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カント『判断力批判』における「自然の解釈学」の 意義

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カント『判断力批判』における「自然の解釈学」の 意義

著者 相原 博

著者別名 AIHARA Hiroshi

その他のタイトル Significance of 'Hermeneutics of Nature' in Kant's "Critique of Judgment"

ページ 1‑145

発行年 2013‑12‑19

学位授与番号 32675甲第321号

学位授与年月日 2013‑09‑15

学位名 博士(哲学)

学位授与機関 法政大学 (Hosei University)

URL http://doi.org/10.15002/00009300

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博士学位論文

論文内容の要旨および審査結果の要旨

氏名 相原 博

学位の種類 博士(哲学)

学位記番号 第533号

学位授与の日付 2013年 9月15日

学位授与の要件 本学学位規則第5条第1項(1)該当者(甲) 論文審査委員 主査 教授 牧野 英二

副査 教授 菅沢 龍文

副査 早稲田大学教授 御子柴 善之

カント『判断力批判』における「自然の解釈学」の意義

1.はじめに

本研究は、18世紀ドイツの哲学者、イマヌエル・カント(Immanuel Kant,1724-1804)の主著『判 断力批判』(Kritik der Urteilskraft)の体系的・統一的解釈の試みである。近代哲学の定礎者とも呼ば れ る カ ン ト の 批 判 哲 学 に は 、 本 書 以 外 に 第 一 の 主 著 『 純 粋 理 性 批 判 』(Kritik der reinen Vernunft,1781,1787)、第二の主著『実践理性批判』(Kritik der praktischen Vernunft,1788)がある。

これら三冊の批判書のうち、第三批判とも呼ばれる『判断力批判』は、『純粋理性批判』や『実践理性 批判』に比べ、200年以上におよぶカント研究史および膨大な研究文献のうちで、最も研究蓄積の少な かった書物である。ところが、20世紀後半になってカント研究の動向にも大きな変化が現れ、『判断力 批判』の研究が急速に進展した。同時に、ポストモダニズムの思想家によって最も研究され、論争の的 になったのも『判断力批判』であった。しかし『判断力批判』全体にわたり体系的・統一的に解釈しよ うという研究動向は、今日まで依然として国内外でもほとんど見られなかったのが実情である。

本研究は、こうした国内外の研究状況のなかで、ポストモダニズムの思想家によってカント哲学を批 判的・否定的に評価する哲学者に属するベーメ兄弟に対して、『判断力批判』を「自然の解釈学」とい う観点に依拠して、カント批判哲学の意義を積極的に擁護しようとした独創的で意欲的な論考である。

本研究は、カントが「理性の他者」を排除したというベーメ説に対してカント研究者として初めて本格 的な反論を試みている。また本研究は、汗牛充棟の感ある膨大な量のカント文献を、国内の文献は言う までもなく特にドイツ語や英語の最新文献を精力的に調査し吟味・検討を加えて、その上で、自説を展 開するというカント研究史を踏まえた手堅い研究方法を採用している。さらに本研究の大きな特徴であ り独創的な点としては、長い間カントの『判断力批判』研究史の論争点であった第一部門「美感的判断 力の批判」と第二部門「目的論的判断力の批判」との統一的な解釈の可能性について、両部門の体系的・

統一的な解釈の視点から「象徴」や「移行」概念を手がかりにして「自然の解釈学」という新たな研究 上の立場を提示した点にある。

本研究の主要な骨格をなす諸論考は、第一章が「反省的判断力の原理の新たな意義―カントと理性の他 者―」( 日本カント協会編『日本カント研究5 カントと責任論』理想社, 2004年7月)、第二章が「美感

