• 検索結果がありません。

持続する反復帰論 : 岡本恵徳の思想から考える

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "持続する反復帰論 : 岡本恵徳の思想から考える"

Copied!
12
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

持続する反復帰論

―岡本恵徳の思想から考える―

Continuation of Anti-reversion Theory:

Reconsidering the Philosophy of Keitoku Okamoto

大野 光明*

Mitsuaki Ono

Abstract

The purpose of this article is reconsidering the philosophy of Keitoku Okamoto opposed against the “reversion” of Okinawa to Japan in terms of its continuity after May of 1972. His anti-reversion theory was developed for trying to reject the national integration into Japan. In his theory, the reversion process had been carried out through utilizing “communal physiology” of the people in Okinawa, the way to understand the world as a structure of concentric circle, and representative politics. This article explores reversion process was not finished in May 1972, but continued after 1972 through above-mentioned three routes. As Okamoto mentioned and suggested in some essays after 1972, national projects for the development of Okinawa such as the construction of Central Terminal Station (CTS) in Okinawa Island had the important role to subsume Okinawa under the political and economic structure of Japan. Therefore, Okamoto’s anti-reversion theory was transformed in order to grasp continuous integration process after 1972. He emphasized the role of social movements created and activated the autonomy and direct actions of the people living in Okinawa against ongoing reversion process. Finally, this article argues the importance and actuality of Okamoto’s philosophy in current situation regarding the construction of a new U.S. military base in Henoko and new helipads in Takae.

Ⅰ.内在的な思考のスタイルと言葉

岡本恵徳の残した言葉に触れるとき、岡本が提示した根源的ないくつもの問いと思考に私は 引きこまれる。現在の沖縄をめぐる諸問題に向き合い、あるいは、とどまることのない日本社 会の閉塞感や困難さのなかで、どのような営みをつくっていくのかを考えるとき、岡本の言葉 に引きこまれてしまう。 岡本の文章にはアカデミズムの概念や理論をふりまわすようなことがない。文章のなかには 著者の思考の流れや形跡がはっきりと残されている。著者による問いの設定と思考の過程がみ

* 日本学術振興会特別研究員PD(同志社大学) Research Fellow, Japan Society for the Promotion of Science (Doshisha University)

(2)

てとれるその文章は、読み手との対話の回路をつくっていくような不思議な余白をどこかに保っ ている。また、著者の経験や思考が濃厚に感じられることも多く、その読後感はときに生々しい。 余白と生々しさをたもった文章は、読み手を静かに揺さぶる。読むということが、読み手の向 き合っている現在への思考を促すのだ。 また、岡本の文章を読むという経験は私にとって少し苦しいものでもある。それは論じてい る対象と論じている自分(岡本)との関係性を絶えず自覚的に問う、岡本の内在的な思考のス タイルゆえなのではないかと思う。たとえば、岡本は、旧日本軍の赤松元大尉来島と阻止運動、 それらをめぐるニュース報道と論説について、次のように述べていた。 それよりも、事実の究明ということでもって、逆に赤松元大尉の責任を追求する主体側 の問題が欠落してしまわないか、という気がかりがあるのだ。今度の件について、かなり 多くのすぐれた論説があらわれたが、それらの論説のなかに、追求の主体の問題を視野の 外においた論述がみられるのだから、さっきの気がかりは、いっそう強くなってくる。 なぜそういう責任の追及が、沖縄に住むぼくたち自身の間に行なわれる追及の鋭さとし て現われぬのか。なぜ寛容に彼をむかえ入れようとするのか。それらを支えている意識は 多分根はひとつなのではないかという気がする。(岡本[1970a]2007: 46)1 岡本は、赤松元大尉の責任を追及することと、追及する人間がどのように沖縄戦や戦争、そ してそれらとつながっている現在の沖縄を主体的に考えることとを、切り離してはならないと した。観察者と対象者・物という一方通行の関係のなかに、岡本は立とうとしない。出来事や 問題を受け止め、考え、言語化することを通じて、自らの主体性を壊し、また、つくりなおし ていくような内在的な思考のスタイルがここにある。沖縄戦における渡嘉敷島での「集団自決」 について、「再び同様な条件に置かれるならば、わたし自身が起こすかも知れぬ悲惨であるとい う怖れを発条とすることにおいてはじめてそれを対象化することは可能となる」と書いたよう に、岡本にとって何かを対象化するということは、「わたし自身が起こすかも知れぬ」と自らに 引きつけ、置き換えること抜きには成り立たないものなのだ(岡本 1970b: 172)。このような内 在的な思考のスタイルは読む者を引き込むとともに苦しめる。読み手の主体性が問われるから だ。 本稿では、沖縄の日本復帰をめぐる岡本の文章を再読する。そこにみてとれるのは、復帰が 1972年5月15日において完了した出来事ではないということだ。復帰とは面的な広がりをもち、 現在でも持続するプロジェクトである2。そこで本稿は思想の持続と転形という視座から、岡本恵 徳の反復帰論を、国家を拒否し自らの自発性と直接性において政治を切りひらいていこうとす る人びとの営みの歴史のなかで読み返したいと思う。その作業は、現在を生きる私たち一人一 人にとって、沖縄や復帰を考える営みとはどのような意味をもつのか、という問いを引き受け ることにもなるだろう。 1 本稿での引用文の表記にあたっては、[…]は中略を、[]内は引用者の補足を示す。 2 復帰の力学の持続とその「裂け目」の瞬間的現われに着目した田仲(2010)から示唆を受けた。田仲・ 大野(2015)も参照されたい。

