学 位 論 文
中学校音楽科教育 にお ける和太鼓授業の研 究
兵庫教育大学大学院
学校教育研究科
教育内容・方法開発専攻
文化表現系教育 コース
(音楽
) NI11 21 99D 溝 下 勝 一次
目凡
例
は じめに・ ・・・ ・ ●●●●●●●●●
00
第
1章
和太鼓 の授 業実践
― 前段一
● ● ● ● 0 01第
1節
日本の太鼓 について・・・
000・
。・・・・・
3
第
2節
創作和太鼓 の多様性 の実践体験 ・・・・・・・
18
一鼓童 の ワー クシ ョップを中心 に―
第
2章
和太鼓 の授業実践
第
1節
教材 「海峡たぬき太鼓」について・・
000031
第
2節
指導案 とワー クシー ト・・ 。 ・・・・・・・
037
第
3節
授業実践・・・・ ・・・・・ ・
000・
・・
048
第
3章
ワー クシー トの分析・考察・課題
第
1節
授業 の分析・考察・・・
0 0・
・・・・
e・61
第
2節
和太鼓 の さらなる発展 のための課題 ・・・・
083
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参考文献及 び資料・・
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は じめ に
平成20年
に改訂 された『 中学校学習指導要領 《音楽》』(文部科学省2008)が
,平
成24 年度 か ら全 面実施 され ることにな り,中
学校 では和楽器 を用 いた授 業 につ いて教材 の開発 や指導方法等 の研 究 が行 われ てい る。 しか し,学
校現場 では和楽器不 足 な ど指導者 が授 業 に対 して抱 く不安 もあ り,和
楽器 の授 業 を実践 できる学校 は限 られ てい るのが現状 であ る。 「和楽器 については,簡
単な曲 を通 して,伝
統音楽 の良 さを一層 味わ うこ とがで きるよ う にす る」[文部科学省:2008]と
学習指導要領 に明記 され てい る。その内容 を達成す るた め に、指導者 の不安 を少 しで も解 消す ることがで きれ ば、今後 の和楽器授業は充実す る と考 える。そのためには,和
楽器 で何 を学ぶ のか,何
が学べ るのか,と
い うことについて具体 的に実践 を通 した事例 が求 め られ る。 本論 文 は,和
楽器 の一領域 で ある和太鼓授 業 の研 究 であ る。 筆者 が取材 した具体的 な事 例や授業実践 の分析・ 考察 をもとに和太鼓授 業 の課題 について明 らかに したい。 第1章
では,授
業実践―前段一 と して授業で準備すべ きこ とを述 べたい。第1節
では, 中学校音楽科指導者 が和太鼓 の授業 を計画す る上で,知
識 と して必要 と思 われ る太鼓 に関 係す る神話・ 埴輸・雅楽・儀式・祭 り・合 図・ 太鼓職人等の アつ の資料 を集 めた。 (l)日 本の神話 にお けるアメノウズメノ ミコ トが桶 を踏み な らした記事があ る。 この記 述 か ら、アメ ノ ウズメ ノ ミコ トは桶 を踏む ことによ り,桶
を打 ち もの と して使 用 し ていた と想像 できる。神話の中にあ る打 ちものが太鼓 の起源 として考 え られ る。(2)群
馬 県で出土 され た 「太鼓 をたた く男子」の埴輪。 これ は古墳 時代 に出土 され た も ので,こ
の埴輪か ら当時の生活 に太鼓が使用 されていた ことがわか る。 (3)日本 の伝統音楽で ある雅楽 の歴 史。 日本 に雅 楽が導入 され た経緯 を述べ てい る。(4)四
天 王寺の聖霊会。毎年 4月 に行 われ る聖徳太子 の聖霊会 は,日
本 で も歴 史 のある 儀 式 の一つで ある。(5)京
都 の祗 園祭 を もとに して九州 の小倉藩主が始 めた小倉祗園太鼓。 これ は祭 りに関 す る資料 で あ る。京都 の祗 園祭 りと小倉の祗 園祭 りの起源 を知 るこ とに よ り,祭
り の 中で演奏 され る太鼓 について理解 を深 めることができる。(6)明
石神社 にある とき打ち太鼓。 この太鼓は明石城 で時 を知 らせ る合図 として実際に 使用 され ていた もので ある。(7)太
鼓職人 に関す る資料。第
2節
では,新
潟県佐渡市 にある 「鼓童」研修所で行 われ た ワー クシ ョップ 「鼓童塾」 に筆者が参加 した。筆者 を含 めた参加者20人
の活動 内容 の解説 と学習の成果,指
導 の ワン ポイ ン トについて述べてい る。 第2章
は,神
戸市内の 中学校 1年生5クラスを対象 に した 1年A組
の授業実践である。 第1節
では,授
業で使用す る和太鼓教材 「海 峡たぬ き太鼓」 につ いての楽 曲分析 で ある。 この教材 にある リズムや 日唱歌 につ いて指導のポイ ン トを述べ てい る。 また,日
唱歌 を入 れ た五線譜,日
唱 歌 を入れ た五線 を使 わない楽譜 な どを記載 してい る。 これ は,前
者 の 日 唱歌 を入れ た五線 譜 は教師用 の資料 として使 用す るが,生
徒 にはそれ を提示せず,後
者 の 五線 を使 わない楽譜 を提示す ることによつて生徒 に どの よ うな反応 が見 られ るかを観 察 し たい。第2節
では,授
業 の指導案 とワー クシー トを記載 してい る。指導案 は全3時
間 とし、 指導者 は調査対象校 の音楽科教師 に依頼 した。 ワー クシー トはI・ Ⅱと2枚
用意 した。 ワ ー クシー トIでは,太
鼓 の響 きや余韻 を聴 いて感 じた こ とは何 か。次 に和太鼓 が どの よ う な時 (行事や生活 の中)に
使 われ ていた力、 最後 にプ ロの和太鼓演奏 をDVDで
鑑 賞 し,プ
ロの奏者 が良い響 きや余韻 を出すた めに ど うい う工夫 を してい るかについて発 問 した。 ワ ー クシー トⅡでは,日
唱歌 を体験 して感 じた ことは何 か。楽譜 が読 め るか ど うか。 日本 の 伝 統音楽 を学んで感 じた ことにつ いて発 問 した。 最後 に伝統 音楽 でや つてみ たい ことは何 か とい う発間 を し,伝
統音楽 に関す る生徒 の意識調査 を行 つた。第3節
では,授
業実践 の 流れ につ いて記述 してい る。全3時
間の流れ について,指
導者 と生徒 の発言 を中心 に,そ
の時の様子 を写真,図
,説
明 コメン トを入れ なが ら記述 してい る。 第3章
では,授
業実践 にお ける分析・ 考察か ら和太鼓授業 の さらな る課題 を述べたい。 第l節
では,授
業実践 にお ける分析 と考察 を行 つた。分析 の方法 は,授
業 中に生徒 が記述 した ワー クシー ト2枚
を もとに,発
間に対す る全生徒 の回答 を記載 し、項 目ご とに グラフ 化 した。分析 した グラフ と生徒 の記述 を も とに,筆
者 が考察 を行 った。第2節
では,「 日本 の大鼓について」の発展的な学習事例。 晴J作和太鼓 の多様性 の実践体験 をもとに,指
導者 としての課題,教
材・ 指導案・ ワー クシー ト0授業 の流れ の発 展 のた めの課題,最
後 は和 太鼓授業 の考察 よ り,さ
らな る発展 のた めの課題 を述べてい る。第
1章
和太鼓 の授 業実践
一 前段一
第 1節
日本の大鼓について
<日
本の神話・伝説より>
日本で現存する最 も古い文献とされている『古事記』は,和
銅5年
(ア]2)に
完成 した本 である。『 古事記』は海菌耐■ とぃぅ非凡な暗記力の持ち主が皓話 したものを,ガ
要芳稲が 漢字で筆録 したものと伝えられている。[吉川:1984:18]
日本音楽の起源 として [吉川:1965:7]は
『 古事記』の記事 (天の岩戸)を
