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社会とアートの関係とその変容を社会学的に分析すること

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社会とアートの関係とその変容を社会学的に分析すること

樫村愛子 書評対象書:北田暁大・神野真吾・竹田恵子(社会の芸術フォーラム運営委員会)編 『社会の芸術/芸術の社会――社会とアートの関係、その再創造に向けて』(フィ ルムアート社、2016年) 1 .「社会の芸術フォーラム」における北田の立場とルーマン理論(芸術システムの自律 性と固有性) 本書の著者であるグループ「社会の芸術フォーラム」は、社会学者北田暁大(東京大学) と芸術学・美術教育学者神野真吾(千葉大学)が共同代表を務め、社会と芸術の関係を問 い直そうと2015年に作った研究と実践のプラットフォームである(p. 283)。アーティス ト、キュレーター、批評家、芸術研究者、芸術教育研究者、社会学者、文化研究者、経済 学者、政治学者、文化行政の関係者、ワークショップの実践者、編集者、ジャーナリスト 等、アートと社会の複雑な相互反映性を精査するという問題意識を共有する者たちでの 「異種格闘技」としてこの場は設定された (p. 5)。本書は、基本的には2015年に行われた 社会の芸術フォーラムでの議論をもとに、「表現の自由・不自由」「多文化主義」「包摂と 排除」「搾取」「公共性」の5章にわたって、論考と対談およびそれらの総括が所収されて いる。 本プロジェクトの背景には、現代アートが1990年代後半からの「芸術の社会的転回」(芸 術理論に浸透している美学的自律性の信念を批判。評価が美的なものから社会的なものへ 移行。また芸術の非物質化も背景にある)と呼ばれる、芸術の社会への接近、ホワイト キューブ(美術館)を飛び出し社会空間に進出したこと、「リレーショナル・アート」(人 間同士の相互作用とその社会的な文脈の領域を理論的な地平とする芸術。ギャラリー中心 の商業主義に対しコミュニケーションのためのプラットフォームの形成や作家間のコラボ レーションを重視)や、「ソーシャリー・エンゲージド・アート」(「社会関与の芸術」。以 下SEA。社会問題に積極的にエンゲージメントを行い一定の責任を負う、またある社会集 団にコミットし変革をもたらす等、評価基準が美的なものから社会貢献へと移行)が盛ん となったことがある。 神野は、これらの動きと連動して、また社会の側から福祉や経済(日本では特に地域振 興、観光他)等々でのアート「活用」が起こってきたことが、本フォーラムの背景にある ことを指摘し、「アートがその実践の価値を社会の中で確かなものとするためには、社会 の複雑性を理解し、社会との関わり方、社会への力の及ぼし方を丁寧に検討することが求 められるはず」とし、「社会についてのさまざまな水準での検証は、すでに社会科学での 広く厚い蓄積がある」(p. 284)と、社会科学(社会学)との協同作業への期待を述べて いる(なお竹田は、世界的な潮流としてのSEAを日本の文脈においても議論するための プラットフォームとしてこのフォーラムがあると述べており SEAは社会の芸術フォーラ ムにおいて中核的な課題であることがわかる。p. 333)。 フォーラムの名称は、ルーマンの著作『社会の芸術』から採られている。ルーマンは、