(3)

Ⅱ.復帰と向き合う

1.自然化される人びとの意識の方向づけをめぐる問い 1970年 11 月に『叢書わが沖縄第 6 巻 沖縄の思想』に発表された「水平軸の発想」(岡本 1970b)は、沖縄の近現代史と岡本自身の個人史をかかわらせながら、沖縄の思想的基盤を沖縄 戦での戦争体験から析出するものだ。なかでも「沖縄戦におけるあらゆる状況」が集約されて いる渡嘉敷島での「集団自決」事件が焦点化された(岡本 1970b: 172)。 岡本は、石田郁夫などの論考が渡嘉敷島での出来事を、沖縄の人びとの意識のつながり―「差 別=劣等感(事大主義)=その自己回復の意識作用としての愛国心」という―のなかから生じ たと解釈したことを批判している(岡本 1970b: 152)。〈沖縄差別がある〉→〈沖縄の人びとは「本 土」に対し劣等感を抱いている〉→〈失われた自己を回復するために愛国的なふるまいをする〉 →〈その末路としての「集団自決」事件〉という意識の直線的な流れとそれを自然化する解釈 自体が問題化された。差別と劣等感とが結びつくこと、劣等感と自己回復の方法としての愛国 心とが結びつくこと、これらのつながりは自然なことではない。自然なものとされた直線的な 人びとの意識の方向性のなかには、「意識の屈折」がある(岡本 1970b: 154)。だから、「劣等感 からの自己回復が、たとえば、文化の高さや生活の充実へとむかうのではなくて、なぜほかな らぬ“滅私”的な『愛国心』の方向にむかわざるをえなかったか、ということが、問われなく てはならないのである」(岡本 1970b: 152)。 岡本はそのように問いを立てた上で、「集団自決」を生み出した力学を次のように分析してみ せた。 本来、共に生きる方向に働らく共同体の生理が、外的な条件によって歪められたとき、 それが逆に、現実における死を共にえらぶことによって、幻想的に“共生”を得ようとし たのがこの事件であった。だから問題は、“共生”へとむかう共同体の内部で働らく力を、 共同体自体の自己否定の方向に機能させた諸条件と、そういう条件を、あらがい難い宿命 のようなものに認識した共同体成員の認識のありかたにひそんでいたといえるだろう。[…] だから、渡嘉敷島の悲劇の真の原因は、「共同体的生理」にあるといってしまうと誤りをお かしかねない。むしろ“戦争”を不可避な宿命のように受けとり、それを相対化すること ができずに、島が孤立しているというような自然的条件と、共同体に加えられる権力の意 志や“戦争”などを同じように考え、あらがい難いものとした共同体成員の認識のありか たに原因は求められなければならず、「共同体の生理」をそのような方向に巧みに機能させ た支配のありかたこそ問われなければならないといえよう。(岡本 1970b: 176-177) 岡本は、「集団自決」へと至らしめた人びとの意識を方向づける国家権力の意志と支配のあり 方、それを不可避的なものとして受けとった人びとの認識のありかた、それらに影響を与えた 地理的環境条件などの複合的なかかわりあいのなかで、「集団自決」が生じたのだとする。 その上で、国家権力の意志が介入する場であり、人びとの認識の方向性をまとめあげていく 場でもある「共同体の生理」の重要性を指摘し、問題化した。この「共同体の生理」とは、岡 本によれば、「もともと持っているのは、内部的に機能するもので、自分たち3 3 3 3 の生命を護り、生 活をすこしでもゆたかにしようとする性格」、すなわち困難から逃れ「共生」していこうとする ものである(岡本 1970b: 175-176)。だが、戦争という苛酷な現実を前にした人びとの「共同体 の生理」に国家ははたらきかけ、「共生」へとむかうはずの意志や力を「共死」へと転倒させ、

(4)

