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御子左家と六条家 : 中世歌学の伝統

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(1)Title. 御子左家と六条家 : 中世歌学の伝統. Author(s). 高野, 忠興. Citation. 北海道學藝大學紀要. 第一部, 7(1): 1-13. Issue Date. 1956-07. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3588. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第7 巻 第1号. 北 海 道 学 芸 大 学 紀 要 (第一部). 御. 子. 左. 家. と. 六. 係. 昭和31年7月. 家. -- 中 世 歌 学 の 伝 統 --. 高. 野. 忠. 鵬. 旭川分校国語研究室. Tadaoki TAKANo : The Fanlily of N1ikosa & the Fami ly of Rokuzy6 。. 篤 家 (1275 .5 .1 .段 78 才) は定 家 の 3 男、 兄 に 光 家 ・ 清 家が あっ た、 は じめ光 家が 嫡子 に さ れ た 1 ). が、 11才にして廃嫡離別され、 のち為家がこれに代った。 光家と清家とは同腹の兄弟で、 母は季能 卿女であった。 為家はそれと腹を異にし、 母は内大臣西園寺実相女であった。 その母の子としては 為家が長男であったし、 また事実嫡子と して家を継いだから、 ふつう為家が定家の長男とされてい 56年出家して融覚、静真と名のった。 世に中院 禅師、 冷泉禅門 民部卿入道などと呼ばれた る。 12 、 。. 1184 年 定 家23才 の と き、 光 家 が 生れ た。 定 家 は こ れ が 男子 で あ る こ と を 喜 び 、 心 中、 どう か こ. の子が出世して古来の賢才となり、 父祖重代のあと目を継いでくれるようにとこいねがった。 漸 く5 ,6才になるころから、 朝夕このむねを説き聞か せたが、 子供は親の心を知らず、 手習いを好ま ず、 出 来 がよ く な か っ た。 も て あま した 定 家 は 1194 年 つ いに 11 才 の 光 家を 廃 嫡 し た。 1196年 光 家13才の と き、 定 家 は明月 記 建久7年4月2 9日 に こう 書 い てい る。 光 家 は、 前 々 年 建久5年 以 来、 狂 事 に 逢 う て 離 別 しているが、 そ の 後、 日 野 資 実 の も と に 居 る. 由 を き い た。 こ の た び 呼 びよ せ て 会 って み る と、 殊 の外 成 人 して い る。 存 外、 狂 事 の 間、 す で に異 城 の 物 に 及 ぶ。 今 は じ めて 相 見 る。 故 御 所 粂賀 の殊 に 鐘 愛 し給 う た とこ ろで あ る そ 。. れを思うてこれを見れば、 今更に懐旧の涙を催す。 と。 これは光家が見違えるばかりに大きく成人したことをいうのである。 あいにく明月記には前々 年 建久5年を中 心 とす る 前 後 3 年 間 の 記 事 が 欠 けて い る の で、 ここ に狂 事 と い う の が 何を さ す か、 明. らかでないけれども、 あえて推測するならば、 本人かその母かに精神上の病気が起り、 そのために 別居したのではなかろぅか。 光家が幼時関白九条兼実に鐘愛されたことが見えるが、 定家はその九 条家の家司であった。 そして日野も御子左も、 九条と同じ北家藤原氏 の流れで、 同じ血筋をひくの である。 こののち光家は呼び戻されて父の家に帰り、 同居する。 1198年 定 家37才 の と き、 篤 家 が 生 れ た。 す で に1194年 に光家を 離 別 して 居 ると こ ろ か ら 定 家 は 、. あとに生れたこの子を大そう可愛がり、 その将来に一切の望みをかけるが、 惜しいことに、 定家の 性急がわるかったか、 時世がわるかったか、 子供の出来がわるかったか、 あるいはそれらのすべて が わ る かつた か、 と も あ れ、 定 家 はま た して も失 望 し なければ な ら な か っ た。 1213 年 定 家50才、 光 家30才、 為 家16才の と き、 定 家 は明月 記 建保元年5月] 6日 にこう か い て い る。. 16日天陰、午後雨隆。 少将鷺家、近日日夜蹴鞠に熱中する由 7 。 ,8才の折、 わずかに読ませた 蒙求百 詠 が ま る き り 覚 え られ な か っ た こ と を 思 い 出す。 一 家不 運 の し か ら しめ る と こ ろ、 魔. 縁積悪のたたりである。 泣くになけず、 独り悲 しむ。 ……予は元来胤子少く、 わずかに2人 一 喜.

(3) . 高. 忠. 野. 興. の男子のみ。 それがそろいもそろっていろはさえ書けない有様である。 家の滅亡眼前にあ り。 為 家の 如 き が 分 に あ らず して 近 臣 と な る こ と、 こ れ が ま ち が い の も と、 悪 縁 と い う べき であ る。 悲 泣 の あ ま り、 こ の こ と を 注 す。 後 塵 の た め な り。. 22日朝徴雨、 即ち晴。 少将鴬家、 毎日蹴鞠して怠らず、 心肝くだいてこれを好むと。 貧老の 長生きは悲しいことを多く見る。 往年光家・鴬家の生れたとき、 至愚不覚の心には、 その男 子たることを喜び、 心中、 古来の賢才たらんことをこいねがうた。 ……頼む信力あだならず して、 冥々の助けあらんか、 社穣の器量を有して、 先祖の恥辱をすすがんことを。5 ,6才に な る ころ よ り 旦 暮 泣 いて この 意 趣 を 含 め た が、 兄ま ず 父 の 命 に 逆 らい、 30才 に して ま だ 仮名. 文字が書けず、 弟またこれと同前、 御所の勤めの忙がしさを口実にして父の教えに従わな い。 ともに不孝不善の者である。 二人が生まじいに成人して、 それが目にふれ耳にきこえ る た び に、 予 の 心府 はく だ か れ る よ う で あ る。. 定家はすっかり失望した。 しかしそれでもほってはおけず説得につとめた。 一方、 子の為家はま 一条 すます蹴鞠に熱中し、 やがて評判の上手となり、 その道に名をのこした。 室町時代にかかれた 33 条夏 : 享徳二年晴之御鞠記 〔雲井の春〕 には次のごとく伝えている。 群類巻5. 後嵯峨院、 後深草院、 亀山院な ど、 この道の中興にてましましける。 そのころ中院大納言篇 家郷と申しはべりし人、 堪能につきて、 あげ鞠な ど承りけるとぞ。 出家の後、 亀山殿の御鞠 に七十七にて召し立てられ、 父子 鴬家罵氏 ともに無 紋のふすべ革のしたぐつなど許されはべ り て、 世 に た め しな き こ と に申 しは べ り。 こ の 人の 族近 き 世 ま で も 相 継 ぎ は べ り しに、 今 は 御子 左 のあ と なく な りぬ る こ と、 ふ し ぎに お ぼ え は べれ。. さ て清 家 鍵定 に つ い て は、 定 家の 明月 記 にも 余 り 沙汰 す る とこ ろ な く、 ま して 嫡子 に 立 て る こ と も な く、 詳 し いこ と は 解 らな い が、 た だ1192年 明月 記 正拾元年,明 7H に 《清 家 幼名定纏 が大 臣 殿 内大臣九 係良把 に お 目 に か か り、 清 家 と 改 名 した 由 を 申 して、 お ほ め に 預 っ た》 という記事が一つ見える。. いわゆる元服である。 このとき為家は2才、 光家は16才であった。 清家が光家の弟とすれば、 清家 は13才 か ら15才 と い う と こ ろ で あ っ た。. 定家. 1). - 1 光家 清家. 1 為家. 1 覚源. 1 定円. 1 女. 2 ). ィ 変成. 要務. 定家. 安 泰経. . } 為家. -. 捲き. . 能保. . 衰経. 女. L 計 -. - 道家. 頼経w. 安. . 1 女. 1 女. キ ーヰ ., 頼も. . 実朝 -- 頃家, ,. -. 公暁.

