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太平洋をめぐるニシンと日本人 : 第二次大戦以前におけるカナダ西岸の日本人と塩ニシン製造業

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Academic year: 2021

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(1)太平洋をめぐるニシンと日本人 ─第二次大戦以前におけるカナダ西岸の日本人と塩ニシン製造業─ 河原典史 1.はじめに―サケ缶詰産業史への偏重 カナダ日本人漁業史に関する研究では,ブリティッシュ・コロンビア州(以下,BC 州)のフ レーザー川河口におけるスティーブストンでのパイオニアへの賞賛や,マイノリティとしての 異文化性が偏重されてきた。とくに,スティーブストンにおける三尾村を中心とする和歌山県 出身者によるサケ刺網漁業が中心に描かれてきた。そこでは,現地資本のサケ缶詰工場(キャ ナリー)における階層的な雇用形態が,排斥史観に基いて説明されてきた1)。 日本での先行研究では多くの日本語資料が活用されてきたが,歴史地理学的アプローチは必ず しも十分ではなかった。例えば『加奈陀同胞発展大観 附録』2), 『加奈陀在留邦人々名録』3) や『在加奈陀邦人々名録』4)などの日本人住所氏名録では,相互利用による出身地の空間スケー ルが検討されず,発行年の差異からの居住地移動も論じられなかった。日本語資料以上に看過さ れてきたのが,英語資料である。家屋 1 棟ごとに描かれた大縮尺地図の Fire Insurance Plan 5)は, 過去の空間を復原する歴史地理学では極めて有益な一次資料となる。さらに,船名・規模・建 造年・建造地・根拠地・所有者などが明記された漁船資料6)も有効である。そして,各漁区で の漁獲高や輸出加工品などに関する漁業統計だけでなく,水産缶詰会社が作成した従業者の漁 獲に関する帳簿類をはじめ,各地の文書館所蔵資料にも眼が向けられねばならない7)。 これらの研究視点や方法をふまえ,筆者は 1920 年代に日本人漁業者がスティーブストンから バンクーバー島西岸へ二次的移住をしたこと8)や,その要因のひとつとして,漁船の動力化を 担った日本人造船業者の活動について報告してきた9)。これらの事例からカナダ日本人漁業者に は,日本での出身地を基盤とする社会・経済的な分業システムがみられた事実が明らかになり つつある。 そこで本稿では,カナダ日本人漁業史において,サケ缶詰産業に対してほとんど看過されて きた第二次世界大戦以前のカナダ西岸におけるバンクーバー島の塩ニシン製造業について論じ る。当時,カナダ水産界においてニシン(鯡・鰊・herring)は重要視されず,一時的とはいえ, 日本人漁業者の独占的な産業となった。その一方で,同業に従事した日本人がサケ缶詰産業以 上に厳しい排斥をうけたことも否定できない。そして,サケと異なる加工方法が採られたニシ ンについては,その輸出先が異なっていた点も興味深いのである。. − 27 −.

(2) 立命館言語文化研究 21 巻 4 号. 図 1 バンクーバー島とナナイモ. 2.塩ニシン製造業の萌芽 和歌山県三尾村出身の工野儀兵衛がスティーブストンに渡った 5 年後の 1893(明治 25)年, 同県出身の林定之丞が塩ニシン製造業に着手した。1897(明治 30)年に森音次郎と山口県出身 の吉富邦三は,スティーブストンにあるガルフ・オブ・ジョージア・キャナリーの請負によっ て塩ニシン製造業を試みたが,失敗したという。1902(明治 35)年頃,和歌山県比井崎出身の 大出竹次郎によって本格的な塩ニシン製造業が開始された。さらに 1904(明治 37)年,新潟県 蒲原郡出身の池田有親はバンクーバー島東岸のナナイモ付近でニシンの大群を発見した。彼は この魚種を活用した魚肥・魚油工場を建設したものの,後にそれは焼失した 10)。1905(明治 38) 年には,千葉県松戸町八田出身の土屋亀太郎が,中国人との共同経営で塩ニシンをホンコンへ 出荷することに成功した。彼はスティーブストン近郊で農業経営をしており,魚肥としてのニ シンの存在に注目していたようである。同じ頃,和歌山県那珂郡出身の根来勝之助も,干ニシ ン製造業を試みている 11)。 このような黎明期を経て,1908(明治 41)年頃には,バンクーバー島東岸に 43 カ所の塩ニシ ン工場が建設された。当時のカナダ水産界では,魚肥としての加工や魚卵(カズノコ)の採取 が禁じられていたため,ニシンは塩漬けされて日本へ輸出されるようになった 12)。当時,ナナ イモを中心とするバンクーバー島東岸では 11 組の塩ニシン工場の経営者が確認できる。彼らの 出身地をみると,初期に塩ニシン製造に着手した大出竹次郎をはじめとする和歌山県日高郡の 人たちは 6 名を数えた。有田郡と海草郡出身者も各 1 名で,和歌山県出身者が塩ニシン製造業 − 28 −.

