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図518世紀のチェチュニヤとイングーシェティア

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□Ⅲ□

36。9

3キズリャルのオコキ(アッキ)族 4カラブラキ(エルシュトホイ)族 5イングーシ人

630-70年代ロシアに臣属したチェチェン人 71781年にロシアに服属した平地のチェチェン人 8山地チエチェン人91781年までの無住地

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チェコの市民社会の甥としてのロマ問題

一一ウースチー・ナド・ラベムUstinadLabeml)の「壁」問題一一

佐藤雪野

1.はじめに

昨年1999年11月に、チエコはチェコスロヴァキア社会主義政権崩壊に繋がっ た「ビロード革命」の10周年を迎えた。この10年の「体制転換」過程において、

チエコは、スロヴァキアとの分離、政治制度の民主化、市場経済化などの、大き な変化を体験した。そして、転換の過程はまだ終わっていない。

チェコの体制転換の成果としては、OECDやNATOといった国際機構への加盟、

EU加盟交渉開始など、「西側」国際社会への参加の実現があげられる。そして、

1997年に経済危機が露呈したものの、概してチェコの政治的・経済的な転換は順

調に進んでいるように見える。

その中で、転換期のチェコに目立つ社会問題、人権問題として、外国メディア を騒がせるのは、チェコにおける人種差別問題、特にロマ(ジプシー)に関する

問題である。

1997年夏には、カナダに移住したチェコのロマの「ばら色の生活」を取り上げ た民放ノヴァ社のテレビ番組をきっかけとして、大量のロマのカナダへの難民申 請問題、更にイギリスへの難民申請問題がニュースとなった。彼らは、チェコ国 内で、民族的に差別・迫害されているので、政治的難民の認定を求めると主張し

た。このニュースは日本でも報道された。

1999年秋には、北ボヘミアのウースチー・ナド・ラベム市にロマ系住民とチェ コ系住民を隔てる「壁」が建設されるというニュースが、世界に広がった。

度重なるロマ問題から判断して、体制転換期のチェコ社会は、政治上の形式的 な民主化にもかかわらず、非寛容で、人権侵害的な社会なのであろうか?チエコ 市民社会の民主化は不完全なものなのだろうか?本稿では、ウースチー・ナド・

ラベムの「壁」問題の実態を探ることにより、チェコ市民社会の現状を明らかに

する。

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2.「壁」問題の背景

マチチニーMati6ni通りはウースチー・ナド・ラベムのネシユチエミツエ Ne5t6mice区、クラースネー・プジェズノKrAsn6Bfezno地区のノヴイー.スヴエ トNovysv6t(新世界)にある。クラースネー・ブジェズノ地区の中にあるとはい え、ノヴイー・スヴェトは地区の他の部分とは、ドレスデン=プラハを結ぶ幹線 の鉄道線路により、遮断されている。ノヴイー・スヴェトと他のクラースネー・

ブジェズノ地区は線路の下を通る地下道で結ばれている。この立地も問題と関係 してくる。

ウースチーはドイツ語名アウシッヒAussigとしても知られており、かつては、

ドイツ系住民が多い町であった。マチチニー通りの名称はチェコ系の学校協会 Matice5kolskaに由来しており、チェコ・ナショナリズムと関わり深い名称である。

この通りがこの名前になったのは、第二次世界大戦後の1945年のことである。

第二次世界大戦後も静かな美しい地域で、ドイツ系の老人も住んでいたと言わ れる。戦後のドイツ系住民の追放を辛くも逃れる事ができたのであろう。ドイツ 系の住民追放はウースチーでも過酷に行われたが、隔離されたこの地域では状況 が異なっていたのかもしれない。

ロマの人々がノヴイー・スヴエトに住み始めたのは、1980年代のことである。

初期の転入者は、先住のチェコ系住民との問題を起こさなかったようで、チェコ 系住民は現在も、古くからのロマ系住民と1980年代末以降転入したロマ系住民を 区別しているようである。

この1980年代の移住は、社会的弱者が、それまでの家が取り壊されたために引 っ越してきたり、他地区より家賃の安いアパートに、アパート交換2)の形で引っ 越してくる形で行われた。これにより、ノヴイー・スヴェト地区の住環境は更に 悪化することになった。

昨年大きく報道された、マチチニー通りの問題の根は、この1980年代末から の移住者によるノヴイー・スヴェト地区の生活環境の悪化にあるといえるが、マ チチニー通りの問題が、全国的、更に国際的問題になる発端は、1993年、1994 年に市当局が、改修済みのマチチニー通り4番地と6番地のアパートに、家賃未 納者を住まわせた事にある。しかし、ノヴイー・スヴェトにおける問題は、1990