(4) . 御子左家と六条家 2. 定家が家を重んじたのは当時分別のある男なら当然そう したに違いないことで、 別にかわうたこ とでないかも知れないが、 しかしそのころ六条家との捨抗において、 定家がずいぶん努力 した結 果、 定家の力ではじめて御子左家というものが完全に歌の家として確立し権威をもつようになった こと を 思 え ば、 定 家が 家 に 執 著 しあ き ら め きれ な い でい る の も当 然 のこ と で あ る。 定 家 が一 番 よ く. はたらいたのだから、 自ら築くところの多かったこの重代の名誉の家跡を、 子に継がせ、 そして自 らの延長をはかるというのは、 無理もない願 いであった。 それに しても、 第一に、 定家には性急な一徹なところがあって、 極端にはしる傾きがあった 彼 。. の書風にもそれがあらわれているが、 子供の教育にあたってもそれがあらわれたのである 是が非 。 でも家を 維持しようということ、 自分の満たされなかった望み・実現しなかった理想を子供によっ て 満 た し実 現 しよ う と い う こ と、 こ れ を 性 急 に 強 行 した。 これ を、 子 供の 小 さ い 時 か ら、 待 ち きれ. ずに実行 し、 仕込みはじめた。 子供はいやでたまらない。 手習いもうわのそらで、 だんだんにげる こ と を考 え る よ う に な る。 《手 習 い せ よ と 強 い られ る か ら 、. 光家・為家の心理であった。. 手習 い が い やに なる。》 こ う い う の が. そのうえ、 第二に、 時世がよくなかった。 承久の乱の直前にあたり、 昼夜洛中を群盗が横行する 物騒が しい世の中であった。 こういう世の中に生きている多感な若者として 為家らが 桐火桶を 、 、 か か えて 畔 吟 して い るよ う な 物 静か な けい こ ご と に じっ と 辛 抱 して い られ る わ け が な い ゎ る い 、 。. 時世であ り、 止むを得ない時世のうつりかわりであった。. それから、 第三に、 一体為 家という人は太って大きな人で 元気で明るい 世間的で社交的な性 、 、 質で、 父のような絹介や偏癖や頑固さがなかったから、 人に好かれ、 自らも人中に出ることを好ん だ。 手習いを嫌ったかわり蹴鞠に熱中 し、 家に居付かず 仙洞御所に詰めきって 日夜この競技に 、 、 精を出Lた。 運動家らしい為家の人づき合いの好さが やがて官歴の昇進に あらわれてくる 父の 、 。 官歴にくらべても、 また家柄からみても異常な 昇進をする。 父が7 1才にして漸くなった権中納言. 従二位 に為 家 は 39 才に して な り、 父 が と う と う な れ な かっ た 権 大 納 言 正二位 に 44 才 に して なっ て い. る。 これは一つには、 承久の乱後、 為家の一統の九条家・西 園寺家が権力をもったことにも由るの である。 為家はよい人物であったが、 Lかし、 官人としては余り有能でなかった 教養が不十分な 。 ので、 職務に暗く 才能に乏しく、 関白九条道家の玉薬 に 『無才無智 非登用之仁』 と評せられてい 、 るく ら い で あ る。. 第一に定家の性急、 第二に時r世の乱れ、 第三に本人の不出来によって 家のあとつぎが絶え 家 、 、 の滅亡眼前に迫ると定家をなげかせた事態が、 思わざる出来事によって急転 し 鴬家 はすっかり心 、 を入れかえ、 家業に精励するようになった。 それは承えの乱 である 。 12 21承久 3年 為家が入りびたっていた仙洞 御所では後鳥羽上皇o順徳天皇らが執権北条 義 時 を 討. とうとして却って敗れ、 後鳥羽上皇は隠岐に、 順徳天皇は佐渡に流された 仙洞はさびれ 蹴鞠ど 。 、 ころのさわぎではなくなった。 けれども幸なことに定家は新 政権につながる九条家・西 園寺家と縁. 故が深かった。 乱後に摂政関白をつづけた九条家とは親類 でもあるし定家がその家司と な っ て い る。 乱後直ちに太政大臣となり、 15年の長きにわたり在任した西 園寺公経は 定家の義兄 妻の兄 で 、 あった。 また承久元年になくなった将軍実朝には定 家が歌道の師匠をつとめた こういう関係があ 。 るので、 いきおい定家・為家は、従来のごとき渋滞をすてて、順調な官歴の昇進 をみるようになり 、 さすがのんきな運動家の罵家も、 ここですっかり心を入れかえ、 家業をまもり、 歌のけいこにはげ. むという殊勝な気を起すようになった。. - 3 -.

