はじめに 最近,偶然の機会に,神田通新石町に住んでいた大工木下利吉にかかわる建築図面等を入手した。 まだ整理途中であるが,大半は実際に工事にあたった建築の設計図である。その中に,大工の十一番 組にかかわる冥加帳,利吉が年寄を務めた三十三番組にかかわる名寄帳,住んでいて町年寄を務めた 通新石町の店連判帳他があり,これらを通して江戸から東京への過渡期における大工の実態の一端が うかがえるので,史料の紹介を兼ねて,これまでに分かったことを報告する。 史料について 今回紹介する主な史料は次のとおりである。 1,『安政七申年三月 御冥加大工手間請取帳 行事 』 2,『明治三午四月 大工職名寄帳 三拾三番組』 3,『五ヶ条之義ニ付 店連判 通新石町』 1の『安政七申年三月 御冥加大工手間請取帳 行事』は,万延度の江戸城本丸御殿再興にかか わる寄付の請取帳である。 江戸城の本丸御殿は,安政 6年(1859)10月 17日に焼失した。そのため,幕府は安政 7年(1860)3 月 25日に,再建工事に着手している。この時再建された本丸御殿は,竣工したのが万延元年(1860) 11月 9日であるところから,研究上通常万延度本丸御殿と呼んでいる。 この冥加請取帳が,この万延度本丸御殿の作事にかかわるものであることは,頭書に記されている 「定」によって明らかである。 「定」は,次のとおりである 学苑近代文化研究所紀要 No.863 132~137(20129)
幕末明治初期の江戸から東京への移行期における
江戸の大工に関する史料から
平 井
聖
ThreeHistoricalDocumentsRegardingCarpentersofEdo(Tokyo) intheLateEdo-EarlyMeijiPeriod:WhatTheyTellUs
HIRAI-Kiyosi 〔研究ノート〕
「 定 一, 大工手間壱人ニ付 代銀六分 但飯米共 右者旧冬 御本丸御炎上ニ付,当春より御普請始リ,大工手間冥加之為壱人ニ付代銀六分宛上納可仕旨被仰渡一同奉畏 候,即上納面々割合金高左之通り 申[安政 7年]三月 十一番組 行 事 」 この「定」から,江戸城本丸御殿が安政 6年に焼けた後,翌 7年春から再建の作事が始まるのにあ たり,大工からも冥加金として「大工手間冥加之為壱人ニ付代銀六分宛」を上納させたことが明らか になる。この記述から,「十一番組」の大工たちに直接作事にあたらせるのではなく,手間を銀に替 えて上納させたことが分かる。 この帳簿では,「定」の後に一人ずつ名前,割り当ての金額,根拠となる人にん工く数を書き,そのあとに 請取の月日と「請取」の文字を記し(分割の場合は列記),請取を証する印をそれらの文字にかけて押 すほか,納めた相手に渡したであろうと思われる領収の書付とのあいだに押された割り印が認められる。 この請取帳に記されている大工名は,38名分である。通常,袋とじの表に 1名の割り当てを記し ているのに対して,2つの項目だけ 2名あるいは 3名を連記していて,扱いが違っている。 2の『大工職名寄帳』は,利吉が住んでいた通新石町のほか,黒門町,小柳町,佐柄木町,新銀町, 関口町,多町,鍋町,雉子町,須田町,三河町,四軒町,連雀町に居住していた大工の名寄帳である。 大工名は,224名分である。 居住地として出てくる町名を太線で区画して示したのが第 3図,それらの町が日本橋から筋違橋ま での通りのどのような位置にあるかを示したのが第 4図である。 日本橋から筋違橋までの通りは,日本橋から西に向かう東海道とは正反対の,奥州街道等の最初の 部分で,北に向かい駿河町の三井越後屋の脇を通り,『熈代勝覧』の最初に描かれた今川橋を渡って 進むと,絵には描かれていないが,筋違橋に到達する。今川橋から筋違橋までの間にある町は,鍛冶 町,鍋町,通新石町,須田町で,鍋町と須田町に挟まれているのが,通新石町である。 第 1図 表紙 第 2図 記載例
第 3図 三拾三番組の範囲 第 4図 日本橋から筋違 橋への道 第 5図 通新石町の家屋配置 第 3,4図 地図は尾張屋板「江戸切絵図 安政 6年夏再板」 中央公論美術出版『古板江戸図集成 巻八』(昭和 35年 1月)の 江戸切絵図集によった。 第 5図 参謀本部陸軍部測量局『五千分一東京図測量原図』(建設省国土地理院所蔵 (財)日本地図センター複製 昭和 59 年 10月)を参考に,明治 1617年の通新石町の家屋配置図を再現作製。
