旧ソ連圏における市民的アイデンティティーの研究
著者
北川 誠一
平成11年度
教育研究共同プロジェクト経費
戒果報皆書
ソ連圏における
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■■.-市民的アイデンティティーの研究
卍 &、用h二 ,'1, 8 ■■1 1m東北大学
平成12年3月31IEi
目次 はじめに(1) 岡洋樹民族範鴫としての|モンゴル」の形成と清朝の支配(3) 北川誠一チエチエン市民の社会的帰属意識(23) 佐藤雪野チェコの市民社会の陰としてのロマ問題 一ウースーチー・ナド・ラベムUstinadLabemの「壁」問題一(59) 田中継根現代ロシア人の国民的アイデンティティと読書状況(71) 寺山恭輔ソ連時代に関する史料の発掘.回想.研究(1990年代のロシア) 文献目録(75) 徳永昌弘.松本かおり゛林裕明 ロシアにおける貧困問題について _住民の意識、社会階層の変化、家計の動向一(121) Abazov,RafisTheForeignPolicyMalinginTransiLionalCounLries: ThecaseoflnteresLGroupsinKyrgyzRepublic(149) (掲載は日本語、英文、愛上尾順) 講演記録
AHHamErOmBA90-e:mlraemno-pyccIcH
シチョガーレフ、アンナ 90年代:ロシア人として読めること(195) (185) 研究会資料(203)はじめに ベルリンの壁崩壊から10年、ソ連邦消滅から8年が過ぎるが、世界の地域的再編 成という観点から、改めてソ連およびソ連圏の存在を歴史的に再評価するべきで あるという動きが生じている。しかるに本学には、この地域を主として対象とす る研究繊関が存在しないので、随時プロジェクト研究を組織する必要がある。 そこで、関連3部局教官で研究組織を編成し、共同研究を行うこととした。研 究主題を「|日ソ連圏における市民的アイデンティティーの変化に関する研究」と したが、その特徴は以下の3点にある。 1最近の研究動向をみると旧ソ連圏研究は、政治・経済に関する分野主導で行 われている。このプロジェクトでは、人々の意識を研究の対象として、社会・文 化の変化を明らかにしようととした。 2権威主義的杜会で形成された市民意識が、体制の崩壊によってどのように変 化する(しないか)という研究テーマは、地域と時代をこえた重要性がある。 3今日、|日ソ連圏は東アジアと西欧を結ぶ中継ルートであると評価されている が、このプロジェクトはこの地域の人々を理解するに資する最新の知織を得るこ とができる。 上記の目的を達成するために下記の研究組織を編成した。 ロシア 田中継根(言語文化部教授) 寺山恭輔(東北アジア研究センター助教授) 1-
徳永昌弘(東北アジア研究センター研究員) 東ヨーロッパ 佐藤雪野(言語文化部助教授) 北アジア 岡洋樹(東北アジア研究センター助教授) 中央アジア 木村喜博(大学院国際文化研究科教授) カフカース 北川誠一(大学院国際文化研究科数授) なお、以下の5氏に発表者として協力をいただき、研究会を開催したので、 ここにお礼を申し上げる次第である。 ラフィス・アバゾフ(オーストラリア、ラートローブ大学) 松長沼(文教女子短大) 木村真(東京大学) 早坂真理(東京工業大学) アンナ・シチョーガレヴァ(ロシア、科学アカデミー) 平成12年3月31日 北川誠一(研究代表者) -2
民族範囑としての「モンゴル」の形成と清朝の支配
岡洋樹 はじめに 東北アジアにおけるモンゴル民族の分断が、モンゴル史における近代史の始ま りである1911年の清朝の滅亡に前後して生じ、確定したという事実は、モンゴ ル人の近代的民族意識のあり方をきわめて複雑なものとした。清代、満洲の支配 下において「モンゴル」と呼ばれていたものと、1911年にのろしをあげた独立 運動において独立国家の担い手として考えられた「モンゴル」、さらには現在言 うところの「モンゴル民族」との間には、相互に微妙な違いがあり、これが、モ ンゴル人の民族アイデンティティーに揺らぎを生じさせているように思われるの である。その揺らぎのある部分は、清朝の治下において既に芽生え育ったもので あり、ある部分は、独立の初期において既に分断が固定化されたことによるズレ でもある。またある部分は、分IWT以後の社会発展のプロセスにおいて形成された ものであるだろう。本稿は、清代における「モンゴル」範嶬と、近代民族意識の 担い手としてのモンゴルとのズレを主題として、本共同研究「旧ソ連圏における 市民的アイデンティティーの変化に関する研究」の報告としたい。 現在モンゴル民族を自認する人々は、カザフ民族(4%)や少数の露・中国人 を除くモンゴル国住民と、中国内モンゴル自治区及び周辺諸省に分布する「蒙古 族」を王たる内容としている。そしてその外縁上に、ロシア連邦のブリヤート人、 カルムイク人、中国のダグール人等が位置している。一方モンゴル人自身は、モ ンゴル民族構成諸要素を「北モンゴル」「南モンゴル」「西モンゴル」の三つに大 別することがある。「北モンゴル」とは、主としてハルハ族はじめモンゴル住民 を指す。「南モンゴル」とは中国の内モンゴル自治区及び黒竜江省・吉林省・遼 寧省等に居住するモンゴル人を指し、「西モンゴル」とはすなわちモンゴル国西 部のドルベド、バヤド、ザハチン、ホショード、トルグード、ミヤンガド、オオ ルド等、中国新彊ウイグル族自治区北部のトルグード、ホショード、青海省のホ ショード等オイラド系の諸集団を指す用語である(’)。ロシア連邦内のブリヤー トには、この三区分と出自において関わりを有しながらも、自分達を独立した民 -3-族として意識する傾向も存在する(2)。ダグールについては、歴史的にモンゴル 民族の範嬬に含める認識がある一方で(3)、現在の中国では独立した民族と認定 され、かつダグール自身の間にもモンゴルとは異なる民族であるとする認識があ る(4)。 モンゴル民族という概念がかかる複雑な内容を形成するに至ったのは、直接的 には近代に入ってからのことであるが、その歴史的な基礎は、近代に先立つ清朝 の時代に形成された(5)。そこでまず、清代におけるモンゴルとモンゴル民族形 成にこの時代が果たした役割について、素描を試みたい。 第一章清代のモンゴル 清朝の支配下に入る前のモンゴルは、ある意味で極めて明確な概念であった。 すなわち、モンゴル帝国の北帰以後、モンゴル高原に分布した大ハーン支配下の 遊牧民の内、チンギス・ハンの後喬たる大ハーンの権威に服し、その-族たるボ ルジギン氏族の王族によって統治された遊牧集団を指してモンゴルと称したので ある(6)。これに対置される概念が、オイラドoyiradであった。「四十と四d66in d6rbenqoyar」という言葉で大モンゴル国全体を指すことがあるが、「四トウメン d6rbentiimen」のオイラドは、「四十トウメンd6Cintiimen」のモンゴルとは戴然 と区別され、チョロスcorus、ケレイドkereyid等異姓氏族により統治される集 団であった。15世紀後半におけるバトムンフ・ダヤン・ハーンbatum6ngkedayan qaYanはモンゴルを再統一し、オイラドを屈服させた後、属民を六つのトウメン に組織し、これにホルチンqor6in等チンギス諸弟系のウルスを併せて支配下に おいた。しかしまもなくオイラド諸部は次第にモンゴルの支配を脱して自立傾向 を強め、17世紀には新彊北部や青海に独自の勢力として定着していく。特にガ ルダン・ボショクトYaldanboimYtuの時代にはチョロス部を中心として国家を形 成し、ズーンガル(ジュンガルjegiinYar)と呼ばれた(7)。一方のモンゴルは、 ダヤン・ハーンの諸子に分与され、諸弟系の集団とともにボルジギンboIjigin~ borjiigid氏族を統治集団とする遊牧集団に分裂しながら、大ハーンの間接的な支 配下におかれていた(7)。 つまり、前近代における「モンゴル」とは、必ずしもエスニックな意味での集 -4-
