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生態系学の進展をめぐって : 経済学への提言も併せて(水地宗明教授退官記念論文集)

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生態系学の進展をめぐって

一経済学への提言も併せて一

主  一

1.生態系概念の歴史的発展  “生態系(ecosystem)”という言葉は生態学における1つの術語であるが, その言葉が出てくる歴史は,生態学における全体性概念の発展史そのものであ ると考えることができる。そのあらましを述べよう。  もとより人類はその食糧を得るために,自然の生物の生活のありさまを知る 必要があった。どこに何時頃行けばウサギが出てくるか,それをとるのにはど うすればよいか,といった知識は生きていくためには必須のものであった。こ の段階では,生物の“個体(individua1)”に関する知識が中心となっていた。  個体はもちろん,全体性を強く備えた存在である。全体性があるとは,その 存在が自律性をもって,すなわち何らかの自己完結性をもって,周囲と区別さ れて保たれていることが必要である。従ってその存在は界面をもち,その界面 の内と外の存在を律する法則が異なっている場合に言い得ることである。もち ろんこの界面は,絶対的に閉鎖されていることは無く,ある種の物質やエネル ギーは通過する,いわば半透性(semipermeable)である必要がある。そうでな ければ,そのような全体性を備えた生物は,やがて崩壊してしまうであろう。 例えばウサギの存在を我々は明瞭に認めることができる。周囲の境界がはっき りしているからである。しかしこの境界は機能的に半透性で,例えば酸素分子 は外の空気中から体内に入り,その物質代謝の過程に入る。今まで空気中にあ ったものが,一瞬間後には体内の細胞に行き,代謝過程を経て,体の物質を作 り,今まで体を作っていた酸素分子は一瞬間後では炭酸ガスとなって体外の空 気中に出て行く。この過程を一瞬間たりとも止めることは,すなわち個体の崩

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2   水地宗明教授退官記念論文集(第287・288号) 壊,死を意味する。  このような認識は,実は生態系概念の理解にぴたり通ずるのであるが,それ は後で詳しく述べることにして,ここでは生物の全体性とはどういうものかと いう簡単な説明に止めて,先きに進みたい。  さて18世紀後半からの産業革命に象徴される人類の英知の前進は,生態学に おいても次の全体性概念を生んだ。それが経済学でも有名な,かのT.R. Malthus(1798)によって行われた。その著「人口の原理」で述べられた原則“人 口は,制限せられなければ,幾何級数的に増加する。生活資料は算術級数的に しか増加しない”(高野・大内訳)は,人口(population)という1つの全体性 を具えた存在の動きをあらわしたものとして,注目すべき発言であった。この 本についてはいろいろの批判はあるとしても,個体の集りの“個体群(popula− tion)”が1つの全体としての動きをする存在であるとした点は,偉大である。 これがやがて,A. Quetelet(1835), P. F. Verhulst(1938)と続いて,個体群 生態学の誕生へと進むのである。彼等が個体群を1つのまとまりをもった全体 的存在として認めたことは,Verhulstが人口増加率を,ロジスチック式(logis− tic equation)と自から呼んだ式であらわしたことに明瞭にあらわれている。  ロジスチック式とは:

    dN

      ==N(r−hN)一・・一…・一一・一・・・…一一…一一一…一一・…・一・一・(1)

    dt

     1>:人口(個体数)      t:時間      r:内的自然増加率(intrinsic rate of natural increase)        個体群が,他に障害がない時,固有に持つ増殖力をいう。      h:環境抵抗係数(coefficient of environmental resistance)

つまり人・(個体数)は,響尋で増えよう・す・が増え・に従・て次

1)この式が意味するところを説明するには,次の例がよい。大腸菌は,条件がよければ, 15分ごとに2分裂する。1gの大腸菌がこの速度で増殖すれば,1日後には79×1027gにな る。地球の全質量は6×1027gであるから,途方もない重さとなることが分かる。現実にこ のようなことはあり得ないので,ロジスチック式が生れた(瀬戸冒之,1992,による)。

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第に環境の抵抗が大きくなり,個体数の増え方は少なくなり,ついにある一定 の個体数に至って増加率は停止する,というのである。        r  今く1)式でh=          とおくと,

