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児島惟謙にみる司法権の独立と裁判官選任制度-司法権独立の一考察-: 沖縄地域学リポジトリ

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(1)

Title

児島惟謙にみる司法権の独立と裁判官選任制度−司法権

独立の一考察−

Author(s)

森田, 友喜

Citation

沖大法学論叢 = OKIDAI HOGAKU RONSO, 2(1): 111-137

Issue Date

1976-03-31

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/6464

(2)

児島I准謙にみる司法権の独立と裁判官選任制度

一司法権独立の一考察一 森田友喜 lまじめに 司法権の独立は近代憲法の有する特質の一つである。国家の三権力中、司 法権のみがその独立性歴強<主張されろ。それは「司法権は三権のうちで最 も力弱いものであるから、特別に注意して立法権または行政権の支配を受け ないように保護され、独立して唯純粋に法の解釈・適用に専念しうるように (1) しなければ、裁判の公正と人間の権利の保障はなされない」からであろう。 モンテスキュー(Montesquieu)によれば、司法権は身分とか職業など に結びつかないときには、いわば目に見えない存在しないかのどときものと (2) なり、三権のうちではある意味において無力とさえなるとする。なぜなら「 (8) それは司法という国家作用のもつ非政治的な特色への考慮である」といえる からであろう。かかる点に司法権が他の国家機関から独立を保障されるべき 要請が生じよう。近代憲法の主張する司法権独立の重要性は、多くの論稿に もかかわらず、未解決のままに残されていろといえる。小稿では大津事件に おける児島惟謙の行為を通して、司法権独立の内容を吟味し、さらには司法権 独立の基礎的前提となる裁判官の任命方法、ならびに裁判官選出の基盤を順次 検討してふたいと思う。 註 (1)大西芳雄・司法権の独立(公法研究11号)10頁。 (2)OharlesSdeSecondatMontesquieu,L'EspritdeBlois,1748 (Gen6ve2voLin-4et3Vol・in-12)根岸国孝訳・89頁、91 頁bこのぱあい「無力」は能動的権力でないことを意味しているとの訳註が付さ れている。 (3)長谷川正安・司法権の独立(憲法講座4)2頁。 -111-

(3)

司法権独立史上げず危機に直面した事件は大津(湖南)事件である。

事件発生啼土、法制的にも、社会的にも、政治的にもこんにちとは異なって いだので、すべてを同一次元で論ずろことは困難であるが、すくなくとも司 法権の独立という点から論ずろことは許されるであろう。 事件の経緯は衆知のように、来遊中のロシア皇太子殺人未遂事件につき、 被告人津田三蔵の犯行が皇室謀殺罪の構成要件に該当しないにもかかわらず、 まげて皇室謀殺罪の条項を適用するよう政府は担当裁判官に強引に干渉をな した。政府の干渉に屈し、皇室謀殺罪適用の意思を固めた担当裁判官にたい (2) して、大審院長児島惟謙はiim意するよう説得行為を行ないそれに成功したと いうのである。 児島惟謙のこの行為に元いすろ評価は論者によって異なるが、一般に、こ の行為にたいすろ児島大審院長を称して、「護法の神」とか「司法権独立の 父」として称賛していろ。とくに司法権独立の観点から、この行為を是認す る論者は多い。その一人である田畑忍教授は児島惟謙のとった説得行為にた いすろ見解をつぎのように述べておられろ。 「児島大審院長が行政権力の圧迫干渉に屈した裁判官に対して、憲法を遵 守するように説得した行為は決して『干渉』行為ではない。それは大審院長 としてまさになすべかりし正当なろ権限行為としての『干渉排除行為』であ る。従って『監督権の範囲を諭越』すろものではない。すなわち『干渉排除 行為』と『干渉行為』とを同視することは許されないからである。と言うの は、司法部内を統轄して司法権の独立を守るべき職権と責任とを有する大審 院長として、司法権の独立を守りかつ侵さないということは、司法権に対す る行政権力等の干渉圧迫が現に行われ、かつこれに屈服しつつある当該事件 担当の裁判官を眼前に見ながら、これを対岸の火災視して放置することを指 して言うのではない。須らくかかるさいに於ては、敢然身を提してその干渉 の火災を消すことこそ、その職権として司法権の独立を守るゆえんである。 逆に、司法権の責任者圦行政権力による干渉の火災を袖手傍観することは、 -112-

(4)

消極的には却ってその『干渉』を需助することである。すなわち児島大審院 長は、明らかに、『不当なろ干渉を排除するための干渉」をしたのではなく、

不当なろ干渉を排庁するための(1)正当当然の権限行為』を勇敢に行使して、

司法権と人権とを守ったのである」。 田畑教授は児島'准謙の行為の正当性の根拠を大審院長としての司法行政監 督権の行使という点に求められ、干渉行為と干渉排除行為を峻別し、前者は 司法行政権の範囲外であるが、後者は司法行政監督権の正当な権限行使の- 形態としてこれを肯定されろ。したがって、教授によれば、まさに司法権独 立遵守の神としての評価が与えられるであろう。 また野間繁教|受も、「事件に対処する裁判官の心構えを説き、信念に基いて 法の適正な運用をせよと激励することは、これによって少しも担当裁判官の 正当な裁判権の行使を妨げるものではないから、これを司法権の独立を侵す (4) ものと見るべきではなかろう」と述べこれを是認されろ。 このように児島1准謙の説得行為を賛美し、正当化する理論にたいして、き びしい批判のあるのも事実である。家永三郎教授は、「児島が津田三蔵被 告を裁判する裁判所の構成員でなかったにもかかわらず、当該裁判所の構成 員に対し擬律に関し説得を試みたのは、一応監督権の範囲をllMii越した職権濫 (5) 用行為としての構成要件に該当すると認めないわけにはいかない」として、 原則的には児島の行為を違法視される。家永教授によれば田畑教授とは逆

に、担当裁判官への説得行為は、司法行政監督権の範囲外であるから越権

行為となり児島は原則的には違法者の汚名をまぬがれないことになろう。 また司法権の独立と裁判官の独立とを区別して説かれる佐藤功教授によれ ば、「児島大審院長が個々の担当裁判官に干渉して裁判の内容に影響を与え たという事実は否定できない。その点に関する限りでは児島大審院長の行動 は『裁判官の独立』を侵したものといわなければならない。すなわち、政府 の政治的圧力から『司法権の独立」を護ったとはいいえても、それは『裁判 (6) 宮の独立」を侵したものということになる」という評価が与えられる。佐藤 教授の見解によれば、司法権の独立と裁判官の独立とは別個の概念を有する ところから、行政部の圧迫干渉にたいして、司法部の独立を死守した、ぃわゆ -113-

(5)