(5) . 高. 忠. 野. 興. 3. 定家があたりを刈 り払い地ならしを して御子左家の地盤をきずき上げたからこそ、 そのあとを継 ぐ鷺家の地歩は極めて安全であった。 反対勢力の六条家は定家に刈り倒されて凋落し、 御子左家が. 歌壇の中心となった。 あとつぎの為家には、 父のものを守ってゆく限り、 革新の意欲を起さない限 り、 何の苦難もある筈がなかった。. 為家は宗家を維持する為に、 父のもので身を一杯にふくらませた。 ふくらませた結果は、 中身が 空だった。 天は為家に健康と陽気とを与えたが、 その代り父ほどの才能も、 惜 しんで与えなかっ. た。 俊成や西行はせのびをしない で一頭高く衆にぬきんでる人であったが、 定家はまけじとせのび をした。 為家になると、そのせのびをさえしなかった。 為家は父にたよりすぎ、自分の力をたくわえ る こ と を 忘オtたの で あ る。 父 の 定 家 は 努 力 して、 俊 成 を 通 っ て 俊 成 の 上 に 出 る と こ ろ も あ っ た が、. 為 家 は 定 家 を た よ っ て 定 家 の中 に 入 り こ ん で しま い、 そ のま ま と う と う上 に 出 る こ と を し な か っ た。 定 家 の と ころ へ 火を も ら い に ゆ き、 火 に あ た り こ ん で しま い、 火を も らっ て かえ る こ と を 忘 れ て しま っ た よ う な 人 で ある。. 俊忠、 俊成、 定家と次第に 向上してきた御子左家の運は定家を頂点として、 篇家の代から降り坂. と な る。 4. 為家の歌論は定家の亜流であり変形である。 変形されたものではあるが、 御子左家の権威をおび. てく る と、 正 統 な歌 論 と して、 飾 り も の の よ う に、 手 か ら 手 へわ た さ れて、 伝 わ りは じ め る。 為 家 ’ とか ” 心 の 深い こ の代表的な歌論書である 詠歌一体において ”詞なだらかに言い下すこと’. はそ と”を主張しているが、 これらはいずれも定家の考えの範囲を出ない。 詠歌一体 を各条についてし らべてみると、 定家の毎月抄以上のものはあらわれていない。 大てい定家の考えの再現であるか変 形である。 よりよい意義や価値はないのである。 それゆえ、 詠歌一体をとおして底にみられるもの と毎月抄をとおして底にみられるも のとの間には、 大きなひらきがある。 両者の態度に大きな相違 がある。 その比較の上から考えると、 詠歌一体の特徴は第一に消極的であること、 第二に作法的で ある こ と、 こ の 二 点 に 要 約 で き る だ ろ う。. 第一に消極的であること。 詠歌一体のもののいい方は積極的 でなく消極的であり、弱々しく、平板 に記述する。 説明的でなく記述的である。 説くのでなく述べるだけである。 弱々 しい消極的な態度 である。 毎月 抄は定家が目上の 内大臣 衣笠家良にあてた手紙であるからげんそんに語っているのだ が、 それでもその中に何ものかを説明し主張しよう とする意力がひそんでいる。 時にわかりにくい 言い方をすることもあるが、 それは考えの行きづまりや停滞や苦渋を示す とともに、 それが却って 苦渋をつきぬけつ きぬけ進もうとする意力を示しているかに感ぜられる。 ところが詠歌一体には説. 明や主張をするところがなく、 すべて平明である。 むつかしいところがないかわり、 承継L たも の を記述Lた弱々 しい調子があるばかりである。 どちらかといえば毎月 抄には動的な調子があり、 詠. 歌一体には静的な調子があるといえよう。 定家は身体も丈夫でなかった様だが、 それでも刻苦経営 した人である。 苦しんでもなお求めよう とする意力のあった人である。 人は苦しんで得たものをまず愛する。 苦 しんでのち到達した思想、. 苦しんだあげくつかんだ思想、 苦 しみにかえて得た思想をまず何よりも愛し、 これをかたく守る。 これはかけがえのないもの、 これにもとづいて全生命が支えられているものである。 もしこれを失 えば生命の支えがなくなるのである。 人のこれを愛することは、 さながら母の子を愛するのに似 - 4 ー.

(6) . 御 子 左 家 と 六 条 家. て、 理くつなしのものである。 母は苦 しんで産み苦労して育てたわが子をひたすらに愛する。 その 優劣美醜にかかわらず、 愛せずにおれない。 醜い故に愛し、 愚かな故に愛する。 それと同様に 人 、 が苦しみの代償としてつかみ得た思想は、 その人にとって単なる知識にとどまらず知識以上のもの である。 彼は苦しみ、 悪戦苦 斗 し、 苦難をつきぬけて追求する意力を以て それをここまで追求し 、 て 来 た の で ある。 そ う して つ か み得 たも の であ る か らこ そ そ れ は 単な る 知 解 に と ど ま ら ず 単 な 、 、. る知識にとどまらず、 知識以上のもの、 信念とまでなっている 彼はそれを体得した瞬間 知性の 。 、 満足と共に 深い心情の満足を得たのである。 それがやがて生命を支える支柱となった ゆえに人は 。 容易にそれを手放そうと しない。 定家は実にそのような人であった 。 歌の深い道を考えることは無限を考えることであり それを有限な人間がする以上 苦しまずには 、 、 で きな い こ とで ある が、 しか し苦 しま ず に で きる 人 も別 に ある だ ろう そう いう 人 は 安 易 に 知解 し 。. うるだけ、 また容易に離れ去ることができる 知解だけの人は執着 しないし 融通がきく 頑強な 。 、 。 信 念が な く、 生 命 の 支 柱 と い っ た も の が な い か ら で ある わ か りよ く こ だわ らな い 代 りに、 節 操 。 、. がない。 かりに冷 静で聡明な知識人があるとすれは、 そういう知識人がこれにあてはまるかも しれ ない。 為家は少 しちがう。 為家はそういう知識人ではなかった けれども苦しまずに知解 したもう 。 一種の人であった。 俊成があちこちの花からあっめ 定家が それに倍する働らきを して、 あっめて 、 溜めた花の蜜を、 なめてなめつくすのに一生かかっても足りなかったような鷺家だから 何ほどの 、 苦 しみを も経 て い ない の で ある 彼 の 自 信 の な さ ・ 調 子の 弱 さは そ こ か ら 来 る しか し、 他 のこ と 。 。. とちがって詩 歌の堂奥に達するには 偉大な激情がなくては叶わない 消極的な為家には 、 。 、 ついに 詩歌の堂奥を極 める資格がなかった 。 第二に作法的であること。 詠歌一体はせよ ◎ ず べからずという作法・法式を例示 するばかりで、 理論 を欠 い て い る。 俊 成 ・ 定 家も こ う い う こ と は あ まり しな か っ た 為 家 の あ げる 作 法 を み る と 定 。. 家が 毎月 抄に い っ て 居 る こ と と 殆 ん ど変 ら な い が、 定 家 はそ れ を 軽く 扱 っ た 毎月 抄 に も 《夫性病 。. におかされぬほどの歌になりぬれば、 いづれの病も徒らにて候ふべし》 と 言 って 居 る 定 家 は ほ か 。 に目 的 が あ っ た の で、 作 法 な どを 目的 と した の では な か っ た しかる に 詠 歌 一体 で は 作 法そ の 。 、 、. ものが目的であり、 手段であり、 すべてであった。 後成が宗教的に 定家が芸術的に それぞれい 、 、. くらか の違 い こ そ あれ、 両 者 は ひ と しく 高 く 遠 い 理 想 を 恰 も北 極 星の よ うな理 想 をも と め て い 、 、. た。 両者が理念の問題を考えすすめたのも この高く遠 い理想をもと た結果にほかなら め ない。 そ 、 れへの道しるべと して古来伝えられた作法 o 法式を用いたのだが それはどこまでも 手段と してで 、 ある。 これに合ったから、 これに外 れなかったからといって それで十分なのでない こ 、 。 れに合っ て も、 外 れ な く て も、 や は り不 十 分 な の で あ る 理 想 は 到 達 しが たい 高 い 空に か か て っ い るか ら 。 、 であ る。 こ の よ う な 意 味 で、 俊 成 らは 歌 を考 え た と こ ろが 為 家 に あ っ ては 作 法 そ の もの が 目 的 。 、. であった。 俊成らの理想は宗教的なまでに高い理想であったが 為家の理想は それをも理想と い 、 、 ってよければ、 手近い平凡な理想 であった せよ・すべからすの道 しるべが為家には大事なので 。 、 これに合い、 これに外れなければ、 それで十分であった 作法o法式が歌の道であった 俊成らに 。 。 あっては自由な理念が宗教的世界にまで入り込んでいた 湧き上るものがあり それを 抑えて高い 。 、 方向に 昇らせるために、 ある抑えを要した。 それが法式であり道 しるべであったが 湧き上るもの 、 の な いと き 湧 き上 る も の の な く な っ た と き 形 骸 の 抑 えに 何の 効 が あ ろう か , 。 害 の あ るく らい の も. のである。 宗教的・精神的なものは失われて道義 的 o制 度 的 なも の が あ と に の こ る 。 これ ら の 作 法o法式o戒律・儀礼はいましめとな り、 自由な発想を妨げる 為家のいう制禦の詞がそれであ 。. る。 病 の詞 と い う こ と は 古く か ら言 わ れ て い た が 制 禁の 詞を 考 え たの は為 家 か ら であ る。 な る ほ 、 ど病 の 詞も 制 禁 の 詞も 共 にこ と ばの 制 禁 で あ る しか し病 の 詞 は あ る こ と を を美醜の点から美 し 。 、 - 5 -.