団概念ではなく、帝国構造を引きずった支配集団区分の名称として理解されるべ
きものなのである。 17世紀初頭に現在の中国東北部に分布した女真ju§en諸族を統合したツング ース系の満洲manjuは、アイシンギオロaisingioro氏族を中核として国家形成 を果たし、やがて西隣のモンゴルへと進出する(8)。彼らは、モンゴル東部にい たホルチンや内ハルハqalq-aの諸集団を漸次服属させつつ、ついに1634年にモ ンゴル最後の大ハーン・リグデンlingdenを西に逐って、内モンゴルに兵を進め、 まもなくリグデンの遺児エジェイejeiの服属を受けて内モンゴル征服を果たし た。ここに大清国が成立する。清朝は、服属したモンゴルの一部を八旗組織に編 入する一方で、大半をザサグ旗に組織して統治することになる。当初のザサグ旗 とは、一部の例外を除いてボルジギン氏族の首長に王公の爵位を与えて既存の属 民の統治者=ザサグ(jasaY旗長)として公認し、間接統治下に置いたものをい う。王公とは、和碩親王・多羅郡王・多羅貝勒・固山貝子・鎮国公・輔国公等の 爵位を持つ者を言い、本来アイシンギオロ家宗室に与えられたものである。ここ に、宗室王公(内王公)に対するモンゴル王公(外王公)という身分範嶬が成立 した(9)。これは、基本的には、モンゴルの黄金氏族たるボルジギン氏族の個々 の地方レヴェルにおける特権的身分を追認したものであったが、既存の支配関係に重大な変更をも加えるものであった。第一に、ザサグ旗中、ハラチンqaracin
とトウメドtiimedにおいて非ボルジギン氏族に属するウリヤンハイuriyangqai氏 族の首長を王公に任じたことである。これによって、ボルジギン氏族が、非ボル ジギン氏族と格式上同範鴫に位置づけられる先例が開かれた。一方同じポルジギ ン氏族であっても、清朝が初期において服属を受け、協力関係を打ち立てたホル チン部の首長に優越的な地位が認められたことが重要である。チンギスの弟ハサ ルqasarを祖とするホルチン部の首長は、大ハーンとなる権利を持たない等、チ ンギスの第四子トウルイtuluiの後商たるダヤン・ハーンの子孫と比べると-段 低い地位に甘んじていた。ところが、清朝とのいち早い協力関係の構築によって、 彼らはダヤン・ハーン系の王公と同列もしくはより優位に位置づけられることに なった。 さて、清朝は、1691年にガルダン・ボショクトの侵攻を避けて保護を求めて 内モンゴルに移動したハルハ部を受け入れ、まもなくガルダンを破った。このよ -5-うな中で、オイラドを構成するホショードqo§uud部のホラリqoraliが清朝に服 属し、康煕36(1697)年にザサグ多羅貝勒を授かる(10)。これによってオイラ ド系の王公が誕生する。ホショード部の首長達はボノレジギン氏族であったが、や がてチョロス系の首長にも王公の爵位が授与されたことで、オイラドも、ボルジ ギン氏族と同格の身分範嬬を与えられることになるのである。 このように、満洲は、征服以前のモンゴルに存在していた身分上の区別、すな わちポルジギン氏族と異姓首長の区別及びボルジギン氏族内のダヤン・ハーン系 とチンギスの諸弟系の区別を、首長として爵位を認める限りで同格の身分範嶬に 包摂したのである('1)。しかも、満洲はオイラド系諸族に対して「額魯特蒙古(tllet monggo)」の名称を用い、モンゴルの-部として認識した。さらに王公の範嬬 はこれにとどまらず、ハミやトウルファンの郡王家や、チベットの一部の首長に も及ぼされ、モンゴル王公同様の待遇が与えられた。ところがその一方で、八旗 に編入したモンゴルの首長達の多くに対しては、ボルジギン氏族に属する者にさ え世襲王公の爵位は授与されなかったのである。 この結果として、モンゴルに存在したボルジギン氏族と異姓諸族という首長間 の身分的差別は相対化され、新たにモンゴルとオイラドを包含する王公という身 分範鴫が作り出される一方、八旗に編入されたモンゴル王族は、他のモンゴル諸 部から身分的に切り離されることになったのである。 この王公という身分範蠕が、モンゴル民族の形成過程においてその構成要素を 決定する際の一つの枠組みとなる。既に清代においてさえ、王公身分はモンゴル の枠を規定する概念であった。その実例は、19世紀半ばに成立したハルハの年 代記『エルデニイン・エリへerdeni-yinerike」に見ることができる。この年代記 の撰者ガルダンYaldanは、『外藩蒙古回部王公表伝」の記事を引用してモンゴル 諸盟旗を列挙しているが、その中にトルファンやハミの回部王公やチベット王公 を含める一方で、八旗に編入されたモンゴルについては、まったく沈黙している のである(後述)。 1911年、ハルハの王公が中心になって清朝からの分離運動が発動された。そ の際、彼らが合流を呼びかけたのは、まずは王公によって統治される内モンゴル の諸部だった。 このように、モンゴルの民族形成の前夜において、清朝が作り出した王公とい -6-
う身分範嬬が与えた影響は決定的なものがある。清朝滅亡後、王公層が統治する
ザサグ諸旗のモンゴル人がモンゴル民族として認知されていく一方で、八旗に編
入されたモンゴル人はこれから脱落し、むしろ満洲族の一部として、別の民族範
噸に含められることになるのである。 一方、1689年のネルチンスク条約によってロシアへの帰属が決定したブリヤ ートburiyadも、当然この王公範蠕からは脱落する。近代においてブリヤートを モンゴル民族の構成要素とする理解は、むしろブリヤート側から与えられたもの であって、1911年にロシアを頼ったモンゴルの王公達がブリヤートとの統合を 考えていたわけではない。また、ロシアやソ連が、ブリヤートをモンゴルへの政 策遂行の架け橋として用い、かつブリヤートの民族主義者達がこれに積極的に関 わったことも重要である(】2)。また、これに関わって興味深いのは、タグナ・ウリヤンハイtangnuuriyangqai