ろ司法権の独立の父たる称号は附与されても、個個の裁判についての関与で あることは否めないので、裁判官の独立については、侵犯者たるの責はうけ ざるをえないことになろう。 ところが児島1准謙の他の裁判官への説得行為は、司法権の独立を侵害する ものとする論者も究極的には、何らかの理由づけにより是認されろ。たとえ ば家永教授は、「第一に、児島の行動が国務大臣の裁判官への干渉に対し、 司法権の独立という国家的法益の破壊を防止するための防衛行為であり、第 二に、その不正なろ侵害が急迫していて、他に有効な手段を講ずろ余裕のな いため緊急已むを得ずしてとった行為であるばかりでなく、第三に、『その 行為によって保護しようとする法益がその行為によって、侵害せられる法益 と対比して均衡を保』っていろと認められろというこの三条件を理由として、 (7) 超法規的違法性阻却事由を具備しているからだと考えたいのである」との理 論構成のもとに正当化されろ。児島大審院長の行動にたいして徹頭徹尾賛美 される田畑教授は、前にみたように、「大審院長としてまさになすべかりし (8) 正当なろ権限行為としての『干渉排除行為』たる性質を有するもの」との見 解にもとづき、司法権独立の侵害者の批難は微塵もなく、司法権独立の積極 的擁護者として高く評価されていろ。 註 (1)明治憲法57条は、「司法権へ天皇ノ名二於テ法律ニ依り裁判所之ヲ行う」 と規定しているのは、現行憲法76条3項の司法権の独立の保障と同主旨に解 してよいのではあるまいか。とすれば、司法権の独立を近代憲法という延長線 上において論ずることも可能といえよう。 (2)児島惟謙・家永三郎編注.大津事件日誌73頁I虫7名中既に5名の同意 を得、事の遂に成れる左見て、欣喜措く能わず、覚えず国家の万歳と法官の万 歳とを唱えたりと記している。 (3)田畑忍・明治的裁判官の法思想一児島惟謙の場合一(同志社法学76号 )14~5頁。 (4)野間繁・司法権独立の限界(早稲田法学24号)270頁6 (5)家永三郎・児島惟謙と大津事件(日本歴史218号)17頁、司法権独立の -114-

(6)

歴史的考察69頁。

(6)佐藤功・平賀書簡問題と裁判官の独立(法学セミナー164号)5頁。

(7)家永三郎・前掲論文17頁前掲書69頁。

(8)田畑忍.裁判に対する政府の干渉と大審院長による干渉排除の峻別(同志社

法学99号)29頁前掲論文14頁。 さて、児島大審院長の行動を司法権独立の擁護とみるか、それとも侵害とみ

るかは司法権の独立をどう理解するかにかかっているといえる。そこで、司法

権の独立の意味を吟味してみよう。

司法権の独立(theindependenceofthejudiciaw)の概念はかなり

莫然としたもので、広狭義さまざまに定義される。広義に解釈したばあいは、

「裁判官の独立(sachlicheUnabhAhgigkeitderRichter)」や「裁判官

の身分の保障(pers8hlicheUnabhAngigkeitderRichter)」がその内容

をなす。これを最広義に解すれば、両者のほか、「規則制定権(therulema-kingpower)」や「司法行政権(thejudicialadministrativepow er)」なども含まれることになろう。これを狭義にとらえると、裁判官が職権

行使における独立を意味する。これを通常、「裁判官の職権の独立(sachli-

cheUnabhA(ngigkeitderRichter)」ないしは「裁判官の独立(thein-dependenceofthejudges)」とよぶ。わが憲法上、司法権の独立とい

うばあいにはこの意味に用いられる(76条3項参照)。 しかし本来、「司法権の独立」と「裁判官の独立」とのあいだにはニユーア ンスの相違がみられる。長谷川正安教授はこれをつぎのように説明しておられ る。 「}つれわれIま、『司法権の独立』というとき、二つのちがった観念を風、うかべる。 その一つは匡塚の統治権の一分肢としての司法権bえ立注権あるいは行政権から分離さ れ、独立の国家機関に与えられるという理論および制度である。この理論および制度は -115-

(7)

1789年のフランス人権宣言以来、近代憲法の原則の一つと考えられている『 権力分立』の思想と結びついている。他の一つは、個々の裁判が他のいかなる 権力。勢力からも干渉されず、独立して行なわれるべきだという要請およびそ

れを保障する制度であり、この観点からは、「裁判官の独立」といわれること

が多い。この考え方は、個々の裁判、または裁判官がそれに干渉する権力と闘

って獲得した歴史、そこで強調される裁判という国家行為の特性から生れたも のである。前者は、『司法権の独立』の権力に重点がおかれているが、後者は、

司法=裁判に力点がおかれてい砦」。

長谷川教授の説明でわかるように、権力に重点をおくか、司法に比重をかけ るかにより、司法権独立の意味が異なる。すなわち、前者のばあい、「裁判所」 という系列をなす裁判所全体をあらわし、立法府・行政府にたいして司法府を意味 する。したがってこの意味から、司法権の独立は司法部(府)の独立、つまり 〃

「裁判所の独立(UnabhangigkeitderGerichte)」をあらわすものと、、え

る。一方、後者によれば、裁判そのものが独立であることの要請であるから、 具体的には各裁判官が個個の具体的な訴訟の裁判を行なうという職務の行使に おいて、他のいかなる権力や勢力からも干渉されないという理念およびその保 ″

障する制度をいうのであり、通常、「裁判官の独立(sachlicheUnabhangigk-eitde〃Richter)」としてとらえられ{:)。

さて、司法権の独立をいずれの点からふるかにより、児島'准謙の行為にたい する評価も変るだろう。司法権の独立を司法府(部)の独立と考えるなら仏児 島院長自身、「裁判官は内閣の奴隷にあらず。奴隷にあらざるものを強いて屈従せしめんと 九故に其手段は公明を欠き、其行動は卑劣を極むるなり。かく卑劣手段を用 (3)

いて法律と憲法を蔑にし、以て自己の内閣が外交上の失策の責任を洗わんとす

」と手記のなかに述べているように、行政部からの干渉にたいし敢然とこれに

挑戦して払触し、裁判官を説いて正しい判断をなさしめた行為は、まさに司法

部の独立を守った、いわゆる「司法権独立の父(thefatheroftheju-dicialindependence)」の称号があたえられるであろう。

他方、司法権の独立を裁判官の独立としてとらえるならば、それは本来、裁

判官が職権の行使にあたって、他の機関からはもちろん、司法内部からの圧迫

-116-

(8)

干渉もうけることなく独立不覇であることを要する主旨だと解される。したが って、裁判内容については上級裁判所長といえども、担当裁判官に請託するが ごとぎは許されないといわなければならない。ところが、児島院長は提裁判長に つぎのように説いている。 「私情を以て天下の大義を曲ぐるは、男子の執らざる処かの午前中に於て は、普通法律に準拠すべきを公言せし君が、午後に至りて倹忽として内閣の主 義に賛同するに至りしは、何が為ぞ。君、別に弁疏するの辞ありや。筍も法官 は、憲法に保障せられたる独立不覇の国家機関たり。然も此不覇神聖なるべき ものが、権門要路、否朋友の干渉甘言に迷誤して、卑屈の挙動を敢て為し、職 権を辱かしめて顧みざる如き忙至りては、是れ国家百世の歴史に汚辱を染め出 し、上天皇陛下の御稜威を潰し奉るものにして、不忠とや云わん、不信とや云 わん。子の君が為に恐るるは-に此にあるなり。 公等は記臆せるべし、過日の勅語には、長多くも、国家の大事なり、注意し て速かに処分せよ、とありたり。此注意の二字こそ、実に勅語の主眼たる大精 神にして、筍も看過すぺからざるものなり。君如何となすや。予は注意に注意 を重ねれば、益内閣の主義に賛同する能わざるの糸ならず、国家の栄辱と憲法 の権威の為大に反対の態度に出でざるを得ざるなり。敢て問う、君は十八日 に面p吾せし大臣、否朋友を欺くか、抑屯亦天下国家を欺いて一身の安を貧らん とするか。今や君は其一左選ばざるを得ざるの立脚地にあるものなり。子より して見ば、其軽重本末は火を賭ろより明なるも、然かも君の選ばんとするは、 執れの途なるや。恂に国家の大事は公等の一挙一動に繋かりて存するなり。請

