 三 ) が公刊された。講演の稿か記録が収載されたらしいが'説く所は(後三 年役関係のみ拾う)史料としての絵巻を和田英桧氏説にとり'外に`何等の 史料がないとし、その名称については、九年説(後三年軍記)三年説(大 日本史)二年説(応徳三・寛治元年の)を挙げ'三浦説にょり﹁後二年の役 といふのが正当でありますけれども既に後三年の役と呼び﹂なしたと言 われる。戦乱の経過梗概では、絵巻の詞書や中右記以下の史料をあげ' 康富記の出現と三浦氏の説を紹介'後三年記の閲文にも論及された。最 後に前九年役の場合と同じ-'後三年記に現われる地理の説明に至り、 清原氏の勢力は衣川柵を真衡館と推定'陸奥出羽二国に及び'後三年役 では雄勝平鹿仙北三郡が中心となったと考証された。本論も新味よりは むしろよく整理された講義の感じが強い。 降って大正十年'藤間継平氏の﹁前九年後三年役の称呼に対する予の 見解﹂(歴史地理第三七巻一号)が発表された。氏は'阿部説の清原氏内 争に由る呼称を否定し﹁源義家の清原氏の紛乱に関与してよりの年時を 指す称呼﹂と把握し﹁八幡殿後三年の合戦と講書に見えるのを重視﹂さ 五
笠 栄 治 れた。義家の清原氏内争干渉を陸奥等国司任期特例から五年在任としI 赴任は永保三年秋とし、真衡死後異母妹の婿成衡を助け応徳二年頃内紛 に介入を推定された。義綱派遣の議(応徳三年)'義光下向(-解官、寛治 元年)を論じ'寛治元年終結とし、その間三年をいうと論定されたもの である。が'﹁前九年役・後三年役の俗称が何れも相当謂はれのある事﹂ で決して﹁前人の誤謬を踏襲するもの﹂でないとされるのは岡田説の発 想 と 同 じ と 見 ら れ る 。  ̄藤岡氏の論文を直ちに反論されたのは喜田貞吉氏で'﹁前九年後三午 の称呼に就いて1藤岡学士の反対論に答ふ-﹂は歴史地理の次号(第三 七巻二号)に載せられた。氏は'後三年役の事実上の合戦年数は足かけ五 年とし、藤間説の新味(又弱点でもあるが)であった永保三年清原氏内証 と'義家の介入とを離別して論ずるのを排し'永保三年赴任後間もない 介入とされた。藤岡説の推定項目の三点、1、義家の真衡生存中不参戟 の理由'三真衡死去を応徳元年とする理由'三'応徳三年﹁頃﹂義家 参戦とする理由、に疑問があるとし'応徳二年義家介入説を不可確定午 時として排された。真衡死去・清衡等の反服・戦役断続の年代に関係な く'義家の対清原氏合戦は足かけ五年であるとされた。前九年後三年の 称呼は、前九年の称たる十二年合戦中休戦期を除-九ヶ年を'称呼上の 十二年より差引いた残数を以て勘定した間違いとされた。(この十二年の 計 算 は 既 に 国 華 ( 二 〇 号 ' 明 治 二 四 年 ) の 解 説 に も 見 え て い る 。 ) これらを承けて'大森金五郎氏は武家時代之研究(第一巻大正十二年刊) に﹁前九年及び後三年役の評論﹂をまとめちれた。三浦・和田両氏の所 論、実隆公記等から後三年記の成立を論じ'後三年役の唯1の資料とさ れた。乱の梗概は後三年記(康富記を含む)にょって述べ'称呼は﹁足か け計五年﹂で名称に合わないが﹁後世に於て不穿髪にも之は前後の両役 を合計した年数と思ひ達へ﹂奥州十二年合戦なる名称に﹁前九後三など いふ様に言ひなし﹂たと(喜田説に近い)言い'強いて年数に合わせるの 六 は無理ともされる。従って藤岡説如きも﹁一考案﹂と言い﹁推測に過ぎ ぬ﹂事とし'﹁確たる理由は存在﹂しないとされる。 また'綜合日本史大系(第四巻平安朝下)で桜井秀氏は、義家と清原一 族の対抗とはされるが'﹁乱の始終はこれを雨期に分ち得ら﹂れ'義家 の介入までは﹁清原氏の私闘﹂で'義家の下向と﹁彼まで渦中の人とな って﹂から﹁単純な紛争でない、公的な意味のもの﹂の様になったと し、﹁公的な意味を持った兵乱(家衡清衡の衝突と義家の介入)は二年間に 過ぎ﹂ないとされた。しかし、義家介入の時期を明確にされず、折角の 二期に分ける考え方も効果が薄くなっている。 降って昭和十五年'桜井清香氏は戦記絵巻の研究の中で﹁後三年合戦 絵巻﹂をとりあげられた。絵巻についての所論は後に述べるが'﹁後三 年役の歴史﹂では'康富記と後三年記と比較検討し'秀武の義家方帰属 (後に和解か)成衡最後及び重宗の存在等疑問点を出された。そして'沼 柵の苦戦は応徳三年﹁依って家衡が清衡の館を焼払ひ妻子管属を虐殺し た事件は応徳二年﹂と見﹁故に成衡の死は'同年の始か応徳元年と見る べき﹂で'成衡の死にょって六郡分割'家衡の騒動が起ったとされる0 ﹁成衡の死を以って発端﹂とし﹁これが後三年の騒動で此年こそ応徳二 年也と決定﹂しておられる。こ上で三浦氏の論文を見た事を述べ'三捕 氏の後三年絵巻の﹁原本上巻の順序が栢倒している事に気がつかれて﹂ いない由(この項後述)を言い'二年説は欠巻があるからで、﹁此欠巻中 には三年に亘れる記事'即ち沼柵の前年の乱の事が記されて﹂いた筈 で、二年の合戦は義家の参加もあり﹁此役大詰の戦﹂とされた。岡田・ 藤岡説の﹁後三年﹂の信じ得るとする態度を基調に、応徳二年の設定I 清衡家衡争乱(阿部説)を加味した型の分析は面白いが、資料の解釈に 難 が あ る 。 歴史学の専門家の所説は三十余年見られなかったが、その間の歴史学 の進展はめざましかった.その収啓の上から、高橋富雄氏の奥州藤原氏