の例である。現在トウバ共和国と呼ばれている地域は、清代はウリヤンハイと呼 ばれ、ハルハ・ザサグト・ハン部jiasaYtuqan-uayimaYやオイラド系の旗が貢納 を取り立て、また-部はウリヤスタイ将軍の管轄下にあった('3)。モンゴルが、 独立の初期にあって、執勧にトウバの回復を追求したことはよく知られている。 厳密な意味では、ウリヤンハイをモンゴル系民族の範嬬に含めることは難しいに も拘わらず、モンゴルとの統合が求められた背景には、清代以前から存在したウ リヤンハイとモンゴル・オイラドの貢納関係と、清代になってからの王公制度の 影響、及び外モンゴルの独立時にウリヤスタイ将軍の管轄地域を領域としたこと 等を考える必要があるように思われる。 もう一つ注目しておきたいのは、漢人の問題である。清代、多くの漢人農民が 内モンゴル南部の諸盟旗に入植した。彼らは牧地を開墾することによって、モン ゴル人の生活圏を狭める一方、行政的にも清朝によって庁・県に編入され、旗の 行政区画を圧迫するようになる。庁・県に組織された漢人は、漢族としてのアイ デインテイティーを維持していくが、中にはモンゴルの旗籍に編入され、主公属 下となる者も現れた。彼らは元来のモンゴル人との区別を維持しながらも、次第 にモンゴルに同化していった。こういった人々の多くが、モンゴル民族の範嬬に 加えられていくのである。これもモンゴル王公に帰属することによって、民族範 嶬が決定された例と認められるものである('4)。 -7-逆に、モンゴル王公属下でないにも関わらず、モンゴル民族の範嬬に加わった 集団もある。「内属蒙古」と呼ばれた人々がそれである。「内属」とは、八旗直轄 で、かつモンゴル高原で遊牧に従事していた集団を指す。具体的には、フルンブ イルの新旧バルガbarYu、チヤハルCaqar、帰化城トウメドk6keqota-yintiimed 等がこれに当たる。これらの旗はその牧地が万里の長城外にあった。またバルガ やチヤハルは遊牧生産が維持されており、その意味で他のザサグ旗モンゴルと近 い環境を有していた。八旗所属のモンゴルの内、この部分のみが、近代的モンゴ ル民族の形成に参与しえたのは、地理的位置と、遊牧生産に立脚する生活様式の 共通性に基づくところが大である。もう一つ忘れてはならないのは、これらの地 域には他のモンゴル諸地域同様、チベット仏教が浸透していたことである。同様 なことは、ホヴドqobduの一部の総管旗についても言うことができよう('5)。 内属蒙古と呼ばれた地域は、ザサグ旗で旗行政を担った世襲王公が存在しない か、存在しても旗政には関与せず、都統や総管といった官僚を通じて、八旗都統 衙門や兵部の直接統治を受けた。国家が必要と認めた場合には、これらの旗の内 政に容易に介入しえたのである。清末新政に際して、欽差墾務大臣胎穀はチヤハ ル右翼、オルドスordus、ウラーンチヤヴulaYanCabにおける開墾に当たったが、 チヤハルでは順調に進んだ開墾・清丈作業が、オルドス、ウラーンチヤヴでは王 公の強い抵抗に直面して思うように進まなかった事実は、内属旗とザサグ旗の違 いを鮮明に示している('6)◎ 一方八旗蒙古のモンゴル人達の場合はまた異なっていた。周知のように、八旗 は満・蒙・漢の三部分からなり、八旗蒙古の全体と、八旗満洲の一部には、モン ゴル人が組織されていた。彼らの多くは、清初内モンゴル東部にいたハラチン、 ホルチン、ハルハや、後に服属したチヤハル、オオルド系のモンゴル人であった。 後述の『蒙古世系譜』の撰者ロミlomiのように、彼らは自らの出自を知っては いたが、遊牧生産から切り離されて兵として各地に駐防し、都市生活になじむに つれて次第に満洲化し、さらに満洲人とともに漢化していった。最後の庫倫辮事 大臣で八旗蒙古出身の三多が、清朝側の駐防官として、モンゴル王公によって追 放されたように、彼らはもはや近代モンゴル民族の構成部分として加わることは できなかったのである。 同じく八旗に編入されたダグール(daYur達斡爾)の場合、京旗や駐防八旗に -8-
編成されたり、東北地方にあって八旗に編入された者もいたが、ダグール族の中 から王公が現れることはなかった。この点、エヴェンキやシベの場合も同様であ る。彼らは満洲からも概念上区別されていたが、モンゴルとの間も、かなり距離 のある集団だったといえよう('7)。 このように、清代におけるモンゴルは、大きく八旗に編入された者と、王公ザ サグの下で盟旗に編入されたものに区分された。そしてモンゴル王公属下のモン ゴル人と、八旗属下中内属蒙古と呼ばれた部分が、後のモンゴル民族の基礎とな るのである。 ところで、これに関連して言及しておきたいのは、「内モンゴル」と「外モン ゴル」の問題である。中国を中心とした名称であるとして忌避されることもある この両範鴫は、清代に作り出されたものであり、もともとモンゴル人自身が持っ ていた区分ではない。当時も現在も、モンゴルの区分としてあったのは、「内」 「外」よりは「北」「南」である。ただし、ウヴル(6biir南)モンゴルという範 嶬は史料上確認できない。存在が確認されるのはアル(aru北)モンゴルである。 現在アル・モンゴルは、主としてモンゴル国を指す名称として用いられているが、 17世紀には、興安嶺北に遊牧していたホルチン、アルホルチンaruqor6in、ドウ ルベン・フーヘドd6rbenkeiiked、モーミヤンガンmuumingYan、ウラドurad、 オンニウドongniYud、アバガabaY-a、アバハナルabaqanar、ハルハといった遊 牧集団を指していた('8)。そしてそれらの多くは、北ハルハを除いて、清代には 内モンゴルに含められることになる。 用語の歴史的な意味はともかくとしても、現在アル・モンゴルという範嶢は、 やはりモンゴル国を指し、中国でいう「外蒙」とほとんど同義として用いられて いる。ここには、これら歴史的用語法の理解の混乱が見られる。ウヴル・モンゴ ルは、現在の中国内モンゴル自治区(モンゴル語で6biirmongYul-un6ber-tegen jasaquorun)を指して用いられている。ウヴルが、漢語の「内」に対応している ことになるが、清代においては、「内」にはドトードdotuYadu、「外」にはYadaYadu という言葉があてられていた。清朝の用語としての内モンゴル(内蒙古、内札薩 克)とは、ジレム(Jirem-iinciYulYan)盟.ジョスト盟(jostu-yinCiYulYan).ジ ョーオダ盟(juuoda-yin6iYulYan).シリンゴル盟(silinYol-unciYulYan)・ウラ ーンチャヴ盟(ulaYan6ab-unCiYulYan)・イヘジョー盟(yekejuu-yinciYulYan)の -9-