(3) 太平洋をめぐるニシンと日本人(河原). の中心であった。その他,大阪・東京・新潟・岩手・広島・千葉・鹿児島出身者が同業に着手 していた。興味深いのは,東京都出身の槇野運之助と池田有親のように,塩ニシン製造業は共 同経営の形態を採ることが多かった 13)。その理由として,日本人漁業者の多くが就いていたサ ケ刺網漁業のように,契約したキャナリーから漁具を借用するのではなく,塩ニシン製造業は 大規模な漁具・漁業施設を自己所有する必要があるからである。製造所の建物や桟橋の他,タ ンク,漁網,網船,ガソリン船,小型船や付属品などを合わせると,当時でも約 18,000 ドルが 必要であった 14)。これらの施設を揃えるには,季節的な出稼者では不可能であり,数名の有力 な共同出資者が必要であったのである。そして田端,槇野や池田などのように大都市出身者が 資本を提供し,その経営に乗り出したのである。. 3.塩ニシン製造業で活躍した日本人 日本人漁業者が集約的にナナイモで塩ニシン製造業をおこなうようになった 1916(大正 5) 年には,バンクーバー島の塩ニシン製造業者は 8 組へ減少している 15)。池田有親は銅山経営に 転向し,広島県・岩手県出身者も塩ニシン製造業から撤退している。その結果,6 組が和歌山県 出身者で,他の 2 組のうち 1 つは田端力松,もう一方は嘉祥治三郎と是永寿吉の 2 人である。大 分県大分町出身の是永は,比較的早くからバンクーバーのパウエル街で商業に着手し,大阪府泉 南郡貝塚町出身の嘉祥は,ナナイモで塩ニシン製造業を営んだ人物の一人として著名である。 1877(明治 10)年に貝塚の廻船商・魚野与吉の三男として生まれた治三郎は,幼少期に同郷 の嘉祥家の養子になった。彼は家業の鮮魚仲買業を営み,和歌山方面から大阪市の雑魚場へ鮮 魚輸送に従事していた。1897(明治 30)年頃,治三郎は和歌山県三尾村の黒山ユキと結婚した。 おそらく和歌山県日高郡の寄港地である比井崎を利用していた彼は,隣接する三尾村の彼女と 知り合ったのであろう。1900(明治 33)年頃,彼女の実弟・黒山常吉とともに,治三郎はカナ ダへ渡航した。工野儀兵衛の渡加後,三尾村からは連鎖移住が盛んにおこなわれていた。鮮魚 仲買業への不満もあったという治三郎は,義弟の常吉とともにカナダに渡ったのである。 治三郎の長男・與吉と次男・正直も旧制中学を卒業後には渡加し,彼の塩ニシン製造業を支 えた。1932(昭和 7)年,治三郎はバンクーバーのメイン街に事務所,カドバ街に自宅を構えた。 ただし,ニシンの漁期である 11 月から 1 月にかけて,ナナイモへ季節的に移動した。義弟の黒 山常吉が漁撈長,長男の与吉が運搬船長となり,三尾出身者を中心に約 50 名がこの製造業に従 事した。漁網は関西漁網,帝産漁網や貝塚の薬師製網などから輸入された。また,岩塩はカナ ダ東部のウィンザーから移送され,近隣の製材所を通じて自工場で木箱は組み立てられた。そ して,製品はバンクーバーにある田村商会によって神戸や横浜へ輸出されていた 16)。 治三郎は 11 隻の漁船を所有しており,それらは二艘曳き巾着網漁業を直接的に操業する網船 と,漁獲されたニシンを運ぶ運搬船からなる。網船は,彼の出身地にちなみ「IZUMI(和泉)」 と命名され,それらは 1925 年から 27 年にかけてバンクーバー,37 年にはスティーブストンで 建造された。前者は,船長 54 フィート・船幅 14 フィートからなる 30 ∼ 40 トン級の船舶であっ た。1924 年∼ 29 年にかけて建造された後者は欠番はあるものの,KK No.1 から No.8 まであり, それらは 60 フィート× 15 フィートの無動力船である。船名は嘉祥とその共同経営者であった − 29 −.

