戦争体験記録の課題と方法
石 原 昌 家
現 状 と 課 題
いま,沖縄は市町村史ブームといわれている。市町村史はおろか,字(部落)史(誌)に至 るまで続々発刊されている。これは,1945年の沖縄戦で,各市町村・字の公式記録文書のほ とんどが灰儘に帰したこととも関連しているであろう。すなわち,戦後世代が人口の大半を占 めつつある現在,各市町村字の歴史が,永久に陽の目を見なくなる部分が出て来たため,古老 の記憶に基づき記録に残そうという気運が醸成されてきたといえよう。
したがって,このような市町村字史の最近の傾向として,特徴的なことのひとつは,戦争体 験(1931年‑45年の十五年戦争)の記録が,地域史の中で大きな比重を占めるようになって
きたことである。
たとえば,1982年12月に刊行された『宜野湾市・第三巻資料編二』は,$'市民の戦争体験 記録〃で埋めつくされており,それは,全七巻の市史の一巻を占めているのである。沖縄県史 二十四巻のうち沖縄戦の住民記録が二巻にすぎないのをゑても,その比重の大きさがわかるで
あろう。
ところが,単に量的に体験記録が増えただけではなく,その内容に質的な深まりを見せてき
たことが特徴的なのである。
沖縄戦の住民サイドの本格的な記録といえば,沖縄県史の第九巻,第十巻を塙矢とする。そ こで執筆者が直接,体験者から聞き書きする方法を用いて,なまなましい戦場体験を再現して
いったのである。
このような聞き書きによる戦争体験の記録が各市町村史のなかにも波及していく過程で質的
深まりを承せてきた。
つまり,県史段階ではあくまでも研究者中心の執筆者グループによる記録運動といった性格 が強かった。しかしながら,前記宜野湾市史の例でみると,その執筆者は,各界各層にわたる 宜野湾市民を中心に,その本務のかたわら聞き取り調査,編集作業にかかわってきている。し かも,約3百人の市民から聞き取り調査を実施しえたということは,その記録作業が市民の戦 争体験記録運動として展開したことを示すものである。
このような記録運動の広がりは,1984年3月発刊予定の『浦添市史・第五巻資料編四』の
記録作業のなかで新たな展開模様を呈している。
それは,沖縄戦の戦災実態調査の調査主体者として,戦後世代が担うようになってきたこと である。戦争当時の浦添村の各部落毎(18字)に全戸の家族人数,戦死者数,日本軍の民家 利用状況,家屋の被災状況,住民の避難壕,日本軍の陣地の位置等をその土地の古老から聞き 取りしていく作業が,1980年11月末から1983年3月にかけて,43名の20歳前後の学生(沖
縄国際大学)たちで調査が進められてきた。この間,お年寄りたちとの接触過程で,戦争体験 の承ならず生活史全般を聴く機会も多く持つことによって,世代間の断絶を埋め合わすという 作業を営むことにもなった。ここで,戦争の悲惨さを次代に語り継ぐ。ことを責務と考える若者 層が誕生し,「戦争体験記録研究会」が結成され(1981年12月8日),調査活動が開始されて
いる。
また,戦争体験の記録が,単に各市町村での沖縄戦体験にとどまらず十五年戦争の全体像を 視野に入れて記録する方向が生まれていることもひとつの特長である。
沖縄戦体験だけにとどまった場合,沖縄戦における被害の側面だけしか見えにくい状況にあ ったが,十五年戦争を視野に入れることによって被害の承ならずアジアの民衆に対する加害の 側面もにわかにクローズアップされてきた。
それは,戦争体験を記録する視点の問題であり,今後も続くであろう市町村字史における戦
争体験記録の課題でもある。
言うまでもなく,私たちはその記録を通して,戦争の悲惨さを追体験し,平和のゆるぎない 思想を形成して,戦争の愚かさを説くことができなければ無意味であろう。
しかしながら,単に体験の記録にとどまらず,戦争の本質を見極める努力も欠かせない。
たとえば,「満州」開拓移民者たちが,1945年8月,肉親,友人,知人同士で集団自決した 事件が相次いだ。その凄惨な現場からの生存者がその体験を語るとぎ,「あのとき日本軍の力 が強大であったならば,あのような不幸は防ぐ・ことが可能だったであろうから,今日,軍事力 をもっと強化しなければならない」という結論を導き出している。