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的判断と包摂の可能性―生態論的自然美学による批判に応えて―」(日本カント協会編『日本カント研究11 カントと幸福論』理想社, 2010年8月)、「道徳的人間の表現としてのカント自然美学―エコロジー的自然美 学の批判に答えて―」, 法政哲学会編『法政哲学』第2号, 2006年5月)、第三章が、「カントの崇高論―H・ ベーメによる解釈の検討―」(法政哲学会編『法政哲学』第9号, 2013年6月刊行)、第四章が、「カ ントと「啓蒙の生気論」―『判断力批判』の新しい解釈の試み―」(『法政大学大学院紀要』第63号, 2009 年10月)などである。このように本研究には、斯学の権威ある学会誌に掲載された複数の査読付論文を含 んでいる。本研究は、それらを加筆・修正して再構成することによって成立している。

本論文の基本構成は、以下の目次のように序論および本論四章、そして結論からなる。

序論

一 本研究の目的 二 本研究の考察方法

三 『判断力批判』研究の現状と課題 四 本研究の基本構成

第一章 『理性の他者』と「自然の解釈学」

一 「理性の他者」の観点から見たカント批判 二 ベーメ兄弟による判断力の批判的解釈 三 反省的判断力と自然の合目的性 四 自然の合目的性と多様の統一 五 反省的判断力と理念の象徴的描出 六 自然の反省と「自然の解釈学」

七 「自然の解釈学」と自然支配からの解放の可能性 第二章 趣味判断と自然美の象徴的理解

一 G・ベーメによる趣味論の批判

二 「エコロジカルな自然美学」とその批判 三 趣味判断と合目的性の原理

四 趣味判断と合目的性の範例 五 構想力の自由と象徴的描出 六 美感的反省と「自然美の解釈学」

七 「自然美の解釈学」と自然美の象徴的理解 第三章 崇高の判断と自然の他者性

一 H・ベーメによる崇高論の批判 二 力学的崇高と理性的主観の優越性 三 崇高の感情と道徳的感情

四 崇高論における自然概念の領域から自由概念の領域への「移行」

五 「崇高な反省」と解釈作用

六 否定的描出と「崇高な自然の解釈学」

七 「崇高な自然の解釈学」と自然の他者性 第四章 目的論的判断と自然の自立性

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3 一 H・ベーメによる自然目的論の批判

二 自然目的論による機械論的自然観の形成 三 有機的な自然と「生ける自然」

四 「啓蒙の生気論」とカントの自然目的論 五 目的論的反省と「有機的自然の解釈学」

六 「有機的自然の解釈学」と自然概念の領域から自由概念の領域への「移行」

七 「有機的自然の解釈学」と自然の自立性 結論

参考文献一覧

2.本研究の目的

本研究の目的は、第一に、カントの著作『判断力批判』の解釈学的考察によって、カントの理性が自 然支配の能力であるというH・ベーメおよびG・ベーメの批判に反論することである。第二に、この考 察によって、自然を象徴的に理解する「自然の解釈学」の意義を解明することである。第三に、以上の 考察に基づいて、『判断力批判』の体系的・統一的研究を遂行することである。

H・ベーメおよびG・ベーメは、『理性の他者』(das Andere der Vernunft,1985)という書物を執筆し

て、「非理性としての自然」の立場から近代理性を批判した。彼らは、ホルクハイマーおよびアドルノ の理性批判を継続することによって、近代の合理主義を告発した。カントの理論哲学は「外的自然支配 の理論」とみなされ、実践哲学は「内的自然支配の理論」とみなされた。この批判的把握は、カント研 究のみならず哲学研究の全体に対してきわめて重要な問題を提起した。というのは、自然支配の批判と ともに、徹底した理性批判が改めて不可避の課題となったからである。『理性の他者』という著作は、

理性の限界への問いを再燃させ、多くの哲学者たちに決定的な影響を与えた。ところが、ベーメ説を検 討し反論を加えたカント研究者は皆無に等しい。それゆえ彼らのカント批判を取り上げ、その問題点を 吟味・検討する必要がある。それによってはじめて、彼らの批判的なカント解釈の動機や特徴を解き明 かすことが可能になる。同時に本研究によって、カントの「自然の解釈学」の意義が明らかにされる。

