カントにおける自己認識の問題(1)
小洋 照彦 (人文学部文学科哲学研究室)
Das Prl)blem von der Selbsterkenntnis in Kants Werken (1)
Tenihiko OZAWA
(Seminar fiirPhilosophie der philosophischen Fakultat)
犬 はじ昨に 哲学の歴史は一面われわれの内省と自己認識の歴史であると言うことができる。カントもまた さまざまな著作の中で、「自己認識」について語り、その哲学の究極的課題を「人間とは何か」(9. 25)という問いに見いだしていることを考慮すれば、人間の自己認識に係わっていたと言ってよいだ ろう。もっともカントは「自己認識(Selbsterkenntnis)」という表現をそれほど多用していない。著作 中において「自己認識」という表現が使用されでるのは28箇所である・(1) 拙論はカントの主要著作において現れる「自己認識」の概念を明らかにすることによって、彼 の批判哲学を理性の立場での「理性の自己認識」として特徴づけ、解釈しようとするものである。 確かに人間の本性を理性的存在者 として解釈するカント哲学は多くの批判を受けるであろう。上特に 今日感性的存在者としての人間、欲望的存在者としての人間の理解を無視できない状況で、あえて 人間の本性を理性的とすることは、哲学的反省に係わる者として、承服し難い前提の下で議論する がごとき観を与えるかも知れない。しかしカント哲学を時代遅れと批判するにしても、何故われわ れはわれわれの本性を理性的と考えなければならなかったのか、もう一度考えてみる必要があるの ではないかと思うのである。そのような意図で、わたしはカント哲学、即ち批判哲学を理性の自己 認識の哲学として再考してみようと思う。そのためまず拙論では、カントの主要著作において現れ る「自己認識」を吟味し、彼の言う「自己認識」がいかlなるものであるかを考察してみようと思う。 (1) 「自己認識(Selbsterkenntnis)」という表現が現れる箇所自体はそれほど多くはない。だがその他 なお「自己自身の認識「Erkenntnis seiner Selbst」あるいは「わたし自身(わたし)の認識(Erkenntnis meiner selbst.od. Erkenntnisvon mir)」といった自己認識を意味する語句もある。とれらの表現は「自 己認識」という表現を考察していく文脈の中で考慮しようと思う。
368 高知大学学術研究報告 第39巻(1990年)人文科学 _ カットの著作で、最初に「自己認識(Selbstericenntnis)」という言葉が現れるのは、1766年の「視 霊者の夢」である・(2)この論文は当時ヨ ̄゜フパで評判であった視霊者スエーデンボルクの神秘的 体験に対し、請われてカントが自らの見解を表明したものである。ただそれは単純にスエーデンボ ルクの神秘的体験に七)いての彼め見解というだけでなく、当時のカントの形而上学に対する見解を 知る上でも重要な著作である。そしてかの「自己認識」という言葉は、人間にとって重要と思えな い「夢想に浸る形而上学」に対して、自らの形而上学を「人間理性の限界についての学」(2. 368) と規定し、「経験」の重要性を語る文脈で現れる:。 (1)(以前はわれわれはデモクリトスのように、形而上学という蝶タ)羽がわれわれを高めて くれた空虚な空間の内をさまよい、そこで霊的なものと語り合った。今や自己認識の吸収 力が絹の翼を収縮させたので、われわれは再び経験と常識の低地の上にいるのに気づく」(2. 368) この場合の「自己認識」がいかなる認識を意味するのかということは明白ではないが、前の文 章との関連から見れば、夢想に浸る形而上学に対して、「人間理性の限界についての学」としての 形而上学を指すと考えられる。またデモクリトスとの対比で「自己認識」を哲学史的連関の中で考 えるならば、それに続くすぐ次の章の最初に現れるソクラテスの名がカントの念頭にあったという 推測もなりたつだろう。 そこでは夢想に浸る形而上学が「知ったかぶり」と「認識欲」の結果であり、それは更に一方 では謙虚を装っているが、その実自惚れに満ちた不満の発言に、即ち「わたしが洞察していないも のがなんと多くあることか」(2. 369)という自己不満を引き起こし、他方分別のある自己満足にも導 くと言われる。 ト 「だが経験によって成熟した理性は、知恵となり、ソクラテスの口を借りて、年の市の品 物の真っ只中で、屈託なく、だがわたしが全く必要としないものがなんと多くあることか、 と言うのである」(2. 369) 自惚れに満ちた不満の発言が歴史的に見て誰のものを指すのか、カントは明らかにしていない が、夢想に浸る形而上学との歴史的連関において、「経験によって成熟した理性」が考えられてい ることは推測しがたいことではない。それは更に知恵となり、ソクラテス的自己認識へ至るのであ る。 非常に不明確な形ではあるが、あえて推断するならば、「視霊者の夢」での「自己認識」とい う表現は、夢想に浸る形而上学に対して、カントが意図する「人間理性の限界についての学」とし ての形而上学を指し、それは「経験によって成熟した理性」によってなされるソクラテス的自己認 識と考えられていたと言うことができよう。 (2) ニ 1766年の「視霊者の夢」の次に、著作の上で「自己認識」という表現が登場するのは、1781 年の「純粋理性批判」である。次に「純粋理性批判」第一版で現れる「自己認識」を吟味しようと 思う。この言葉はまず序文においで、「純粋理性批判」が現れるべき歴史、的必然性を述べる際に登
