• 検索結果がありません。

9.11後の「人間の安全保障」について沖縄からどう考 えるか?

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "9.11後の「人間の安全保障」について沖縄からどう考 えるか?"

Copied!
7
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

9.11後の「人間の安全保障」について沖縄からどう考 えるか?

著者 屋嘉比 収

雑誌名 PRIME = プライム

号 17

ページ 53‑58

発行年 2003‑03

URL http://hdl.handle.net/10723/554

(2)

2001年の9. 11事件とその後のアメリカのアフ ガニスタンに対する報復戦争について、 沖縄では どのように受けとめられたのであろうか。 この小 論では、 表題のテーマについて、 その問いを糸口 にしながら、 次のような文脈で論じることにした い。

まず、 9. 11事件とその後の報復戦争に対して 沖縄で一般的に受けとめられた、 「沖縄のリアリ ティー」 について述べる。 ついで、 その沖縄のリ アリティーが 「沖縄戦の記憶」 に根ざしている点 にふれ、 さらにその地上戦であった沖縄戦の体験 が、 東アジア地域において共通する戦争の記憶で あることに言及する。 そして、 その共通する歴史 的体験や記憶を、 「人間の安全保障」 としてでは なく 「民衆の安全保障」 (武藤一羊) としてとら えかえすあり方につなげて考えてみたい。 ここで は、 安全保障の問題を政府の政策決定や軍事戦略 における国際政治のイシューとして考えるのでは なく、 他の論点に接合して開いて考えることにし たい。 私自身が歴史学を専攻していることもあっ て、 できれば 「人間の安全保障」 の問題を沖縄と いう地域の歴史的体験や戦争の記憶の問題に接合 して考えることができないかと思っている。(1) そ のために多少迂回する説明になると思うが、 その 点はお許しいただきたい。

「沖縄のリアリティー」

1991年の湾岸戦争の際、 日本の文学者たちは湾 岸戦争に対する反対の声明を出した。 それはとて も短い声明文で、 戦争放棄をうたった日本国憲法 第9条に基づき湾岸戦争に反対するという非常に 明快な声明文だった。 だが、 それから10年間がたっ た今回の9. 11事件に対しては、 湾岸戦争の時と は違って、 文学者たちは共同で声明文を発表する ことはなかった。 その背景には、 文学者たちはす でに個々でインターネットを使って自らの意思表 明を行なっており、 あらためて共同で声明を出す 必要性もない、 との理由が述べられている。 しか し、 ある文学者が述べた次の二つの理由は、 湾岸 戦争と9. 11事件に対する日本の情況を考えるさ いに、 看過できない重要な問題点を提出している。

その一つは、 この10年間における平和憲法の評価 に対して解釈の変化が起こっているという点であ る。 その理由として、 湾岸戦争の時は憲法9条の 理念を主張できたが、 アメリカをはじめ内外から

「一国平和主義」 と批判されたこともあって、 日 本政府はその後、 新ガイドライン関連法の制定、

国連平和維持活動 (PKO) のさらなる展開と強 化、 そして今回のテロ対策特措法制定による自衛 隊艦船の海外派兵を強行しており、 今日では憲法 そのものが形骸化してその理念の主張も意味をな さなくなってきたという説明である。 もう一つは、

大都市東京で感じるテロ事件の恐怖に関するリア

9. 11後の 「人間の安全保障」 について沖縄からどう考えるか?

屋 嘉 比 収

(沖縄国際大学非常勤講師)

(3)

リティーについてである。 1995年のオウム真理教 によるサリン事件の恐怖は、 テロ事件が大都市東 京でも切実な脅威だと強く認識され、 今回の9.

