一九二
序 論
本論文は︑﹃判断力批判﹄を中心に︑カントの刊行著作︑レフレクシオー
ン︑講義録等を体系的・発展史的問題意識に基づき精査し︑この作業を通
じて︑同書の中心的課題を︑これまでの研究史上︑十全に評価されてきた
とは言い難い概念群・資料群から明確化するものである︒本論文は︑体系
的・生成史的に重要な役割を果たしている︑︵一︶﹁完全性﹂︵およびその
否定︶︑︵二︶﹁認識一般﹂︑︵三︶﹁反省的判断力﹂︑︵四︶﹁超感性的なもの﹂
の四契機にまず焦点を当てる︒そしてこれらの諸概念︑特に﹁超感性的な
もの﹂との関係で︑﹃判断力批判﹄における﹁根拠﹂論を展開する︒本論
文は︑﹃判断力批判﹄が︑広義の﹁純粋理性批判﹂に含まれ︑それを完結
させるとはいかなることであるかを示す︒
第1 章 ﹁超感性的なもの﹂
本章は︑﹁超感性的なもの﹂を総論的に扱う︒八〇年代後半から九〇年
にかけて︑﹁超感性的なもの﹂が術語化していく過程を検討する︒現行序
論には﹁感性的なものとしての自然概念の領域と超感性的なものとしての
自由概念の領域の間には見渡しがたい裂け目﹂が存在するという記述が見 られる︒しかしそこではたんに断絶に力点が置かれているわけではなく︑﹁自由概念はその諸法則によって課せられた目的を感性界のうちに実現すべき﹂であるとされている︒こうした一連の﹁当為﹂は︑﹃実践理性批判﹄
弁証論の問題を想起させる︒
アンセルム・モーデル等の研究によれば︑一七八六年の﹃思考において
方位を定めるとはいかなることか﹄前後から︑カントは﹁超感性的なもの﹂
という用語を好んで用いるようになり︑他方︑﹁物自体﹂﹁ヌーメノン﹂﹁可
想的﹂等のそれまでよく見られた概念の頻度が下がる︒ここで﹁超感性的﹂
という概念は︑否定的なニュアンスを必ずしも含んでいるわけではない︒
八〇年代中盤に﹁超感性的﹂概念が肯定的な位置づけを獲得したことは︑
カント=エーベルハルト論争においても明らかである︒カントは一七九〇
年復活祭に︑﹃判断力批判﹄とともに︑﹃新しい純粋理性批判は古い批判に
よってすべて無用にされるはずだという発見について﹄︵﹃駁論﹄︶を出版
する︒﹃駁論﹄の直接的な内容は︑超越論的観念性に関わる諸テーゼの擁
護であるが︑同時に同書は﹁超感性的﹂概念についての考察を含んでおり︑
その点で﹃判断力批判﹄と共通点をもつ︒
さて︑ジョン・H・ザンミートは︑﹃判断力批判﹄がその形成過程にお
いて︑二つの決定的な﹁転回﹂︑すなわち﹁認識論的転回﹂︑﹁倫理的転回﹂
を経てきたと主張する︒後者の﹁倫理的転回﹂と︑﹁超感性的なもの﹂の
全面的な導入は重なり合う︒ザンミートはこうした動向の背景に︑物活論︑
汎神論の台頭といった外的状況を見る︒しかし﹁超感性的なもの﹂の導入
を︑論争状況に還元し尽くすことはできない︒むしろ﹁超感性的なもの﹂
という概念の導入は︑広義の﹁純粋理性批判﹂の体系化︑という問題と一
体である︒すなわちカントの実践哲学の深化が︑﹁超感性的なもの﹂の再
定義へと繋がっていったと考えられる︒﹃実践理性批判﹄﹁純粋実践理性の
分析論の批判的解明﹂節で見られる︑﹁超感性的﹂概念と﹁超絶的﹂概念
超感性的なもの︑認識一般︑根拠
││カント﹃判断力批判﹄研究││
浜 野 喬 士
博士論文概要一九三 の対比はその表れである︒
第2 章 ﹁完全性と合目的性﹂
本章では︑完全性との関係において美を捉えるという伝統的立場と︑そ
こからのカントの離脱の過程を︑六〇年代末を中心に検討する︒ライプ
ニッツの認識論に端を発する︑美を完全性の混雑した表象ととらえる見解
は︑ヴォルフを経由し︑マイアーのテキストを通じて︑カントに直接的な
影響を与えている︒こうした伝統的完全性概念からの離脱が遂行されるの
は︑一七六九年前後という時期である︒この転回を可能にしたのは︑同時
期のレフレクシオーン群および﹃感性界と可想界の形式と原理﹄に見られ
る︑﹁同位的秩序﹂と﹁従属的秩序﹂という区分の導入である︒
同位的秩序は感性に関わり︑時空における事物の関係を規定する︒従属
的秩序は知性に関わり︑原因づけられたものと原因のような︑論理的関係
において事物を規定する︒この同位的秩序は︑バウムガルテンの﹁外延的
明晰性﹂︑すなわち個別表象の方向へ︑枚挙的に徴表を拾い上げていく明
晰性の系譜を︑換骨奪胎したものといえる︒
カントが︑内包的明晰性/外延的明晰性という区分から︑同位的秩序/
従属的秩序という対立を︑感性と知性の区別に対応させるかたちで独自に
取り出したとき︑カントの美感論および完全性論に生じた変化は決定的な
ものであったと考えられる︒しかしこうした動向は︑ただちに﹁趣味の批
判﹂といった書物を成立させるには至らない︒むしろ六〇年代にカントが
考えていたような趣味論の限界が意識される︒つまり︑趣味論を﹁エステー
ティク﹂という概念で呼ぶことは不適切ではないかという疑義が生じる︒
その結果︑この概念は︑趣味論ではなく︑後に超越論的感性論となる時空
論に向けて留保されることになる︒ こうした広義の﹁論理的なもの﹂に基づく趣味論という路線から離脱するという︑大きな転回以降︑カントが趣味のアプリオリな原理を求めて︑快・不快の感情論︑天才論︑芸術論︑共通感官論などを検討した痕跡が︑一七七〇年代から八〇年代の講義録に残っている︒すなわち七〇年代初頭の﹁コリンズ人間学﹂における﹁生の促進の感情﹂論︑七〇年代後半の﹁ピ
ラウ人間学﹂の﹁私的感官﹂︑﹁共通感官﹂論等である︒しかし七〇年代︑﹁比
較的なアプリオリテート﹂︵ジョルダネッティ︶という限界を超えて︑趣
味のアプリオリな原理が提示されることはない︒
﹃判断力批判﹄﹁美感的判断力の分析論﹂にも﹁完全性﹂概念は姿をとど
めている︒しかしそこでの完全性は合目的性論に吸収され︑消極的なもの
に留まっている︒ただし︑趣味の普遍性の根拠としての﹁概念﹂をめぐる
議論自体は︑﹁超感性的なもの﹂論へと引き継がれていく︒
第3 章 ﹁︿趣味の批判﹀と︿認識一般﹀ ﹂
本章は趣味判断の原理のアプリオリテートの発見について︑一七八三│
四年と考証される﹁レフレクシオーン九八八番﹂の﹁認識一般﹂概念を中
心に分析する︒
﹁認識一般﹂の概念が登場するのは同レフレクシオーン中盤である︒﹁判
断が客観に︵また客観に関する概念を介するかたちでのみ主観に︶関係す
る場合︑しかしそれにも関わらず︑なんらかの客観についての規定された
概念︑また諸規則にしたがって規定可能な何らか主観に対する︵概念の︶
関係についての規定された概念が︑同じ客観の判断を必然的なものたらし
めない場合︑判断は認識一般という心の諸力を通じて︑客観一般に関係し
なければならない︒なぜならこの場合︑規定された概念ではなく︑概念一
般を通じて伝達することができる︵一切の︶認識諸能力の感情が︑その判
一九四
断の根拠を含んでいるからである︒快はこの判断についてのものであり︑
判断の客観についてのものではない﹂︒
認識一般とは︑客観についての規定された概念を持たないにも関わらず︑
客観への関わりを有するときの︑主観面での心の諸力の状態である︒客観
に関する概念を持たない趣味判断においては︑概念が判断の根拠になりえ