場する。 カントにおける自己認識の問題(1)(小渾) 369 (2)「それ[無関心]は明らかに軽薄の結果ではなく、もはや見せかけの知識でつられるこ とがなくなった、時代の成熟した判断力め結果であり、理性の仕事の内で最も困難な仕事 を、即ち自己認識の仕事を新たに引き受け、理性をその正当な要求にあって保証し、しか しそれに対して根拠のない借越を主権者の絶対的命令によってではなく、理性の永遠不変 の法則に従って棄却できる法廷を設立せよという理性への要求である。そしてこの法廷が 純粋理性の批判そのものに外ならない」(A xii£) ここで「理性の仕事の内で最も困難な仕事」と言われている「自己認識の仕事」とは「理性を その正当な要求にあって保証」でき、また「根拠のない借越を理性の永遠不変の法則に従って棄却 できる法廷」を設立するという仕事であり、言わば「純粋理性の批判」を行うことである。従って この場合「自己認識」とはまさに「純粋理性の批判」そのものに他ならない。 この場合の「自己認識」が、「視霊者の夢」で夢想に浸る形而上学に対して構想されていた形 而上学を指しているのかどうかは議論を要することであろう。しかし「純粋理性批判」の主題が、 「理性があらゆる経験に依存することなく追及するような一切の認識に関する理性能力一般の批判」 (Axii)であり、そして/「形而上学一般の可能あるいは不可能の決定と、形而上学の源泉、範囲、限界 の規定」(Axii)であると言われている限り、「純粋理性の批判」としての「自己認識」は、「視霊者 の夢」で意図されていた「人間理性の限界についての学」としての「自己認識」とそれほど意味的 に相違しないだろう。なぜなら両者において意図されていることは、いずれも理性の「自己認識」 という点で共通に理解でき、ただ「視霊者の夢」で意図されていた「人間理性の限界についての学」 が、実際には「純粋理性批判」として現れたと考えられるからである。 それでは「純粋理性批判」の他の部分において現れる「自己認識」の意味はいかなるものであ ろうか。「純粋理性批判」の第一版と第二版において共通の部分、即ち第二版においても改訂を受 けずに残された部分において現れるものを見ていこう。 (3)「それゆえわれわれは、われわれの理性の狭い制限に対して苦情を述べ、謙虚な自己 認識を装って、世界が昔から存在しているか、始まりを持つのかどうか、宇宙空間が無限 に存在者によって満たされているのか、あるいはある限界の内に閉じられているのかどう か、そもそも世界においてあるものは単純であるめか、それとも全てのものは無限に分割 されねばならないのかどうか、自由からの産出や発生があるのか、それとも全てのものは 自然秩序の鎖につながれているのかどうか、最後になにかある完全に無制約でそれ自体必 然的な存在者が存在するのか、それとも全てのものはその現存在に関して制約されており、 従って外的に依存しており、それ自体偶然的であるのかどうかといったことを決定するの はわれわれの理性を越えていると告白することによって、提示された理性の問いの少なく とも批判的な解決の責務を避けることができるだろう」(A481/B509) この文章における「自己認識」は、カントが積極的に主張するものではないように思える。そ れはむしろ「視霊者の夢」に現れていた謙虚を装っているが、その実自惚れに満ちた不満の発言、 即ち「わたしが洞察していないものがなんと多くあることか」(2.369)という自己不満の発言を想起 させる。実際上記文章の内容は「視霊者の夢」の自己不満の発言の具体的内容を示しているかのよ うに思えるほど、それと酷似している。しかし注意しなければならないのは「われわれの理性を越
370 高知大学学術研究報告 第39巻(1990年)人文科学 − えていると告白すること」が「謙虚な自己認識を装って」なされるということであり、それは「謙 虚な自己認識」そのものではなく、「提示された理性の問いの少なくとも批判的な解決の責務」を 避けようとするものである。従って理性の限界膏越えていることの告白は、「われわれの理性の狭 い制限に対して苦情を述べ」ることにすぎない。それは「謙虚な自己認識」そめものとは言えない。 そのように解するならば、「謙虚な自己認識」とは、逆にT提示された理性の問いの少なくと も批判的な解決の責務」を引き受けるものであると考えられる。それはまさに「純粋理性の批判」 そのものに他ならないだろう。従ってこの場合の「謙虚な自己認識」も先の「自己認識」とそれほ ど相違しないということになる。 それでは他の箇所はどうであろうか。第二版においても改訂を受けずに残された部分において 現れる「自己認識」という表現は他に4箇所あり、全て「超越論的方法論」において見いだされる。 その内の最初のものは次のごとき文章で現れる○ (4)「かの[独断的な歩みを誇り、・数学の称号とリボンで飾りたてる]ことは虚しい借越 であり、それは決して成功できず、むしろ限界を否認する理性の虚妄を発見し、われわれ の概念の充分な啓発を介して、思弁の自負を謙虚であるが根本的な自己認識へ導くという 哲学の意図を駄目にするに違いない」(A 735f./B763f.) ニこの文章は「数学的認識」と「哲学的認識」の相違に基づいて、確実な認識に至る数学の方法 と哲学の方法の相違を明らかにする論述の結論部にある。上述の自己認識、の意味を吟味するために 「超越論的方法論」第一章第一節の論点を簡単に見ておこう。カントは「数学的認識」と「哲学的 認識」の相違を次の点に見ている。 「哲学的認識は概念に基づく理性認識であり、数学的認識は概念の構成に基づく認識であ る。だが概念を構成するということは、概念に対応する直観をアプリオリに表すことであ る」(A713/B741) ノ「概念に対応する直観をアプリオリに表すこと」というのは、言わば概念の意味を具体的個別 的に想像できるということである。それに対して「概念に基づく理性認識」とは概念がいかに多く の個物あるいは特殊を包摂するか、即ち普遍的であるかを認識することである。それゆえこの包摂 によってはじめて概念の意味が明らかになる。かような相違に基づけば、「定義」に関して、哲学 は定義から始めることはできない。なぜなら哲学においては概念は個物あるいは特殊の包摂によっ てはじめて明確にその普遍性が説明され、定義されることになるからである。それに対して数学に あっては定義から始めることができる。なぜなら数学にあっては既にその意味が明白に直観におい て示されているからである。また哲学は概念に基づく認識であるがゆえに「公理」を持つことがで きない。それに対して数学はその直観的明証性のゆえに公理を持つことができる。更に「論証」に 関しても、概念の意味を具体的個別的に明示できる数学の証明は、直観的確実性を持ち、説得的で あるが、哲学の証明は言葉の論理的整合性にのみ基づくのであるから、数学のような直観的確実性 を持ちえないというごとく両者は異なったものとして説明される。 従って数学の方法を模倣して、それを哲学の方法として利用しようとしても、それはそもそも 虚しい企てであると、カントは言うのである。かの自己認識を含む文章はそのような結論を表現す るものである。それゆえその文章は数学を模倣し、あるいは数学のごとき哲学を目指すことに対し て、哲学の本来の姿勢を示すものと考えられる。そのように解するならば、「限界を否認する理性