11事件の不安や恐怖に対するリアリティーは、 そ のサリン事件の恐怖とあいまって東京では大きい という。(2)

前者の平和憲法についての私の考えは以前に不 十分ながらも言及したことがあるので、(3) ここで はそれにふれずに、 後者のテロ事件に対する 「東 京のリアリティー」 に関連して、 それとは異なっ た 「沖縄のリアリティー」 について論及すること にしたい。 9. 11事件直後から在沖駐留米軍は警 戒態勢がとられ、 基地周辺では厳重な警備がなさ れた。 その時、 米軍の発令した警戒態勢のレベル は 「コンディション・デルタ」 で、 それはコンディ ション 「一」 「二」 「三」 の次にあたり、 最高度の 警戒態勢を意味しているという。 私自身は嘉手納 基地に隣接した所に住んでいるが、 夜半に9. 11 事件を報じるテレビ映像に最初に接したとき、 即 座に嘉手納基地のことが脳裏をかすめ、 不安と恐 怖感を抱きながら繰り返される画面を見ていたこ とを思い出す。 その翌日から、 嘉手納基地では機 関銃をもった数名の兵士が各ゲートごとに常駐警 備して検問を行うようになり、 場所によると戦車 に乗った兵士が厳戒態勢をとる状況に劇的に変化 した。 さらにその後、 本土から派遣され拳銃を携 帯した日本の警察官が、 その米軍兵士の側で警備 にあたることになった。 米軍兵士が基地の警戒警 備にあたるためフェンスの内側から沖縄住民が住 んでいる方向に銃口を向けている厳戒態勢をみた ときの恐怖や不安感、 さらにそれを補佐するため に常駐した日本の警官たちの警備態勢をみるたび に、 いったい彼らは誰から誰を守るためにそのよ うな厳戒態勢をとっているのかと考えざるをえな かった。 その警戒のため機関銃をもった米軍兵士 たちが沖縄住民の方向に銃口を向ける姿から、 沖 縄住民の少なくない人々が想起したのは、 戦争の

とき避難したガマ (洞窟) で日本兵に銃剣で威嚇 され追い出された沖縄戦の記憶だった点は、 あら ためて銘記されてしかるべきであろう。

しかし、 しばらくすると、 9. 11事件以降、 沖 縄経済のリーディング産業である観光業が多くの 経済的損害を受けたことや、 厳重な検問によるゲー ト前の交通渋滞への地域住民からの不満や苦情の 声が相次ぐようになった。 9. 11事件から時間が 経過していくと、 巨大な米軍基地を抱えた漠然と だが根強くある不安や恐怖感が、 しだいに日常生 活に深く関わる経済状況を最優先する意見や声に 押されて後景化するようになり、 そのため基地の 警戒態勢や警備に対する緩和の申し出が県民の中 から出てきたのである。 その意味において、 米軍 基地周辺で感じる恐怖や不安感は、 基地に隣接す る人々にはつよく感じられた認識だったとはいえ、

その危機感が沖縄全体に共有されていたかどうか という点になると、 問題はそう単純ではなかった といえよう。

沖縄戦の記憶

しかし、 そのような日常の経済状況の問題とは 別に、 9. 11事件に対する沖縄のリアリティーを 考えた場合に、 戦争体験者を中心に広く共有され ていた心情は以下のようなものであったように思 う。 その心情は、 沖縄戦体験者で沖縄在住の歌人 である新里スエさんが詠んだ、 次の短歌に如実に 表れている。

「空漠の 日すがら 流れいて むせび泣くなり 沖縄の老婆」(4) この短歌の意味は、 アメリカが連日にわたりア フガニスタンを空爆しているニュースが一日中流 れているのを聞きながら、 沖縄戦を体験した老婆 がその記憶を想起してむせび泣いているという内 容である。 この短歌は、 その内容からわかるよう に、 9. 11事件そのものについて詠んだ歌ではな く、 その後のアメリカのアフガニスタンへの空爆 9. 11後の 「人間の安全保障」 について沖縄からどう考えるか?