四代(人物叢書ほ)が昭和三十三年に著わされた。藤原氏の生立ちと初代 清衡を論ずるのに後三年役に触れられたが'真衡・清衡・家衡等の血縁 関係の複雑な上に'頁衡により清原氏同族支配体制から嫡宗単独支配へ の移行を論じられた。従って前九年役では清原氏同族政権の一構成員だ った吉彦秀武が老境に入って臣礼をとらされ'頁衡の排他的権力集中に 抵抗した﹁清原一族間の同族主義の分裂'嫡宗単独支配体制への抗争と しての内戦﹂が後三年役とされる。そして﹁清原一族の内証から源・清 ● 二つの族長権の争魁へと様相を変え﹂'その渦中に居た清衡は﹁その忠 誠を売って義家の軍事力を買い取り﹂'義家の﹁破壊のあとは清衡名儀で 登録﹂され﹁清原氏の在地族長権がまるまる手中にころげこむ情勢﹂に 至ったとされる。義家が清原氏の内争を利用し、源家の武門棟梁権を割 り込ませんとして清原棟梁権の反撃に合い'陸奥守への抗争との見せか けに失敗'分裂相魁する清原氏の支配権を清衡に統一する為の戦といラ 結果をもたらしたとされる。清原氏の内争と義家の介入という二層性を 有する後三年役に'新しい解釈たる今日的歴史学の視点が与えられたち の と 見 る 事 が で き る 。 更に、立正史学(第二六号)に庄司浩氏の﹃﹁前九年の役﹂・﹁後三年 の役﹂の称呼について﹄が発表されたのは昭和三十七年であった。岡田 二二浦・藤岡・喜田の各説を検討し﹁後三年役は義家の清原氏内証介入 てマ に置く以上、織続期間は永保三年より寛治元年に至る足かけ五年﹂とな る事を述べ'氏の立場を'後三年記等の記述の検討から、﹁義家の対清 原氏戦役の凡てを意味するものでな-、専ら家衡及び武衡との戦を意 味した﹂と設定された。康富記や後三年記序文の検討から応徳二年(沼 柵攻撃を三年として)から始まっていたと﹁考え得る余地も充分存する﹂ し'﹁実際の戦闘期間に一致﹂した称呼故﹁後三年役は武衡家衡との戟 闘を指す﹂とされた。そして後三年絵で後三年の算出が容易となり後三 年役の称呼が成立し'﹁奥州十二年合戦﹂から三年を差引いた残数が七 後三年記の研究上 八年の戦闘に過ぎなかった十二年合戦を前九年役と称するに至ったと推 測 さ れ た 。 続いて立正史学の次号(第二七号)に庄司氏は﹁前九年の役・後三年役 についての二二二の問題﹂を発表'後三年役ではその戦乱の構造を論じ られた。つまり﹁清原氏内部の嫡宗単独支配の成立に対する反抱による 同族間の内証に端を発し﹂、前九年役の﹁頼義が出羽の豪族清原氏の助 力にょり陸奥六郡の強豪安部氏を残し得た戦﹂が﹁逆に義家が陸奥の勢 力 ( 勿 論 前 半 に ﹁ 前 役 よ り 遥 に 東 国 武 士 団 の 動 員 は 進 ん で い た ﹂ 事 を 論 じ て ) を 借りて出羽に結集された清原勢力を打倒した戦﹂であったとされた。真 衡没後'前九年役以来の新地奥六郡は家衡党と清衡党に分裂し、家衡に は出羽仙北の独立的排他的清原旧地勢力も支持し'清衡は安部残存勢刀 等も結集し'﹁奥羽の棟梁権支配権﹂をめぐり'武別の血統を伝える家 衡党と、義家と結んだ清衡党とが激戦するに至ったGつまり家衡は故也 出羽仙北の武衡以下の諸勢力を結集せんとしたが秀武等の存在もあり翠 族一致ならず族滅したとされる。氏の二論文は、後三年役における二層 悼(清原氏の内証と義家の介入)に新しい論点と解釈は与えられたが、特徴 を捕えるの余り'一面尤もながら全部を首肯するには至らないのは私一 人 で あ ろ う か 。 竹内理三先生は'日本の歴史6(武士の登場)で後三年役にふれ'真衡 死後の遺領相続とそれに乗った義家の伸長策が崩れて、清衡義家の連合 と家衡武衡等の反抗に及ぶとされた。義家の追討官符申請は﹁貢賊をお こたらぬ清原氏に叛逆者として追討の宣旨を発する理由﹂のない事を義 げ、戦乱を理由に陸奥国の砂金を懐中した義家と対比され'清衡の去就 に注目'﹁義家を踏み台にして出羽・陸奥の覇権を手に入れた清衡はI 源氏を無視して直接摂関家と結﹂ぶに至る、同族内の内証ながら別の一 面を持った清原氏・清衡を論じておられる。 次いで安田元久氏はその著源義家(人物叢書130)で'後三年記の史料 七
笠 栄 治 価値を'絵巻の詞章を康富記で補足して﹁ほゞ原形に近いものを知る上 での有力な資料﹂となると説かれた。清原氏一族の内証(真衡対秀武家 衡清衡)に職責上鎮定の兵を動かした義家であったが'真衡の死と秀武 以下の降伏で1応戦乱は治まった。応徳三年清衡対家衡(武衡)の争乱 が起り、義家は清衡と沼柵攻略に敗退'寛治元年金沢柵攻略'清原氏杏 族滅﹁義家と結んでいた藤原清衡が'奥州の支配権を担い得るものとし て'ひとり残﹂る結果となった。義家は最初真衡の嫡流を認めての支持 からその死後﹁清原氏の族長権﹂(家衡)と﹁奥羽の支配権﹂(清衡) に二分した上に、更に清衡を助けて(-清衡に利用されて)己の地位を保 たんと意図した。が'悪戦苦闘の末﹁源氏の支配権を確立するという 点﹂では全く失敗したとするのは高橋氏と同じで、﹁私的武士団の結 成﹂という別の収穫のあった事は安田氏の早-から論ぜられた所であっ た。 第二節後三年役私見 以上のように'後三年役をめぐる諸論を整理してみると'共通する二 つの問題点(清原氏の内証と義家の介入)が見出される。清原氏内部の 指導権をめぐる紛争はこの争乱の基層をなすもので'その上層に据え得 る義家の介在が考えられ、二層性を有すると言えよう。 1体'この基層に考えられる清原氏の内証たるや'詳細な所か正確な 正体も掴めない。史料綜覧に﹁永保三年九月'是月、陸奥守源義家赴任 ス'時二清原家衡'同族真衡ト兵ヲ構フ'義家'真衡ヲ援ケテ'家衡等 ヲ攻ム'利アラズ、是ヨ-奥羽ノ地'連年兵結ビテ解ケズ﹂として吾妻 鏡'神皇正統記、古今著聞集をあげている。吾妻鏡は﹁永保三年九月管 祖陸奥守源朝臣義家於奥州与将軍三郎武衡同四郎家衡等遂合戦云々﹂を 指すのであろうし'古今著聞集は﹁陸奥守義家朝臣永保年中に武衡家衡 等を葺けるとき﹂﹁其後永保の合戦の時﹂を言うのであろう。吾妻鏡の .\ ノ ﹁永保三年九月﹂とい-のは'義家の武衡等を攻めた時ともとれるし、 古今著聞集の義光下向と同じに考える事も出来る。