(4) 立命館言語文化研究 21 巻 4 号. 是永のイニシャルに由来するのであろう 17)。なお,嘉祥治三郎を中心とするナナイモでの塩ニ シン製造業の詳細な展開については,別稿で論じたい。. 写真 1 ナナイモ沖にニシン漁業 二艘の網船で巾着網に取り囲まれたニシンの大群を,タモ網でスカウ(運搬船)に掬い上げている。漁民の なかには,白人も写る(嘉祥孝之氏所蔵)。. 4.ナナイモとニューキャッスル島での日本人 『在加奈陀邦人々名録』18)によれば,1941(昭和 16)年にナナイモに居住した日本人は 75 人 である。それらの半数は和歌山県出身者であり,そのうち 20 名は三尾村出身者である。他は滋賀・ 新潟・鹿児島・福岡県などの出身者であり,彼らは日本語学校教師,洋服仕立業,大工や靴修 理業などに就いていた。B.C. Directory(BC 州住所氏名録)との併用では,靴修理業の 2 人はナ ナイモ中心街,大工と仕立業の 2 人はそこから南方の市街地に居住し,直接的に塩ニシン製造 業に携わっていなかった。 それに対し,塩ニシン製造業に関わった和歌山県出身者は,市街地の北東部に位置するナナ イモ湾岸に集住していた。1909 年に作成された Fire Insurance Plan(火災保険図)をみると, 市街地北東部のスチュアート街沿いに Japanese Herring Saltery と記された 5 棟の塩ニシン工場 が描かれている。2 棟は作成時からあったが,張紙がなされた他の 3 棟は 1916 年に建てられた ようである。ところが,1938 年に再製された Fire Insurance Plan では,5 棟の塩ニシン工場は すべて取り壊されている。そして,工場跡には Japanese Shacks と明記された狭小な住宅が描か れている。前述した和歌山県出身者は,ここに住んでいたものと思われる 19)。 このような塩ニシン工場をめぐる描写の変化は,1910 年 9 月 23 日と 27 日に発生した火災に − 30 −.

(5) 太平洋をめぐるニシンと日本人(河原). よる。2 回の火災によって,スチュアート街にあった日本人経営の 5 棟の塩ニシン工場は焼失し たのである 20)。その後,塩ニシン工場はナナイモ沖のデパーチャー湾に浮かぶニューキャッス ル島に移転したようである。1912(大正 1)年に槇野運之助,1918(大正 7)年には大出竹次郎 と大分県宇佐郡出身の松山豊三とが連携し,ニューキャッスル島にニシン工場が建設された。 1938(昭和 13)年に G.Gorgensen 船長が描いたナナイモ周辺の地図には,ニューキャッスル 島の北西部に 4 棟の塩ニシン工場が描写されている。北から順に TANAKA,CASNO,ODE, 南側は P.T.SANG と,経営者らしき名前が記されている。これらは,スチュアート街からここへ 移ったものと考えられ,CASNO は前述の嘉祥(治三郎)を示すと思われる 21)。現在でも,同島 には桟橋の一部,漁船の引き揚げ場やボイラーの痕跡などが残っている 22)。. 写真 2 ニューキャッスル島の嘉祥塩ニシン工場 水揚されたニシンをタンクに入れ,岩塩を投入しているようす(嘉祥孝之氏所蔵)。. 5.ニシンの加工と輸出 日本人漁業者がニューキャッスル島へ塩ニシン工場の移設を始めた頃から,カナダ政府は彼 らの漁業ライセンス(漁業権)の削減を開始した。1912(大正 1)年には,バンクーバー島周辺 の第 3 漁区における魚肥製造業が禁止された。1923(大正 12)年には日本人漁業者に対する漁 業ライセンスは,サケだけでなくニシン漁業でも半減されたのである。1925(大正 14)年にな るとカナダ政府は,1928(昭和 3)年までに塩ニシン製造業における日本人をすべて解雇すると いう通達を発表した。1926 年には白人,ネイティブ・インディアンのみにニシン漁業のライセ ンスが交付され,法律上では日本人は被雇用者とならざるをえなかった 23)。前述した地図に表 記された SANG(孫か)は,塩ニシン工場が中国系との共同経営であったことをうかがわせる − 31 −.