ベーメ兄弟は、批判哲学の超越論性や体系性を否定し、この哲学を自然支配の理論として批判的に解 釈した。ベーメ説によれば、判断力は理性の諸原理のもとに自然を包摂して、制御可能な客体にする能 力を意味する。判断力がこのように理解されるかぎり、理性の普遍的諸原理のもとに包摂されない自然 は「理性の他者」とみなされ、理性にとって認識不可能な自然は非理性的なものとみなされ、非合理的 なものとして批判哲学の対象から排除される。

しかし本研究の立場からみれば、ベーメ兄弟の批判的解釈の根底には、判断力にかんする一面的な理 解が存在する。ベーメ説はカントの反省的判断力の機能を誤解している。反省的判断力は規定的判断力 とは異なり、理性の諸原理のもとに自然を包摂する能力ではない。むしろ反省的判断力は、これらの原 理のもとに包摂されない自然を反省する能力であり、この自然を象徴的に理解する能力である。

また、反省的判断力の「理解(Verstehen)」の働きは、規定的判断力の「説明(Erklären)」の機能から 明確に区別される。『判断力批判』によれば、判断力は悟性と理性の中間項をなす上級認識能力の一部 を意味する。規定的判断力は、与えられた表象を概念のもとに包摂して対象を規定する。この包摂によ って、直観として与えられた対象が法則へと還元される。そのかぎりで、規定的判断力は「説明する」

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能力である。これに対して反省的判断力は、「自然の合目的性(Zweckmäßigkeit der Natur)」という原 理のもとで、法則に還元されない表象の多様を統一する。この合目的性によって、個別の表象に対して 見出されるべき全体が目的論的に想定されるかぎり、反省的判断力は「理解する」能力である。もっと も、反省的判断力の含意はこれだけに限定されるわけではない。本研究によれば、反省的判断力の機能 は、表象の多様を理念の「象徴的描出(symbolische Darstellung)」として理解することにある。本研究 は、この理解の手続きの立場が「自然の解釈学」にあることを解明する。この手続きによって自然は、

理性理念を感性化するものとして理解されるからである。したがって「自然の解釈学」は、理性の諸原 理のもとに包摂されない自然を象徴的に理解することができる。

以上の考察によって本研究は、ベーメ説によるカント批判に反論を加え、それによって「理性の他者」

の自然を理念の象徴として理解する「自然の解釈学」の意義を解明する。さらに本研究は、これらの考 察によって『判断力批判』を体系的かつ統一的に解釈する視点を提示する。

3.本研究の要旨

本研究の要旨は、以下のとおりである。上記の研究目的を遂行するために、まず序論では、本研究の 意図、国内外の最新の関連文献の研究動向や考察方法を論じ、本研究の課題および意義を明らかにして いる。

本論第一章では、判断力が自然支配の能力であるというベーメ兄弟のカント批判に反論する。ベーメ 説によれば、判断力は、自然に対する支配要求を全体化する意味で自然支配の能力である。この批判に 反論するために、本研究は、合目的性の原理にしたがう自然の反省を「自然の解釈学」として解釈する 立場を提示する。この「自然の解釈学」の内容は、第二章以下でより詳細に解明される。

第二章では、趣味論が「自然からの疎外」によって特徴づけられるというG・ベーメのカント批判に 反論を加える。G・ベーメによれば、趣味判断の理論は、自然から距離をとり、自然を「他者」として 承認できない人間像を表現する。この批判に対する反論として、本研究は趣味判断における自然美の美 感的反省を「自然美の解釈学」として究明する。この「自然美の解釈学」は、美感的理念を理解する解 釈学として、理性理念のもとで自然美の「象徴的理解」を可能にする。

第三章では、崇高論が自然支配のプロジェクトに属するという H・ベーメのカント批判に反論する。

H・ベーメによれば、崇高論は、構想力によって自然に対する不安を克服する意味で、自然支配のプロ

ジェクトによって動機づけられている。この批判に反論するために、本研究は崇高の判断における自然 の美感的反省を「崇高な自然の解釈学」として解明する。この「崇高な自然の解釈学」は、総括不可能 な自然を理解する解釈学として、自然の「他者性」を明らかにする。