﹁千時﹂は'義家開 戦の永保三年九月を指すとも考えられるのである。勿論'史実の上から ほ義光停任の事がはっきりしてはいるが'吾妻鏡、古今著聞集の時代で は'それが正確に把握されていたかに疑問があるようなのである。 京都中心の(京都に伝聞された)記録からは'清原氏内証については何 一つ出ず'﹁陸奥兵起事﹂﹁義家合戦﹂(後二条関白記)﹁奥州合戦﹂﹁奥 州□後合戦﹂(為房卿記)の如きで'中右記に至っては﹁義家朝臣追討 停囚了﹂の如くしか見出せない。清原氏は勿論'摂関家と援近し'碩餐 と仰いだ奥州藤原氏に対して'後の兼実すら停囚として意識しているの であるから、公家の記録に現われないのが当然かも知れない。争乱の事 を後二条関白師通がその日記に応徳三年から書き留めて注意しているの は'寛治五年清衡の貢馬と関連があるように思われるが'今は証する事 は出来ない。公家の記録に載らなかったのは'概ねその利害にさほどの 影響がなかったからであろう。 京都に於ける記録を調べてみると'応徳三年九月廿八日(後二条関白 記)に師実が奥州の兵乱に義綱を遣すべきかを議しており'十月七日に 義家の申文についての公卿定が行なわれ、十一月二日に奥州合戦の事を 義綱に尋ねさせている。応徳三年まで問題にならなかったのは'何に由 来するのかこれらの記録からは知るべくもないが'義綱を派遣する事が 議題になった事は'京都守護に源氏の武力を頼っていた当時としてほ辛 はり黙止出来ない程のものになっていたと考えられる。義家の申文はI この場合'①清原氏追討宣旨下付の事'㊥清原氏追討の為陸奥の貢金不 可能の由申上、㊥国司任期切れにょり'清原氏討伐の為重任の事、など が考えられよう0この日何が決められたかはわからないが、1ケ月近-経った十1月二日に'義綱に叉義家の合戦の事を尋ねさせている。九月 廿八日'義綱発達の議が﹁一定無暇何等事不侍﹂の理由で取止めになっ
たとすれば'十月七日の義家上申の内容と合戦の事と切り離して考えら れない。この際'㊤の真金の不可能な事を上申したと考えるのが恐らく 最も公家の気を引いたものと思われる。義家の貢金未納で宮中の金不足 が 問 題 に な っ て い る 事 ( 清 衡 は 陸 奥 を 手 中 に す る と 年 貢 金 の 代 納 を す る 程 で あ ったが)や、この翌年、義光参戦に停任を以ってするなど、恐らく他の 武 士 等 の 参 戦 防 止 策 ( 後 に 義 家 に _ 田 畑 の 寄 進 を 禁 止 す る 如 き も 併 せ 考 え て ) が 伺えるなど'1連の義家圧迫策が感じられるからである. 翌寛治元年は'七月九日に合戦停止のために官使を立てられる由が議 (為房卿記)せられているが、使の立った形跡はない。1ケ月余りの後、 八月十六日にと十九日にと、﹁陸奥合戦沙汰﹂﹁奥州□後合戦事﹂が見 られる(為房卿記)。十九日条の﹁事異見宣旨目録之﹂がどれだけを示す か、奥州合戦停止の宣旨が出たのかはわからない。この会議で清原氏追 討官符が出されなかった事は勿論'義家に不利でこそあれ有利な事は響 無であったろう。次いで'八月廿九日、奥州に下向した義光に﹁不申暇 下 向 奥 州 ﹂ の 由 で 停 任 宣 旨 ( 為 房 卿 記 ' 本 朝 世 紀 は 九 月 廿 三 日 に 作 る ) が 下 さ れた。清原氏追討を公式にする見通しの完全になくなってからの義光の 行動、公に身の暇を乞うても許されない状態が考えられる。奥州合戦停 止に官使を立てられる事は'義家にも清原氏にも'それが私戦である事 を物語らせるものであろう。禁を犯しても下向した義光の意図は早急な 解決の必要と、源家の存亡がか上っていたとも考えられるのである。 十二月廿六日条には﹁守義家朝臣追討停囚了﹂と中右記に国解到来を 記す。十1月十四日金沢城攻略が正しいなら'義光下向から二ケ月半の 事である。この﹁守﹂が在任を示すなら'応徳元年又は二年の義家陸輿 守拝任が考えられ、任期は切れたが、後任者が来るまでの守であるとす れば永保三年赴任説も成り立つであろう。 翌寛治二年正月廿五目'陸奥守選任の議あり'藤原基家拝任を記す ( 後 二 条 関 白 記 、 中 右 記 ) が ' 特 に ﹁ 陸 奥 守 可 成 人 被 定 ﹂ と し て い る の は ' 後三年記の研究上 陸奥国と摂関家との連関が後に明らかになるだけに興味を覚えるもので あるo基家と摂関家の関係は明らかになし得な。-いが'基家が義家より公 卿の目に叶っていた事は確かであろう。そしてその選任が﹁永清'公卿 被定事可尋也﹂と記している事﹁薯有故欺﹂とも記す事など'何らかの 問題が含まれていた事も確かであろう。今一つはっきりしている事は' ﹁未功課﹂の基家であった事である。藤岡継平氏の所説があるが、この ﹁未功課﹂は義家とする事は明らかに誤りであろう。そして'任期の四 年五年にか1わらず'永保三年赴任なら遅-とも寛治元年には義家は任 期満了になっている筈である。﹁未功課﹂は基家の事で、義家の任期満 了前に停任されたという事ではないと思う。この日特に陸奥守のみがと りあげられている感じがし'﹁可尋﹂﹁有故欺﹂とするのを見ると、 ①義家の申文(十月七日条)が'戦乱の故を以って重任の事であったとす れば'その後任に﹁未功課﹂の基家を起用しなければならぬ程の事情 か故実があったかで、義家の現任を早-解-事では1致していたであ ろ う 。 ㊥戦乱の故を以っての義家真金未進の事が後に出て来るが、﹁可成人﹂ というのはその意味で意義がありそうだし'﹁有故欺﹂を義家にとれ ば'義家の横領的事柄を指しているとも想像出来る。 ㊥基家の起用に﹁可尋﹂何事かゞ(﹁末功課﹂も含めて)ある故﹁有故欺﹂ としたものか。例えば﹁有故欺﹂を中右記の立ち場にとれば'後に明 らかになる清衡と摂関家の接近が一朝に成るとは考えられず'こゝに 基家を起用しているが'基家が任期満了したとすれば(公卿補任)釈 任者は義綱である事が中右記に見られる。師実は義綱育成(源氏の主 家 で あ り な が ら 、 義 家 の 弟 で あ る 義 綱 を 対 抗 馬 と す る 意 図 が 見 ら れ る ) 策 を 進 めた1人である.義綱は応徳三年の時点では師実に奥州合戦の事の報 告者である。つまり'師実叉は摂関家の'義家庇護からの転向が読み とれるのではなかろうか。そして義家はこれから圧迫策に甘んじなけ 九