(6) 立命館言語文化研究 21 巻 4 号 24). 。 そのようななか,1920 年代の BC 州ではニシンの漁獲量は増加している(図 2) 。そのほとん. どが,ナナイモを中心とするバンクーバー島周辺の第 3 漁区で占められている。フレーザー川 河口にあるスティーブストンの位置する第 1 区や,アメリカ・アラスカ州との国境付近のスキー ナー・ナース川河口部にあたる第 2 区ではサケが主たる対象であり,ニシンの漁獲量は少ない。 しかし,1930 年代に入ると第 2 区のニシン漁獲量が減少し,BC 州全域でも同様の傾向を示す。 これは,漁業環境の変化も考えられるが,日本人漁業者の排斥によるところが大きい。30 年代 後半になると,第 2 区のニシン漁獲量が激増する。ただし,当地区においてニシンを漁獲対象 とする日本人漁業者は,資料では確認できない。つまり,日本人が注目したニシンは白人の漁 獲対象となり,その操業域は北進したと考えられよう。. 万 cwt. 250 200 150. 第 1 漁区 第 2 漁区 第 3 漁区 うちナナイモ. 100 50 0. 1919 21. 23 25. 27. 29. 31. 35. 37. 39. 年. 図 2 BC 州におけるニシンの漁獲量 The Fishing Statistics of Canada より作成. サケとニシンの輸出量を比較すると,前者に比べて後者は 2 ∼ 5 倍を示す(図 3) 。この点か らも,いかにニシン漁業が日本人の独占的な産業であったかがわかる。さらに,サケは 4,5 年周 期に豊漁となり,その輸出量の変化が著しい。しかし,ニシンの場合には,それが小さいまま 減少している。まさに,これは 1920 年代後半以降における日本人漁業者のライセンス削減と関 わっている。やがて 1939 年にはサケ,41 年になるとニシンの日本への輸出は終焉を迎えた。太 平洋戦争の勃発によって,敵国となった日本への輸出が断絶したのである。 興味深いのは,BC 州からのサケとニシンの輸出先と,その加工方法の違いである(表 1)。 1937(昭和 12)年当時,BC 州からサケ輸出量の最も多いのはイギリスで,そのほとんどは缶詰 として送られていた。そして,オーストラリアとアメリカが続き,以下にフランス,南ブリテ ン地方やニュージーランドなどのヨーロッパや南太平洋地域が並ぶ。保存加工食品である缶詰 は,遠方のイギリス連邦諸国に輸出されたのである。第 4 位となる隣接するアメリカへは,缶 詰とほぼ同量が生鮮・冷凍として送られている。それらに対し,9 位のドイツへはピクルス(酢 − 32 −.