六盟49旗を指す。すなわち、現在の内モンゴル自治区興安盟、哲里木盟、赤峰 市、錫林郭勒盟、巴彦諾爾盟、郭爾多斯盟及び黒龍江省杜爾伯特蒙古族自治県、 吉林省郭爾羅斯蒙古族自治県、遼寧省阜新蒙古族自治権、同省喀噺沁左旗蒙古族 自治県の各地域がこれに含まれる。これ以外の諸盟旗は、全て外モンゴル(外蒙 古、外札薩克)と称された。すなわち、アラシヤ・オオルド旗alaSa6geledqosiYu、 エジネ・トノレグード旗ejin-etorYudqosiYu、ハルハ四ハン部qalq-ad6rbenayimaY86 旗、ドルベドd6rbed2盟14旗、青海の29旗、新彊の各旗である。かつての外 モンゴルの内、アラシャ、エジネは現在内モンゴル自治区に含まれている。また、 これも現在内モンゴルに含まれている内属蒙古諸旗、すなわちチャハル八旗、新 バルガ、|日バノレガ及び帰化城トウメド旗も本来は「内モンゴル」の概念には含ま れない。 このように、清代における内外モンゴルは、現在言うところの南北モンゴルと はかなり異なった概念である。内外モンゴルは、南北のような地域概念というよ りは、むしろ清朝の対モンゴル政策運用上の区分、あるいはモンゴル行政管轄官 庁である理藩院の管轄権限に基づく行政区分とでもいうべき概念である。すなわ ち内モンゴル・ザサグ諸盟旗の事務は、理藩院の典属清吏司が、外モンゴルの事 務は柔遠清吏司がそれぞれ管轄した。では内外モンゴルの両者にそれ以上のいか なる違いがあったのかとなると、これを明確に述べることは頗る困難である。清 宗室が内モンゴル王公と多くの婚姻関係を結んで、より親しい関係にあったのは 事実であるが、外モンゴルにも清朝公主の降嫁を受けた者はおり、満蒙の通婚が 内モンゴルに限られたわけではない。確かに内モンゴルには「備指額歎」の制度 があって、満洲宗室との通婚が制度化されてはいたが、全ての内モンゴル王公が 対象だったわけではない(',)。内モンゴルの旗を構成する佐領数が相対的に多く、 外モンゴルでは少なかったために分割支配がより貫徹したとはいっても、旗・佐 領組織自体に制度上の違いがあったわけでもない。内モンゴルのザサグには兵権 が与えられていたとはいえ、外モンゴルにおける軍務担当者である副将軍にも、 常に地元の王公が選任されていた。 このように、清代における内外モンゴルは、行政区分としては明確であったも のの、制度上の違いとなると、極めて暖昧なものだったのである。 清代の統治区分を考える場合、エスニックな区分や帰属意識、居住形態の地域 -10-
的分布から論を立てようとすると複雑になり、理解を困難なものとしてしまう。 この時代のモンゴルの枠組みをより効率的に理解するためには、統治者の区分を 手がかりにするのが近道である。初期の満洲国家の構造は、ハンの下に、ハンの 父系氏族たるアイシンギオロ-族が王公として属下を分割統治することによって 成り立っていた。一族中の有力王公は、旗主として八旗を統御し、属下としてい たのである。一方モンゴルを支配下に組み込む過程で、ボルジギン氏族を初めと するモンゴルの統治集団にも王公の爵位を与え、その属下に対する首長としての 地位を保証した。ここに、属民全体は、アイシンギオロ宗室王公属下と、モンゴ ル王公属下に大きく区分されることとなる。前者は乃ち八旗に、後者はザサグ旗 に編成された。八旗や内属蒙古に編入されたモンゴル人は、前者に属したのであ る。そしてザサグ旗に編成された部分=モンゴル王公属下が、内属蒙古を取り込 む形で近代モンゴル民族の枠組みの基礎が築かれるのである。 統合の原理が王公統治に存する以上、その言語●出自は副次的な要素となる。 例えば、モンゴル系の言語を話すダグール、東郷、保安、東部裕固といった民族 は、モンゴルの民族形成からははずれていく。ところが、言語的には異民族でも、 王公との統属関係から、モンゴルへの帰属が求められたタグナ・ウリヤンハイの ような例もある。 ただ、ここで問題となるのは、ブリヤートである。前述のようにブリヤートは、 1689年のネルチンスク条約以後、帝政ロシアの属下として、他のモンゴル諸部 からは切り離される。彼らがモンゴル民族の枠組みとなった王公制度からも、清 朝の支配からも切り離されて独自の歴史を歩んだことは、この民族の民族意識を 複雑なものとする一因となる。現に当のブリヤート自身の間には、己をモンゴル から峻別しようとする傾向が抜き難く存在する(20)。この事実は、70年にわたる ソ連の民族政策のしからしめるところであるとともに、革命以前の200年余の 間、他のモンゴル諸部から国境によって切り離されていた歴史の影響を無視する ことも難しいだろう。ところがその一方で、20世紀初頭のモンゴル独立の過程 で、リンチノやジヤムツァラノといったブリヤートの民族主義者が、ロシアの援 助を求めるモンゴルとの橋渡しの役割を果たしたばかりでなく、内外モンゴルの 統合と解放を追求するパン・モンゴリストとしてモンゴル革命に関わったことに よって、モンゴル民族の概念がブリヤートをも含むものとなる反面、両者の関係 -11-
に一定の違和感をも残すことになった(21)。 とはいえ、清朝属下のモンゴル王公が、中国からの分離を求め、これにブリヤ ートが合流した時、王公制度の枠組みが、近代的な民族主義の枠組みへと転化す る契機がもたらされたのであり、近代におけるモンゴル民族概念の形成にブリヤ ートが果たした役割には、実に大きなものがある。 第二章モンゴル年代記にみるモンゴルの枠組み 前章にて述べたとおり、清代のモンゴルは、大きくザサグ王公属下と八旗属下 に大別することができ、王公による清朝からの独立運動は、前者が中心となって、 後者の内、内属蒙古部分をまきこんで展開されたものであった。清朝支配下のモ ンゴル人の内、残る八旗属下のモンゴル人は、独立派の王公によって統合の対象 とは見なされなかったのである。 蒙古八旗を含む清末の八旗出身の駐防官達が、新政の担い手としてモンゴルの 王公によって敵視されたことはあるとしても、八旗のモンゴル人達が、既に清朝 中期の時点でモンゴルの王公との繋がりを失いつつあったことが、清代に著され たモンゴル文年代記からわかる。モンゴル文年代記は、モンゴルの歴史を叙述し たものというよりは、その多くがチンギス・ハンの末商としてのボルジギン氏族 の王統譜としての性格をもっている。そこでは、インド・チベットの王統につな げて、ブルテ・チノ、ゴア・マラルからチンギス・ハンを経てリグデンに至るモ ンゴル大ハーンの系譜と事績が述べられ、ダヤン・ハーン以降については、清代 各盟旗の王公タイジに連なる系譜が述べられるのである。つまり、地域としての モンゴルの歴史ではなく、その支配者としてのボルジギン氏族の系譜なのである。 情初、満洲のモンゴル征服の過程で、多くのボルジギン氏族の王族が八旗に編入 された。このような八旗属下のボルジギン氏族成員について、これら年代記はど のような扱いをしているのであろうか。そこで以下に、系譜記述を伴う清代の年 代記を四つ取り上げて、系譜叙述の範囲を明らかにすることで、モンゴルの範嶬 からの八旗属下脱落の状況を検討してみたい。 -12-
八旗モンゴルの歴史記述:蒙古世系譜
『蒙古世系譜』は、正藍旗蒙古出身のロミによって、雍正13(1735)年に著
された系譜であり、チンギス・ハンからリグデンまでの大モンゴル国歴代大ハー ンの事績を主内容とする(22)。作者ロミの同時代である情代に関しては、その最 後の部分において、内外モンゴル各盟旗について簡単な記述がある。ここでは、 ダヤン・ハーンの子、トウルボロドt6riibolud、バルスボロドbarsbolud、アルツボロドal6ubolud、ゲレセンジェgeresenjie、ゲレ(ゲレボロドgerebolud)の子孫
