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算術命題の本性に関する諸家の見解のフレーゲによる批判的考察 : 『算術の基礎』第1部研究

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(1)

敏 博 ナ田 田

算術命題の本性 に関する諸家の見解の

フレーゲによる批判的考察

―一『算術の基礎』第 1部 研究――

哲学教室

は じ め に

本稿の 目的は,『算術の基礎』ω(以後 『基礎』 と略記

)第

1部

の読解 を通 して

,①

数学 の哲 学 の 一般的問題 として

,算

術命題の本性 についてのフレーゲの見解 を明 らかに し

,さ

らに② フ レーゲ解 釈の問題 として

,彼

の論理主義のプログラムの中での 『基礎』 の役割 を理解するための準備作業 を すること

,で

ある。 フレーゲは『基礎』 の序文で,「数の概念

Jの

一般的定義 はおろか

,最

も基本 的 な研 究対 象 で あ る「数

lJの

満足のい く定義 もなされていない

,

とい う (フ レーゲの頃の

)数

=算

術 の状況 を嘆 いている。それ と同時に

,そ

の最 も基本的部分 (論理の形式化 と一般系列理論

)を

『概念記法』 で 完了 させ た ところの

,算

術 を論理 によって基礎づけるとい う彼 のプログラムの本来の意図が

,当

時 の数学者や哲学者 には理解 されていない

,

ともフレーゲは考 えた。そこで彼 は

,特

に数の概念 の定 義 を求めることの数学的・哲学的意義 に焦点 を当てた書物 を書 く必要 を感 じて, F基 礎』 を著 わ し たのである。『基礎』 の第1部でフレーゲは

,数

概念の本格的考察の準備 として

,算

術 命題 の本性 に関する諸家の見解 を批判的に考察 している。本稿 は

,先

にのべた①

,②

の目的か ら

,主

題 の展 開 に沿って『基礎』 第1部を研究する。 さて

,こ

こで考 えられている「算術命題」 とは

,個

々の数 を扱 う数式

,個

々の数の定義

,お

よび 数一般 に成 り立つ法貝1の三種類である。そ して, これ らがいずれ も分析的な性格 を持つ ことが論 じ られる。そこで本稿の榎概 は以下の ようになる。 まず第1節では,『基礎』 §

1-§

4で

の フ レー ゲの議論 を追跡す ることにより,『基礎』全体 の数学的動機 (解析学の厳密化の動 き

)と

哲 学 的動 機 (算術の真理は分析的か総合的か

,先

天的か後天的か とい う問題

)を

確認する。第

2節

,算

術 命題の一部である数式が

,数

の一般法則 と個 々の数の定義か ら証明可能であることについて, カン トを批判 し

,ラ

イプニ ッツを援用するフレーゲの議論 を検討す る。引 き続 き第

3節

,

ミルの数式 に関す る見解 についてのフレーゲの批判 を扱 う。第

4節

,

ミルの批判 による

,算

術法則 (数の一 般法則

)が

帰納的ではないことの議論 を取 り上 げる。最後 に

,第

5, 6節

,算

術法則の分析性 を 問題 にす る。

(2)

1.背

景 と動 機 [算術 の基礎』第

1部

の叙述 を始める前 に, フレーゲは『基礎』 §

1-§ 4で

, F基礎』 全体 を 構成するに至 った背景 と動機 について述べている。われわれ も

,第

1部の十全 な理解のため に必要 と考 え られる限 りで

,こ

の部分 (§

1-§

4)を

1検討することか ら始めたい。

1.1 19世

紀数学の厳密化の運動 と数学的動機 (『基礎』 §

1, 2)

フレーゲによれば

,主

としてギ リシア人によつて作 られて きた幾何学 においては

,厳

密 な推論方 法 を用 いることが伝統 として今 日まで伝 え られているが

,そ

の方法や概念がイン ド起源である算術 においては

,大

雑把 な思考方法が引 き継がれた

,

とい う。18世紀以来の高等解析の発明はこの傾向 を促進 したにす ぎず

,主

題の厳密 な扱いに対 して立 ちはだかった困難 を克服 しようとす る努力 も, 報われることが少 なかった。 しか し

,そ

の後の数学の発展 は

,

ます ます厳密な証明を要求す る方向 に進んだ。 フレーゲは

,厳

密 な証明によ り数学の諸命題の妥当性 を限界づける準備 として

,当

時な されつつあった

,関

,連

続性

,極

,無

限 といった解析学の基礎概念 を厳密 に定義 しようとする 動 きに言及 している。 そこで

,わ

れわれ も例 として

,極

限概念の定義の厳密化 をめ ぐる動 きの要点 を瞥見するこ とにす るり。極限概念の定義 は

,導

関数の概念の理解 に必要な もの とされた所 にその起源 を持 って い る。 導関数 (derivative)は

,あ

る運動する対象の位置が時間の関数 として与 え られた とき

,

あ る時点 でのその対象の速度の計算 を

,そ

の関数か ら導 くとい う問題 として典型的に現れる。

X軸

を時間軸,

y軸

を空間軸 とすると

,そ

の対象の運動 はグラフとして表現で きる。その とき

,運

動する対象の一 定時点での速度 は

,関

数の変化の割合 となる。関数が一次関数の とき

,グ

ラフは直線 とな り

,変

化 の割合 は一定で

,直

線の傾 きとして表 される。 こうして

,任

意の点

XOで

の速度は

,

この点 を含 む 短い時間間隔 (区間

)で

の速度 を考察す ることで与 えられる。区問 [X。

,X]で

これを計算 す るに は

,時

点Xと XOにおける関数の値 の差 (その区間に移動 した距離

)を

, Xと

XOの

差 (経過時 間) で割ればよい:

f(X)一

f(XO) X― X0 しか し

,変

化の割合が一定ではない (速度が各時点で変わる

)場

合の計算 はもっと難 しい。一つの 戦略は

,変

化の割合が一定であるほど小 さい

,そ

の時点の周辺の区間を考 えることである。導関数 の初期 の定義は

,一

時点の近傍の無限に小 さい区間内で関数の変化率 を計算することが可能である, とい う仮定に基づいてなされた。 この戦略 には無限小

,す

なわち無限に小 さいがゼロではない数の 概念の使用が含 まれる。1820年代 にコーシー (Augusun―Louis Cauchy)が 与 えた導関数 の定義 は,

極限概念 を用いることで

,無

限小の使用 にまつわる問題 を回避する もの と期待 された。 コーシーの 極限の定義は以下のような ものであった:

「同 じ変数 に次 々 と割 り当て られた値が

,望

むだけわずかに一定の値 と異 なった ま まで終 わるとい う仕方で

,そ

の一定値 に無限に近づ くとき

,こ

の最後の値 は他のすべての値 の極 限 と呼ばれる。」0[強調 はコーシー]