整序していったと解釈されている。岡本にとって国家権力の「共同体の生理」へのはたらきか けとは、沖縄戦によって始まったのではなく、皇民化教育や宗教政策など近代を通じて継続し てきたものでもあった。 そして、〈差別→劣等感→愛国心→「集団自決」〉という直線的な人びと意識の方向性がなぜ 生まれたのかと問うことは、逆に言えば、そうはならなかった別の可能性を探る作業でもある。 とすれば、差別―劣等感(事大主義)―愛国心というかたちで説かれるところの、沖縄 の人間の意識のありかたを、差別政策そのもの、あるいは劣等感そのものとして問題とす るのではなくて、その間に出てくる意識の屈折、あるいは発想のパターンが問われなくて はならない。すなわち「近代」の擬制を「近代」そのものと幻想し、「本土」を同質均等の ものとして一般化して沖縄に対置する発想(これは人間を身うちかそうでない存在である かによって類別する意識と無縁でない)、さらにまた、「本土」と沖縄とのあらゆるトラブ ルの根拠なり原因なりを、相手の側にではなくもっぱら自己の方に見出そうとする意識(こ れは個人的にもよくあるかたちである)、そういう意識のありかたや発想のパターンこそ、 問題とされなければならないだろう。そして、擬制としての「近代」を拒絶し、地方の異 質性をそのまま生かすことに、沖縄の可能性のひとつの方向が見出せるということを考え る。(岡本 1970b: 154) ここで岡本は新たに問いを立てている。「共同体成員の認識のありかた」や「共同体」のもつ 機能のありようが可変的で流動的なものであるならば、国家を相対化し批判する方向へと人び との営みを変えていくことはいかにすれば可能なのか、と。 2. 「自からの内」にある国家と持続する復帰というプロジェクト この問いは、岡本を含む復帰直前の沖縄を生きる人びとにとって喫緊かつ重大なものであっ た。なぜなら、復帰運動に発露されている「共同体の生理」がふたたび国家権力によって巧妙 な支配の場となっていたためである。 復帰運動は目の前の軍事占領とそのもとでの生命、暮らし、そして自己の尊厳の破壊という 苛酷な状況に対して、それを克服しようとする運動であった。だが、1960 年代後半、国際関係 においてはベトナム戦争の泥沼化と米国の覇権への懐疑と衰退、米国内の反戦運動とそれと連 動した反体制運動の高揚、沖縄における復帰運動の興隆、そしてそれらに刺激を受けて成長を 続けていた日米安保体制を根本から批判する日本における政治闘争の広がりのなかで、日米両 政府は沖縄の軍事占領という統治政策の変更を迫られていた(新崎編 1969;大野 2014)。日米 両政府が共犯的に進めていたのは、形式的・表面的には沖縄の人びとの復帰願望を汲み取って いるかのようにみせて、しかしその実は沖縄の軍事利用の継続と日米共同管理体制への移行を 果そうとする政治経済的プロジェクトであった(新崎 2005)。すなわち、軍事占領から自由にな りたいという沖縄の人びとの「共同体の生理」は、国際的な軍事戦略と日本の国家権力の支配 のもとで、活用され、方向付けられていったといえる。岡本が向き合っていたのは、渡嘉敷島 の「集団自決」事件と通底する、そのような復帰をめぐる情勢であったと思われる3 ここで岡本の文章が内在的なスタイルをもっていたという点に立ち返れば、次のような思考 の深さがみえてくる。岡本によれば、復帰または復帰運動を問うということは、自らを含む沖 3 新城(2009)による精緻な読解を参照されたい。

(5)

縄を生きる人びとの国家認識を問うということでもあった。復帰または復帰運動に対する批判 的な眼差しは、そのまま自分に投げ返されていく。たとえば、岡本は復帰直後に発表した文章 において、「沖縄に対する差別の支配を拒否しなければならないという発想」に基づき、「沖縄 が沖縄であることを確かにふまえた上での本来持ちうる自由性を獲得」することの必要性とと もに、それを現実化することの困難について、次のように述べている(岡本[1972]2007: 96)。 とはいえ、しかし、このことを現実化することは困難なことである。何故ならば、その ような[日本国家の]相対化の視点を、戦後の歴史のなかでようやく持ちえた沖縄のぼく たち自身のうちに、離島の人たちへの差別、精神障害者や基地の周辺に生きる売春婦(こ の言葉自体がすでに差別のニュアンスを含んでいるが)に対する差別、あるいは進学と就 職という進路の相違による生徒への差別など、差別支配を生みだす社会の構造と、それを 支える日本的体質に感応するものを、すでに持っているからである。 それらの自からの内にあるものを揚棄しないかぎり、おそらく「日本国民」となったと ころのぼくたち自身が、あらたな、たとえば公害病の患者に対するような差別的支配の再 生産に加担する結果に陥りかねないということになろう。(岡本[1972]2007: 96) 岡本にとって、相対化し克服すべき国家による差別的支配のありようは、自らの外部にあっ て対象化されるだけではない。国家とは「自からの内に」もあるものだ。「日本国民」になると いうことは、国民国家の内外に広がる中心-周辺の差別的関係性を構造化する国家からの呼びか けに応え、主体化するということなのだ(西川 2006)。 また、岡本にとって、国民になるということは、次のような世界認識の方法を身につけると いうことでもあっただろう。その方法は「水平軸の発想」と呼ばれている。 家・家族―ムラ―同胞―郷里という同心円に広がる意識、その同心円の外縁として《国・ 国家》を想定していく〈水平軸の発想〉による国家意識が、国を守ることと郷里や家を護 ることをそのまま結びつけたのではあるまいか、そしてそこに彼らの生を賭した行為の根 幹がありはしないか、というのがぼくの想定なのだ。(岡本[1969a]2007: 44) 国家が「共同体の生理」にはたらきかけ、権力の示す方向へと人びとの認識をうながすとき、 私たちは、私<家族<ムラ<郷里<国家<国際関係・世界という同心円的な世界を想像し、そ のなかで自らの行為を意味づける。それは国家とは「私」と「世界」を媒介する場やルートで あると考え、生きるということである。反復帰論はこのような世界認識自体を問題化し、異な る世界の可能性を描こうとする。 よって、復帰とは 1972 年 5 月 15 日をもって完了することはありえない。この同心円的な世界 を深く根付かせ、制度化し、再生産するプロジェクトとして、復帰は持続している。とするならば、 岡本の反復帰論も、その後につづく時代においても形を変え持続していく。1972 年 5 月 15 日以 降の反復帰論の持続と転形を検討する必要がある。

