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石 原 昌 家

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波照間島の地域的特性と戦争体験

石 原 昌 家

I は じ め に

この調査報告をまとめるにあたって、調査を2度実施した。第1回の調査は、1981年3月21 日‑25日に行った。しかしながら、その時期は、調査地波照間島が農繁期なので、石垣島にお

いて、波照間出身者から聴き取りをしていった。

2回目は、7月8日‑12日、波照間島を中心に、石垣島、西表島において波照間出身者から

の聴き取り調査を実施した。

2回目の調査期間は、波照間島の豊年祭の最中だった。したがって、めざすインフォーマン トから聴き取りできないという面もあったが、それにもまして、祭祀の中で生きているひとぴ との生活を参与観察できたのは幸いだった。

I波照間島の地域的特性

1 波 照 間 人 の 気 質 と そ の 形 成

波照間人の気質として、一般的にいわれていることは「やさしくて、おとなしい」、「気が

め か け

弱い」、「正直もので、盗み、暴力、殺人事件が全くない」「妾をつくらない。妾がいたとし ても、それは他所者である。」、「身内の者同士でしか金銭の貸借はしない」などということで ある。したがって、波照間出身者に実業界で活躍している人は一人もいないといわれている。

このようなユニークな波照間人気質を形成しているファクターとして次のような事柄があげ

られよう。

①波照間島には「かわいい子には、旅をさせろ」と全く対照的に「旅に出るものには、ロ クな奴はいない」という浬諺があり、いまでも年寄りはよく口に出す。このいましめの通り、

戦前波照間島を出たひとは数少ない。中等教育を受けるために島を出たひととして仲本トシ

(大正9年生)さんが、昭和8年、その先陣を切ったということであり、他所者との交流が非 常に少なかったことがいえる。一面、これは、波照間が「豊かな」島だったことを裏付けるこ

とにもなろう。

②波照間には島民の精神的支柱、道徳的規範となっているという「油雨」の伝説がある。

「その昔、波照間島の人口が過剰になったとき、盗み、殺人など犯罪がどんどん増加し、人心

が荒廃した。人口増加のため耕す土地もなくなった。そこで石の上に土を盛り、ニラを育てて

これを食べるという生活を送らねばならないほど住みにくくなった。神様はこれではいけない

と、心の正しいもの男女二人を選んで、洞窟の中に隠して、島全体に『油雨』を降らして火を

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放ち、全部落を焼いてしまった。かつての犯罪が横行した島は、心の正しいもの二人から再出 発することになった。しかし、陸は焼野原になったので食物がなく、海の岩穴に住み、海のも のを取って生活していた。やがて二人の間に子供が生まれたが、それは、トケのある魚であり 人間にはむかった。そこで人間は、海に住むものではないということがわかり、また陸に住む

ようになった。二人は洞窟に住んだ。そこでも二人の間に子供が生まれた。ところが、それは ムカデの子供で、やがて人間にそれもはむかうようになってきた。それで人間は洞窟に住むも のではないということがわかった。どうしたらいいかと途方にくれて星をながめていたら、四 隅に柱を建てて、家を建てるということを思いついた。こうして、地上に家を建てて住んだら ここに初めて人間の子供が生まれてきた。新しく生まれ変った女。新生の女=『アラマリィヌ パー』から人間の子供が生まれた。すなわち、波照間の人間は、心の正しい選ばれたものの中 から生まれたものだから、ここに波照間の人は心正しくしなければならない。盗みなど決して 犯罪を犯してはいけない、犯したら大変な罰があたるといわれ、現在も波照間人の道徳的規 範となっている。『アラマリィヌパー』という墓があり、その墓を中心にすべての行事が始ま る」(玉城功一氏)。このような伝説に育<くまれた波照間島は、戦前から犯罪のない人殺し のない島として有名であり、それを誇りにしてきた。だから石垣島にいても、波照間人は正直 者として信頼されている。

③祭祀の島、波照間島には、5部落にそれぞれ5つの御嶽があり、各部落にその御嶽を中 心とした祭祀集団がある。そのひとつにヤマニンジユ集団があるが、それは「ムラニンジュ(