以下のよう に紹介 している。 「スサ ノオ ノ ミコ トの乱暴 によ り,ア マテラス大神 が天の岩戸の中に隠れたので,天地 が闇になったため, 神 々が協議 の末,岩戸 の前に祭儀 の準備 を整 え,アメ ノ ウズメ ノ ミコ トに次の よ うな ことを させ た一中略 ― この 「古事記」の文 では,ウズメはい ろい ろな植 物 を身 につ けて,桶を さか さに伏せ て,その上 を踏み な ら しなが らス トリップ 。ダンスの よ うな ことを した と解釈 され る」 あ くまで も神話 で あ るた め,現
実 の話 で はないが,桶
が打 ち もの として使 われていた と 推測 で きる。<太
鼓 を持つ埴輸>
日本 の大鼓 は,い つ頃か ら使 われ るよ うになつたの だ ろ うか。 東京 国立博物館 に,群馬 県佐 波郡境町 か ら出土 した 古墳時代 (4∼6世
紀)の
『 太鼓 をたた く男子』 とい う埴輸が ある と言 われ てい る。2013年
9月,東
京 国 立博物館 を訪問 した際には展示 されていなか つたが, 東京国立博物館 のデー タベースには画像 (図 1)があ る。この埴輸は,体
の左側 に太鼓 を斜 めに構 え,右
手 に持 つたバチ (1)が鼓 面に接触 してい る。左 手 は太鼓 の下側 を持 つて支 えているか,鼓面に手 をつ けてい る かの よ うである。また,鼓
面か らひ も状 の ものが見 え る とい うことは,古
墳時代 に締太鼓 を使 用 していた こ鞭
とが想像 できる。 この よ うに,古
墳時代,そ
れ以前か ら生活 の 中で太鼓 が使 用 され ていた 東京国立博物館 太鼓をたた く男子[#1]<雅
楽 について>
日本 の伝 統 音 楽 と して 中学校 音楽 科教科書で紹介 され る雅楽 「越天 楽」 が ある。その 中で演奏 され る楽器 に太 鼓 が ある。 日本 の伝 統 音 楽 で あ る雅 楽 (管楽 器 0絃楽器 0打楽器)と
は ど うい う音 楽 なのだ ろ うか。 また,い
つ ごろ,ど
この国か ら伝 わつたのだろ うか。 [/1ヽ原 :2013:35] 寺 内 に よ る と,「『 雅楽』 とい う用語 と音楽は,もともと古代中国の孔子 (前五五一∼前四七九)によ つて興 された儒教の礼楽思想に基づ く音楽を指す。礼楽思想 とは,正しい行い と正 しい音楽が相応す ると い う考え方で, しば しば,正しい音楽が響 くと,世
の中は平和に秩序正 しく維持 され,逆に,乱
れた音楽 が聞こえると世の中も乱れ,国が滅びる,と言われた。 したがって,歴
代の皇帝にとつて,正
しい音律や 音楽の維持管理は重要な任務の一つであ り,礼楽は,中国の知識人の教義である『 六芸 (り =礼,楽 ,射 , 御,書,数』の筆頭 にも置かれた。雅楽は,具体的には,この儒教の礼楽思想 に則つた,天神地祗 “ )と祖 先 を祀る儀式のための音楽 として実践 された。」 [寺 内:2011:3]と
述 べ て い る。 そ もそ も<雅
楽>と
は どんな音楽なのだ ろ うか。南谷 は<雅
楽>と
い うものを,次
の三 つ に分けて説明 してい る。 「① 日本古来の音楽から発展 したもの 主に,皇
室お よび神道の儀式で用い られ る音楽である。神楽・ 東 遊 ・ 倭 歌 。大 歌・ 久米歌・ 謙歌 “)な ど,主
として官廷の行事や儀式において演奏 され る音楽であ る。 一中略一 ②外来の楽舞 五世紀か ら九世紀の間に,主に中国大陸お よび朝鮮半島よ り伝来 した音楽 と舞 に由来す るもの。イン ド・ ベ トナム地域やシル クロー ドを西にた どつた地域から伝来 した音楽や舞 も 含まれるが,平
安時代中期以降,中国大陸より伝来 した音楽を中心 とす る『 唐 楽』 と朝鮮半島より伝来 し た音楽を中心 とす る『 高麗楽』との2つのジャンルに整理分類 された。一中略―③平安時代の新作歌曲 外 来の楽舞が定着 した後に,平
安貴族が,宮中の御 遊 (皇族や貴族たちが催 した音楽会で,自 らも楽器の演 奏や歌を歌つた りして音楽演奏に参カロする)な どで楽 しむために作成 された声楽曲。当時の民語や俗謡 を, 唐楽や高麗楽の旋律にのせて歌 う『催馬楽』 と,漢
詩を吟ずる『 朗詠』の二種類があり,いずれも楽器の 伴奏がつく。『 今様』や『 歌披講』なども含めて『 邸 曲』と称された。正式には,②の管絃 と組み合わせ て演奏される。」[南谷:2008:120-121]官 内庁式部職 楽部 雅 楽
2012年
欧州公演 のイ ンターネ ッ ト記事 には,雅
楽 の歴 史が次 の よ うに述べ られている。[#2]
「日本に伝来した最初のものは,『三韓楽』(『三国楽』と呼ばれた百済,新羅,高句麗 (高麗)の朝鮮半 島由来の舞と楽曲です。 日本における最も古い記録は,允恭天皇が崩御 された折 (453年)に ,新羅王が 楽人80人を送って哀悼の意を表 したとい う『 日本書紀』における記述で,欽 明天皇 15年 (554)2月 には, 百済から楽人4人が渡来 したとの記録もあります。」538年
百 済 よ り仏 教 が 伝 来 し,612年
伎 楽 が 伝 来 す る。 南 谷 に よ る と,「 雅 楽の歴 史 を紹介す るに際 して,必ず紹介 され るのが『 聖総美 ギ棋 暦』にある推古天皇二十年の六一二年,百済の条摩 之 が伎 業 を伝 えた とい う伝承 である。 一中略 ― 伎 楽 とは,古代 に 日本 に伝 来 した外 国音 楽 で,後に雅楽 と して まとめられることになる音楽芸能の源のひとつであるといえよう。」[南谷:2∞8:121-122]と
述べ ら れ てい る。 正倉院 には,宮
内庁 が管理・研 究 を進 め てい る東大寺の正倉院23種,100余
点 にの ぼ る楽器 が収 め られてい る。 その中に磁鼓 (図 3)がある。正倉院宝物の検索サイ トに は,「陶製の鼓の胴で,緑・黄・自の釉薬を施 して いる。胴に大きなくびれをつけた砂時計型の鼓は唐 楽に用い られた細腰鼓 (さいよ うこ)の一種で,イ ン ドを発祥の地 とす る。」[#3]と
説 明 が あ る。 このように,正
倉院にある古 くか ら現存す 図 3 正倉院 磁鼓 る宝物か らイ ン ドや 中国大陸を経 由 して 日本 に楽器 が入 つて きた ことがわか る。 三韓楽や仏教 の伝来 とともに器楽や舞踊 が伝 わ り,中
国大 陸か ら遣唐使 の派遣 を通 じて 唐 楽 が伝 わ り,文
武天 皇の大宝元年(70])に
これ らの楽舞 を公的な もの として管理伝習 し てい く機 関 として,確
諭筆ギ が設置 され たのである。 寺 内は,「雅楽寮が記録から見えなくなるのに代わつて奏楽の記録が増えるのが,左右衛府 皓)の官人 である。一中略― 十世紀後半になると,これ らの楽人の舞,歌 ,楽器の職掌が次第に専門家 し,伝承が 世襲的に継承 されるようになった。このような世襲的な楽人の家を慣例的に『楽家』 と呼んでいる。一中 略― こうした世襲的な楽家は,京都,奈良 (南都),大坂 (天王寺)の二つの都市に集団を形成 した。一 中略―この三箇所の楽人を『三方楽人』『三方楽所』 と呼ぶことがある。」[寺内:2011:28-29]と 述 ベ<四
天 王 寺 聖霊 会>
四天 王 寺 の聖 霊会 は 毎年 行 われ て い る。 寺 内 に よる と,「聖霊会 とは,寺の創始者・聖徳太子の 法会のことである。太子の命 日は旧暦二月二二 日とされ,江戸時代まではこの日に聖霊会を行つていた。 現在は新暦四月二二日に行つている。」[寺内:2011:103]と述 べ て い る。2013年
4月 22日 に四天王寺の聖霊会 を拝見 した。六時堂前の石舞台で舞楽や声明で聖 徳太 子 を供養す る法要 が行 われ,参
拝者 のた めに説 明のアナ ウンス も行 われ ていた。 昼 ご ろか ら夕方 の5時
す ぎまでゆつた りとした時間が過 ぎてい く感 じであつたが,か
つ ては早 朝か ら夕方 まで時間 をか けて行 われ ていたそ うである。寺内は,「この行事は,平安時代に盛ん に行 われ ていた舞楽 を伴 う仏教 の法要 。舞楽 四箇法要 の伝統 を今 に伝 える貴重 な遺産 であ るか らである。 聖霊会の舞楽は,昭和 五一 (一九七 六)年