(4)

に関して詠んだものである。 それは次のことを示 している。 9. 11事件が沖縄の人々に大きな衝撃 を与えた点は間違いないが、 沖縄の多くの人々に とってはむしろ、 その後のアメリカのアフガニス タンへの空爆の映像がより切実な不安や脅威とし て受けとめられたのではないかという点である。

その背景には、 自らの沖縄戦の体験やその記憶に 根ざした想像力の投影がある。 沖縄の老婆が感じ るリアリティーとは、 9. 11事件そのものよりも、

テロ事件とはまったく関係のないアフガニスタン の 「普通の人々」 が、 米軍の誤爆によって死傷し ていることを伝える映像に対しての一体化であ る。(5) その映像の死傷する人々に、 自らの沖縄戦 の体験や記憶を重ねて想起する老婆の心情は、 沖 縄戦の風化が言われているとはいえ、 沖縄ではい まなお広く共有されている感情だといえよう。

沖縄では、 9. 11事件で数千人の人々が亡くなっ た事実に心を痛めながらも、 その報復を理由にし て圧倒的な軍事力をもつ米軍が空爆によって、 ア フガニスタンの 「普通の人々」 を巻き添えにして いる事実に対し、 思いを寄せる人々が多かったよ うに思う。 その意味で、 沖縄のリアリティーとは、

9. 11事件そのものよりも、 アメリカの空爆でテ ロ事件に関係のないアフガニスタンの普通の人々 が犠牲になっていることへの憤りと悲しみが中心 を占めていた。 それは前述したように、 沖縄戦の 体験や記憶に根ざした他者と分有する共苦 (

)(6) とでも呼ぶべき感情に基づいているも のである。

さて、 その様々に語られている沖縄戦の体験や 記憶のなかで、 沖縄戦の重要な教訓として語られ ているものの一つに 「軍隊は住民 (民衆) を守ら ない」 という認識がある。 それは、 先にふれたガ マに避難していた住民が後から入って来た日本兵 に威嚇され、 泣き叫ぶ幼児が刺殺されたのをみた との証言も少なくなく、 その認識は県民の間で広 く知られている。 沖縄戦の教訓は、 そのような沖

縄戦の体験に基づいて広く共有されているのであ る。 それについては、 その状況にいたった要因と して様々な指摘がなされているが、 もっとも大き な要因として論述されているのが、 沖縄戦が住民 を巻き込んだ地上戦だったという点である。 その 狭い島嶼という沖縄の地形で、 しかも軍民混在の なかで地上戦が戦われた沖縄戦において、 「軍隊 は住民 (民衆) を守らない」 という教訓が生まれ たのは、 日本軍の無謀な軍事戦略上の強行策から して当然に導き出された結果だといえよう。 その 地上戦という戦争の形態における沖縄戦の体験は、

住民を巻き込んだ戦争としては硫黄島を除き、 日 本で唯一の地上戦だと言われている。 しかし、 そ の指摘は、 日本国家という枠組みを前提にした認 識だと言わざるをえない。 それを東アジア・東南 アジアや南太平洋という地域の中で考えてみると、

逆に日本本土を含めて地上戦を体験していない地 域の方が少ないのであり、 むしろその方が例外的 だということがわかる。 その点からしても、 地上 戦としての沖縄戦の体験は、 日本における例外的 な事例だと考えるのではなく、 東アジア・東南ア ジアや南太平洋地域に共通する歴史的体験だと捉 え直して考察すべきではなかろうか。

民衆の安全保障

その東アジアに共通する地上戦としての歴史体 験を、 戦争の記憶の問題から捉え直し、 その観点 から 「安全保障」 観を捉え返そうという動きが最 近いろんな場で起こっている。 2000年8月に沖縄 で先進国首脳会議 (サミット) が開催されたが、

それに対抗して同じ沖縄で市民団体やNGO主催 による国際会議や抗議集会などの多くの 「対抗サ ミット」 が開催された。(7) その一つに、 東京と沖 縄の連絡委員会とタイ・バンコックのNGOとの 共催で 「(民衆の安全保障) 沖縄国際フォーラム」

が開催された。 その会議は、 安全保障に関する五 つのセッションで構成されたが、 その一つに 「戦

(5)

争と植民地の遺産 −−民衆の歴史認識」 というセッ ションが設置されて、 戦争の記憶の問題から安全 保障を考える活発な議論が交わされた。 そして、

その国際会議の最終日に全体の議論を集約する形 で大会宣言が採択され、 その声明文の中で 「国家 の安全は民衆の安全と矛盾します。 軍隊は民衆を 守りません」、 「私たちは国家の安全からはっきり 区別される民衆の安全保障を創りだすためにとも に活動します」 という宣言が行われた。