カントにおける自己認識の問題(I)(小潭) 371 の虚妄を発見し、われわれの概念の充分な啓発を介して、思弁の自負を謙虚であるが根本的な自己 認識へ導くという哲学の意図」は、カント自身の哲学の意図である。そしてその場合のイ自己認識」 は既に見た「純粋理性批判」の第一版序文の「自己認識」とく同義に解され、「理性の自己認識」と しての批判哲学そのものを意味すると言えるだろう。ト \ ト ト つ / 犬 次に自己認識が現れるのは「超越論的方法論」第一章第二節でありI、そこ寸は2回登場する。 W k . の節は理性が「独断的使用」(A°73り/B 767)におい七陥る:闘争に際し、「純粋理性め批判」という「法 廷」(A 740/B 768)そのものを守るための「純粋理性の論駁的使用」(AimB 767)について述べるとこ ろである.前半は独断論者に対して、才後半は懐疑論者に対して向けられており、この構造は「視霊 者の夢」め「夢想に浸る形而上学」と「自惚れに満ちた不満」の対比を想起させる. : \ さてここ=で見いだされる自己認識の二りの内、第一のものが現れる=文章は、思弁的論争にあっ ては理性のみを武器として論争すべきであり、そうするこjとが理性を啓発し、理性を正しい道に導 ぐという主張に続いて、そのような論争の例としてヒュームの懐疑による論争に言及するも=のであ る.=9まりカント\は、レいずれの思弁的論争に‥あってもその=ような論争を挑む者には理性へめ信頼、ぺ あるいは理性の啓発と=促進という意図が見いださ≒れ、ヒューム=め懐疑的見解の背後にもその¨よう=な 意図が見いだされるというのである○ ・. ・ ・ .・. . ・.. ・I :(S)丁もし人が、も=とも‥と釣合のとれた判断をする冷静なデヴィヅド・ヒュームに、何が君上白 レに、苦労して案出された疑惑によって、理性の洞察が最高存在者の主張とそめ規定された十 し概念に達するという人間にとって慰めとなりV有益な確信を転覆させたのか、ど問うなら し ‥‥‥トUr、彼は理性をその自:己認識において促進する意図がそうさせたのであり、同時に人が理 犬性を自慢し、それと共に理性そのものめ吟味に際して理性に明ちかになるその弱点を率直一= に告白することを妨げることによって、理性に加えるトよ:うな強制に関するある種の不満が そうさせたのである√jと答えるだろう」(A745/B773) 六十 犬「理性をその/自己認識において促進する意図上は丁理性そのものの吟味に際して'理性に:明らか になるその弱点を率直に告白するとと」と表裏一体となっている。理性め弱点が何であるか判断す この文章だけでは難しいが、その前後から判断すれば、それは「理性のある種の二律背反」 772)であうう=。それはまさに「純粋理性の批判上によって克服されるべきものに他な:らない ¶ ・ f ”・- ̄-=− ¶--・ そめように〕解するなち\ば、y「理性をその自己認識においで促進する意図」\は、ヒ‥ネームの内にもカ ントの意図Iした理性の自己認識、即ち「純粋理性の批判」を促進する意図があったと読むことがで きる/。もっともヒュームの懐疑的方法は、独断論に対して「理性をそめ甘い独断=の夢から覚醒する 手段」(Å757/B 785)にすぎないと見られているのであるが、いずれにせJ;この場合も「自己認識」 は、ヶ先に述べてきたものとそれほど意味的に異なるも、タ)とは解サない。 ■■■■ ■・■ ■ ■・ ■ ■ 十 それはまたこの節の第二のものについても言える。それは同様にヒュームの懐疑的論駁方法の 評価lに係わるものである。 J ト (6)「すべての懐疑的論駁は本来ただ、ぞの根源的客観的原理に疑いをさしはざまず、つま り批判なしに、重々しくその歩みを進める独断論者に対してのみ向けられている、それは ト ただ独断論者を混乱させ、彼を自己認識に向かわせる:ためである」(Å763/B 791) 批判をもたない独断論者を自己認識に向かわせるQであるから、この場合も「自己認識」は「批 判トの意味で、つまり理性め自己認識としての「純粋理性のご批判」の意味で使用されていると考え
372 < 高知大学学術研究報告 第39巻(iり90年)人文科学 ることができる. コ .・.・.・ .. ・・. ・・ 十「超越論的方法論」∧において見いださくれる四箇所の内最後のものは、◇第三章にある. ト (7)「われわれの批判の全過程から充分に確信させられたことは÷たとえ形而上学が宗教の 土台でありえなぐとも、形而上学はなおいつでも宗教の防繋として存立しなければならな いということ、そして既にその本性の向かうところによって弁証的である人間理性は、そ の手綱を締め、学的で完全に明白な自己認識によって√さもないと無法則な思弁理性が道 徳と宗教において確実に引き起こす=ような荒廃を防止する、そのよ=うな学問を決して欠く ことはできないということである」(A84り/B877) \ ◇‥‥‥‥‥ ‥‥ ここではカントの形而上学の理念が示されており、そのために『純粋理性批判』が必要であっ た旨が述べられている。この場合も千自己認識トは理性の弁証的本性を克服し、道徳ど宗教の領域 において思弁理性がもたらす荒廃を防ぐものとして、つまりカントが「純粋理性批判」にお」いTC企 てた「純粋理性の批判」と解されるだろう。 犬 上 し これまで見てきた「自己認識」という言葉は√ほとんど意味の上で相違しないと考えられる。 なぜならこれまで挙げてきた箇所での「自己認識」という言葉の使用は、ほとんど彼が意図した『純 粋理性批判』の主題を表すものとして解せられるからである。それらは「理性があらゆる経験に依 存することなく追及するような一切の認識に関する理性能力十般め批判」(A xii)、「形而上学一般の 可能あるいは不可能の決定と、形而上学の源泉、範囲、限界の規定」ダ(A xii)として、:「純粋理性批判」 第一版序文に示された主題を表すような意味で使用さyれている。レそれゆえ自己認識は「純粋理性の 批判」とほとんど伺義であると言えるだろう。 し ト ノ だがこの万ような解釈は↑純粋理性批判」の他の部分に現れる「自白己認識」についても当てはま るだろうか。次に「純粋理性批判」第二版で改訂削除された第一版でのみ現れる「自己認識」を吟 味してみよう。 一 十 し ニ ト (3)∧ 六大 \ 犬 ∇ 「純粋理性批判」第一版でのみ現れる丁自己認識」しはただ次の一箇所である.それは第T版 の「誤謬推理」の章で見いだされる. 