第四章では、自然目的論が「生ける自然」の可能性を認めないというH・ベーメのカント批判に反論 を加える。H・ベーメによれば、目的論的判断は技術の相のもとに自然を提示する。この批判に反論す るために、本研究は目的論的判断における有機的な自然の反省を「有機的自然の解釈学」として解明す る。この「有機的自然の解釈学」は、主観的原理に基づいて有機的な自然を理解する解釈学として、自 然の「自立性」を明らかにする。

以上の考察によって本研究は、結論として次のことを明らかにした。ベーメ兄弟は、カントの理論哲 学が外的自然支配の理論であり、また実践哲学が内的自然支配の理論であると批判した。この批判が可 能であるのは、ベーメたちが、反省的判断力を規定的判断力へと還元するからである。この還元主義的 な判断力理解に基づいて、彼らは、悟性によって規定されない自然を「理性の他者」とみなした。しか

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し本研究の立場から見れば、ベーメたちが、カントの判断力を還元主義的に理解したことは誤りである。

規定的判断力は法則のもとで自然を説明する。しかし反省的判断力は、規定的判断力とは異なり、理念 の「象徴的描出」として未規定の表象の多様を理解する。この理解の手続きは、未規定の自然を象徴的 に理解する意味で、「自然の解釈学」として把握することができる。こうして「自然の解釈学」は、「理 性の他者」とみなされた自然を象徴的に理解することが可能である。したがって、本研究の立場から言 えば、ベーメ兄弟によるカント批判は誤解に基づいている。『判断力批判』にかんするかぎり、カント の批判哲学は、自然支配の理論ではなく、自然の象徴的理解を可能にする理論に他ならない。この象徴 的理解の解明をとおして、『判断力批判』の体系的究明および統一的理解もまた可能である。

4.本研究の考察方法

本研究は上記の目的を実現するために、次の三つの観点に即した考察方法を採用する。第一に、本研 究は判断力にかんするベーメ兄弟の議論を取り上げ、その議論を『判断力批判』の論述内容と照合しつ つ考察する。ベーメ兄弟の解釈によれば、カントの理論哲学は外的自然支配の理論であり、また実践哲 学は内的自然支配の理論である。だがこうした批判的解釈は、判断力を限定された意味で理解すること によってのみ可能である。ベーメたちは、直観と概念および理念を介して理論哲学と実践哲学とを媒介 する判断力の機能を看過している。それゆえ判断力、とりわけ反省的判断力の考察が必要不可欠である。

『理性の他者』におけるベーメ兄弟の議論は広範多岐にわたっており、自然や人間の身体、空想や欲望、

感情という「理性の他者」が成立した歴史的過程を解明する。そのため、ベーメたちの議論のすべてを 考察することは困難である。そこで本研究は、論点を以下の四点に限定して、彼らの解釈の核心にある 判断力の議論を検討する。第一は、未規定的な自然を反省する判断力の議論であり、第二は、自然を美 しいと判断する美感的判断力の議論である。第三は、崇高の判断における美感的判断力の議論であり、

第四は、有機的な自然を反省する目的論的判断力の議論である。したがって本研究は、『判断力批判』

におけるカント自身の見解と対照しつつ、これら四つの主要な議論を集中的に吟味・検討する。

第二に、本研究は、体系的観点から『判断力批判』を考察する。従来の『判断力批判』の研究は、多 くの場合、考察の範囲が限定されてきた。従来の研究は、第一部「美感的判断力の批判」か、第二部「目 的論的判断力の批判」のいずれかに限定して考察していた。従来の研究によれば、第一部は美学の基礎 づけであり、第二部は生物学的認識の基礎づけに他ならない。この考察方法は、今日でも研究の趨勢で ある。しかしこうした研究方法は、『判断力批判』の真意を捉え損ね、この著作の豊かな含意を展開す る可能性を否定する帰結を生じた。この理由から本研究では、『判断力批判』の両部門を体系的かつ統 一的に考察する方法を採用した。この体系的な考察方法を採用するにあたり、P・ガイヤーの解釈は重 要な示唆を与える。ガイヤーによれば、『判断力批判』の両部門の間には表面上の相違にもかかわらず、