ない以上︑この認識一般という心的諸力の状態そのものが趣味判断の根拠
となる︒しかし︑この認識一般という有り様の︑心の諸力の状態そのもの
が感じ取られるわけではない︒感じ取られるのはあくまで快・不快の感情
である︒ ダニエル・ドゥムシェルやピエロ・ジョルダネッティらは︑趣味に関す
るアプリオリテートの発見という点で︑この﹁レフレクシオーン九八八番﹂
の革新性を評価している︒しかしパウル・メンツァー︑ハンス・ゲオルグ・
ユーヘムらは﹁九八八番﹂を評価してこなかった︒メンツァーは﹁九八八
番﹂が︑あくまで﹁生の促進の原理﹂という経験的概念に力点を置いてい
ると考えた︒ユーヘムは﹁認識一般﹂と認識諸力の調和という概念の両者
を重ね合わせ︑こうした思想自体は︑すでに九八八番に先立って存在して
いると主張した︵一七七二年の﹁フィリッピ論理学﹂等︶︒しかし︑かつ
ての心的諸力の調和という思想と︑﹁九八八番﹂における﹁認識一般﹂論
を単純に同一視することはできない︒
﹃判断力批判﹄の形成にあたり︑﹁認識一般﹂が大きな役割を果たしたで
あろうことは︑趣味判断の第二モメント︵量︶︑第四モメント︵様相︶︑演
繹という三箇所︑すなわちアプリオリテートを形成している普遍性︑必然
性が問題となる箇所に︑﹁認識一般﹂の用例が集中的に残存していること
からも窺える︒表象は﹁認識一般﹂に関係づけられねばならない︒言い換
えれば︑趣味判断においても︑与えられた表象は︑およそ認識というもの
が可能になるための一般構造の中に組み込まれねばならない︒ さらに﹁認識一般﹂と﹁合目的性﹂概念の関係も問われる︒合目的性の概念は︑﹁実体﹂ないし﹁原因性﹂の問題につながる︑﹁関係﹂カテゴリー
に属する︒趣味判断における主観的合目的性も︑それが判断力の﹁超越論
的原理﹂たるためには︑少なくとも最広義の﹁客観﹂を︑﹁認識一般﹂の
相関者として必要とする︒ここに美感的経験の﹁根拠﹂という問題が現れ
る︒﹁根拠﹂の問題を美感的判定の場面に導入する契機となるのは︑﹁合目
的性﹂の概念である︒
第4 章 ﹁︿理性の仮説的使用﹀と︿反省的判断力﹀ ﹂
本章は︑﹁反省的判断力﹂の前史を形成する﹃純粋理性批判﹄﹁超越論的
弁証論への付録﹂の﹁理性の仮説的使用﹂を検討する︒この﹁理性の仮説
的使用﹂と︑﹃判断力批判﹄の﹁反省的判断力﹂の関係は︑生成史という
点でも︑また体系的解釈という点でも絶えず問題となってきた︒議論とな
るのは︑﹁同種性の原理﹂︑﹁多種性の原則﹂︑﹁親和性の法則﹂といった︑
われわれの経験的認識の体系化を促す諸原理の位置づけである︒
ロルフ・ペーター・ホルストマンは︑理性の仮説的使用において用いら
れる諸原理が︑たんなる論理的原理であるということを強調する︒換言す
れば︑これらが超越論的原理としての位置づけを欠く︑ということである︒
これに対しラインハルト・ブラントは︑カントの記述には︑ホルストマン
の主張するように︑理性の仮説的使用の原理に︑超越論的地位を与えるこ
とを疑問視させるような記述がいくつも存在することを認めつつも︑それ
でも理性の諸原理は︑超越論的でもあるがゆえに︑論理的にも機能すると
考える︒ だがこうした解釈を採る場合にも︑理性の仮説的使用と︑反省的判断力
との間では︑演繹の対象となる能力と原理が異なっているという問題が残
博士論文概要一九五 る︒ヴォルフガング・バルトシャットはこれを﹁特殊な認識の統一﹂と﹁特
殊なものの統一的認識﹂の差異として定式化する︒理性の仮説的使用にお
ける理念の超越論的演繹と︑反省的判断力の原理としての合目的性の原理
の超越論的演繹において︑目指されているものは異なる︒理念の超越論的
演繹が示した理性統一は︑たんに﹁特殊な認識の統一﹂であるに過ぎず︑
特殊なものそのものは定式化されていない︒
ヨッヘン・ボヤノフスキーが主張するように︑反省的判断力の原理の演
繹は︑遡行的に理性の仮説的使用を基礎づけている︒ただし判断力が自分
自身に法則を与える︑ということを認める場合︑その判断力に起源を有し
つつ︑反省的判断力の相関者として現れる﹁技術﹂としての自然は︑感性
的制約を超えた︑超感性的な︑あるいは︑可想的な︑自然の規定可能性を
要求する︒こうした自然の別種の規定可能性の問題は︑﹃純粋理性批判﹄
においては完全に展開されてはいない︒これが前面化するには︑第一に︑
こうした自然概念の相関者としての反省的判断力の導入が︑第二に︑﹁超
感性的なもの﹂の導入が必要なのである︒
第5 章 ﹁︿趣味のアンチノミー﹀と︿超感性的なもの﹀ ﹂
本章は︑﹁趣味のアンチノミー﹂に焦点を当て︑その成立史を検討しな
がら︑そこでの﹁超感性的なもの﹂の機能︑および﹁根拠﹂概念との関係
を探っていく︒﹁趣味のアンチノミー﹂の﹁定立﹂は︑﹁趣味判断は諸概念
に基づかない︑というのも︑基づくとすれば︑趣味判断について︿論議﹀
されうる︵証明によって決定しうる︶ことができるということになるから﹂
というものである︒他方︑﹁反定立﹂は﹁趣味判断は諸概念に基づく︒と
いうのも︑基づかないとすれば︑趣味判断の相違にもかかわらず︑趣味判
断についても︿論争﹀されうる︵この判断と他の判断の必然的な一致を要 求する︶ことすらできない︑ということになろうから﹂というものである︒反定立は趣味判断の普遍性に向けられており︑その普遍性を担保しているのは﹁諸概念﹂である︒ このようなアンチノミーの﹁解決﹂は︑定立︑反定立にまたがる﹁概念﹂
という用語の混乱を明確化することによって遂行される︒定立の﹁概念﹂
は︑﹁規定された概念﹂であり︑他方︑反定立の﹁概念﹂は︑﹁規定されて
いない概念﹂であるとされる︒この過程で﹁概念﹂は﹁超感性的なもの﹂
と読み替えられる︒しかしこうした﹁解決﹂の容易さ︑そして﹁超感性的
なもの﹂の導入は︑このアンチノミーに︑研究史上︑さまざまな嫌疑をも
たらしてきた︒
こうした問題を考えるために︑﹃判断力批判﹄に時代的に先行するヒュー
ムの趣味論︑およびカントの七〇年代以降のレフレクシオーン︑講義録を
検討する︒そこには確かに趣味の基準についての言及が存在するが︑それ
らが﹃判断力批判﹄の水準で︑趣味のアンチノミーを形成するには至らな
い︒﹃判断力批判﹄においてはじめて︑趣味のアプリオリな原理をめぐる
アンチノミーという次元が開示される︒
判断力がアンチノミーを有するか否かという問題は︑それが自身に固有
のアプリオリな原理を持ち︑上級認識能力の体系へ組み込まれうるか︑と
いう問題と密接に繋がっている︒﹁判断力の批判﹂が︑広義の﹁純粋理性
批判﹂に属し︑そして﹁批判﹂を終結させる︑ということの意味が問われ
る︒すなわち︑自然と自由をつなぐ︑超感性的基体の﹁規定可能性﹂の問
題である︒
ここで﹁規定可能性﹂の問題を理解するために︑ハインツ・アイダーム
にならって︑﹃実践理性批判﹄序論の﹁認識根拠﹂と﹁存在根拠﹂という
概念枠組みを︑﹃判断力批判﹄に導入する︒自然の合目的性の﹁存在根拠﹂
は︑自然と心的諸力との親和性︑あるいは自然の可想的規定可能性である︒
一九六
一方︑自然の可想的規定可能性ないし親和性の﹁認識根拠﹂は︑自然の合