村人衆)のうち15歳から50歳までのフダニン(生産人)をいい、ヤマニンジユである間、その 部落所属の御嶽の祭祀の折に労働の提供や祭祀に必要な品物の提出が義務づけられている」(加 屋本正一氏)。この祭祀集団における長幼の序は厳しい。1年早くヤマシンカーヤマニンジユ になっただけで、年少者に先輩として扱われる。祭りの中で、年輩者は、ヤマシンカの年少者 を集めて、いろいろと訓示する。例えば、道で落とし物を見つけたら、人目につきやすい場所 にそれを置くとか、そうしないとティダ(太陽)が必ずみているから、悪いことをしたら必ず

(しる。そして、あの世に行ったとき罰される云々、と共同体社会における行為を律する機能 が、豊年祭などの祭祀の中にもあった。

④共同体社会における労働慣行としてのユイーユイマール(共同労働の形態)は、共同体 社会の崩壊と共に消滅しつつある。だが、波照間島は、「ユイマール社会」と特徴づけてよい ほどいまなお各種のユイが実行されている。この相互扶助的精神のユイ慣行によって、波照間 人の間に、競争意識が欠如し、意識の平準化が形成された一因とも考えられる。

以上の諸点などが波照間人気質形成のファクターの一部としてあげられよう。

2 祭 祀 行 事 の 機 能 変 化

波照間島の祭祀は、祭政一致のみごとな仕組みになっていた。例えば、豊年祭ではその祭り

に20日の合い間があった。神の司たちが、各部落を回りながら、祈りの言葉を発するが、その

祈りの中には、住民が持ちよってきた悩みごとなどが含まれている。すなわち、司たちの祈り

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は、各部落住民の声、要求でもあった。その司たちの後から、公民館長、各部落役員たちが付 いて回り、各部落を回りながら、司の祈りを媒介にして、各部落の声、要求を聞くことになっ た。この20日間に、各部落住民の声は、公民館長、各部落の代表役員、各区長、学校長、教員、

派出所巡査などを含めて協議され、共通理解される。そして、祭りの最後に公民館の前で行う マキおどりが、全部落住民を結束させる大きな役割を果たしていた。したがって、豊年祭は島

の政治に直接反映する機能を持っていた。

しかしながら、最近の祭祀の簡素化、公民館活動の改善・合理化の過程で、前述の機能が 失われてしまった。いまや部落役員などが司について各部落を回ることもなくなり、豊年祭に おける20日の合い間がなくなり、祭り最後のマキおどりも各部落単位で行なわれるようになっ た。結果として、祭りそのものに生気がなくなりつつあり、参加者自身、張り合いがなくなっ ているといっている。それは全体的場がなくなったので、見物人の数も少なく、部落ごとの相

互比較、批判や激励の機会が失われたことによる。

3 民 俗 芸 能 の 衰 退

「波照間のひととは古謡ユンタの勝負はするな」と言われていたほど、波照間には古謡ユン タの数が多く、それだけ盛んにうたわれていた。神行事としてうたわれたもの、ユイのしく

み、ユイの作業の中でうたう労働歌などが沢山あるという。

ところが現在、波照間出身で芸能人として活躍しているひとは一人もいないし、波照間人は 芸能が一般に下手といわれている。。そこで1979年、石垣島在波照間郷友会に民俗芸能保存会 が結成された。すっかり埋もれてしまっていた古謡などの掘り起しが始まったのである。

波照間島における民俗芸能の衰退化の原因としては、次のファクターが考えられる。

①アワ、麦、稲、甘藷など穀物中心の生業形態に対応した神行事が営まれてきた島に大き な変化があらわれた。それは、カツオ漁業が島の生業として登場することによってもたらされ

た 。

昭和3年頃から波照間島でカシオ漁業が盛んになり、島の生活が豊かになったが、これまで の農業生活のパターンに影響を及ぼした。カツオ漁は、夏季の仕事で、最盛期になると男女と も昼夜働かざるをえない。これまで、開墾、植え付け、草取り、収穫などの共同作業一畑の 草取りまで「草ポウ」といってユイマールで各家の畑の草取りが行なわれていた−の際に、