より深い意味での類似性が存在する。この類似性は、美感的判断力と目的論的判断力がともに、自然の なかで道徳的な目的を実現する可能性に対して確証を与える。またそれは、道徳性の要求に応えようと する場合に活用可能な手段を与える。したがって『判断力批判』の両部門は、自然と自由を体系的に統 一しようとする実践理性の関心に基づく、より大きな計画の一部を構成する。本研究は、自然と自由の 統一という観点から『判断力批判』を整合的に考察する点で、ガイヤー説から多くの示唆を得ている。

第三に、本研究は、解釈学的観点から『判断力批判』を考察する。この解釈学的観点を採用する場合、

R・A・マックリールの解釈は不可避の前提条件に属する。マックリールは、批判哲学の研究をとおし て「批判的解釈学(critical hermeneutics)」を新たに構想した。この「批判的解釈学」とは、世界のう

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ちで主観を方向づけるものとして、超越論的立場を理解する解釈学である。マックリールは、規範的理 念、美感的理念、目的論的理念という『判断力批判』で導入された一連の理念に基づいて、「反省的解

釈(reflective interpretation)」の理論を提示した。この「反省的解釈」とは、反省的判断力が、これら

の理念のもとで特殊を反省することによって、経験の偶然的な諸相のうちに秩序と意味を見出すことに 他ならない。規範的理念による反省は経験的形象に意味を与え、美感的理念による反省は経験的直観に 意味を与え、目的論的理念による反省は歴史上の出来事に意味を与える。このマックリール説は、『判 断力批判』研究の新たな領域を開拓した画期的なものである。というのは、この説が、基礎づけ主義と しての超越論的哲学のうちに解釈学的含意を発見したからである。しかし本研究の立場からみれば、マ ックリール説には未だ不十分な論点が存在する。マックリールは、「反省的解釈」の理論のなかで、反 省的判断力および合目的性の概念がもつ体系的含意を看過しているからであり、未規定的な自然の反省 的判断や有機的な自然の目的論的判断にかんして、「反省的解釈」の理論を展開していないからである。

これに対して牧野英二は、マックリールの研究に劣らない優れた解釈学的考察を展開した。牧野説は、

「象徴的描出」の概念を手がかりに、『判断力批判』の解釈学的含意と体系的意義を解明した。牧野説 によれば、反省的判断とは、自然の技巧の産物である自然美と有機的な自然、さらに歴史的自然にかん して、それらの描出を象徴的に解釈することを意味する。この自然の技巧は、自然概念の領域から自由 概念の領域への「移行(Übergang)」を可能にする。というのも、「移行」が、自然概念の領域における

「感性的なもの」のうちに自由概念の領域における「超感性的なもの(das Übersinnliche)」を象徴的に 描出する手続きを意味するからである。したがって自然美の判定では、「人倫性の象徴としての美」と して自然概念の領域から自由概念の領域への「移行」の過程が描出され、有機的な自然と自然目的論の 判定では、自然目的や自然の体系的秩序が自由の目的や道徳的秩序の象徴として解釈され、歴史的自然 の判定では、道徳的自由の実現の過程が象徴的に描出されていると解釈される。このように牧野説は、

解釈学的観点から『判断力批判』を体系的に理解する可能性を示した点で、優れた洞察を示している。

しかし本研究の立場からみれば、牧野説にも未だ不十分な論点が存在する。牧野説には、「象徴的描出」

の手続きとベーメ兄弟のカント批判との関係にかんして詳細な考察がみられないからである。

これに対して本研究は、「自然の解釈学」の立場から『判断力批判』における「象徴的描出」の手続 きを解明する。この「自然の解釈学」とは、反省的判断力が自然を理念の象徴として理解することを意 味する。つまり「自然の解釈学」は、自然を象徴的に理解する学に他ならない。本研究は、この「自然 の解釈学」の立場を採用することで、ベーメ兄弟のカント批判に反論することを試みた。というのも、