       K

    glti)L== rN (i一一fS) …一一一……一……・…一…・一…一…・……一(2)  この②式のKは,ある環境において,ロジスチック式で増加する個体群の個 体数の極限を示したもので,環境収容力(carrying capacity)と呼ばれる(第 1図)。つまりある地域に棲む生物個体群は,数が増えれば(密度が増大すれ ば),増殖力に制約が加わり,それが次第に強くなり,ついに生長が止まるとい う現象があり,これを密度依存現象(density dependent phenomenon)と言っ ている。この現象は個体群の全体性を示すものと考えられ,自然において具体 的に実証された例は多い。

N

K

  dN

  =1’=一’ =:rN

Ei,

糊}Nq一艶

      t       eg 1図 個体群の生長曲線の模式図  ところで実は上式の理論は,その発表当時は世人の注目を引くことなく眠っ ていたが,1922年R.Pearlによって再発見され,脚光をあびることになった。 そこで(1)式のhを,Pearl−Verhulstの係数と呼ぶことがある。  この個体群の生長式は,生物自体の増殖能力と環境(生物環境+非生物環境) の作用とが合一した結果として生まれるものであることは,注目を要する。現 実の生物個体群の存在は,生物自体と環境との統一に依って実現されることは,

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4  水地宗明教授退官記念論文集(第287・288号〉 実は生態系的概念の提示そのものであるが,この件についてふれることはこれ 位にして,全体性に関する歴史の流れを進めて追ってみたい。  以上のように,個体から個体群へと,全体的まとまりを持った生物界の現実 存在の認識が複雑になっていく過程を見てきた。しかし全体性と言っても,個 体と個体群では内容が多少違う。個体群とは,ある種の個体の集合体を言い, その生長は前述の密度依存現象に見るように,ある一つのまとまりをもって実 現されているが,その境界は個体のように明瞭でない。どこまでが1つの個体 群で,どこから他の個体群になるのか,必ずしも明瞭でない。ということは, その自律性の程度も,個体ほど確立したものでないということである。  しかし生物的自然における,多少に拘わらず全体性を具えた存在の認識はさ らに進む。1859年C.Darwinは例の有名は「種の起原」において,生物の生活 が複雑な網目のように結び合わされ,相互に制約していることを指摘した。し かし彼はその網に対して特別の名は与えなかった。これに術語を与えたのが,        2) K.M6bius(1877)である。  彼はカキの集団を調べた。カキは岩礁に生育するだけでなく,春泥底にも多 数集団をなして生育し,このような集団をカキ床(oyster bed)と呼んでいる。 彼はこれを底引網で取り上げて調べ,その上に多数の植物が生え,カキはツヅ ミモ類やケイソウ類を食物として取っていることを知った。すなわち各々のカ キ床は,生物のいくつかの種や個体の集合体として存在する。すべての部分は 関連した,多少とも相互調整する単位としてある,と考えた。彼はこの生物集 合体は十分に学問の対象として取り上げる価値があるのに,今まで取り上げら れていなかったとして,Bioc6noseと名づけた。またこのBiocdnoseは,物理 的要因や人間の作用で大いに変化させられるとも述べた。この生物集合体 Bioc6noseの認識が,今日いう“群集(community)”の始まりである。  この群集の段階になると,個体群よりもさらに境界がはっきりしなくなる。 2)ただし植物だけに関しては,先駆的な芽はある。A. von Humbolt(1807)はassociation  (群落)という語を用い,A. H. R. Griesebach(1838)はformation(群系)という語を 用いたが,これらは要するに植物の種個体群の集りに対して用いたのである。

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しかしその構造と機能は,食う食われるの関係一食物連鎖関係一と,食物や棲 み場所などという同じものを生活のために要求する個体群間の関係一同類関係 一の2つの関係の結合として理解される。前者は群集内部の縦の関係,後者は 横の関係とも言われ,生物の個体や個体群は,この2つの糸に結ばれた網目の 結節点に位置していると考えられる。このような構造や機能について,群集が まとまっていく,あるいはそれが変転していく上でのいくつかの法則,あるい はそれに類するものが論ぜられているが,それらについては今は述べない。た だ群集もある種の全体性をもった生物の存在様式と考えられるようになってい ることを述べるに止めたい。  以上,個体から個体群,群集へと,生物の存在様:式としての全体性の認識の 発展について述べてきた。そして全体性を持った存在としての確立度は,個体, 個体群,群集と進むにつれて,減少してきていること,つまりこれら存在の相 互の境界は次第に不明瞭になってくることについてもここで述べておきたい。  歴史はさらに進展して,今度は別の次元の要素も加えて,全体性認識が深ま っていくことになる。それは,“生態系(ecosystem)”の認識である。  1887年S.A. Forbesは,「The lake as a microcosm」という論文を書いた。 彼はその中で,湖に棲む動物や植物が調和ある群集を作って,いわば小宇宙の ように生活していること,およびそれらの群集の状態が湖の種類が違えが異な ることを主張した。彼はDarwinやH. Spencer(1874)の著作に刺載されて, 群集内の食物連鎖の研究を始め,自然の平衝の考えを持つに至った。複雑な食 物連鎖関係と競争関係(つまり同類関係のある部分)が,群集の調和をもたら すと考えたのである。彼の調和ある群集の存在を主張する態度は,M6biusより も明確である。ただし生物群集と非生物環境を加えて一体的存在として認める (そこまで言えば生態系を主張することになるが)とまでは明確に言っていな い。その意味で彼の論文の表題のmicrocosmというのは,それぞれの湖の中に はそれぞれの調和群集があり,それぞれ小宇宙を作っている,という位の意味 である。湖そのものを一つの全体的存在として主張するものではないようであ る。この点で,彼の主張は,M6biusの段階から次の発展段階である生態系その