その とき

,関

数fの XOにおける導関数は

, XOに

おけるfの値 と

XO+hに

お けるfの値 との差 を

hで

割 った結果の

, hが

0に近づ くときの極限値

,す

なわち

(3)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第48巻 第

1号

(1997) lim h→0 f(X。 十h)一 f(X。) として定義 された。 しか し

,こ

の コーシーの定義 も十分 に厳密な ものではなかった。値 の系列が「一定値 に無限に近 づ く」 とはどういうことか

,一

定値 と「望 むだけわずかに異 なる」 とは どういうことか

,は

明確で はなかった。極限の定義 をもっと単純な用語で定義 し

,今

日も使 われる形 に表現 したのはワイエル シユ トラスであったω。その定義 によれば

, Xが XOに

近づ くときの関数

f(X)の

極限が

Lに

等 し いのは

,わ

れわれが選ぶ任意の正の数 εに対 して

,そ

れが どんなに小 さ くとも

, XOか

らδよ り遠 くない どんな

Xに

対 して も

f(X)が

Lか

らεよりは遠 くない

,そ

うい う正の数 δが存在するとき, その ときにか ぎる。言い換 えると

, Xが

十分 にX。 に近づ くことを確かめることによって

, f(X)

がわれわれの望 むだけ, どれほどで も

Lに

接近 し得 るようなXを見つけることができる。こうして, 系列が一定の値 に近づ きなが ら

,

しか も望むだけわずかにその値 とは異 なる とい う

,コ

ーシーの定 義 に未だ潜んでいた曖味 さが消 され

,正

確 な表現が得 られた。 フレーゲが言及 している解析学 における厳密化への動 きは

,抽

象的な理念 に動か されたとい うよ り

,い

わば現場か らの要求によ り生 じたのであった。 ワイエルシュ トラスによる極限概念の正確 な 定義は

,数

学研究において生 じた問題や混乱 を解決す るのに必要 とされたのであった。逆に言え磯 現場の数学者が厳密 さを求めるのは数学研究における問題や混乱の解決に直接関わるものに限 られ てお り

,そ

ういった ものに直接関わ らない問い

,例

えば「数概念 とはなにか」 といった問いに厳密 さを求めることはほとん ど無かった, とい うことである。 この点 に

,彼

の同時代 の現場の数学者か らフレーゲを隔てる発想の違いがあるように見える。 フレーゲは

,厳

密 さの要求 をさらに先 に進め て

,算

術の領域 にまで到達 させ ようとする。彼 は言 う: 「 この道 [極限やそれに関連す る解析学の諸概念の厳密 な定義の要求へ と数学者 を導 いた 道

]を

さらに先 に辿れば

,わ

れわれは

,全

算術の基礎 を形成する

,数

の概念 と

,正

の整数 について成 り立つ最 も単純 な命題 とに

,導

かれるにちがいない。」(『基礎』 §2) フレーゲにとって

,算

術 は厳密 さの最終的な基礎 にはな り得 なかった。個 々の数の間の関係 を主張 する数式や

,任

意の数 において成 り立つ一般法則 も

,証

明可能な場合 には証明 されねばならなかっ た。

1,2

哲学的動機 (『基礎

3, 4)

算術 の基礎 を問 うとい う数学的な問いの動機 は

,同

時 に

,算

術 の真理の本性 についての哲学的問 いに裏打 ちされている

,

とフレーゲは考 える。算術の真理の本性 についての哲学的問い とは

,算

術 の真理が分析的であるか総合的であるか

,ア

・ プリオリであるかア・ポステ リオ リであるか

,

とい う問いである。 これ らの問いに関連する概念 自体 は哲学 に属す るが

,数

学の手助 けが無ければ

,そ

れ らの問いに決定的な答 えを与えることはで きない

,

とフレーゲは考 える (『基礎』 §3)。 ところで

,フ

レーゲによれば

,こ

れ らの哲学的問いは

,判

断の内容 (InhЛ

t)に

で は な く

,真

ま たは偽 とい う判断 をなす ことの正当性 (Berechtigung)に 関わる。算術 の場合

,判

断 の正 当性 は証 明によって与え られる。従 って

,算

術の真理の正当化 は

,そ

の真理の厳密 な証明がな されて初めて 達成 される。厳密 な証明において

,わ

れわれは

,透

き間のない推論連鎖 を辿 ることにより

,そ

の真 理の真理性の根拠である原真理 (urwahrheit)に 至 る筈である。 この厳密な証明過程 を吟味するこ とによって初めて

,わ

れわれは先の哲学的な問い

,す

なわち

,算

術 の真理が分析 的であるか総合的 であるか

,ア

・プリオ リであるかア・ポステリオリであるか も

,決

定 される。 フレーゲはこれ らの

(4)

問いに現れる概念 をつ ぎの ように規定 し直す

0:

(1)当

の真理の厳密 な証明の遂行過程で

,論

理法貝↓Qo鎌sche Gegetze)と 定義 (DeanidOnen) に しか出会わないな らば

,そ

の真理 は分析的 (anЛytisch)で ある。

(2)一

般的・論理的本性 を持たず

,あ

る特別な学問領域 に関連 す る真理 を用 い るこ とな しには (ohneヽVahrheiten zu benutzen, welche nicht allgemein logischer Natur sind, sondera sich auf besonderes Wる sensgebiet bettehen),証明で きない とき

,そ

の真理 は総合的 (synthedsch)であ

る。

(3)事

実に訴 えることな しには (Ohne Berufung auf Thatsachen),証 明で きない とき, その真理 はア・ポステ リオ リ (a posteriOn)である。

14)証

明が

,そ

れ自身は もはや証明可能ではな く証明の必要 もない一般法則 だけか らなされると き

,そ

の真理 はア・プリオ リ (a p ori)で ある。 フレーゲは

,数

学的動機 とともに

,こ

れ らの哲学的動機か ら,『算術 の基礎』 全体 の意図 を

,数

の概念 と算術法則の本性 の探究へ向か うもの, と規定する (『基礎』 §4)。 これ らの課題が遂行 さ れるのは『基礎』第

4部

においてであるが

,そ

の準備 として

,フ

レーゲは先行する諸家の見解 を批 判的に考察する。 これは3つの部分か らな り

,第

1, 2, 3部

に対応 している。す なわち

,算

術命 題の本性 に関する

,数

の概念 に関す る

,単

一性 と数1に関する

,先

行諸家の見解の考察である。以 下

,本

稿 は

,第

1部

の算術命題の本性 に関する諸家の見解の批判的吟味 を取 り扱 う。

2.数

式 は証 明 可 能 か? さて

,算

術命題 において

,個

々の数 を扱 う

2+3の

ような数式 と

,す

べ ての正の整数 について成 り立つ一般法則 を区別す ることか ら

,フ

レーゲは始める。何人かの哲学者たちは

,数

式が公理の よ うに直接 に自明であ り

,証

明で きない もの と考えた。(ここで

,名

前が挙げ られるのは

,ホ

ッブズ, ロック

,ニ

ュー トンである。

)特

,カ

ン トは

,算

術の数式が証明不可能であ り

,総

合 的である と みな した, とフレーゲは理解する。 フレーゲは, §5を

,主

としてカン トの見解 (とフレーゲに考 えられる見解

)が

不十分であることを示す ことに捧 げる。 フレーゲが ここで念頭 においているのは

, 7+5=12と

い う数式が

,ア

・ プ リオ リではあるが分 析的ではな く総合的であ り

,直

観 によってその正 しさが示 される

,

とい うカン トの周知の議論であ る⑤。 しか し

,フ

レーゲ 自身の例は

,そ

の自明性 においてカン トの数式 よりはるかに劣 る,

135664十 -37863=173527

という数式である。 カン トは, この「 自明性の無 さ」が, この ような数式が「総合的」であるとい う本1生を持つ例証 となると考 えた, とフレーゲは論 じる。 しか し