に国の重要無形文化財 に指定 され てい る。仏教 の法要 は,基
本 的 に,僧侶 の声 明の読 誦 (経な どを声 に出 して唱 え,歌うこ と)が中心 であるが,法要 の 中には,仏・ 菩 薩,高僧 等 を供養す るた めに数 々の芸能 を献 じる ものがあ る。 それ らの音楽や舞 は,単に楽 しみ として演 じられ るだけでな く,法要 の本 体 に有機 的 に取 り込 まれ,声明や僧侶の動作 と密接 に結びつ き,組
み 立て られ ている。舞楽四箇法要 とは<唄>,<散
華>,<梵
音>,<錫
杖 >と い う四種類 の声明 を含む法要 で僧侶の登退場や,声明の間 に雅 楽の奏 楽や舞 楽の上演 が ある。<唄>,<散
華>のみ含む法要は,二箇 法要 と呼ばれ る。」 [寺 内 :2011:104]と述 べ て い る。 四天 王寺 聖霊会2013.4.22
筆者撮影 南谷 に よ る と,「四天王寺において舞楽が演 じられる場合,聖霊会では『大太鼓』が,それ以外の場 では『楽太鼓』が用いられます。儀式において,『行 遭』が行われる際には,歩きながら演奏できるよう に担ぎ手が担 ぐ『`書 ` 実譲』も用いられます。聖霊会では,石舞台の南側に左右一対の大太鼓が置かれます。 現在では,十七世紀のは じめの元和の再興の際の豊臣秀頼公寄進の大太鼓が重要文化財指定を受けたため に,昭和四十二年に新たに制作された大太鼓が用いられています。これは,撥面の直径がニメー トルニ五センチもあ り,大太鼓台上に設置すると高 さ六メー トルにも及ぶ大太鼓です。左方では,太鼓の周囲を飾 る火焔の上部に龍が,右方では,鳳凰が彫刻 され,火焔の頂上には樺が立て られその先端には,左方では, 日輪,右方では月輪が輝いています。 一中略― 太鼓の演奏者は檸 を両手に,立ったまま伸び上がるよ う に してこれを打ちます。演奏法は,左手で打つ弱奏の『 図』 と右手で打つ強奏の『 百』の,弱と強の打ち 方を対に して奏す ることが基本 となっています。」[南谷:2008:112-‖
3]と
述 べ て い る。 太鼓 の 中央 に描 かれ て い る巴 につ いて 小 野 は,「中国の太極 (易学に発 し,宋学の宇宙生成論で重 視 された概念。気の原初の形で,それ 自体は形 も動 きもなく,ここか ら陰陽の二元が生 じるとする)の思 想 を表す もの。伝説上の帝王・伏犠が編み出 した宇宙観,すなわち虚無が二つの宇宙か ら構成 されてお り, 陰 と陽 とから成 り立っているとい う見方のもとに構図 され,たとえば男女,明暗,肯定 と否定など,極限 の対立 と調和を 象 つている。中国や朝鮮では二つ巴が用いられているが,日 本ではそ うした大陸の哲学的 伝統性 を受け入れなが らも,平安時代に奇数による 日本的統制の和 を示 した二つ巴を完成 させ,以後,三 つ巴をア レンジ した さまざまな紋が発展 した。」[小野:2005:114-115]と 述 べ て い る。 聖霊会 右の大太鼓 2013.4.22 筆 者撮影 図 6 聖霊会 左 の大太鼓 2013.4.22 筆者撮影 図 7<小
倉祗 園太鼓>
2013年
7月 20日,<祭
り>の
取材 で北九州市の小倉へ行 つた。その 日は 小倉祗 園太鼓 の2日
日,「お もてな し 太鼓」の太鼓体験 と第66回
小倉祗園 太鼓競演大会 があつた。筆者 の 目的は, 小倉の町 を歩 き,祭
りを肌で感 じるこ と と小 倉祗 園太鼓 に関す る文献 を調 べ ることである。JRガヽ倉駅前 に小倉 祗 園太 鼓 の説 明 が書 かれ た石 版 と と もに太鼓 とジャンガ ラ (銅拍子)を
打 つ少年3人
の像 (図9)が
ある。昭和34年
7月 建 立 と石板 に彫 られていた。 無法松 の碑 2013.ア.20筆
者撮影 小倉祗 園太鼓石像2013.7.20
筆者撮影 小 倉 駅 か ら都 市モ ノ レール小倉線 に沿 つて南 ヘ 歩いてい くと旦過駅が あ る。その近 くに、映画 「無 法松 の一生」 に登場す る無法松 (富島松五郎)の
石 石卑(図10)が
あ る。 作家岩 下俊作 の 「無法松 の一生」について北九州 市立文学館 資料 に よる と 「無法松 の一生」は,4回
映画化 され,も
との題 は 「富島松五郎伝 」 とい う。 「無法松の一生」のス トー リーは,人
力車引 きの松 五郎 が,戦
争で夫 を亡 く した奥 さんに恋 をす る話 で あ る。三船敏郎 が松五郎 を演 じた監督稲垣浩,脚
本 伊 丹万作 0稲 垣浩の映画 「無法松 の一生」は,1958
年 にベ ニ ス国際映 画祭 グランプ リを受賞 して い る。 この映画の中で,小
倉のJFE園祭 りの 日に松五郎が太鼓を打つシー ンについて [茂木:2003:141]は
,「戦後の創作太鼓に大きな影響を与えた。」 と述べている。 続いて北九州市の中央図書館へ行つた。(∂ そこで,小
倉祗園太鼓について調べていると 京都 の祗園祭 りと深い関わ りがあることがわかった。以下の資料は京都の祗園祭 に関す る ものである。ご
∬
l「祗 園祭 は
,古
くか ら祗 園会 (ぎお ん え)と呼ばれ,さらに御 霊会 (ごりょ うえ)と も称 され て,平
安 朝 の ころは国家的行事 として催 され た ものである。 そ もそ もは平安朝の初期,清和天皇 の貞観 十一年 (人六九)に
都 に疫 病 が流行 した こ とがあつ て,これ を退散 させ るために,六
十六本 の鉾 を立 てて神 輿 (みこ し)を神 泉苑 とい うところに送 って大祈藤 を修 し た こ とがは じま りだ とされ てい る。 医術 も幼稚 で,薬もなか つた時代 には,神仏 に祈 る こ と以外 には病魔 か らのがれ る道はなかったのである。 そ の ころ,政
治 の 中心勢力 で あつた藤 原 一 門の有力者 が四人 まで も,つぎつ ぎに病気 に倒れ,あるいは 落雷 に打たれ て死ぬ とい う事態 が起 った。 それ を偶然 の こ とで はな く,御
霊 (ごりょ う)の
タタ リである と信 じたのは,当時の御霊信仰 にもとづ くものである。 御 霊 とい うのは,人間の生活 に災危 を もた らす荒 あ らしい霊魂 の こ とで,多くは この世 に怨念 をの こ し て非業の最期 を とげた人 たち,ことに政争 に破れ て不慮の死 を とげた貴人 の霊 を さしてい る。病気や天災 地変 が しき りに起 るのは,それ らの御霊 があばれ るか らだ と信 じて,これ をなだ め,慰め しず める祭 りを 御 霊会 と称 した。 この御霊会信仰 は平安朝前か ら急速 にたかまって,その初期 か ら中期 にかけては一段 とさかんにな り, 中で も藤原氏 の有力者 たちに災害 をあた えたのは,筑紫 にながれ て,つい に辺地 で さび しく死んでいつた 菅原道真の御霊 の憤 りによるものである として,北
野天満 官 では さかんな御 霊会 がお こなわれ た。 これ よ り先,京都 の人坂 の地 には人坂神 社 が あつた が,御霊信仰 が さかんになるにつれ て,この神社 に 牛頭 天王 (ごず てんの う)がまつ られ る ことになった。ついで,人坂神 社 に近接 していた祗 園寺は天神, 婆利 采女,八王子 をまつ ってい るのだが,この寺で勅令 をもつて御霊会 を執行 す ることとなつた。 牛頭天王 とい うのは元来は牛 を護 るイ ン ド産の牛神 である。同時に仏教的 には祗 園精舎 の守護神 である。 さらに仏教 でい う牛頭 天王は,これ をわ が くにの古神道 で神格化す る と,武塔天神 とな り,またその名 を スサ ノオ ノ ミコ トとい う説が うまれ た。 そ こで,もともとは別箇 の存在であつた人坂神社 と牛頭天王 と祗 園寺 とは,同じ場所 にあるために しだ い に接近 し,ついには御霊会 とい う形 で合体 して しまって祗 園御 霊会 と称 され るにいたつた。人 間をなや ます悪病や 虫害 を防 ぐには,御霊 よ りも さ らに強い牛頭 天王,す
