曖昧性と英語教育
冨 永 英 夫
1 はじめに
英語を教えていて、悩ましいことの一つは、何をどこまで教えるのが適切で あるかということである。時間がたっぷりとあれば、そんなに頭を悩ますこと もなく、相手に応じて、十分な量の資料を与え、可能な限り詳しく説明を行え ばいい。ところが、実際は、さまざまな制約があり、そのようなことはできな い。教える内容を取捨選択したり、教える時間を制限したりする必要に迫られ ることになる。しかし、言語を習得する目的の一つは、その言語で意思の疎通 を図るためであるから、そして意思疎通とは、つまるところ、意味の伝達であ るから、このようなときに参考になるのが言語学の音素の考え方であると思わ れる。 音素とは、ある言語における、意味の区別にかかわる音声の最小の単位のこ とである。具体例を挙げると、英語では、“right” と “light” は、異なる意味を 表す語であるが、この違いを示すものは、語頭の “r” と “l” の音の差異である。 言語学では、このような場合、「英語には “r” と “l” の音素対立が存在する」 という。英語では、この二つの単語以外にも、例えば “grow” と “glow” や “pray” と “play” のように、“r” と “l” の違いによってのみ区別される単語が 数多く存在し、この区別ができなければ、意思の疎通に支障をきたすことにな る。したがって、この二つの音の区別は、英語においてとても重要な区別なの であり、英語学習においても必ず習得しなければならないものと言える。ちな みに、日本語では、この二つの音の違いによって区別される単語は存在しない ため、換言すると、日本語には “r” と “l” の音素対立がないため、日本語母 語話者は、この二つの音の区別をまったく必要とせず、したがってその区別が できないので、英語を学び始める際、また長年学んだ後も、この二つの発音の 習得を苦手とする原因となっている。半世紀くらい前までの英語学習では、お手本となる英語が存在し、本家本元 のイギリスの英語または戦後影響力を増してきたアメリカの英語をマスターす ることが究極の目標とされた。英語学習者は、発音や綴り字のみならず、語彙 や構文の選択まで、どちらの英語に徹底するかを求められた。そのような、あ る意味、完全主義的な学習の結果、体系的な英語学習が行われ、その際、音素 の対立も意識され、自然に音の体系を身につけることができた。しかしながら、 近年、英語は、主要な国際語としての地位を確立し、非母語話者の数が飛躍的 に増大したこともあり、イギリス英語とアメリカ英語の地位が相対的に低くな り、さまざまな英語が世界中で使用されている。さまざまな英語が使用される ということは、言い換えれば、さまざまな英語の体系が存在しているというこ とであり、厳密には、微妙に異なる音の体系や文法の体系が存在していること になる。そうなると、音や文法が示す意味の違いを意識することが重要になっ てくるのは当然であり、学習者に対しては、そういった意味の違いに注意を向 ける指導を行うことが必要になってくるわけである。
2 意味の違いに気づきやすいケース
言語学では、形式が少しでも違うと、完全に同じ意味を表すことがないと言 われるが、形式が違うと意味の違いにも気づきやすい。冨永(2019)でも示し たが、例えば、次の二つの例文の意味の違いを理解することはさほど難しいこ とはない。The man shot the tiger. The man shot at the tiger.
この二つの文の違いは、文の中に “at” があるかないかで、最初の例文にはな いのに対して、二つ目の文にはある。つまり、最初の文では、動詞の “shot” は、他動詞で目的語に “the tiger” をとっているのに対して、二つ目の文では、 動詞の “shot” は、自動詞で “at” が目的語として “the tiger” をとっている。 そして、その意味の違いは、以下のようになる。
The man shot the tiger.
その男は、トラを撃った。(つまり、トラを仕留めた。) The man shot at the tiger.