う熟慮せ(jJ」。

児島惟謙のこの説得行為は具体的事件の裁判にたいする裁判官への翻憶の要 請、正確にいえば皇室謀殺罪の適用を排して一般殺人未遂罪の適用の請託であ る。したがってこの点からみるかぎり、まぎれもなく裁判官の独立を犯したと いえるだろう。しかし、こう単純に結論づけることには何か釈然としたいもの力残る に違いない。なぜならばもし彼が政府と同様、一般殺人未遂罪をしりぞけ、皇 室謀殺適用論者だと想定し、これと比較したばあい、両者をひとしく司法権独 立の破壊者とすることにはいささか問題があるように思われるからである。 -117-

(9)

そこで、宮沢俊義教授の指摘される方法が思い出される。すなわち、「政府の ●●●●●●●●●●●●●● 干渉によって不当にまげられた裁判官の判断を本へ引き戻すことを目的とする のであるから、実質的に見れば、決して司法権の独立の原理に反するものでは

なIPI」と(傍点は筆者)。この見解にしたがえば、司法権独立の侵害といえる

ためには、不当な裁判をなさしめる目的をもって干渉することをさすのである から、不当にゆがめられたものを正当な判決をなさしめる目的で干与すること は、司法権独立の侵犯ではないということになる。この説明は実質的意味にお いてとらえようとする見解だといえよう。 司法権の独立をこのように実質的意味において把握すれば、児島大審院長の 行動は是認される。しかし、この理論を一般化することははたして妥当であろ うか。たとえば、司法内部からの干渉により不当な判決がなされようとすると き、行政府が適正な判断をなさしめる目的で説得行為を行なったばあい、同じ ように解することが許されるであろう力bld法権の独([を川走質的にみるかぎり肯 定されるであろう。だとするとこの見解を普遍化すれば、立法部からの関与も 当然可能であるだろうし、さらには社会一般の諸勢力からも法適正解釈の目的 をもって関与することも十分考えられる。こう考えてくると、極論すれば独立 であったはずの裁判が、いつしか正当裁判の目的で二重にも三重にも干渉の危 険にさらされる要因を含んだ見解であるように`思われる。 そこで、Tdは椎の独〈/:の原'''1を再度考えてみる必要があろう。宮沢教授はこれ を説いて、「裁判官が係争の事件の裁判について、それを規律する法規範の承に拘

束されること、ほかの言葉でいえば、他からの具体的な指令にはいっさい拘束され

ないことを意味する。……裁判官の前で争われる事件に関して存する法規範 は、必然的に、多かれ少なかれ抽象的・一般的な性格を有する法規範であるか ら、本項は裁判官は係争の事件を裁判するにあたって、抽象的・一般的な法規 範忙の承拘束され、具体的な指令には拘束されないこと、すなわち、裁判官が

裁判を行なうにあたっては独立であることを意味す(暑」と述べておられる。

司法権の独立をこのように解すれば、原則として形式的にはもちろん、実質 的にも裁判に具体的指令を発することや裁判内容に影響を与える行動は否認さ れるといわなければならない。もし裁判官が請託をうけ、法をまげて適用した -118-

(10)

ばあいには、別個にその責任を追及することになろう。ところが事後の責任追 及では現状回復が不可能なばあいもありうる。裁判干渉の結果誤判が確定しよ うとするとき、事後の責任追及においては被告人の人権が保障されえないこと が「明白な(Clear)」ときにかぎり、超法規的=自然法的になしうると解 (7) するのが妥当であるように思われる。 この理論的根拠はジョン・ロック(JohnLocke)に求めることができる。 すなわち、ロックはつぎのように述べている。 「人間は生まれながらにして、他のどんな人間とも平等に、すなわち世界中 の数多くの人間と平等に完全な自由を有し、自然の法の定めるすべての権利と 特権を抑制されずに亨受する資格を与えられている。したがって、人間は自分 の所有物、すなわち、生命、自由、資産を他人の侵害や攻撃から守るための権 力を・・・…生来もっているのである」、「どのような人間にも、あるいはまたど のような人間社会にも自分の保全を、したがって、またその手段を他人の絶対 的な意思や勝手気ままな支配に引き渡す権力はない。したがって、だれかが人 びとをそういう奴隷的な状態へおとしいれようとするときはいつでも……こ れを保全する権利をつねにもつものであり、また彼らが社会にいった目的であ る自己保全という、この基本的で神聖かつ不変の法を犯そうとする者の手から

逃れる権利をもつものである」'8L(傍点は筆者)。

ロックによれば、人間は元来(歴史的に)、自然状態にあった。そこでは国 家というものではなく、自然法が支配する。その状態において人間は生命。身 体・財産-彼はこれをpropertyという-への権利をもっていたのである。 ところが自然状態では、そうした権利の亨有が不安定、不確定であったので、 人間は契約によって国家を設けたのである。その国家は自然法にもとづく人権 を確実に保障するために設けられたものであり、いわば後人権的なものである から、国家に先立って存在するところの人権を国家権力によって、侵害するこ (9) とは許されないのである(傍ノ!“よW’rⅡ。 このように人権は憲法によってはじめて賦与されたものではなく、超憲法的、 すなわち自然法的権利として生来当然に有するものであるから、人権に後する 法、いやしくもそれを曲げて天賦不可侵の人権を奪うがごとき行為にたいして、 -119-

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、、 当然「抵抗(Widerstand,resistaェnce)」することは許されるといえるであ ろう。こう理解することによって児島惟謙の行為は正当性を有するものだとい えるのではないだろうか。 註 (1)長谷川正安・司法権の独立(憲法講座4)21頁. (2)佐藤功・平賀書簡問題と裁判官の独立(法学セミナー164号)4頁b (3)児島惟謙家永三郎編注・大津事件日誌42頁。 (4)児島惟謙・前掲書67~8頁○さらに他の担当裁判官にたいしても、「予の 主義を談じて、窃かに其反省を促がせり」と説得行為を行なっている(71頁)。 (5)宮沢俊義・大津事件の法哲学的意味(憲法と裁判所収)204頁.また 泉二新熊も、「大津事件の如き事情の下に於てI虫外部行政官庁より裁判官に対 する不当裁判強要の干渉と、内部監督官より部下に対する正当裁判勧誘の干渉と が対立する状態に在り、判決部が前者に従ふは裁判の形式実質共に不正有害の結 果を来し、後者に従へば僅かに形式上の疑惑を惹起することあるも実質に於て適 正なる結果を斎らすことに於て其失を償ふに余り有り」と述べている信沢・前 掲206頁)。 (6)宮沢俊義・日本国憲法605~6頁。 (7)家永教授は児島の裁判官説得行為侭一応裁判干渉の構成要件に該当すること を認めるが、内閣の側からの急迫不正の侵害に対し、司法権独立という公益の危 険を防止するためにやむ左えざる手段に訴えたものとして、終局的に児島の裁判 官説得の違法性が阻却されると私は考えるものであると述ぺておられる(児島家 永編注・前掲書265頁)。 (8)JohnLocke,IWoTreatiseofGovernment,acriticaled- itionwithanintroductionandapparatuscriticusby PeterLaslett,1963宮川透訳245頁286頁。 (9)宮搬義・憲法Ⅱ〔新版〕79頁。 -120-