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6   水地宗明教授退官記念論文集(第287・288号) ものの主張に至る中間段階にある,と言うべきであろう。  1927年K.FriederichsはHolocoenという概念を言いだした。これは生物群 集と非生物環境は一体となって存在しているもので,この存在をHolocoenと 言ったのである。これに続いて1935年A.G. Tansleyはecosystemという概念 を主張した。その内容は上記のHolocoenと似たものであるが,今日生態学では 世界的にecosystemの方が術語として用いられている。日本語では“生態系” と訳する。すなわち本論文の主題とするところのものである。  ここでTansleyのecosystemの内容について,少しく説明したい。彼は,生 物複合(organism complexes)と環境複合(environmental complexes)は地 球上では1体となった系を作っており,これを生態系(ecosystem)と言った。        3) この場合,生物複合としては,生物群系(biome)程度の大きさのものを考え, 環境複合としては,気候複合(climatic complexes)と土成複合(soil complex− es)を合わせたものを考えている。生態系の中では,生物要素と非生物要素の間 に,不断の交流一相互作用,物質・エネルギーの交換一がある。この系は,宇 宙から原子まで至る多種多様の物理的系の1種であり,いろいろの大きさの種    4) 類がある。この系を研究するには,H. Levy(1932)の科学方法論を適用する。 つまり,科学の方法は常に系を分離し取り出し(isolate)て行うのが常道であ るが,今の問題に関しては,宇宙から原子に至る系列の中のある部分を取り出 して研究するということになる。分離し取り出した系は,より大きい系に含ま れるが,また互いに重なり合い,組み合わさり,干渉する。分離取り出しは若 干人為的であるが,科学の研究を進めるのにただ一つの道である。これがLevy の科学方法論を適用した生態系研究法である。さらに分離について論を進め, この分離度が強く,自律性が高いほど,その系の統合度(integration)は高く, その動的平衡は安定性を得てくる。ふつうの自律的な遷移(autogenic succes− sion)は,より統合した,より安定な系へと進むものであって,その最高の段階 3)biomeとは,ツンドラ,針葉樹林帯,常緑広葉樹林帯などの,大地域群集を意味する。 4)いろいろの種類と言っているが,先きにbiome程度の大きさについて考えたこととの間 に矛盾が感ぜられる。後述の個体生態系の論など参照。