(7) . 高. 忠. 野. 興. で く な い と し、 病 と し たも の であ る が、 制 禁 の 詞 は、 ある こ とば を、 こ と ば の 美 醜 や 価 値に ま は 立. 入らず、 ただ先人がそのことばを用いたという理由だけで、 先人をは ばかって、 それを用 いてはな せの らぬ とす る。 《ぬ しあ る こと ば な れを 、 ょ む べ か ら ずヵ 詠歌-休 とす る。 ま た俊 成 ・ 定 家 は 歌 合 のだ 判 の とき な ど、 そ の 場 合 の そ の こ と ば の 用 い方 は よ く な い と いう だ け で、 個 別 的 に 云 っ て 居 る こうい が、 為 家 に な る と、 ど ん な場 合 でも 一 般 に そ の こ と ば は用 い て な ら な い と考 え るの であ る。. う制禁はまだある。 たとえば次のような事実がある。 定 家は 近 き 世 の 人 の こ と ば、. こ の 頃 の 人 の こ と ば を 卑 しん で用 い な か っ た。. 少 く とも そ う 考 え. 0年の近き世とそれから今の世とこの二つの世のことばは美 しくない、 雅やかで 8 た。 定家以前7 , のこ な い。 い や し く ・ わ るい も の で あ る と して、 こ れ を 避 け たの である。 近 代 秀 歌 に、 定 家 は、 こ と を こ う 説 い て い る。. 近 き世 の た だ じ世下 り 人 の 心お と り て た けも 及 ば ず、 こ とば も い や し く な り ゆ く、 い は ん や. の 人はた だ思ひ得たろ風情を三十字にいひつづけむことを先として、 さらにすがた・ことば おもむ きを知らず。. 今 の 世 と な り て、 こ の い や しき す が た を い さ さ か変 へ て、 古 き こ と ば を した へ る歌 あま た 出 で 来 り て、 … …. つぎに、 今の世に肩を並ぶる輩、 たとヘば世になくとも昨日今日というばかり出で来る歌は 一 句 も、 そ の 人 の よ み た り しと み え ん こ と を、 必 ず 去 らま ほ しく 思 ふ給 へ は べ る な り。. 為家は、 これに対 し、 近き世・今の世の二つの世のことばをいやしくわるいものとはいわず、 ぬ しあることばなればそれを尊重して避けよというのである。 先人の創意を尊重し、 模倣をいましめ. と る つ も り か ら 出 た こ とも であ ろ う が、自 由 な 発 想を 妨 げ る こ と こ れ よ り 甚 しき は な い。歌 が ひ り ひ と り の 個 人 に う たわ れ て い た 間 は こ ん な こ と も な か っ た が、 うた が 道 と な り、 歌 道 と な り、 社 会 的. に行われてくると、 妙な作法や法式や戒律や儀礼が生れてきて、 まるで枠にはめられるように規制 される。 こうして、 芸術は 生気を失い、 精神は枯渇 し、 その形骸だけが頑丈にのこる。 定家は美 し い雅語を求めて作法を設けたが、 為家や為家ののちの人人はその作法にこだわり、 それを戒 律とし それを目的 とし、 もとの定家の意図や目的 を忘れて しま った。 制禁のことばはだんだんふえ、 詠歌 制 詞 に い た っ て 376 句 を 教 える。. さて為家の仕事の性質は模倣的であり、 仕事の分量も定家にく らべてはるかに少い。 新しいこと したがい、 定家のものを墨守しようと したものである。 定家の精神はすでに生 をせず、 ただ定家に◆ 気を失った。 ただその形骸だけが伝承されてい った。 5. (御子左) 、冷泉家の三 、京極家 (毘沙門堂) 為家の後、 三家の分立がは じま った、 三家とは二条家 のり 為相 家である。 二条家は篤氏から、 京極家は鴬教から、 冷泉家は鷺相からはじまる。 為氏・為教・ 門院四条 尼であ 阿“ - - は異母兄弟 で、 為氏・為教の母は宇都宮頼綱女、 為相の母は佐渡守度繁女・安嘉 った。 三家分立の因は3人が異母兄弟であること、 また父為家の性格の弱さに発している。 はじめ為家は荘園2ヵ所を長子の篤氏に与えた。 それは播磨国細 川庄と近江国吉富庄との二つで ある。 こ の 一 つ の 荘 園 は 定 家 の こ ろ か ら領 して い て、 定 家 か ら為 家 へ と 伝 え ら れ た も の で あ る。 定. 家の荘園は、 明月記によると、 細川庄・吉富 庄・三崎庄・山田庄の一郷・弘田郷・越前小森保な ど にあり、 まだ能登・信濃・越後・伊勢にあったら しい。 その中で主要 な領地は細川 庄と吉富庄とで あった。 伝来のこの二領地を、 為家はは じめ長子 の鷺氏に与えた。 のち後妻安嘉門院四条 右筒門佐の 愛におぼれた為家は、 その中の一つ細川庄だけをとり上げて末子鷺相に与えた。 その際遺言状をか - 6.