3は,明治 5年(1872)に仰せ渡された五ヶ条の禁制に対する,通新石町の戸主の連判帳である。 はじめに,仰せ渡された五ヶ条を記している。 要点を示せば, 1,裸で往来すること 2,男女混浴の銭湯 3,春画等の売買 4,縁起と称して陰茎の形を模造して 売ること 5,彫り物をすること の五ヶ条である,そのあとに 「右之通被仰渡可承知奉畏候,依之連印仕差上申候処仍而如件」 に続いて,1番地から 21番地までの戸主の姓名と印,地主の姓名と印,町用懸居付地主町年寄 の姓名と印が並んでいる。1番地から 21番地までは通新石町の表通りに面する部分で,一筋西に入 った北横町は含まれていない。 この史料の最後に記されている町年寄は,木下利吉である。この木下利吉は,史料 2で三拾三番組 の行事と記されている利吉と同一人物と考えられる。 役職者の名は最後に列記されていて,番地のところに名前がないので,町内に住んでいたか,住ん でいたとした時にどこに住んでいたのかは明らかでない。 木下利吉についても,この史料では住んでいた番地は明らかでないが,ほかに見つかった次の代と 考えられる木下利平宛ての明治 23年 8月 13日消印の封書の上書きに「神田通新石町十二番地」とあ ることから,12番地に住んでいたと考えられる。 幕末明治初期の江戸から東京への移行期における江戸の大工組 大工組 江戸の大工たちの組織は,江戸時代の末期になって,ようやくつくられるようになった。そ の経過をみると,安政 3年(1856)3月 28日に北御番所に,大工棟梁,杣頭,建具,左官から,屋根 職,瓦師までの,建築にかかわる諸職の責任者が集められ,お白洲において,名主組合の 21番組ご とに,職人の組織をつくることが申し渡されて,その席で番組ごとに世話役の「行事」を選ぶことに なっている。(註 1)江戸の大工組織は,この時が最初である。史料 1の 2枚目の裏に記されている十 一番組は,この時につくられた大工 21組の内の,十一番組を指していると考えられる。この十一番 組の範囲は,大工の組がつくられた時のいきさつを考えれば,名主が統括していた十一番組の範囲と 重なることになるはずである。(註 2) 2の『大工職名寄帳』には,三拾三番組と記されている。史料 1の『御冥加大工手間請取帳』(1860) から史料 2の『大工職名寄帳』(1870)までは 10年しか経過していないので,同じ大工が両方に記録 されていることが考えられる。そこで,同一名を寄せてみると『御冥加大工手間請取帳』に記されて いる名前の内の 16名分が,2の『大工職名寄帳』に記されている大工名と一致する。そこで,安政 の大工の十一番組と明治に入って 3年の三拾三番組の範囲の間には,大きな変化はなかったと思われ る。しかし,いつどのような理由で,大工の番組の再編が行われたのかは今のところ分からない。 さらに,史料 3にみられる名前(苗字付き)と史料 2にみられる通新石町に住んでいる大工(名のみ) の名を寄せてみると,7組しか一致しない。史料 3で押印しているのは,各番地に住む住人の単位の 代表者で,住人全員ではない。押印している代表者も大工であるとは限らないので,一致する例が少 なくなったと考えられる。(第 1表)
この『大工職名寄帳』にみられる町名を包含する範囲が,三拾三番組の範囲であったと考えられる が,地図に落とし込んでみると,あいだにこの名寄帳には出てこない町がある。そのような町は,こ の帳簿がつくられた時,たまたま大工が居住していなかったと考えれば,それらの町を含めてこれら を包括する範囲が,三拾三番組の範囲であったと考えてよいのではなかろうか。 江戸城本丸御殿再建のための冥加金 大工の組が組織されて間もない安政 6年に江戸城本丸御殿が焼 け,翌 7年の春に新築が開始された。その際,大工にも冥加金が課せられたことが,史料 1の『御冥 加大工手間請取帳』から明らかになる。他の職種については分からないので,この冥加金の上納が, 大工だけに課せられたのかどうかは明らかでない。 冥加金は,大工一人宛の作料銀 6分(飯米とも)に人数を掛けて算出している。ただ,この大工 1 人の作料は,作事にあたっての標準賃銀,銀 1匁 5分,飯米 1升 5合(註 4)に比較して低く,ここで いう「大工一人宛の作料銀 6分(飯米とも)」がどのような根拠に基づいているのかは不明である。