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       5) のものが,極相(climax)である。極相は数千年の安定性をもつが,しかもな お徐々に変化している。  以上がTansleyの考えの大要であるが,ここで生態系の構成要素としての生 物群集は,前に言ったように,主として生物群系程度の大きさのものを指して いるように見える。しかし最近の研究者は,もっと小規模の群集,たとえば竹 筒の中の群集とか,岩の凹みに一時溜った雨水の中の群集をめぐっても,竹筒 の中の生態系とか,溜まり水生態系とか言って,研究の対象にするようになっ ている。  とにかくふつうの意味の生態系は,生物群集要素+非生物環境要素の全体系 を言うので,その境界は生物群集の境界と一致する。境界は半透性で,通過す る生物種もあれば,通過できないものもあることは,群集の境界と同じである。 今まで個体→個体群→群集と,全体性概念は進展してきたが,これはある定ま った次元(たとえば2次元)の中でのことであったが,ここで次元を異にする (たとえば3次元)の全体性概念の段階に入ることになったのである。生物要 素の中で進展してきた概念が,非生物要素をも加えたものになったのである。  この考えの崩芽がForbesに見られることは既に述べたが, Tansley以後ど うなったか。Forbesと同じ湖沼生物学者のA. Thienemann(1939)も同じ概 念を提出する。彼は生態学の発展に3つの段階を置き,個体を扱う個体学段階, 群集を扱う集団学段階,生物部分と非生物部分を分離し難い全体として扱う全 体学段階を考える。そして全体学段階で扱う対象物を,“生物で満たされた生活 場所”として,Biosystemと呼んだ。これは明らかに生態系を意味している。 しかし彼の認識はここで止まって,1956年に発行され.た著書「Leben und Umwelt」の中には, R. L. Lindeman(1942)の注目すべき業績が引用されて いない。実は生態系的自然把握の大きい利点の1つは,生物と非生物環境をめ ぐる物質・エネルギーの流転の解明にある。生態系という概念の学問上の価値 5)生物群集の状態は遂次変化する。裸図を考えると,まず雑草が生え,陽樹(マツのよう な木)が生え,次第に陰樹(シイ・カシのような木)の森へと移る。日本の暖流域では, この陰樹の森が極相である。

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8  水地宗明教授退官記念論文集(第287・288号) が云云される中で,その価値を確固たるものにした業績がLindemanの研究で あったに拘わらず,Thienemannがこれを引用していないのは不思議なことで ある。  しかしThienemannの論文からも推測されることであるが,個体段階でも個 体群段階でも,群集段階と同じように,非生物環境と一体のものとしてとらえ られる次元の場面があるはずである。すなわち個体生態系,個体群生態系とい った考えはできないか。  実は1953年,宮地伝三郎・森主一はその著書「動物の生態」の中で,そのこ とを既に指摘した。彼等は“個体生態系から地球生態系”までの現象を扱うこ とを明言して,生態学の体系を立てた。これに続いて沼田真(1955)も,個体 生態系,個体群生態系という語を用いることの可能性を指摘した。続いてF.C. Evans(1956)はecosystemの概念の生態学における有用性を述べ,これを生 態学における基本単位(basic unit)とすべきこと,およびその基本理念から考 えてその適用範囲を拡大し,大きいbiosphere(生物圏)レベルに対してgigan− tic ecosystem, communityレベルに対してcommunity ecosystem, popula− tionレベルに対してpopulation ecosystem,等々として研究できる,と述べて いる。またこれらの系は開放系であり,物質・エネルギーは流通し,それによ って生物はその生活を成り立たせること,およびこれは重要なことであるが, そのことによって生態系の境界を決めることが困難となり,ある生態学者たち が生態系概念の非現実性をとなえた,と指摘している。彼はこのことに関し, “種”の概念を引き合いに出し,それが租先種またはその派生種から明瞭な区 別ができないからと言って,種概念の価値を破わすものではないのと同じであ ると述べて反論しているのは,いささか焦点が違うように思う。また生態系概 念は,個体群や個体段階よりも,群集段階で最も有用であると結論しているが, これは学界一般の傾向に従ったもので,物質・エネルギーの流転を重く考えて のことであろうが,私見としてはいささか考えが浅いように思う。  なおこれらの論議に加えて,幽きに述べたK.Friederichsは1958年に再び論 文を書き,ecosystemという用語より先きに自分はholocoenという用語を出

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した(1927)ので先取権はholocoenにあること,および個体または種(個体 群?)段階のものに対し,Evansの個体生態系に代えてmonocoenと称したい と主張している。  しかしその後多くの生態学者はecosystemの用語を採用し,多くの教科書で は,個体,個体群,群集,生態系という順序でその内容を構成している。そし て生態系の内容として,物質・エネルギーの流転は必ず取り上げる(従って食 物連鎖関係を取り上げる)が,その内容に止まっているものもあれば,またそ れを越えて,広く同類関係も含めて記述しているものもある。E. P. Odum (1983)の有名な教科書などは,生態学の論述を,広い立場の生態系の論議を 中心柱として進めている。  しかしまた一方,ちょっと変った意見もある。M. Begon, J. L. HarperとC. R.Townsendは1990年, Odumのものと併び称せられる代表的教科書を書いた が,その中には生態系という章はなく,凍のような記述がある。  “群集と生態系を区別することは,研究に何ちかの役には立つが,群集と生  態系を別々の実在物として研究することはよろしくない。個体であろうと,  個体群であろうと,また群集であろうと,どんな生態学的系でも,その存在  する環境と切り離して研究することはできない。そこで我々は生態系という  組織体を区別することはしない”。  こうして彼等の教科書には,類書にあるような生態系というような特別の章 は設けてないのである。私は,彼等の言いたいことは分かるし,一つの見識で あるとは思うが,生態学というものを余りにも自然界を研究する学という見地 から切り離し,またやや自然に存在する物に対する思考が浅すぎるように感じ ている。私は,生物は地球の自然にもっと根を張って溶け込み,地球の変化と 一体となって生活しているものと考えている。  以上この章で述べてきたことをまとめると次のようになる。生態学の対象と して,個体→個体群→群集と,全体性を備えた存在の認識を広げてきたが,そ こまでの次元では,生物そのものを自然から抜き出した形で考えてきた。しか し次に次元を異にする認識として,非生物環境も生物の生活から切り離し難い