について述べ、さらに作者ロミ自身が所属するバルスボロド系ハラチン部王族に ついて、やや詳しい系譜が記されている。 「蒙古世系譜』の清代部分の記述の最大の特長は、各ザサグ旗のみならず、八 旗に編入されたボルジギン氏族に関する記述を含む点にある。例えば、該当部分 の冒頭に、 現在モンゴルの内には、ウズムチン2旗、ホーチド2旗、スニド2旗 のザサグ・主・タイジ達、舗黄旗チヤハルのタイジ内大臣iiciiSitai、 間散大臣ayuu、正白旗6uqumtiisimel間散大臣CoIjii等は、皆バトムン フ・ダヤン・ハーンの長子トウルボロドの子孫である。(l0v-llr) と述べ、内属旗であるチャハル八旗に編入された者に言及し、また、 オルドス6旗のザサグ王タイジ等、トウメド貝子qamuYbayasYulangtu の1旗、フフホトのトウメドのタイジnorbu、qatursi等、またハラチ ンのハン・aqaibuyan、aqaiabainoyan、正黄旗のハラチン貝子lasjabefn、 紅旗のハラチン貝勒birasiefil、Cuqumtiisimelbilignandai、urtunasutu、 正藍旗のハラチン貝勒daidarqanborjiitucfU、貝子jolbi、一品副都統 sonumra§i、副都統bayartu、都統lomi、副都統gUwambuu、ji6eng、,鑑藍 旗副都統bandi等は皆バトムンフ・ダヤン・ハーンの第3子barsabolud の子孫である。(llr) と述べて、自らも含む八旗編入者についても記載している。 -13-ダヤン・ハーン以来の系譜を内容とする以上、ザサグ旗のみならず、八旗編入 者についても記載を怠らないロミの立場は、あるべきものと言えようが、実際に は、一群のモンゴル年代記と呼ばれるこの時期の歴史記述において、唯一の事例 であることは、注目されてよい。ロミの系譜観は、八旗に編入されたボルジギン 氏族成員において、ザサグ旗の王公と自分達を一連のものとして把握する系譜観 が維持されていたことを物語る。しかしかかる見方は、ザサグ旗のモンゴル史家 等によっても共有されているとは言い難いのである。 ゴムボジャヴの『ガンガの流れ」 やはり雍正年間の系譜史料として、ゴムボジヤヴYombujiabの『ガンガの流れ YangYa-yinurusqal』を挙げることができる(23)。作者はウズムチン右翼旗iijiim6in baraYunqosiYuのタイジで、雍正3(1725)年に同書を完成させている。同書も、 チンギス・ハーン以来の歴代大ハーンの系譜と事績を主内容とするものである。 この書も、リグデンの死後、満洲への服属後は、チャハル、スニドsiinid、ウズ ムチン、アオハンaoqan、ナイマンnaiman、オルドスordus、トウメド、ホーチ ドquuCid、ヒシクテンkesigten、ジヤルードjarud、バーリンbaYarin、ハラチン、 ウラド、ウリヤンハン、ハルハ、モーミヤンガン、ホルチン、アルホルチンaruqor6in、 ドウルベン・フーヘド、ウラド、フフノールk6kenuur(青海)のオオルド6gelcd (ホショードqoimud)、オンニウドongniYud、アバガabaY-aのそれぞれについ て、簡単な系譜を記す。八旗については、チャハルの部分についてのみ、「モー. キタド・タイジmuukitadtayijiの二子内大臣sitisiteitayijiayuu。これらの子孫は 今鎮黄旗蒙古にいる。チャハルのノヤン達はこれらである」(p36)と記すのみで、 他の諸部については、八旗編入組に言及したものはない。ゴムボジャヴは、中央 で学歴を積んだ人物であり、八旗蒙古の事情をある程度知っていたものと思われ るが、彼の著作において八旗のボルジギン氏族は著述の範囲から除外されている のである(24)。 ダルマ・グーシの『ミャンガン・ヘゲースト」 この年代記の作者ダルマ・グーシdharm-agiiiisiは、内モンゴル・ジョーオダ 盟juuuda-yin6iYulYanジヤルード右翼旗jarudbaraYunqosiYu出身のラマで、乾 -14-
隆4(1739)年にこの書を著した。この年代記は、ダルマ・グーシがチヤンキヤ・
ホトクトの下で『メルゲド・ガラヒーン・オロンmergedYarqu-yinorun』等の仏
教語彙辞書の編纂に関わるなど、中央で活躍したこともあって、この時期の年代
記著作特に同じジャルードのラシプンツォグrasipong6uY撰『ボロル・エリへbolur
erike』に一定の影響を与えている点で重要なものである。ところで、チョイジ 6oyijiiによると、フフホトの内蒙古社会科学院所蔵の同書写本は、ダルマ・グー シの原著をドロンノール彙宗寺のソマテイ・シーラsumatisilaが書写し、かつ補 訂したものである(25)。この人物もダルマ・グーシとほぼ同時代の人のようであ るが、チョイジがダルマ・グーシの原著の写本であるとするコペンハーゲン蔵本 になく、ソマテイ・シーラの書写本にあるとする記述には、各盟旗のノヤンの系 譜以外に、たとえばスニド部について「これらボヤン゛セツェンの子孫は、西ス ニドである」(p204)とか、トウメドのアルタン・ハーンの子トウベド・タイジ の子孫について、「これらトウベド・タイジの子孫は、フフホトの両トウメドに 含まれている」(p214)等といった記述が付加されている。このような付加的な 記述の中には、たとえば内ハルハ五オトグ中のオンギラドonggiradを統治した ノヤンについて、「これら両者の子孫は、内なる北京に入ったという」(p、224) 「バヤド、ウジェード両オトグのノヤン達は、内に入った。現在その子孫がいる」 (p225)といった情報を記している。とはいえ、八旗に編入されたノヤンにつ いては、おおかたその系譜は省略されており、このダルマシラにおいても、八旗 モンゴル人は叙述対象から除外されているのである。 ラシプンツォグの『ボロル・エリへ』 『大元ウルスのボロル・エリへdaiyuwanulus-unbolurerike』は、内モンゴル・ ジョーオダ盟バーリン右翼旗baYarinbaraYunqosiYuの協理三等タイジ・ラシプ ンツオグが、乾隆39(1774)~40(1775)年に著した年代記である(26)。その題, 名から明らかなように、この年代記の大半はチンギス・ハーン以後元朝期に至る モンゴル史に当てられており、第9巻第4節以降において、ダヤン・ハーンの諸 子の系譜が展開されている。とくに、第10巻において、各部の世系を述べるが、 最初にラシプンツオグが属するダヤン・ハーンの第5子アルツボロドの子孫内ハ ルハのノヤンを列挙する。内ハルハの五オトグは、バーリンとジャルードがザサ -15-グ旗となったが、オンギラド、バヤド、ウジェード三オトグは八旗に編入された。 ラシプンツォグは、ジャルードとバーリンのノヤンを述べた後、バヤドとウジェ ドについて、 qorqaCiqasarnoyanの第4子、bayudの地を統治したsonindayi`ingnoyan 及び第5子ijjiiyedの地を支配した§oqaijioriYtuqongbaYaturnoyan、こ の両ノヤンの子孫は、内八旗dotuYadunaimanqosiYuに入った。