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3 それでは司法権独立の究極の目的は何であろうか。司法権独立の意味は、前 にみたように、裁判官が裁判職権行使にさいして、他から指揮命令をうけるこ となく独自の判断により裁判をすることにある。それは法を正しく解釈し公正 に適用することを担保するためであるといえよう。さらに一歩すすめて考察す れば、まぎれもなく「人間の権利の保障(guarantyofhumanrights)」 を確保するためでなければならない。家永教授は、「そもそも法が国家をも拘 束する力を有し、司法権の独立が要請せられるのは、法の主要目的が人権の保 ●●●●●●●●●・・。●・・・・・ 障にあり、司法権の独立が人権を国家権力から防衛するために不可欠の制度で

あるからではなかろう易!」と述べておられる(傍点は筆者)。人権保障は近代

憲法の大原則であり、とくに生命にたいする自由の権利は犯されてはならない。 判例にもいうように、生命は全地球よりも重い法的価値を有するからである。 さて大津事件における児島大審院長の熱烈な説得行為の源泉は、何に基因す るものであろうか。被告人津田三蔵の人権擁護思想が根底にあったからであろ うか。手塚豊教授は論文「大阪事件の裁判と児島惟調のなかで、膜の司法

権独立の意味を彼がどの程度まで理解していたかは一応別とし増」と述べてお

られるが、これは児島が必ずしも人権擁護思想をいだいていたとはいえない のではないかということを暗に示すことばとしてうけとれる。児島自身、「津 田三蔵の如き、感情を以てせば実に国家の大罪にして、寸断するも足れりとせ

字」と松方正義に答えているところから察すれば、感情的には被告人を極刑に

処するもやむをえない心境がうかがえる。また三好検事総長との連名で司法大 臣に打電した内容、すなわち「津田三蔵事件実地に係り、深く考究するに刑法 116条を通用する見込なし。依て己むを得ざれば緊急勅令を速かに発せらるる

外なかるく巴」との文言は人権思想に胚胎したものだとは思われないようであ

る。彼は手記のなかで、「裁判官の眼中唯法律あるのみ」、「服従すべきは唯 法律のみ」(大津事件日誌80頁、86頁)と述べている。司法権の独立は彼 のいうように、裁判官が法のなかにのみ存在するとき達成されるといえる。し かし遵法は司法権独立の目的でなく、その手段であるように思われる。彼は遵 -121-

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法の目的を何に求めていたのであろうか。前にみたように、提裁判長にたいし て、「国家の栄辱と憲法の権威の為」(前掲67頁)と説き、その他の個所で も、「予は国家の為決断する所なからざるを得ざるなり」(66頁)とか、「 今や絃に大悟にして正義の大道を踏み、法律の威権と神聖とを擁護せんとする 彼を見ては、天下の為、国家のため一道の光明を闇雲の間に見せしの思なき能 わざるなり」(70頁、傍点は筆者)と記している。これらの点を総合すれば、

政府にたいする強烈な鑑も法律の威権のためであり、天下国家のためであり、

司法部独立のためであって、人権擁護にねざしたものではなかったように思わ れる。そこに彼の限界があったのではないだろうか。 註 (1)児島惟謙家永三郎編注・大津事件日誌267頁。 (2)手塚豊・大阪事件の裁判と児島惟謙(法学研究第45巻第2号)26頁。 (3)児島惟謙・前掲書134頁、210頁。 (4)宮沢俊義・大津事件の法哲学的意味(憲法と裁判221頁、児島家永編注 ・Iili掲書267頁。 (5)Ⅲ1群太郎・明治憲法の史的展開(体系憲法事典)237頁(よ藩閥体制の中で 出世する見込みの薄い薩長以外の出身者が司法官に多く、藩閥政権に対し強い反感 を抱き、批判的であったこともあずかって力があったと思われると述べている。 4 以上述べてきたことから、司法権の独立の究極の目的は「人権保障(guar-antyofhumanrights)」につかえるものだということがわかった。その ためには司法権の強化や独立を儒渡的側面から保障する対策が検討されなけれ ばならないであろう◎ 横川敏雄裁判官は、「わが国の現状において、法制上これ以上の司法権の強 化を望むことは困難であろう。この意味では、わが司法権の独立は少なくとも -122-

(14)

法制上は、ほとんど批判の余地がないように思われ砦」と述べておられる。横

川裁判官の指摘のように、わが国の司法権は明治憲法のそれに比較すれば、権 限もはるかに強化され、裁判官の身分保障も法制上、一応完備したといえよう。 したがって、司法権の無制限の強化をのぞむことは許されるものではない。も し司法権が立法権の範嶬に立ち入り、積極的に立法作用を行なうならば、モン テスキューのいうように自由の存在はありえず、市民の生命や自由にたし、する 権力が恋意的になり、行政権の領域での活動が自由となれば、裁判官は圧制者 (2) の力をもちうるにいたるようになるからである。 しかし法制上、司法権の強化と司法権の独立の保障とは区別されなければな らない。司法権の範囲の拡大化や地位の向上が即司法権の独立の充実とはいえ ないからである。強化された権限が正当にかつ有効に機能を発揮してはじめて、 司法権の独立への道が開かれる。そのためには、形式的のみならず実質的に作 用しうる制度的保障があって可能となる。かりに、裁判官任命権者が自由に操 作しうるしくみや任命権者の専断にかかるような制度が残されているならば、 司法権の強化は実は、行政権の脱法的強化策であり、司法権の存在は形骸化以 外の何ものでもないということにすらなりかねないのである。したがって、裁 判官指名・任命制度の重要性が問われるゆえんである。民主制を票傍する体制 の下では、裁判官指名・任命制度にあっても、原理的には民主的にコントロー ルされるしくみをえていてこそ、司法権の真の強化をはかる規定といっても過 言ではないだろう。 法制上、爵高裁判所長官は内閣が指名をする(憲法6条2項、裁判法39条 1項)。他の最高裁判所裁判官は内閣が任命する(憲法79条1項、裁判所法 39条2項)。下級裁判所の裁判官は、最高裁判所の指名した者の名簿にしたが って内閣がこれを任命するのである(憲法80条1項、裁判所法40条1項)。 これらの規定からわかるように、裁判官の任用には内閣の意思が強く作用しう るしくみとなっている。下級裁判所のばあい、裁判官の実質的任命権は最高裁 判所にあるとの見解もなりたつが、仔細に検討すれば、指名権者たる最高裁判 所は内閣の意図する人物により組織しうるので、内閣が他の政党への更迭がな いかぎり、内閣と最高裁判所は同質性を有するものといえる。内閣の意思いか -123-