各 人の冥加金には,算出根拠として何人分であるかを記している。その人数は,5人分から 35人分ま での 5人刻みである。この人数の根拠は示されていない。 苗字 ここで扱った 3つの史料では,3の明治 5年(1872)の通新石町の『店連判』で初めて苗字が 用いられている。2の『大工職名寄帳』に連記されている名前には苗字はみられない。この『大工職 名寄帳』がつくられた明治 3年 4月は,明治 3年 9月の「平民苗字許可令」以前にあたる。3の通新 第 1表 大工名対照表 安政 7年 (11番組) 明治 3年 (33番組) 明治 4年?(註 3) (祭礼) 明治 5年 (通新石町) 利吉 30人分利吉 家持 木下利吉 町年寄 (12番地) 兼吉 文次郎店 (文次郎地借 千之助) 文次郎店 千之助 山田兼吉14番地 鈴木兼吉1617番地 小林兼吉21番地 東文次郎 町用懸 町連判 佐吉 安兵衛店 田中佐吉 15番地 高橋安兵衛 地主 竹右衛門 組合持家 神山竹右衛門 10番地 市五郎 30人分市五郎 勘七店 小林市五郎 15番地 松井勘七 町連判 地主 直次郎 源助店 源助地借 甚兵衛 鈴木直次郎 5番地 石崎直次郎 1819番地 高橋源助 町連判 地主 上田甚兵衛 1819番地 七之助 喜兵衛店 万吉 喜兵衛店 松岡七之助 20番地 時国喜兵衛 15番地 遠藤万吉 20番地 時国喜兵衛 15番地 (久兵衛地借 藤助) 久兵衛店 藤助 家主 久兵衛 峯村藤助 8番地 町連判 5人組持家 平吉 杉田平吉 20番地 町連判 石塚平吉 地主 (平八地借 重蔵) 平八店 重蔵 和田平八 14番地 大沢平八 店連判 地主 (藤五郎地借 善兵衛) 藤五郎店 善兵衛 関根善兵衛 1617番地 町連判 家主 清助 木村清助 町連判 地主 祭礼行事 長兵衛 上原長兵衛 町連判 地主
石町の『店連判』がつくられた明治 5年は,明治 3年 9月の「平民苗字許可令」以後なので全員に苗 字がみられるのは当然と考えられる。 明治政府は明治 8年(1875)2月 13日に太政官布告「平民苗字必称義務令」を出し,必ず苗字を付 けるよう布告している。このことから,明治 8年になっても,明治 3年 9月 19日の「平民苗字許可 令」の後も,全国的には平民すべてが苗字を名乗るようにならず,布告が徹底しなかったことが分か るが,史料 3の通新石町の例からみると,東京では徹底していたと考えてもよいのではなかろうか。 さらに,会津若松の史料では,明治 3年 5月の戸籍では屋号が肩書きされ苗字がないのに対して,明 治 3年 10月の屋敷名録では,はじめ苗字のない名録がつくられ,その屋号の上に張り紙で苗字を貼 りこんでいる。会津若松の例では,すべてに苗字がついたことが確認され,「平民苗字許可令」直前 につくられた帳簿ではすべて屋号が用いられているのに対して,直後につくられた帳簿には苗字が張 り付けられていることが分かる。(註 5) おわりに 以上,史料として掲げた幕末明治初期の 3冊の大工に関する簿冊を概略紹介し,通新石町に住む大 工を選び出して,考察を試みた。今後,さらに関連する既往の研究を参考に,既に公になっている史 料から関連する史料を探し出して,少しでもこの変動期の大工の実態が明らかにできればと考えてい る。 註 ( 1) 西山松之助編『江戸町人の研究』第 3巻 吉川弘文館 1974 乾宏巳「江戸の職人」 ( 2) 寛政 2年(1790)には「町中惣名主一番組より二十一番組に番外共都合二百六十人程有之」とある。 『市中取締類集名主取締之部五』 ( 3)『店警固家主共衣類書上 通新石町』 二冊あり,共に奥書に「未九月」とある。名前に苗字がないことから史料 3以前,史料 2,3と同名の表 が認められることから,その間の未年,即ち明治 4年と判断した。 ( 4) 東京都立中央図書館蔵『大工手間本途』による。最終の奥付は天保 8年(1837)である。 ( 5)『若松後町組分 三十八番組戸藉 戸籍取調懸 明治三庚午年五月 吉川屋 又三郎』 『後町組分三十七番組 屋敷名録 明治三庚午年六月 肝 吉川屋 又三郎』 『後町組分三十八番組 屋敷名録 貼紙 明治三庚午年十月 町肝 吉川 又三郎 明治三庚午年六月 肝 吉川屋 又三郎』 (ひらい きよし 国際文化研究所特任教授近代文化研究所所員特任教授)