(P 897) と述べるに止まり、具体的な系譜を記すことはしていない。 ラシプンツオグは、続けてダヤン・ハーンの第6子オチルボロドwcirboludの 子孫が統治するヒシクテンのノヤンを述べ、さらに続けて第7子エルボロド elboludの子孫、第8子cingpar、第9子Karudi、第10子gereboludについてそれ らの子孫の所在を不明とする。そして第1O子geresenjieの子孫ハルハ四部のノヤ ンを列挙する。続く第5節では、「その他のノヤン達の根源」として、ブルテ・ チノからチンギスの父イェスゲイ・バートルまでの各代の分枝を不明とし、さら にジュチ系・チヤガダイ系について「アルタン・フルドウン・ミャンガン・ヘゲ ースト」により簡述する。さらにチンギス諸弟系の系譜について、ハサル系のホ ルチン、アルホルチン、ドルベンーフーヘド、ウラド三旗、ブフ・ピリグテイ系 のアバガ、アバハナルabaqanar、ハチウン系のオンニウド及びオトチギン系のノ ヤン達の系譜を述べる。そして最後にuliyijaYurとしてウリヤンハンのジェルメ の子孫ハラチン4旗に言及し、ジェルメがタブナンと呼ばれたいわれについての 伝承をいくつか紹介している。結局、ラシプンツォグが自著の中に書き込んだの は、内外モンゴルのザサグ旗中ボルジギン氏によって統治されるものとウリヤン ハイ氏が旗長となった諸旗であった、八旗に編入されたボルジギン氏族も、オイ ラド系の諸旗についても、述べるところはないのである。彼は、叙述の対象とし た諸部について、拠るべき情報を持たない場合には、その旨明記しており、八旗・ オイラドに関する沈黙は、決して単に無知によるものではない。特に注目される のは、ハサル系の諸部について述べた最後に、フフノール(青海)のハサル系す なわちホショード部について「またeseldeiの第2子uruYtemiirの子孫はフフノ -16-
-ルにいるという。また、王bolunaiのd61giigenをはじめとする6子の子孫は不 明である(eseYarYajiuqui)」(p928)と述べて、オイラド系諸部の内、ボルジギ ン氏族をザサグとするホショードについては、記述を試みた事実である。ウリヤ ンハン氏族のジェルメの後商たるハラチンについても、「我がモンゴルには、昔 からuliYijaYur-tanはいなかった」(p935)と述べ、原理的にウリヤンハン氏族 はモンゴルから除外されるべきものとして述べている。 これらの事実は、ラシプンツォグがモンゴルという概念で語る内容が、ボルジ ギン氏族を指していることと、八旗に編入された同氏族については、叙述の対象 からはずされていることを示しているのである。 ガルダンの『エルデニィン・エリへ』
『エルデニイン・エリへerdeni-yinerike」の作者ガルダンYaldanは、ハルハ・
トシエート・ハン部左翼後旗qalq-atiisiyetiiqan-uayimaY-unjegiinYar-unqoyitu qosiYu協理タイジであり、ダヤン・ハーンの第7子ゲレセンジェ・ジヤライル・ ホンタイジの第3子ノーノホ・ウイゼン・ノヤンnonuquuUengnoyanの子孫に 属する。彼がこの歴史書を書き終えたのは、道光21(1841)年のことである(27)。 この年代記の特長は、全体の7割を清代史の記述に割いていることと、系譜とは 別に、内外モンゴル各盟旗を、「欽定外藩蒙古回部王公表伝」によって盟旗名と ザサグの爵位を列挙する点にある。清代部分は大きく二つの部分に分かれ、前半 は『欽定外藩蒙古回部王公表伝」を写す形で、モンゴルの盟旗を列挙し、後半で は、主としてトシェートハン部のハン家系諸旗王公の事績と、ジェヴツンダム バ・ホトクトjebzundambaqutuYtuの事績を中心として論述している。興味深い のは、彼がこの前半部分において列挙したモンゴル諸盟旗の記述が、『表伝」の 記述形式を受け継いで、内外モンゴル、オイラド、回部、チベットのザサグ王公 に限られ、八旗に編入されたボノレジギン氏族や、王公のいないチヤハル・バルガ 等の内属諸旗の非王公については、沈黙している事実である。とはいっても、内 属諸旗中の王公については、叙述の対象としているのであるから、その記述の範 囲は、外藩王公と重なることになる。その意味で、ロミの『蒙古世系譜」とは著 しい対照をなしている。19世紀の外モンゴルにおける歴史記述が、既に八旗内 のボルジギン氏族を記述対照から排除していることを示すものである。もちろん、 -17-これには八旗内の同氏族に関する資料を彼らが持ち合わせていなかったことも、 原因の一つであろう。意図的なものであるか否かはともかくとしても、ここには 既に、モンゴル史の記述がザサグ王公に限定される傾向が明瞭に看取されるので ある。 しかも注意しなければならないのは、「王公表伝」を引用する形で、ガルダン はオイラド系王公をも記述の対象としており、その点でこれ以前のモンゴル文年 代記のボルジギン氏族の歴史としての記述とは決定的に性格を異にしていること である。つまりガルダンのエルデニィン・エリへは、既にモンゴル文年代記伝統 のボルジギン氏族の王統譜としての性格から、外藩王公全体を対象とした記述へ と変質しているのである。 以上、清代に著されたモンゴル文年代記の記述内容中の清代部分を検討しつつ、 その叙述の枠組みについて検討してきた。その結果、チンギス・ハーンの後喬と してのボルジギン氏族の歴史と歴代ハーンの事績を中心に述べる年代記は、オイ ラド系の諸盟旗の記述を対象とはせず、しかもザサグ旗側の年代記では八旗に編 入されたボルジギン氏族の系譜も脱落させるものであった。この点で、八旗中の ボルジギンであるロミのように、ザサグ旗王公の系譜と八旗内のボルジギン氏族 の系譜を同時に視野に収める立場は、既にザサグ旗側の歴史記述者の採るところ ではなくなっていたのである。さらに19世紀も半ばになると、ハルハの年代記 エルデニイン・エリへのように、王公範鴫をもって記述の枠組みとし、八旗を落 とす一方でオイラドを記述の対象として取り込むという事態が生じる。オイラド を、ボルジギン系王公と同等な叙述対象とするガルダンの記述は、モンゴル伝統 のチンギス以来のボルジギン王統譜としての年代記の性格を変質させ、かつ『王 公表伝』という清朝の系譜記述と、清朝が作り出した王公という身分的枠組みを 受容したものと言えるであろう。 結語 以上述べてきたように、清代の治下にあってモンゴル人は、ザサグ王公によっ て統治されるザサグ旗と、八旗属下の八旗蒙古及び内属蒙古に区分された。また -18-
ネルチンスク条約の締結によって、ブリヤートはロシア帝国の属下に入った。ザ
サグ旗のモンゴル人は、王公によって統治されたが、清朝が導入した王公概念は、
チンギス・ハンの子孫たるボルジギン氏族のみならず、ウリヤンハイ氏族や、オ イラド系の氏族をも等しく含むものであった。これによって、少なくとも公式には清朝服属以前にモンゴルに存在した格式上の区別、すなわちチンギス系と諸弟