十 犬 (8)「実体と単純なるものの概念同様にまた人格性の概念もまた(そTれが超越論的であり、上 即ち他の仕方ではわれわれに知られないか、ごその規定において統覚め汎通的結合に他なら ない主観の統一でjある限り)残存できる.そしてその限りにおいてこの概念は実践的使用 にも必要且つ十分であるが、しかし同一的自己の単なるっ概念から主観の不断の持続をわれ われに本当らしく見せる純粋理性によるわれわれの自己認識の拡張として、その実践的使 △ 用をわれわれは決して\ひけらかすことはできない.なぜなちこの概念は自分自身の回りを ぐるぐる回っており、綜合的認識に関わる唯一の問いに関しでわれわれをそれ以上にもた らすこと\はないからである」(A 365f.)一一 し \ ..・..・ . ・・.・ 「純粋理性批判」第一版の誤謬推理の章では、(1)「諸属性の実在的主体の認識」(A 350)の不可 能、つまり心的実体としてのわたしの認識り不可能、(2)「わたしlという主体の現実的単純性」(A 356)の認識不可能、(3)「人格の同一性」し(A 365)の認識不可能か論じられ、(4)Tわたし自身め存在」
カントにおける自己認識の問題(1)(小渾) 373 のみが確実で、「外官の一切の対象の現存在は疑わしい」(A 367)とする説の批判が行われる。要す るにそれは「思惟する存在者=-般の本性についての純粋理性認識」(Å382)が不可能であることを論 ずるものである。 j △ 上 =・ ト I・ ‥‥‥‥ 従って先の「自己認識」を含む文章はそのような否定的見解を表すものである。即ち実体、単 純なるものの概念、人格性の概念は理論的認識を形成せず、それらの概念によって寸わたし」につ いての理論的認蔽は成立しないが、それらがただ「主観の統一」を表す限りでは、それらを使用す ることか可能であり、しかもそれによってそれらの概念の上「実践的使用」への道が残されるという\ ことである。 \丿 ニ 1 ■・・・・ ■ ■ ・ ここでの『自己認識』の使用は、これまでの意味と若干異なった印象を与える。その理由は、‥ ここで「自己認識」とトして問題になっているのがi「理性の自己認識」としての「純粋理性の批判」 ではなく、実体、単純なるもの、人格としでの「わたし(lch)の認識」であるということである。そ してそめ場合の「自己認識」は否定的に論じられていて、カントが意図する丁純粋理性め批判」と いうごとき意味での「自己認識」\と解すことができないからである。 」 例えば次のような形で丁わたし」という「主体」についての認識が否定されている。 「超越論的心理学の第一の理性推理は、それが思惟の持続的論理的主語を諸属性の実在的 主体の認識だと称することにより、われわれに推定上の新たな洞察だけを真に受けさせる ということである。だがわれわれはそのような主体について何事も知らないし、また知る ことがで=きない」(A 350) 「主体の表象の単純性はそれゆえ主体そのものめ単純性の認識ではなこい、というのはその ま体がわたし(Ich)という\内容的に全く空虚な表現(それをわたしは全ての思惟する主体に 適用できる)によっ七示されるならば、その主体の諸性質は完全に抽象されるからである」 (A 355) 犬 「わたしはわたし(lch)lこよっていつでも主体の絶対的であるが論理的な統≒(単純性)を 思惟している、しかしわたしはそれによづてわたしの主体の現実的単純性を認識するとい うことはないということだけは確かである」(A 356) 犬 「さて人格のかような同一性は、わたしかわたしを認識するすべての時間の意識における わたし(Ich)の同一性から生じないので、また先に魂の実体性がそれに基づけられえなかっ たのである」(A 365) し これらの「誤謬推理」の章における「自己認識」についての否定的見解は、「純粋理性の批判」 の意味での「自己認識上を前提すれば、実体的存在者としての、あるいは魂としての、また人格と しての「自己認識」は不可能であるということである6従ってこれまでの考察に基づけば、二種の 「自己認識」/が予想される。つまり肯定的に「純粋理性の批判」として、カントが意図する本来の 「自己認識」と否定的に扱われる不可能な「自己認識」である○ ・・ かような区別が可能かどうか吟味するために、「純粋理性批判」第二版の「誤謬推理」の改訂 部に現れる「自己認識」を見てみよう。 ◇ < (9)(10)\「われわれの自己認識に補足となるものを与えるような理性説としての理性的心理ト
374 高知大学学術研究報告 第39巻(1990年)人文科学 __ 学は存在しない、むしろ一方で心を持たない唯物論に身を委ねないために、他方ではこの 世の生におけるわれわれにとって根拠のない唯心論の内でさまよい歩いて我を忘れないた めに、ただこの領域で思弁的理性に越えがたい限界を設定する訓練と、して、つま/りこの世 十 の生を越え出る物好きな問いに満足め:いく回答をあたえることの理性の拒絶を、△われわれ十 の自己認識を実りのない大げさな思弁から実り多き実践的使用へ向ける理性の忠告とみな すことをわ‥れわれに思い起こさせる訓練としてめみ存在する。このような使用は、たとえ それがいうでもただ経験の可能性に向けられていよう:とも、その諸原理をより高いところ から取ってくるのであり、そのやり方をあたかもわれわれの規定が無限に経験を越え、従 ってこの世の生膏越えて及んでいるかのように規定するのである」/(B 421)ニ ここでは自己認識は否定的に扱われていない万。むしろ理性的心理学、即ち「純粋理性批判」/第 一版の「誤謬推理」が扱っていた不可能な自己認識が「われレわれめ自」己認識」つに対峙させられてい る。この場合当然「われわれの自己認識」はカントが意図する「自己認識」であ/ると考えられる。 そして理性的心理学の考察が、即ち「誤謬推理」:の論証が理論的な「自己認識」の考察から、むし ろ実践的な「自己認識」の考察への転換をなすことがより積極的に主張されている。従って不可能 なもめとして否定的に扱われる「自己認識」の表現は第二版では姿を消していると考えられる。 との「自己認識」に関する叙述の微妙な相違は第二版の「誤謬推理」全体に影を落している。 それは「自己の認識」あるいは「わたしの認識」しについてのカントしの叙述を第一版のものと比較す るならば、より明瞭になるだろう。 づ : 十 「わたしが単に思惟するということによってわたしは何かある客体を認識せず、むしろた だ与えられた直観を、あらゆる思惟が存立するところの意識の統一に関して規定すること によっ七のみ、わたしは何かある対象を認識できるのである.