なわ ちスサ ノオ ノ ミコ トのお ん力 にす が る よ りほかない とい う信仰 なのである。 この京都八坂神社 の祗 園祭 は,毎年 二月 の終 わ りか ら六月 の十 四 日にかけてお こなわれ たが,なに しろ 荒れ神 を鎮 め るに荒れ神 を もつてす る祭 りであるだ けに,しだい にはなやかになった。神輿 に従 う山車(だ し)を主 とす る練 り物,ハヤ シ を中心 とす る風流 (ふうりゅ う)などがひ とび との興味をよび,中世以 降 は,華
美 をこ ら した 山車や鉾 な どの行 列,祗
園ばや しな どが祗 園祭 の特色 とな って,全国 にひ ろまってい つた。折か ら夏である。人間の病気 とともに,農村 で も稲作の虫害,牛
馬 の病 害 になや ま され る季節 であ るた めに農村 に も及 んで,御霊会 か ら発 した祗 園祭 はい よい よ盛 ん になった。」 [北 九州市教 育委員会 :祗園祭は
,荒
れ神 を鎮めるに荒れ神 をもつてす る祭 りであるか ら,華
やかになるのはわ かるが,そ
の祭 りをもとに した小倉の祗園祭が太鼓祗園 と呼ばれ るには,ど
うい う経緯が あつたのであろ う力、 ガヽ倉祗園の始ま りと伝説について以下の2つ
の資料がある。 「元和四年は初春以来,何
とな く不安な年 で千魃 が続 いて農 民 は田植 ができず:その上,領内の村 々に原 因不 明の悪 い病気 が流行 り,死者 が多 くな り,何
処 か ら,誰が 云い触 ら したか,流
言非語 が伝 わ り,人心 胸 々 と してい ま した。や がて,間もな く雨に恵 まれ ま したが,今度 は これ が又 大 雨 とな り更 に暴風 雨 をと もない,到る処 の河川 は大洪水 とな り,豊
前一国,大変 な災害 を うけた のです。仁君 と称 され た程の細川 忠興 は,直ちに,全
国諸 大名 が慾 しがつ ていた,父祖伝 来の銘器,什器,殊
に茶器類 は天下の珍品 をあつ めていま したが,これ 等 を京,大阪 にて売 り,黄
金 に換 えま した。そ して米,麦等 の食糧 を沢山買い入れ て小倉 に持 ち帰 り,罹
災者救済 に全部 あてたので,領
民か らは神 仏の よ うに感謝 され ま した。 更に人心を 安 定 させ るべ く,祗園社 に,領主 自ら,祈
願参籠 され た とあ ります。 間 もな く神慮 の程 が あつて,人心 も 少 し安定 したので,その御礼 と人人 の心 を和 らげる考 えか ら天下泰平,護
国安全,士民安穏,五穀豊穣, の祈願祭 を,故郷 の京都,人坂 の祗 園社の祭礼 と同 じよ うな盛大華麗 な祭典 とな し,領内の人 々を集 めて, 三 日三晩執行 されたのが,旧暦の六月十 日,十一,十
二 日だつたのです。これが『小倉祗園』の始まりで あると古文書に記されてありますから,丁度今から三百三十九年前 け)の音にあた ります。」[大限 :1957: 8] 「この人坂神社の創建 については,いかに も神社縁起 らしい伝 説がつたえ られ ている。細川 忠興 が狩 りに 出た折 り,たまたま愛宕 山にのぼる と小 さな石 の祠 (ほこら)が
あった。 それ で持 っていた杖 でその祠の 扉 を開け よ うとした ところが,中か ら一羽 の鷹 (υ 力`とび 出て くる と,はげ しく忠興の両 目を蹴 つて翔 け去 つた。失明 した忠興は,これ は神 の怒 りにふれ たのだ と恐個 して,非礼 を詫び,清
地 を選 んでその愛宕 山 の祗 園社 を移 して祀 つた。神慮 あ らたかで,や
がて忠興の眼病 は平癒 し,みご とにふたたび明 を得 た。 こ の清地 とい うのが鋳物師町 にあたる地だ とい うのである。」 [北 九州市教育委員会 :1970:8] 京都 の人坂の祗園社の祭礼 と同 じよ うな盛大華美な祭典 とされたのが,小
倉祗園の始 ま りである。次は,現
在の小倉祗 園が太鼓を主体 とした太鼓祗園になった とい う経緯が述ベ られた資料である。 「このよ うな初期の祗園か ら盛大な祭事芸能への移行 にはかな りの歳月を要 してお り,す
なわ ち寛永九年 (一六三二)月ヽ笠原氏 の入部 か ら数十年 を経 た元禄 ―享保年間 (一六人人一一七三六)にかけて よ うや く 成就 させ てい る。すなわち,城下町 とい う近世都市環境 の中で,商
人 の財力 を背 景 と して京都祗 園 と同型 の都 市型祗園 を完成 させ た とみ るべ きであろ う。/
藩政時代 の祗 園は御神 幸 にい ろい ろの趣 向をこ らし た傘鉾,人間飾 り山,踊
り屋台,三味線・ 笛 。鉦 の囃子,踊り子 な どが随従 していた。 これ を当時『 回 り祗 園』と称 していたが,これ に対 して町筋 を回 らず に 自分の町内に山車な どを据 えて太鼓 を打 ち鳴 らす「据 え祗 園」 もあつた。/しか し,第二次長州征伐小倉 国の戦いに よる小倉城 の焼失,長州 軍の小倉 占領,明 治維 新 な ど波 乱万丈 の 中で,山車 な どの祭礼用具は滅 失 して従来の祗 園の形式は失われていき,代わ って 今 日み られ る太鼓 を主体 とした特徴 のあ る祗 園へ と移行 していつた。/山車 の前後 に,直径約 五〇セ ンチ の太鼓 を一つずつ据 える。太鼓 は両面打 ちであるか ら二つの太鼓 に四人 の打 ち手 を配 し,ジャンガラ (銅 拍子)が二人 (一人 の場合 もある)ついて調子 を とる。一台六人 (また は五人)のチー ムで構成 され る。 一中略― 毎年七月十 日か ら三 日間行 われ ていたが,昭和六 十二年 か ら七月の第 二土曜 日を挟 む前後三 日 間に変更 され た。 昭和三十二年 に県指定無形民俗文化財,また 昭和三十八年 に古い山車五台 (安政 三年 一 明治 三十一年建造)が県指定有形民俗文化財 に指 定 され た。
/所
在 地 小倉北 区 伝承 団体 小倉祗 園太 鼓保 存振興会」 [北 九州市史 民俗 :1989:l190-1191] 以上の資料か ら小倉祗園は明治以後,現
在の太鼓祗園へ と移行 していったことがわかる。 小倉祗園太鼓は,太
鼓の両面打ちとして知 られている。次の資料は 「太鼓の音 と意味」 についてである。 「太鼓 の太 さは,直径,一尺三 寸∼尺五寸 までが定式 とされ て いますが,尺七,まれ に二尺 もの もあ りま す。 こんなに大 き くな る と,余程,力の強い人 でない と本 当の音は出ませ んで しょう。胴 は欅 (けや き) を く りぬいた ものです。/打
ち方 は両面打 ちで, 日本全国で一寸他 に見 当た らない珍 しい打法 です。一 中 略一 太鼓 の皮 の張 り方 で,一面は 甲高い音 を出 し,他面は少 しにぶ い気 味の濁音 を出 します。/甲高い 方 を表 (おもて)又本 (ほん)或は 甲 (かん)などと称 しています。濁音の方 を裏 (う ら)又は元 (もと) 或 は濁 (ドロ)といいます。勿 論,表と裏 とでは打 ち方が全 く違 います。大体,習い始 めは ドロ (裏)の 打 ち方 か ら始 め,上手 に打 て る よ うになつた ら,カン (表)の打 ち方 を覚 えるのが定法だそ うです。(裏) の打 ち方は,単調 で,「 どん こ,どん こ, どん こ, どん こ」一 中略一 カ ン (表)の打 ち方 は,難
しく,「 ど ん こ, どん こ どん, ど どん こどん, どん こ どん こどん, どどん こ どん,すつ とん,すつ とん, どこどこど こ, ど ど ん こ ど ん, ど ん こ ど ん こ ど ん 」 と,技
術 を 要 し ま す 。[大 隈:1957:21-22]
第66回小倉祗 園太鼓競演大会 2013.ア.20
筆者撮影<明
石 の とき打 ち太鼓>