(8) . 御子左家 と六条家 御 子 左 家 系 図 為家 二憐. 京極. 為氏. 1 「 「 五係. 為世 , . . 為実 1 . 為数. i l. 為顕. 冷泉. 為相. 為守. f. 為兼. 為秀 , . . . 上冷泉 為之. 1 為勝. 下冷泉 持為. 為純 r 〆将. f 幌窟. いて与えたものである。 為家の生前はそれでよかったが、 段後ことがもつれた。 為家の段後安嘉門 院四条は出家して阿悌尼・北林禅尼といった。 この細川庄というところは今の兵庫県美嚢郡三木市 細川町にあたる。 須磨・明石の裏手にある平野で、刃物の産で名高い。三木の鎌といえを 全国の農民. に知られている。 美嚢は延喜式に出てくる古い地名で、 延喜式にはみなきとょませている。 倭名抄 しめつちよう ・ o o にも美 奈 木 と あ る。いま これ を みの う とよ む の は、出張 るが 出 張 と よ ま れ た よ う なも の で あ ろう。 0.‐. oo.. とに かく み な きか ら み き の 名 が 出 た も の で あ る。 j ~ やきと とよカ. みき. そ の 三 木 の 中 に 細 川 とい う と こ ろ が あ る。 細. 月1の 中 の 首 里 を 豊 地 と い う。 大日本地名僻書. ・. 6才の時の子、 為相は父為家が66才の時の子である。 年令が4 為氏 は父為家が2 0年からちがう。 為 1 2 7 7 5 8 家は 年 才で残したが、 そのとき為氏は53才、為相は13才であった。 毅後間もなく、鷺氏と為相 代理阿悌尼との間に、 細川庄をめぐる遺産争いが起 り、 訴訟のため阿仏尼は幼い為相に代って、 独 り京都より鎌倉へ赴き、月影の谷に住み、その裁決を待つが、 幕府は弘安の役に忙しく、 容易に裁決 を 与 え な い。 そ の う ち 阿 仏 尼 は 裁 決 を 見 な い ま ま1283年 鎌 倉 で殺 し、 つ づ い て 相 手 の 為 氏 も1287年. 京都で殺した。 すでに為相の家 冷泉 は為氏の家 ニ燦 から分れて別になっているので、 係争は当事者 阿仏尼・為氏が殺してもやはり両家の争いとしてのこってゆく。 こんどは為氏の子鴬世と鴬 相との 間 に1295年 再 び 係争 が は じま り、 為 相 は この 時 自 ら 鎌 倉 に赴 い た。 この 件の 落 著 した の は 更 に19年. 13年になってからのことで、 将軍守邦王が執権北条無時に命 じて裁決せしめ鴬相の勝とし 後の13 た。 この係争は前後43年、 鴬氏対阿悌尼から篇世対篇相の二代に わたるながい争いであった。. 為氏と為相とは異母兄弟であるが、 年令は40年のひらきがあって、 為氏の代にはまだ為相の冷泉 家はあらわれていなかった。 為氏の子為世の代になって漸く冷泉為相があらわれたのである。 とこ ろが、 その為氏の代に対立の気勢をみせた一方の相手があった。 それが同母弟の京極篇教である。. 為教は兄の為氏と母を同じく しながら互に合わず、 細川庄の争いに際しても、 かえって為相方をた すけたくらいで、 三家のうち京極家は早く二条主家に対する反対勢力となった。 その対立は次代の 篤世 コ篠 o篇乗 京鏡 にいたって激烈となり、 それぞれ二大政治勢力であった大覚寺統・持明院統に 結 び つ いて 歌 壇の 主 権を 争う。 いま こ れ らの 人 人 の 年 令を み る と次 の と お り であ る。 二傑. 京柄. l. . 為氏1 2 2庄 2 為世1 2 5 1庄. 為教1 2 2 6生 為兼 1 5 2 4生. 冷泉. 為相 1 2 6 3生.

(9) . 高. 忠. 野. 興. 篇相は甥の為世 o 為兼よりも年がわかく、 当然為世・為兼の代に列する人であるが、 その間にあ っても、 為相は為世・為兼の対立にかかわらないで、 静かに中立の立場を とり、 別派をなしていた やがて京極が衰えるころ冷泉の努力は伸長し、 京極に代って二条主家と並び立ったが、 更に京極亡 び、 また二条主家亡んでのちも、 ひとりのこって歌の家の伝統を永く伝えていった。 辛抱づよいも の が かち の こ っ た よ う な 観 が あ る。. 渥寓は実にこの冷泉家下伶泉9世の孫で、細川庄豊地 江戸時代の初期、近世儒学の祖といわれた藤原i 1世の孫に当る。この幌鴬の父参議篤純は三木郡細川村を領して から出た人である。 為相9世、定家1 いた最後の領主である。 この時別所長治 というものが細川庄をおかして来た。 父為純は長子為勝と. 共に防戦して敗死 した。 そこで3男怪高は秀吉にこの由を告げその援助を得て父のかたきを討とう とした。秀吉は時を待つにしかずと答 えて援兵を送らなかった。このため遂に定家以来重代の土地を. 亡 って しま っ た。せぃ編女集しか し下 冷泉 家 は為 純 の あ と 2 男 為 将 が継 い で、そ れよ り12世 為 勇 に 至 る。 6. 六条家は藤原顕季から始まる。 顕季は犬条烏丸に住んでいたから世に六条修理大夫とよばれた。 それよりこの家を六条家とよぶようになった。 六条家が御子左家と交渉をもつのは清輔o顕昭の代 である。 六条家は顕季・顕輔父子の代と清 輔・顕昭兄弟の代とではその趣がちがっている。 顕季・. 顕輔父子はともに歌人で、 歌学を論ずるようなことをしなかったが、 清輔・顕昭となると歌人とし てより歌学者としてきこえた。 ことあげをするようになった。 丁度そのころ、 御子左家に俊成があ らわれ、 歌よみのほまれが高かった。 それから両家はちがった特色をもつて並び立っこととなる。 六 条 家 系 図. 隆経 . 1 顕季. 隆志. 1 静命. 顕お. 1 覚顕. 〆宗. 1 顕賢. お 滑. 1 顕成. 1 重家. 1. 1. 1. 1 師隆 1 長実. 1 家保. 清季. . . . 尋顕. 1 「一. 公寛. お 顕. 養子. 1 季経. 経家 顕家. 知 家蓮性 行家. 顧季は禽葉風に傾倒し、 人麿影供などを行い、 古今風の全盛な時代にあって異彩をはなったが、 その子顧輔には万葉集に親しまぬように訓えたともいう。 そういうところをみると、 純粋に傾倒し たのではなくて、 反抗的o対抗的な意識がはたらいたものかとも思われる。 しかし、 とにかく人暦. 画像を、 息子でも歌 の巧 みなものにだけ伝えるといって、 一子相伝で顕輔に伝え、 顕輔これを清輔 に伝え、 清輔これを経家に伝えた事情をおもう と、 やはり六条家には万葉集を尚ぶ伝統があったと いえる。 清輔も顕昭もともに前代から伝わってきた伝統によって万葉集を重んじている。 ・六条家が 万葉集を重んずるのに対 して御子左家は三代集 を重んじて、 両家は特色ある対照をなした。 六条家の中では清輔がもっとも歌をよくし、 他の兄弟は歌人として殆ん どいうに足りなかった。 後鳥羽院口伝は六条家の人人の中では清輔のみをよしとしているが、 それさえ 《清 輔 は させ る こ と. な け れ ども、 さす が に 古 め か しきこ と ま ま 見 ゆ》 というものである。 清輔o顕昭らが万葉のことば 8.