それゆえわたしはわたし自 身を、わたしが自身を思惟するものとして意識するこダとによっては認識しない、むしろわ たしがわたし自身の直観を、思惟の機能に関して規定されたものとして意識する場合に、 認識するのである」(B 406) ‥ 「思惟そのものにおける自己意識の全での様相はなお客体の悟性概念(カテゴリー)では なく、むしろ思惟にいかなる対象も与えず、従って対象としてのわたし自身の認識も与え ない単なる機能である.客体である/のは、規定するものの意識ではなく、むしろ規定され うる自己(Selbst)の√つまりわたしの内的直観(その多様が思惟における統覚の統¬-の普遍 的制約に従って結合されうる限り)の意識である」(14 406f.) ・・.・.. ・.・ 「思惟一般におけるわたし自身の意識の分析によっては客体としてのわたし自身の認識に 関してはほんの僅かのものも獲得芦れないのである」(B 409) \ 汀たとえわれわれが、われわれの存在の必然的存続をわれわれ自身の単に理論的な認識か ら洞察することを断念しなければならないとしても」(B 427) し= 「理性的心理学における弁証的仮象は(純粋知性という)理性の理念と思惟する存在者プ 般のあらゆる点で無規定な概念との混同に基づく.わたしは全ての現実的経験を抽象する ことにより、可能的経験のためにわたし自身を思惟する、\ぞしてそれに基づいて√わたし
カントにおける自己認識の問題(I)(小潭) 375 が経験と経験の経験的諸制約の外でもわたしの現実存在を意識できると推論する。従って わたしはわたしの経験的に規定された現実存在を抽象できるということをわたしの思惟し ている主体の抽象的に可能な現実存在の推定上の意識と混同し、わたしが認識の単なる形 式としてあらゆる規定作用の基礎にある意識の統一を単に考えるだけで、わたしの内の実 体的なものを超越論的主体として認識すると思うのである」(B 426f.) 「ここでわたしが自分を思考の主体として、あるいは思惟の根拠として表象するならば、 この表象の仕方は実体、あるいは原因のカテゴリーを意味しない。というのはこれらのカ テゴリーは既にわれわれの感性的直観に適用された思惟の(判断の)あめ機能だからであ る。そしてもしわたしが自分を認識しようとするならば、もちろんこの感性的直観か要求 されるだろう」(B 429) 「そもそもこの経験的直観において思惟する自我は、自身を客体そのものとして自我によ って示すだけではなく、またその現存在の様式を規定するために、つまり自己を可想体と して認識するために、実体、原因等のカテゴリーとして論理的機能を使用する制約を求め ねばならないだろう、しかし自己を可想体として認識することは、=内的経験的直観が感性 的であり、純粋意識の客体の抽象的現実存在の知識のために何も与えず、むしろ単に経験 のためにのみ役立ちうる現象の所与のみを与えるということにより、不可能である」(B 429f.) ニ \ いずれの文章も、客体の認識同様、主体としての「わたし白身」の認識にあっても、単に自己 の思惟のみによっては、あるいはわたしが思惟しているというその自己意識だけでは自己の認識は 成立せず、「わたし自身の直観」が、即ち「わたしの内的直観」が必要であることを主張している つまり「自己認識」にあっても「思惟の論理的機能」が「感性的直観」に適用されねばならないと いうことである。 ■■ 。 . I. 。 それゆえ最後の文章に見られるように、自我を「可想体」として、即ち知性者として認識する ためには内的直観を必要とするが、しかしわれわれの直観は感性的であって、決して知性的なもの をそのまま示さないのであるから、われわれは自己を知性者として認識することは不可能であると いうごとく、「誤謬推理」の章の結論となるべき立言がなされている。: これらの文章を先の第一版からの文章と比較するならば、両者=は確かに「わたしは思惟する」 という意識のみによる理論的な「自己認識」を否定しているダという点では一致しているが、第二版 の文章では「思惟」と「認識」の区別が特に顕著に現れており、「内的感性的直観」との関係にお ける理論的な「自己認識」の可能性が第一版と比べてより積極的に主張されているように思える。 確かにカントは第一版の「誤謬推理」においてもぞのような可能性を否定してはいないし、「わた しがわたしを認識するあらゆる時間の意識」(A 365)という表現にそのような見解も現れているが、 第二版ほど明確かつ積極的には語られていない。これは第二版の「誤謬推理」の際だった特徴をな している。 二 次に:「誤謬推理」の章第一版と第二版の間の\「自己認識」に関するこのような微妙な相違が何 に起因し七いるか考察してみよう。
376 高知大学学術研究報告 第39巻(1990年)人文科学 (4) 「思惟」と「認識」の区別、及び「内的直観」との関係における理論的な自己認識の可能性 め主張はヽ実は「純粋理性批判」第二版の改訂部の特徴である・(3) カントは『純粋理性批判』第二版で「感性論」後半に大幅な加筆を行い、その中で彼は自己触 発の問題を論じている。それは「いかにして主体が自己白身を内的に直観できるか」(B68)という「あ らゆる理論に共通の困難」に係わるものである。この困難の要点は、われわれ人間にあっては、「わ たしという単純な表象」である「自己自身の意識(統覚)」だけでは内的直観が与えられず、に の意識は主体においくて前もって与えられる多様の内的知覚を必要とする」(B 68)ということにある。 つまり「わたしは思惟する」という意識だけでは、思惟すべき客体は与えられていないので、もし わたしがわたしをあるものとして思惟する、即ち認識すると言うならば、思惟されるべきわたしが なくてはならない。その事態をカントは、時間という「心が自己の活動によって、即ちその活動の 表象のかような定立によって、従って自己自身によって触発される仕方」(B 67f.)に』;うて成立する 「自己直観」として、即ち「内官の対象である主体は、自ちによって判断されるごとくにではなく 内宮によってただ現象としてのみ表象されうる」(B68)というごとき「自己直観」として表現するの である。これが既に第二版の「誤謬推理」の章の「自己認識」を吟味した際、要求されていた「内 的直観」である。 「自己を意識する能力が心にあるものを捜し求める(覚知する)というならば、その能力 が心を触発しなければならず、ただそのようにしてのみ自己白身の直観を生みだすことが できるのである」(B68)。 