その国際会議を主催した一人である武藤一羊氏 (ピープルズ・プラン研究所共同代表) は、 その 国際会議において 「軍隊は民衆を守らない」 との 認識が確認された要因に、 それが 「沖縄だけでな く、 韓国、 インドネシア、 フィリピン、 南太平洋 諸島をはじめアジア各地の民衆の共通の経験であ ることが、 はっきり示されたからである」 と指摘 している。 それはまた、 「米国の覇権軍事戦略が、

民衆の生活と環境を下から脅かす破壊的な 「グロー バル化」 (米国側はそれを 「国益」 と呼ぶ) と不 可欠だという認識が共有化された」 からでもあっ たと付言している。 そしてその 「軍隊は民衆を守 らない」 との認識とともに、 沖縄戦の教訓として 語られている 「命どぅ宝」 という考えが、(8) 国際 会議に参加したアジア太平洋地域の 「民衆の膨大 な経験との突き合わせの中で、 相互に読み取れる 教訓として、 普遍的な意味を帯び始めた」 と注目 すべき指摘を行なっている。

さらにその武藤氏の指摘が興味深いのは、 それ に続けて、 その 「軍隊は民衆を守らない」 との認 識を根幹においた 「民衆の安全保障」 という考え 方の重要性を強調している点だ。 そしてその 「民 衆の安全保障」 という論点を考えるきっかけが、

1995年以降の沖縄の女性たちの運動で軍隊や基地 は性差別を内在していると主張し、 「安全保障の 再定義」 の提唱として 「女性の安全保障」 という 立場を展開してきた点に、 触発されたと述べてい ることである。 また、 その 「民衆の安全保障」 と

いう論点の提起の背景には、 国連開発プログラム (UNDP) が 「国家の安全保障」 に対して、 経 済 (資本) のグローバル化によって国境に関係な く人々の生活と環境が破壊される状況の中で提唱 された 「人間の安全保障」 という考えがあったと いう。 しかし、 その 「人間の安全保障」 の考えに は、 「経済と環境を 「安全保障」 の概念に組み込 むという功績はあったものの、 アメリカの軍事戦 略や国家・軍隊の暴力などにはまったく目をつぶ るという致命的限界」 があり、 「そのため 「人間 の安全保障」 は 「国家の安全保障」 の補完物とみ なされ」、 とくに日本においては歪められ理解さ れていると指摘されている。 武藤氏は、 それらに 対する批判を含めて 「安全保障の再定義」 につな げるために、 「人間の安全保障」 という考えから、

沖縄戦の教訓でアジア太平洋地域の民衆の共通の 歴史的体験である 「軍隊は住民 (民衆) を守らな い」 という認識を根幹に置いた 「民衆の安全保障」

という考えへと問題認識を深めることになったと 述べている。(9)

その武藤氏の提起する 「民衆の安全保障」 の考 えは、 沖縄戦の体験や戦争の記憶の観点から 「安 全保障」 の問題へつなぐ視点として、 さらには沖 縄の歴史的体験をアジア太平洋地域の共通認識へ と開くあり方において、 非常に重要な問題提起を 行なっているように思われる。

例えば、 今日、 沖縄においても一部の識者から

「現実的対応」 と称して 「沖縄イニシアティブ」

論が提起されている。(10) その論の内容は二つの論 点から構成されており、 一つは 「安全保障」 の問 題として日米安保条約を支持し沖縄の米軍基地を 容認するという論点と、 もう一つは 「歴史」 認識 として沖縄の近現代史を能動的に忘却するという 論点である。 興味深いことに、 その論の構成は、

「安全保障」 問題と 「歴史」 認識が一対のものと して論じられており、 それが特徴だといえる。 そ して沖縄近現代の歴史の忘却が、 彼らの言う 「現 9. 11後の 「人間の安全保障」 について沖縄からどう考えるか?