笠 巣 稔 ればならなくなるのでもある。 以上が、京都に見出される当時の記録からの推測である。義家は﹁朝 廷では公的なものと認めず﹂﹁罪人扱いに近い態度﹂(安田元久'源義家) でもって処せられた事を知るのである。 京都に於ける後三年役は、してみると奥州合戦も結局は私戦としてし か把えられていないと言えよう。清原氏の滅亡'奥州藤原氏の振興もI ある意味では停囚の存廃であり、むしろ貢物の順調な運上が京での最大 の関心で'義家の存在はその潤滑をさまたげた故'冷遇を受ける破目に 陥ったとも解する事が出来よう。 付'神宮文庫蔵﹁陸奥話後三年記﹂追加条の事 神宮文庫蔵﹁陸奥話後三年記﹂は名称の所で紹介したが、その書写時 は寛文を降らぬものである。後に述べるが、寛文二年刊行の﹁奥羽軍志﹂ 所収﹁奥州後三年記﹂と同じ奥書を有するが、そのあとに、 鎖欺 蘭碇寛永丙寅冬十月七日中背之夜鍋燭研露始終其功己 の一行を有する。これは松平文庫蔵本等も同じであるから、寛文二年刊 行本の性格を知る一つの手がかりとなるが、松平文庫蔵本も神宮文庫蔵 本も寛永の写本ではなく'寛永のこの写本を寛文頃までに書写したもの と 考 え ら れ る ( 本 文 の 性 格 等 も 併 せ 考 え て ) 0 而して'神官文庫蔵本は同筆で左の如き追加文がある。 私云旧本巻首己脱故勘諸事此一段追加 後冷泉院之細字源義家随父頼義討平安倍額/時間貞任宗任賞勲功義家 為従五位下出羽守清原/武則軍功依有之任鎮守府将軍振威於陸奥出羽 /両国其子二人有之兄武衡弟家衡云相続武則跡又貞/任党類藤原経清 云者有之秀郷後胤也其子云清/衡経清者被訣貞任同時其妻嫁荒太郎武 貞清/衡成武貞子続其跡武貞者武則可為子弟或説/武則奪取経清妻産 家衡然清衡与家衡種/替兄弟也武則没後武衡家衡与清衡相論之事/有 10 之不和也義家任畢帰京遥後白河院細字永保/二年比任鎮守府将軍陸奥 守下向奥州清衡出/迎武衡無異義家衡在出羽不従大義家出羽国家/衡 防之不入国中義家暫帰奥州武衡始在奥/州不従家衡策義家聞帰奥州行 出羽国同家衡/白河院細字永保二年源義家下向奥州掘河院御宇寛治五 /年冬討平清原武衡家衡自入国永保二年至寛治五年中年/八ヶ年也 寛治五年討伐終了は本文から取ったものであろうから、永保二年から計 九年説である。しかし'この文の眼目は旧本の巻首脱欠にょって'﹁勘 諸事﹂して成った文であるという事であろう。寛永の奥書で﹁此記巻首 旧本己脱云々﹂と記して欠脱を惜しみ﹁今欲捕獲官本云々﹂としている から、寛文の頃の書写時に追録されたものと考えられる。その原拠資料 が何であるかほ今の所知る由はない。 この追加文には康富記抄録本等と異り'巻首部分の主役真衡及び敵役 秀武の登場がない。登場者相互の関係を図示すると、まず第一説は' 可 為 千 弟 \_! 武 -武衡(兄) ﹁家衡(栄) -清 衡 ( 藤 原 経 清 が 子 ) となるし、或説にょると、 秦 刺 秦 ( も と 経 清 が 妻 )
清家武
衡衡衡
経清 となる0第1説は武別と武貞が﹁武貞者武則可為子弟﹂としているがI 陸奥話記には武貞ほ武別の子になっている(東鑑も同じ)。いずれにして も'清衡は経清の子である事に誤りはないようである。家衡は二説で異 るが、武衡は武別の子で一定している。武別にしろ武貞にしろ経清の妻 を嫁としたのほ'経清の所額叉は勢力を掌中にするためであったろうから'清衡は経清の遺領に執心があったろう。武衡は出羽仙北の'清原氏 旧地の主となったであろう事も間違いなかろう。とすると、武別が鎮守 府将軍となった時'又武貞も前九年合戦後'いずれにせよ経清の後家と 結ばれる事によって新地が開けたものと思われる。庄司氏説をかく解す る事が出来よう。清衡の成長は従って'経清の遺領を併合した出羽清原 氏の癌となったものと考えられる。第1説ならば武別の新地に家衡の随 行が考えられ'第二説でも武別の新地支配に家衡が清衡と対抗する事は 想像出来よう0第1説の方が家衡対清衡の抗争が清衡に経清の遺した勢 力が随うであろうと想像出来るだけにその激しさを考え得る。武則没 後、清衡対武衡家衡の抗争(﹁相論之事﹂)で﹁不和﹂であった所に義家が 国守で赴任したのである。義家は陸奥話記等から、前九年乱後出羽守と なっている。武別は鎮守府将軍である。義家に出羽の地がよ-なかった からであろう、翌年越中国を賜わりたいと上奏文を奉っている(朝野群 載二十二)。理由は父頼義の伊濠守に孝養が尽せない事にあったが'出羽も 越中も五十歩百歩である。義家が鎮守府将軍を兼ね得なかったからとす る安田氏説よりも'出羽の地の武衡相続の清原勢力がそれをなさしめた と考えられる。出羽旧地の武衡が﹁無異義﹂義家を迎え入れ得るのは管 ての勢力織盛なるが故で'新地に居て'威信の浸透し得ていない家衡は その入国を喜こばなかったものと考えられよう。そして'清衡は義家と 与党するに及び、武衡家衝の与党が対抗上生じたものと考えられる。 