(10) . 御 子 左 家 と 六 条 家. をつとめてとり入れて歌をよんだということは、 万葉を敬遠 した俊成・定家父子とことな る点であ 、 るが、 これも六条家がしいて異をたてたと考えられるふしがある。 一般の好尚は古今 風にあり、 万 葉風にはなかった。 その古今風を代表するのが御子左家であった。 六条家はめずらしく万葉風のこ とばをつかってはみるが、 真に万葉の心にかえったものではなかった。 ことばは万葉に借りて、 こ ころは当時の古今風の情趣を出なかった。 清輔・顕昭らの歌は概念的な歌におちいり、 顕季・顕輔 父子にも劣り、 御子左に匹敵すべくもなかった。 その代り清輔・顕昭らは学にすぐれた学究であっ た。 どちらかといえば知識を目的とした学究であり、 博学を以てきこえた学者であった。 二人の間. にも多少差はあり、 清輔は啓蒙的な しごとをよく し、 顕昭はより学究的な考証や註釈などを徹底し て行なった。 けれども要するに、 二人は知識的立場の学究であった。 その限りにおいて歌学者的で あ り、 御 子 左 家 の 歌 人的 で あ る の に よ く対 照 して い た。 7 i. 御子左家の歌人的傾向といい、 六条家の歌学者的傾向といいい、 ずれも歌を中心 ・としたもので、 歌をはなれたものではない。 歌をょみ、 歌のこころを説き、 作歌の法式をたて、 古典を考証するな ど、 み な 歌 に つな が り、 歌 をょ む こ と に 中 心 を お く の で あ る。 同 じく 歌 を 中 心 とす る 人 のむ れ が 、. このょ 動こ群れごとに家ごとにかわった花を咲かせているというのも興味のふかい事実である。 歌 をょ む こ と ば か り でな く、 歌 の理 想 を と き、 歌 の 作 法を つく り、 歌の 古 典 を しらべ、 い ろ い ろ の 方 面 に わ た っ て活 動 し て い る。 歌 の う ま いも の は 歌 を ょ み、 歌 の へ たなも の は 作 法 を と き、 こ と あ げ. をす る な ど、 い ろ い ろの はた ら き を して い る。 同 じく月 を求 め て も、 ある 者 は ま っ す ぐ に月 を 見 当. て て これ を 指 さ し、 あ る者 は月 を さす 指 に つ い て し らべる の で ある。 月 を み て こ れ を 指 さ す は た ら きと月 を さす 指 を し らべ る は た ら き と は、 は た ら き が ちが うよ う で ある さと る は た ら き と お ぼ え 。 る は た ら きと の ち が いで あ る。 創造 す る こ と と な らう こ と との ち が い であ る。 同 じく 歌 を中 心 と し. ていても、 俊成.定家のような人もあれば、 清輔・顕昭のような人も ある。 それぞれその性分によ って ち が った は た ら きをす る。 さ と る の と お ぼ え る の と、 この 二 つが 鳥 の両 っ の迦 の ごとく 兼 ね備. わ って 居 れ ば 申 分 ない が、その 性分 に よ っ て どち らかに か た よ り、どち ら かの特 色を お び る ど ち ら 。. か とい えば、お ぼ える は た ら き は さ と る は た ら きに 及 ば な い。 後 者は前 者 が なく とも す む が 前 者 は 、 後者 が なく て は す ま な い。 幼 い こ ど も に 何 か を 指 さ して み せ る。 す る とこ ども はそ の 指 を め ず ら し. そうに見守り、 指をはなれて指さす方へ目をやることに気付かない。 それはこどもが指の記号の約 束をまだしらないからである。 その約束を一度知 り、 それに従ってものをみる経験を一度しておれ ば、 指 さす 方へ た やすく 目 を や る こ と が で き る わ け で ある。 と. ころ が そ れ が できても な お か つ、 こ. の指のかたちのようなものを求知的・解釈的にしらべてばかりいると、 ついその指のかたちにかか わ りす ぎて、 指 を は な れた とこ ろ に 本物 の あ る こ と を 見 失 い がち に な る。 な らう こと に こ だわ っ て. 創造することを忘れがちになる。 歌という芸術的な創造的な直観を要するものでない別のものにつ いてなら、 そういうしらべも結構であり十分であろうが、 歌のような芸術的な創造的な直観を要す るも の に な る と、 そ こ を は な れ て 彼 方 に 目 を う つ す こ と、 飛 躍 し直 観 し 創造 す る こ と を 忘 れ て は 、. 十 分 と い え な い の で ある。 それ で は す ま され な いの であ る。この い み に おい て お ぼ え る はた ら き は 、. さとるはたらきに及ばず、 後者は前者がなく ともすむが、 前者は後者がなく てはすまないのであ る。 しか し、 そ う か とい っ て、 全 く こ と あげ も せず、 以 心 伝 心 で極 意 を 伝授 す る と い う こ と で は、 こ れ も不 便な こ と で あ っ て、 こ と ば や 指 を 全く つ か わず に 無 言 で月 を 示 そう と す るよ う なも の. であり、 特殊な場合には役立つかもしれないが、 一般には役立たない。 無駄の多い、 効果の少い、 不徹底なL かた で ある。 も と よ り 両 方 の は た ら き を、 個 人 と して 兼 ね 備 え て いる のが、 円満 で穏 や - 9 -.