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10  水地宗明教授退官記念論文集(第287・288号) という考えから,生態系という概念が出てきた。この概念では,必然的に個体 にも個体群にも群集にも,それらを主体とする生態系が存在することになる(す なわち,個体生態系,個体群生態系,群集生態系の存在)。  ふつうの教科書では,群集生態系を単に生態系という名のもとに取り上げ, 個体生態系や個体群生態系は述べていない。今まで述べてきたところで,後2 老の生態系の存在は論理的に察せられると思うが,なお念を入れるため,章を 改めて個体生態系をめぐって詳述したい。 II.個体生態系の概念をめぐって  生物個体は生物の世界では最も自律性の高い,自己完結性の高い存在である。 しかしその輪郭が明瞭に認められるのは,死んだ生物で始めて可能なことであ って,生きて機能している生物では環境との境界は明らかでないことを知らね ばならない。ちょっと変った比喩ではあるが,その状況は幽霊に例えられよう か。顔や胴体のところは明瞭に輪郭が見えてすぐ分かるが,それから下の足の ところは環境の中へ次第にぼけて消えていく。つまりその部分で環境と一体化 してしまうのである。  この点を従来の有名な研究者の言について見てみよう。まず近代動物生態学 の基礎を築いたC.Elton(1927)は次のように述べている。  “動物が死なないかぎり……げんみつにいえば,動物がおわるのはどこで,  環境がはじまるのはどこか,正確にのべることはできないのである”と考え,  過去の動物学は死体の研究の歴史で,多くの成果をあげたが,“動物が環境の  一部分であるという重大な事実をあいまいにする傾向を生じた。……大きい  自然の体系のある部分が,いわば,切りとられて一時的な小体系に形成され  る。……すなわちこれが動植物である”(渋谷訳より)。  このEltonの言葉は,生きて活動.している生物を見る基本点を明確に示して いるが,その生物主体は,個体でも個体群でも群集でもよかろう。さらに引用 を続けたい。  J.S. Haldaneはイギリスの代表的生理学者で,また哲学者でもある。その

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1931年の著書から引用する。  “生命の概念の中には,生体の内にあるものと同時にその環境も包含されて  いる”。すなわち“生命とは,実に空間的な境界をもたないところの,特異的  な全体を形づくっている自然である。われわれの知覚する世界に空間的な限  界が存在しないと全く同様に,1個の生命にも空間的な限界は存在しない”。  最後にロシアの生理学の父といわれている1.M, Cechenovの言葉を引用し ておく。彼は1839∼1905の問生きたが,以下の引用の言葉がいつ書かれたか明 らかでないが,その生きた年代から見て,Eltonよりはよほど早いことは間違い なかろう。  “その存在を支える外部環;境のない生物体はあり得ない。それ故に,生物体  の科学的定義には,それに影響している環境も入らなければならない。なぜ  なら,後者なくしては生物体の存在はあり得ないからである”(M.1.Melini−  kov, A. A. Shibanov&B. M. Korsuhnskaya,1954:生物学基礎教育大系一  ソヴィエト9年級教科書,4,ダーウィニズムの基礎,和気朗訳,より)。  以上の人たちの生物体(主として個体)の認識は一致:している。生きて活動 している動物は環境(主として非生物環境)と一体となって存在しており,そ の境界を設けることは不可能であるということである。この見解は当然,個体 群にも群集にも適用できるものである。これらの考えは,生態系概念の強力な 支柱となり得るものであるが,しかし私は,上述の人たちの考えに全面的に賛 成するものではない。それはなぜか。  前に述べた喩え話の幽霊の像で言えば,上述の考えはその足の部分を見て, 上体の顔や胴の部分のことを十分に述べていない。これは,顔や胴の部分がよ く見えることは当然のこととして,一般に正当に認識されていない点を特に強 調して言ったのかも知れないが,そうとすれば不十分な記述である。足の部分 は非生物環境と一体となるが,上体の部分は明瞭な境界をもって環境と区別さ れることも指摘しておく必要がある。この状態は前に述べたように,生体の界 面は半透性であり,物質・エネルギーのある種のものは界面を通って生体内に 入る,すなわち非生物環境と一体の面があり,また他のものは界面を通ること