ここでは,十五年戦争のなかでその体験を位置づけて行けば別の結論が導き出されるはずで
ある。
今日,戦争体験が「こうすれば勝てたのに」「だから軍備を強化しなければならない」式の
視点で,一方の潮流として記録が進められている。
このようななかで,日本で唯一地上戦闘に巻き込まれ,国民と軍隊の関係をつぶさに体験し た沖縄県民は,その体験を通して全国に平和の有り様を提起できる立場にある。市町村字史の 戦争体験記録の視点は,後者の立場が貫かれていなければならない。
戦災実態調査一戦争体験記録の方法
市町村字史における沖縄戦の体験記録も,沖縄戦の全体像を解明するものでなければならな い。ところが,現在各市町村における沖縄戦の戦災状況についてもまだ全体調査が進められて いない。日本政府は国民に対する義務として戦災の実態調査をしなければならないはずであ る。しかしながら,政府には,それを実施する施策がないし,今後もそれを期待できない。沖 縄県当局においても同様である。いまそれが可能なのは,市町村字史を編集計画している市町 村字段階だけである。しかも,各市町村字各戸全体の戦災調査が実施可能なのは,インフォー
マントの高齢化が進んでいるので,ここ数年以内に限られている。
各戸別戦災実態調査は,沖縄戦被災の全体像解明に欠かせない基礎作業のひとつであり,体
験の聞き取り調査と合わせて早急に着手しなければならない。
戦争実態調査の質問項目
数年間の試行錯誤の末,最小必要限度の調査項目は,資料1.の調査票に記入されている通
りに限定された。
まずこの調査票の基本的性格をあげていく。
この戦災実態調査においては,日本で唯一国内戦場と化し,地上戦に巻き込まれた沖縄県民 の戦災の実態を明らかにするという目的をすえたので,1,2の家族人数と戦死者数は,1945 年(昭和20)時点沖縄にいたひとがその対象となることを明確にした。
したがって,米軍上陸以前に山原(沖縄本島北部)へ避難,疎開したひとも,それが昭和 20年に入ってからの行動であっても,1,2の数字の中に入ってくる。
また昭和20年段階での防衛召集,徴兵なども沖縄内におれば1,2の数字に入れるが,そ のとしの数少ない県外疎開者は例外的に7,8へ記入する。
また,1,には戦争中壕の中で生まれた子供も含まれることを強調しなければならない。
その多くは間もなく死んでしまっているので,家族人数や戦死者の数に入れることを遺族の ひとですら落としがちである。2,には収容所の中で死んだひとも当然含めて考えなければな
らないし,その例はかなり多い。
次に,3,家族の被害状況については,沖縄戦終結時点では戦災を免れていても,住民が戦 後収容所から元居住地に移動する以前に米軍が基地建設のため破壊した場合も,3のア全壊,
として記入する。
さて,この調査においては単に砲煙弾雨による被災の承ならず,沖縄守備軍としての日本軍 が「有事」の際にいかなる形で住民の家屋を利用していったかを全戸数調査しているのも大き な特徴である。これによって,日本軍の民家利用のしかたと利用者の概数も捉えることができ る。なかでも日本軍部隊が「慰安所」を設置していった実態も各地域で明確に記録できる。
沖縄戦・戦災実態に関して,全家族については以上がその調査項目である。
しかしながら,その家族の一部または全部が県外において兵役に就いていたり,疎開してい る例もあるのでそれは,5〜8の項目で把握している。
また,出稼ぎ・移民家族も9,10の項目で一応記録している。しかし,それは沖縄戦時に
おける住民の動向を探る附髄的調査といえる。
すなわち,5〜10までの項目は,1と2の数字をより正確にするための補助項目といった 性格も持っている。この調査結果に基づいて,戦災地図を作成することが可能になる。
さらに戦災地図に記入するために,日本軍の陣地の位置,その種類,兵員の概数や住民の避 難地帯(墓,人工壕,自然壕の区別)その名称,避難者の概数などや特設的事項(例えば集団
自決場所)を聴き取り調査で記入していく。