(7) 太平洋をめぐるニシンと日本人(河原). 万cwt. 50 ニシン. 40. サケ. 30 20 10 0. 1919 21 23 25 27 29 31. 33 35 37 39 41 年. 図 3 BC 州から日本へのサケ・ニシンの輸出量 The Fishing Statistics of Canada より作成. 表 1 BC 州からのサケをニシンの輸入先とその加工方法 サケ 順位 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10. 国(地域) 名 イギリス オーストラリア 日本 アメリカ フランス 南ブリテン地方 ニュージーランド フィリピン ドイツ ベルギー. 缶詰 196,729 144,809 − 55,975 59,212 35,510 30,081 14,696 36 6,548. 塩漬け 生鮮・冷凍 ピクルス − 60,996 2,855 − 431 113 122,568 6,252 − 14 66,069 162 − 7,293 289 − 90 − − 7 − − 10 − − 1,095 14,460 − 1,875 514. 燻製 − 113 − 40 − 2 − 2 − −. 合計 260,580 145,466 128,820 122,260 66,794 35,602 30,088 14,708 15,591 8,937. 缶詰. 塩漬け 生鮮・冷凍 ピクルス 17 204,180 7,690 162,019 − − 72,480 29 − 52,490 525 − − − − − − 22 − − 1,0864 − 3 506 − − 2,645 − − −. 燻製 7,498 − − 91 17,383 12,340 266 10,270 8,009 −. 合計 219,393 162,022 72,533 53,125 17,383 12,362 11,250 11,087 10,654 8,206. ニシン 順位 国(地域)名 1 アメリカ 2 日本 3 中華民国 4 ホンコン 5 ハイチ 6 ドミニカ 7 ジャマイカ 8 トリニダード・トバゴ 9 プエルトリコ 10 南ブリテン地方. 8 − 24 19 − − 120 308 − 8,206. 注)単位は cwt. The Fishing Statistics of Canada より作成. − 33 −.

(8) 立命館言語文化研究 21 巻 4 号. 漬)がほとんどを占める。また,輸出量では第 3 位となる日本への輸出品のなかで,最も多い のは塩漬けである。国内で多くのサケが漁獲される日本へは,保存加工品としてサケ缶詰は輸 出されることなく,塩ザケが送られたのである。 一方,ニシンをみると輸出量の第 1 位はアメリカで,その大部分が生鮮・冷凍である(第 1 表)。 日本は第 2 位であるが,その加工品目はサケと同じく塩漬けである。3 位の中華民国と 4 位のホ ンコンへもまた,出汁の素となる塩漬けが多い。輸入課税が免除されたため,アジア方面への 塩ニシンの輸出は増大したのである。1917 年 12 月 3 日の『大陸日報』には,サケとともに塩ニ シン(herring)の輸出解禁に関する以下の記事が掲載されている 25)。 塩魚東洋輸出解禁に就きオタワ中央政府へ解禁交渉中なるが,沼野総領事よりの電報に よれば「塩鮭・塩ヘレン輸出解禁方に関し,食料監督官に交渉の結果,十一月三十日当地 税関総長は晩香坡,ヴイクトリア,ナナイモ, 新 西 院 ,プリンス・ルバートの五税関 宛に訓令を発し,当分東洋向輸出許可せらるる事なれり。更に禁輸訓令発せらるる迄,東 洋へ向ふ塩魚類の輸出を許可して差支へなし」とあり。 さらに興味深いのは,輸出量が 5 位以下の地域にハイチ,ジャマイカ,ドニミカ,トリニダー ド・トバコやプエルトリコなどの西インド諸島があがっていることである。前掲の新聞記事の 後半では,次のようにある。 十二月一日,沼野総領事発当領事館着電は米国及び南米西印度に対する輸出に関し, 二十九日附オタワ税関総長より各地税関に対し,米国内に消費する乾魚・燻魚・塩魚は各 地税関吏の裏書によりて輸出許可さるべく,同様魚類にして南北亜米利加(西印度を含む) へ輸出せらるるものは,輸出者に於て米国政府の許可証を有するものに対しては輸出許可 差支なしとありたり。 すなわち,イギリス連邦諸国を中心とする太平洋沿岸地域へのサケとは異なり,ニシンはカ リブ海沿岸地域へ燻製として輸出されていた。それ以外に,ピクルスへの加工が多いことにも 注意しなければならない。日本人には「 蘇 国 式塩鰊」と呼ばれていたこの加工品は,「本邦の 塩辛に比すべきものにして,そのまま食料に供せられ,塩汁もまたしかり」とあり,小刀で内 蔵を除去してから塩漬にされた。そして, 「過分に塩すべきからず」 「最後の上詰をなすとき, 最上の一層には塩を撒布すべからず」とあるように,これはアジア方面への塩ニシンとは別物 である。 第一次世界大戦の勃発によって,このニシン加工品は主たる生産・消費地であったイギリス, オランダやノルウェーなどからカナダへの輸入が途絶えた。そこで,BC 州でもこの製造業が起 こり,経験豊富なスコットランド系を雇用し,この加工品を製造する日本人漁業者も 2 組いた 26). 。その販路はアメリカのニューヨークやシカゴが中心で,ユダヤ系がおもな購買者であった. 27). 。ピクルスとしてアメリカへ輸出されているが,西インド諸島,特にジャマイカへの輸出も顕. 著である。かつて当地域の多くはスペインの植民地であったが,他国と比べてジャマイカはす − 34 −.