古謡ユンタがうたわれていた。それが、カツオ漁が入ってきたために、みんなでうたいついで

いく場が次第になくなっていった。

波照間島は、神行事、御嶽の多い信仰の厚い島だから、平常、「笛、タイコを鳴らしたら嵐 を呼ぶ」という考えがあり、ふだんそれらを持ち出して練習することはできない。芸能の練習 は、お盆の月にしかできないのに、ちょうどその月はカシオ漁の最盛期でもあった。だから練 習するにしても旧7月7日以降の月夜の晩にしかできない。かくて伝承の場がせばまれていっ

たのである。

②太平洋戦争末期、秘密裡に派遣されていた特務機関員が、波照間全住民に対して、西表

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島へ疎開を強制した。マラリア有病地への疎開に反対する住民は軍刀で追い立てられ、その結 果、当時の島の人口およそ2分の1にあたる約700人の老幼男女が高熱と飢餓状態で相次いで 死亡した。この異常に高い死亡率によって、民俗芸能の伝承者をも数多く失ってしまったので ある。

③戦後の混乱した生活の中で、生活改善、行事の簡素化がどんどん進められ、民俗行事も だいぶ消えていった。

以上の諸点が民俗芸能の衰退化の要因としてあげられよう。

4 戦 後 生 活 の 形 成 と ユ イ マ ー ル

① 戦 後 生 活 の 出 発

1960年代の初期、八重山地方を雲った台風被害の結果が発表されたとき、それは、はからず も波照間島の特徴を示すものとなった。その台風が、最接近した島は波照間だったが、琉球政 府の被害調査の結果、与那国島に適用された救助法が、波照間島には該当しないということに なったのである。農作物の被害、倒木の数は、与那国島より波照間島の方が多かったが、倒壊 家屋の数は逆に与那国島の方が多かった。当時、琉球政府の台風災害救助法の適用は、家屋の 損壊でしか判断していなかったのである。この事例は、波照間島がユイマールによってほとん

どの家が、丈夫な家屋に住んでいたことを示すものとして語られたエピソードである。

戦時中でも農耕用の牛馬や豚、山羊、家禽を多数飼育していたが、そのほとんどは、強制疎 開後に日本軍部隊の食糧として徴発されてしまった。数が多くて、食糧として処理できない牛 馬を、米軍上陸後、かれらの食糧に供させないために、次々殺していった。この所業もすべて 酒井軍曹(山下という偽名の特務機関員)と旅団の命令で実行された。波照間島は天水田だから 稲作りのとき牛馬で田をふみかためておかないと水がたまらない。したがって農耕用牛馬を失 うことは、死活問題であった。1945年7月下旬、西表疎開先でマラリアと食糧難によって全滅 してしまうことを恐れた識名波照間国民学校長が、石垣島の宮崎旅団長に密かに直訴しに行き 波照間島への引揚げを認めさせた。(沖縄戦終結後すでに一カ月も経過していたので、直訴に 応じざるを得なかったのであろう)。

波照間島住民の戦後生活は、7月末から8月にかけて開始された。

しかし、波照間島での生活は、食糧難とマラリアによる生地獄のなかをくぐり抜けねばなら なかった。死に絶えていくなかで、高熱が一時的に引いたとき、ソテツを取りに行けるものが かろうじて生きのびることができた。

戦時中の西表疎開のとき、数家族で班を構成して、すべての食糧を持ち寄り、共同炊事、す

なわち「同じカマの飯」を食べながら、マラリアの看病もお互いでやり合い、生死を共にして

いた。波照間島へ引揚げ後もその生活パターンをできるだけ維持するように務めた。ひとびと

は、ソテツを食いつぶしながら、開墾を始めた。北部落の貝敷文雄氏を例にみると、北部落一

円が5つの組に分けられ、一組は30名位で構成されていたが、自分のところの開墾のとき、他

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部落の親類縁者にも応援を求めたので70〜80名に増える場合もあった。最低30名単位で各戸順 ぐりにすすめていった。逼迫している食糧難に対応するため、開墾したらできるだけ早く収穫

できるものを植えつけた。

開墾地は、ソテッ、アダンの雑木が生えている「キャーマ(木山)」を一時的な畑にしていっ た。そこにまずアワを播き、アワの間のところどころにイモを植えておいた。アワを収穫した ら、ただちにイモが広がって食いつなぎができるように工夫したのである。そこでとれたアワ