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12  水地宗明教授退官記念論文集(第287・288号) ができない,すなわちここに環境との対立性の面が出てくるのである。水や酸 素や低分子のアミノ酸などは界面を通るが,高分子の蛋白質やリグニンなどは そのままの形では界面を通ることはできない。生態系的概念の理解には,ここ のところをよく含んでおく必要がある。むやみに生体と環境の一体化を主張す るのではなく,生体内で行われている法則と環境の中にある法則との区別,つ まり生物の主体的自律性をも考えに含んでいるものと理解しておかねばならな い。  このような考えは,さらに大きい規模をとって群集などを考えても同じこと である。日本の暖帯のシイ・カシ・タブ(陰樹)の極相林の中へは,マツ(陽 樹)は入ることができないが,同種のシイ・カシ・タブは入っていくことがで きる。この際,光という非生物環境と樹木の存在とを一体のものとして考えね ばならない。ここに群集(つまり群集生態系)の半透性の一面が表れている。  以上物質やエネルギーを中心において,主として個体生態系をめぐる性格を 見てきたが,私はさらに心理的生態系といったものについても考えている。こ れについて書いたものはないので,読者の吟味を特にお願いしたい。  例えば,A君は居室を持っているとする。ドアは閉ざさっているが,もちろ ん誰でも開けて入ることはできる。開けて入ることはできるが,しかし現実に は誰でも何時でも自由に入ることができるものではない。そこには厳として境 界がある。その部屋の机,いす,書棚,そして空気までも,A君の勢力圏を形 作る非生物環境である。それらはA君と一体となって存在しており,別の誰か が入って来てもその人はA君に対して多少とも劣位の状態である。もしA君の 不在の時にその部屋に入ろうとすれば,大手を振って入るわけにはいかない, そっと入ることになろう。これがA君の生態系の実態であり,彼はその生態系 の一員(この場合主体)として存在しているのである。これが私の言う心理的 生態系の内容である。特に物質・エネルギーの循環を注目しているというので はない,心理的雰囲気があるのである。各家族の住む家についても,類似のこ とが考えられる。  上は人間の話であるが,動物でも似たことが言える。“なわばり(territory)”

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などよい例である。裸にすれば弱い個体も,なわばりの中では,肉体的により 強い個体よりも強い。これはなわばりという地域と結びついた,生態系的存在       6) として考えれば,自然に考えられることである。先住権なども,この延長線上 で考えられる。このことは,動物個体に限らず,もっと大きい生物群の領域(な わばり)についても,同じことが考えられる。かつてTansley(1935)は,孤立 した1本の木と,その木が森の中の1本目してある時では,性格が違うと述べ たが,生態系の中に生きる植物としては当然であろう。  以上個体生態系の性格について,個体群や群集の生態系の例も若干あげなが ら説明してきた。繰返しになるが,生態系概念は,個体→個体群→群集と進ん できた全体性認識の次元とは違う,1次元複雑な次元の全体性をもつものであ り,多少とも全体性を具えた存在に関する,現在の生態学における最高の認識 となるものであると考えている。さらに個体生態系→個体群生態系→群集生態 系と移るに従って,自律性は次第に低くなり,全体性の程度は弱くなり,相互 の境界も不明瞭になべていくことも,まとめとして追加しておきたい。 III.いわゆる環境問題に対する生態系的概念からする意見  いわゆる環境問題がやかましく論議されるようになったのは,我が国では 1975年来のことであろうか。ここに言う環境とは,入間にとっての環境である。 私のよく知っている琶琵湖を例にとると,富栄養化とか汚濁などの異常が,科 学者の目から見て分かるようになってから30年ほどになるが,その環境が一般 にやかましく論ぜられるようになったのは15年下前からのことであろう。上に 環境問題の頭に,“いわゆる”という字を付けたが,生態学用語としての環境と 区別するためである。世に言うのは,主として人間環境の意味で,動物や植物 一般の環境を意味することはほとんどない。人間以外の生物の環境など,まず は考慮しないのが現実であろうか。 6>動物個体がある地域にやって来て,引きになわばりを作ると,他の肉体的により強い仲 間が後から来ても,追い払ってしまう。このような現象は動物の生活でふつうに見られる ことで,先住権があるという。