(9) 太平洋をめぐるニシンと日本人(河原). でに 17 世紀にイギリス領となっていた。そのため,イギリス,とくにスコットランド系に好ま れてきたピクルス 28)としてニシンが輸出されたのであろう。また,西インド諸島ではサトウキ ビ労働に関わるアフリカ系移民が多い。燻製やピクルスに加工されたニシンが,重宝されたと 思われる。当地域は,新・旧大陸をめぐる食文化の交流点でもあったといえよう。そうすると, かつてカナダ漁業界で等閑視されてきたニシンを漁獲し,それを主要な輸出品にまで成長する 機会を惹起させた日本人漁業者の活動は,太平洋をめぐる食文化にも大きく関与したと考えら れるのである。. ン. 塩ニシ. ピクルス. 塩 . 漬. 缶 鮮 詰・生 . ・. 燻 製. 詰. 詰. . 缶. 缶 . 詰. 缶 . 日本人漁業者 ニシン サ ケ. 図 4 太平洋をめぐるカナダ日本人漁業者とニシンの模式図. 6.日本から植民地へ―おわりにかえて― 太平洋を渡って日本へ輸入された BC 州の塩ニシンは,日本だけで消費されたわけではない。 中華民国やホンコンへ再輸出されたり,当時の日本植民地であった朝鮮や台湾,そして満州に まで移出された。1924 年 9 月 23 日の『大阪時事新報』には,神戸海陸産物貿易同業組合がカナ ダからの塩ニシンに課される輸入税の免除を陳情する記事がある。   加奈陀より毎年当港へ陸揚げせらるる塩鰊は,その量一万トン乃(に)至(り)一万二千 トンに達せるも,往時は支那方面に再輸出せらるるもの多量なりしため,比較的関税を軽 視しつつありしも,近時,台湾・朝鮮等の需要増加と共に内地に於ても嗜好するに至り, 逐年その額を増加し支那へ再輸出のものは僅に二割に及ばざるの現状にして関税の影響す る。 − 35 −.