,こ

れが 自明でないならば

,何

を 根拠 に してこの数式の真であることは示 されるか

?証

明によってでなければ

,何

によつてか ?カ ン トであれば

,直

観 によるであろう, とフレーゲは言 う。そ して

,カ

ン トの指や点 についてのわれわ れの直観 に訴 える説明 を引いている。 この ようなカン トの説明が不十分であることを

,フ

レーゲは二つの論点か ら指摘する。第一は, 算術命題がア・プリオ リで総合的であるとい うカン トの公式見解 に も関わ らず

,指

や点の直観 に訴 えることによ り

,算

術命題が経験的命題であ り

,従

ってア・ プリオ リでな くなる危険を冒している, とい う論点である。 とい うのは

,37863本

の指の直観が経験 か ら全 く無縁の純粋 な直観で はあ り得 ないだろうか らだ。10本 の指の直観す ら

,配

置の変化 によ り異 な りうる。だとする と

,そ

の ような

(5)

鳥取大学教育学部研究報告 人文 。社会科学 第48巻 第

1号 (1997) 23

直観が客観的基準 になるか?な りそ うもない。そ もそ も,135664個 といった多数の指 または点の直 観 を持 ちうるか

?持

てた として

,別

に37863イ固の指 または点の直観 と,173527個 のその ような直観 か ら

,証

明に代 わる

,上

の数式の正 しさの直観 による説明が どのようなものか

,明

らかではない。 第二の論点は

,カ

ン トが小 さい数の場合だけを考 えていて

,大

きい数の間の数式は考 えていなか ったようだ, とい うことである。確かに

, 7+5=12の

ような比較的小 さい数 を扱 う数式の説明で は

,指

や点の直観 に訴 えることが可能であろう。 しか し

,数

式 としては

,大

きい数 と小 さい数の場 合 を分 けることは意味がな く

,そ

もそ も

,

どこで大 と小 を分 けるか

,そ

の境界 も判然 としない。 この ようなカン ト批判がそれ自体 として的を射たものであるか

,あ

るいは批半Jの仕方は公平であ るのか, とい う問題は残 るか もしれない。 しか し, ともか く

,フ

レーゲにとつて

,数

式がそれ 自体 で証明の必要のない直観的 自明性 を持つ, とい う考 えは不十分 なものであった。 フレーゲにとつて 数式 も証明 されねばならない。そこで

,彼

は §6において

,数

式の証明が可能であるとする哲学者・ 数学者の説 を検討する。その代表 として

,ラ

イプニ ッツの

2+2=4

の「証明」 を以下の よう に引用する:⑭ 定義

:(1)2=二

十1

(2)3=2+1

(3)4=3+1

公理 :同 等 なものを [同等 なもので

]置

き換 えて も

,同

等 なままである。 証明

:2+2=2+1+1 (定

義(1)による)

=3+1 (定

義(2)に よる)

=4 (定

義(3)による) ∴

2+2=4 (公

理 による) フレーゲによれば

,こ

の証明は定義 と公理だけか ら導かれた ように見 えるが

,実

は括弧 の省略 によ る透 さ間が一行 日と二行 日の間にあって

,証

明 としては不備である。実際

,こ

こでの数の定義 によ れば,“

2+1+1"と

いう表現 は許 されず,“

2+(1+1)"か

(2+1)+1"が

許 されるだけ である。そ して

,定

義(1)と (2)に よって,

2+2=2+(1+1),

(2+1)+1=3+1

である。 よって

, 2+2=3+1で

あることを導 くには,

2+(1+1)=(2+1)+1

を示 さねばな らない。 これは

,加

法の結合法則 :

a十

(b tt C)=(a tt b)十 C の事例である。 よって

,透

き間のない証明は

2+2=2+(1+1)

=(2+1)+ユ

=3+1

=4

(定義(1)に よる) (加法の結合法則 による) (定義(2)による) (定義(3)に よる) となろう°)。 ここでのフレーゲの指摘の要点 は

,透

き間のない証明によって数式 を証明するために

,算

術 の一 般法則が必要である

,と

い うことである。証明が必要である, とい うことはその式 または命題が原 真理ではない

,

とい うことを意味す る。 フレーゲにとつて

,証

明は真理 を原真理 まで連 れ戻す こと

(6)