目的性である︒自然の合目的性があらかじめ原理として考えられていない
とすれば︑われわれは自分に自然の可想的規定可能性なるものを想定する
権限があるとは決して思わない︒他方︑自然の可想的規定可能性があり得
ないとすれば︑自然の合目的性は︑われわれのうちに正当な原理として見
いだされることはない︒
﹃判断力批判﹄が広義の﹁純粋理性批判﹂を形成するならば︑それはこ
うした﹁根拠﹂をめぐる問題の枠組みの中で︑また判断力に固有の仕方で︑
超感性的なものの規定可能性を提示することによる︒﹃判断力批判﹄は書
名としては﹁理性﹂の文字を含まないが︑超感性的なものの規定可能性の
提示を通じて︑理性批判の︑体系としての統一の可能性を支えている︒
第6 章 ﹁目的論的判断力の弁証論と︿超感性的なもの﹀ ﹂
本章は﹁目的論的判断力の批判﹂の弁証論を扱う︒この箇所は︑研究史
上︑少なからぬ議論を惹起してきた︒解釈上の問題をとりわけ誘発してき
たのは︑アンチノミーの﹁外観﹂が︑反省的判断力の原則と規定的判断力
の原則の﹁混同﹂に起因する︑というカント自身の文言である︒まずアン
チノミーの再構築がなされねばならない︒
第一に︑規定的判断力の他律と反省的判断力の自己自律の区別︵あるい
は﹁混同﹂︶は︑アンチノミーの発生というより︑その解決の場面でこそ
機能している︒第二に︑目的論的判断力の弁証論で扱われているアンチノ
ミーの自然的︑不可避的性格は確保されている︒反省的判断力が目的論的
に使用される際に採る︑二つの格率間に生ずるアンチノミーは︑その主観
的・統制的性格からして本質的に仮象であるが︑仮象であることの自覚が︑
ただちに仮象の発生そのものの永久の消滅を意味するわけではない︒第三 に︑このアンチノミーが反省的判断力に固有のものか︑それとも理性に固有のものかという論点であるが︑実際には︑弁証論の起源を認識能力のどれか一つに特定することが問題なのではなく︑むしろわれわれの認識諸能力の全体に︑その起源が存在する︑という点が重要である︒これが弁証論のただ中で︑突如第七六節﹁注解﹂のような認識能力論︵論弁的悟性︑直覚的悟性︶が登場する理由である︒ こうした能力論を踏まえて︑上級認識能力の全体に関わる広義の﹁純粋理性批判﹂に︑﹃判断力批判﹄が含まれるということの意味が問われねば
ならない︒﹃判断力批判﹄は︑他の二批判と異なり︑立法の領域︑すなわ
ち自然ないし自由を対象としては持たない︒しかしそれゆえに︑自己自律
というかたちで︑反省的に︑諸能力の精査を自分自身に向けて行うことに
なる︒ さて︑第七二節︑第七三節では︑自然の合目的性に関する諸々の思想が︑
﹁偶然性の観念論﹂︑﹁宿命性の観念論﹂︑﹁物活論﹂︑﹁有神論﹂という四体
系として提示されている︒四つの体系はそれぞれに自然目的の﹁根拠﹂を
提示するわけだが︑カント自身の﹁根拠﹂はこれらの体系とは異なってい
る必要がある︒自然の客観的合目的性が︑反省的判断力に対する批判的原
理であることを強調するとき︑カントの念頭にあるのは﹁根拠﹂の問題で
ある︒ 自然目的の四つの体系は︑自然の考察を現象において一元的に展開して
いるという点で︑共通している︒これに対しカントの﹁超感性的なもの﹂
は︑自然目的の﹁根拠﹂︑ひいては︑われわれの目的論的判定の妥当性の
究極的な﹁根拠﹂を︑﹁超感性的﹂という限定とともに与える︒自然の客
観的合目的性の概念
︑あるいは自然目的の理念が
︑たんにプラグマー
ティッシュなものでも︑空虚なものでもないとすれば︑それはその﹁存在
根拠﹂の次元が︑﹁超感性的なもの﹂を通じて︑自然の可想的規定可能性
博士論文概要一九七 として導入される場合である︒
結 論
本論文は︑﹃判断力批判﹄が広義の﹁純粋理性批判﹂に含まれ︑それを
完結させるということの意味を︑完全性や反省的判断力の概念も交えつつ︑
﹁超感性的なもの﹂︑﹁認識一般﹂︑﹁根拠﹂という問題から究明した︒広義
の﹁純粋理性批判﹂の体系が完結するためには︑少なくとも﹁超感性的な
もの﹂の﹁規定可能性﹂が示される必要があった︒本論文は﹁超感性的な
もの﹂の問題を︑﹁根拠﹂論へと関係づけた︒われわれは﹁存在根拠﹂﹁認
識根拠﹂という概念枠組みを﹃判断力批判﹄に導入することで︑同書を一
貫して読み解く視座を手にした︒
本論文における﹁超感性的なもの﹂論の副次的産物として見えてくるの
は︑なぜ後代の文学者︑哲学者たち︵ゲーテ︑シラー︑シェリング等︶に
多大な影響を与えたのが︑カントの著作のなかでも︑他ならぬ﹃判断力批
判﹄であったのか︑という古典的問題への示唆である︒
カントにとって問題だったのは︑﹁超感性的なもの﹂の﹁規定可能性﹂
であった︒自然の可想的規定可能性は︑あくまで可能性の次元に留まって
いた︒しかしこうした理論的自己抑制は︑直ちに理論的限界ないし乗り越
えられるべき障壁と映るようになる︒求められるのはまさしく生きた自然
であり自由であるということになる︒自らを有機的に組織する自然という
観念は︑反省的判断力の相関者たる﹁技術﹂としての自然という制約を超
えて︑﹃判断力批判﹄以降の哲学史の中で展開されていく︒
﹃判断力批判﹄は確かにそれ以降の自然哲学︑あるいは自由を中核に据
えたドイツ観念論に決定的なインスピレーションを与えた︒しかし﹃判断
力批判﹄自身は批判哲学としての制約を超え出ることはない︒その意味で カントのこの第三批判は︑まさに一つの哲学史的転換点を形成している︒﹁超感性的なもの﹂をめぐる書物としての﹃判断力批判﹄は︑広義の﹁純
粋理性批判﹂を完成させたが︑その哲学的射程は︑カント自身の意図をよ
そに︑﹁批判﹂という哲学的態度を越える爆発力を有していたのである︒
一九八
本研究の目的と課題
本博士学位論文﹁安慧の唯識説における認識論﹂︵以下︑本研究︶は︑ 安慧︵Sthiramati ca. 510 570︶の唯識説について︑その一端を考究するも
のである︒
本研究においては︑その分析の切り口として︑主に認識に関わる議論に
着目し︑看過すべからざるいくつかの理論的特徴を引き出して︑その思想
史的意義を考察する︒
主に考察の対象とした文献は︑︵﹃中正と両極端との 弁別﹄以下
︑
MAV
︶とその世親釈論
︵
㸽
以下
︑
MAVBh
︶ ︑ ならびにその安慧復註︵㹛以下︑
MAV㶗
︶である
︒
MAV
は︑その書名に示されるとおり
︑有と無との辺
︵anta︶を離れた中道︵madhyamā pratipad︶を︑瑜伽行唯識学派の学説
において明らかにしようとするものである︒そしてまた︑大乗における根
本概念である空性に対する瑜伽行唯識学派の解釈が論じられているという
点において︑重要な意味をもつ論書である︒全体の構成は︑帰敬偈と論の
綱要を述べる序章に相当する部分と五つの章︵漢訳は七章︶からなり︑そ
こで説かれる内容は唯識学派の教学に関する理論的側面から実践的・修道
論的側面に至るまで多岐にわたっている︒ 本研究で中心的に扱う箇所は︑MAV第1章Lak㶆a㶡a-paricchedaであり︑
そこにおいては瑜伽行派の新たな概念として︑虚妄分別