(15)

んによっては、その分身たる最高裁判所をつくることさえできる。その分身た る最高裁判所により指名される下級裁判所の裁判官は、その指名にさいして、 内閣の好まざる人物をチェックすることもできよう。もし内閣の欲せざる裁判 官が名簿に記載されたばあいは、みずからの権限によりこれを拒否することも 可能である(憲法80条参照)。最高裁判所にいたっては内閣の影響はストレ ートである。前にみたように、最高裁判所裁判官の任命権は内閣の専有すると ころであるから、内閣の分身、すなわち第二内閣をつくりうることは明らかで ある。 こうゑてくると、樹Ⅱ裁判官の指摘されるような完壁なほどにまで強化され た司法権も、空洞化する危険性を含んだ制度だといわざるをえない。このよう な制度の下では司法権が強化されればそれだけ、その弊害はなお一層大きくな る懸念も生ずる。ここに司法官指名・任命制度の再検討の要諦があるといわな ければならない。 註 (1)樹Ⅱ敏雄・司法権の独立と司法権のあり方(法哲学年報1956年)58頁。 (2)OharlessdeSecondat,barondeLaBrddeetdeMontesq- ′ uieu,LEspritdeslois,1748根岸国孝訳88頁。 モンテスキューは同頁でつぎのよう忙述ぺている。「裁判権が立法権および執行権 と分離していたいばあいもまた自由は存しない。この櫓DK立法権と結合しておれば、 市民の生命および自由にたし、する権力が恐意的なものとなろう。裁判官が立法者と なる訳であるから。この横が執行権と結びついているとすれば、裁判官は圧制者の 力をもちうるであろう」と。 5 司法権独立の空洞化を防止するためには、裁判官の指名・任命の方法を他の 国家機関、とくに行政部の専断にかからしめることを制限しなければならない。 -124-

(16)

民主主義の理念からすれば、国民の直接の意思と合致する裁判官の選出とその 選出の方法がのぞましいであろう。その典型的なものとして国民の直接選挙制 である。ところが、この制度にたいして、ラスキー(HaroldLaski)も指 摘しているように、国民大衆が裁判官の法律技術的能力を有するか否かの判断 にさいし、はたして正しい判断をなしうるかという点、また裁判官立候補者が 当選するために政党的弊に落ち入り、ひいては第二国会の様相すらていするよ うにたり、政治から公然中立でなければならないはずの司法部が、かえって政 争の渦の中に巻き込まれることになる点を考慮す)れ隣民主的美名にもかかわ

らず、すぐれた制度とはいえないかもしれな(リ。

ところがこの批難にもかかわらず、公選制は下級裁判所で採用している国や 州がある。たとえば、ブルガリア憲法58条や朝鮮民主主義共和国憲法83条な どがこれであり、イタリア憲法では単独裁判官の権限とされるすべての職務に ついて……選挙を認めることができるし(106条2項)、素人裁判官を認める ばあいは公選によることもできるとする。この規定に類似したものにユーゴス ラビア憲法がある。これは若干の裁判所の裁判官および素人裁判官を直接市民 が選挙することも可能だとする(137条3項)。州レベルではスイスのカント (2) ンやアメリカの多くの州がこの方法を採用している。 公選制もラスキーの指摘する欠点を是正しうるとすれば、一部には採用して もよい制度の一つではないだろうか。事件が国家対国民にかかるようなばあい には国民選出の裁判官をえるため、この制度を検討することも無意味ではない だろう。 つぎに、裁判官の直接選挙にかえて、間接選挙制はどうか。大西芳雄教授は、

「間接選挙制においても、その弊害は直接選挙制より幾分割引されるという程

度にすぎな(ihと否定的見解を述べておられる。しかし、外国では間接選挙制

の例をみることができる。たとえば、最高裁判所の裁判官の選出を国権の最高 機関にゆだねているのはソ連憲法にみられる。すなわち、「ソ連邦最高裁判所 は、5年の任期で、ソ連最高会議がこれを選挙する」(105条)、「連邦構成 共和国最高裁判所は、5年の任期で、連邦構成共和国最高会議がこれを選挙す

る」(106条)、「自治堀ロ国最高裁判所は、5年の任期で、自治共和国最高

-125-

(17)

会議がどれを選挙する」(107条)、と規定している。ブルガリア憲法は、「最

高裁判所は、人民会議によって選挙される」(61条)、ユーゴスラビア憲法は、

「連邦最高裁判所の裁判官は両院の合同会議において、連邦人民スクープシチ

ナによって選挙される」(121条1項)、ドイツ民主主義共和国憲法は、「共

和国の最高裁判所裁判官……は共和国政府の推せんにもとづき、人民議会がこ

れを選任する」(131条1項)、またラントのばあいも同様に州議会が選挙す

る(131条2項)。その他、ハンガリ憲法や1954年の中国憲法にその例を承 ることができる。州レベルでは東ドイツのほかアメリカでもこの桁Ⅱ度がとられ(4) ている◎ 前に述べたように、裁判官の選任を選挙による方法にたいする批難も理念そ のものにたいしてではなく、技術的面にたいしてであるといえる。したがって、 何らかの形で国民の意思にもとづく裁判官選任の理論的根拠は、民主主義理論

やルソー流の一般意思論(volontjgさn8rale)におっている。いいかえる

ならば、多数による意思の形成は、まぎれもなく真の自由の表明であるからで

ある。ここに多数制尊重主義の原理が承られ、ロックやモンテスキュー流の少

数者の権利保護たる個人主義的自由主義を理念とする裁判権との調和が保てる

からである。

さらに、司法権独立の強化的楕腹としてあげられるのは、内閣の専断的任命

をチェックする方法である。いいかえれば、内閣の指名には他の機関の同意を

要するとすることである。たとえば、アメリカでは連邦最高裁判所の裁判官の

任命は、大統領の権限であるが、これには上院の同意を要する(2条2節2項)。

ブラジルの連邦最高裁判所の裁判官も上院の同意をえて、大統領が任命(113

条1項)し、メキシコのはあいもこれらの国と同様の任命形式をとっている。

その他、韓国では大法院長は法官推せん会議の提議により、大統領が国会の同

意をえて任命し(99条1項)、大法院長以外の法院法官は大法院長が法官推

せん会議の同意をえて大統領が任命する(99条2項)。フランス第四共和国

憲法下においては、司法官は大統領が最高司法会議の推せんにもとづいて任命

することになっていた(84条1項)。フィリピンのばあいは、大統領が司法官

の任命にあたって同意権を有するのは立法機関ではなく、任命委員会である。

-126-

(18)

そのほかこれらの範鴫には入ると思われるものにベルギー憲法がある。それ によれば、大審院判事は上院より一通、大審院より一通提出される二通の二重 名簿にもとづいて国王が任命し、控訴院の裁判官および各級裁判所の長は、当 該裁判所および州議会により提出される二重名簿中より国王が任命する(99 条)。州レベルでは西ドイツにこの例を承ることができる。西ドイツのラント では、ラント司法大臣が裁判官選挙委員会と共同で選任することができるとす る(基本法98条4項)。 これらの例が示すように、司法官任用にあたって行政部の専断を廃するため