(6)

実主義」 の観点から、 米軍基地を容認した 「安全 保障」 観を主張する論理の一環として主張されて いる点だ。 そのさいに忘却される歴史の時代は、

沖縄の明るい未来の参照として頻繁に引用される 琉球王国の大交易時代ではなく、 近代日本での沖 縄差別や悲惨な沖縄戦や米軍占領下の圧政として 語られる沖縄の近現代の歴史である。 その沖縄イ ニシアティブ論では、 その沖縄近現代史に依拠し た沖縄の主張が主として 「被害者史観」 として語 られることが多いと批判され、 そのような 「沖縄 の歴史に過度の説明責任を求めたがる論理とは一 線を画する」 と明言されている。 しかし、 そのよ うな歴史認識の把握に多くの問題点があることは 多言を要しない。 仮にそれを差し引いたとしても、

その沖縄イニシアティブの主張では、 これまでみ てきたように、 安全保障を問題にするときに、 マ イノリティーにとって、 その地域の歴史的体験や 戦争の記憶の問題がいかに重要な意義をもってい るかという認識について、 まったく看過されてい る点が指摘できよう。

さらにまた沖縄県は今年、 一方で名護市辺野古 沖に新たな米軍基地の建設推進を決定しながら、

他方で沖縄平和賞の創設を行なった。 その矛盾に 対しては、 沖縄のなかでも多くの批判が提起され た。(11) 沖縄県が創設したその沖縄平和賞の理念の 一つには、 「人間の安全保障」 がうたわれており、

そこではまさしく新たな米軍基地建設を容認して

「国家の安全保障」 を補完する形で、 その概念の 流用 ( ) が行なわれている。 そのよ うな状況も含めて考えると、 今日の沖縄では、

「人間の安全保障」 という観点よりも、 沖縄の歴 史的体験や沖縄戦の記憶に根ざした 「民衆の安全 保障」 という考えの構築の方が、 より重要な課題 として私たちに求められているといえよう。

【追記】

この小論では、 論考の構成上、 当日のシンポジ

ウムでの私の他の発言について言及できなかった ので、 以下に追記しておきたい。 当日のシンポジ ウムでの私の役割は、 吉原、 浦島両先生の読谷村 と名護市に関する個別具体的な分析に基づいた報 告へのコメンテーターであった。 両先生への私の コメントは、 吉原先生には地域に根ざした卓抜な リーダーに主導され、 共同体意識の強い読谷村の 事例が、 都市化の影響でその意識が薄れつつある 沖縄の中でどれくらい普遍化できるのか、 また浦 島先生には名護市東海岸の辺野古に計画されてい る新たな基地建設に関連して、 名護の中の地域性 の違いを含めて、 もともと住んでいた住民と新た に移り住んだ住民との合意形成についての質問を 行なった。 また議論の中で、 基地問題に対する沖 縄の世論が一枚岩ではないこと、 グローバル化の なかでもはや沖縄とヤマトという二分法的な枠組 みではとらえられない問題が多く提出されており、

今後は沖縄問題を開いていくことが重要だと述べ た。 さらに、 沖縄の米軍基地が東アジアの平和と 安定に役立っているとの議論を仮に認めたとして も、 その東アジアにおける公共財としての米軍基 地を沖縄だけに過重に負担させている現状を批判 し、 お互いがその恩恵だけでなく負担も等分に担っ てもらうように、 米軍基地の分散化を沖縄から主 張できるのではないかと指摘した。 また名護市は 以前から財政状況が厳しい状態にあったが、 普天 間基地の受け入れと引き替えに政府の経済振興策 の推進により、 基地関連の補助金がより一段と増 大し、 そのため名護市の財政状況はますます政府 に依存する構造が形成されている点を述べた。 さ らに、 日本政府の財政状況が逼迫しているなかで 沖縄サミットに通常のサミットの倍以上の800億 円を越える経費が使用されたことに対して、 税金 を納めた国民の権利としてその税金の使い道を検 証する意味で、 沖縄サミットでの莫大な税金の投 入のあり方について批判すべきではないかと言及 した。

(7)