︵abhūtaparikalpa︶という概念が措定される︒﹁分別﹂のもっとも基本的
な意味は主観︵能取︶と客観︵所取︶の分離あるいは分立である︒そして︑
現実世界の凡夫が常識的にもっている通常の判断や認識は誤りであって真
実にはそのような主客の分別は存在しない︑という点が﹁虚妄﹂であると
される︒ 第1章では虚妄分別と空性との関係が論じられる中で︑認識するものと
されるもの︑すなわち能取と所取︑あるいは顕現といった︑認識に関わる
概念が重要な役割を果たしている︒本研究では主にそのような箇所につい
ての考察に主眼を置く︒
安慧の唯識説の中で︑なにゆえに認識論的な側面に着目するのかと言え
ば︑安慧の教理理解は︑日常的な
4 4 4
認識が成立している状況について考察す 4
る場合に︑それを唯識の立場からどのように説明をするのか︑という点に
おいて︑際だった特徴を示しているように見受けられるからである︒本研
究ではとくに︑凡夫の日常的な認識に関して述べられる文脈の中で提示さ
れる諸問題をとりあげて分析する︒
ところで︑瑜伽行唯識学派の教理の柱のひとつである影像門の唯識︵対
象はすべて心中の影像である︑あらゆる経験対象は心にほかならない︶︑
すなわち﹁唯識無境﹂︵= vijñaptimātra︶ という考え方の根本には禅定体
験・瞑想経験があり︑そこでは﹁日常的な認識﹂の正しさについてを根拠
づけようとする動機がそもそも存在しないであろうことは︑容易に想像で
きる︒なんとなれば︑影像門の唯識は︑あらゆる認識対象・経験対象が実
在しないという︑禅定を通じた経験や実感などを基盤とする教義だからで
ある︒ それに対して︑瑜伽行唯識学派の伝統にあっては︑﹁唯識無境﹂を﹁外
安慧の唯識説における認識論
伊 藤 康 裕
博士論文概要一九九 界の対象は如何なる意味でも認識の対象ではない﹂︵= vijñaptimātra︶と
いう︑認識論的な視点から論証しようとする傾向もある︒そのような傾向
は︑たとえば俀㸼︵以下︑V㶄︶における外界 実在論者︵bāhyārthavādin有外境論者︶に対する批判や︑陳那︵Dignāga ca. 480 540︶や法称︵Dharmakīrti ca. 600 660︶などいわゆる仏教論理学派
の論師たちに顕著に見られるものであるが︑それは安慧にも同様に看取さ
れる︒しかも安慧には︑V㶄の世親よりさらに認識論的な視点を重視する
傾向が見受けられ︑そこには後代の法称などにとくに顕著である﹁正しい
認識とは何か﹂という問題意識が存在する可能性も低くない︒以上の点が︑
本研究において論証したいことがらのひとつであり︑それゆえ考察の範囲
を凡夫による認識・日常的な認識にしぼるものである︒
また本研究では︑MAVという文献の理解のされかたについて︑その様 相の変遷に関する問題も課題とした︒MAVは瑜伽行唯識学派の中でも比
較的初期のものであり︑瑜伽行唯識学派の教義の基本的な枠組みを形成す
る論書のひとつである︒したがってそこで説かれる教理もまだ基本的な段
階にあるものであると言える︒それに対して︑安慧は比較的後代の論師で
あり︑その時代には︑それぞれの教理の理論体系がある程度整備されてい
たと予測される︒ということは︑教理の理解や解釈についても︑安慧には︑
MAVと比較して相違もしくは発展したかたちが見られるということも十
分に予測できる︒したがって︑瑜伽行唯識学派の思想的展開の解明を視野
に入れつつ︑そのような問題についても考察した︒
さらには︑後期の瑜伽行唯識派ないし仏教論理学派との比較考察も︑課
題として挙げられ得る︒具体的には︑安慧の主張する理論において︑後代
に構築整備される理論体系への橋渡し︑もしくは後にみられる考え方や概
念の萌芽が認められるか否か︑という問題が課題として挙げられるべきで
あると考える︒しかしながら︑そのためには比較対象である仏教論理学派 の見解についても立ち入った検討を加える必要があり︑それは本研究での射程を超える︒したがって︑本研究の段階では︑そのような問題意識を見据えた上で︑いくつかの重要と思われる問題に限って考察を為した︒ 以上︑課題となる領域をいくつか挙げてきたが︑現時点では︑安慧自身が体系的に自らの説を展開する論書は発見されていない以上︑現時点で可能なことは︑安慧によって展開された諸議論を複合的もしくは重層的に考察することによって︑安慧に特徴的に見られる唯識説を提示することであろう︒したがって本研究は︑列挙した諸課題に対する信頼され得る解答を与え︑それらを綜合することによって安慧独自の唯識説の一端を提示することを基本的な目標とした︒
考察の対象となる概念
以上のような課題のもと︑本研究においては︑唯識の教理を用いて日常
的な認識を説示する際にどうしても必要となると思われる概念︑換言すれ
ば︑それを除いては唯識学派の立場からは日常的な認識を説明することが
不可能となるような概念を考察の対象とした︒具体的には︑MAV㶗にお
いて説かれる以下の概念に対して考察を加えた︒
①すべての︵三界の︶現象の基盤としての虚妄分別︒MAVの教理は虚
妄分別を中心とするため︑認識について考察する場合にあっても︑その基
盤としての虚妄分別の概念を見落とすことはできない︒
②日常的な認識における見るもの・見られるものにあたる二取︒日常的
認識においては︑認識対象と認識主観を考察するのが通例である︒そのこ
とからして︑この唯識説において日常的認識の成立がどのようなあり方で
あるのか︑ということを考察するためには︑二取の概念が必要となる︒
③諸現象︵対象︶が立ち現れることを意味する顕現︒唯識説においては︑
二〇〇
諸現象は主観も含めて︑相あるいは像として顕れる︒そのような相あるい
は像を具体的に生み出すはたらきが顕現であり︑このはたらきがなくては
そもそも認識が起こりえない︒
④認識対象の確定要件である行相︵ākāra︶︒ここでいう行相とは︑対象
の認識の成立を確定するものである︒すなわち︑あるAという認識が生じ
ている状態において︑その認識が︑その他のBでもCでもなく︑まさにA
の認識であると限定する概念であり︑認識の成立に決定的に関わるもので
ある︒ 上記以外の概念を挙げることも可能であろうが︑最低限必要な概念に限 定するならば︑以上の四つであろう︒MAVにおいては上記の概念のどれ
が欠けても日常的な認識の成立の構造や機能を説示することが難しくなる︒
したがって︑これらの概念を考察することになるが︑その際に導出され
る構成や論点のつながりなどについて︑以下に簡単に解説を加えたい︒
﹁本論﹂各節の構成と概説
﹁本論﹂の
2.1では︑現実世界の認識について考察する︒瑜伽行唯識学派 は現実世界を所取能取︵二取︶として理解するが︑MAVでは虚妄分別に
おける二取として理解する︒この虚妄分別と二取との関係について安慧は︑
虚妄分別の本来的なありかた︑すなわち肯定されるべきありかたと︑それ
とは別の否定されるべきありかた︑すなわち︑構想分別というはたらきを
為して二取をつくるというありかたがある︑と理解をしている︒本節では
この点について確認する︒
2.2では︑その構想分別という作用について具体的にどのように説かれて