そして義家の出羽国清原勢力の征伐である事も、諸記録の記事に照し て間違いのない所とすれば、この追加文は'後三年記にょって埋めるし かなかった諸記録の行間を埋めるもう一つの資料となす事が出来るよラ に思われる。尤もその信愚性に至っての評価は、原資料との距離が康富 記抄録本に及ばぬうらみはあるが、詳細を知り得ない清衡武衡家衡のI 所謂清原家内紛という点からほ、共に賛否いずれとも決し兼ねるもので あ る 。 後三年記の研究上 第三節﹁後三年﹂の名称 かくて'基層と設定した清原氏内証の詳細は全-見当らず'上層に規 定した義家介入の一件も'実は詳細を知り得べ-もないのである。上述 の諸論も、その根幹を結局は後三年記に頼ったのであり、極端に言え ば'後三年記を論ずるのに京都の史料を用いたとさえ見えるのである0 この論法を更に績鐸すれば'後三年役を論ずる事は後三年記を論ずる事 になるとも言えるのである。後三年記が唯一の史料である事は言われる が'前九年役に於ける陸奥話記の果す唯一の史料とは性格が異るように 思われる。﹁史料の綜合にょって'事実に近いところ﹂(安田元久源義家) が 知 り 得 る の は ' 安 E E I 氏 程 の 専 門 家 に 於 い て の み 出 来 る 事 で あ る 。 所で、﹁奥州合戦﹂であったこの争乱が何故に後三年役と称せられる に至ったかほ種々論題となった所である。実質的な年数を示すものとし ても、漠然とした称呼であるとするにしろ'その論点を見出す必要があ ろ う 。 嘗 て ' 陸 奥 話 記 に つ い て 論 じ た 時 ' ( 拙 著 陸 奥 話 記 校 本 と そ の 研 究 ) 前 九 年役の称が実質的年数でない事を言ったが'後三年役についても同じで ある。而して'それは後代の人の把握した歴史観と歴史事実からとは実 質的年数であったとも言い得る。少-とも、後三年役を後三年記にょっ て考える現段階の私にはそう言えると思う。 一体'﹁後三年﹂の由来を尋ぬる時'その称呼の出来がかなり不明確 な事である。兵乱当時の称呼は﹁奥州合戦﹂﹁奥州□後合戦﹂(為房卿 記 ) ﹁ 陸 奥 兵 起 事 ﹂ ﹁ 義 家 合 戦 ﹂ ( 後 二 条 関 自 記 ) の 如 き で ' ﹁ 義 家 朝 臣 追 討停囚了﹂とする中右記の表記もみられた。通憲の本朝世紀はそれを承 け﹁陸奥合戦﹂﹁斬賊徒武衛等首﹂とし'百練抄も﹁斬賊徒平武衡﹂と はゞ継承的で'醍醐寺新要録に見えるのも﹁将軍三郎合戦絵﹂のよう に'踏襲する形をとっている。説話物の類では'最も早い今昔物語に内 一一
笠 栄 治 容があれば後三年役・記研究に一層有益なのだが'今は題名のみで' ﹁罰清原武衡等﹂を用いている。十三世紀の十訓抄'古今著聞集は、 ﹁陸奥守に下向の時子細ありて家衡・武衝をせめけるに﹂(十訓抄)﹁永 保年中に武衡家衡を薫けるとき﹂﹁其後永保の合戦の時﹂(古今著聞集) とや⊥不確定な称呼である。それは同じ頃吉田経房が見たであろう絵ち ﹁件絵義家朝臣為陸奥守之時与彼国住人武衡家衡等合戦絵也﹂としてい るのと一致し'固有の称呼の出来していない事を物語る。吾妻鑑の成立 には種々問題もあろうが'そして治承の義経頼朝の浮島会見の事となれ ば出典も考えねばなるまいが、そこでは﹁於奥州与将軍三郎武衡同四郎 家衡等遂合戦﹂と記しているし、三浦義村の称にも﹁葦祖三浦平太郎為 継奉属八幡殿征奥州武衡家衡以降﹂とあり、この時点まではまだ﹁後三 年﹂の称は成立していないと言えるO而して'十五世紀に入っては看聞 御記の﹁後三年合戦絵﹂康富記の﹁後三年絵﹂東に降って実隆公記の ﹁後三年合戦絵﹂の称が散見される。つまり'東鑑から後の看酵御記ま で'約百五十年の間にこの﹁後三年﹂の称呼が成立一般化したものと考 える事が出来る。看聞御記や康富記と同じ頃の撰と思われる尊卑分豚に は ﹁ 義 家 朝 臣 攻 武 衡 家 衡 金 沢 柵 三 ヶ 年 ﹂ ( 義 光 の 項 。 義 家 ' 義 綱 に は な い ) が見られ、﹁三ヶ年﹂が見えるのに興味がひかれる。若し、玄恵が後三 年記の序文を書いたとするならば'その貞和三年は十四世紀の中葉であ る。軍記物は概ね﹁後三年﹂の称を用いるが'玄恵もその著者の1人に 目されたという太平記は﹁我朝ニモ貞任宗任力合戦先九年後三年左軍源 平 ノ 辞 三 箇 年 ﹂ と あ る の が ( 写 本 の 関 係 で の 位 置 づ け に 困 難 は あ る が ) ' ﹁ 源 平ノ辞﹂が治承寿永の事とすると'﹁貞任宗任力合戦﹂と﹁先九年後三 年ノ軍﹂は重複するように思われる。貞任宗任の戦が十二年であったと するのは'東鑑までは﹁祖父将軍(頼義を指す)追討朝敵之比十二ヶ年之 間所々合戦﹂とあり'看聞御記も﹁十二年合戦絵﹂と明示しているしI 1寸古い所で愚管抄もこの称である。とすれば'貞任宗任の合戦が十二 一二 年で'それと重複して用いられた﹁先九年後三年﹂の称は偶々計数が1 致する故無視出来ない。つまり﹁貞任宗任力合戦十二年ノ戦﹂であった ものを九と三に分けたと考える事が出来るからである。とすれば'﹁先 九﹂か﹁後三﹂の両者叉はどちらか一方の称が成立していた事が推測出 来るのである。そこで'一番確実にとって'文保二年の奥書を有し、そ の時の写本と認められている彰考館蔵保元物語を見ると、﹁昔八幡殿ノ 後 三 年 ノ 軍 二 鳥 海 ノ タ チ 落 サ セ ﹂ ( 鳥 海 の 傍 書 ﹁ カ ナ サ ワ ノ 城 セ メ ラ レ シ ニ ﹂ ) が見出される。また'応永年問の写本ではあるが延慶のものと言われる 平家物語延慶本は、保元物語と同じ-大庭1族では﹁後三年ノ軍﹂を用 いている事が知られる。而して、行家の大神宮への願書には﹁祖父義家 朝臣・寛治年中難不経上奏為国家不忠討武平家平等﹂とあり、重忠が旗 を語る所も﹁八幡殿武衡家衡ヲ追討﹂としている。