は「キャーマのアワ」と称された。

花城辰未氏は、疎開地への食糧運搬を担当していたので、山下軍曹(酒井)に知られないよ うにこっそりと、牛馬数頭を石垣囲いの牧場で飼育していた。その数頭の牛馬は各部落に無償

提供され、戦後生活の出発にあたって貴重な役割を果たした。

1946年4月頃から遅まきがら、ようやく米軍の医療、食糧の救援の手がさしのべられた。

かくて波照間島住民全滅の難をようやくのがれ、島再興の道ができた。おそらくユイマール の体験を死地において生かすことがなかったら、さらに悲惨な情況が現出したことであろうこ

とは想像に難くない。

② 波 照 間 島 の ユ イ

波照間島の戦後生活の形成は、このユイマールを抜きにしては語れない。波照間人が、まる で「無から有を生ぜしめる」ようなユイマールは、祭りの中にも根づいていた。「ヤマニンジ ュ(15歳から50歳)である間、その部落附属の御嶽の祭祀の折りに労働の提供や祭祀に必要な 品物の提出が義務づけられている。たとえば、年三回行なわれるミヨウクチュ(神聖なる御嶽 や神道の除草掃除)は、ヤマニンジュたちの労働提供によっておこなわれるし、またプーリン

(豊年祭)の折りには、イショブサー(漁をする係)、コッヅァポー(料理係)、ゾーレ(料理 場係)、サキブサー(酒の係)、ミスプサー(神酒の係)、コースアタリ(モチの係)の準備 に当る役が割りふられる」(加屋本正一『波照間島』124頁)。このように祭りの中でも育くま れてきた相互扶助の精神は、冠婚葬祭、家屋・墓などの建造、農業など生活全般においていま

なお生きている。

これらのユイに対して、各戸で「ユイ帳」を所持しており、各種のユイに対する「貸し、借 り」を数十年にわたって記帳している。これは、親から子へ引き継がれていく。

端的に表現すれば、僅かな手持金で、恒久的な家屋が建築できる、といえる。A家が新築す

ることになったとき、大工の棟梁の賃金、電気、水道工事代金を準備すればよい。それは、数

十年間にわたって、他家に対して何らかの「貸し」があり、そのお返えしが期待できるからで

ある。B家からは6畳間のタタミ、C家からはセメント10袋、D家からは天ぷら油2升という

具合に、「ユイ帳」に基づいて事前調整がなされる。そのうえ、建築工事が始まると、A家に

非常に近い親類20〜30名は、家が完成するまで労力を提供する。三度の食事は、A家が賄わな

ければならない。その食事を準備するひと、その材料のほとんどが、やはりこれまでのA家の

ユイ帳における「貸し借り」のなかで精算されていく。すなわち、「ユイ帳」には、「どこそ

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こに、いつ、なんのとき、労力何日分あるいは物品いくら提供」したことが記載されているの である。A家に近い親類は、その家が完成するまで、自分の仕事はよほどのことがない限りた な上げしておく。一般のひとは、A家に「借りた」日数分の労力を「返えし」、必要に応じて 労力をさらに提供して何日かの「貸し」を作る。その際、必ず、主食(ごはん)のみの弁当を 持参して、昼だけA家から副食(おかず・おつゆ)の賄いをうける。各人は、大工道具一式を 揃えており、ほとんどが専門家顔負けの大工の技量を身につけているという。

近い親類の場合、家人同様の生活が続くので、長期を要す作業は農閑期に行う。公務員の場 合、早朝、夕がたないしは、年休を取って労力を提供したり、その家の誰かが労力を提供する

ことになる。家屋建築は一カ月ほど、倉庫、車庫作りの場合は、約一週間では仕上がる。Aが Bにこれまで労力を提供してきたが、Aの家屋建築のときにたまたまBが病気、不幸にかち合 った場合、そのとき労力を「返えさなくても」了解される。農作業以外の住宅など建築関係に おけるユイマールにおいては、年齢、性別などの能力差を無視するのが大きな特徴である。