(11) . 筒. 中 u 、 ,. 野. 興. かでよかろう。 定家はこの点で、 六条家ほどの学究におちいらず、 しか しある程度指もしらべ、 時 折月に目をやることをも忘れず、 大体において大事な本道を歩んだということができる。 8. 六条家と御子左家とが敵対L対抗した事情は家を中心とする党派的o排他的な考えによるもので あった。 この時代には、 何よりもまずはじめに家と家との対立があって、 その次に人があった。 家 のなかに人が生れ、 その家の伝統に従って歌や歌学をおさめ、 それを手から手へとわたしていっ た。 人をして歌風や歌学をつくらせるものが先にあったのである。 定家のように多少謀叛気のある 人でも仙洞や九条家の人人にはさすがにおそれつつしんでいるが、 六条家の人人にはそうでなく、. 遠慮なくやっつけている。 父と同年輩の (定家より58才年長の) 清輔朝臣に対 して、 毎月抄に清輔 とよびすてて居り、 俊頼朝臣とはよんでも清輔朝臣とはよばないのである。 すなわち 《後頼朝臣o 清輔などの庭司 ”抄にもこのよしを ばよく申しためりとぞみえ侍る》 毎月抄 と ある。 清 輔 は 俊 成 よ り 2年生であった。 顕昭に対しては、 その 14年生、 定家116 10才年長、 すなわち清輔1104年生、 俊成11 . 学識に一目をおいたが、 歌の才については眼中におかず、 酷評した。 季経に対 しては 《その歌論ず るに 足 ら ず》 と九条良経に語ったところから悶着を起したことがある。 これらの 態 度なり行動な り は、 し らず に し た、 ま た は し っ て わ ざ と した と こ ろ の、 家 の 伝 統 に 従 っ て と っ た と こ ろ の態 度 で. あり、 行動であった。 そのころの六条家と御子左家とはおよそ行き方を異にして いたが、 それでもそ の間に相互に影響 しあったところがある。 六条家は中世の歌学においてあまり大きな位置を占めていない。 そのころ の歌学を、 歌論と作法と古典研究にわけるならば、 六条家はあとの二つに貢献するところが多かっ. た。 しかし、 最初の歌論については御子左家のしごとに席をゆずらねばならなかった。 ただ最後の 古典研究については、 フ 条家は歌学以外にもわたってもひろく研究して居るので、 その学究的傾向 の生み出 した業績は甚だ大きい。 両家は互に反擬L合ったが、 一人一人についてみると、 多少相惹 いたとこ ろもある。 異化した面もあり、 同化した面もある。 清輔は狭量な神経質な人 であったが、. 0才年長であるが、 俊成におされがちであった。 歌合部 俊成は温雅な人であった。 清輔は俊成より1 類によれば、 清輔は3回しか判者になっていないが、 俊成は14回もなっている。 清輔は俊成を判し たことがないが、 俊成は清輔を判している。 兼実も、 清輔の死後、 その後任として俊成を迎えねば ならなかった。 六条家には、 清輔なきあと、 俊成に比敵する歌人がいなかった。 頴昭は論ずるに足 らず、 季経も清輔の兄弟とは云うものの清輔に手ほ どきをしてもらった位で、 その門下並であり、 俊成に比肩するほどの者でなく、 そこでどうしても、 清輔の敵方に当る歌人ではあるけれ ども、 こ. の俊成を迎えねばならなかった。 穎昭は六条家の定家というべき人で、 清輔以上にす ぐれた学究であった。 俊成に比べると年は 10才ほどわかく、歌の方にかけては俊成にかなわなかったが、ただ博学な点で当代随一といわれた。 清輔の書読の狭いことを謂った俊成も顕昭のために陳歌を奉られ、 批評された。 これは俊成の占め. た地位の高さを示すとともに、 一面顕昭の学識を示している。 日本紀歌注を以て法橋 の位を所望し たこともある顕昭であるから、 侍が大将に一騎打を所望する位の下心で陳状をかいたものかとも思. われる。 しかし、 反面顕昭に学識があったからこそ、 そして俊成に劣るところ があったからこそ、 清輔の知識のせまいのを ついた俊成も顕昭に揚足をとられるのである。 定家は俊成ほ ど純粋な歌人にとどまらないで、 進んでことあげもし、 俊成より一そう求知的なし ごともしたが、 しかし歌学者としては俊成と同様常識的であり穏健であった。 六条家風に近づいた が、 そ の 様 に解 釈 的 に は な らな か っ た。 習 う よ り は 創造 し、 お ぼ え る よ り は さ と り、 指 を み つ め る. - 10. -.

(12) . 御子左家 と六条家 よりは指をはなれて月をみることを忘れなかった。 それは、 不徹底であったけれども、 六条家とは すでにちがった傾向 であった。 ともあれ定家は御子左家の風を転じて六条家の方に向け、 自らその 間に立ったような趣がある。 それは定家が理性的な人であったからであろう。 それで顕昭の学風に 刺 戟 せ ら れ、 こ れ に 感 じ、 引 きよ せ ら れ た の で あろ う。 こ こ に両 家は 異 化 を止 め て 同 化 して い る の. で ある。. 俊成と頴昭とは互にとおくはなれている。 穎昭と定家とは互に近づいている。 俊成の歌才は藩輔 を学識の方に追いやり、 顧昭をもそれに追いこんだ。 ところが頴昭の徹底はかえって定家を学識の 方に引きよせた。 けれ ども定家は全く引きこまれることはなく、 俊成以来の伝統の創造的直観的立 場にとどまっている。 定家の立場は不徹底であるが中正なものである。 中世歌学の二潮流が彼にお い て ま と め ら れ て い る とい え よ う。. その後の六条家はふるわない。 御子左家も定家以後ふるわない。 六条家は知家を最後に歌の家と しての生命が絶える。 御子左家は分裂し潤渇 し衰亡に赴く。 実に清輔o頴昭、 俊成o定家の生きた 時代こそ中世歌学の、 そして日本の歌学の花盛りであった。 9 ここ に 歌 学 と いい 歌 論 と い っ て き た こ とに つ い て、 その 語 義 を た しか めて お き た い。 大 きく わ け. て歌学の流れは二期にわけられる。 は じめ歌に関する文学的目趨があった。 その次に中国の詩論が も ちこ ま れ 《詩論》 として行われた。 やがてこの詩論が歌の方面に適用されてできたのが第薗期の. 歌学である。 これは歌の素養より詩の素養の重んぜられた社会に生れたもので、 その限りにおいて 十分間に合う借着であった。 しかし、 時代の下るにつれて、 詩文が衰え、 歌の素養が重んぜられる こ ろ に な る と、 一 そ う 適 切 な、 身 に つ い た きも の を 求 め る切 実な 要 求 が お こ り、 そ の要 求 に 応 じて. 第二期の歌学が生れた。 詩女が衰え歌の素養が重んぜられた社会に、 歌合せの流行があった。 その際の歌の評定には多く の人人を納得させるに足る公平な基準が必要とされた。 判者たるものの資格も、 多くは門地高く徳 望高く才学秀でた歌人であることが要求された。 その会の重々しさは、 席上判者におとしめられる. と、 単に不名誉であるばかりでなく、 それを苦にして思い死にしたという位の大事なものであっ た。 毎月抄 それゆえ判者たるものは余り自らの趣味に囚われることなく公平に 批 評 しなければなら. なかった。 そういう必要から、 一般的な性質をお びた基準がいろいろと考えられた。 この方面で第 =期の歌学が理論的な部分の発達を示し、 特に美の理念の問題を考えている。 そのほか歌書による. 文献学的研究・古典研究も行っている。 これは精神の指標としての形式を知的に探究し、 もとの精 神をさぐるうとするもので、 精神にとってはやや間接的な方法である。 次に詩文が衰え歌の素養が重んぜられた社会では、 当然のことながら歌の教育が盛んであった。 この教育から して、 第二期の歌学の実際的部分が発達している。 歌がまだ盛んにならない間は、 天. 才歌人はあっても歌の家はなかった。 しかるに詩文衰えて歌の盛んになった社会では、 歌の家が社 会の 表 面 に 出 てく る の で あ る。 歌 の 家は 一 つ 二 つ に と どま らな い で い く つ も 現 わ れ るが、 そ れ ら の. 顎者とか師匠とかいう大事な役目を預る。 歌は宮廷社会の必須の教養であったが、 それを学 家家は当 ぶべき場所は自らきまっていた。 定家が実朝に送った消息のひかえである近代秀歌に ”…. .な どは よ む べ か らず と ぞ を し ヘ 侍 し》 と い っ て 居 る こ とを は、 平 素師 匠 と し て 教 えて いる こ と を 指 す の で. ある。 こういう多数の社会的要求が歌の家をして教育の形式的な手段である作法・法式をつくらせ る。 多数を教える場合には精神よりも形式が必要である。 ひとりひとりに精神を説くよりも、 形式 を以て規制する方が効果的である。 精神は二の次である。 作法◎法式にはそのような一般 的性質が - ” -.