この「解釈学」が、「理性の他者」であるはずの自然を理解するからである。また本研究は、「象徴的描 出」の手続きを解明することによって、マックリール説の不十分性を克服することができる。言い換え れば、本研究はマックリール説とは異なり、未規定的な自然の反省的判断および有機的な自然の目的論 的判断にかんして解釈学的考察を展開する。本研究は、この解釈学的考察を採用することで、自然の「他 者性」や「自立性」を解明することが可能となった。

5.本研究の総合評価

本研究は、まずカントの批判哲学が「理性の他者」としての自然を排除しているという、H・ベーメ およびG・ベーメの批判を吟味・検討し、彼らのカント批判が誤りであることを明らかにした。本研究 は、「理性の他者」としてカントが排除したと彼らが主張した快・不快の感情ないし生命感情、有機的 自然の理解可能性などを明らかにすることに成功した。また本研究は、自然の美感的および目的論的反

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省が「自然の解釈学」として把握可能であることを明らかにした。さらに本研究では、これまで断片的 に理解される傾向にあった『判断力批判』を、体系的かつ統一的に解釈することができた。

本研究は、ベーメ兄弟が判断力の機能を誤解していたことを説得的に解明した。彼らは、カントの理 論哲学が外的自然支配の理論であり、また実践哲学が内的自然支配の理論であると批判した。この反省 的判断力の理解は、反省的判断力を規定的判断力に還元することで、反省的判断力が自然支配の能力で あると批判的に解釈した。しかし本研究は、反省的判断力が自然支配の能力ではなく、自然を象徴的に 理解する能力であることを解明した。反省的判断力は、理性理念の「象徴的描出」として自然を理解す る。この反省的判断力の手続きが、「自然の解釈学」として把握された。「自然の解釈学」とは、反省的 判断力の対象である自然について、表象の多様を理念の「象徴的描出」として理解する、美感的および 目的論的反省である。それゆえ「自然の解釈学」は、多様な理念へと自然を関係づけ、多様な意味のも とで自然を理解することが可能であった。

本研究では、「自然の解釈学」が「自然美の解釈学」、「崇高な自然の解釈学」、「有機的自然の解釈学」

の三つの位相をもつ解釈学であることが解明された。

第一に、趣味判断における自然美の美感的反省は、「自然美の解釈学」を意味した。この「自然美の 解釈学」は、構想力と悟性の調和に基づく自然美の解釈であり、理性理念の「象徴的描出」として美感 的理念を理解する。また理性理念と美感的理念との間には解釈学的循環の構造が見出されるので、美感 的理念の理解は完結しえない無限の過程を意味することが明らかとなった。さらに、この美感的反省に かんして注目すべきは、美感的理念を産出する構想力の自由な働きであった。構想力は自由に作用して、

理性理念の象徴として理解可能な美感的理念を産出する。このことは、構想力の創造性に基づいて、自 然美が多様な理性理念の「象徴的描出」として理解されることを意味する。したがって「自然美の解釈 学」は、構想力の創造的な描出機能に基づいて自然美を象徴的に理解することを可能にした。

第二に、本研究は、崇高の判断における自然の美感的反省を「崇高な自然の解釈学」として把握可能 にした。「崇高な自然の解釈学」は、描出不可能な理性理念の「否定的描出」として、構想力が総括で きない自然の表象を理解する。崇高な自然は、構想力が描出不可能なものを描出する努力の実例による 説明である。構想力が自然の表象を総括しようとしても不可能であることは、描出不可能な理性理念の 描出として理解されるからである。そのかぎりで崇高な自然は、構想力によって総括することもできな ければ、悟性によって把握することもできない「理念としての自然自体」に他ならない。このことは、

崇高な自然が、通常の仕方では把握できない「異質な他者」であることを意味する。この自然は、構想 力にとって表象不可能で形式を欠くという意味で、理性的主観のうちに回収することができないからで ある。したがって「崇高な自然の解釈学」においては、崇高な自然が、通常の概念的把握を超えた「異 質な他者」であることが明らかになった。