③「三層式便所」と「水タンク」建設にみるユイ

「三層式便所」

戦後、寄生虫の回虫が、波照間島には多いということで、生活改善運動の展開のなかで「三 層式便所」が非常に普及していった。三層式便所の下肥は、回虫の卵が死滅しているからであ る。この三層式便所は、豚舎と合体した形式をとり、豚と人間の糞尿が混合したかたちになる。

それはコンクリート製の恒久的建造物である。したがって、経費がかなり要する。そこで、各 部落で12〜13戸からなる「便所組合」が5〜6個所形成され、セメント、型板用材、鉄筋(8 番線)、バラスを各人が労力と共に提供しあって次々豚舎付便所を作っていき、ほぼ全戸数に

ゆきわたった。

「水タンク」

河川のない波照間島において、地下水は硬水なので、天水に頼らざるをえなかった。したが って、戦前から天水を集めるために水タンクを必要とした。大型のコンクリート製水タンクを 作るために、やはり、相当の経費がかかるので、そのために「水タンク組合」が各部落ごとに

形成された。

水タンク作りの方法としては、いろいろなパターンが採られた。お金を出し合って、型板を 組合共有のものとして所有したり、又は個人で型板を所有している場合、それに所有者がわか るような記号を打っておき、順ぐりにタンクを作っていくとき各種材料の持ち寄りとして活用 される。例えば、貝敷文雄氏の場合、深さ8尺、幅2間位の地下埋没式水タンクを作った。セ メントと鉄筋は全部自分で出したが、型板は他所から出してくれた。型板はふつう10回以上使 用されている。使用したひとは、きれいに洗って返さなければならない。その所有の順番は、

資力のあるものが必然的に先になっていくが、いずれにしても、自力では所有できないものが

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お互いの力を提供しあって所持できるのである。

そのほかに冠婚葬祭のとき、香典・祝金のほかに米、酒などの物品を持っていくことによっ て、その家の「物入り」の負担を軽減するようにしている。

④ ユ イ 崩 壊 の 萌 芽

八重山諸島の与那国、竹富島出身者は早くから東京へ出稼ぎに行き、定住してそれぞれの郷 友会を結成している。その歴史が50年を経過していることから判断しても、いかに多くの出稼 ぎ定住者が存在しているか想像できよう。ところが、似たような離島のひとつである波照間島 からは、出稼者が少ないことは前述の通りだが、それは、同じく東京における波照間郷友会の 歴史が僅かに5年(1976年結成)しか経過していないことにも明示されている。しかも、会員 数僅か100人ほどにしかすぎない。それでもこのことは戦後、若年層の人口流出が相次いでい

ることを如実に示している。

しかしながら、これまでみてきた波照間島の「ユイマール社会」にとって、若年層の人口流

出は、その維持になんらかの影響をもたらすであろうことは推測できる。

昭和26年生の東京Uターンの一青年が、3年前に自力で住宅を建設した。「ユイマール社会」

においては画期的な「できごと」であった。かれは、一人でできない部分だけ、2〜3人の力 を借りたが、一人コッコッとマイホームを建築した。当然、波紋が生じた。隣近所、親類のも のが、「なぜ、自分に頼みにこないのか」と言い、建築現場に面した道路を通るひとは気兼ね しているふうだった。かれ自身も島のひとと孤立した感情が生まれたという。かれのユイのみ かたはこうである。若年層の人口流出が相次ぐなかで、自分がいま労力を提供しても、果たし て今後、自分の所に誰が労力提供に来てくれるのかという心配が出てきているということ。つ まりユイの不合理な面に疑問が生じてきているという。若い世代では、不合理なユイを自分た

ちの現状にあったユイに変えていこうという気運が芽生えてきている。

そして、いまや建築関係においては請負制にして行くことが、ぽつぽつ出始めているという。

Ⅷ 戦 争 体 験

波照間島住民の戦争体験については『沖縄県史・沖縄戦記録2』(1974年・沖縄県教育委員

会)が、その実相を詳細に記録している。

できるだけ、それと重複しない形で簡略に記述する。

波照間住民の戦争体験といえば、マラリアと飢えによって生地獄に直面したということ、そ れは、たった一人の陸軍中野学校出身・酒井軍曹の疎開命令によって引き起こされたといわれ ている。ところが当の酒井元軍曹は『陸軍中野学校・3秘密戦史』(畠山清行・番町書房・1974 年)のなかで次のように証言している。「軍の命令で仕方なくやったことで、私がやらなくと