他も﹁陸奥守義家力 武衡家衡ヲ滅シタ-シ﹂﹁義家力武衡ヲ攻タ-シ﹂であるから景親の名 乗が'保元物語文保本のそれと同じだけに'その特異さから発生までも 想定出来るよう思われる。因みに延慶本での前九年の表わし方を見ると ﹁伊与殿八幡殿奥ノ十三年ノ合戦ノ時出羽ノ金沢ノ城ニテ七騎二打成 レ﹂﹁伊与入道停囚貞任宗任ヲ攻落サントテ十二年力内ニ﹂﹁伊与入道 殿貞任ヲ責給シ時﹂の如くで'景親の名乗を除く他の称と規を1にして い る 。 所で'延慶本平家物語で気づく事は地名に甚だ奇怪な事が起ってい る.延慶本では景正が高名は金沢柵であり大庭一族はこれを称する。し かし文保本保元物語は鳥海柵とし、傍書で金沢柵とする。後で誤りに気 がついて訂正したものと思われる。半井本も鳥海柵を襲用している。こ れに対し'右に引用した頼義等が七騎に打成され苦戦したのは陸奥話記 その他から前九年役の黄海の戦いであった。こゝでは合計年数十三年の 論議は別として、金沢柵と黄海の戦が混用されているのに気づくのであ る 。 更 に ﹁ 貞 任 力 寄 読 シ 事 ﹂ ( 延 慶 本 巻 第 二 申 ) に な る と '
源頼義朝臣安倍ノ貞任宗任ヲ被責シ時奥州信夫ノ乱レニ年ヲ経テ明ヌ 晩ヌト静テ十二年マテセメ給フ或年ノ冬ノ朝二鎮守府ヲ立テ秋田城へ 移給雪ハ深クフ-敷道スカラカツフルマ、ノ雪ナレハ射向ノ袖矢並ツ クロフ小手ノ上マテモ皆白妙二見エワタル自符ノ鷹ヲ手二居へタレハ 飛羽風二吹ムスバル、雪都ニテ見ナレシ花ノ宴ノ舞人清涼殿ノ青海披 ノ挟ニモ不劣ラコソミエラレケレ楯ヲ載テ甲トシ楯ヲ浮テ筏トシ云々 という語りが見出される。十訓抄(巻第六﹁可存忠信廉直旨事﹂)と古今著 聞集(巻九源義家衣川にて安倍貞任と連歌事)の合併版である事は瞭然であ る。白河院を﹁事の体幽玄なり﹂と歎ぜしめた則明の語りも或はか-の 如きであったかと思わせるのである。但'この三者は共通な出典源はあ ったかも知れないが'三者互いに直接影響し合ったと掛考えられないo 頼義の秋田城に移った徴証は陸奥話記その他からほ得られない。前九午 役と後三年役との舞台の相違でもある。秋田城は当時は武別の根拠地 で、衣河柵攻撃に秋田城を経由する事は全く考えられない。武別は衣河 等攻撃の為に営岡まで出張'頼義等と合流しているのである。とすれ ば、十訓抄・古今著聞集の講話は既に地理的な感覚に混用が見られると 言えよう。そして、漠然と﹁永保の頃﹂後三年役が起ったかのように記 すのもこのあたりからである。 かく考える時、延慶本平家物語や文保本保元物語の世界では'後三年 役も前九年役も'漠然と奥州における合戦という概念が出来上っていた と考えられるのではなかろうか。而して一方'大庭氏の如きは景正武勇 談を以って一族の栄誉とし'それが後三年の役での事として把握されて い'別に前九年という概念も出来したのではなかろうか。恐ら-大庭氏 が後三年を把握したのは、彼等の歴史事実の認識がそうさせたので'令 日通行の厳密な歴史観とは異っていたであろう。彼等の史実では三年の 戦役が認識されたと考えるべきであろう。 庄司氏の後三年絵から後三年役が成立したとは'吉記-醍醐寺新要録 後三年記の研究上 の記し方が合わないし'大庭氏の称は文保年中に於いて確定出来るとな れば'一三〇〇年代の初頭に於いて既に一部でそれが用いられていた事 になろう。延慶本平家物語に見られる幾つかの表わし方はその過渡的な ものを示していると同時に説話等に於ける所謂前九年後三年の戦役の事 柄に混用が認められ'更に前九年'後三年の称が他に成立していたと考 え得るなら'十二年合戦、前九年'後三年と全-三題話みたいな組合わ せであるが'出処を別にしたものが保元物語や平家物語'先の太平記の 重複感を免れない形の表記意識となって'偶々前九後三の計数の1敦が 更に今日商混用を招いたものと考えられる。 前九年'後三年の称呼の測源は'明らかな所では文保年中'延慶年中 であるから、その以前に存した事も確かである。それがどこまで逆上れ るかほ保元物語・平家物語の成立と密接な関係がある。又、吾妻鑑をち って後三年称呼成立以前の称の最下限と想定するならばその間三'四十 年間、保元平治平家等の物語成立をもっと古-据えるならば吾妻鑑と重 複してもよい。吾妻鑑に筆記された時点以前の称が筆録されたと考えら れ る か ら 。 か-て'私は、後三年の称の成立が'吉記の﹁義家'武衡家衡合戦 絵﹂から看聞卸記'康富記の﹁後三年合戦絵﹂﹁後三年絵﹂の称を成立 せ し め た も の と 考 え る 。 第 二 章 後 三 年 記 に 関 す る 研 究 上 第一節後三年記研究小史 後三年記そのものの研究はやはり池田家旧蔵本が中心となっている。 伊勢貞丈は本格的に取り組んだ人の'最も古い一人である。貞丈写の輿 州後三年記は'寛文二年刊行本の忠実な転写であるが'﹁奥州後三年記 の後に録す﹂として五項にわたって所見を書きこんでいる。今'伴信友 筆写本により'信友の書き込んだのも併せ記すと' 二二