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社会システムを①相互行為、②組織、③全体社会の3つに分類した。芸術に即して言えば、 ①ではアーティストの制作実践や展示行為、観客の鑑賞など、コミュニケーションとして の社会が問われ、②は「アートワールド」、すなわちアートをめぐる制度的背景、経済関係、 組織構成、ヒエラルヒー、有名性の機能といった社会的なあり方が問われ、③では芸術シ ステムという自律した機能システムが果たす機能、他のシステム(法、経済、教育等)と の関連性が問われる(Luhmann1995=2004: 286)(本書p. 287)。 フォーラム名に「社会の芸術」という名称を使用することに見られるように、本フォー ラムは「社会と芸術」の関係を分析するにあたってルーマンの枠組みを参照している。そ の理由については、北田が藤田直哉編『地域アート』所収の論文(北田2016)で記した 見解において垣間見られる。『地域アート』は、大地の芸術祭や瀬戸内芸術祭をはじめアー ト・プロジェクトが地域起こしと繋がって乱立状況であることに対し、アートが持つ批判 的精神や社会との距離が、公共事業の「公共的」予定調和の中で失われているとして、アー トが社会にもてはやされている中でアーティスト達が表明しづらかった違和感に声を与 え、関係者に激震を起こした書である。 ここでSEAに見られる実験的なアートは、北田が『地域アート』所収の論文で、ガーフィ ンケルのエスノメソドロジーの違背実験と比較しているように、社会学と方法的にも接近 しつつあったわけだが、北田はこの点について、以下のように記している。 アートが自明性に楔を入れることを目的とするならば、違背実験は自明性の成り立ち の複層性を問題化する、という違いはあるにしても、何らかの相互行為のフレーム設 定(人為)を介して、日常なるものを問い返すという点では、両者は近接した問題意 識を持っている。リレーショナル・アートにおいて提示される『作品』が、近代的な 意味での『芸術作品』であること、『作者』の精神的産物であることを拒むとき、そ の問題ははてしなくガーフィンケルのそれと近接していく。(北田2016: 309) 「社会的転回」以降のアートに見られる関係やコミュニケーションの重視は、現代社会 の様相を示す「コミュニケーション社会」、「非物質的社会」に呼応し、社会学的にも興味 深いものである。しかしこの理論的柱となった「関係性の美学」(ニコラ・ブリオー)は、 クレア・ビショップらによって、予定調和的で、関係における「敵対性」を排除している のではとする批判をすでに受けていた。 一方、日本の芸術祭やアート・プロジェクトに見られる「アートの道具化とその予定調 和的傾向」は、リレーショナル・アートが掲げる「関係性の美学」がもつ社会性・政治性 の表現以前4 4 の状況で、「アートの劣化」であるとされ、そこに見られる「関係性の重視」は、 地域振興を主目的に芸術祭の誘致を目指す自治体の思惑に合致し、国策としての地域活性 化に奉仕して、ただ人とかかわればいいという「関係性の美学」でしかないと批判されて いた(ただし、日本のアートプロジェクトのすべてが否定されたわけではなく、「周辺」 としての地域に着目したアートとしての評価もあった。詳しくは樫村2018.9.13/2018.9.18)。 このような現代アートの変容と日本における混乱(アートが社会と関わる中での従来の アート制度の否定の運動、日本ではこれを逆手にとってアートの、経済と地域振興への奉 仕化)に対し、「関係性の美学」は日本において、高度な水準の批判と低レベルの批判が