も、誰かがやったことだし、あるいはその人間が悪ければ、波照間島民は、もっと苦しんだか

もしれない。それを思うと、それほど気にすることもないのかもしらないが、たとえ軍の命令

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にしても、私自身、島民にすまないような気がして、先年、当時マラリアで死んだ人々の墓詣 りかたがた、波照間島を訪れた。……当時、部落々々に残して来た二頭ずつの牛馬が、今では 大変な頭数に増えて、各部落の助けになっていると、大いに感謝された。波照間島疎開の命令 は、大本営から出たものか、それとも方面軍司令部が出したものか私は知らない……」。この 書物でかれは、『スパイ変じて救世主』というタイトルでえがかれている。かれの戦時中の所 業を記録した『沖縄県史』はその存在を知るひとも少ないが、かれを『救世主』と評価してい る本は、現在全国の有名書店に出回っている。しかも、1945年7月30日、石垣島駐屯の日本軍 部隊に「疎開解除」を決死の思いで直訴した識名信升元波照間国民学校長は、住民に命の恩人 とされているにもかかわらず、前掲害で、「山下先生(酒井軍曹のこと・引用者)は、およそ起 ち上がるだけの気力のあるものをことごとく動員して、部落の再建に駆け回った。校長など、

理窟ばかりこれて動かない連中には、軍刀を突きつけて、『斬るぞ/』と大喝した。動顛し て、校長も草を刈り、骨を埋める穴を掘った。』と記述されている。

この引用文を識名元校長に読んでもらいながら聴き取りをしていった。「山下は、マラリア

ゆ ぷ は い み

の発生していない西表島の小島の由布島に居を構えていたが、南風見地区の疎開者の間に、次 々とマラリアによる死亡者が続出し、食糧も底をついていたので、このままではどうせ全滅し てしまう。いっそのこと石垣島の宮崎旅団長に直訴しようと決意。山下に気づかれないよう

こはま

に、密かに小浜島へ渡り、そこからさらに石垣島へ渡った。波照間住民の窮状を宮崎旅団長に 訴え住民が帰島することを願い出た。旅団長は、住民の帰島を許可した。その吉報を携えて、

直ちに西表島へ戻るや、住民は、歓喜して『バンザイ』を叫びながら涙を流した」という。

南風見の疎開跡,

第2回目の波照間島調査のときNHKの「陸軍中野学校」取材班に便乗して、西表島南風見 疎開地を探訪できた。そして波照間出身である西表島大原在住の保久盛長正氏の案内でその跡

を確認することが可能となった。

「ヌギルヌパン」の海岸沿いにマラリアで死んだ住民を仮埋葬した跡が、クッキリ残ってい る。アダン葉ムシロにくるんだ死体を、砂岩の小石に名前と死亡年月日を刻んで土砂に埋めた ので戦後、約80柱の遺骨の収骨にきたが、みんな身体は衰弱していたので、掘りおこした跡を 埋め戻す力がなかった。それで、30余年の今日まで、その仮埋葬地には遺骨を掘りおこした跡

がズラリと残っている。

その痕跡が今日まで残存しているのは、次のような事情による。

「波照間から南風見へ疎開にきて、マラリアで死んだ人々の魂がまだ波照間に帰ってきてい

ないということで、『魂を呼び戻す』ために、毎年2〜3人のかたが、ユタをつれてやってく

るのです。遺骨を波照間に持ち帰ったのだが、ここで死んだとき立派に埋葬することができな

かったので、魂が残っているというわけです。場所がわからないので、案内してくれと、毎年

ユタをつれた波照間のひとがやってくるので、そこを教えています。これから先もまだまだや

ってくるかと思うと、遺族のひとにとっては、まだ戦後は終っていません」。これはいつのま

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にか案内役になっている保久盛さんの証言である。

仮埋葬地跡から数十メートルしか離れていない波打際近くの平板な岩場が、疎開地における 波照間国民学校跡である。その岩場は上空から見えにくい所に位置していたので、識名校長先 生が、児童生徒を集めて一時期、寺小屋式に教育をしていたのである。南風見地区上空でも、