(6)

Ⅲ.復帰後の反復帰論の転形

1. 政治の「手ざわり」の喪失と代表政治 岡本が復帰後の沖縄社会の変化について強調していたことの一つに、日本本土との系列化が あげられる。復帰以降、政党、労働組合、企業、そしてマスメディアなどが、日本本土の本部・ 本社に統合され、そのもとで活動や事業を実施するようになった。系列化は沖縄が日本に統合 されたことを象徴する出来事であった。だが、岡本は、統合される客体としてのみ沖縄の人び とを理解するのではなく、人びとの考え方自体が系列化を促進する一つの要因となっていると 批判している。 ところで、このような中央への系列化を促進させる他の一方の要因として、政治を、そ れにかかわる一人ひとりの人間のあり方のかかわり、いわば思想性とそれに伴う倫理性に おいて捉えるのではなく、一つの機能として、したがって実効性においてのみ捉えようと する考え方がある。沖縄を支配する構造を変革するために組織される力を量において捉え、 量の増加を目的とする考え方である。 このような政治を機能として、実効性において捉える考え方に立つならば、量の増加は まぎれもなく実効性の拡大をもたらすのだから、したがって部分よりは全体を志向し、部 分は全体の部分として機能すべき役割を担うべきであるということになろう。 沖縄を支配するのは日本国家であり、その支配構造を変革しない限り沖縄の支配のあり かたは変化しない。ところが日本の国家を総体として変革するためには沖縄は無力であっ て、全体として闘わねばならないのだから、沖縄はその一部としてその役割を果たすべき である。これが社会民主主義の論理を持つと、あるいは階級的対立抗争の現実化を企図す るものとの区別なく共通に抱く考え方の基本的パターンとなっているのであって、それら には、いずれも、政治を機能として実効性の側面において捉えようとする性格が濃く現わ れているといえるだろう。(岡本[1973a]2007: 112) ここで考察されているのは、一つは復帰後の社会変革の難しさであり、日本社会全体を相手 にしなければならなくなったという現実の大きさである。沖縄の人びとの闘いが米軍と一定程 度直接的に対峙でき、復帰へと追いこむ力を発揮した状況との大きな違いである。「政治の状況 に、すでに確かなもの、人々の求める手ざわりのようなものの喪われた」(岡本[1973a]2007: 102)とされる大きな変化があった。 だが、第二に、この現実の大きさを前にして、沖縄の人びとが自らの「無力」を確認し、「政 治を機能としての実効性」の側面から考えることが批判されている。復帰後の政治において前 提化しつつあったのは、①沖縄が量的には少数であること、②少数であるということは無力で あること、③無力であるがゆえに実効性を求める必要があり、④実効性はより上位の本部・本 社に統合され、量的拡大を図ることによって高まる、という意識の流れである。①→②→③→ ④という意識の直線的つながりは自然化されているが、それには根拠がない、あるいは、あや ふやである。この思考の流れを支え、規定しているのは、これまで論じてきたように、国家権 力のはたらきかけと、そのもとでの同心円的な世界認識であるといえる。岡本が「水平軸の発想」 において批判していたものと同様の、人びとの意識の方向づけと国家権力によるはたらきかけ が反復されているのではないだろうか。自然化された意識の流れのなかに、復帰後の人びとの「意 識の屈折」が確認されなければならない。

(7)