その男は、トラに照準を合わせて撃った。(つまり、トラに対して発砲した というだけで、命中したかどうかは定かではない。)
この意味の違いを認知言語学的に説明すると、“shot” と “the tiger” との距 離の違いと言うことができ、最初の文では、“shot” のすぐ後に “the tiger” が あり、近いのに対して、二つ目の文では、“at” をはさんでいるので、その分 だけ “shot” と “the tiger” との距離は遠くなる。一般に、近ければ影響は大き く伝わると考えるのが自然なので、最初の文では、“shot” という語の意味内容 である「弾丸を発射する」という行為の影響が強く伝わるということは、放た れた弾丸がトラに命中するということを意味する。一方、二つ目の文では、 “the tiger” は “at” の目的語であるので、“shot” は直接 “the tiger” に影響を与 えず、その方向に向けて発射しただけで、命中したかどうかはわからないとい うことになる。
次に示した例文も同様の説明が可能である。 Elizabeth prepared the exam.
Elizabeth prepared for the exam.
最初の文では、動詞の “prepared” は、目的語の “the exam” に強く影響を与え るのに対して、二つ目の文では、前置詞の “for” が間に入っていて、動詞の “prepared” は、“the exam” にあまり強い影響を与えない。したがって、意味の 違いは、以下のようになる。
Elizabeth prepared the exam. エリザベスは、試験を準備した。 Elizabeth prepared for the exam.
つまり、最初の文では、おそらく、エリザベスは先生で、試験問題を作成した、 という意味であるのに対して、二つ目の文では、エリザベスは生徒で、試験勉 強をした、という意味である。
3 意味の違いに気づきにくいケース1―語彙的曖昧性
上記のような例は、形式に違いがあるため、そこで示された認知言語学的な 説明が納得のいくものかどうかは別にして、意味にも違いがあることは理解し やすい。しかし、より難しいのは、形式が同じであるにもかかわらず意味の違 いがある場合である。一般に、どの言語にも、大別して、語彙的曖昧性(語の レベル)と構造的曖昧性(句および文のレベル)が存在すると言われるが、言 語によって、その数には多少の相違がある。日本語は、おそらく音素の数が少 ないことが影響して、特に語のレベルの曖昧性、すなわち同音異義語が多いと される。「貴社」、「記者」、「汽車」、「帰社」などは同音異義語であり、音を聞 いただけでは、その区別はできない。それを使った駄洒落文が以下のものであ る。 貴社の記者は、汽車で帰社した。 英語にも、当然、同音異義語は存在し、例えば、上で音素対立の例で示した “right” と “light” のうち、“right” には、“write”(書く)や “wright”(何かを 作ったり、修理したりする人)などの同音異義語がある。また、厳密には同音 異義語ではない(かもしれない)が、“right” は、「右側」と「正しい」を表し、 同じ音で異なった意味を持つ語になっている。これを使った以下のような文が 存在し、ジョークとして成立している。Did you hear about the guy whose whole left side was cut off? Heʼs all right now. この文の意味は、「左半分が切り落とされた奴を聞いたことがあるか?そいつ は、現在 “all right” だってさ」というものである。つまり、“all right” は、「す
べて右(右半分しか残ってない)」とも「すべて正しい=大丈夫」とも解釈で きる。上方落語に、「胴切り」という、試し切りにあった男が腰から上と下に 切り分けられ、それぞれが別の仕事をするという奇想天外な話があるが、それ を彷彿させるジョークである。ちなみに、“right” と “light” は、英語ではもち ろん同音異義語ではないが、日本語母語話者にとっては、どちらも「ライト」 であり、同音異義語になっているとも言える。 日本語に同音異義語が多いことが、日本語学習者に、おそらく母語としても、 外国語としても、困難を強いているのは間違いのない事実であると思われるが、 漢字による表記があることで、その違いを示すことができるのは、まだ救いが ある。また、文脈が曖昧性を除去してくれることも多いので、厄介ではあるが、 何とかなることが多い。これは、英語でも同じことが言える。しかし、これよ り難しいのは、日本語でも英語でも、構造的曖昧性と言われるもので、これは 抽象的なだけになかなか手強い。次に、句および文レベルの曖昧性について述 べることにする。
4 意味の違いに気づきにくいケース2―構造的曖昧性
ここでは、二つの句および文の構造的曖昧性を取り上げる。まず、前置詞句 であるが、形容詞的修飾語句になる場合と副詞的修飾語句になる場合があり、 構造的な曖昧性を生じさせることが多い。次の例を見てみよう。John attacked the man with a knife.