である。すると

,す

べての数式が証明で きるとい うことを示すためには

,何

が確認 されるべ きか, とい う問いが現れ よう。 まず第一 に

,す

べての数が, 1と,「 1だけ増やす」 とい う操作 とによっ て

,定

義 される必要がある。すなわち

, 2=1+1, 3=(1+1)+1,…

とい う形 で数の無限集 合 を確保する必要がある。 これを表現す る命題 としての定義 は一つの省略表現 を規約す る命題であ り

,一

旦その規約が承認 されると

,そ

の命題が論理的な分析命題 となることに問題はない。第二に, 数式の中の数表現が

,す

べてこの ような

,数

1と 1だけ増やす とい う操作か らなる表現 による定義 に置 き換 えることがで きる。例 えば,

2+2=4

1よ,

(1+1)十

(1+1)=((1+1)+1)+1

に置 き換 えることがで きる。そ して

,こ

の ような数式が数の一般法則 を使 って証明で きることを示 せばよい。す ると

,第

三に

,数

の一般法則が どの ように証明 されるのか

?数

の一般法則の身分 はい かなる ものであるか

,が

問題 として残 る。 フレーゲ自身の見解では

,数

の一般法則 も論理的に証明 される必要があ り

,こ

れは『算術の基本法則』 で実行 される。 しか し

,5基

礎』 第

1部

で は この間 題 に関 して も諸家の見解が吟味 される (『基礎』 §

9以

,本

稿

4以

下)。 それに向か う前 に

,個

々 の数 を経験的に定義 しようとする ミルのや り方が検討 される。

3.数

の 定 義 に つ い て の ミル の 見 解 の 批 判 前節で確実であろうことが示 されたのは

,数

式が個 々の数の定義 と数に関す る一般法則か ら証明 可能である

,

とい うことである。 しか し

,こ

れに関 しては 」

.S,ミ

ルが異論 を述べ ている。 フレ ーゲは『基礎』 §

7, 8で

,数

の定義 についての ミルの見解 を検討する。 フレーゲによれば, ミル も一見すると

,ラ

イプニ ッツ (およびフレーゲ自身

)と

同様 な個 々の数 の定義 を与 えることにより

,算

術 を数の定義の上 に基礎づ けようとしているが

,す

べ ての知識が経 験的であるとい うミルの偏見 によって

,そ

れが台無 しにされている, とい う (『基礎』 §7)。 フレ ーゲが引用 している『論理学体系』のある箇所0でミルは, 「各々の [自然

]数

,大

きさにおいてそれの次 に小 さい数 に一つの単位 を加 えることによ つて形成 されると考 えられる

,… J(括

[ ]に

よる補足 は田畑。以下 同様) と述べ る。 しか し

,同

時 に ミルは, 「他のいわゆる定義 と同様 に

,こ

れ ら [数の定義

]も

二つの ものか ら作 られ てい る

,す

な わち名前の説明 と事実の主張か らである。…数の定義 において主張 される事実は物理的事 実である。」⑩ 「 もしそ うしたければ

,わ

れわれは “

3は

2と 1である

"と

い う命題 を数

3の

定義 と呼 ん で もよい し

,幾

何学 に関 して主張 されたように

,算

術 は定義 に基礎づけられた科学である, と主張 して もよい。 しか し

,そ

れ らは幾何学的な意味で定義 なのであって

,論

理的な意味 では定義ではない。[それ らは

]用

語の意味 を定めているだけではな く

,

そ れ と共 に

,観

察 された事実 をも主張 している。」Qゆ とも述べ る。 ここで

,フ

レーゲにとって反論 さるべ きミルの議論の中心は

,数

の定義 の内容が

,言

葉の意味の定義であるのみならず

,事

実の

,そ

れ も観察 された事実・物理的事実の主張 をも含む, とい う論点である。 フレーゲにとって

,算

術命題の一つである数の定義の内容が経験 的事実の主張

(7)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第48巻 第

1号 (1997) 25

を含む

,

という見解 は

,算

術命題 をア・ポステ リオリな命題であるとい う結論 を導 くことになるゆ えに

,見

過 ごせ ないのである。 フレーゲは

,例

として ミルが続 けて述べている

,数

3の定義が含意 するとされる観察事実 を攻撃する。 ミルはこう述べ る: 「 こうして

,わ

れわれは “3は 2と 1である

"を 3の

定義 と呼んで よい。 しか し

,

その命 題 に基づ く計算 は定義その ものか ら導かれるのではな く

,む

しろそ こで前提 されている算 術的定理

,す

なわち

,対

象の集 ま りが存在 してお り

,そ

れ らは感覚 に 。

OOと

い う印象 を 刻 む一方で

,例

えば ∞

0と

いうように二つの部分 に分離 され もす る

,

とい う定理 か ら導 かれる。」t分 3の定義がそれに基づ くという事実が

OOOと

い う感覚印象 を与 えるものだ とす ると

,そ

れ らが釘 づけにされて固定 されていな くて幸いである

,な

ぜ な ら

,

もし固定 されて OO Oの印象 を与 える よ うな分離が不可能であれば

, 2+1は

3と はならないだろう

,

とフレーゲは皮 肉る。 また

,味

覚の 場合

,こ

のような視覚的印象 を与 えることはないか ら

,甘

さと酸 っぱ さと苦 さを3つの感覚 とよぶ こともで きな くなる

,

とも言 う (『基礎』 §7)。 数の定義の (内容〉が経験的事実の主張 を含む とすることに反論 した後

,フ

レーゲは

,こ

れ らの 定義の く正当性 〉に関 して も

,事

実の観察が不要であることを論 じる (『基礎』 §8)。 フレーゲに よれば

, 2=1+1, 3=2+1, 4=3+1,…

といった定義は

,こ

れ らがそれに基づ くとミ ルが主張す るような観察事実がな くとも

,正

当化 される。集積 と分離 を観察せず とも

, 3=2+1

と定義で きる。なぜ な ら

,こ

の定義が

2+1に

何 の意味 も与 えない訳ではないか らだ。あ らゆる数 の定義 において

,観

察 された事実の存在が必須の条件 だ とする と

,数

0は定義で きな くなる。誰 も 0個の小石 を見 たことがないか らだ。観察事実の要請 を拒絶す ると

,

ミルの考 え方では

, 0を

使 う 計算において

, 0が

何 の意味 もないただの記号であ り

,計

算 は意味のないゲームである

,

とい う結 論 に導かれることになろう

,と

フレーゲは考 える。 しか し

,フ

レーゲによれば

,そ

のようなことは ない。計算 は意味のないゲームではな く

,数

0に も重要な意味が与 え られ得 る (ただ し

,そ

の こと の本格的な考察 は『基礎』 の第

4部

で行われる)。 考えられる ミルの側か らの反論 は

,感

覚 によって対象の識別がで きなければ

,算

術 は不可能では ないか

,

というものであろう。 しか し

,こ

れは算術命題の真理性 に影響 を及ぼすかどうか とい う意 味での命題の正当性 に関する問いではない。む しろ

,算

術命題 の内容 を知 るために観察 を行 わねば ならないのではないか, という命題の内容に関わる問いである。 この ような問いが出されるのは, 算術命題

,特

に数の定義の内容 に感覚的・経験的内容が含 まれている

,

とい う前提があるためであ る。 ところが

,そ

の ような前提 をそ もそ も取 らないのであるか ら

,答

える義務か ら免れる, とい う のがフレーゲの応答であろう。

4.算

術 法 則 は帰 納 的 真 理 か? これまでの議論で

,数

式が

,個

々の数の定義 と数 に関す る一般法則 とか ら証明 されること

,

また 個々の数の定義が観察 される事実 を主張 しているのではな く

,そ

れ らの定義 自身の正当性のために 事実を前提 とす るので もない

,

とい うことが示 された

,

とフレーゲは考 える。そこで

,次

に考察 さ れるべ きことは

,数

についての一般法則の本性

,そ

れ らの身分 の問題 であ る。 フ レーゲ は ここで (『基礎』 §

9-10),算

術法則 を帰納 的なもの とみなす ミルを批判する。 ミルは

, 5+2=7の

証明が

,数

の定義 と,「等 しい ものの和 は等 しい」 とい う包括 的 な法則 に

(8)

よって な され る と主張 す る°'。 そ の証 明 とは

,以

下 の ような もので ある:

5+1=6

5+1+1=6+1=7

ところで

2=1+1

5+2=5+1+1=7

(数

6の

定義 による) (当該法則 と数7の定義 による) (数2の定義 による) (当該法則 による) この証明 も

,ラ

イプニ ッツの

2+2=4の

証明 (本稿

2)と

同様

,括

弧 の省略 による結合法則の 使用が見過ごされているが

,こ

こで問題 なのはその点ではない。 ミルは,「等 しい ものの和 は等 し い」 とい う法則が,「部分 か ら成 り立つ ものは

,そ

れ らの部分の部分か らも成 り立 つ」 とい う原理 と同等であ り

,こ

の真理 は帰納的真理であって

,最

高位の 自然法則である

,

と言 う。 このような位 置づけが問題である。 まず

,フ

レーゲは,「等 しい ものの和 は等 しい」 とい う法則 が

,

ライプニ ッ ツの「同等な ものを [同等 なもので

]置

き換 えて も

,同

等 なままである」 とい う公理 (本稿

2)の

代理物であることを指摘 し

,こ

れを自然法則 とは呼べ ない と主張する。一般 に

,算

術の法則が 自然 法則であると言 えるためには

,そ

れ らの真理が持 たない意味 をそれ らに付加せねばならない。 フレーゲは

,算

術 の真理 を自然法則 と呼ぶ ミルの見解が

,算

術 に現れる記号

,例

えばプラス記号 (十

)の

経験的解釈――物理的物体や体積の諸部分の全体に対する関係 を表現 したものとする解釈―― に裏打 ちされていることを指摘す る。

5+2=7は

, 2単

位体積の液体 を

5単

位体積の液体 に注 ぎ 込むとき

,7単

位体積の液体が得 られる,と い うことを意味す るのではない。そのような意味が与え られるのは

, 5+2=7と

い う算術 の真理が

,化

学的作用 により体積が変化 しない とき

,波

体 を混 ぜ合わせ るとい う操作 に応用 される場合である。 プラス記号は

,多

くの応用 において体積の合成 に 対応するであろう。 しか し

,そ

のことがプラス記号 に意味 を与 えるのではない。物理的物体の体積 に何 ら関係 しない別の応用 もあるか らである。例 えば

,出

来事の数 を数 える場合がそ うである。 ま た

,部

分 の全体 に対する関係 を

,

ミルの ように物理的物体 の間の関係 に限定することもで きない。 元首殺害 は殺害一般の部分であるが

,こ

れは論理的な従属 (10gische unterordnung)の 意味での, 部分の全体 に対す る関係 である。 よって

,加

法は

,一

般 に

,物

理的関係 に対応することはな く

,加

法の一般法則 も自然法則ではない。(『基礎』 §9) 算術法則が 自然法則ではない として も

,

ミルが主張す るように

,帰

納的真理であるとい う可能性 は残 る。そこで, フレーゲはこの問題の検討 に移 る (『基礎』 §10)。 もし加法の結合律 の ような算術法則が帰納的真理であれば

,そ

れの持つ一般性 に到達するにはど の ような事実か ら出発すべ きか ?こ の出発点はおそ らく数式であろう。 しか し

,数

式は

,個

々の数 の定義 と数の一般法則か ら導かれることがすでに示 された。すると

,こ

れは循環 に陥ることになる のではないか?なぜ なら

,帰

納 によって数の一般法則 に到達す るための出発点である数式が

,再

び 数の一般法則 に依存 しているか らだ。 この循環 を一旦断ち切 り

,数

式が数の一般法則か ら導かれる ことを無視 し

,数

式か ら一般法則が帰納 されるとい う側面だけを考察 しよう。 この場合 にも

,フ

レ ーゲによれば

,帰

納が成 り立つ基盤がそ もそ も欠けていることが指摘で きる。その基盤 とは

,数

と い う同一の類 に見 られるべ き斉一性 (Gleichfbrmigkeit)で ある。 フ レーゲは

,

それ に関連 す るラ イプニ ッツの言葉 を引用する°ゆ: 「そのこと [斉一性 を持つ こと

]は

,時

間や直線 については言えるが

,

しか し

,

図形 につ いては決 して言い得 ない し

,ま

して

,単

に大 きさにおいて異 なるのみな らず類似性 も無い 数の場合 は

,な

お さら言 えない。偶数は

,二

つの同一部分 に分割 され得 るが

,奇

数 はそれ がで きない。 3と 6は三角数であ り, 4と 9は平方数であ り

, 8は

立方数である

,等

々。

(9)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第48巻 第

1号 (1997) 27

そ して, このことは

,図

形 において よりは

,数

において一層 よ く生 じる。 とい うのは

,同

じでない二つの図形 は互 いに完全 に類似 し得 るが

,

しか し

,二

つの数はそ うはな らないか らだ。」 われわれが

,数

を同種の もの として扱 うことに慣 れ

,そ

れ らの間に斉一性があると思い込みがちで あるのは

,数

の一般法則 を多数知 っていることに起因する

,

とフレーゲは言 う。空 間の点

,時

間の 各瞬間は

,そ

れ 自体 として

,差

異や特徴 を持つ訳ではな く

,条

件が同 じであれば

,他

の場所

,他

の 時間において も

,そ

れ らの間の法則 はいつで も成 り立つ。つ まり

,そ

れ らの間に斉一性が成 り立 っ ている。 しか し

,個

々の数の場合 は

,そ

うではない。数は時間・空間において存在するのではな く, 数列 におけるそれ らの位置は

,空

間における位置 とは価値が異 なる。従 って

,帰

納法が成 り立つた めの基盤である数の間の斉一性の欠如 によって

,数

の法則 を帰納 によって得 ることの正当性 は見出 せない。 それでは

,数

の一般法則 はどの ように して得 られるのか ?こ こでのフレーゲの示唆 (あくまで示 唆に留 まるものであるが

)は

,数

の回帰性 (recurttveness),すなわち繰 り返 す とい うこ と

,

に注 目することである。数の諸特性 は

,個

々の数の定義

,す

なわち

,数

1と 1だけ増やす とい う操作 の 繰 り返 しによ り与 えられたか ら

,そ

の ような繰 り返 しに基づいて導 き出される筈である。 よって, 数の一般法則 について も

,す

べての数 に共通するような数の創出方法に基づいて証明 されるであろ う。 いずれにせ よ

,数

の一般法則が帰納 的な真理ではないことが以上の考察 において示 された

,

とフ レーゲは考 える。そこで

,彼

,哲

学的動機か らの算術命題の身分への問い

,す

なわち

,算

術命題 が分析 的か総合的か

,ア

・プリオ リかア・ポステ リオリか とい う問いへ と向か う。 5日 算 術 法 員Jは 総 合 的 で ア・ プ リオ リか ? フレーゲは [基礎』第1部の最後の数節 (§

12-17)で ,算

術命題の哲学的位置づけの問題 に向 か う。二種類の対立項

,す

なわち分析的 と総合的お よびア・プ リオリとア・ポステ リオリを組み合 わせると4つの組み合わせが生 じる。その うち

,

く分析的でア・ポステリオ リ〉 とい う組合 わせは 在 り得 ない。命題が分析的であれば

,そ

の証明は定義 と論理的一般法則 に しか依存 しないが

,そ

れ らは経験的な事実 とは無関係 だか らである。 また

,

ミルの見解が否定 されたこ とに対応 して,〈総 合的でア・ ポステ リオリ〉 とい う組合わせ も算術法則 には相応 しくない。従 って

,残

る組み合 わせ は

,(総

合的でア・プリオリ〉 と く分析的でア・ プリオ リ〉である。 この うち

,

フ レーゲ に よる分 析性の定義 に従 うと

,あ

る命題が分析的な らば必ず ア・ プ リオ リであるか ら

,フ

レーゲは後者の組 合わせ を く分析的〉で代表 させ る。す ると

,問

題 は次の ように整理 される: 算術法則 は総合的でア・プリオ リか

,そ

れ とも分析的か? フレーゲは §

12-14で

,算

術法則が総合的でア・プリオリではない ことを示 そ うと試みる。 フレ ーゲの戦略は

,

もし算術法則が総合的でア・プリオリならば

,カ

ン ト(そしてこの説 を支持す る大 部分の論者

)の

見解 によれば

,そ

の認識根拠 として直観 を考えねばならないが

,そ

の根拠が算術の 基礎づけには不適切であることを示す ことで

,間

接的に

,算

術法則が総合的でア・プリオ リである ことを否定する, とい うものである。彼 は数

,あ

るいは一般 に量 (Gr6らe)とこ直観 はな じまない, とする。 カン トは直観 について

,[論

理学』でこう定義 している: 「直観 とは個別的表象であ り

,概

念 とは一般的 または反省的表象である。」°ゆ

(10)