実効性をより上位の組織や枠組みに委ねることによって最大化できるとする復帰後の政治を、 ここでは代表政治と呼んでおきたい。代表政治によって反復されている国家のはたらきかけを、 どのように対象化し、批判し、乗り越えることができるのだろうか。復帰後の反復帰論の問い はこのようなものであったのではないだろうか。岡本にとって、その具体的な対象は、復帰後 の住民運動における運動論をめぐる議論であった。 2. 運動論という焦点 ここで岡本の運動論の二つの特徴に注目したい。 第一に、岡本が代表制をとらない運動の重要性を指摘していたことだ。岡本は 1975 年の 1 月 から 2 月にかけて、琉球新報紙上で、新里恵二と「金武湾を守る会」の運動をめぐって「論争」 を展開した。「金武湾を守る会」が代表制をとらないことについて、新里は運動の無責任さを示 すものだとして批判を展開した。それに対して、岡本は新里を批判し、「金武湾を守る会」の運 動が地域に密着した住民運動であることを強調した上で、主に四つの点から代表をおかないこ とが必要かつ妥当であると反論した。①住民の生存がかかった反公害運動である以上、「代表制」 に基づく条件闘争にはなりえない。②「住民運動の地域性」をふまえるとき、「地縁・血縁、あ るいは伝統的なボス支配等の人間関係によってさまざまな拘束をうける」ことが十分に想定で き、「代表制」はその拘束や地域内部からの切り崩しを自ら招き入れるものとなりうるため、避 けなければならない。③保守政党・団体のみならず、革新県政とも対立するなかにあって、「政 党や労組等と異なり、法的な保護を組織として受けない住民運動では、弾圧や抑圧を特定の人 物に集中しかねない代表制をとりにくい」。そして、④「代表者である特定の人間に負担をかけ、 結果として運動を停滞させること」が想定でき、「会員個々人の自発性・主体性」をつくりだす ために、「会員のすべてが代表者となるようなシステムは、有効な方法である」(岡本[1975] 2007: 122-124)。 このような岡本の住民運動論は、復帰後の政治社会状況の後退をいかに乗り越えるのかとい う問題意識に基づいていただろう。まず、革新県政にあってCTS 建設が進められているという 状況があった。住民を代表するはずの革新県政が住民と対立しており、ここには代表政治の機 能不全がはっきりと生まれていた。また、地域社会のなかの地縁・血縁を通じた政治的拘束を いかに乗り越えるかという運動の課題が確認できる。岡本が「水平軸の発想」で指摘していた ように、国家とその代理執行機関になりうる行政は、地域社会という共同体のなかに、住民を 代表する人間を設定し、活用しようとする。そのような国家の権力作用を招き入れないためにも、 地域社会のなかに代表制を置くことを避ける必要があった4 よって、代表政治を拒否し、人びとが自らの直接の利害を問題化し、自らの手で自らの要求 事項を獲得する政治が、復帰後の沖縄で模索されていたといえる。そのような方向へと人びと の意識を促す条件として、代表なき運動と地域社会の再構成が求められたのである。 第二に、岡本の運動論の特徴として日常性への注目があげられる。たとえば、岡本は「松永 闘争を支援する市民会議」に参加するなかで、「あらゆる反権力の行為を民衆の日常から隔絶さ せ、逆に非日常の暗黒の中に封じこめることで民衆の日常に敵対する存在と化する」現実― これは現在でも同様であろう―に気づいたという(岡本[1973b]2007: 119)。復帰をめぐる 政治闘争の高揚と国家権力による鎮圧のなかで、政治運動は過激で暴力的なものとの印象操作 4 金武湾闘争の歴史と「金武湾を守る会」の運動論的な特徴については、安里(1981)及び上原(2014) を参照されたい。

(8)

がさまざまな場で行なわれた5。その結果、政治と運動は非日常化され、人びとの暮らしや生き方、 すなわち日常から切り離された特殊なものとして位置付けられていく。岡本にとってその象徴 的な経験が 1971 年 11 月 10 日の「11・10 ゼネスト」における警察官の死亡とその後の政治弾圧 であった。そして、政治はシニシズムとともに政治家のものや議会のなかのものとして囲い込 まれてしまう。先に指摘した復帰後の政治の手ざわりの喪失とはこのような文脈によるもので もあった。岡本は市民運動に参加しながら、次のように書いている。 とするならば、あらゆる民衆の運動を、非日常の暗黒の中に封じこめようとする力にあ らがって、「反権力」の意志を日常化すること、権力の狙いを白日の陽光のもとにさらけ出 すことこそ、「市民運動」を恒常化する論理の基盤となるのかも知れない。 同じく市民運動としての「反公害闘争」や「日照権確保」等の地域住民運動は、地域の日 常的で直接的な利害にその基盤を持っていて、そしてそのような利害の直接性と日常性が、 まさしくそれらの運動を「市民運動」として性格付けているといえるだろう。(岡本[1973b] 2007: 119) 政治が切り縮められ、喪失していく状況をとらえかえし、復帰後、あらためて政治を再設定 する実践として、住民運動が浮上していた。住民運動は非日常化された政治をあらためて日常 化する営みであり、議会や政治家に委ねてしまう代表政治を前提とする手前で、自らの生活空 間において、一人一人の自発性と直接性のもとへと政治を取り戻していく営みでもあった。 復帰後の岡本の運動論は、1960年代末期から1970年代初期の反公害住民運動の形成期におい て、運動の内部で激しく、そして豊かに議論されていたことと連動している。たとえば、石川 市によるアルミ工場誘致計画への反対運動がつくられていくプロセスにおいて、住民のあいだ で以下のような議論がなされていた。この議論は「アルミ誘致反対市民協議会」の結成(1972 年5月)にあたって、政党の加入を認めるか否かをめぐるものである。 政党加入を認めるべきでないとする意見は、要旨次の通り。①市民の思考構造は、政党 の理論を抜きにして、政党に対する固定観念をもっており、支持政党以外の党に対しては、 一種のアレルギーがある。政党を前面に出すと公害問題が政党問題にすり変えられ(とく に選挙中でもあり)、広範囲な市民の結集はできない。政党イデオロギーよりも、実際に公 害反対闘争を闘う中で、政治に対する批判力を創造していくようにすべきだ。②政党のス ローガンはそれ自体すばらしいものであるにせよ、それが市民の生活次元にまで下ろされ て闘われるということは、政党の質の問題として、これまでになかったことだ。つまり、 あまりにもスローガン的すぎる。③石川市の場合、保守色が強い地域であり、議会の勢力 分野も圧倒的に保守が多数を占めており、イデオロギー次元での闘いは敗北することが明 白だ。④本土や沖縄の公害闘争をみても、政党が先頭に立って組織された闘いは、ほとん ど敗北している。北部の安和・勝山のセメント粉じん公害の闘いは政党を抜きにして勝利 した。⑤勿論、公害問題もその実質は、明白な政治的意図にのっかっているが、だからといっ てストレートに政治論争を展開することはよくない。闘う中で、徐々に政治的背景を明ら かにしていくのでなければならない。 結局、結論は政党加入の件は保留、政党人は個人として市民協に参加すること、となった。 5 政治運動・社会運動を切り縮める解釈枠組は、残念ながら社会運動史研究や思想史研究においても反 復されている。詳しくは大野(2014: 序章)及び大野(2015)を参照されたい。