次 の写真 は現存す る明石神社 にあ る とき打 ち太鼓 で あ る。 明石 市文化・ スポー ツ部文化 振興課 の資料 に よる と,明
石神社 にある太鼓 (図 13)の胴 はけや き作 り。中央胴周 囲270。5cm,直
径 たて80cm×
横79cm。
),皮
の周囲254cm,胴
の長 さ84cm,鉄
の留針54本
(図 14左側)・ 同50本
(図 15右側),皮
(左側)大
破・皮 (右側)小
破。明石城築城以来, 太鼓 門におかれ,時
刻 を知 らせ ていた もので,藩
主が皮 の張替修理 した墨書銘 (嘉永六年 他)(図
16)も
ある。「明石 の文化 史上 に意義深 い もので ある。」 と書かれてい る。 明石神社 にあ る時打 ち太鼓 2013. 5。19
筆者撮影 嘉永 六年 (太鼓 内側墨書) 皮 (左側)大
破 皮 (右側)月 ヽ破明石城研 究家 鷹野謹 吾 に よる と
,江
戸時代 の初期,元
和5年
(1619)に
新 しい明石城 が築かれたそ うである。県下では姫路城(15万
石)に
次 ぐ城 で あつた。本丸 を中心 に中堀 と外掘が計画的に造 られ,そ
の間は武家屋敷 になっていた。中堀の正面 (今の公園南入 口) に太鼓橋 と太鼓門があつたのである (図17参
照)。 太鼓 門は 「Tの
門」 と 「能 の門」の 2 つ の門で守 つていた。特に「能の門」は2階
建 てで城 内で一番大 きな門だつた よ うである。 この門の2階
に,「とき打 ち太鼓」が吊る してあつた。午前6時
の 「明け六つ」の太鼓 の合 図で,場
内の番人 は交替 を し,門
の大戸 を開いた。午前8時
は 「五つ」,午
前10時
は 「四 つ」たた き,武
士が登城 したよ うである。正午は 「九つ」で,午
後2時
は俗 に 「お人つ ど き」 とよばれていた。 この様 に2時
間 ごとに太鼓 を打 つて時刻 を知 らせ ていた のである。 午後6時
「暮れ六つ」の太鼓で門の大戸は閉 じられ,城
内の女子 は出入 りを止 め られた。 午後12時
「夜九つ」の最終の太鼓で響 戸 も閉 じられ,男
子 の出入 りも止 め られ た よ うで あ る。初代城主小笠原慧貴 が16年
間治 めた後,九
州小倉城 に移 つた。以後7代
城 主 までは 交替が激 しか ったが8代
城 主松 平置萌 にかわつてか らは,代
々世 爆子がつづ き,17代
城 主 松 平置簑 の とき明治維 新 を迎 えたのであ る。 江戸初期 か ら明治 にな るまで250年
間続 いた 明石城 の歴 史 と共 に,人
々の生活 と 「とき打 ち太鼓」 との関係 は,切
つて も切れ ない密接 な間が らだつたのであ る。 [明石 とき打 ち太鼓建設実行委員会 :1990:10]朗″ ヘ
入 共
Fl
平成
25年 (2013)11月
に兵庫県立図書館 館長補佐兼協力課長 宮本博氏に 「明石の とき打ち太鼓」についてお話を伺 つた。『 明石年中行事』(1850年写)の中には,「時斗坊主」 とい う職名が記 されてお り,『江戸時代役職辞典』には,「御太鼓坊主」「御時計坊主」「土 圭之間坊主」 とい う名前が記載 されているそ うである。『 江戸幕府役職集成』には,「御土 圭役坊主・御土圭間坊主」 として “お土圭の間に詰めて,殿
中の時間を正確 にす る係"と
あ り,さ
らに “御 土圭の間坊主の中か ら古参の者が時を定めて御太鼓櫓に上が り時の太鼓 を打つ役 を勤めた"と
い う話についても聞かせていただいた。宮本氏 より紹介いただいた 文献について記載 してお く。 [川 口:1981:20]に
は,「御太鼓坊主」「御時計坊主」「土圭之間坊主」 とい う名前が記 載 されている。[笹間:1972:298-299』
には,「御土圭役坊主・御土圭間坊主」の仕事内 容 「御土圭の間に詰 めて,殿
中の時間を正確 にす る係である。御 土圭の間肝煎は,御
土圭 の間坊主の取締 りである。」 と記 されている。また,466頁
には以下の通 り,仕
事内容が記 されている。 「御 土圭の間坊 主の 中か ら古参 の者 が時 を定 めて御太鼓櫓 に上 り時の大鼓 を打つ役 を勤 めた。御太鼓櫓 は御本丸の御切手 門内で大奥の御庭 口に近 い所 にあ り,太鼓 は直径約二 尺 (約一 メー トル),打ち棒 は樫 の 本 で約 二尺 (約七十セ ンチ)位
あつて先端 は赤 ん坊 の頭位 大 きかつた。太鼓 を打つための時の測 り方は約 二時間位 前 に箱 に鈴 を下 げた紐 を通 して抹香 をつ め火 をつける。 これ を高い ところに吊 してお く。抹香 が 燃 えて丁度― 刻 頃 にな る と紐 が焼 き切れ る と鈴 が落 ちてカ ラカ ラ と転 げ る。 この音 で深 夜睡 っていた坊 主 が 目を さま し,御櫓 へ駆 け登 つて時の太鼓 を打つ のであるが夜 は半夜替 りで二人 で勤 め る。 老 中の登城 は正四ツ (午前十時)までで あ るので,四,五人 の老 中が 出そ ろ うまで太鼓 を打つ ので,太
鼓 の間を他 の場合 よ り伸 ば して打つ。それ で も老 中が出揃 わぬ と,いつ まで も打 つてい る。老 中を遅刻 さ せ た事 に した くないか らで,この朝 の四ツだけは特殊 な打 ち方 を した。 夕刻 の七 ツ (午後 四時)のお太鼓 は櫓 の上 で,諸
方 の御 門に気 を配 りなが ら,長時間打 つてい る。 これ も,この太鼓 を合 図に御城 の御 門, 外郭 の御 門 も締 まるので,御城 内に居 る役人,商
人 等 は急いで下城せね ばな らないよ うになつていた。太 鼓 を打 ちきつて しま うと無提灯 の者 は通 さない掟 であ るので,お
太鼓 の鳴 り響 いてい る間に下城 できるよ うに長時間打 ち続 けるのであ る。 この御太鼓坊 主は同僚 中が金 を出 し合 つて一 日銀六匁ずつ を 日当 として出す ことになっていた。 この 日 当費用は坊 主達の俸禄 の御蔵米の中か らあ らか じめ差 引かれ て,これ を銀 に換 えて置 いた ものである。 御太鼓櫓 は坊 主以外 立 ち入 り禁上 の所 であつたが正月十六 日と四月十六 日には特 に御殿女 中に拝観 許可 が あったので,櫓内にはわ ざと坊主共が春画 を貼 つた御 りして女 中を赤面 させた と言われ る。」<太
鼓職人>
第1節
では,太
鼓に関する資料について述べてきた。 ここでは,太
鼓職人に関わる資料 について述べたい。 皮革製造業の創業 一石川県浅野太鼓の場午 浅野太鼓創業四百周年記念誌『 この道 四百年』によると,慶
長14年(]609)5月
に播磨 国 (現在の姫路市 を中心 とした兵庫県西南部)か
ら特に熟練の皮革師 として知 られ る播磨 屋左兵衛五郎 と,そ
の弟の治郎が加賀藩内の製革技術向上のための指導者 として,加
賀藩 三代藩主前田利常に呼び寄せ られた。 この2人
が浅野太鼓の前身である皮革製造業 を創業 したのである。以下『 この道四百年』の 「創業前夜」か ら抜粋す る。 「二人 がはるか遠 く加賀藩 まで赴 くことになつたのは,当時の皮革 の需要が全国的にこ とのほか盛んな た めだ った。牛や馬,鹿
な どの皮 を得 て,脱毛 してな め した皮革 は,古代 か らさま ざまな用途 に用 い られ てきた。古 くは 日本書紀に『 崇神天皇 (前九七年∼前三〇年。大和政権の初代天皇 ともいわれ る)十
二年 秋九月初て人民を 校 へて更に調役を科す。之を男の弓端の 調 ,女の手末 の 調 と云 う』と記 されている。 『 弓端の調』 とは,弓を使 つて捕獲 した獣の肉または皮などを献上するとい う意味で,す
でにこの時代に は獣肉を常食 し,その皮 を衣服などに用いていた ようだ。やがて平安中期以降,各地に戦乱が勃発す るよ うになると,馬具や 甲 冑,弓道具な どの製造に皮革はな くてはな らないもの となった。また雅楽や 田楽・ 猿楽,室