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重なっていたのである(『地域アート』はその両方をとりあげた)。 これに対し、北田はルーマンを参照した自身の社会学的立場を示している。「関係性の 美学」のイデオロギーにおいては、美術制度そのものを解体しろとする言説と実践が提示 されるが、そうとはいえ結局それも常にすでにアートという制度の中でのできごとでしか ない。「リレーショナル・アート」であれそれは閉じた芸術システムの中での実践に変わ りなく(従来の芸術システム批判ではあっても)、経済システム、法システム、科学シス テムから自律しているからこそ、芸術は芸術として成立する。すなわち「リレーショナ ル・アート」のイデオロギーのように本当に「日常のすべてがアートになる」ことはあり えない(もちろんだからといって「リレーショナル・アート」は虚偽だとはいえないが、 少なくともその点については「リレーショナル・アート」の制作者にメタレベルでの意識 が必要である)。 その一方で、北田は、ルーマンの示した、アートの独自性4 4 4 と、その独自性が持つ法外な 自由性4 4 4 についても紹介する。ルーマンは、コミュニケーション不可能なものや知覚をコ ミュニケーションに引き入れるという点において、芸術システムは独自性を持つとし、そ れによって他の社会システムに相応の自由度をもって刺激を与えることができるとした (北田 2016: 333)。ルーマンにおいては、知覚のシステムとコミュニケーションのシステ ムは独立したものと設定されており(この点はハバーマスと論争になった。ハバーマスの 言うように、生活世界レベルでの言語使用は知覚との結合抜きには成立しない。が、自閉 症、精神病、それと隣接するアート、昨今では AIのような領域では、ハバーマスの批判 した、ルーマンの知覚と言語の分離の枠組みは生きてくるだろう)、安易に知覚をコミュ ニケーションすることができないからこそ、「芸術の機能とは、原理的にはコミュニケー トされえないものを、すなわち知覚を社会のコミュニケーション連関のなかに引き入れる という点にある」(Luhmann 1995=2004)。 北田の機能主義的な社会学的観点(北田は自らが機能主義者だと自らの立場を表明して いる。岸ほか2018参照)は、「ブルデュー以降の、新しい文化社会学の方法規準」を提示 したとする『社会にとって趣味とは何か――文化社会学の方法規準』においても見られ、 そこでは、①宮台等に見られる、趣味と対応する若者の過度の類型化と、②ブルデューの 卓越化の論理を無批判に当てはめようとする態度、という主に二つの傾向への批判が示さ れていた(木島 2017参照。それゆえ、例えば卓越化のメカニズムが働く音楽と、働かな いアニメ視聴を分析し分け、東のように安易にフラット化を主張するわけでもなく、趣味 の多様性と割り切れなさを提示し、芸術界–芸術システムの自律性を示していた)。 ブリオーの 「関係性の美学」 を予定調和的で敵対性がないと批判するビショップに対し ても、グラント・ケスターは、ビショップも能動的な参加を表面上は主張しつつも、実際 は鑑賞者の反応を予め想定して作られている作品を評価しているとして批判している。つ まり、既存のアート批判を掲げるイデオロギー(ここでは「関係性の美学」や SEA 等) のもとで制作されたアートやアート評価が、必ずしもアートの質や内実においてそれを具 現しているとは限らない。こうして、アートの評価やアーティストのあり方をめぐる社会 的文脈はつねに新たな批判のもとに開かれているため、文脈を狭く設定してアートと社会 を見ていくより、北田のような機能主義的な広い枠組みが有効であることがわかる。とり わけ他のシステムとの比較において芸術システムの固有性を確認することは有効な方法だ

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ろう。フォーラムは、こうして、そこでの議論が広く多様にまた具体的になされるために 設計されていることがわかる。 2 .文化社会学と文化政策研究の溝 障害アートと社会の包摂を専門とし文化政策学会等の中核で発言してきた長津結一郎は 『文化経済学』において本書を書評し(長津 2017)、「言説の資源を十分に持ちうる人々の 発言により編纂されて」おり、「そのような総論的な書籍がこれまでなかったことを考え るとその重要性は疑いようがない」と本書の重要性を評価している。 というのも、先に見たようなアートと社会の現状(「アートの経済的・福祉的道具化」) は、現在の日本の文化政策の変更4 4 4 4 4 4 4 の文脈において形成されており、文化政策の変更に対し て現場の学芸員-キュレーターやそれに関連する研究者たちが、1992年文化経済学会〈日 本〉、1998 年日本アートマネジメント学会、2002 年文化資源学会、2006 年文化政策学会 等々を形成し議論を行ってきたからである(2001年に制定された文化芸術振興基本法に 則り国による文化政策が始まったことに呼応。さらに 2017年度には文化芸術基本法とし て改正。アートの評価をめぐって、文化政策学会等では、経済効果や来客数に代わる指標 や評価をもって文化政策における貧しいアート評価に対抗することを企図しつつある。日 本では、「規範」や「倫理」は社会の中から長らく排除されているので、それを埋める形 で「経済」が機能しており、戦後の文化政策の空白の歴史とも結合して考察すべき課題で ある)。しかし本書のようにアートをめぐる制度を哲学的、理論的に問い直す射程をもつ 議論は長津の言うように少なかった。神野が指摘するように、アートの側でも社会を扱う 上で社会学の認識は重要な資源である。マイノリティと排除をテーマとして現場を研究し ている長津にとっても、障害アートはこれまで「アウトリーチ」「ワークショップ」「ユニ バーサルデザイン」等の概念で議論されるだけであり、社会の包摂/排除を根底的に問う 議論が十分なされていないとし、本書のような原理的考察は心強いとした。 ここで、これまで文化やアートをめぐる社会学の先行研究は何をやっていたかを確認し ておこう。これまで文化社会学が上記のような問題とどう関わってきたを見ると、友岡邦 之(2016)が文化経済学会の『文化経済学 軌跡と展望』「社会学からのアプローチ」(22 章)でレヴューしているように、ポピュラー文化等が研究の中心になりやすい文化社会学 と、文化経済学・文化政策学等との接点はあまりなかった。 川崎賢一の日本の絵画市場についての研究等を除き、(文化)社会学は、文化的コンテ ンツの需要と供給に関わる制度や階層の問題、文化の社会的・政治的価値等の問題を扱っ た文化経済学・文化政策学等とは関心を共有していなかったように思われる(ブルデュー 研究はあったが、具体的な日本の文化制度分析に広がっていかなかった。とはいえ昨今で は、この状況下、アートの社会学的研究は盛んになり始めており、友岡がこれを総括的に レビューしている)。戦後の日本は、戦前と異なって、文化への政治介入を抑制して文化 政策については空白状態となっており、若干先行した地域振興策としての文化イベント以 外には、文化政策は社会現象や社会問題として浮上していなかったことも背景にあるだろう。 その一方で、長津は、本書における問題意識の核に「地域系アート」(および藤田の編 著が示した「リレーショナル・アートの問題系」)があるならば、文化政策につながる知 (行政学、政策形成過程に関する研究等)や観光についての知(経済学等)についても援