形容詞的に振る舞う “with a knife” が名詞の “man” を修飾するケースは、 「ジョンは、ナイフを持った男を襲った」という意味になる。一方、副詞的に
振る舞う “with a knife” が動詞の “attacked” を修飾するケースは、「ジョンは、 ナイフでその男を襲った」という意味になる。常識を働かせると、ナイフを 持った人を襲うのは極めて勇気のいることであるし、人を襲うときは、何らか の道具を使うことが多いので、「ジョンは、ナイフでその男を襲った」と解釈 する傾向が強いと思われるが、それは良くも悪くも人にはそのような、状況に
応じて意味を特定する能力が備わっていて、人が経験的にそう解釈する可能性 が高いというだけで、原理的には、この文は、少なくとも二通りに曖昧である。 ちなみに、次に示すように、“with a knife” を文頭に移動させると、曖昧性は 解消し、「ナイフを使って、ジョンは、その男を襲った」という意味しか持た なくなる。
With a knife, John attacked the man.
なぜこのような違いが出てくるのかも、できれば何らかの形で指導したいもの である。なお、この前置詞句の持つ特徴を使ったジョークも存在する。次の会 話を見てみよう。
A: Doctor, doctor, Iʼve broken my arm in two places. B: Well, donʼt go back there again then.
患者は、「先生、先生、腕を二カ所骨折しました」と訴えているわけであるが、 医者のほうは、患者が「先生、先生、二カ所で腕を骨折しました」と理解して、 「もうそこには戻らないように」と忠告しているのである。患者が伝えたかっ た意味を表すのが前置詞句の形容詞的用法で、医者が受け取った意味を表すの が前置詞句の副詞的用法である。 二つ目の例として、“find” は、よく知られているように、学校英文法に出て くる第4文型(SVOO)にも、第5文型(SVOC)にも使用される。
I found Mary her book. I found her book interesting.
最初の文は、通常、「私は、メアリーに彼女の(例えば、探していた)本を見 つけてあげた」という意味で、第4文型になり、二つ目の文は、「私は、彼女の (例えば、書いた)本が面白いと気づいた」という意味で、第5文型なる。しか し、次の文では、どちらの文型なのか、つまりどちらの意味なのかがわからな くなる。
I found Bill a good spouse. この文は、少なくとも二通りに解釈することが可能であると思われ、第4文型 と見なすと、「私は、ビルにいい配偶者を見つけてあげた」という意味になる。 一方、第5文型と見なすと、「私は、ビルがいい配偶者であると気づいた」とい う意味になる。 次に取り上げる “call” も、“find” と同様、第4文型と第5文型に用いること のできる動詞であるが、それを使った有名なジョークがある。
Customer: Good morning. Call me a taxi, please. Bellboy: Yes, sir. Youʼre a taxi.
客が「おはよう。(私に)タクシーを呼んでください」と第4文型の文でベル ボーイに依頼したのに対して、ベルボーイが「かしこまりました。あなたは、 タクシーです」と第5文型の文、すなわち「(私を)タクシーと呼んでくださ い」と理解し、返答したところに面白みが生じている。このジョークは、たい へんよくできたものであるが、厳密には成立しないと主張する人もいる。客が 言った “Call me a taxi, please” であるが、“taxi” に不定冠詞がついているので、 これは一台のタクシーということになり、ベルボーイが行った第5文型の解釈 は難しく、もしその解釈をしたいならば、つまり、「(私を)タクシーと呼んで ください」であれば、“Call me taxi, please.” と無冠詞で言わなければならない ようである。ジョークは、説明されるとその面白みが失われると言われるが、 ここまで指摘するのは、さらに野暮というものかもしれない。ちなみに、日本 語には助詞があるため、それを適切に使うと、曖昧性を防ぐことができるが、 関西の言葉では、助詞が省略される傾向があり、その場合、曖昧性が生じるこ とがある。上方落語に「代書屋」という話があるが、二代目桂枝雀は、代書屋 (現在の司法書士)が履歴書を書いてもらいに来た人に生年月日を尋ねる場面 で、代書屋に「生年月日言うてください」とあえて助詞を使わずに尋ねさせ、 生年月日のことが何かわからない相手が大きな声で「生年月日」とそのままオ ウム返しした際、「生年月日と言うのとちゃいます。生年月日を言うてくださ い」と言って、大いに受けていたことが懐かしく思い出される。