そして「自己を意識する能力が心を触発する」ことが具体的に論じられるのは、第二版で改訂 されたいわゆる「演輝論」の後半部である。ここでは「純粋悟性概念」の使用が「感官の諸対象」 に限定される理由を明らかにする目的で、「自己直観」の問題が解明される。 「純粋悟性概念による対象一般の思惟がわれわれにあって認識となりうるのは、この純粋 悟性概念が感官の諸対象に関係づけられる限りにおいてである」(B 146)。 さてこの限定はいかにして根拠づけられるだろうか。そのために先ず「自己直観」についての カントの説明を見ていこう。 「さてここは内官の形式の説明に際し(六節)誰でも陥る逆説を、即ちいかにして内官が われわれ自身さえも、われわれが自身あるごとくにではなく、ただわれわれがわれわれに 現象するごとくに意識に表わすのか、明らかにする場所である。つまりわれわれはわれわ れが内的に触発されるごとく、ただ自己を直観するからである。このことは、われわれが 自らに対して受動的にふるまわねばならないことによって、矛盾しているように思える」(B 152f.)(4, ニ この自己触発は「内官がそれ(悟性の能力)によって触発される」(B 153f.)というごとく、悟性 による「内宮の規定」とし七説明される(B 153)。それによって「内宮の規定の意識」としで、「規
カントにおける自己認識の問題(1) (小膠) 377 定された直観」(B 154)が成立す名. 「内官の規定め意識」あるいは「規定された直観」とは、それ によっで思惟が「内的直観」として√また現象として具体化されるレことと解される.うま=り思惟す るという、多様を結合する働きが、/多様の結合を生み出すことがでぎ石ということであ名.その可 能性を与えるのが内官の形式としての時間であり、それが悟性によって規定さ\れる:ことレにより、「時 間規定」が行われる.それが内的直観であり、それによって悟性の機能は内的現象として具体化さ れると同時に悟性は内的直観を客体として思惟しているということになる/.それが悟性による内宮 の触発という事態である. ▽ ..・.・.・ ... ・・・ 千1吾性は内官においてそのような多様の結合を見いだすのではなく、むしろ悟性が内官を 触発することによって、それを産出するのである」(B 155).・..・.・.・ ..・ ・= かような多様の結合の産出によって、思惟はその対象を√この場合はわなしの内的直観を得て・ イわたしは思惟するものとしてわたしを思惟する、即ち認識する」とJいうことが可能になる。その 場合悟性がそれだけで自己を生み出す、即ち直観するというのではなく、犬あくまでも内宮 を触発す ることダによって、あるいは規定することによって、悟性の結合作用の具体的形式として内宮に現象 するのである。従うてそれによって成立する「自己認識J」は、思考している自已め認識であっTt、 即ち「思惟するものとしてのわたしの思惟(認識)」であって、実体としでの自己、単純な者とし ての自己、人格としての自己の認識ではない。 ゜ 十十 「われわれは内官によってわれわれ白身をわれわれ/自身によって内的に触発され・るごとく に直観する√換言すれば内的直観に関して、われわれ白身の主体を、それかそれ自体ある 通りにてはなく、現象としてのみ認識する」(B 156) ニ ニ ト そのような内官の触発、あるいは悟性の結合作用の具体化が成立しないならば、「わたしは思 惟する」という思考作用はその対象を持たない。つまり「わたしは思惟する丁という自己意識は、 それだけではわたしをいかなるものとして思惟するのかまったく示していない。 し 「表象一般の多様の超越論的綜合において、従って統覚の綜合的根源的統一において、わ たしはわたし自身を意識する、しかしわたしがわたしに現象するごとくにではなく、また 在るがままにでもなく、ただわたしが在るということのみを意識する。ごこの表象は思惟で あり、直観ではない。‥・それゆえ自己自身の意識はまだまだ自己自身め認識ではない」 (B 157£) ニだが「わたしは思惟するもの」としてわたしを思惟(認識)∧する」ということが成立しなければ あらゆる認識は不可能である。学的理論的認識、即ち学問の成立はまさに「わた七は思惟するもの としてわたしを思惟(認識)する」という命題の成立に、即ち思惟する自己の認識に基づいている と甘えるからである。それゆえ「わたしは思惟するものとしてわたしを思惟(認識)するトという 「自己認識」が成立するためには、悟性の思惟の働きは内官の形式としての時間の規定に限定され ねばならないということになる。それが純粋悟性概念が感官の対象に限定される理由である。その ように限定された悟性使用においてのみ、「わたしは思惟するものとしてわたしを思惟(認識)す る」という「自己認識」が成立するのである。
378 高知大学学術研究報告 第39巻(1990年)人文科学 ト ー 「そし七わたしは、端的にその結合能力を意識七ている知性者として、犬しかし知性者が結 十合すべき多様に関して√知性者が内官と名付ける制限的制約に従ってお/り、かの結合を。た だ全く本来の悟性概念の外にある時間関係に従ってのみ、つ直観することができ、それゆえ十 (知性的ではなぐ、また悟性そのも。のによヶて与えられること上もない)直観に関しては、/ その直観が知性的であjる場合に自己を認識する\ごとくにではなく、自己自身に単に現象す るごとくにのみ自己を認識できる知性者として存在=してい=る」ノ(B 158f.) だがこのような「自己自身に単に現象するごとくにのみ自己を=認識する」ということ=は、なお 充分な意味での「自己認識」ではない。というのはそれは、「わたしは思惟するものとしてわたし を思惟(認識)する」ということを表しているだけで、「わたしはあるものを思惟するものとして わたしを思惟(認識)する」という「あるもの」の部分が示されていないからである。つまり何を 思惟しているのか示されず、ただわたしを思惟したと言づても、その場合認識されるのは悟性が内 宮を触発する形式であって、思惟している自己というノ全く空虚な自己であろう。従づて思惟/が「あ るもの士の部分に関係づけられることによってはじめで十全な意味での丁自己認識」が成立すると 考えられる。 ニ し ノ ‥ 十 ダ \ ト (5) ノ ニ し ∇ ニ 上述した「わたしはあるものを思惟するものとして・わた万しを思惟犬(認識)する」という意味で の「自己認識」が成立するためには、この「あるもの」め部分が明らかにされねばならない。