他の国家機関や委員会の同意をうろことを条件としている。わが国のばあぃも

形式的にみるかぎりでは、この範祷に属せしめることもできよう。しかし、最 高裁判所裁判官の任命・認証は天皇の国事行為であるから、これは実質的意味 をもたないので、やはり内閣の専断にかかっている。この方法に類似したのが

イギリスの制度であ弩。下級裁判所裁判官の選任方法についてはこの方式に大

分ih[いといえる。形式的にはこの分野に入ることは否定しえないが、実質的に みれば、内閣は最高裁判所の作成した名簿の記載にもかかわらず拒絶すること ができると解されるので、結局内閣の専断にかかる制度ということになろう。 以上のことから日本国憲法は、一方では司法権の強化をうたいながらも、他 方ではそれが空洞化に導く要因を包含した規定であるように思われる。 註 (1)HaroldLaski,AGranmnerofPolitics、4the。.P、545et・ seco 大西芳雄・司t去権の独立(公法研究11号)4頁。 (2)アメリカの50州中28州(-審については30州)までが公選制(うち16州は 党派別を明らかにせぬ選挙)をとり、残り22州中4州(一審については3州)が 立法部の選挙制を採用している。その外州民審査制をとっているところが11州あ ることも注意すべきである(田中英夫・英米の司法380頁)。 (3)大西芳雄・前掲4頁。 (4)アメリカの4州(-審については3州が立法部の選挙によっている。すなわち -127-

(19)

サウス・カロライ大ヴァーモンKヴアージニスロードアイランド(一審以外)。 (5)theLordOhancellor,theLordOhiefJustice,theMaster oftheRolls,thePresidentoftheFamilyDivisio、,Vice Ohancellor,theLordofAppealinOrdinary,theLordsJu- sticeofAppealは総理大臣の助言にもとづき女王により選任される。しかし thepuisneJudgesofHighOourt,Recorders,OircuitJudges, StipendiaryMagistrates,theOountyOourtJudges,LayMag-istrates’は大法官の助言により女王が任命する。 6 つぎに司法権の独立に不可欠な要件としてあげられるのは、裁判官の意識=あ る。裁判官にひとしく課せられた憲法および法律の遵守義務(憲法99条)お よび良心にもとづく法解釈の要請(憲法76条3項)は法令の要求するところ であるが-法令の解釈にあたっては裁判官個人の主観的発露は許されないで あろうが-,抽象的法規の解釈をめぐっては裁判官の意識ないしは感覚に影 響されることは否めない。憲法や法律、社会の要請とはおよそ無縁の法的感覚 しか有しないならば、ある意味においては司法権の独立をみずから放棄するも のといわざるをえない。「裁判官はすさまじい精神的葛藤と思索的苦闘を経て 決断に至るのである。……究極的においては深い憲法思想=人権思想と強

靱な論理構成力、さらには人権擁護の情熱が最大の支柱をなすのであ(暑」から、

(2) 憲法感覚の正しい要請と社会認識の鋭敏性との要請がなされる。換言すれば、 国民から信頼される裁判をするためには、裁かれるものの生活意識、庶民感覚 もまた要求される。 ところが裁判官任用にあたり、個個人に憲法や社会意識の有無を判定するの は困難であろう。このように新しい時代に即応しうる裁判官の確保はやはり制 度的に検討されるほかはないだろう。したがって、裁判官選任の対象(範囲) と裁判官養成の方法とがこれであり、究極的には法曹二元主義か法曹一元主義 -128-

(20)

● カコの問題に帰着するであろう。 法曹二元化社会における、いわゆるキャリア・システム(careersystem) では、「裁判官は法曹資格を取得してからずっと裁判官の世界で過すわけであ り、それだけに、繩GI山培養的に、無菌的に裁判官を育てて行くことができる。 裁判官自身(少くとも日本の場合には)、その廉直性にいささかなりとも疑左 さしはさまれることがないよう裁判官以外の者との接触にはかなり慎重な態度

をとってい皇bといわれるように、裁判官の純粋性清廉潔白性が最大の特徴

とされる。たしかにキャリア・システムは法曹一元主義に比較すれば、社会一 般における特殊な人間関係をつくりだすことははるかに少なく、無菌的裁判官 の養成にはすぐれた制度の一つといえるだろう。 しかし、この制度は裁判官の国民一般社会との関連性が稀薄(けるのに反して、 それだけ裁判官の官僚化や国家権力との結びつきが深くなりやすいという懸念 がもたれる。両制度を単純に比べたばあい、法曹一元の社会では司法担当者は 国民との関係において特殊利害関係をつくりやすいのにたいして、法曹二元の 社会では裁判官と国家権力との融合化が強く、危険性においては後者の方がよ り大きいといえるのではあるまいか。法曹一元化、二元化の問題は詳細に検討 されなければならないが、司法権独立→裁判官の憲法および社会感覚の図式 の点から考察すれば法曹一元制の方がすぐれているように思われる。田中英夫 教授は法曹一元の特徴をつぎのように述べておられる。 「まず第一に、法曹の長老としての裁判官を中心に、法曹が一体となって法 の発展と司法の運営に協力するという態勢が出来上がりやすい。そこでは、わ が国においてかなり根強く残っている在朝・在野間の対立意識は解消され、弁 護士側からの裁判所へのより積極的な協力が期待されるとともに、裁判官の側 にも、弁護士の活動の実態に対するより深い認識をもった訴訟指揮が期待され うるのである。 第二に、裁判官になる前に一般の法曹としての経験を稜WITことば、社会の実 相に触れ、広い視野に立つ総合的な(あるいは全人的な)判断力を高める機会 を多くするということを意味Pする。法曹経験が英米のような幅広いものの場合 は、特にそうである。このことは、すぐれた裁判官をもつチャンスを増大せし -129-

(21)

● めるという意味で好ましい。 第三に、裁判官には、その職務の樹各からいっても、何人にも拘束されず独

立に、法とふずからの良心とに従って行動するという態度が強く要求される。

その意味で、法曹一元の制度のもとで、裁判官に関する諸制度について官僚制 のアナロジーが強く排除されていることは、官僚的発想が知らず知らずのうち (4)

に裁判官の,心のなかに忍び込むことを防ぐに役立つであろう」。

このように法曹一元Hillは、法律家に広い視野に立つ総合的な判断力を高める

機会を与え、裁判官の法感覚が国民生活と遊離せず、国民の裁判官にたいする

信頼、さらには裁判への関心の高まりをつくりだしやすい制度であり、前にも

述べたように、これが司法権の独立を強力にささえる要因となるのではないだ ろう力む -,法曹一元の採用は英米にみられる。まずイギリスでは、裁判官は通常弁

護士のなかから選ばれる。弁護士はパリスター(barister)とソリシター(s-olicitor)の2種があり、いわゆる弁護士二元制がとられ、専門的裁判官は

パリスターとしての一定年数の経験を有する者のなかから任命される。パ

リスターは原則として、上級裁判所(superiorcourt)における弁論権を独

占するが、依頼人と直接おい接衝することはできな(N)ので、ソリシターを通じ

て事件の依頼がなされる。一般に、社会的地位はパリスターの方が高いが、両

者は法的に上下の関係にあるのではない。またパリスクーにはQeeriBCoUn-sel(Q、C,)(国王のとぎはKinglsCounsel(K、C、))というのがあり、