第三に、本研究は、有機的な自然の目的論的反省を「有機的自然の解釈学」として把握可能にした。

「有機的自然の解釈学」は、有機的な自然の反省の規則と実践理性の「超感性的目的」の反省の規則と の類似性に基づいて、この「超感性的目的」の「象徴的描出」として有機的な自然を理解する。また目 的論的反省は、有機的な自然から自然全体にまで拡張されるので、目的論的自然は、道徳性の理念の「象 徴的描出」として理解されることが明らかとなった。目的論的判断力は、客観的原理によって自然を規 定するのではなく、主観的原理に基づいて自然を反省するだけである。目的論的判断力は、主観的原理 に基づいて、「超感性的目的」の理性理念の「象徴的描出」として自然を理解する。このように自然が 主観的原理に基づいて反省され、理性理念との類比によって象徴的に理解されるかぎり、この自然には

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「自立性」が認められる。この「自立性」とは、客観的原理によって構成されない自然の「即自存在」

を意味する。したがって「有機的自然の解釈学」においては、有機的な自然および目的論的自然が、客 観的原理による規定から独立した「自立的な存在者」であることが解明された。

上記のようにカントの『判断力批判』は、自然美を象徴的に理解する「自然美の解釈学」、崇高な自 然を「異質な他者」として露わにする「崇高な自然の解釈学」、有機的な自然および目的論的自然に「自 立性」を認める「有機的自然の解釈学」からなる「自然の解釈学」の考察によって、体系的かつ統一的 に究明することができた。本研究による『判断力批判』の究明は、同時にベーメ兄弟のカント批判に対 する反論の試みでもあった。ベーメ説は、カントが「理性の他者」としての自然を排除したことを告発 していた。しかしカントの『判断力批判』における反省的判断力は、この「理性の他者」としての自然 を象徴的に理解する能力である。それゆえ『判断力批判』にかんして言えば、カントの批判哲学は、「理 性の他者」としての自然を排除したわけでは決してなく、自然を「他者」として理解する可能性を明ら かにした。以上のように本研究は、ベーメ兄弟の批判に見出される近代合理主義の批判が、一面的で偏 向した見解であることを解明した。同時に本研究は、「自然の解釈学」の立場に依拠して、理性による 自然支配とは異なる自然との関係を構築するための基礎を提供した。

以上の研究は、テーマ設定や考察方法、そして論述内容から見て多くの独創的な論点を提示すること に成功した。その主要論点は、次の三点に集約される。第一に、ベーメ兄弟によるカント批判、すなわ ち理性の他者を排除し、自然を抑圧した啓蒙期の思想家の代表者としてカントの理性批判を厳しく批判 した点に対するカント研究者の側からの批判的応答に成功した。その際、本研究は、この応答の試みを

『判断力批判』に限定して、ベーメ兄弟の『判断力批判』の誤解や歪曲と見られる弱点に絞っている。

これは自覚的で手堅い研究手法である、と言ってよい。本研究では、彼らが反省的判断力の反省的・批 判的機能を誤解し、反省的判断力と規定的判断力とを混同してカントの理性批判を自然の支配の論理・

理性の他者の排除とみなした点を解明した。第二に、この試みは「自然の解釈学」という立場から、上 述のベーメ批判を展開した点に成功している。第三に、これらの試みによって、従来のカント解釈上の 論争点であった『判断力批判』の第一部門と第二部門との両部門の体系的かつ統一的解釈が可能となる という観点を提示した。本研究では、特に反省的判断力および構想力による理念の「象徴的描出」の手 続きが『判断力批判』第一部門および第二部門を体系的かつ統一的に解釈するための有効な論拠である ことを解らかにした。