いるのかを分析する︒そこにおいて︑二取がどのようなものとして安慧に
理解されているのかを︑仮 け説 せつ︵upacāra仮設︶という概念も援用しつつ︑ 確認する︒
2.3では︑認識作用の結果として何らかの像が立ち現れてくる一連のあり かた︵prati-佞bhās, pra-佞khyā, etc.︶︑すなわち顕現について︑安慧の実際
の用例を確認しつつ考察を加える︒そこにおいて上来確認してきた虚妄分
別と二取に対する安慧の理解が反映されている可能性を指摘する︒
2.4では以上確認してきた内容を敷衍して導かれる︑安慧が想定したであ
ろう認識の成立過程の一モデルを提示する︒これはいまだ作業仮説の段階
にあり︑推測の域を出ないものであるが︑安慧の唯識説についての今後の
研究のひとつの基点とすべく︑暫定的なモデルを提示するものである︒
2.5では︑以上のような日常的な認識が成立した状態においては︑安慧は
その認識対象についてどのように理解しているのか︑ということを考察す
る︒具体的には︑現実世界における立場での対象の認識に着目する︒そこ
においては︑対象の形象︵ākāra︶という概念が鍵となり︑それについて
の安慧以前の論師たちの見解を確認した上で︑安慧の見解について考察を
為す︒とくに︑安慧より以前に︑対象の形象の概念を用いて認識対象︵所
縁︶の具備すべき二つの条件を定めた陳那の㸽︵﹃観所縁
論﹄︶を読解し︑そこでみられる所縁の定義を確認した上で︑その定義の
内容と安慧の論説との関わりを示唆する︒
本研究の結論
﹁本論﹂の各節においてそれぞれの論題が考察されたが︑そこで論じら
れた内容と小結をまとめて︑以下に結論として示す︒
2.1㹛MAV㶗では︑安慧は︵︶において︑虚妄分別
︵識︶には否定されるべきありかたと肯定されるべきありかたとの︑二つ
異なったありかたを想定していることを確認した︒否定されるべきありか
博士論文概要二〇一 たとは︑虚妄分別は本来的に二取を全く離れている︵vinirmukta︶︑と示
されるように︑二取というありかたが否定されているものである︒そして
肯定されるべきありかたとは︑識︵分別︶は必ず顕現を有している︑とい
うものである︒その虚妄分別︵識︶と二取との関係に着目すれば︑それは
広い意味での因果関係であると考えられている︒すなわち︑原因である虚
妄分別に構想分別︵parikalpa︶があり︑そのはたらきの結果として二取 が構想分別されて︵parikalpyate︶つくり出される︑すなわち顕れるとい
うものである︒そして︑そのように構想分別されて顕れる二取は否定され
るべきものであり︑識が有している顕現は肯定されるべきものである︒し
たがって︑二取も識が有している顕現も︑両者ともに顕れもしくは像とい
う点では異ならないものの︑否定されるべきものか肯定されるべきものか︑
というそのありかたにおいてまったく異なっている︑ということを指摘し
た︒
2.2では︑安慧は二取が生じるという状況に至らしめる構想分別というは たらきを︑二取を把持する﹁取﹂︵佞grah︶というはたらきとも︑認識にお ける主客分離の﹁確定﹂︵ni㶄caya︶とも表現されること︑さらには︑存在 し な い に も か か わ ら ず 実 在 の ご と く に 二 取 が 生 じ る こ と が
︑
仮 け
説 せつ
︵upacāra︶として捉えられていることを確認した︒そして︑安慧が導入し
たそれらの概念を分析した結果︑それらの作用は︑肯定されるべきありか
たにある顕れ︵形象︶をもとにして︑二取を形成する作用を意味するもの
であると解釈され得る可能性を指摘した︒また︑安慧が想定する仮 け説 せつの成
り立ちを分析すると︑二取とは識の中にある形象を基体として概念的につ
くられたものである︑という解釈を読み取ることができる︒そこでは︑実
有として存在する識は︑認識成立のもととなる形象を元々もっているもの
である︑という安慧の基本的な理解が前提とされていると思われる︒以上︑
虚妄分別に二つ異なったありかたが想定されている点や︑構想分別に類す る作用の用例から推し量ると︑安慧においては︑顕れ︵形象︶というひとつの概念において︑否定されるべきものと肯定されるべきものという二つの側面が想定されている可能性が高いことが推認されよう︒ さらにそのような推察を裏付ける一つの根拠になるものとして︑
2.3では︑
安慧による﹁顕現﹂の用例を確認した︒その結果︑安慧がどのような観点
から用語の使い分けをしているのかということについて︑ひとつの予想を
立てることができた︒すなわち︑少なくとも安慧においては︑あるものに
対して︑それが自体としては存在しないにもかかわらず実在する︑と構想
分別する場合︑すなわち︑否定されるべき二取がすでに生じている場合は︑
その二取の顕現をprakhyānaという語で示すが︑それに対して識が本来 的に有している顕れについては︑pratibhāsaもしくはābhāsaという語で 示す
︑という使い分けが為されている可能性を指摘した
︒ pratibhāsaと ābhāsaの使い分けがあるのか否かについては︑確定的なことは述べられ ないが︑少なくとも︑prakhyānaと佞bhāsについては︑安慧においては区
分されている可能性が高く︑このような安慧の理解は︑上来確認してきた
虚妄分別と二取に対する安慧の理解︑とくに︑否定されるべき顕れと肯定
されるべき顕れという理解が反映されている可能性を見過ごすことはでき
ないと思われる︒
2.4 では︑以上のような見解を踏まえた上で︑日常的な認識の成立に関
する図式の想定を試みた︒そこではまず︑安慧が理解する虚妄分別とは︑
本来的には無分別であることを指摘し︑そのような虚妄分別が他の分別
︵=識︶によって妄分別︵佞k㶚p︶されることによりこの現実世界が成立する︑
換言すれば︑認識作用が成立する︑という安慧の解釈を確認した︒それに
より︑安慧においては︑主観客観というかたちで表象される現象は︑虚妄
分別が別の分別によって分別されるというかたちで顕れる︑という段階的
なステップが想定されている可能性があるという推察を為し得た︒このよ
二〇二
うな推察は︑上来確認してきた安慧の認識論的な理解と︑ある程度整合性
のあるものである︒そしてさらに︑安慧によって規定された識のいくつか
の性質を確認することにより︑あくまで現段階で想定し得る作業仮説に過
ぎないが︑ひとつの暫定的な図式を示した︒そこで考慮された識の性質と
は︑識は刹那刹那に生滅を繰り返す︑時間的な推移の中にある動的な存在
であるという性質と︑識には境として顕現するというはたらき以外の作用
は本来的にはない︑という性質であって︑それらの特徴をふまえることに
より示し得た暫定的なモデルは︑時間的先後関係による認識成立である︒
2.5では︑そのように日常的な認識が成立した場合における︑認識の対象
について考察を為した︒その結果︑認識が確定するための要件︑換言すれ
ば︑その対象を決定づけるものとして対象の形象︵ākāra︶が重要視され
ている︑という点が︑安慧のみならず︑世親・陳那にも通底していること