昼間は、米軍機が低空飛行したりするので危険であり、戦々恐々とした毎日をすごしていた。

その情況下で、児童生徒の教育に校長は情熱を注いでいた。しかし、ついに教え子のなかから マラリアによる死亡者が発生した。恐るべき事態がついに起き、もはや、授業を維持すること

も困難になり、中断せざるを得なくなった。いま、この学校跡の砂岩質の岩板に、「忘勿石 ハテルマシキナ」の文字が刻みこまれているのをかすかに読みとれる。

この文字を刻んだ識名元校長から、その意味をきき質した。まず、第一に、この岩場にすわ って勉強をしていた生徒のなかから、マラリアによる死亡者が出たので、その死を悼むととも に、このような強制疎開によって多くの波照間住民が死んでいった事実を決して忘れてはいけ ないという思いを込めてく波照間住民よ、この石を忘れる勿れ>と刻んだという。一文字がお よそ10センチ四方の大きさであり、風化が激しい砂岩に刻まれているので、文字の消滅は時間 の問題であろう。

仮埋葬地の跡やこの文字の刻まれた学校跡は、波照間住民の戦争犠牲を生ま生ましく記録し ており、そこを保存し、平和教育の拠点にする場としなければならないことを痛感した。最 近、この南風見一帯を観光地として本土の大手資本が開発する動きのあることを新聞が報じて おり、早急に保存運動を進めなければ、跡かたもなくなるおそれがある。

酒井元軍曹来島の意味

酒井元軍曹は、波照間島に戦後2〜3度来島している。かれが戦後初めて島を訪れたとき、

「島民から、ひどい仕打ちをうけるかもしれない。あるいは殺されるかもしれない、なんて考 えながら、島を訪れたのだが、殺されるどころか『山下先生が帰って来た。先生だ。先生が帰 った』と大歓迎をうけたのは、実に嬉しかった」(前掲書。213頁)とのべている。

そ な い

かれが本当に歓迎されたのか確かめたところ、それは、波照間島潜入前にいた西表島の祖納で 一緒だった「戦友」たちとかれの投宿先だった「身内」のひとたちが、かれを歓迎したという

ことだった。かれを歓迎した側のひとりは「山下先生はとてもやさしいひとでした」と語った。

それは、かれが身を寄せていた相手にやさしくすることは当然のことであった。だが、次のよ うな驚くべき証言も付け加えた。「西表島への強制疎開命令は、山下先生が出したのではなく、

それは部落の有志のかたが出したんですよ」。この証言者は確かに部落有志から直接疎開命令 を受けたかも知れないが、当の部落有志たちは、山下軍曹(酒井)に軍刀で脅かされてその命

キヨ

令を受けていたのである。識名校長夫人の清さんも教員だった。「山下先生が、ある日突然、

職員室で『西表島へ疎開するんだ』と話したとき、私は『子供たちを連れて、そんな所には行 けない』と反対したら、声を荒げて『おまえは、校長の奥さんということでそんな口をきくの

いかく

か』と威嚇されて、あとはこわくてだまっていました」

(10)

酒井元軍曹が、波照間住民にとって貴重な牛馬等を日本軍の食糧として徴発したことについ ては前述した。かれは、戦後、波照間島から姿を消す前に、石垣島から、牛馬数頭を入手して きた。それをかれは、「身内」のものや何人かの部落有志にそれをあてがったのである。それ は離島残置諜者が、戦後を生き抜く保身のための布石だったことは容易に推測できよう。

石垣島から復員してきた保久盛長正氏は、1945年10月、十五夜の月がこうこうと照っている 晩7名の同志と共に、山下虎雄軍曹を探し回っていた。かれのねぐらをつきとめ、すき間から のぞき込んだら、かれはランプのあかりの下で寝入っていた。その傍らには拳銃と軍刀がおい てあった。いま全員で乗り込んだら、同志の中からケガ人が出そうだということで、その夜は いったん引き揚げて様子をみることにした。しかし、翌日から姿を消して、どこにも見あたら なかった。親兄弟にも内諸で、かれらは山下軍曹を探し回ったという。