長年の経験(通常10年以上といわれる)を経た者は大法官(LordOhancel-10r)の推せんで選任されてtalkingsilkとよばれ、Q、Qでない普通のパ

リスター(juniorbarrister)をともない出廷する。

イギリスではこのように、裁判官は弁護士のうち、とくにパリスター経験者

から選ばれるのであるが、その経験年数の要件は各級裁判所によって異なる。

(1)貴族院(HouseofLords)における大法官(LordChancellor)以

外の裁判官(LordsofAppealinOrdinary)については15年以上パリス

ターの経験者、または高等司法官(HighJudicmlOffic唐))に2年以上在

職した嵩 -130-

(22)

(2)控訴院(CourtofAppeal)の裁判官(LordsJusticesofAppeal) とそ長(MasteroftheRolls)については、15年以上のパリスターの経

緒または高等法院(HighComOの裁判官である豊

(3)高等法院(HighCourt)の裁判官(PuisneJudge)については10年 (8) 以上のパリスターの職務にあったことが要求される。 (4圧座裁判所(CrownCourt)では高等法院の裁判官、それに巡回裁判官

(CircuitJudge)および市裁判官(Recorders)が裁判にあたる。巡回裁

判官に任命される者は、10年以上パリスターの地位にあった者か、5年以上 市裁判官の地位にあった者b市裁判官になるには10年間パリスターまたはソリ (9) シターであったことが要件となっている。 (5)中央刑事裁判所(CentralCriminalCourt)でI説パリスターの実務が 00 10上E以上たることが要求される。 (6)県裁判所(CountyCourt)では巡回裁判官がこの職務を行なうことにな ったので、10年以上のパリスターか5年以上の市裁判官であったことが要求 される。 (7)治安判事裁判(Mヨgistrate5Oourt)の有給の治安判事(StiPendiary

Magistrate)の資格は7年以上パリスーまたはソリンターであったことがそれそ

01) れ選任の要件となっている。 このように裁判官任用の法的要件は、長年のパリスター経験を要求している。 それにもかかわらず、実際裁判官に任命されるパリスターの経験年数は法の要 ⑫ 請よりはるかに長いといわれる。 二、アメリカでも裁判官はイギリスと同様、弁護士から選ばれるのが通常で ある。いわゆる法曹一元の原則にたっている。イギリスでは弁護士二元主義で あるが、アメリカでは弁護士単層主義であるので、この点法曹一元制の徹底し た国だといえよう。アメリカの弁護士資格の附与は各州によって異なっている が、一般に弁護士試験委員会(BoardofBarExaminors)によって施行 される試験に合格することが必要で温る。連邦裁判所の弁論資格はまず州で資 格を取得し、さらに各連邦裁判所の定める要件(各裁判所により異なる)を充 足しなければならない。長年弁護士の職にあり成功した者は、法廷の弁護活動 はほとんどしたくたり、それに代って法廷外の法律問題や訴訟以前の法律事務 -131-

(23)

の処理に集中するようになる。ときには大会社の法律関係の部局、官庁や公共 企業体などの法律職を担当する。これらは訴訟外の法律事務といってよい。こ のように、F流の弁護士の実務は、会社のために税につき助言したり、契約 書を作成したり、その他事業上重要な決定に参画したり、労働組合との交渉に

会社を代表したりするような内容のものに舵てい曙」。

またアメリカでは弁護士と一般家庭との関係が密接で、日常生活の諸問題に も弁護士のはたす役割が大きく、法律生活が社会に浸透し法意識の向上、弁護 士への信頼感の確立と同時に弁護士の責任感が必然的に助長される。一般社会 人と法律家との相互信頼の維持と法律家の国民にたし、する責任感の育成が促進 される。その他弁護士の品位の向上に役立っているのに弁護士の各種団体があ り、そのうちでもとくにアメリカ法曹協会(AmericanBarAssociation) は法律家にたいする影響力が大きいといわれる。すなわち、「第一に、質のよ い法曹の養成のため、法学教育や弁護士試験の向上に意を用いること。第二に、 弁護士の水準の維捺とくに弁護士道徳(legalethics)の強調である。こ れについては協会の起草した弁護士倫理典範(CanonsofProfessioEJal M Ethics)が有名であり、多くの州の法曹協会もこれを採沢している」。 アメリカで法曹一元制といったばあい-弁護士について述べてきたが-、 実は「法曹」は弁護士とはかぎらない。法曹一元主義の基盤はもちろん弁護士 であるが、必ずしも弁護士に限定することは妥当ではない。法曹には弁護士を はじめその他の法律専門家も含まれるので、法曹一元制の構成体は法律家(l-awyers)といった方が正しい。アメリカでは法曹資格取得後、裁判官任用ま で弁護士以外の法律家として、け)政府機関に専門法律家として雇用され、連邦 行政や州行政'てたいする法律事務の経験豊富な者がこれにあげられる。(ロ)会社 やその他の法人に法曹有資格者が、法律専門職として雇用されるばあいも、そ の職務を通じて法律家としての経験を蓄積する。㈹法律学校(lawschool) を終え裁判官の調査官(lawclerk)となり、裁判官を通じて裁判事務を学 び、ときには重要な法律問題の事件の調査により、深い法律の素養をみがきう る者もこれに加わる。(二)大学で法学教育を担当する、いわゆる大学教授もこれ に含まれる。実際大学教授が裁判官に任命されることもある。 -132-

(24)

アメリカでも裁判官に任官されるまでの法曹経験年数も比較的長いといわれ ㈹ るo 三、さて、わが国における法曹一元論の問題は、戦前戦後を通じて指摘され てきた。、司法改革が抜本的になされた終戦直後は法曹一元制へ改正しうる絶好 の機会であり、この問題が真剣に討議された。当時設置された司法制度改正箸 ㈹ 議会における論議まとのことを如実に物語っている。 しかし、これらの委員の熱弁にもかかわらず、法曹一元制は採用されるとこ ろとはならなかった。その後、設置された臨時司法制度改正準備協議会、さら には司法法制審議会においても弁護士出身の委員などから、法曹一元の主張も 承られたが、その設置をみるにはいたらなかった。昭和37年、臨時司法制度 調査会が設けられ、法曹一元の制度・裁判官や検察官の任用市曠および給与制 (11 度について審議し、臨時意見書がまとめられたが、その方向はのぞましいとし ながらも、実現するための諸条件の不備とくに弁護士界の整備が不十分とい う理由で採用しえないとの内容のもので終ったのである。 これで長きにわたって展開された法曹一元化運動もこれにより終止符がうたれ たかのようにも受けとられていたが、これは決してキャリア・システムが最善 のものだということを表わすものではない。有識者の間から「現在のキャリア