(13) . 高. 野. 忠. 興. あり、 社会的意義があった。 この作法・法式が出来上ると、 その精神が萎れ枯渇 しても、 形式だけ は厳重に維持されてゆく。 作法・法式は不 死である。 しかし精神は消えやすい。 この作法・法式が. 第二期の歌学の実際的な部分となる。. 10. 第禰期の歌学は万葉集の撰集のころからあらわれた文学的自覚に、 中国から輸入された詩論が刺 戟して、 形成された。 その歌学が、 時代の下るにつれ、 詩論の規定をだんだん和らげて日本化して. ゆき、 第二期の歌学に移る。 第二期の歌学では規定が全く日本化し、 和歌独自のものとなる。 既に 借着を脱ぎ、 身についたきものをきはじめる。 もちろん用語などはそのまま使われているし、 分類 のしかたもそのままのが多い。 けれ ども、 用語の名称は同じでもその意味が変って、 歌に即した意. 味がもたされて居り、 分類のしかたにしても、 同じく十体に わけながら分類の基準がちがうし、 個 々の区分肢の名がちがう。 こういうちがいこそ本当のちがいであろう。 外面上の類似にもかかわら. ず。 内容はすっかり変化している。 そのちがいを質的に見ると、 まず第二期の歌学を理論的な部分 と実際的な部分とにわけてみて、 理論的な部分では第一期から第二期にかけて連続した発達の流れ がある。 第二期に入ると、 特に独自に、 歌に即した内容を帯びて来る。 それから実際的な部分につ いていえば、 これは第一期にみられなかった現象であるが、 歌の手習・教育な どというものが現わ れている。 これは第二期の歌学が社会の要求に応 じて生み出したも のである。 そうしてみると第一 期から第二期への影 響のうけわたしはあまり量の多いものでなかった。 影 響の量は少なかったと考 え ら れ る。. 歌学というも のが昔からあった。それが一つの流れをなしていた。 それが第一期の歌学である。そ の中へ第二期の歌学が大きな流れをなして流れ込んだ。 水はこのため急にふえた。 しかしさきの小 流を以てあとの大流を説明することはできない。 第一期の歌学が何となく急に発達してこういう大. 流を生んだのではない。 質的にもこれまでの歌学と余りにちがった質の歌学が現われている。 これ は歌学の歴史の上の必然ではなくて、 むしろ当時の社会事情の必然によって現われたのである。 そ れだから第二期の歌学は第一期のそれと別にして考えた方がよい。. 一期の 第二期の歌学を第一期のそれと区別するわけは、 社会的必然によって、 第二期の歌学が第- べて あまりにちがった質の内容を ったからである 歌学に比 もつにいた 、 。 そして以前のものを一ま とめに して考えても差支 えないくらいの著しい対比を 生 じたからである。 ところが、 それと同時. に、 以後のものをもまた一まとめに して考えても差支えはないのである。 なぜなら、 この大流が出 現 してから始まる新しい歴史には、 ほとんど変化らしいものがなく、 革新がなく、 形骸化、 萎艇沈. 滞があるばかりであった。 しかも第一期の小流は別の流れになることもなく、 全くこの大流に併呑 されてしまったからである。 それ故、 第一期の歌学と第二期の歌学とをそれぞれ個体的に見て、 歌 学を歴史的に二つに分けることができるの である。. 第二期の歌学のあらわれた時期は、 俊成の出たころ、 すなわち保元平治の乱から頼朝の旗上げを 経て承久の乱に至る、 公家武家交替の時期、 日本史上劃期的な時期に当っていた。 その時期の公卿. の社会が第二期の歌学を生み出した。 その公卿の社会では詩文が、 厄介視され、 重んぜられなくな り、 これに代って歌が必須の教養に教えられるようになった。 これが源泉であって、 ここから新し い流れが湧き出して来た。 詩文が衰え、 歌の盛んになったこの社会では歌道の家があらわれる。 そ の家家の中でも御子左家は一番代表的な家であった。 この期の歌学は歌の家のものである。 歌の家. をはなれて歌学はない。 歌学は家学であり、 家学は歌学であった、 そして御子左家の歌学が第二期 の歌学の代表 であった。 - 12 -.

(14) . 御子左家と六条 家 11. さて歌学とは、 古来の慣用によると、 歌に関するあらゆる種類の研究を意味する。 観照でなく詠 歌でない限りの、 歌に関するあらゆる考察をさして歌学という。 考察の種類は歌そのものの文学論 的研究、 歌書の文献学的研究、 歌道の作法・法式にわかれる。 歌を職業とする家が社会の表面に出 て他の諸芸と同 じく家学を立ててこれを世世伝えていったものだから、 これらの研究や考察の全体 を一まとめにした家学と しての歌学が一箇の学問のようになる。 歌学なるものはそういう成立の事. 情をもっている。 この種の歌学は宣長によって一箇の学問と して神学・史学・有職学と共に国学の -科に立てられた。 こうして歌学は歌の学問として考えられたけれども、 遂に理論的体系をなすこ となく して終った。 理論という点からみれば歌学は学問の名に値い しないかも知れない。 純粋に学. 問でないばかりか学問以外のものであるかも知れないが、 しかし研究の事実はあるのであ り、 体系 をなさなくとも理論的研究はあるのである。 歌とは何かという根本問題の研究がある。 また歌学は. 理論的研究だけでなく、 ほかに実際的な部分をも含んでいる。 しかし、 いつも前者が主であ り、 後 者が副である。 後者は前者の適用である。 前者は唯一の理論的な部分であり、 文学論的研究に当る. ものであり、 これを歌論とよんで区別したい。 歌学は歌論を含むのでねうちがあるというべきであ る。 しかし御子左家なら御子左家の人人が特に歌論をのこしたということはなかった。 その人人は 家学と しての歌学をのこ したかもしれないが、 特に歌論をのこしたのではない。 したがって歌論を. しらべるには歌学という全体を調べてみなければならない。 実さいそれらの人人の歌論的見解は歌 論として明白な形をとって現われたのではない。 まとまった述作があって、 それに完全明瞭にその 歌論が論述されたわけではない。 歌学という漠然たる全体の中にその歌論的見解をあらわしている. のである。 それ故 歌 論を見るためには具体的な歌学の全体から歌論的 見解を抽象しなければなら ない。. 一 13 『.

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