まえ

保久盛氏が復員して波照間島に帰ってきたとき、前部落の我が家へ到る道は、草が背たけま でも伸び放題だった。マラリアが猛威をふるっていることを聞いていたので、もしかしたら一 家全滅していないかと不安の気持で家に辿り着いた。家の中に声をかけたら、大泊家に嫁いで いた姉が飛び出してきた。「姉は私のところに飛び出してきてワァワァ泣いているのだが、高 熱で髪の毛は全部抜けており、人間とも思えない状態でした。長兄が姉を大泊家から連れかえ って看病していたが、本人はまもなく死んでしまったのです。子供たちは、高熱のためみんな ズラッと寝こんでいました。私は上官が、波照間はみんなマラリアでやられているようだから と罐詰や米も少々もたせてくれてあったのでそれをあけておかゆを炊いてみんなに食べさせま した。翌日、北部落に嫁いでいる長女の所へ行ったら、姉は栄養失調で、起きてすわれない位 お腹がふくれあがっていました。さっそく海へ魚をつりに行き、それを食べさせたりしたら持 ち直してきました。親類のある者は、私が訪ねていったとき、意識もうろうとしており、脱糞 したそれを食べているありさまでした。私と同年生でしたが、2〜3日後に死にました。その 傍らに三歳歳上の姉が意識不明で横たわっていました。復員後は、身内の者の看病にあけくれ する一方、毎日葬式でした」

一家全滅して、そのまま畳の上で腐ってしまうまで発見が遅れた例もあった。墓は一杯にな り、海岸の砂地に埋葬せざるを得なくなった。保久盛氏は、1日6体の死体運びをしたことも あった。天井板をはいでカンオケが作れたひとは最高の部類で、その多くはアダン葉ムシロに グルグル巻きにして、それに棒をさし込んで、運ぶのである。1軒の家で、1日に2度も葬式 をする場合もあった。死後何日かたった死体を運び出すときは、酒をあおって担がないとその においで、当人たちが倒れてしまいそうだったという。死体運びをやったひとたちの多くも、

マラリアにかかってはいたが、病状が軽いというだけのことだった。軒下まで伸びた雑草をか き分けて、よろけながら死体運びにあけくれた日々をいまでもかれらはときおり思い出して は、寝つかれない。

第2回目の波照間島調査を終えた3週間後、あるインフォーマントから一通のハガキが届い た。

「山下先生が突然波照間島に渡ってきています」。

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なぜかれは、「殺されるかもしれない」と思ったこともある島にたびたびやってくるのだろ うか。『沖縄県史』(1974年刊)では、かれの所業を証言しているひとが、私の聴きとりに対 して、その部分の証言提供を拒否した。その理由は、「山下が島に出入りするようになってい るから」ということと、滋賀県で鉄工所を営むかれの会社に、波照間出身者が勤めたりしてい るから、具合が悪くなるというのである。

残置諜者だった酒井軍曹(山下)が、島を訪れる意図は定かでないが、少くとも圧力を感じ ている人々が存在していることは事実である。

付 記

この調査にあたって主要なインフォーマントになって頂いた方々の御氏名を掲げ、感謝の意を 表したい。

氏 名 生 年 居 住 地 加 屋 本 順 幸 明 治 3 8 年 石 垣 島 玉 城 功 一 昭 和 1 2 年 〃 識 名 信 升 明 治 3 9 年 〃 識 名 情 明 治 4 3 年 〃

大 正 9 年

仲 本 ト シ 〃 勝 連 ス エ 大 正 8 年 波 照 間 島 仲 底 長 幸 昭 和 1 2 年 〃 貝 敷 文 雄 大 正 5 年 〃 花 城 辰 未 大 正 8 年 〃 新 盛 良 政 昭 和 5 年 〃 加 屋 本 正 一 昭 和 2 6 年 〃 保 久 盛 長 正 昭 和 4 年 西 表 島

追 記

本稿を仕上げたのちに「酒井元軍曹が八月(1981年)に波照間島を訪れたとき、住民は『山

下虎雄』に対する抗議行動に立ち上った」という情報を入手した。

参照

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