優先の司齢陵のままでは老朽化し、法技術的な『職人裁判』におもい響」と

の警告や、「法曹一元は日本の司法制度の最大にして最終目標だ。理想の芽は

大きく育てなければならな{,」との決意、「『法曹一元は尚戦、参箸、陪審

はいやだで、ただキャリア・システムを維持するというのでは、あまりにもわが 国独得のもののような気がする』し、司法民主化の態度とはおよそ縁どおいと

いわなければならな(!」との言に今一度耳を傾げなければならないのではない

だろうか◎ 註 ⑨ (1)小田中I鐘樹・現代司法の構造と思想250頁 (2)憲法感覚・人権感覚に関して、2人の法律専門熟まつぎのように途ぺておられる。 潮見俊隆・現代の法律家93~4頁「日本の裁判所について、わたくし'よ -133-

(25)

民主主義という価値基準からすれ'エその判決は上級春にいけばいくほどわるくな るという仮説をもっている。……下級審の裁判官のなかにI典すぐれて新憲法的な 感覚を身をつけたひとたちがいるということも争いえないじじつである。たしかIC、 戦後に日本国憲法のもとで育てられた若い世代の裁判官と、戦前の帝国憲法のもと で養成され、旧制度の抵、手であった裁判官との&bNM2に1入意識面での大きな断層 が存在する。戦後の下級裁判所において、新憲法的使命を体現したいくつものすぐ れた裁判b:なされてきたのI虫新藤法の精神にめざめた少数の戦前派鋼qj官の存在 をのぞけばb新憲法のもとで育てられてきた若い世代の裁判官の憲法感覚によると ころがすぐなくない」. 新村義広・日本の裁判C朝日新聞社勵50~1頁「従来の裁判官は天皇を頂 点とする官僚組織のなかにおかれ官僚精神を身につけている。官僚精神の中には 人権への感覚力次げている。そういう裁判官はM糧擁護を大使命とする新時代の裁 判官には適しないのではないか」。 (3)田中英夫・英米の司法347頁。 (4)田中英夫・前掲書345~6頁。 (5)このような点から、パリスターを法廷弁護士(barlawyer)といい、ソリシ クーを事務弁護士(officelawyer)と訳されている。

(6)HighJudicialOfficeとはLordOhancellorおよびSuperiorOo-urtJudgesをさす。AppelateJurisdictionActl876,8.6. (7)SUpremeOourtofJudicature(Oonsolidation)Act1925,8. 9(2)(3). (8)SupremeOourtofJudicature(Oonsolidation)Act1925, 8.9(1). ただしQeen,sBenchDivisionの長であるLordOhiefJusticeおよ びFamilyDivisionの長であるPresidentoftheFamilyDivis-ionはパリスクーとして15年以上の経験者であることが要件とされる。また補

助裁判官としてのQeenfsBenchDivisionMasterは10年以上のパリスクー

の事務にあったこと、OhanceryDivisionのMasterおよび訴訟費用の決定な どにあたるTaxingMasterは10年以上のソリシクーであったことを要する。 -134-

(26)

(9)OourtActl971,8.16(3),S、21(2). 00)OityofLondonOourtsACtl964(0.iv),S、5(2). (11)JusticeofthePeaceActl949,8.29(1).… (12,田中英夫教授は裁判官26名につきこれを分析しておられる。 氏名バリスクーの 経験年数 HouseofLords 〔Ohancellor〕 LordGardiner 39 〔LordsofAppealinOrdinary〕 LordHeid34 LordDmovan 26 LordMomrisofBorth-y-Gest 24 LordWilberforce 29 LordHodsom l6 LordPearson 27 LordGuest 36 LordDiplock 24 LordUpjohn 22 ViscoIlntDilhorne 35 平均(Ohancellorはのぞく)27.3 OourtofAppealのMasteroftheBollS,L⑥rdsJustices ofAppeal-13名,LordOhiefJusticeofEngland,Pres- identoftheProbate,DivorceandAdmiraltyDivisionの計 16名のパリスクーの平均経験年数27.3年となっ、、る(1970年1月1日現在)。 (田中・前掲書268頁第5-1表による) (13)伊藤正己・アメリカ法人門ユ46頁O (14)伊藤正己・前掲書148頁. (15)田中教授による法曹経験年数の分析はつぎのとおりである。 -135-

(27)

氏名 法曹経験年数 SupremeOourt 〔OhiefJuStice〕 WarrenR・Burger 25 〔AssoOiateJustice〕 HugoL・Black 31 William0.Douglas l3 JohnM・Harlan 29 WilliamJ・Brennan l8 PotterStewart l3 ByronR,Whit l6 ThurgoodMarshall 28 平均(OhiefJusticeをのぞく)21.6 CourtoどAppeaユ日のDユBtricto2CoユumbユaCユrcuit8名, FiretCユrcuエt3名,SecondCユrcuit9名,TmrdCircuユt7名, FourthCircuit7名,FユEthCircuitl5名,SエxtlユCユrcuユt8名, SeventhCエrcmt6名,EユghthCユrcuit8名,NユnthCircuit l3名,TenthCユrcuit7名の計82名の裁判官の任官前の法曹経験年数は 22.7年である。(1970年1月1日現在) (田中・前掲書276~280頁第5-2表による)

06)たとえば、第1東京弁護士会会長であった豊原委員1頭「東京弁護士会の委員会

では研究の結果別案〔法曹一元案〕を採用すぺしとの意見に一致した」と述べてい る。 また東大教授であった高柳委員も、「司法制度を根本的に改革するというのであ れば、月嶢の方がよいと思う。「…・・別鋼まこれと全然異なり法曹が法を守るという 考え方でもこのぱあいは行政にたいしても、法の権威というものが存している。裁 判官の事実認定の問題であるとか、判事の単独制の問題などは単に技術的の問題に 過ぎないが、国家がデモクラシーになったぱあLXその司法は法曹一元である」と -136-

(28)

論戦されている。 さらに、高橋委員(東京弁護士会長)はつぎのように主張されている。「弁護士 は事件の実体に触れ社会の実状に接するから、その体験を活かしえると思う」。「 現在のごとく一定の試験を経た者の内から、画一的に司法官を採用する制度は司法 官の精選という点において欠くところがある。法曹一元論はこの制度を根本より建 直さんとするものであり、畢意社会生活の人情に触れたる者が、裁判するのでなけ ればならぬというにある。..…・弁護士から司法官を採れというのではなく、司法 官になる経過として弁護士たれというのである」と。 (東京大学社会科学研究所編・戦後改革4司法改革24~6頁引用。平仮名に あらためたのは箪笥。 07)内容はつぎのとおりである。「法曹一元の制度{よこれが円滑に実現されるなら ば、わが国においても一つののそましい制度である。しかし、この制度が実現され るための基盤となる諸条件はいまだ整備されていない。したがって、現段階におい ては、法曹一元の制度の長所を念頭におきながら、現行制度の改善をはかるととも に、右の基盤の培養についても十分の考慮を払うべきである」(潮見・現代の法律 家161頁)。 (18)(19)小林俊三および渡部喜十郎氏の発言。朝日新聞社編・日本の裁判272頁。 (20)潮見俊隆・前掲書170頁 -137-

参照

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