系の区別や、ボルジギン氏とオイラド系異姓諸氏族の区別は相対化されたのであ る。清末、ハルハの主公が中心となって独立運動を起こした時、独立国家の範囲 に包含されるべきものとして構想されたのは、まずはこのモンゴル王公が統治す る諸旗であった。しかし独立運動がロシアの援助を頼んだことから、ロシア支配 下のブリヤートの民族主義者がこれに関与することとなった。彼らは、バン・モ ンゴリストとして、内外モンゴルの統合を目指したが、これはハルハ王公の側の 意思とは言い難いものがあった。一方八旗属下のモンゴルの内、チャハルやバル ガ等の内属蒙古は、モンゴル高原の一角をしめる地理的な位置や、生活様式の類 似等から、統合の対象とされたのである。 これら三部分の内、八旗属下に編入されたモンゴル人は、ロミのように、ボル ジギン氏族としての出自を血統としては意識していた。しかしザサグ旗側の年代 記記述からは、既に清代中期において、脱落していくのである。清末に独立運動 が顕在化した時、八旗のモンゴル人が、既に来るべき独立モンゴルの成員として 参加する道は、モンゴル人の側から閉ざされていくのであって、近代中国の歴史 の中で、むしろ満洲族の中に融解しつつ、その漢化とともに民族としてのアイデ ンティティーを失っていくのである。 注 (1)ただし、この内西モンゴルは、必ずしも南北モンゴルと対等の概念ではない。モンゴ ル国のモンゴル人は北モンゴルと称されるが、この内オイラド系の諸集団が西モンゴ ルと呼ばれる。また南モンゴルと呼ばれる内モンゴル自治区にも、アラシャ盟に西モ ンゴル系住民が居住している。 (2)渡邊日日「民族の解釈学へのプロレゴメナーーセレンガ・ブリヤート、1996」『民族 -19-の共存を求めて』(2)、北海道大学スラブ研究センター、札幌、1997年、pplO6-l53・ 渡邊氏の調査に対するブリヤートの反応は、彼らの意識をよく表している。彼らには、 ブリヤートとモンゴルを近縁の関係にあるとは考えても、自らをモンゴルの一部であ ると考える者が少ないようである。 (3)オノン・ウルグンゲ『わが少年時代のモンゴル』学生社、東京、1,76年。とくにオ ーェン・ラテイモアによる「日本語版への序文」は、ダグールの民族帰属意識の複雑 な様相を次のように述べている。「彼ら(ダグール族)は他のモンゴル族とは別のもの になりながら、あくまでもモンゴル人であり、たんにモンゴル人としての自覚をそな えているだけでなく、モンゴル人であることをこの上もない誇りとしているのである」 (p,2) (4)新中国成立後、ダグールは民族として認定され、自らの希望でダグールを民族名とし たという。高文徳「中国少数民族史大辞典』吉林教育出版社、1995年、p、735. (5)モンゴルにおける近代の開始をどの時点に求めるかについては、ここでは1911年 のボグド・ハーン政権成立をもって近代の始まりとして考えておく。 (6)護雅夫・岡田英弘編『中央ユーラシアの世界』民族の世界史4,山川出版社、東京、 1990年、342~345頁。 (7)ジュンガルについては、宮脇淳子「最後の遊牧帝国:ジューンガル部の興亡』講談社、 東京、1195年に詳しい。宮脇氏は、部族達合体としてのオイラドについて、モンゴル 同様ネーションに近い意味合いで「オイラト民族」という言葉を用いている。オイラ ドをモンゴルの一部分として見るのではなく、モンゴルと同等の別集団として明確に 位置づける氏の見解は正しいように思われる。 (8)満洲の勃興過程を要領よくまとめたものとして、松浦茂『清の太祖ヌルハチ』中国歴 史人物選第11巻、白帝社、1995年、石橋崇雄『大清帝国』講談社、1999年が挙げら れる。 (9)宗室王公とモンゴル王公の関係については、片岡一忠「朝賀規定からみた清朝と外藩・ 朝貢国の関係」『駒沢史学』第52号、1998年6月、240~263頁参照。また拙稿「清朝 国家の性格とモンゴル王公」『史滴」16,1994年12月、54-58頁参照。 (10)『欽定外藩蒙古回部王公表伝』巻80,伝64,札薩克多羅貝勒和ご愚理列伝。 (11)清朝のザサグ旗においては、個々の旗において特定の氏族が王公タイジとして、貴族 身分を与えられた。しかし同一旗内においては、他の旗で王公タイジの待遇を得てい -20-
た氏族が存在しても、当該旗ではかかる待遇は与えられなかった。例えば、ハルハで はダヤン・ハーン系のボルジギン氏族が王公タイジとなったが、一部にチンギス.ハ ンの弟ブフ・ピリグテイ系のタイジがいた。彼らはタイジとは認められたものの、一 段格の低い所属タイジqariyatutayijiと呼ばれて、区別された。しかし内モンゴルのア バガ旗やアバハナル旗では、ビリグテイ系の王公がザサグとなっている。また、ハル ハには、チヨロス姓も分布しているが、これらには、ドルベドやオオルド諸旗におけ るような王公タイジ待遇は与えられず、平民とされた。 (12)モンゴル革命におけるブリヤートの革命家の活躍については、二木博史「モンゴル人 民革命党第一回大会とブリヤート人革命家たち」『一橋論叢』第120巻第2号、1998 年8月、34-50頁等参照。 (13)季1熱?露『外蒙政教制度考』中央研究院近代史研究所専刊、台北、1962年、185~254 頁。 (14)『李守信自述』内蒙古文史資料第二十輯、]985年、2-3頁。これによると、李守信は ジョスト盟トウメド右旗出身のモンゴル人であるが、祖先は山東省済南府から同旗に 移住した漢族であり、旗籍に入って「随蒙古」と呼ばれたという。 (15)H・MarcapKaB:MoHroⅡyJIcLIHmHH3TYYx・MonumentaHistoricaTomusVII,Fasc、1, yⅡaaH6aaTap,1994.マグサルジヤヴは、ボグド・ハーン政権が独立に際して合流を呼 びかけたのは、「内モンゴルのジレム、ジョスト、ジヨーオダ、シリンゴル、ウラーン チヤヴ、イヘ・ジョー六盟、帰化城トウメド左右翼、黒竜江のイヘ・ミヤンガン・オ オルド・ザサグ、アラシャ王、ダリガンガ、新旧バルガ諸旗総管等」であったと述べ ている。同書11頁。 (16)汪炳明「清末新政与北部辺彊開発」馬汝爾・馬大正編『清代辺躯開発研究」中国社会 科学出版社、1990年、63頁. (17)ダグール人をモンゴル民族の一部であるとする強い指向性は、例えば近代ダグールの 革命家郭道甫(メルセー)や、モンゴル学者オノン・ウルグンゲに見いだすことがで きる。ただしダグールの場合もブリヤートがそうであったように、モンゴル側にダグ ールをモンゴル民族の一部とする認識が共有されているかは疑問である。 (18)『欽定外藩蒙古回部王公表伝』巻30、伝14、阿噺科爾沁部総伝。 (19)備指額緬制度の対象となったのは、ホルチン、バーリン、ハラチン、ナイマン、オン ニウド、トウメド、アオハン、ハラチンの13旗である。趙雲田『清代蒙古政教制度』 -21-