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用すべきであろうと指摘している。確かに本書ではその点が弱い。 3 .文化政策研究における社会学の意義 とはいえ、例えば、第4章「搾取」において、アート・プロジェクトの現場に携わるアー ティストやプロデューサーの実態調査報告書をまとめた吉澤弥生と、アーティストによる アーティストのための会員制芸術支援システム「アーティスツ・ギルド」の立ち上げに関 わった藤井光の対談(p. 237–259)等、重要な論考もある。この対談において藤井は、アー ティストにとって現場で搾取と言い切れないような経験があること、市場経済的・交換経 済的な場として設定された現場のただ中に、贈与的・非交換的関係が存在する、社会経験 や構造を示唆している。 友岡は、学際的な文化政策研究の現場で、社会学の固有性は、「組織や制度を成立させ る非明示的なメカニズムに注目すること」であり、「市場や法をはじめとする顕在的な諸 制度以上に、社会的承認などに関わる、より潜在的な人間関係を成立させる諸要因、例え ば信念やシンボル、あるいは権威獲得のためのインフォーマルな手続きなどに注目して、 社会現象を説明すること」(前掲書 p. 339)としている。藤井の指摘するような、アート の市場経済の現場に埋め込まれた贈与的人間関係等を分析する枠組みは、従来の文化政策 研究だけでは難しく、社会学的研究が望まれることを本書は示唆しているだろう。 また、第4章「搾取」では仁平典宏が、ポストフォーディズム体制と認知資本主義にお いて、人々は情報・意味を産出する局面にも広がって被搾取者となり、搾取は遍在してい ることを指摘している。その上で、従来の議論で「やりがい搾取」と片付けられがちな、 現在の貧しい条件下にあるアート労働について、むしろ搾取(助成金を取り合う競争的な 準市場と雇用の不安定性、コスト削減圧力)はやりがいの損壊と不可分に構成されており、 やりがいの評価と搾取批判の両立が可能であるとして、この点での社会批判の可能性を示 唆した。そしてその延長線上にある問題として、アーティスト達が公共性とも関わるアー トの定義の自律性を獲得することの重要性を指摘した。 第 3 章「包摂と排除」では、岸政彦が、「デリヘルアート事件」をめぐり、制度として のアートを考察しつつ、アート界の反応を観察した。岸はイーグルトンを参照して19世 紀ロマン主義にさかのぼるアートの系譜を考察し、純粋な美的経験は現在とは異なるより よき社会を構想するための根拠として社会的なものの中で生まれたが、美的経験の出自と しての社会性・政治性は抑圧・忘却され、アートは過剰に政治的な性質と、過剰に反(脱) 政治的な性質を同時に持つという矛盾性をもつと指摘した。それゆえ炎上事件はアートか ら見れば成功(=反秩序)でもあるとし、アートの内部と外部の差異を岸は観察し指摘し た。神野自身も、「規範無視や規範否定が個として理想化されるロマン主義的芸術家像の 目的となってしまった時に、昨今見られるような炎上が生じる」と批判した(p. 173)(神 野は第5章「公共性」でも、北田の議論を参照しつつ日本に根付いたロマン主義的な理想 化されたアート観では、生きるという切実さを含む労働とのかかわりが忘れ去られている とし、公共的な価値を有するアートの実現にあたって「日常・生活世界」「権力・権威・ 政治」「論理」「経済」「常識」に深く関わりながら、新たな社会的連帯を表現活動が生み 出すことができるかが問われているとするp. 289。また北田は20世紀初頭のピッツバーグ 調査を挙げ、都市の現実の記述に写真による記録も行われたとし、視覚的表象と社会学の