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年代にはいってすぐに既に露見していたようである。住民の一部(新しい転入者)

が、家賃を払わなかったり、その地の一般的習慣を守らなかったり、騒音をたて たりしたため、その他の住民が不満に思っている事が、市当局に知られるように

なった。

市当局は1991年第172号法により国有財産が地方自治体に譲渡され、それま で国有だった住宅が市有となったので、そこに、家賃未納住民を住まわせること にした。このマチチニー通りの2棟のアパートには、水道(温水は出ない)とガ ス暖房とコンロは設置された。一般の団地アパートには、温水も出る水道、セン トラルヒーティング、台所があることを考えると、かなり質の低い住宅であると

いえる。

マチチニー通りの2棟のアパートには、約130人(うち成人が約80人)が住 むようになった。この家賃未払い者を質の低い住宅に移すことで、良質な住宅に 空きができ、ウースチーにおける住宅不足が多少とも改善されることになった。

市当局はマチチニー通り以外にも、家賃未払い者向け住宅を用意して、住民を移 住させたが、他の地域ではマチチニー通りほどの大きな問題は起こらなかったと

いわれる。

1990年代半ばになって、マチチニー通りの2棟のアパート住民と通りの反対側 の庭付き一戸建て住宅(2階建て)の住民との対立が顕在化する。対立顕在化の 時期から考えて、1993年、94年のアパート移住者に問題があったといえるであ ろう。改修前のアパートに住んでいた住民は、数的にも少なく、問題を起こさず 暮らしていたことになる。そして、前述のように、チェコ系住民は、ロマ系住民 を古くからの住民と新しい住民とに区別し、新しい住民に不満を表明したのであ る。具体的に生じた問題は、アパート住民の子供たちが、親の監督無しに道を走 りまわることや、夜間の騒音であった。アパート住民は、ボリュームを最大にあ げたラジオを道路側の窓辺で鳴らしていたという。

ネシュチェミツエの区役所が公式に問題を記録したのは、1996年のことで、小 犯罪の増加、夜間の騒音、監督無しに子供達が駆け回り、言葉で攻撃したり、他 の子供に暴力をふるうことなどが、取り上げられた。このような状況で、市瞥察 は、24時間のパトロール体制をノヴイー・スヴェト地域に導入した。このことが、

一時的に状況の改善につながったとされるが3)、抜本的な解決にはならなかった。

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上記の問題以外に、大きな問題となったのは、この地域で巨大で攻撃的なドブ ネズミが増えたことである。このドブネズミは、マチチニー通りの問題のアパー

ト周辺のごみのために発生した。

問題のアパートの住民の多くは失業者で、社会的給付金で生活していたが、生 活のたしにするために、ごみを集めていた。そして、ごみの中で使えるものを選 り分けた残りを建物の周りに放置していた。更に彼らは、国境を越えたドイツの ザクセン州からもごみを集めており、これをドイツ人達は歓迎していたという。

市の技術サービス部門(清掃局にあたる)は、この地域にごみ収集用コンテナを ふやすことで、ごみ問題の解決をはかったが、焼け石に水だった。アパートの地 下室はごみでいつぱいになり、更に隣接の無人の8番地の建物もごみに埋もれた。

ごみ問題は1995年から発生していたが、大きな問題となったのは1997年で、

区は、1997年12月から1998年1月に大掃除を実施し、16,795コルナの費用を かけて約22トンのごみを運び出した。更に1998年3月、4月に約20トンのご み、5月13日に、建物内から5.24トン、屋外から6.32トンのごみが運び出され

た。

当時の記録によれば4)、問題のアパートの住民の一部も、不衛生で無秩序な住 環境に不満で、一戸建てに住む住民と協力したいと考える人々もいた。彼らは、

アパートから引っ越したいと考えていたが、家賃が払えないために、他に住むと ころがなかった。これらの住民は、マチチニー通りの秩序と夜間の静粛を守るた

`めの委員会を創設した。

当時存在した状況改善の可能性を打ち砕いたのは、1998年4月12日に起こっ

た20人の酔っ払ったロマが7人の市警察官に暴行した事件である。きっかけは

些細な交通事故であったが、事件は大きくなり、ロマが、瞥察官に対して、人種

差別的な言葉を浴びせながら、暴行したとされる6)。

3.「壁」建設の発端と事件化

最初に防音バリアーの建設を一戸建て住宅の住民が要求したのは、1997年秋の ことである。最終的には1998年の区予算にこのための費用が組み入れられた。

それまでの、鉄製のフェンスにかわって、防音のための壁か塀がマチチニー通り

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