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14  水地宗明教授退官記念論文集(第287・288号)  最近しばしばお目にかかる言葉,あるいは評語に,“地球にやさしい○○”と いうのがある。地球にやさしい洗剤とか,自動車とかの例である。これに対し あちこちの識者から,この言葉は人間の傲慢不遜さを表した言葉で,自然の節 理を理解する上で適切な表現ではない,という異論がでている。私も全く同感 であるが,その理由を説明したい。  今までずっと説明してきたように,私は自然の構造機能を,生態系的に把握 し理解するのが,最善のやりかただと思っている。生態系概念による理解とは どのようなものかについても説明してきた。この考えによると,“地球環境にや さしく”という言葉のうちには,人間と環境を対置し,人間の相手の環境に対 してやさしい手を差し延べよ,またそのような対象を可愛がってやろう,とい う気持があふれており,人間が地球の存在物の1部である,地球生態系の1部 である,という理解のない表現となっているからである。  地球とは,人間が有ろうが無かろうが,厳然と存在する実体である。人間が そのような存在に対してやさしくとは,身のほど知らぬ思い上った考えである ことは明らかである。問題の人間生態系に限っても,この生態系は人間もその 構成の一要員として含まれるだけであって,他人事のように環境を相手として, 頭をなで,やさしく可愛がってやれるような実体ではない。つまり人間も環境 と一体となった存在であるという,自然の構造機能を理解していない言葉なの である。その中においてもちろん人間が主体となって系を動かす場合もあるが, それはあくまで系の1部要員の働きであることを理解しておく必要がある。  では“地球にやさしい00”という言葉をどう変えたらよいか。一案として, “地球生態系の保全に役立つ○○”とすることも考えられる。もっと人間エゴ を出すとすれば,“人間生態系の保全に役立つ00”という案もあるが,これで は人間の存続のために他の生物を始めとする諸存在を犠牲にしてもよいという 考えに導くので,よい案とは思えない。そのような方針では,所詮事態を人間 の滅亡に導くだけであろう。  さて地球生態系の保全の内容には,現在の地球ということが念頭にあり,す なわちその生態系の中に人間も含めてその存続を計る考えがある。客観的地球

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生態系の中には,人間は有っても無くてもよい。しかし人間の存続を願う気持 ち,人間の進化を前提としてながらもその子孫の存続を願う気持ちが多くの人 の気持ちにあると考えると,現在の地球生態系の存続を願うことになる。そう すると当然,その存続のため,人間自身の,人間のためだけの欲望を抑えなけ ればならないことになる。これが生態系概念の発展の重要な帰結である。  では学問の上で,どのようにこの帰結を生かしていけばよいのか。その1部 を次章で述べる。 IV.生態系経済学といったような学問は考えられないか  現在“環境経済学”とか“環境工学”といった言葉をよく耳にする。私はこ れは上に述べた“地球にやさしい○○”の類であると思う。環境と人とを対置 一辺倒の関係として理解する態度の表れであると思う。人間と環境の関係は, 対立と共に統一の面もあることを忘れてはならない。対置だけでは,いわゆる 環境問題を考える態度を他入事を処理する態度,真剣さを軽いだ態度,おざな りの態度となる可能性がある。そのようなことでは,日常生活に深くメスを入 れ,痛いことがあっても堪えしのぶ,真剣さあふれる学問は出てこないのでは なかろうか。  私は経済学や工学には全くの素人である。言うは易く,行うは難いと言う。 ましてや専門外のことがらについては,一層そうであろう。しかし前章までに 縷縷述べてきたことの主旨を理解して下さる方は,本章の主張もまた何程かの 同感の意を表して下さるのではなかろうかと思い,あえて意見を述べさせてい ただきたい。  そこで素人の考えとして,“生態系経済学”などという名称で,前述の主旨を 生かす,思い切った経済学などはできないものか。その主旨とは,自然の客観 的構造機能の中における人間の位置を正当に自覚し,行動は謙虚に,独善的要 素を排し,大自然の生態系的掟を遵守して進むことを意味する。その経済学は, 例えば,湖や川の本来持っている自浄能力に人工の浄化能力を加えた総計の浄 化能力を越える汚独負荷を絶対しないこと,あるいは人口制限,生産制限,時