調 査 方 法
字単位で調査をして戦災地図を作成していくとぎ,最も基本的なことを記入していく。
昭和20年時点の復元地図を作成するわけだから当然,記憶力のあるインフォーマントを探 し出すのが肝要である。大抵の場合,部落は各班(ないしは各番組)に細分化されていた。そ して各班は,おおかた30戸前後から成っている。したがって,昭和20年当時,その部落にい たひとで,その班(番組)の各家族構成の動向に詳しいひとを4〜5名,場合によっては1〜
2名でも探し出すことである。
調査の手順として,まず各班(番組)の屋号を列挙してもらい,その位置を地図として復元 していくのである。その際,最も注意しなければならないことは,道路,屋敷の広さについて 正確を期すことは全くないことである。もっぱら,その位置確認だけを目的とするものである ことをインフォーマントに伝えなければならない。さもないと,思わぬ土地の境界線争議に巻 き込まれるか,誤解されて調査不能になる可能性が各地に潜在的にあるということを留意して
おかなければならない。
このような各班の細分図をつなぎ合わせていくことによって,ひとつの字(部落)の全般図
が完成する。
また,屋号を知ることによって家族調査が混乱なく実施できるのであり,屋号を記録できる か否かが,この調査の成否を決定づける。屋号でしか家族調査を進めることはできないといっ ても過言ではない。(但し同一部落内に同じ屋号名が復数存在する場合もあり,例えば次男,
三男などと区別しなければならない)。
調査結果の若干のコメント
屋号でしか呼称しなかった時代の集落の復元図作成作業をしていると,結果的に「屋号調
査」という思いがけない記録もできた。
資料2,資料3の戦災地図と戦災実態調査票は,これ主での調査済地点よりアトランダムに
取り出して掲載したものである。
その数字をゑて承ると,1945年当時,安波茶部落の全戸数60戸中,一家全滅家族は26戸 を占め,全滅率43.3%,人口209名中134名で,64.1%の戦死率を示している。
沖縄戦での戦死者数について,日本政府は軍人軍属の戦死者数はその端数まで把握している
が,住民の戦死者数は概数でしか確定していない。
しかしながら,この戦災調査では,一家族,一部落,一市町村の戦死者数が確定してくる。
そして,戦死者数何人という抽象的数字が,ひとりひとりの死にざまを伝える具体的数字とし
ての重承を持って,調査者に迫ってくる。
この調査を通して,次の点も明らかになった。
沖縄戦では,尺寸の土をも残せないほど焦土化した地域もあり,役所の戸籍簿や土地台帳な ど重要書類も焼失してしまった。戦後個人申請によって戸籍簿を作成していったとき,戦死し た身内を「どうせ死んでしまっていない」ので,戸籍簿に記録しなかった例もある。つまり,
戦死した家族員数が,戸籍簿から抹消されたことになり,この世に生をうけていないことにな
っている。当然,公式の戦死者数としても記録されていない。
したがって,われわれの調査によって,抹消されていた戦死者が記録のうえに甦ってきたの である。しかしながら,その数がいかほどかは確認していない。判明したことは,沖縄戦にお ける住民の戦死者数の公式記録が杜撰であるということである。
(本稿は沖縄県立平和祈念資料館『資料館だより』恥2の「市町村史のなかの戦争体験記 録」とひるぎ社『地域と文化』第10号.1982.2.15「沖縄戦・戦災地図作製,戦災実態調 査について」を部分的にかえて,一部掲載したものである)
資 料 1
戦 災 実 態 の 家 族 調 査
字 名 屋 号
調 査 年 月 日 年 月 日 調査員 現在の世帯主
1.家族人数 2.戦死者数
3.家屋の被害状況(アかイに○をつける)
4.日本軍の家屋利用
(該当するものに○をつけ,だいたいの 人数を記入する)
5.1945年以前に兵役につ↓、た人数(県外)
住 所
1
(特記事項)
運1.2の数字は1945年(昭20年)に沖縄にいた人 (戦争中,たとえば壕の中で生まれた子も数える。)
(収容所の中で亡くなった人も数える。) 全 壊 イ . 残 家
ア .