中華書局、1989年、227~228頁。 (20)渡邊日日前掲論文。 (21)モンゴル人はブリヤート人を裏切り者と考えているという渡邊日日論文中のブリヤー ト人インフォーマントの証言(115頁)。筆者も、モンゴルのブリヤート人をユダヤ人 に例える発言を、同国のブリヤート人から聞いたことがある。 (22)WaltherHeissigundCharlesRBawde、:MongolBorJigidoboY-untetikevonLomi(1732). GottingerAsiatischeForschungenBand,,OttoHarrassowitz,Wiesbaden,1957. (23)ToM60mKa6:raHra-HHHypycxaJI(HcTopHjl30JIoToropoⅡaBJIaⅡblKHYHHrHca・ CoqIHHeHHenoⅡHa3BaHHeMTeHeHHeraHra・M3ユaHHeTeKcTa,BBeneHHelIyKa3aTeIb 几C・mWKoBcKoro・MocKBa,1960, (24)CoyiJi:YangY-a-yinurusqa1.6bUrmongYul-unarad-unkeblel-iinqoriy-a,k6keqota,I980 p2-14 (25)eoyiji:altankijrdimmingYankegesUtU・obUrmongYuI-unarad-unkebleI-Unqoriy-a,k6keqota' 1987.p19-23. (26)k6ke6ndijr:bolurerike、6bijrmongYul-unarad-unkebIel-iinqoriy-a,k6keqota,1985. (27)Yaldan:erdeni-yinerikekemektiteiikebolai・MonumentahistoricaTomusllLFasc.I. yJIaaH6aaTap,1960. -22-
チェチェン市民の社会的帰属意識
北川誠一 初めに チェチェン共和国はソ連時代には、今日のイングーシ共和国とともにチェチェ ン・イングーン自治ソヴィエト社会主義共和国を構成していた。現在国際法上は ロシア連邦内の共和国であるが、主権国家であるイチュケリア・チェチェン共和 国(ChechenskajaRespublika-lchkerija)を宣言した1991年以来、独立を巡っ てロシア連邦との間で紛争が続いている。1994年から1996年までの第1次チェチ ェン戦争の結果、チェチェン独立派は、国際的な承認は得られなかったものの、 連邦政府からは事実上の独立を痩得した。3年にわたる対ロシア戦争を継続する 事ができたのは、独立と国民統合を求める強力な国民的意志が働いたのであって、 ドゥダイェフ大統領のカリスマ性にのみ記する事はできないであろう。しかし、 1997年以降の状況をみると、グロズヌイ政府の統治能力は限定され、各地には様 々な武装勢力が割拠し、あるいは中央政府の機構と地方勢力機関が拮抗していた。 政府の統治能力の欠如は、1999年と2000年にまたがり、現在でも山間部で戦闘が 継続している第2次チェチェン戦争の間接的原因であった。戦時における連帯に も拘わらず、チェチェン人が平和時に見せた混乱は、チェチェン人の社会は、国 民意識などとは別の原理で行動しているのではないかという疑念を抱かさせる。 さて、帝政期にテレクTerek州グロズヌイGroznyj県であった今日のチェチェン 共和国の領土は、ロシア革命後の1920年山岳共和国に含まれた。ボリシェヴィキ の勝利後、革命委員会の支配下に置かれた後、山岳自治ソヴィエト社会主義共和 国に編入された。1922年11月30日には、分離してチェチェン自治州が編成され、 当時グロズヌイは州外であったが、ここに州政府が置かれ、1929年にはグロズヌ イ市とグロズヌイ州、スンジェSunzhe・コサック区が編入された。1934年にはイ ングーシ自治州と合同してチェチェン・イングーシ自治州となった。行政の中心 -23-~ はグロズヌイに置かれた。1936年12月5日には、チェチェン・イングーシユ自治共 和国に格上げされたが、1944年2月23日の全チェチェン人、イングーシ人の強制 移住にともない自治共和国は解散された。この状態は1957年1月9日の最高会議幹 部会の布告によって旧住地帰還が承認され、さらに’957年1月11日ソ連邦最高会議 幹部会はチェチェンーイングーシ自治ソヴィエト社会主義共和国再設置に関する 布告を発布した。新生の共和国は新たにスタヴロポリ辺区(クライ)から、カル ギンスキーKargunskij、ショルコフスキーSholkovskij(ショルキSholki)、ナウ ルNaur3郡4千平方キロメートルの地域を得たが、これは、北オセチア、ダゲスタ ン、グルジアに残されたチェチェン人居住地域の代償として与えられたものであ った〈Bugaj,N、F,,iAM・Gonov・Ktzl)lbUzzHMz7Ud)M)EsAeloluZzj6(2D-“-eguq)!),Moskva/Insan, 1998,str、310-312;jWzUzz1is1m/bzGzzz畝z,OtShajkhMansuradoGeneralaDudajeva, l2Nojabr,1991)。 1990年11月23-25日に開催されたチェチェン国民議会ChechenskijNatsional- nyjS、ezdは、チェチェン全民族協会Obshsbenatsional,nyjKongressChensko- goNarodaの指導者であったジョハル・ドゥダイェフDzhokharDudayevを執行委員 会議長に選任し、ノフチ・チョーチェチェン共和国ChechenkajaRespublika Nokhchi-Choの成立を宣言した。これと対抗関係にあった共和国最高ソヴィエトは、 27日、チェチェン・イングーシ共和国が主権国家であることを宣言した。1991年 7月12日、チェチェン全民族会議第2回大会は、ノフチ・チヨ=チェチェン共和 国が、ソ連にもロシア連邦にも加わらないことを宣言した。この年8月モスクワで クーデタ未遂事件が生ずるが、グロズヌイではソ連共産党チェチェン・イングー シ党委員会、最高ソヴィエト、政府がクーデタ派を支持、チェチェン全民族会議 は、これに抗議して、ソ連、ロシアからの離脱を求める運動をおこなった。9月 4日、ドゥダイェフは最高ソヴィエトの解散を宣言、6日、ドゥダイェフ派の群 集とチェチェン全民族会議の衛兵隊が最高ソヴィエト施設を占拠、ザヴガイェフ DokuZavgayev議長は退陣した。翌日、臨時ソヴィエトが組織された。これは選挙 管理機関の機能を持っていた。しかし、翌17日、チェチェン全民族会議執行委員 会は、臨時ソヴィエトを解体し、自らその機能を奪い、10月27日に大統領選挙を、 11月27日に最高ソヴィエト選挙を実施することが決定した。この間、イングーシ 人居住地域の中心ナズランNazranでは、9月15日、イングーシ地域選出の自治共 -24-
和国最高ソヴィエト議員集会が行われ、ナズラン地方はイングーシ共和国として 分離し、独立は要求せずロシア連邦に所属する事を決定した。また、11月30日と 12月1日両日にわたる国民投票でイングーシ共和国の樹立が承認され、1992年7