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協同を取り戻すことは、見えないもの-理論的構築物を見るという社会科学的課題と見え なかったもの - 社会的実態を見せるという exhibits の論理が結びつくことであり、それが アートの公共性の回復を実現するのではないかとしている。 岸と神野は、アートと社会学が経験するさまざまな敵対性や規範との衝突を取りあげな がら、両者を比較している。神野は、「社会学者は『敵対性』(またはある種の緊張関係) を持ち込まない」と指摘し(p. 172)、逆に、「文化資本の不平等を前提とした仕組みとし てアートの世界(アーサー・ダントーの言う「アート・ワールド」)は存在」し、アート の包摂性の内実が問題となっている(p. 169)としながらも、「アーティストは特殊なマイ ノリティとして迎え入れられ、近い立場の人間として扱われ」、それゆえ社会学者(研究 者)のように、「厳しい状況に置かれた人たちを美化すること」が彼らの格差等を覆い隠 してしまう(岸の調査経験からの指摘)といったことがないともした。両者のシステムの 差異が具体的にこのような学際的な討議の場所で明らかにされ、興味深い議論であったと 思われる。 以上のような事例を含め、本書では、長津の指摘するような、稀有で根底的な討議の場 が多く設定されていた。が、「芸術の社会的転回」以降の芸術と社会の関係を考える上で は、さらに芸術の内容に踏み込んだ議論も必要ではないかと思われた。本書は最もアク チュアルな事件を積極的に議論し、具体的な現象に迫っているとはいえ、芸術をめぐる社 会的事件や現象の分析に終わっている感がないわけではない。一例として、自閉症のアー ルブリュットに対し、自閉症についての哲学的・精神医学的認識に加えて、社会学的認識 を提示すること等の可能性等があると思われる。 【文献】 樫村愛子,2018.9.13, 「歴史,アジアの視点が示された大地の芸術祭――第7回越後妻有アートトリエンナー レに見えた現場の変化と多様な評価」(上),WEBRONZA(https://webronza.asahi.com/national/articles/ 2018091000005.html.) ―――― 2018.9.18, 「歴史,アジアの視点が示された大地の芸術祭――第 7回越後妻アートトリエンナーレ に見えた現場の変化と多様な評価」手作業による新しいコミュニケーションの回路」(下),WEBRONZA (https://webronza.asahi.com/national/articles/2018091000014.html.) 木島由晶,2017「書評『社会にとって趣味とは何か――文化社会学の方法基準』」『ポピュラー音楽研究』21 48–51. 岸政彦・北田暁大・筒井淳也・稲葉振一郎,2018『社会学はどこから来てどこへ行くのか』有斐閣. 北田暁大,2016「『開かれる』のではなく『閉じられているがゆえに開かれている』社会と/のアート」,藤 田直哉編『地域アート 美学 制度 日本』堀之内出版. 小林真理編,2018『文化政策の現在1』東京大学出版会.

Luhmann, Niklas, 1995, Die Kunst der Gesellschaft,Frankfurt:Suhrkamp(=2004,馬場靖雄訳『社会の芸術』法 政大学出版局.) 長津結一郎,2017「書評『社会の芸術/芸術という社会:社会とアートの関係,その再創造に向けて」『文化 経済学』14(2): 83–5. 友岡邦之,2016「社会学からのアプローチ」,文化経済学会〈日本〉編『文化経済学 軌跡と展望』ミネルヴァ 書房. (KASHIMURA Aiko 愛知大学)

参照

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