(9)

(沖縄県石川市石川高校公害研 1972: 10) とても繊細かつ冷静な情勢判断のもとで議論がなされており、過去の運動の教訓を活かしつ つ運動の真の力を高めるために、方法論を研ぎ澄ましていく試行錯誤をみることができる。こ こで詳細は論じられないが、その後、「アルミ誘致反対市民協議会」は工場誘致計画撤回を勝ち 取った6。政治的な力とは、代表政治によって生まれるのではなく、このような一人一人の自発性 と直接性によってこそつかみ取られたと考えられる。 代表政治のもとで平板な政治的実効性を前提とするのではなく、政治を日常化し、自らの自 発性と直接性において政治を生き直すこと7。これこそが、国家へと従属させていく沖縄の構造化 に抗い、復帰の力学を乗り越える、反復帰論の形を変えた営みであったのではないだろうか。

Ⅳ.反復帰論と現在――直接行動として現われる世界

ここまで岡本恵徳の反復帰論の持続と転形が、いかなる沖縄社会の変化とともにあったのか をみてきた。反復帰論とは、「共同体の生理」や同心円的世界認識、そして代表政治などの回路 を通じて、自らの意識が国家によって方向付けられることを拒否し、人びとの自発性と直接性 において政治を切りひらいていく実践のなかに持続していたことをみてきた。 以上のような岡本の復帰に対する思想は実にアクチュアルである。たとえば、同心円的な世 界認識と代表政治の重なりあいは今日においても重要な問題であるからだ。私たちは日常のさ まざまな場面で、国境を不可避の前提とし、国境の向こう側に生きる人々とのつながりは国家 を媒介したものとなり、国民というカテゴリーに入れて解釈することがある。漁船や人びとが 国境線周辺の島々を行き交うことは、「外交問題」や「安全保障問題」と表現され、それらの「解決」 とそのための方法(を考えること自体)は国家の専権・専管事項とされていく。私たちは国家 によって自律的な対話や交渉を奪われている。グローバル化が言祝がれる現代にあって、同心 円的世界構造は解体されるどころから、むしろ強化されているようにさえ思える。 今日におけるその極限的な現われが辺野古での新基地建設や高江でのヘリパッド建設である だろう。「沖縄問題」を語るとき、聞くとき、私たちは国家の言葉で語り、聞くことがいかに多 いことだろう。「中国の脅威」が語られ、「抑止力の必要性」が主張され、辺野古と高江の軍事 強化が是認されていく。もっともらしく語る評論家の言葉も、大学の講義室のなかで交わされ るディスカッションの基調も、どれもが国家の言葉を反復し、再生産しているかのようだ。相 対化し、批判すべき国家は、私たちの外部にあるのではなく、いまも、私たちの「内」にある。 また、今日における代表政治をとらえかえすためにも、反復帰論は活かされうるものだ。現在 の代表政治をめぐる焦点は、「イデオロギーではなくアイデンティティ」を掲げる翁長県政をど のように評価するかという点だろう。保革の対立を「越えた」ところに、超党派で合意可能な「辺 野古新基地建設拒否」という政治目標を設定し、翁長知事という代表者を通じて、日本政府や 米国政府との実効性のある交渉を進めていこうとすることが代表政治の今日的形態として、私 たちの目の前にある。だが、辺野古新基地建設拒否が焦点化される一方で、高江での米軍ヘリパッ ド建設工事をめぐる問題や与那国島などでの自衛隊基地建設問題、それらをめぐる住民たちの 6「アルミ誘致反対市民協議会」の運動とその成果については、伊波・照屋・宇井(1973)を参照されたい。 7 代表政治を基軸とした政治的実効性という観点から沖縄現代史を叙述する試みがある。その問題につ いては大野(2017)を参照されたい。

(10)