隻 栄治 一'東鑑承元四年の﹁十二年合戦絵﹂は鎌倉将軍時代よりあったもの で'陸奥話記と後三年の物語をいう。 二右の'惟久筆、仲直等書す﹁後三年合戦の絵﹂の真木が﹁備史君宰 相忠雄﹂所蔵のものという。 一'この絵は玄恵の序があり貞和三年成る。承元四年の古画を百三十八 年後に新写し'玄恵序を草したという。 一'﹁武ひらは-﹂から始る故'1巻失せて三巻が残存. 1 、 貞 和 本 ( 寛 文 の 刊 本 を い う か 1 校 合 書 入 れ 本 は こ れ ) に 脱 文 誤 字 が あ る 故承元本を校合し'朱で示した。 とい-のが貞丈の所説の主旨で、その間に信友が更に評を書き入れてい る。 ①十二年合戦絵は承安本より古い吉記の記録がある事。 ⑧十二年合戦絵は俗に前九年の事をいう。計数の九・三年は両戦役の対 陣年を除いた合戦年を数える事。 ㊥常山楼筆録により'池田家現蔵本は北条家より神祖の御女が取り伝へ 池田家へ再嫁した折持参という由来をいう。但し四巻のうち三巻残存 な る 事 。 , ④吉記から﹁詞書モ画モ委クハ記サズアラ′\書タルモノ﹂の伝承せる を院宣で静賢これを製作せしめ、惟久はこれを写す。承安は承元の三 七年前'寛治より八四年後。 がその主旨で、信友らしく貞丈没後の常山楼筆録をもって一層理解を深 めている。信友のこの記より十年程前'本多忠憲の論考がある。図書餐 ママ 所蔵の、外題﹁後三年絵巻物集記﹂'内題﹁後三年合戦絵集説﹂で文化 四年記したという(内題と東北大学蔵同題木との関係は未調査)。そこに見 ら れ る 諸 説 の 紹 介 は 、 松平勝当説-公卿補任により行忠を考証'延文三より康安元までの成 立とし'貞和三から延文三まで十二年間で、玄慧'惟久同時代の人と 一四 す る 。 伊勢貞丈説-(﹁後三年合戦及蒙古襲来絵弁﹂等を参照か)書記所載の絵 と東鑑所載の絵を紹介し'現存のものは東鑑のものとし'五六巻のも の が 三 巻 残 存 と い う 。 屋代弘賢説-惟久の出自不詳なれど行忠等の公卿補任の考証から延文 三-六年成立とする。惟久も当時の人とし'巨勢系図の宗久を充当す る 説 ( 宗 久 は 飛 騨 守 式 部 丞 五 位 下 院 上 北 面 院 蔵 人 、 父 有 茂 は 後 伏 見 院 の 上 北 面 也 、 嵯 峨 清 涼 寺 の 蔓 茶 尾 の 害 者 有 久 は 叔 父 と す る ) 。 住吉慶舟説1惟久は亀山院文永頃の人とし'松平相模守現蔵本は当時 のもの'東鑑の﹁実朝公御代後三年画﹂画工は不詳。 の四説を引き'自説としてほ'東鑑の﹁此画はいづれの人のゑがけるに や詳ならず﹂とし'玄恵はこの古画を模写して(画は惟久)貞和三年序を 草し山門にこめた。現存本は承元より後'﹁延文年間に惟久のゑがける 巻本なるべし﹂とし'土佐光信筆の品ある由を難じ'明応頃の転写本で あ ろ う と い う 。 この他、常山楼筆録の絵巻の伝承の事を記したもの'除毛の硯や半日 閑話等の絵巻物の中から風俗的要素を論じたもの'好古小録の﹁画力精 好事々古ヲ徴スベシ﹂の如きまで多々あるが'いずれも池田家旧蔵本叉 はその亜流本をもってした論と思われる。唯'一博話に軍法等について語 るのは別として、細注に﹁此巻物は二位禅尼政子か'飛騨守惟久にかゝ せられLといふか云々﹂は惟久を住吉慶舟説より一層古くした説が通行 していた事が知られる。 序でに、惟久についての当時の考えを二三紹介しておくと、狩野永納 の本朝画史は﹁不知姓氏曽任飛騨守画奥羽軍記図﹂で、絵巻の所伝と同 じに考えてよい。画図考は'斎藤彦麻呂が諸説を引いているが、惟久を 宗久と同人とし巨勢氏の中に入れているo尤もこの宗久の諸記の7部は 後の桧山義懐の続本朝画史では、藤原伊久の項となり、所謂惟久の事は
なくなっている。また'伊勢貞丈の見解(本多忠患引用と同じとその二年 後 の 追 記 -諸 本 校 合 の 由 と 光 信 模 写 本 の 伝 写 本 故 ﹁ 何 れ の 本 と も か た づ か ぬ 物 ﹂ になった由)をも収載している。養穂綿顕文抄の堀直格も惟久を説-に 後三年合戦記奥書に依った事を示している。凡そ以上の通りで、惟久の 出自そのものには今日までも勿論つかめぬものがある。 さて'明治に入って早く国華などに後三年絵巻(池田家旧蔵本)の紹介 がなされたが'絵巻そのもの'詞書等に関する研究の本格化するのは明 治も末'三浦周行・和田英松両氏の論が同年に発表されてからであろ ら ノ 〇 三滴周行氏の﹁後三年役に関する新研究﹂が史学雑誌(第二二編第一 号'明治四四年)に発表された事は先の後三年役研究史で述べたが'後三 年記(絵巻)については'康富抄録の﹁後三年絵﹂と奥州後三年記(寛 文刊本'以下同じ)との異同八箇所'﹁軍記の残敵﹂部分から康富抄録記 事の考査八箇所をもって﹁史的価値を考定﹂された。﹁東塔南谷の衆読 に依りて作る﹂玄恵の序文に疑を残し、吉記の﹁承安本﹂と康富の見た ものとは﹁厳密に評すれば両者は全く別本﹂と考えられたが'﹁全く静 憲の合戦絵と同本ならざる迄も'其愚拠するところ此にありLを知﹂る 事が出来るとされた。また康富記の四巻は完本とし、池田家旧蔵本は罪 二巻欠脱を論じられたが﹁巻数の多寡に依りて軽々し-内容の異同を推 定﹂するのほ早計とされた。絵詞の評価は﹁其絵が当年の真相を写すに 忠実﹂'詞も﹁概ね準拠﹂出来るとし'却って史料となっているとされ る。康富記の抄録は﹁後三年軍記と相侯って此戦役の史実を発揮する﹂ ものとし'史上の欠陥たる奥州後三年記の欠文に﹁明噺なる聯給を与ふ るもの﹂と評価しておられるD池田家旧蔵本と康富の見たものとの同一 云々は問題があろうが'氏の紹介の功績と所論・評価は当っていると言 え よ う 。 続いて半年後、和田英松氏の﹁前九年後三年合戦絵巻考﹂(歴史地理罪 後三年記の研究上 一八巻六号)が発表されたo﹁二'後三年合戦絵﹂で'吉記の静賢製作の ものは(以下承安本と言う)由来不明であるが康富記に見えるものであり、 醗醐寺新要録の﹁将軍三郎合戦絵﹂も﹁同一のものなりLが如-思﹂わ れると論証されたo看聞勧記の六巻は別物とし、池田家旧蔵本四巻の名 称不定を原名でないからと推定'序は玄恵'執筆者画者を述べ製作動機 を紹介された。絵詞を奥州後三年記と対照'実隆公記から'詞・序が玄 恵'残存は四五六巻'欠文は二三巻とし、六人の執筆者と惟久との伝記 を考究されたoこの絵巻の所伝は延暦寺-勧修寺-禁中-北条家 1家康女-池田家なるも考証された。