(10) 立命館言語文化研究 21 巻 4 号. これによれば,カナダで日本人漁業者への排斥が進むにも関わらず,毎年に相当量の塩ニシ ンが輸入されていたことや,おもに朝鮮や台湾で好まれていたことがわかる 29)。さらに,干物(身 欠きニシン)や魚卵(カズノコ) ,ならびに魚肥としてニシンに親しんできた日本内地でも需要 が高まりつつあることや,その結果,中華民国方面への再輸出が減少していることが読みとれる。 『朝鮮水産便覧』によれば,1921 年に日本内地から朝鮮へ 178,480 斤(約 10t)の塩ニシンが移 出されているのに対し,カナダからも日本経由でほぼ同量の 135,426 斤(約 8t)が輸入されて いた。後者の数値は先述の新聞記事に紹介された輸入量のわずかであるが,朝鮮への塩魚とし てのニシンは,サケ・マスやイワシに次ぐ移出量であった 30)。 このように,カナダ西岸で活躍した日本人漁業者の活躍を契機に,サケと同様以上にニシン は東アジアの食文化にも少なからず影響を与えた。日本植民地へのカナダ産塩ニシンの移出は, 日本ならびにアイヌを中心としたこれまでのニシン史研究 31)ではほとんど看過されてきた。今 後の課題として,朝鮮・台湾総督府の資料も活用しつつ,春告魚とも呼ばれたニシンの多様な 活用を試みた人々と,その移動について論考を深めたい。 付記 本稿をまとめるにあたって,聞き取り調査にご協力いただき,古写真もご提供いただいた嘉 祥孝之様(大阪府貝塚市在住)に深謝いたします。また,当時の塩ニシン製造業に携わってい た村尾敏夫様(カナダ・スティーブストン在住) ,そして田並謙治様(バンクーバー在住)をは じめとする BC 州和歌山県人会の皆様や西浜久計様(和歌山県御坊市在住)からも多くのことを ご教示いただきました。資料収集ではブリティッシュ・コロンビア大学,ナナイモ市文書館, バンクーバー市文書館やカナダ日系博物館の皆様にお世話になりました。末尾ながら,調査で お世話になった全ての方々にお礼申しあげます。 注 1)佐々木敏二『日本人カナダ移民史』 (不二出版, 1999 年) ;新保満『カナダ日本人移民物語』 (築地書館, 1986);新保満『カナダ移民排斥史:日本の漁業移民』新装版(未来社,1996 年)。山田千香子『日系 カナダ社会の文化変容: 「海を渡った日本の村」三世代の変遷』 (御茶の水書房,2000 年) ;Duncan Stacey & Susan Stacey, Salmonopolis; The Steveston Story (Madeira Park, BC: Harbour Publishing, 1994); Mitsuo Yesaki and Harold and Kathy Steves, Steveston Cannery Row: An Illustrated History (Vancouver: Peninsula Publishing, 1998);Mitsuo Yesaki, Sutebusuton: A Japanese Village on the British Columbia Coast (Vancouver: Peninsula Publishing, 2003);Mitsuo Yesaki, Sakuya Nishimura and Duke Yesaki, Salmon Canning on the Fraser River in the 1890s(Coquitlam, BC: Fraser Journal Publishing, 2000). 2)中山訊四郎『加奈陀同胞発展大鑑 付録』 (中山訊四郎,1922 年;復刻版:カナダ移民史資料 第 2 −3 巻』,不二出版,1995 年)。 3)吉田龍一編『加奈陀在留邦人々名録』(吉田龍一,1926 年;復刻版:カナダ移民史資料 第 6 巻,不 二出版,1995 年)。 4)大陸日報社編『在加奈陀邦人々名録』 (大陸日報社,1941;復刻版:カナダ移民史資料 第 6 巻,不 二出版,1995 年)。 5)この資料の作成経緯や所蔵機関などについては,以下の論文に詳しい。Frances M.Woodward, Fire Insurance Plans and British Columbia Urban History: A Union List, BC Studies, 42 (1979): 13−26. また,. − 36 −.