を確認した︒対象の形象という概念が用いられる領域はやや異なっている
ものの︑その重要性は三者に共通した見解であり︑とくに陳那は︑あるも
のが認識対象として存在するための︑二つの条件のうちのひとつとして︑
﹁識にその形象︵ākāra︶が顕れること﹂をあたえている︒一方で世親は︑
その概念を用いるものの︑MAV I.3 偈の解釈では︑かならずしも援用し
ていないように見受けられる︒それに対して安慧は積極的にそれを適用す
る︒すなわち︑安慧は︑識が四種類に顕現する場合には︑それぞれに︑そ
の顕現Aを限定・確定するものである︑Aのākāraが必要であると理解し
ていることが窺える︒このような違いは︑世親と安慧の唯識説の解釈の相
違に起因する可能性が高いものの︑MAV㶗を作成するにあたって安慧が
陳那の二条件の理論を考慮に入れていたという可能性も決して排除されな
いことを指摘した︒さらにまた安慧は︑その顕現した対象の存在性につい
て述べる際に︑﹁あるものAとしての顕現︵=識︶が正しければ︑すなわち︑
その顕現に対応する対象が存在するならば︑そのAの顕現は︑ākāra︑か つ真実なる顕現である﹂という二つの条件を提示していることも確認した︒ 最後に︑以上の内容により総合的に判断して得られる知見として︑次のようなことが指摘できよう︒すなわち安慧は︑初期瑜伽行唯識学派の理論と比べて︑より発展した段階にある認識論を用いていることが予想される︒MAVBhとMAV㶗における教理の理解や解釈に関する相違の問題につい
て も︑ 少 な く と も 本 研 究 で 考 察 し た 範 囲 に お い て は
︑
MAV㶗
に は MAVBhよりもある程度整備された理論体系があった︑と考えられるであ ろう︒たとえば︑MAVの第1偈における解釈で︑MAVBhでは用いられ
ない識の顕現の理論を用いて解釈を為す点からもそのことが推認されよう︒
また︑後代の仏教論理学派において見られるような﹁正しい認識とは何
か﹂という問題意識が比較的高い︑もしくは︑少なくともそのような問題
意 識 の 萌 芽 が 見 受 け ら れ る
︑ と い う こ と も 予 想 さ れ る︒ た と え ば
︑ MAVBhとMAV㶗とにおける︑第3偈の解釈の明らかな相違などは︑こ
のことと無関係ではないと思われる︒
以上の様な考察は︑今後︑瑜伽行唯識学派の思想的展開の解明を為す際
の︑ひとつの手がかりとなるのではなかろうか︒
本研究において見てきたとおり︑MAV㶗で説かれている教理事項は︑
認識論的に重要な意義を有している︒しかし︑その広範にわたる論説の中
には︑言うまでもなく他の教説︵たとえば阿頼耶識説や三性説︑もしくは
入無相方便のような修行道論など︶に深く関わっている議論にも多くの紙
幅が費やされている︒安慧の唯識説における認識論的側面に考察の対象と
範囲を限ったため︑そのような教理事項の解明は課題として残されている
が︑本研究を通じて提示し得た︑日常的な認識の成立場面に関わる安慧の
唯識説を一つの拠点として︑研究を深化させていきたいと考える︒
博士論文概要二〇三
1. 序 論
インドの仏教において︑その初期から最後期まで最大の勢力を誇り続けていた部派の一つに説一切有部︵以下︑有部と略す︶がある︒この有部は︑
その﹁説一切有部﹂という名称の由来となったとも考えられる独自の教理
として三世実有論を唱える︒この三世実有論は︑種々の論書に見られるが︑
最も洗練されたかたちをとる﹃倶舎論﹄︵㸼㸽︶のそれ
を例にとれば︑﹁諸行︵諸条件によって作られたもの︶は︑過去と未来と
現在において︑実有として︑存在する﹂という説と考えることができるだ
ろう︒ しかし︑これには問題がある︒三世実有論が以上のようなものであると
すると︑﹁諸行は︑三世に︑実有として︑存在する﹂のであるから︑﹁諸行
は︑恒常に︑存在する﹂とみなされることとなり︑仏教を特徴づける根本
的な教説である三法印の一つ︑﹁諸行は無常である﹂という考えと矛盾す
るのではないかという疑念が起こる︒また︑有部は過去・未来・現在とい
う三世を定義して﹁過去とは︑すでに滅してしまった諸行であり︑未来と
は︑まだ生じていない諸行であり︑現在とは︑すでに生じまだ滅していな
い諸行である﹂とするが︑そうであるとすれば︑この三世実有論は有部自
身のたてる三世の定義自体とも矛盾するおそれがある︒ところが︑当の有 部であったとしても︑三世実有論が以上のような矛盾を来す可能性があることには十分に気付いたはずである︒よって︑このような矛盾の可能性に気付いていながらも︑大きな危険を冒してまで有部が三世実有論を導入したのには︑何らかの重大な動機があるはずであり︑その動機が追求されなければならない︒一体︑有部は如何なる動機から三世実有論を導入したのか︒ 今︑三世実有論導入の動機が追求されなければならないと述べたが︑その目的は︑まずは三世実有論を思想史的に正確に把握することにある︒もちろん︑これまでも︑﹃識身足論﹄︑﹃婆沙論﹄︑あるいは︑﹃倶舎論﹄など
の随所における三世実有論の有意義な研究が多く存在した︒ところが︑そ
れらの多くは︑各々の論書におけるその場その場での三世実有論を正確に
理解しようと努めるものではあったけれども︑必ずしも三世実有論を思想
史的にとらえようとするものではなかったように思われる︒すなわち︑三
世実有論とは何か
4
ということは多く明らかにされたのではあるが︑有部に 4
とって三世実有論がなぜ
4
必要であったかということは未だ十分には語られ 4
ていないのである︒さらに︑この動機を穿鑿する意義は︑単に三世実有論
の思想史的な展開を把握するというところにとどまらない︒なぜなら︑三
世実有論は︑有部の教義全体に関わりうる有部にとっての根本的・中心的
な教義であるとともに︑有部との葛藤を通して独自の教義を形成すること
となった有部以外の仏教学派の思想を正しく理解するためにも必要な教義
であるからである︒
ところで︑なぜ三世実有論が導入されたかということを追求するにして
も︑そのことが直接的に示される文献は一切存在しない︒よって︑それを
明らかにするためには︑三世実有論の導入によって引き起こされた結果
︵例えば現存する論書における三世実有論証など︶から︑その原因を探っ
ていくのが最善の策ということとなろう︒そして︑その中においては︑最
説一切有部における三世実有論の形成
││﹃阿毘達磨識身足論﹄の分析を中心に││
飛 田 康 裕
二〇四
も古い三世実有論があらわれる﹃阿毘達磨識身足論﹄︵以下︑﹃識身足論﹄
と略す︶﹁目乾連蘊﹂︵ca. B. C. 2c成立︶の論証因を吟味するのが順当で
あると考えられる︒この﹃識身足論﹄﹁目乾連蘊﹂における論証を分析す
ると︑そこからは十一種の論証因を抽出することができる︒さらに︑そこ
から三世実有論証の導入後に考案されたと考えられる論証因を省くと︑小
稿において吟味すべき論証因は六種となる︒その六種の論証因とは︑以下
のごとくである︒
① ﹇過去かつ未来の事物が﹈観察されるがゆえに
② ﹇過去あるいは未来の事物が﹈釈尊によって説かれているがゆえ