ア . 兵 隊 宿 泊 ( 人 ) イ . 炊 事 場
ウ.糧秣倉庫 エ ● 慰安所人(慰安婦)・出身別内訳
6.戦死者数 (県外での戦死)
7 . 疎 開 者 数 (県外への疎開) 8 . 疎 開 先
9.出稼ぎ・移民数 10.行 先
浦 添 村 の 戦 災 実 態 調 査 表 当 山 資 料 2
(「浦添市史」第5巻405頁)
※日本軍民家利用※家屋被害※慰安所
○10人未満 状 況
△ 別 人 未 満 ○ 残 家
A・朝鮮人 慰安婦 口 別 人 以 上 B ・ 沖 縄 人
☆ 糧 秣 倉 庫 他 × 全 壊 慰安婦
t o
地 図
番号 屋 号 家族
数 戦 死
者 民家 利用
家 屋 状 況
慰 安 所
釦 31 塊 認 34 35
亀佐久川 山佐久川 三良佐久川 樽内間小 佐久川小 村 屋
8 1 2 9 7
4 1 2 2 2
□
×
×
×
×
○
×
1
(空屋敷)鋪
知名小2 2 ×
2
東平敷2 0 × 訂
牛内聞小5 2 ×
3
東石原小6 2 × 詔
松石原2 2 ×
4
三男屋良小5 5 × 弱
石原3 1
○×
5
与 座 1、5 1 × 40
下ヌ田場小7 5 ×
6
亀石原3 3 × 41
牛佐久川6 4 ×
7
富名腰小7 2
氏
× 42
富名腰4 2 ×
8
樽比嘉4 4 × 43
仲 嶺9 3
○×
9
(空屋敷)44
平敷4、 移民10
比 嘉6 3 × 45
ハ ン タ ヌ 上 空屋敷11
屋 良 4、6 6 × 46
大安和小4 1
○×
12
亀内間6 2 × 卿
与那嶺1 1 ×
13
前平敷小6 3 × 48
三良安和小7 6
○× 14
加那比嘉10 7 × 49
仁王富名腰6 4
○×
15
加那平敷小10 6 × 別
次男安和小1 0 ×
16
太郎平敷小5 4 × 51
蒲戸安和4 0
○× 17
多和田2 1
□× 52
次郎安和小4 3
○×
18
(空屋敷)53
樽安和4 3
○×
19
西平敷4 3 × 54
与那嶺小5 4
○×
別
(牢屋敷)55
(牢屋敷)21
蒲戸平敷3 3 △ × 56
照屋小3 2 ×
22
上 ヌ 田 場 4、7 3 × 師
次男与那嶺小6 1 ×
23
東内間3 1
○× 58
又 吉 小2 1 ×
24
森小根1 0 × 弱
サーターヤー(3期 ○×
25 妬
路 酌
(空屋敷)
大内間 三良内間小 石 原 4、 樽佐久川
3 7 5 1
2 4 2 1
○
×
×
×
×
一一一一 世 帯 総 数 4 9 戸 家 族 総 数 2 2 9 人
紛紛粉05252852
人戸戸61421
数帯帯者灘雛死雄購戦一戦
〃(入。
住民避難場月 日 本 軍 陣
捧齢喜瀞剖熱s難鯛斤計蕗
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三−ガーラー(川)二 − 当 一 一 − 一〆
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ー 全 」 医 ミ グ ー
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(I浦添市史」第5巻404II)