町時代に観阿弥・世阿弥によつて大成 した能楽な ど諸芸能に用い られる太鼓や鼓にも良質の皮革 が求められた。そのため諸国の豪族や武士は競つてす ぐれた皮革職人を召 し抱え,質の高い皮革の生産を 奨励 した。」[浅野太鼓創業四百周年記念誌編集委員会:2009:6-8] なぜ,熟
練 の皮 革 師 が播 磨 国 にいた のか。 日本 にお け る牛 の 定着 につ い て [小野:2∞
5:69]に
よ る と,「古くから “名牛"の誉れ高く,のちに特別な肥育によ つて近江牛や松阪牛などのプラン ド牛を生み出 した素牛が但馬牛 だ。農学博士の吉田忠が著 した『牛肉と日本人』によれば,初めて 朝鮮から但馬(現在の兵庫県北部)に牛を持ち込んだのは,新羅(古 代朝鮮の一国。七世紀に朝鮮半島を統一)の国の王子天 日槍 だと い う伝説があるとい う。」(図 18参 照)―中略―「『 日本書紀』には, 天 日槍ははじめ播磨の国(姫路市を中心とする現在の兵庫県南西部)に住み,その後近江(現在の滋賀県), 若狭 (現在の福井県西部)をへて但馬に移 り,出石に永住 したと記される。」この こ とか ら,太
鼓 の革 と して必需 品 で あ る牛 が どの よ うな経 路 をた どつて 日本 にや つ て きた か を推 測 す る こ とが で き る と ともに,播
磨 国 に熟練 の皮 革 師 が い た と想 像 で き るで あ ろ う。 _│“ ・師 導 │ 1「 F ‐)・ : ・ ´ 遭 菫 ノ■.: ■● , (□37)天Btrたとった 図 18 1 [/1ヽ野:2005:70]<太
鼓づ く りの工程>(
浅野13.9.15
筆者撮影)
2013年
9月 15日 (日)に
浅野太鼓代表取締役 専務 の浅野昭利 さんにイ ンタ ビューす る ことがで きた。加賀藩主か ら褒美 を授 か るほ ど皮革の品質が優 れている とい う話 の中で, 当時,戦
いの時 に相手か ら刃物 で切 りつ け られて も革 (防具)力 `刃物 を通 さず,命
が助 か つた とい う。 だか ら,人
の命 を守 るために腕 のいい職人が藩 内に必要だつたそ うである。 浅野太鼓 では大 きな太鼓 の注文 が あ るが, ることがで きない。そのため,屋
内用 は3尺
る。 日本 の太鼓 ブー ムにつ いて浅野 さん に聞いてみ た。東京 オ リン ピ ックや大 阪の万国博 覧 会 で太鼓 がブー ム になつた と聞いた こ とが あ るが,そ
れ はほん と うなのか とい う質 問 に浅 野 さんは,
日本 の各地域 の祭 りや芸能 の紹介 があったが,組
太鼓 として独 立 した演奏では な く,祭
りや芸能 の中で使用 されている太鼓 として紹介 されたのだ と答 えていただいた。 現在 の組太鼓 の演 奏形態 を確 立 した グル ー プにつ いては,田
耕 氏 (鬼太鼓座 の創 始者) の功績 について多 くのエ ピソー ドをお聞 き した。第1章
の第2節
で も紹介す るが,和
太鼓 の グループ鼓童の前身が鬼太鼓座 である。 第 1節では,日 本 の大鼓 に関わ る内容 を述べてきた。学校教育で和太鼓授 業 を した場合, 技術 的 な指導が多 くな りが ちだ と筆者 は考 える。 日本 の大鼓 が生活 の中で ど うい う風 に使 われ て きたか を知 るこ とに よ り,
日本 の伝統音楽 のすば らしさを理解 で きるのではないか と思 う。続 いて第2節
では,創
作和太鼓 が戦後,発
展 を遂 げて きた 中で,日本 だ けでな く, 世界 で も認 め られ た和太鼓集 団 「鼓童」 の ワー クシ ョップ を中心 に創 作和太 鼓 の多様性 の 実践体験 を述べて いきたい。 あま り大きな太鼓 を作つても建物の入 口を通8寸
までの大きさになる場合が多いよ うであ注 (1)檸は修復時の復元 と思われ るため
,製
作 当初 か らこの よ うな表現 だ つたか否 かは不 明。 [吉メ││: 1992:200] (2)六芸 (り くげい)とは周代 に士以上が必ず学ぶべ き科 日と定 め られた六種 の技芸。 [茅i村 : 1955:2504] (3)天神地祗 (てん じん ちぎ)とは天つ神 と国つ神。すべての神 々。 [新村 : 1955: 1678] (4)神楽 …神 を祭 るために奏 され る楽舞。 [浅香:1966:236] 東遊 …神 社 の祭 祀 に奉納す る雅楽歌舞。古 くは<東舞 (あづ ままい)>と
い つた。 [湊香 : 1966:20] 倭 歌 …大和歌の中で も,と くに大嘗委 の前 日の鎮魂祭 の式の中で奏 され るもの。 [漢看1淳 : 1966: 1310] わが国固有の文学た る和歌。 [新村 :1955:2419] 大歌 …わが国の宮廷 で二月節会・ 白馬 (あお うま)節会・ 踏歌節会 。大嘗祭 。新嘗祭 。な どの公 儀 に用 いた歌。 [新村:1955:297] 久米歌…古代歌謡 の一。久米部 (くめべ)が久米舞 に歌 う歌。 [発斤本f: 1955:699] 誅歌 …死者 の生前の徳 をたたえる歌 [新村 :1955:2531] (5)平安京や 内裏 の警護 に当た る部署。 (6)北九州市教育委員会 中央 図書館 奉仕課 の轟 良子主任 よ り小倉祗 園太鼓 に関す る資料 を提供 していただいた。 (7)現在 でい うと今か ら396年前であ る。 (8)[大限:1957:5]による と「鷹 とも又蜂 ともい う」 と書かれ ている。 (9)直径 たて80cm×横79cmと あるが,[石田:1997:107]には,「 片面は直径 が80セン チ メー トル で 。・ 。も う一方 は直径 が79センチメー トル」 とある。 [#1:http://Weborch■es.inm.ip/imgsecrch/shOW/C∞ 57857 2013. 10. 18] [#2:h十十p://―
JhO‐gagoku.com/histOry.htm1 2013.10.2][#3:hllpプ/shoSOin kunoicho.gojp/shOsoinPublc/deto‖ .do?treGureld 0000014826&idx■&mode=po‖
第
2節
創 作 和 太 鼓 の 多様 性 の実 践 体 験 ―鼓 童 の ワー ク シ ョップ を 中心 に 一 鼓童は,佐
渡を拠点に和太鼓を中心 とした音楽活動を 日本,世
界各国で25年
以上行つ てきたグループである。[鼓童文化財団研究所:2010]茂
木によると「鼓童はプロの太鼓 グループの中でも成功を収めていると言つてよい」[茂木:2∞3:175]と
述べている。な ぜ鼓童は成功を収めているのか。和太鼓を演奏するために佐渡で どうい う生活を している のかを取材 し,生
活体験を通 した太鼓 との密接な関係について述べたい。 ◇鼓童塾(塾長 齊藤栄一氏,担当 千 田倫子氏) は 「表現す る身体づ く り」 をテーマ としてい る。一 日の始 ま りは,体
操 か ら始 ま り,ラ
ン ニ ング,ス
トレッチ と太鼓 に向か う準備 を じ つ くりと行 つている。非 日常的な生活 を4泊
5日
体験 し,太
鼓 を演奏す るための生活 を続 けた結 果,日常 生活 で は得 る こ とので きな い 充実 した 日々を過 ごす こ とがで きたのであ る。 これ は,筆
者 の実践体験 である。 鼓童文化財 団研修所 (新潟県佐渡 市柿野浦 にある旧岩 首 中学校校舎)
参加者撮影<体
操・ ランニ ング>
朝 は体操 か ら始 ま る。塾長 (指導者) が 自ら大 きな声で号令 をかける。塾生(参 加者),研
修生,スタ ッフ,ここにい るす べ ての人が体操 に参加す る。続いてラン ニ ング。行 きは上 り,帰
りは下 りの 2km の コー スである。折 り返 し地点では全員 が来 るまで待つ。そ こまでた ど り着いた 人 に全員 が拍手 を送 る。折 り返 し地点で 全員揃 えば後半のスター トである。初 日は誰かがす るか らしなけれ ばな らない と拍手 を し ていたが,最