に
③ ひとりの人物に観察される心と観察する心という二つの心が同時
に生起することはありえないがゆえに﹇過去あるいは未来の事物
が観察されるから﹈
④ ひとりの人物が同時に異熟因である行為をなし︑また一方でその
行為の異熟果を感受することはありえないがゆえに﹇過去あるい
は未来の事物が﹁後に苦という異熟果を有するものである﹂と観
察されるから﹈
⑤ ひとりの人物の相い矛盾する多種の受が同時に感受されることは
ありえないがゆえに﹇過去あるいは未来のひとりの人物の相い矛
盾する多種の受が釈尊によって説かれるから﹈
⑥ ひとりの人物に意根たる心と意識たる心という二つの心が同時に
生起することはありえないがゆえに﹇過去あるいは未来の意根が
釈尊によって説かれるから﹈
2. な ぜ ︑﹁ 観 察 さ れ る も の は ︑ 存 在 し な け れ ば な ら な い ﹂ か
││ ﹃ 識 身 足 論 ﹄ に お け る 三 世 実 有 の 一 理 由 の 考 察││
まず︑第2章においては︑第一の論証因を考察する︒この﹁﹇過去かつ
未来の事物が﹈観察されるがゆえに﹂という論証因は︑三世実有を直接的
に証明するものである︒この論証因を用いた論証は︑﹁任意のものが観察
される場合︑その任意のものは存在する﹂という論理的包摂関係と﹁過去
かつ未来の事物が︑観察される﹂という論証因の主題所属性が成立するこ
とによって成り立つが︑以上の二つの前提は︑それぞれ︑﹁対象という原
因から認識という結果が生ずる﹂という趣旨のアーガマ︵釈尊の教説︶と
﹁過去と未来と現在の意業が観察されなければならない﹂という趣旨の
アーガマにより最終的に確定される︒さらに︑この論証因となっている﹁観
察﹂について︑アーガマと比較することによって吟味すると︑この論証に
おいては︑厳密には︑﹁過去かつ未来の事物は︑﹇ありのままに﹈観察され
るがゆえに︑﹇個別のあり方をするものとして﹈存在する﹂ということが
有部によって意図されていることが明らかとなる︒よって︑この論証因か
らは︑次のような三世実有導入の動機が推測される︒まず︑有部は﹁任意
のものが﹇ありのままに﹈観察される場合には︑その任意のものは﹇個別
のあり方をするものとして﹈存在する﹂という前提に立つ︒このことより︑
有部はありのままの観察を個別のあり方で存在する対象を原因として生ず
る知と規定していることが知られる︒さらに︑有部は﹁過去かつ未来﹇の
自身の貪不善根﹈が﹇ありのままに﹈観察される﹂という立場に立つ︒こ
のことより︑有部は︑個別のあり方で存在する対象を原因として生ずる知
として規定されるありのままの観察を︑現在と無為の事物のみならず︑過
去と未来の事物に対するありのままの観察にまで適用可能と考えているこ
とが分かる︒以上より︑この論証からは︑あらゆる
4 4 4
ありのままの観察を〝個 4
博士論文概要二〇五 別のあり方で存在する対象を原因として生ずる知〟という一事をもって規定しようとする有部の意図︑つまり︑〝個別のあり方で存在する対象を原
因として生ずる知〟という規定をありのままの観察の公理
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
にしようとする 4
有部の意図が窺えるのである︒よって︑この﹁観察されるがゆえに﹂とい
うことを論証因とする論証から︑なぜ有部の人々が三世実有論を導入した
のかを推測すれば︑その動機の一つは︑解脱や涅槃に必要不可欠なあらゆ
4 4 4
る 4
ありのままの観察を〝個別のあり方で存在する対象を原因として生ずる
知〟という一事をもって規定しようと意図したことであると言うことがで
きるのである︒
3 .﹃識身足論﹄の三世実有論証に付随する
二心和合という誤謬を導く論証の意義
三世実有を直接的に証明する論証因は以上の一つのみであるが︑﹃識身足論﹄﹁目乾連蘊﹂における他の五つの論証因も三世実有論証を間接的に
支持するものである︒よって︑これらの論証因の背後に潜む問題意識が三
世実有論導入の契機となっていないかを吟味する必要がある︒
まず︑第三の﹁ひとりの人物に観察される心と観察する心という二つの
心が同時に生起することはありえないがゆえに﹇過去あるいは未来の事物
が観察されるから﹈﹂という論証因からは︑三世実有論導入の動機の可能
性として︑現在だけしか認めない場合には︑自身の心的要素を観察しよう
とすると二心和合という望ましからざる事態に陥り︑一方︑二心和合を避
けようとすると自身の心的要素を全く観察することができない事態に陥る
という問題が考えられる︒ところが︑分析すると︑まず︑この二心和合に
かかわる帰謬論証は︑﹁観察する心がそれ自体を観察することは認められ
ない﹂︵条件①︶・﹁観察する心︵〝心法〟︶がそれ自体と相応する〝心所法〟 を観察することは認められない﹂︵条件②︶・﹁二心和合は認められない﹂
︵条件③︶という言外に隠された三条件が成立してはじめて成立すること
が明らかとなる︒しかも︑この二心和合にかかわる帰謬論証は︑﹇1﹈三
世実有論証における論証因の主題所属性を確定するアーガマとの一貫性と
いう観点︑すなわち︑﹁過去と未来と現在
4
の意業が観察されなければなら 4
ない﹂という趣旨の﹃中阿含﹄﹁羅云経﹂︵あるいは︑これに類する経典︶
との一貫性という観点︑そして︑﹇2﹈帰謬論証自体の一般的な原理とい
う観点︑すなわち︑帰謬論証における論理的包摂関係や論証因の主題所属
性は少なくとも対論者の体系において成立しなければならないという観点
とを考慮すると︑この帰謬論証が成立するための核心となる言外の三条件
が対論者の体系においてのみ成立するものであるということが判明する︒
このことより︑三世実有論証の以前においては︑少なくとも︑有部は︑こ
の二心和合の問題の当事者ではなかったことが明らかとなる︒よって︑こ
れにより︑二心和合の問題を三世実有論導入の動機として考慮する必要も
なくなる︒それでは︑この二心和合にかかわる帰謬論証は︑どのような意
義をもって︑三世実有論証に付随して展開されたかと言えば︑これには二
つの仮説をたてることが可能である︒まず︑三世実有論証の論証因の主題
所属性の根拠となるアーガマについての知識が有部の中において完全に忘
却されている状況下で有部のみが三条件を容認する場合を想定すると︑そ
の場合には︑有部の自説より生じうる二心和合にかかわる現在の自身の貪
不善根などを観察することができないという矛盾が三世実有論に従属する
ことによって派生的に解決されることを暗示するためであったろうという
仮説が可能であり︑また︑三世実有論証の論証因の主題所属性の根拠が有
部の中において十分に意識されている状況下で誰も三条件を容認しないと
いう場合を想定すると︑その場合には︑対論者に三世実有論証の論証因の
主題所属性の再受容を強いて三世実論証を補強するためであったろうとい
二〇六
う仮説が可能である︒
4 .﹃識身足論﹄の三世実有論証に付随する
異熟因果同時という誤謬を導く論証の意義
また︑この二心和合にかかわる帰謬論証と対をなすもう一つの帰謬論証からは︑第四の﹁ひとりの人物が同時に異熟因である行為をなし︑また一