声は切り捨てられているようにみえる。そのような状況において、代表政治による政治の切り 縮めと自発性と直接性に基づく人びとの政治の広がりとのあいだで、せめぎ合いが展開されて いるのではないだろうか(大野 2016)。また、「オール沖縄」が翁長県政とつながりつつ、ずれ ながらも展開されている、その広がりと多義性が論じられなければならないと思う。 よって、反復帰論をめぐって、いま問われているのは、代表政治をいかに乗り越え、国家を 前提としない、私たち一人一人の自発性と直接性に基礎づけられた空間や関係をいかにつくる のかということであるだろう。岡本は、国家に捕捉される「共同体の生理」が、「直接民主主義 的な運動形態」へと変転する可能性について言及していた。 国家をも権力をも社会的な条件として相対化しえたところに、「復帰運動」のエネルギー を触発する契機がひそんでいたといえる。そして、自分たちの手でどうにかしなければな らないのだという“共生”の希求が、直接民主主義的な運動形態としてあらわれたと考える。 (岡本 1970: 178) では、復帰を越えていくものとしての直接民主主義的な運動形態とはどのようなものか。 私は岡本の思想が現代のアナキズムの思想と実践、とくに直接行動というスタイルに重なり あうように思う。たとえばオキュパイ・ウォール・ストリート(OWS)運動に関する、アナキ スト人類学者のデヴィッド・グレーバーの考察を参照してみたい。 OWSのきっかけとなった着想は、直接民主主義の伝統のみならず直接行動の伝統にも由 来している。アナキズム的な観点からすれば、直接民主主義と直接行動は同じものの二つ の側面である――あるいはそうあるべきだ。同じものとはすなわち、われわれの行動形態 そのものが、人間が自分自身をどれほど自由に組織化しうるものか、またしたがって自由 な社会がどのようなものでありうるかを示す原型、あるいは少なくともそれを垣間見せる ものになるべきだという理念にほかならない。(グレーバー 2015: 275) それはただ目的が手段を正当化しないというだけでなく(これはもちろんのことだが)、 アナキストたちが訴えたのは、手段それ自体が創造したい世界の原型にならない限り、目 的は決して達成されることはないということであった。(グレーバー 2015: 225) 未来において何かを実現するのではなく、自分(たち)が「創造したい世界」を現在におい て示し、生きるという直接性に基づくスタイル――予示的政治――が直接行動の特徴である。 だが、直接行動とは非日常的で特殊なことではない。アナキズムの考える直接行動とは「他 のものを通さず、自分のちからで、自分の必要なものを求める行動」であるのだから、私たち は暮らしのなかで、あたりまえに、常に既にそれを日々実践している(向井 2002: 44-51)。それは、 仲間たちと情報を分かち合ったり、料理をしたり、語りあったり、歌ったり、踊ったり、研究 をしたり、土を耕し、収穫するといった営みのなかで、くりかえされてきた。人びとの直接行 動の日常的実践をみえなくさせるのが、国家のもとでの代表政治や民主主義であり、経済にお ける資本主義である。ここで、岡本がこう述べていたことを想起したい。「もともと『国家』(祖国) や『異民族』という観念は、日常生活においては、それほど現実的なものとして存在するわけ ではない。今日をどのようにすごし、明日またどのようにむかえるかという日常性のなかでは、 それはどうでもよい」(岡本 1970: 178)。岡本が示唆しているのは、沖縄を生きる人びとの自発

(11)

性や直接性が、常に既に国家を不要のものとしえていること/しえてきたということだ。 私にとって、辺野古や高江の座り込みを通じて経験したのは、直接行動の歴史と現在を繰り返 し想起し、経験し、意味づけ、分かち合うことにほかならなかった。座り込みに参加するという ことは、国家の意のままにならない身体になる試行錯誤であったように思う。そして、座り込み の場には各地から直接行動のスタイルが持ちこまれている(もちろん、それと相反するスタイル や思想も同時に持ちこまれるのだが)。その経験は、人びとに、辺野古や高江での体験を非日常 化せず、自らの日常において持続し、加工することを求めている。直接行動は、辺野古や高江に 持ちこまれ、また、各地へと持ちかえられる。 だから、復帰に向き合うという思想的・実践的な営みは、もはや「沖縄」を越えた広がりのな かに存在するといってよい。岡本は沖縄戦に向き合うことをめぐって、次のように問題提起をし ていた。 いま、沖縄戦の体験の記録が多く読まれているとすれば、それは沖縄戦の体験が、ぼくた ちのいま3 3 に、まっすぐに突きささるものを持ちえているからだといえる。とするならば、ぼ くたちがそれらの記録についてみるのは、ぼくたちのいま3 3 に突きささるものが何なのかを明 らかにすることだといっていい。(岡本[1969b]2007: 39) 私は、いま、次のように読み替えたい。辺野古の基地建設に抗し、高江でヘリパッド建設を止 める人びとの実践、言葉、映像が広く読まれているとすれば、それは辺野古・高江での体験と出 来事が、私たちのいまに、どのような意味で、まっすぐ突きささるものであるのだろうか、と。 この問いに向き合う者たちは、反復帰論の現在形として、国家の枠付けと方向付けの外側へと向 かい、生きることになるだろう。