そ して, カン トによれば

,感

性 な しでは直観 は働 かない。 随屯粋理性批判』 でカン トは述べ る: 「感性 によつてわれわれに対象が与 えられるだろう。そ して

,感

性 のみが われ われ に直観 をもた らす。」(山 だ とす ると

,例

えば100,000を直観 と呼べ ることになるが

,こ

の意味での直観 は算術法則 を基礎 づけることはで きない

,と

フレーゲは言 う (『基礎

12)c フレーゲは

,幾

何学の一般命題が直観 か ら得 ら、れる点 についてはカン トお よびライプニ ッツと見 解 を同 じくする。 しか し

,算

術の場合 はそうではない。幾何学の対象である点

,線

,面

といった も のは個別的な ものではな く

,そ

れ 自体 で類の代表 となる。それゆえ

,そ

れ らの表象の直観がその ま まそれ らに関する一般命題 を基礎づけることがで きる。 しか し

,数

の持つ特徴 は個別的であ り

,そ

れ らの表象の直観は数の一般法則 を導 くには多様す ぎる。 §

13,14で ,フ

レーゲは直観 に関連 させ て幾何学 と算術 の相違 をこう述べ る: 「幾何学的点は

,そ

れ 自体で考察 されるとき

,

どんな他の点 とも区別 され は しない。 同 じ ことは直線や平面にも当てはまる。……幾何学 においては

,一

般命題が直観か ら得 られる 場合

,そ

のことは以下の ことか らも説明がつ く。すなわち

,直

観 された点

,直

,平

面 は 本来

,決

して個別的な ものではな く

,そ

れゆえ

,そ

れ らの類全体 の代表 とみなされ得 る。 数の場合 は

,事

情が別である。各々の数は

,そ

の特徴 を持 っている。 どの程度 まである一 定の数が他のすべての数 を代表で きるのか

,

どこでその特殊性が有効 な もの とされるのか を予め言 うことはで きない。」(『基礎』 §13) フレーゲによれば

,ど

んなに空想的な物語 を考 えようとも直観 に留 まるか ぎり

,わ

れわれは幾何学 (ユークリッ ド幾何学

)の

公理 に縛 られる。概念的思考 だけが

,例

えば

,四

次元空 間や正 の 曲率 の 空間を仮定 して

,あ

る程度

,幾

何学の公理か ら自由になる。そ して

,概

念的思考 によつて

,幾

何学 の公理 に反す る

,つ

まり直観 に反す る命題 を仮定で き

,

しか も

,そ

れによ り矛盾 に陥 らない。 これ は幾何学の公理が相互 に独立であ り

,そ

して論理の法則か らも独立であることを意味する。 しか し, 数の理論 の基本命題 については

,こ

の ようなことは言えない。 もし

,算

術 の基本命題 に反す ること を仮定すればすべてが混乱 に陥 り

,そ

もそ も思考することさえで きないだろう。 フ レーゲは

,算

術 の基礎 は他のすべての科学 より深 い部分の基礎 を形作 つている

,

と考 える。それは

,人

間の思考そ の ものに関わる。 フレーゲは

,算

術 と思考 との関わ りをこう説明す る: 「算術 の真理は

,数

えうるものの領域 を支配す る。 これは

,最

も広範囲 な領域 であ る。 と い うのは

,現

実的な ものや直観的なものばか りがその領域 に属する訳ではな く

,す

べ ての 思考可能なものがその領域 に属するか らである。従 って

,数

の法則 は思考 の法則 と最 も緊 密 に結 びついている筈ではないか?」 (『基礎」 §14) 算術の真理がすべての思考可能な ものを支配するとすれば

,そ

れは特殊科学の真理であると考 える ことはで きないだろう。すなわち

,算

術の真理は総合的ではな く分析的である と考 えねばならない。 こうして

,フ

レーゲの議論は

,直

観が算術 を基礎づけることの不可能性 を示 して

,算

術法則 の総合 性 を問接的に否定することか ら

,算

術が思考 と関わることを示 したことで

,算

術法則 の分析性 を直 接に問題 にす る方向へ と踏み出す。

6,算

術 法則 の分 析性 とその評価 『基礎』第 1部 の最後の三節 (§

15-17)で

,フ

レーゲは

,算

術の真理 (数式 と法則

)と

が分析

(11)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第48巻 第

1号 (1997) 29

的である, とい うことを支持するライプニ ッツの議論 を補強 し

,

ミルの反論 を批判 し, 自らの議論 を展開する。 ライプニ ッツは不十分 なが ら

,数

の法則が分析 的であることに気づいていたようである。 ライプ ニ ッツにとって

,ア

・ プリオリであることと分析性 は一致 し

,ま

た彼 は

,代

数は論理 という高度 な 技術か ら利点 を得 ている, と考 えていた。 ライプニ ッツは

,必

然的真理である算術の真理 は証明 さ れるか, または同一性 に遠元 される, と言 う。 しか し

,他

方で

,ラ

イプニ ッツはすべての真理の証 明可能性 を考 えていたようであ り

,こ

れが彼の分析性の捉 え方 を一面的な ものに している

,

とフ レ ーゲはみなす。数の科学の成長 を考えると

,単

なる同一性 に根 ざす と見 ることは困難であ り

,論

理 の形式がそのような豊かな内容 を生み出 したことの説明が十分ではないか らだ。 ミルの帰納 による算術法則の基礎づけ とい う見解 において

,彼

の論点の中心は

,算

術法則が経験 的事実 によ り支持 されるという点である。 もしその ような支持がなければ

,

ミルによれば

,数

学者 は空虚な記号のゲームを為 しているにす ぎないことになる。 しか し

,そ

の ように考える必要はない, とフレーゲは反論す る。数学者 は記号で もって

,何

か感覚的に知覚可能な ものや直観的な もの を理 解 していな くとも

,計

算 を実行で きる。 よって

,知

覚可能な内容 を記号 の意味に盛 り込む必要 はな く

,別

の応用 によ り別の内容 を盛 り込 むことが可能である。応用 と本来の意味 とは異なるのである。 それでは

,数

法則の分析性 はどの ようなものであ り

,経

験的事実 との関係 はどのように捉 えられる のか? フレーゲが考 える分析性の形式 は

,結

論 を当の算術法則 とす る推論系列である。それはある思考 系列である。結論 である算術法則 に

,応

用 とい う場面で経験的事実の意味が含 まれているな らば, そのような事実 を成 り立 たせ る前提は

,そ

の内容 を推論の条件 として

,結