方でその行為の異熟果を感受することはありえないがゆえに﹇過去あるい
は未来の事物が﹁後に苦という異熟果を有するものである﹂と観察される
から﹈﹂という論証因が抽出される︒この論証因からは︑三世実有論導入
の動機の可能性として︑現在だけしか認めない場合には︑時間を隔てて応
ずるはずの異熟因果が同時となるという事態に陥り︑一方︑異熟因果同時
という事態を避けようとすると時間を隔てて応ずるという異熟因果があり
えないこととなるという問題が垣間見られる︒しかるに︑この異熟因果同
時にかかわる帰謬論証は︑第3章の二心和合にかかわる帰謬論証と対をな
すということを考慮すると︑三世実有論導入の動機を暗示する可能性は極
めて低いと考えられる︒しかも︑以上のような異熟因果の問題を解決する
ために必要なのは︑過去の事物だけであって︑未来の事物は不要であるの
で︑この問題を契機として三世実有論が導入されたとすると︑その動機に
比して導かれる成果が過剰なものとなってしまう︒よって︑この問題も︑
三世実有論導入の動機というよりはむしろ︑その導入の後に︑対論者の更
なる反論を遮止するため︑あるいは︑三世実有論導入に伴って派生的に解
決する問題を示すことにより三世実有論の有用性を顕揚するために︑俎上
にあがったと考えるほうがよいと判断される︒しかるに︑この問題が︑世
親の﹃倶舎論﹄︵㸼㸽︶の段階に到って︑なぜ三世実有
を直接的に証明する論証因として誤用されるようになったかについては︑ この異熟因果の問題が︑長年にわたり三世実有論証において題材として取り扱われた結果︑﹃婆沙論﹄の後になって︑単なる題材にすぎなかったも
のが直接的に三世実有を証明するための論証因であるかのごとく誤解され
たからであると言うことができよう︒
なお︑第六の﹁ひとりの人物に意根なる心と意識なる心という二つの心
が同時に生起することはありえないがゆえに﹇過去あるいは未来の意根が
釈尊によって説かれるから﹈﹂という論証因から想定される意識と意根の
因果関係に関する問題も︑その解決のためには︑過去の意根が存在しさえ
すれば十分であって︑未来の事物は不要であるので︑異熟因果の問題と同
様に︑三世実有論の導入の動機となった可能性は極めて低く︑それよりも
むしろ︑三世実有論の導入の後に︑対論者の更なる反論を遮止するため︑
あるいは︑三世実有論導入に伴って派生的に解決する問題を示すことによ
り三世実有論の有用性を顕揚するために︑俎上にあがったと考えるほうが
適切である︒
5 .なぜ︑ ﹁釈尊によって説かれているものは︑
存在しなければならない﹂か ││ ﹃ 識 身 足 論 ﹄ に お け る 三 世 実 有 の 一 理 由 の 考 察││
次に︑第5章のおいては︑第二の﹁﹇過去あるいは未来の事物が﹈釈尊
によって説かれているがゆえに﹂という論証因を考察する︒この論証因は︑
条件が整えば︑直接的に三世実有を証明しうる
4
ものである︒この論証因を 4
用いた論証に関しては︑﹃識身足論﹄﹁目乾連蘊﹂の他の論証との比較︑そ
して︑関連するアーガマの吟味から︑釈尊による教説が釈尊のありのまま
の知を原因として生じていることに基づいて妥当とされていることが明ら
かとなる︒つまり︑この論証では︑正確には︑﹁過去あるいは未来の事物は︑
博士論文概要二〇七 釈尊によってありのままに説かれているがゆえに︑ありのままに知られ︑ありのままに知られるがゆえに︑個別のあり方をするものとして存在す
る﹂ということが意図されていることが分かるのである︒よって︑この三
世実有を直接的に証明しうる
4
論証も︑原理的には︑小稿第2章において考 4
察した﹁過去かつ未来の事物は︑ありのままに観察されるがゆえに︑個別
のあり方をするものとして存在する﹂という論証に集約されることとなる︒
ゆえに︑過去かつ未来の事物への釈尊の言及が対論者と定説者の間で容認
されるという条件が整って︑仮に︑この論証が︑﹁過去かつ未来の事物は︑
釈尊によってありのままに説かれているがゆえに︑個別のあり方をするも
のとして存在する﹂という三世実有を直接的に導く論証となったとしても︑
そこから推測される三世実有論導入のための動機は︑やはり︑小稿第2章
において考察したものと同様︑あらゆる
4 4 4
ありのままの観察を〝個別のあり 4
方で存在する対象を原因として生ずる知〟という一事をもって規定しよう
と意図したことであると考えて支障ないこととなる︒
また︑この﹁釈尊によって説かれているがゆえに﹂という論証因と関連
するものとして︑第五の﹁ひとりの人物の相い矛盾する多種の受が同時に
感受されることはありえないがゆえに﹇過去あるいは未来のひとりの人物
の相い矛盾する多種の受が釈尊によって説かれるから﹈﹂という論証因が
ある︒この論証因から窺える三世実有論導入の動機の可能性としては︑現
在だけしか認めない場合に︑ひとりの人物の多数の異なる受が釈尊によっ
て説かれるとなると︑ひとりの人物に多種の受が同時に存在することと
なってしまう︑という問題が考えられる︒しかるに︑この問題は︑一般的
には︑記憶
4
の働きを利用すれば容易に解決されるにもかかわらず︑敢えて 4
その可能性を悉く排除して︑三世実有論証の根幹でもある認識対象と認識
との間に存する因果関係の厳密な一対一対応を︑認識対象と認識と言葉の
間に存する因果関係にまで押し広げて適用したことに起因している︒よっ て︑この問題は︑三世実有論導入の動機というよりも︑むしろ︑既成の三世実有論の影響によって発生した議論と考えるほうが適切であろうと判断される︒ 此に由りて是を観れば︑﹃識身足論﹄﹁目乾連蘊﹂の三世実有論証から推
測される三世実有論導入の動機は︑ただ一つ︑解脱や涅槃に必要不可欠な
あらゆる 4
4 4
ありのままの観察を〝個別のあり方で存在する対象を原因として 4
生ずる知〟という一事をもって規定しようと意図したことのみであると言
うことができる︒
6 .﹃識身足論﹄における三世実有論証の
論理的包摂関係をめぐる対論について
ただし︑﹃識身足論﹄﹁目乾連蘊﹂における論証の中には︑三世実有論証の論理的包摂関係に関する対論者と定説者の対論が存する︒この対論から
は︑この論理的包摂関係の確定については︑以下のような経緯があったこ
とが明らかとなる︒
すなわち︑初めに︑有部は三世実有論証に際して︑任意のものが﹇あり
のままに﹈観察される場合には︑その任意のものは﹇個別のあり方をする
ものとして﹈存在するという論理的包摂関係を暗黙のうちに利用していた︒
ところが︑過去と未来の事物は存在しないものであると考える対論者は︑
少なくとも過去と未来の事物は観察されたとしても存在しないものである
と考えるので︑有部の立てる論理的包摂関係における﹁観察される﹂とい
う理由は必ずしも﹁存在する﹂という帰結を導かない不確実な論証因︵い
わゆる不定因︶であると批判するために︑﹁所縁を有しない心が存在する﹂
と主張した︒そこで︑有部は︑対論者のこの批判に反駁するために︑行為
主体と行為対象の関係性を俎上にあげる︒すなわち︑有部は︑認識主体