終 日には思 いや りの心が こもつた 自ら相手 を称 える拍手 になっていた。<食
事>
食事の世話は研修生が行 つている。研修生は2年
間,こ
の研修施設 (旧岩首中学校)の
学舎で過 ごす ことになる。その間,食事はすべて研修生が献立てを考えて作 る。食卓には, 佐渡で採れた野菜,魚
などをうまく調理 し,愛
情たつぷ りの料理をのせた器が並ぶ。 自給 自足に近 く,米
は研修生が食べ る半年分を育てている。研修生が 自分たちで植 え,育
つ姿 を見て, 自分たちの手で収穫 したものをいただ く。料理を目の前に して感謝の気持ちで胸 が一杯になるのである。食事の後片付けでキ ッチンに入つた時に,料
理の本がた くさん置 いてあつた。「なるほ ど!」 出された料理はどれ も美味 しかった理由がわかった。いくらよ い食材であっても調理す る技術が伴わなければいけない と思つた。 炊事場 にあ る料理 の本参加者撮影 食事 の後片付 けは とて も効率が よく
,テ
ーブル の上 に残 つたおかず をのせ,ラ
ップに包 んで冷蔵庫へ。大皿で各 自が好 きな分だ け とるので残飯 がほ とん どでない。お茶,コ
ー ヒ ー,紅
茶 は食後 に各 自で前 に取 りに行 く。食後 に 「お茶」 とい うのは,コ
ミュニケー シ ョ ンが とれ ていい と思 う。 ここでは,食
事 の決 ま りご とがあ る。4泊
5日の食事 のテーブル では,同
じ人 と席 を共 に してはいけないのである。最終 日の食事 までに全員31人
(指導 者,ス
タ ッフ3人
,研
修 生8人
,参
加者20人
)と
会話 をす る。約1時
間の食 事時間 を有 効 に使 い,交
流 のス ピー ドをア ップ させ る方 法だ と思 った。<掃
除>
掃 除の箇所 は①稽 古場②風 呂 。トイ レ③食 堂・ キ ッチ ン④廊 下。以上4箇
所 を4班
に分 かれて掃 除をす る。①,② ,④
は雑 巾が けをす る。班員 にイ タ リア人の女性がいた。雑 巾 の絞 り方がわか らなかつたので 「茶 巾 しば りの よ うにす るとよいです よ」 と説明 した。雑 巾絞 りで 日本 の文化 を感 じた。 トイ レを見れ ばその施設 の状態がわか る。つま り,汚
れや す い場所 を見れ ば,そ
こを使用す る集団が施設 を大切 に扱 ってい るか どうか とい う気持 ち がわか るものである。 当然 ではあるが,稽
古場 の床 は ピカ ピカ に光 つていた。<ス
トレッチ>
太鼓を叩く前の体の準備 に時間をかけていた。ス トレッチは足の裏か ら腰,背
中,首
, 股関節にいたるすべての部位 に対 して行 つた。足や手の筋肉を伸ばす ことによ り,左
右の バランスに気づ くことができる。特に太鼓に向けては肩の硬 さのチェック (背中に回 した 手を組む)が
重要である。 ス トレッチは①か ら⑪まで通 して行 う。②∼⑦、⑩は左右交互、③は前後左右行 う。 ス トレッチ① 足を伸ば して座 る 足のつま先を掴む ス トレッチ④ 正座・左足を後ろヘ 上半身 は背 筋 を伸 ばす ス トレッチ② 正座・左足を伸ばす 上半身を後ろヘ ス トレッチ⑤ ④の姿勢 右足首を外側 ス トレッチ③ 右足を曲げた上に 左足をのせて曲げる ス トレッチ⑥ ④の姿勢 右足首を内側ス トレッチ⑦ 横 向 き で 足 を あ げ
て とめる
5秒
ス トレッチ③ 首のス トレッチ
ス トレッチ⑨ 仰 向けに寝 る 両足 を頭 の上ヘ ス トレッチ⑩
-1
左足 を曲げる 左 膝 の上 に右 膝 を のせ る ス トレッチ⑩-2
右足 を曲げ る 右 膝 の 上 に左 膝 を のせ る ス トレッチ⑪ 開脚・上半身 を前ヘ 息 を吐 き な が らゆ つ くり前ヘ<体
操>
ワー クシ ョップの後半で,指
導者 がオー ケス トラの打楽器奏者 か ら習 った体操 を紹介 し ていただいた。 この体操 は手首・肘・ 肩 と段階的に準備運動 してい くのが効果的である。 ここでは,手
首 と肘 の体操 を紹介す る。 手 首 を交互 に 曲げ る ひ じを交互 に 曲げ る (撮影協力 :中 村佳奈子氏)<桶
胴太鼓 の調律>
桶胴太鼓 をl台選 び,調
律 か ら始 める。調べ (紐) をすべて外 し,太
鼓 の皮 の 張 り具合 を確認 しなが ら, 自分 の好みの音色 に仕 上げ てい く。長月同太鼓 の調律 は 専門の知識 がない と難 しい が,桶
胴太鼓 は調べ の締 め 具合 で専門の知識 がな くて も音 の高低 を変化 させ るこ とがで きるのであ る。 そ う い う点においては普段授業で使 う長胴太鼓 とはまた違 った良 さがあると言 えるだろ う。 【調べの締め方】締め方がわかるように調べを水色 と赤色で色分けしているが, これは 1本 の調べである。 桶胴 太鼓参加者撮影 ト 一 タ ス ら カ こ こ 合 ︱ ︱ ロ 水色 の線 (紐
)が
太鼓 の二面 を結ぶ調べ 太鼓 を横 に して下の赤い線 (紐)か
ら上の方ヘ 締 めてい く 紐 が交差 してい る部分で矢印→ が上 にあ る紐 調べ が余れ ば ここに巻 きつ ける なれ ば音は高 くな る<太
鼓の響きを感 じる>
太鼓は一人l台
使用す る。5人
ずつのグループを作 り,A∼
Dの
4つ
の班 を作る。練習 に入 ると指導者か ら「20人
の1打
音を一箇所 に集めるよ うに」とい う指示がでる。参加者 は遠 くに良い響きを届かせ るために叩き方を工夫 して音を飛ばそ うとす る。音を集 めるた めには,良
い響きを作 らなければな らない。指導者 か ら 「熱 き心を持つて打つ ように」 と い う指示がでる。工夫 と気持 ちを込めることで音色が,響きが変化 していくのがわかつた。 実際に自分の腕の動きを確認 してみると,バ
チを持つ手は頭上に しつか りと振 り上げ,打
ち下ろしていた。A班
5台 5人
B班
5台
5人
C班
5台 5人
太鼓 の配置 参加者撮影<太
鼓 の基本練習>
人分音符で4つ
打 ち (ドコ ドコ)を
A班
か ら順 に演奏す る。A班
(ドコ ドコ)→ B班
(ド コ ドコ)→
C班
(ドコ ドコ)→ D班
(ドコ ドコ)と
演奏 し,他
の班が打つ ときは休みであ る。続いて応用が始 ま る。指導者 が拍子木 を使 つて合図 を出す。拍子木が2回
鳴 る と逆回 りになるので ある。例 えば,A班
→B班
→C班
→D班
(拍子木2回
カ ンカ ン)→
C班
→B 班→A班
→D班
→C班
(拍子木2回
カ ンカ ン)→
D班
→A班
・・ 。となるのである。 筆者 はC班
で演奏 していた。その時,自 分の前 に演奏 してい る班員 を一生懸命 に見てい た。演奏が途切れ ない よ うに集 中力が高まつていた。<指
導のポイ ン ト>そ
の1 鼓童塾の参加者は年齢 も15歳∼60歳
ぐらいまで と幅が広 く,学
生か ら中学校教師,消
防士,企
業に勤めているな ど多種多様な人の集ま りである。始めてバチを握つて太鼓を演 奏す る人 もいた。参加者が演奏 を間違 えた時は指導者が 「ヒーローですね。みなさん。 ヒ ー ローになつてください。」と言つた後に「これ をソロと言います。みなさん,ぜ
ひ,ソ
リ ス トになつて くだ さい。」とミス した人を励ますのである。ミスを してそ う言われ るとがん ばろ うと思 うものである。<太
鼓の曲練習>
口唱歌を覚 えて曲を練習するのであるが,A,B,2つ
のパー トをそれぞれ演奏す る場合, 日唱歌の言い方を変えているのである。Aは
ドンコンや ドコ ドコに対 してBは
ス トス トや ス ッ トンである。日唱歌の練習を している時にAか
Bか
どちらのパー トを演奏 しているの かがわか り,2つ
のパー トにおけるテクスチュアを理解す る上で効果的である。Aパ
ー トBパ
ーート ドンウン ドコウン ス ッ トン トトン ト ドコンコ ドコンコ ス トス トス トス ト ドン,
トンは四分音符。 ウン,ス
ッは四分休符。ドコンコ,