(1) 戦争の記憶の問題から国際関係の分析を論じた 著作に、 藤原帰一 戦争を記憶する (講談社、

2001年) がある。

(2) 共同通信の配信記事 「新ニッポン考 (37) 湾岸 後10年の文学者たち」 ( 沖縄タイムス 2001年 11月3日付)。

(3) 屋嘉比収 「沖縄からテロ事件を考える」 ( 情況 2002年6月号、 情況出版)。 本稿での主張は、 こ の論考の記述に重なっている部分も少なくない ので、 参照いただければ幸いである。

(4) 「朝日歌壇」 ( 朝日新聞 2001年11月26日)。 そ の短歌の関連記事として 「痛み重ねて沖縄歌壇」

( 朝日新聞 2002年9月7日) を参照。

(5) この指摘は、 9. 11事件に対する大都市東京と 沖縄とのリアリティーの違いという文脈で述べ たものであるが、 当日のシンポジウムでフロアー から 「沖縄の老婆」 というくくり方に対して、

次のような重要な異議が提出された。 そのよう な感覚は、 鹿児島県知覧の特攻平和記念館の特 攻隊員のお母さんと言われていた方が、 湾岸戦 争でのバグダッド爆撃の映像をみて、 その後と みに口を聞かなくなってそのまま亡くなった話 とも重なっており、 「沖縄の老婆」 というよりも むしろ、 「戦争体験者の感覚に共通するもの」 と してとらえた方がよいのではないか。 また、 そ のような感覚は、 最近の若い世代の発言の中に はその感覚とは異なる発言もあって、 危機感を 感じる点も多々あるが、 戦後の平和教育の成果 もあって、 日本国民の間でも共有されている部 分もあるのではないかと指摘された。

(6) 共苦 ( ) については、 下河辺美智子 歴史とトラウマ−記憶と忘却のメカニズム (作品社、 2000年)、 キャシー・カルース編/下 河辺美智子監訳 トラウマへの探究−証言の不 可能性と可能性 (作品社、 2000年) を参照。 そ の共苦という概念は、 沖縄語に当てはめて考え てみると 「チムグルサン (肝苦しい)」 という言 葉に該当するが、 それは他者への同情だけでな く他者ともに苦しみを分かち合うという意味が 含意されており、 沖縄では今でも一般的に使用 されている言葉である。

(7) けーし風 第28号特集 「G8サミットを越えて」

(新沖縄フォーラム刊行会議、 2000年9月)。

(8) 「命どぅ宝」 という語句の発見が一般的に使用さ れるようになるのは、 1982年の教科書検定で沖 縄戦における 「住民虐殺」 の記述が削除された ことにより、 それを契機に沖縄のなかであらた めて沖縄戦の体験や記憶が議論され、 新たに語 り直されたからであった。 その語句が発見され た経過については、 屋嘉比収 「歴史を眼差す位 置」 (上村忠男編 沖縄の記憶/日本の歴史 2 002年、 未来社) を参照されたい。

(9) 武藤一羊 「 民衆の安全保障 への一歩」 (新沖 縄フォーラム刊行会議 けーし風 第28号特集

「G8サミットを越えて」、 2000年9月)。

(10) 大城常夫・高良倉吉・真栄城守定編著 沖縄イ ニシアティブ−沖縄発・知的戦略 (ひるぎ社、

2000年)。

(11) 沖縄平和賞については、 次の二つの拙文 ( 朝日 新聞 西部版、 2002年8月24日。 琉球新報 2002年9月16日) を参照されたい。

9. 11後の 「人間の安全保障」 について沖縄からどう考えるか?

参照

関連したドキュメント

 これは,戦後占領期の沖縄についての先駆的な研究書の中で述べられたもの であるが,ただちには首肯できない。筆者も,別稿

太平洋戦争最末期の地上戦に続けて行われた軍事占領以後、継続的にアメリ

また、市町村の刊行物では、予定されていた自治体で「沖縄戦編」が刊行された。これ

4 沖縄県における里親制度の変遷とファミリーホームの可能性 4-1 はじめに

二十周年記念号発刊によせて

沖縄 は歴 史上、長い間、異民族及 び外 国の支配下 にあ った。1 9 4 5 年か ら1 9 7

戦後の沖縄における農業立法の変遷と特質(Ⅲ) 高良亀友

が、それから約 60、70 年たった後、待ち受けていたのが