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16 水地宗明教授退官記念論文集(第287・288号) に生活程度の切り下げなど,日常生活に苦痛を伴う処置をとることを計画に入 れるようなものとなるであろう。生態学における,現在の段階の最高の自然認 識を生かした経済学などを創造してほしいとの願いをこめて,言わせていただ いた。  本誌は滋賀大学経済学部の機関誌であり,また本号は畏友である哲学者水地 宗明先生の退職記念号であることを念頭において,特にIV章の意見を思い切っ て書かせていただいた。十分なご吟味をいただければ幸いである。        (1993年8月10日 記)       文   献 Begon, M., Harper, J. L, & Townsend, C. R., 1990 : Ecology. lndividuals, PoPulations and   Communities. Blackwell Sci. Pub. Darwin, C., 1859 : The On’№奄氏@of SPecies by A4eans of Natural Selection. Murray.   訳本:八杉竜一,1990:種の起原。岩波文庫。 Elton, C., 1927 : Animal Ecology. Sidgwick & Jackson.   訳本:渋谷寿夫,1955’動物の生藩学。科学新興社。 Evans, F. C., 1956 : Ecosystem as the basic unit in ecology. Science, 123 : 1127−1128. Forbes, S, A., 1887 : The lake as a microcosm. Bull. Sci. Assoc. Peon’a, lllinois, 1887 : 77−87. Friederichs, K., 1927 : Grundstitzliches tiber die Lebenseinheiten h6her Ordnung und den   6kologischen Einheitsfaktor. IVaturwissenschaften, 15 : 153−157, 182−186.    , 1958 : A definition of ecology and some thoughts about basic concepts. Ecol.,   39 : 154−159, Griesebach, A. H. R.,ユ938 :Uber den Einfluss des K】ima auf die Begrenzung der nattirli.   chen Floren. Linn., 12 : 159−200. Haldane, J. S.1931:Philosophical Bαsis(ゾBiology.   訳本:山県春次・稲生晋吾,1941:生物学の哲学的基礎。弘文堂書房。 Humboldt, A. von, 1807: ldeen zu einer GeograPhie der eilanzen nebst einem Naimr−   gewdlde der TroPenldnder. Levy, H., 1932: The Universe of Science. Watto & Co. Malthus, T, R., 1798: An Essay on the Principle of PoPulation, as it affects the Future   ImProvement of Sociely, with Remarfes on the SPeculations of Mr. Godwin, M.   Condorcet and other Wn’ters. Johnson.   訳本:高野岩三郎・大内兵衛,1935:入構の,原埋。岩波文庫。 Melinikov, M. L, Shibanov, A. A.&Korsuhnskaya, B. M.,1954:ダーウィニズムの基礎。   ソヴ/エト9年級教科書,生物学基礎教育大系一第4巻。和気朗訳,1954。理論社。

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宮地伝三郎・森主一,1953:動物の生,聾。岩波全書。 Mdbius, K., !877 : Die Auster und die Austerwirtschaft. (Transl, The Oyster and Oyster    Culture. RePt. U. S. Fisla Comm., 1880 : 683−751.) 沼田眞,1955:生物学における環境親とその評価。童物科学,7:74−80。 Odum, E. P., 1983 : Basic Ecology. CBS College Pub.    訳本:三島次郎,1991:基礎i生聾学。培風館。 Pearl, R,, 1922 : The Biology of Death. Lippincott. Quetelet, A.,1935:Sur l’homme et le 46zノθ∼(?ppement des sesノ毎6〃,齢ou essai de physi(lue    sociale. Bachelier. 瀬戸昌之,1992:生,齢系。入瀞の存在を一支’之る生勿シズテム。有斐閣ブックス。 Spencer, H., 1874 : Pn’nciples of Biology. D. Appleton. Tansley, A. G., 1935 : The use and abuse of vegetational concepts and terms. Ecol., 16 :    284−307. Thienemann, A., 1939 : Grundzttge einer allgemeinen Oekologie. Arch. Hydrobiol., 267−    285.       , 1956 : Leben und Umwelt. Vom Gsamthaushalt der IVatur. Rowohlts Deutsche    Enzyklopadie. Verhulst, P. F., 1938 : Notice sur la loi que la population suit dans son accroissement,    CorresP. Math. et Phys., 10:113−121.

参照

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