トトン トは人分音符,四
分 音符,人
分音符である。<数
を覚 えて演奏す る工夫>
集 中力を養い,楽
しく暗譜す るための練習があつた。①∼⑩の リズムのパーツお よそ93 拍 (四分の四拍子で考 えると23小
節)を
つないで演奏する。演奏にはルールがあ り,①
(偶数拍)を
演奏す る場合は,次
に体みを2拍
(ウンウン)を
入れ る。② (奇数拍)を
演 奏す る場合は,次
に1拍
休み (ウン)を
入れ る。 とい うふ うに①∼②,①
∼③,①
∼④, ①∼⑤・・・①∼⑩ を演奏 してい く。23小
節 を一気に覚えるのは大変だが,リ ズムのパー ツを積み重ねて覚えていくと案外できるものである。 このよ うに して一つの リズムパター ンを覚えてい く工夫が されているのである。 ①4
ドコ ドコ ウン ウン ②5
ドコ ドコ ドー ウン ♪♪♪♪2拍
休 み ♪♪♪♪♪一 1拍 休み③
8
ドコ ドコ ドコ ドコ ウンウン ④4
ドコ ドコ ウンウン ⑤16
ドコ ドコ ウン ウン ⑥ 4 ドコ ドコ ウンウン ドコ ドコ ドー ウン ドコ ドー ウン ドコ ドコ ドコ ドコ ドコ ドコ ♪♪♪♪♪♪♪♪2拍
休 み ♪♪♪♪2拍
休 み ♪♪♪♪2拍
休み ♪♪♪♪♪一 1拍 休み ♪♪♪― 1拍 休み ♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪2拍
休 み ⑦ 5 ③ 3 ⑩<指
導のポイ ン ト>そ
の 2 グル ープの演奏順変更及び リズム変更,あ
るいは休上 の指示 で用い られている拍子本 は 極 めて重要で あ り,非
常 にわか りやす い合 図 となつていた。<表
現力 を養 う>
「
TUWE TUWE」
ア フ リカのガーナ の音楽38拍
(16拍 →16拍→6拍
)で
即興身体表現 を した。20人
の参加者 をABチ
ー ムに分 けて 10人 1組の グループを作 り,「TUWE TUWE」
の音楽 に合わせて即興身体表現 をす る。 下図の
Aチ
ー ムのAさ
んがチー ムの先頭 に立 ち, 音楽 に合 わせ てパ フォーマ ンス を しなが ら16拍前進 し,16拍
後退す る。他 のC∼
Sさん もAさ
んの身体表現 の真似 を して前進 し,後退す る。左側 のAチ
ー ムの演奏が終わる と右 側Bチ
ームの Bさ ん とい う順 でABチ
ームが交互に出て きて身体表現 をす る。A→B→C→
D→
・・ 。・Q→
R→ S→Tと い う流れ で20人
のパ フォーマ ンス ×3セ
ッ ト,合
計60の
パ フ ォーマ ンスを した。参加者一人一人 の個性的な即興表現 に刺激 を受 けて,自
分 も表現 の正 夫 を しよ うとい う気持 ちで取 り組んでいた。Aチ
ームBチ
ー ム この即興身体表現では,ア
フ リカの音楽 に触れ ることがで きた。 また,親
しみやすいメ ロデ ィー と躍動す る リズムの組 み合 わせ によつて,参
加者 の表現意欲 が高まつていた。 こ れ らの表現活動 を通 して何 を学習 したのかを学習の成果 として述べたい。 ①個人 として16拍の即興身体表現を3パ
ターン考えることができた。鎗1作) ②参加者全員のパフォーマンスによつて60種
類の身体表現を行つた。その表現行為 をす るために,身
体の様々な部位を使つて即興身体表現を体験す ることができた。 (運動・身体表現力) ③約20分
間休憩なしで行つたため,持
久力がついた。(運動・持久力) ④Aチ
ームとBチ
ーム,そ
れぞれ対抗意識が生まれ,チ
ームでまとまったパフォーマ ンスをしようとい う協調性が育まれた。(協調性) 以上4つ
(①創作能力②身体表現力③持久力④協調性が育まれる)の
成果があつた。 S Q O M K I G E C A T R P N L J H F D B<指
導 のポイ ン ト>そ
の 3参加者 の運動能力 に差が あつたた め
,指
導者 か らあま り無理 のない運動 (速す ぎない動 き等)を
す るよ うに指示 があつた。 この適切 な指示 によつて,
自分 も含 め参加者 の不安 を 取 り除 くことがで きた。 この こ とか ら,集
団で同 じパ フォーマ ンスをす る ときは集 団の能 力 を考 えて,そ
の集 団ができるパフォーマ ンスを考 えるべ きであると思つた。岬 MAMALISに COM
TUWE呻
http://―.mOm。‖so.com/?十=em&o=3174&c=36 2013.9.19
1
1
<創
作>
参加者は好 きな食べ物 を頭に思い浮かべて,そ
の食べ物の名前を心の中で唱え,
リズム を作 る。それを指導者が聞いてホフイ トボー ドに書 く。以下の6つ
の食べ物について参加 者か ら提案 された。次にホワイ トボー ドに書かれた食べ物を指導者が①か ら⑥の演奏順に 並び替え,①
と⑤ を3回
繰 り返 し演奏す ることと,①
の4拍
日,⑤
の3拍
日と⑥の1拍目 に休符をつけた。 食べ物の名前 を目唱歌に して演奏す る。 (●四分休符 ○人分休符4→
四分音符8⇒
人分音符) ①カラムーチ ョ×3 8 8 4 4
● ② ロース トビーフ4 8 8 4 4
③おにぎ りせんべい8 8 8 8 4 4
④カンパ リソーダ4 8 8 4 4
⑤テ ィラミス×3 8 8 8 8
● ⑥カ レーライス08 4 4 4
<指
導のポイン ト>そ
の 4 指導者は参加者が創作 した リズムを①∼⑥の順に並び替え,曲
として仕上げるために体 符 (①,⑤
,⑥
)を
入れ,拍
子 を変化 (⑤のみ3拍
子)さ
せていた。<ま
とめ>
鼓童塾の初 日に塾長か ら「非 日常の生活を楽 しんでください」 と言われた。4泊
5日の 佐渡での生活は,確
かに非 日常であつた。テ レビもない。携帯電話 も圏外。 コンビニもな い。ただ,太
鼓を打つ 目的で集 まつた20人
と鼓童のスタッフとの生活であつた。 朝,日
覚め,大
部屋 にいる人たちと「おはよ うございます」 とあい さつを交わす。 布団をたたみ,
トレーニングが始まる。体操,ラ
ンニング,朝
食,片
付け,掃
除,ス
トレ ッチ,練
習,昼
食,片
付け,ス
トレッチ,練
習,夕
食,片
付 け,講
話で 1日 が終わる。非 日常の生活であつたが,こ
れが本当の人間の生活ではないか と実感 した。 太鼓を打つには,ま
ず 自分の体を知 ること。 自分の体を知つた上で,
トレーニングに励 み,体
を鍛え,心
を磨 く。そ うすれば,
自ず と太鼓は上達 していつたのである。 この非 日 常が,鼓
童の音楽を作 り上げていることがわかつた。第
2章
和太鼓 の授業実践
第 1節
教材 「海峡たぬき太鼓」について
教材「海 峡たぬ き太鼓」は久保 山治氏(1948-2005)に
よる和太鼓のための曲である。 この曲は海 にすむ生 き物 をテーマに創作 された詩 に リズムをつ けて歌 う (以下 口唱 歌 と い う),7つ
の部分で構成 され てい る創作和太鼓 の曲である。 この曲を演奏す ることによ つて和太鼓 の基礎 的 な奏法 を身 につ ける ことができる。 また、全体の響 きを感 じ取 るこ とに よつて,表
現 を工夫 しなが ら合 わせ て演奏す ることがで きる。図49は
演奏順 に並ベ た 日唱歌である。 「海峡たぬき太鼓」 ※(―)はのぼす印 ① さあいこうかな さあいこうかな 102・ 3・4
さあいこうかな ② さかな いるか さかな いるか 1・ 2・ 3・4
さあいこうかな ③たいたい いたいた たいたい いたいた たいたい いたいた たいたい いたいた ④ くじら くじら くじら いるか みつけた くじら くじら くじら いるか みつけた ⑤ どこいつた一 あっちだよ― どこいった一 あつちだよ― 1・ 2・ 3・4
さあいこうかな ⑥ とび うお とび うお とび うお とび うお とび うお とび うお とび うお はねたよ ⑦ さあいこうかな さあいこうかな図