論である法則 に随伴 させ る。 こうして

,思

考系列 においてすべての事実の前提 を条件で置 き換 え

,帰

結が条件の系列 に依存 するとい う形で結論が導かれる。 この真理は

,事

実その もの とは切 り離 し

,思

考 のみ によ り,「 言 語の技術」(ミルの言い方

)だ

けにより根拠づけ られる。数の法則 はこの ような類 の真理 と して捉 え直す ことがで きる。 この とき

,数

の法則 は分析判断 となる。なぜ な ら

,推

論の出発点は思考の法 則 としての一般的論理法則かまたは定義であ り

,事

実 (または特殊 な領域

)と

の結び付 きは

,条

件 つ きの法則 とい う形で結論 に随伴するか ら

,そ

れ らが証明の根拠 とはな らないか らである。 この分 析性 は

,真

理の相互の依存 関係 に光 を当てることに貢献す る。 こうして

,算

術の真理は

,将

来の使 用のための全推論系列 を圧縮 された形でそれ自身の中に含 む。一旦

,証

明がなされたな ら

,

もはや 個別的な推論 を行 う必要はな く

,全

系列の結果 について述べ ることがで きる。 これ らが

,推

論系列 という形 に分析 された数法則 に与 えられた利点であ り

,純

粋論理の不毛 さとい う根拠のない先入見 の反証 となるものである。 フレーゲは算術法則の分析性 をこの ような形で考 え

,そ

れを以上の よう に評価 した。 ここで

,暫

定的な結論 を述べ よう。 フレーゲは

,諸

家の見解 を批判的に考察することによ り

,算

術命題の分析性 を

,言

わば間接的に示 した。算術命題 の うち

,個

別の数 を扱 う数式は直観的に明 ら かなのではな く

,個

々の数の定義 と数の一般法則か ら証明 されねばならない。他方

,数

の一般法則 は

,数

概念の論理的定義 と論理の一般法則か ら導かれる筈である。 これが

,技

術 的な側面 も含 めて 詳細 に実行 されるには,『算術 の基本法則』 を挨 たねばな らない。われわれが本稿 で検討 した 『算 術の基礎

J第

1部

においては

,そ

れの準備 として, 自らのプログラムの哲学的動機 に光 を当ててい る。特 に

,カ

ン ト

,

ミル

,ラ

イプニ ッツといった哲学者 たちの見解 との対比 において

,算

術命題 の

(12)

位置づけに関する彼 の独 自な観点 を出そ うと努めている。先行の論者の批判 を主な目的 とす るこの 第1部では

,そ

れ らの観点の十分 な展開は抑制 され示唆 に留 まっている もの も多いが

,そ

れ らを押 さえてお くことは

,以

後の『基礎』第

4部

での具体的な展開への必要な一段階であったのである。

(1)『算 術 の 基 礎 』 の テ キ ス トと して は,Gotdob Frege,D力 G7tB′t,ι昭 卵 」″ 力Ztケ lJrtt加″,EカヮJtttsr力 tttαサカゼ切αサlsrル L/JDttrs,♂力″″ξ,b97'珍″BOFγケア 'Oγ

Za力 け, Mit ergan2enden Texten kritisch herausgegeben von Ch stian Thiel, Felix

Melner(1986),お よ び オ ー ス テ イ ン に よ る 独 英 対 訳 本 で あ る, G.Frege,T力θ 局 "″どα歩

lο″sげ A務力,η¢ケぢθ,

Translated by J. L. Austin, 2nd rev.ed Northwestern U. P.(1953)を 用いる。

(2)以下の記述は,Joan wdner,同西Gβぢ″脆7Sp?加υ?,cOrndl U.P。 (1990)の Part.Iの

1,特

に 24-26買 に負 う。

(3) ・Lorsque les valeurs successivement attribuё es a une mome variable s'approchent indё finiment d'une valeur fixe,de maniSre a finir par en differer aussi peu que l'on voudra,cette derniSre est appe16e la linite de toutes les autrcs."

この定義は

,働

"終J ИrtOljlsθ β?,TじοJ夕Rり,J¢乃妙ケπ力rtt?"θ (1821)の Prこlim血 res(以 下の復刻版の4頁

)に

る。 この 『解析学教呈』 と呼 び慣 らわ され る書 物 は全 集 Oθ″υ″sじο″ 診彪

d凸

傷烈sサカ

,働

″じlty,Sごr.1,12 vois.:S`r。2,15 vЫs,Paris(1882-1974)のSer.2の31こある。テキス トとして は次 の復刻版 を用 いた

:A.L.

Cauchy,/4rtattS,Algι b万 ?"¢,Gabay(1989)。

(4)Cf. MOrris Kline,れ

肋♂切,サlθα,T力ο″ξ力歩/79初A″じ│¢″ナんMοど9/r,TI,″?s,OXfOrd U P,(1972),p.952.

(5)分析的 と総合的,ア・ プリオリとア・ポステリオリという伝統的な哲学用語 をここで使用することに関 して, フレーゲは,これ らに新 しい意味 を付与 しようとす る意図はな く,これまでの著述家

,特

にカ ン トが これ らの 言葉によって考えていたことを正確に言お うとしているにす ぎない, と『基礎』 §3の 脚注で断っている。 (6)フレーゲが ここで (『基礎」 §5)'1用しているのは,『純粋理性批判』の

I:先

験的原理論 第二部 門 :先 験 的論理学,の第一部 :先 験的分析論,第二篇:原則の分析論

,第

二章 :純粋悟性のすべての原則 の体 系, 第三 節 :純 粋悟性のすべての総合的原則の体系的表示

, 1.直

観の公理,の部分で あ る (Immanuel Knnt,I万 励 力γ Rο加¢″脆狗η閉几 B204-205,hrsg.I.Hddeman■ ,Reclam(1966),S.240,邦 訳:カン ト/篠田英雄訳 『純粋 理性 批判』岩波文庫,239頁)。 ここで, カントは,「ある ものが どれ くらい大 きいか」 とい う問いの答である量 につ いての命題が総合的命題で, しかも直接に確実 (unmtttdbar gewiら

)で

ある,つまり論証 で きない ものであ る lndemonstrab a)が公理ではないぅと述べ る。 また,「等 しい量 に等 しい量 を加えればそれぞれの和 は等 しい」 といった命題は分析的命題であって,これ も公理ではないぅという。 カン トにとつて, 「公理は,ア・プリオリな総合的命題でなければならない。これに反 して