だが その問題は第二版の「演鐸論」ではもはや論じられていない。この問題が扱われるのは第二版の「観 念論論駁」である。 \ 犬さて「観念論論駁」の論点は、「内的経験」、即ちこれまで述べてきたこととの関連から言え ば、「わたしは思惟するものとしてわたしを思惟(認識)ニする」ニということのみを「直接的経験」(B 276)とし、「外的経験」の不確実あるいは不可能を主張する見解を論駁することである。 にこで証明されるべきことは、ただ内的経験一般は外的経験一般によってのみ可能であ るということであった」(B 278f.)。 ▽ \ ト ニ つまり「観念論論駁」は、内的経験あるいは内的直観が可能であるためには、単に悟性が内宮 を触発する(規定する)ということだけでは不十分であり、むしろそのために外的直観、あるいは 外的経験が必要であるということ、あるいはりしろこの外的経験によって内官の触発(規定)が可 能になるということを論ずる。ニニ ト ∧ 十 丿 犬 悟性は内宮を触発することによって、‥「時間規定」を行う。しかしこの「時間規定」のために は「知覚における何か持続的なもの」\(B 275)、あるいは「それとの関係でのみ諸現象の全ての時間 関係が規定され得るところの持続的なもの」(B 225)が要求される。だがこの持続的なものは内的直 観の内には求められない。 づ ◇ ニにの持続的なものはわたしの内の何かではありえない、なぜならまさに時間におけるわ たしの現存在がこの持続的なものによってはじめて規定されうるからである。そ/れゆえこ の持続的なものの知覚はただわたしの外の物によってのみ可能であり、わたしの外の物の
カットにおける自己認識の問題(1) (小渾) 379 単なる表象によっては可能ではない。従って時間におけるわたしの現存在の規定はただわ たしがわたしの外に知覚する揖実的な物゜存在によ゜てのみ可能である」(8 275f.)(5) / この「持続的なもの」として要求されているのは空間中の具体的なものの表象でもなく、また 物自体でもない。 「現実にわたしの外の客体がいかなる与えられた直観に対応しているかは‥・各々の特 殊な場合において決定されねばならない。その際外的経験が現実に存在するという命題は 常に基礎に置かれている。」(B xU Anm.) ここでは外的対象への一般的関係、あるいは外的経験一般が問題であって、特殊な外的経験が 問題なのではない。それはむしろ「わたしの外のあるものとの関係の意識」(B xl Anm.)であって、 わたしが外的に触発されているという意識、しかも持続的に触発されているという意識である6 「外官は既にそれだけで直観がわたしの外の何か現実的なものに関係していることであり、 その実在性は、想像と異なり、外宮が内的経験そのものと経験の可能性の制約として不可 分に結合されていることにのみ基づいている」(B xl Anm.)。 つまり「わたしは思惟するものとしてわたしを思惟(認識)する」ということが可能なために は、そしてこの時間規定を可能にするため`には、外官の「触発」がなければならないということで ある。それによってはじめて「わたしはあるものを思惟するものとしてわたしを思惟(認識)する」 ということが成立する。要するに\「観念論論駁」り主張は、イわたしは思惟するものとしてわたし を思惟(認識)する」ということが可能になるためには、「わたしはあるものを思惟するものとし てわたしを思惟(認識)する」ということ、即ちわたしの外のものによってわたしが触発されてい るという意識が必要であるということである。 なぜなら「わたしは思惟する」という自己意識があらゆる表象に伴なうということが可能であ るためには、悟性は内宮を触発し、時間を規定するという形で時間に係わらねばならない。そして 「わたしは思惟する」という自己意識の同一性が示されねばならない。さもないと自己分裂的状況 が生じ、ある時はAを主張し、またある時はBを主張するということになり、学的認識は成立しなく なるだろう。従9て「わたしは思惟する」という自己意識の同一性が認識されねば、学的認識に係 わる「自己認識」は成立しないだろう。その場合わたしが思惟するものとして同一な存在者である ことの認識も、従って「わたしは思惟するものとしてわたしを思惟(認識)する」ということも成 立せず、十全な「自己認識」も生じない。そのため「わたしは思惟する」という自己意識の同一性 に対応する直観が必要であるが、それは内的直観には求められず、外的直観に、しかも外宮が持続 的に触発されていることの内に求められるということである。そのような外的直観と関係すること によって、はじめて「わたしはあるものを思惟するものとしてわたしを思惟(認識)する」という ことが、即ち十全な「自己認識」が成立する。もっともそれは自然の理論的認識に、即ち学的認識 に係わる自己の認識である。そしてそのような理論的認識を行うわたしの「自己認識」が、悟性の 内宮の触発を必要とし、更にその可能性のために外宮の触発を必要とするということによって、ま た純粋悟性概念の使用が、内宮に、そしてそれを通じて外宮の対象に限定されるのである。 「原則の分析論」で付加された「一般的注」における「自己認識」への言及はこのような事態 を説明するものである。
380 高知大学学術研究報告 第39巻(1990年)人文科学 (11)「この注全体は、先の観念論論駁を確証するためのみならず、むしろなお外的経験的 直観の助けなしに単なる内的意識とわれわれの本性の規定から自己認識が問題にされる場 合に、そのような認識の可能性に制限を示すために、非常に重要である」(B 293f.) この「一般的注」の論旨も「単なる思惟形式」(B 288)に外ならないカテゴリーが認識となるため には、「与えられた直観」が必要であり、しかも「外的直観」(B 291)が必要であるということであ る。そして外的経験的直観への適用が明白にされることによってはじめて、意図された「自己認識」 が成立し、ただ内的直観との関係だけでは充分ではないというのである。そしてその場合にのみ「自 己認識」に関して、「外宮の表象が、われわれが心を所有する場合に持つ本来め素材をなす」(B67) というカントの言葉が意味を持つのである。 このように第二版の改訂部の自己認識の問題を考察すると明らかなように、カントは改訂部全 体で「自己認識」の構造を明らかにしており、既に他の部分の「自己認識」の吟味から明らかにさ れていた理性の「自己認識」の構造を、即ち「純粋理性の批判」としての「1白:己認識」の構造を明 らかにしていると考えられる。