(11) 太平洋をめぐるニシンと日本人(河原) 筆者は同資料の歴史地理学的活用について,予察的考察を発表している。河原典史「資料調査:火災保 険地図の歴史地理学的活用」 『立命館言語文化研究』18巻4 号(2007 年 3 月):145−147 頁;同「 『BC 州サケ缶詰工場地図集成』にみるサケ缶詰産業と日本人漁業者」 『立命館言語文化研究』19巻4 号(2008 年 3 月):246−250 頁。 6)当時における個別の漁船データについては,以下の資料による。Department of Transport, ed., List of Vessels on the Registry Books of the Dominion of Canada, 1942. 7)河原典史「Returns(報告書)と Debits(個人別帳簿)にみるサケ缶詰産業と日本人漁業者」『立命館 言語文化研究』20巻4 号(2009 年 3 月):81−86 頁。 8)河原典史「カナダ・バンクーバー島西岸への日本人漁業者の二次移住:クレヨコット・トフィーノ・ バムフィールドを中心に」米山裕・河原典史編『日系人の経験と国際移動:在外日本人・移民の近現代 史』(人文書院,2007 年),147−171 頁。 9)河原典史「第二次世界大戦以前のカナダ西岸における日系造船業の展開:和歌山県出身の船大工のラ イフヒストリーから」『立命館言語文化研究』17巻1 号(2005 年 8 月):59−74 頁。 10)後年,池田はクイーン・シャーロット島においても魚肥・魚油関係の工場の経営を試みるものの,や がて銅鉱を発見し,その名前は現在の地図にも IKEDA BAY として残されている。Toyo Takata, Nikkei Legacy: The Story of Japanese Canadians from Settlement to Today (Toronto: NC Press, 1983), 91−92. 11)新保満『石をもて追わるるごとく:日系カナダ人社会史』(御茶の水書房,1996 年)。 12)Bill Merilees, Newcastle Island: A Place of Discovery (Surrey, BC: Heritage House, 1998). 13)大陸日報社編『加奈陀同胞発展史』(大陸日報社,1909 年;復刻版:カナダ移民史資料 第 1 巻,不 二出版,1995 年),192−193 頁。 14)Merilees. 15)大陸日報社編『加奈陀同胞発展史』第 2(大陸日報社,1917 年;復刻版:カナダ移民史資料 第 1 巻, 不二出版,1995 年),104−105 頁。 16)治三郎の出身地の大阪府貝塚には干鰯業を営む広見家があり,漁網の情報や製品の技術はここからも 学んだと思われる。なお,漁業ライセンスの削減など日本人漁業者への排斥が続いて業績が低下してき たため,1936 年に 59 歳となった治三郎は帰国した。嘉祥治三郎については嘉祥孝之氏,黒田家につい ては西浜久計氏からの聞き取り調査によるところが大きい。 17)前掲 6) 。日本人漁業者が所有する漁船名の変化について,筆者は以下の拙稿を発表している。河原 典史「カナダ・スティーブストンにおけるギャリーポイントパークの海難慰霊碑:日系漁民の船名から みた文化変容をめぐって」『考現学雑誌』12 号(2002 年):1−3 頁。 18)前掲 4) 19)この B.C. Directory と前掲 5)で紹介した Fire Insurance Plans を併用した歴史地理学的アプローチに ついて,筆者は以下の報告をした。「カナダ日本人移民史研究における住所氏名録と火災保険図の歴史 地理学的活用:ライフヒストリー研究への試的アプローチ」日本移民学会第 19 回年次大会(2009 年 7 月 4・5 日,同志社大学)。発表内容については,別稿を準備している。 20)1910 年 9 月 23 日『大陸日報』には,「ナゝイモの大火:同胞キャンプ四軒焼失」,9 月 27 日の同紙に は「又ナゝイモの火事」の記事が掲載されている。 21)前掲 11)。原図はバンクーバー市文書館に保存されている。 22)これらの遺構の写真は,以下の拙稿が収められた雑誌の裏表紙に掲載されている。河原典史「第 2 次 世界大戦前のカナダにおける日本人の就業構造」 『地理月報』501 号(2007 年 9 月):1−4 頁。 23)前掲 10)・11) 24)東出音之丞,あるいは辻本常楠・和田芳松が中国人との共同経営であった。農商務省水産講習所『加 奈陀太平洋岸の鰊大鮃漁業調査報告』(1919 年),43 頁。 25)一部に下線や読点を施し,旧字体は新字体に改めた。(  )内は筆者による。以下の新聞記事につ − 37 −.

(12) 立命館言語文化研究 21 巻 4 号 いても,同様である。 26)前掲 24),16 頁。 27)前掲 24),45−55 頁。 28)田口一夫『ニシンが築いた国オランダ:海の技術史を読む』(成山堂書店,2002 年)。 29)朝鮮水産業の開発者への解説書である次の文献には,塩鰊が広く一般に愛食されていることが記述さ れている。岩倉守男『朝鮮水産業の現況と将来』(民衆時論社,1932 年),415 頁。 30)朝鮮総督府殖産局『朝鮮水産便覧:大正 11 年』(1922 年):110 頁。 31)例えば,中西聡『近世・近代日本の市場構造: 「松前鯡」肥料取引の研究』(東京大学出版会,1998 年)。 Divid L.Howell『ニシンの近代史:北海道漁業と日本資本主義』河西英通・河西富美子訳(岩田書院: 2007 年)。. − 38 −.

(13)

表 1 BC 州からのサケをニシンの輸入先とその加工方法 サケ 順位 国(地域)名 缶詰 塩漬け 生鮮・冷凍 ピクルス 燻製 合計 1 イギリス 196,729 − 60,996 2,855 − 260,580 2 オーストラリア 144,809 − 431 113 113 145,466 3 日本 − 122,568 6,252 − − 128,820 4 アメリカ 55 , 975 14 66 , 069 162 40 122 , 260 5 フランス 59,212 − 7,293 289 − 66,7

参照

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