先の三浦氏の論文から程を経 ないためか'康富抄録記事に対する詳細な見解が知り得たらと惜しまれ る。 大正期は'池田家旧蔵本の複製が二度(二年と十一年)刊行されたが' その解説に'巻首縄文を言い、康富抄録記事で奥州後三年記首部と池田 家旧蔵本の間隙を埋め得る事を記し'これらの﹁事実につきて詞書も絵 もありしなり﹂と閲脱を惜しんでいる。 昭和に入っては'日本文学大辞奥の高木武氏の解説がある。﹁奥州後 三年記﹂の項は'名称に絵巻物として﹁後三年合戦絵詞﹂等'詞書だけ を集めた﹁奥州後三年記﹂等の別称を挙げておられる。先行作品に吉記 の承安本を考え'実隆公記に言う玄恵草六巻本が貞和三年成立'元禄一 四年以前に残閲三巻となっており'奥州後三年記はそれ以前に物語の体 をなしたとされた。諸本の紹介、梗概を言い、絵詞が本来で'物語風に まとめたのが奥州後三年記で、関脱部分を論じ'四∼六巻が原形と推定 された。記事は﹁簡朴にして真率な趣致﹂と評価、影響なども論じら れ'概ね三浦・和田説に依りながら'短文の中に氏の見解も取入れら れ、総括的な視点が伺われる。﹁後三年合戦絵詞﹂の項の田中氏は'池 田家旧蔵本について、もと四巻で一巻欠'貞和頃成立とし、当時は絵巻の 盛りを過ぎ'構図の単調、情景に人馬の動いていない事'衣裳等の古致 1五
笠 栄 治 を論じ'﹁丹精を篭めた精緻な作﹂と評価しておられる。 小川寿l氏は﹁奥州後三年記に関する1考察-寛文二年板本を中心 としての考察﹂(歴史と国文学第二二巻五号)を和田説に続くものとして発 表 さ れ た 。 寛 文 二 年 刊 行 の 奥 羽 軍 記 ( 奥 州 後 三 年 記 と 陸 奥 話 記 の 二 部 四 冊 ) は林春斎の便宜で刊行された由を述べ、奥書は春斎とし'一'本文は池 田家旧蔵本、二'暴刑批難'三、巻首脱文の惜しまれる事等を解説され た。玄恵序の欠脱部分について﹁徳川将軍家に対して面白くない﹂ので 省略、巻首欠脱は、奥州後三年記の欠脱部分一部充当の事を論じ'﹁チ キストとして最も大きな価値﹂であるとし'尚不足分は実隆公記の第二 巻であるとされた。﹁寛文頃の池田家の絵巻の本文を相当忠実に伝え﹂ ているのが奥州後三年記で'留意すべき点として'一'奥州後三年記の 号は当時の池田家の表題か'二一'玄恵序の省文は春斉か、三'元来池田 家旧蔵本は玄恵序を有したが、寛文∼元禄の問に紛失か'四、奥州後三 年記は巻首部分を有する、等の諸点をあげられた。絵については土佐飛 騨守光秀(玄恵が作らしめたものとも)のものを惟久が写したとされ'後三 年合戦記を作者の想像で描き﹁何とな-古風に現﹂わされていると評価 しておられる。寛文刊の奥州後三年記は考究すべき点が二'三あり'こ の説は、和田氏の論考に敬意を表して本質的考究に触れなかった(自序) 点に既に欠陥があったものと思われる。 時を同じうして桜井清香氏は﹁戦記絵巻の研究﹂を公刊し'蒙古襲来 絵巻'平治物語絵巻、前九年合戦絵巻とともに後三年絵巻を研究され た。和田英桧説の六巻本中残存四巷説をとり'結局欠脱は第三巻と推定 された。模写本に1部順序の異るものがある事、第三巻相当の欠文の 事、﹁前太平記﹂を論難し池田家旧蔵本を最古本と説かれた。康富抄録 記事'池田家旧蔵本詞書'奥州後三年記とを対照欠脱部分の検討からI 康富の記憶もれ'筆記もれ、玄恵の異見等から相異の生じた事を論じら れた。和田・三浦説を論評又参考としつゝ'応徳二年から三ヶ年の合戟 一六 を記したのが本絵巻とLt前時代絵巻を参考とした点'製作当時のもの を指摘'﹁風俗的価値は斑﹂があるとされた。内容寸感として﹁放預的 な芸術﹂ではないかとされてもいる。風俗史的観点が主に持ちこまれた のはこれが初めてだが'絵巻の古体伝承性の論定は'些戸時代のものに も見かけはするが'高-評価されるべきであろう。 戟 . 後 に な っ て は ﹁ 群 書 解 題 ﹂ ( 合 戦 部 H ) の 野 村 八 良 民 の 解 説 が あ る 。 玄恵の序文で作者・成立を認め'内容は群書類従-奥州後三年記によっ てなされ、文章等見るべきもののある事を指摘'参考に、絵巻物として 行なわれた事'池田家旧蔵本の逸品なる事等が記されている。 次いで、最近'高崎富士彦氏は﹁後三年合戦絵詞﹂上・下をミュージ アム(1三六号・七号)に発表された。序文から製作由来を言い'実隆公 記を補って製作時代を決め'序文の一時行方不明から中山家蔵を言われ た。絵巻は'承安本、承元本'貞和本と書き継がれたと推定、池田家旧 蔵本により内容を紹介'詞書に関する疑問点を指摘'奥州後三年記の上 巻前半と後半の矛盾錯誤を説かれた。吉記の承安本の内容は康富記で知 られ、又知り得る最後の年ともされる。当初の巻立ては、承安本は四港 で完結であるが'実隆公記は六巻本で現存はその三巻と序が存し第二三 巻欠脱とされ'巻数は﹁便宜上分合を行う﹂から承安本四巻は貞和本六 巻と同1視されているかに見える。画風は'惟久を巨勢宗久と同t人と する坦斎以来の説を認め、巨勢派の画風の不明な今日'絵画史上重要な 意味を持ち、南北大和絵として稀な秀作と評価された。そして'l、詞書 の内容を絵に忠実に表現したドキユメンタ-1的'二'横長の画面を充 分活用した連続描写'三'視覚が接近した描写法で'﹁精細に描写し、 個性の表現に努め﹂た似顔絵的'等の南北朝の絵巻にない特色をあげI 従って後三年絵巻は'記録的乃至故実的性質の多い後白河院時代絵画の もとに成立した承安本の感化を受け'南北朝的描写法を土台に描かれた ものと論じられた。桜井氏の古画参照による風俗に新旧ある由を述べら