,数

的関係 を表 わす明 白な (e dent)命題 は

,確

かに総合的命題ではあるが, しか し幾何学の命題のような一般命題ではない, ま さにそれ故 に,この ような命題は公理ではな く

,数

式 と呼ばれてよい。例 えば

(7+5〒

12)と い う 命題 は

,分

析的命題ではない。 というのは

,私

は7の 表象においても, 5の表象において も, あ るい はこの両数の合成の表象においても

,数

12を考 えることがで きないか らである (私が この両数 の加 法 において

,数 12を

考 えて然るべ きだ,とい うことは,ここでは問題にならない。 とい うのは

,分

析 的命題の場合は

,私

が主語の表象において実際に述語 を考 えているか どうか, とい うこ とだけが 問題 だか らである。)」 (篠田訳 を一部改変

,強

調 は原文) ここで,フ レーゲ とカン トにあっては

,分

析性や証明可能性 に関する基本的な見解の相違が存在す る こ と, に 気づか ざるを得 ない。数式が「明白である」 または「直接 に確実である」ゆえに論証で きない 。証 明で きない とする点で, カン トの見解はフレーゲのそれと基本的に異なっている。 しか し, カン トは,「直接で確実である」 ことの根拠をこの箇所では明示 していないように思える。むしろ,こ こでは

, 7+5=12と

い った数式が総合 判断であるとい うことが論点である。そ して

,総

合判断であるとする根拠は

,数

7の 表象に も

,数

5の表象 に も,両数の和

(7+5)の

表象にも,数12の表象が含 まれないことである。括弧の中でカン トが付 け加 えて い ること,すなわち「両数の加法

7+5に

おいて12という数を考える」 ということに,この数式 を証 明可能 とみ なす というフレーゲの見解への接近の可能性が見出 されるが

,結

局,「主語の表象に述語の表象が含 まれるか否

(13)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第48巻 第

1号 (1997) 31

か」 という基準の外にカン トは出なかったようである。従 って,カン トにとって

, 7+5=12が

「 直接 に確実 である」 ということの根拠は別に求めざるを得ない。それは「直観」である。『純粋理性批判』緒言のV「理性 に基づ く一切の理論的な学にはア・プリオリな総合判断が原理 として含まれている」(Kant,op.c比

.B1516,s

64,前 掲邦訳70頁

)で

は,こ う述べ られる: 「12の概念は,私が 7と 5の 結合を考えるだけで,すでにそれによって考えられているというわけには いかない。.…・・ところで, この両方の数の一方 に対応する直観 (Anschauung),例 えば

,五

本の指 , あるいは (…

)五

個の点 とい うような直観 に頼 って,この直観において与えられた五個 の単位 を 7と いう概念に一つずつ順 に付け加える場合は, 7と 5という両方の概念の外 に出なければな らない。 と い うのは, まず数 7を 取 り,それか ら, 5の概念の代わ りに直観 としての私の手 の五本 の指 に頼 るこ とにより

,数

5を 構成す るために予め纏めておいた五個の単位 を,その私の像 を用 いて順次 に数 7に 加えてい くと,こ こで数12が生 じるのが判 るか らであるc」 (同) 結局,ここで

7+5=12

とい う数式が「直接に確実である」ことの根拠は

,直

観 に明 らか と思 われる指 の 表象を一つずつ具体的に足 し合わせる, という操作の結果である。概念を分析 して も

, 7+5か

ら12は出て来 ない。すなわち (Kant,op.c■.s.65): 「 7に 5が加 えられねばならぬ とい うことを,なるほど私は和

(7+5)の

概念において考えたが, し か し,この和が12に等 しい とい うことは考 えなかった。従 って

,算

術命題 は

,常

に総合的命題である。」 (同) 概念的思考では

7+5=12の

「直接 に確実である」 ことが知 られないが

,表

象 を用いた直観で は明 らかであ る, とするカン トの主張に対 して,フ レーゲは以下の議論で

,直

観 に明 らか とは思 えない「大 きな数」 を用い て反論する。 しか し,カ ン トは,むしろ大 きな数の方が 自らの主張 を支持する, と言 う (Kant,op.dt s,65): 「 このこと [算術命題の総合性

]は

何か もっと大 きな数 を使 ってみればいっそ うはっきりする。実際, これら両数の概念をい くらひね くり廻 したところで

,直

観 を援用 しないか ぎり, これ らの概 念 を分析 するだけでは,その和 [が何であるか

]が

決 して見出せ ない, とい うことは明 らか に納得 され るか ら だ。」(同) (7)Dぢ♂PttJοdψttsじ力ι″SθЧ ヽ夕″υο″G. VツそLttb″拷,5,hrsg.von C.J.Gerhardt,Berlin(1882);Nachdr,Olms(1978), s394,(邦訳:ライプニ ッツ『人間知性新論』米山優訳,みすず書房(1987),419-20頁) (8)も う少 し細か く言えば

,①

一般法則から数式を導出することを許す代入操作が前提 されていなければな らな い し

,②

証明の第一行 日は

, a=aと

い う (論理の

)一

般法則か らの代入例

:2=2に

,「公理Jとよばれてい る同一性の推論規則

a=b, F(a).・

.F(b)を

適用 して導かれたものとしな くてはな らず, さらに③ 結論 を出す ときの「公理Jの使用 において,

a=b,b=C .・

,a=C

という規貝1を適用 しているが,これ も公理,つま り同一性の推論規則か ら導かれる。 フレーゲは 『算術 の基 本法 則』では, もちろん,これ と同水準の厳密 さを保持 している。

(9)JOhn stuart Mll,/1S7d彪″ げLοどぢひ珀 ποじ万η,万υ¢I144」力,ク♂廃υヮ,Bcttg α C"ν♂歩ぢυ?ン79ν げ ナカσ Pγttσ tP,¢SげEクづJ効♂″ α″JケルAな射力ο,sげSθげ♂″ナ

"ひ

rttυ¢sォをαケぢο″,」.M.Robson(ed,),働 ιJ♂θ歩¢Jン,石9カs9/ヵ力η Srtt,何νJJι,vol.Ⅶ,University

of Toronto Press(1974),BOOk Ⅲ,ch.xxiv,§ 5,p.612. (10 J.S.Mill,Op.cit.p.610,

(11)」.s,Mill,Op.cit Book Ⅱ,ch. ,§2,p257. l121 J. s. IIIIi■ ,Op.cit,p.257

(19 J.s Mill,Op cit Book Ⅲ,ch.x v,§5,p.610。

tO

フレーゲはバ ウマ ンの本 (Ballmann,DぢヮL力鞄″υοη力 班P,″物TItt'3イαォルttt,ケぢ々,Berlin(1868))に引 用 して あ

るライプニ ッッの 言葉 を孫 引 き して い る よ うで あ るが, ラ イ プニ ッッの オ リジ ナ ル の箇 所 は以 下 で あ る:

Leibnし,op.dt.L .Ⅱ,ch.xvi,§ 5,p.143.(邦 訳:ライプニッソ『人間知性新論』128頁

)本

文の翻訳は, フレ ーゲの F基礎』のテキス トの ドイツ語から筆者が訳 した。

15) “Die Anschauung ist eine einzeine VorsteHung (repraesentatio singularis), der Begriff eine allgemeine

(repraesentatio per notas communes)oder reflektierte Vorstellung(repraesentatio discursiva)"rT″ η,,ヶ,ιワι【α″偽

(14)

(10 “Vermittelst der SinnLchkeit also werden uns Gegenstande gegeben, und sie a■ ein hefert uns

参照

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