また先行研究との比較考察という点から言えば、ベーメ兄弟によるカント批判と『判断力批判』との 関連、象徴的描出・移行などの重要概念の研究史・解釈上の論争状況などにおける研究史・論争史を十 分踏まえた上で、斬新な解釈の提示に成功している。実際、従来のカント研究史における内在的な観点 からは、ベーメ兄弟による難解なカント批判に対する本格的な反批判の試みはグローバルにみても見当 たらない。ユルゲン・ハーバーマスなどによる部分的な批判を除けば、カント研究者の側からの上記の ような批判的応答はみられない。また『理性の他者』はほとんど未翻訳(Hartmut Boehme/Gernot Boehme, Das Andere der Vernunft. Zur Entwicklung von Rationalitätsstrukturen am Beispiel Kants.1985.S.9-516.但し、S.83-109 の僅かの部分については、既訳がある。ただし、この部

分は前批判期の批評なので、本論文の研究範囲に含まれない)なので、相原論文はカント批判の主要な 論点をすべて原書にあたって、本書全体の翻訳作業とともに正確な紹介と本書に対する反論を試みてい る。この意欲と労力は、課程博士論文のレベルとして大いに評価すべき点のひとつである。

さらに本研究は、『判断力批判』研究史から見ても、論争史や研究史のサーヴェイを踏まえた上で、

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筆者の独自の見解が首尾一貫して明確に示されている。この研究成果も、高く評価すべきである。

例えば、カントの「象徴的描出」の理論を解釈学的に把握するカント研究の視点は、そこでの反省的 判断力固有の意義を解明する視座とともに、彼のベーメ批判の論拠としても有効な論点を提示している。

この「象徴的描出」の理論が第二部門の目的論的判断力の批判にも一貫して見出されるというカント解 釈の提示と併せて、相原説による『判断力批判』の体系的かつ統一的解釈の論拠となっている。この研 究成果もまた、斯学における『判断力批判』の研究に大いに貢献するはずである。

最後に、特に欧文献を中心にした関連分野の参考文献の追跡は、本論文に顕著な特徴のひとつであり、

相原論文の優れた研究成果の一面を表している点に重ねて注目したい。相原論文は、難解な先行研究の 成果や参照文献を精査して、その主要な論述内容を整理し明示した上で、筆者独自の議論との差異化を 明確にして、自身のオリジナルな解釈の視点を提示することに成功している。

もっとも、本研究には、論述内容の説明や論証の不十分な点、カント理解にかんして疑問に思われる 点もないわけではない。第一に、自然が他者として理解可能であるという本論文の主張は、理性による 自然支配という批判を克服するためには未だ十分ではない。この課題に十分に応えるためには、自然に 対して実践的にかかわる実践理性の再検討が必要不可欠である。第二に、本論文が明らかにした「自然 の解釈学」について、解釈学的な含意が必ずしも明確ではない。理念のもとで表象の多様を仮説的に統 一する反省的判断力の多面的な機能について、解釈学の伝統と照らし合わせて「自然の解釈学」の妥当 性や意義をさらに立ち入って説明する必要がある。第三に、『判断力批判』の体系的・統一的解釈の立 場から内在的研究を遂行する上で、「目的論的判断力の方法論」の意義が未だ十分に解明されていない。

特に「目的論的判断力の方法論」の考察が求められる。第四に、『判断力批判』における「理性の他者」

には、身体や無意識などの困難な課題があり、これらは本研究では扱われていない。ベーメ説に対する 批判の説得力を高めるためには、これらも無視できない課題である。第五に、本論文は基本的にマック リール説および牧野説にある程度依拠して考察を展開しており、本研究がさらに説得力のある「独創性」

を示すには、これらのカント解釈そのものを根本から吟味することも必要である。以上は、本研究が今 後取り組むべき課題である。

それにもかかわらず、本研究は、その優れた研究成果をいささかも損なうものではない、と確信する。

6.結論

以上により、審査小委員会は、相原博氏提出の博士学位請求論文の『カント『判断力批判』における

「自然の解釈学」の意義』を優れた研究であると評価し、博士(哲学)の学位を授与されるに十分な資 格を有するものである、との結論に達した。

以上

参照

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