つまり「わたしは思惟する」という統覚の自己意識は、内宮の触発 によって、即ち時間規定によって内的直観としてのわたしの客体を得て、「わたしは思惟するもの としてわたしを思惟する(認識する)」という「自己認識」を形成する。しかしそれはなお同一的 自己の認識ではなく、内容的に無内容な認識にとどまる。内的直観を可能にし、自己同一性の客体 たる外的直観に係わることによって本来の汀自己認識」が成立する。即ち「わたしは何かあるもの を思惟するものとしてわたしを思惟する(認識する)」という「自己認識トは、その構造に基づい て必然的に純粋悟性概念の使用を内的直観に、そして外的直観に限定する。 そしてこのような「自己認識」こそ理性の「自己認識」としての「純粋理性の批判」の内容に 他ならない。カントはこの理論的な意味での「自己認識」の構造を基に、既に見たように「誤謬推 理」ではそのような構造を持たない「自己認識」を否定し、逆に彼の明らかにした「自己認識」の 構造の間接的証明を行うのである。従って第一版の「誤謬推理」で否定的に登場した「自己認識」 は第二版では全て削除され、カントはむしろ第二版では明確に「純粋理性の批判」を正統に対象認 識に係わる理性的自己の認識についての論述として展開しているといえるだろう。 上述において一応「純粋理性批判」までの「自己認識」という言葉の使用を吟味してきた。し かし既に予想されているように、この言葉はこれまでの考察において見てきたよりも、更に後の著 作にか゛てより多く登場する(6)。しかもそこでは『純粋理性批判』にお゛ては現れながたF実践 的自己認識」(6. 441)という表現も登場する。従って更に「自己認識」の意味の吟味を続け、これま で吟味されてきた理論的な意味での、即ち「純粋理性の批判」としての「自己認識」と「実践的自 己認識」との関係も考察されねばならないが、その考察は別の機会に譲りたい。
カントにおける自己認識の問題(1) (小渾)
註
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(1)『純粋理性批判』○からめ引用の指示は慣例に従いA/Bの略号を用い,他の著作からり引用の指示は,Kan!s gesammelte Schriften, hrsg. vo!lder KOnigUch PreuBischen Akademie der Wissenschaften, Be!.rv, Bd. V,の頁付けにより,原則として本 文中で与えられる6 犬 十
(2)Tiaume eines Geistersehers,eriauleitdurch Tiaume der Metaphysik. Bd.2 。。・。・。・ 。・ (3)カントはr純粋理性批判』∧の第二版において,多くの部分を改訂している。彼自身の証言によれば,「命題そのもの」 犬「その証明根拠」「計画の形式」「計画の完全性」(B xxxvii)については何ら変更を認められず,変更はただ「叙述法 の改良」∧(B xxxix)にある。そノしてその主たる改良は以下の四点にまとめられている。 即ち (I)感性論め誤解,特に時間め概念についての誤解, 〕 大工 \ 十 ダ (2)悟性概念の演縄の不明瞭, \ 十 (3)純粋悟性の原則の証明が十分な明証性を欠くこと ニ ノ ‥ < (4)理性的心理学を非難する誤謬推理の誤解 十 ト を救うためであるである言われている(B xxxix)。 これらの変更に関する動機として考えられるものは,当然『純粋理性批判』第二版の序文の証言によれば,叙述上 の方法に関する変更及び「純粋理性批判」第一版出版後にカントに与えられた批判から,:誤解を避けるために変更が 加えられたと見るべきであろうが,単にそれだけめ理由でかように大幅な変更がもたらされるもめであろうか。叙述 上の誤解をさけるためだけにかレように大幅な変更をするということは無理があ\る。\むしろこめような変更はなんらか の思考上の進展変化があったのではないかと予想させる。 ト し (4)カントは六節を指示しているが,自己直観,あるいは自己触発における逆説と思われるめは,先に「感性論」の加筆 部で問題にされた「いかにして主体が自己自身を内的に直観できるか」(B68)というあらゆる理論に共通の「困難」で あろ・う。 し で ■ (5)こ万の文章は第二版序文で次のように変更し七理解するよう指示されてる。 「しかしこの持続的なものはわたしの内の直観ではありえない。というのはわたしの内に見いだされうるわ たしの現存在の全ての時間規定は表象であり,そのようなものとして,表象と区別される持続的なものを必 要とする。そしてこの持続的なものとめ関係で表象の変易が,従って表象が変易する時間においてのわたし の現存在が規定されうる」(B xxxix Anm.) プ (6)Ka:皿sWerkeBde l - 91において,「自己認識」は更に以下の17箇所で見いださ│れる。I数字は巻数/頁/行数の順である, 4.317.31, 4.328.20, 5. 086.21, 5.123.01, 6.075.08, 6:077.12, 6.441.12, 6.441.19, 6.441.21, 6.442.01, 6.447.13, 6.483.29, 7.055.29, 8.330.09 8. 390.31, 9. 014.25, 9. 014.29: ∧ 上 付記 用語に関して正確を期するため、コンピューターを利用した機械検索を行った○・. ■■ Selbsterkenntnis及び他の用語の検索は
Kant's gesammelte Schriften Herausgegeben von der K<)niglich PreuBischen Akademie der Wissenschaften Volume 1 一犬9. Copyright: IKS e.V. 1988 Institut fiirangewandte Kommunikations- und Sprachforschung e.V・、W. Germany D-5300 Bonn 1、 Poppelsdorfer Allee 47 十 < \
によっで作成されたテキストデータベースを使用、検索は高知大学情報センターのメインフレイムを利用して行った、 末筆ながら、テキストデータベースのメインフレイムヘの移植、及び検索に関しては、高知大学情報センターの佐々木 正人氏より多大な助力を得たことに謝辞を述べさせていただく○ .・