参考文献

安里清信、1981、『海はひとの母である――沖縄金武湾から』晶文社. 新崎盛暉編、1969、『ドキュメント沖縄闘争』亜紀書房. 新崎盛暉、2005、『沖縄同時代史1962∼1972別巻 未完の沖縄闘争』凱風社. 伊波義安・照屋唯夫・宇井純、1973、「沖縄の公害闘争」『公害原論』(第 6学期4回、1973年5月 7日)、公開自主講座「公害原論」実行委員会. 上原こずえ、2014、『1970-80年代の沖縄・金武湾闘争――「近代化」を問う民衆運動とその「生 存」思想』(博士論文)東京大学. 沖縄県石川市石川高校公害研、1972、「《住民運動報告》沖縄アルミ進出と市民運動」『自主講座』 18: 5−17. 大野光明、2014、『沖縄闘争の時代1960/70―分断を乗り越える思想と実践』人文書院. ――――、2015、「接続する反戦・平和運動へ―社会運動をめぐる言葉の現在地」『情況』第 4 期4巻9号. ――――、2016、「辺野古をめぐる二つの政治」『現代思想』44巻2号. ――――、2017、「沖縄現代史におけるコンセンサスの政治と空間性―櫻澤誠著『沖縄現代史』 への応答として」『立命館言語文化研究』28巻4号. 岡本恵徳、1969a、「《水平軸の発想》その二」『沖縄タイムス』1969年11月8日.(再録:2007、『「沖

(12)

縄」に生きる思想』未来社) ――――、1969b、「戦争体験の記録」『沖縄タイムス』1969年7月11日.(再録:2007、『「沖縄」 に生きる思想』未来社) ――――、1970a、「『責任の追及』ということ」『沖縄タイムス』1970年4月5日.(再録:2007、『「沖 縄」に生きる思想』未来社) ――――、1970b、「水平軸の発想―沖縄の共同体意識について」谷川健一編『叢書わが沖縄  第六巻 沖縄の思想』木耳社. ――――、1972、「『日本国家』を相対化するということ」『世界』1972年8月号.(再録:2007、『「沖 縄」に生きる思想』未来社) ――――、1973a、「沖縄“施政権返還”その後」『思想の科学』通巻223号.(再録:2007、『「沖縄」 に生きる思想』未来社) ――――、1973b、「市民運動論覚書」『沖縄・冬の砦』10号.(再録:2007、『「沖縄」に生きる思想』 未来社) ――――、1975、「反公害住民運動」『琉球新報』1975年2月22日.(再録:2007、『「沖縄」に生 きる思想』未来社) ――――、2007、『「沖縄」に生きる思想―岡本恵徳批評集』未来社. グレーバー、デヴィッド(木下ちがやほか訳)、2015、『デモクラシー・プロジェクト―オキュ パイ運動・直接民主主義・集合的想像力』航思社. 新城郁夫、2009、「反復帰反国家論の回帰―国政参加拒否という直接介入へ」岩崎稔・上野千 鶴子・北田暁大・小森陽一・成田龍一編著『戦後スタディーズ2 「60・70」年代』紀伊国屋 書店、61−84. ――――、2014、『沖縄の傷という回路』岩波書店. 田中康博、2010、『風景の裂け目―沖縄、占領の今』せりか書房. 田仲康博・大野光明、2015、「この国は本当に平和なのか―沖縄戦終結から七〇年、沖縄の『占 領』は終わったのか」『週刊読書人』2015年6月26日. 西川長夫、2006、『〈新〉植民地主義論―グローバル化時代の植民地主義を問う』平凡社. 向井孝、2002、『暴力論ノート―非暴力直接行動とは何か』「黒」発行所. 謝辞 本稿は成蹊大学アジア太平洋研究センター主催の「『沖縄』に生きる思想――岡本恵徳を想う」 (2015年12月6日)での発表原稿を、その場でいただいた貴重なコメントをふまえながら、大幅 に加筆修正したものである。シンポジウムでの報告の機会をくださった李静和さん、上原こずえ さん、村上陽子さんに感謝申し上げる。また、発表原稿をまとめるにあたっては、「闇市的沖縄 -アジア運動/文化研究会」での岡本恵徳精読会から多くの示唆を受けた。研究会の仲間にもこの 場を借りて謝意をあらわしたい。ありがとうございました。

参照

関連したドキュメント

しかし何かを不思議だと思うことは勉強をする最も良い動機だと思うので,興味を 持たれた方は以下の文献リストなどを参考に各自理解を深められたい.少しだけ案

○本時のねらい これまでの学習を基に、ユニットテーマについて話し合い、自分の考えをまとめる 学習活動 時間 主な発問、予想される生徒の姿

( 同様に、行為者には、一つの生命侵害の認識しか認められないため、一つの故意犯しか認められないことになると思われる。

第2 この指導指針が対象とする開発行為は、東京における自然の保護と回復に関する条例(平成12年東 京都条例第 216 号。以下「条例」という。)第 47

Q7 

層の積年の思いがここに表出しているようにも思われる︒日本の東アジア大国コンサート構想は︑

討することに意義があると思われる︒ 具体的措置を考えておく必要があると思う︒

第一五条 か︑と思われる︒ もとづいて適用される場合と異なり︑