造 像 観 仏 思 想 の 考 察
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(2) 題である︒. ただ一つ重要なことは︑仏教が中国︑朝鮮︑目本に伝搬してきたときには︑少くとも正法ではなく像法の時代と. して意識されたことである︒目本においても鎌倉時代になると末法思想が一つの時代の思潮になり︑その中から浄. 土宗︑法華宗が民衆的な運動としておこり︑禅宗もこの末法から正法にかえろうとする一つの運動であると考えら れなくもない︒. 本稿で取り上げるのは︑この中でとくに﹁像法﹂におげる造像思想である︒この﹁像法﹂は正法︑末法に比較し. て宗教自体が宗教思想として取り上げることが少なく︑もっぱら美術史︑芸術文化史的観点からのみ論ぜられるこ. とが多いという憾みなしとしない︒像法こそは正法と末法とを結びつけ︑人間の生活の中に鰺透して宗教表現を豊. 潤ならしめたものであるがゆえにこの様態の考察は今日急務であるとともに︑正しい視点のもとに立ってその宗教. 性の意味に生命あらしめる要素となるとおもわれる︒すでに中世において﹁覚禅抄﹂︑﹁阿娑婆抄﹂︑﹁別尊雑記﹂な. どに仏教図象の図像学的集成はなされている︒しかし︑これらの雇大た図像を成り立たしめている造像の宗教的志. 向性︑根本となる造型思惟の問題は明かにされていないといってよい︒仏教自体に内在する宗教的な人格性と非人. 格性の認識と表現の問題が含まれているからである︒仏教は自己の信仰や思想を非形象のままに︑形象化を拒絶し. てきた一面と︑積極的に形象化してきた面と︑つねに二つのものをあわせもっていた︒仏教の観仏瞑想の修法と造. 像︵造塔︶の行為には︑明かに﹁像法﹂としての特質を考えねばならぬことがある︒それにもかかわらず︑今まで. 仏像を取扱う美術史や文化史はおろか︑仏教自体がこの﹁像法﹂におげる造像造塔の宗教的精神運動を正しく全体. 的に把握していなかった憾みなしとしない︒ここでは造像の根拠となる経典や爆法展開過程の中に見られるわが国 や中国の造像銘︑宗教的詩文などを取り上げることとした︒. 485.
(3) 造像衝動と経典 呂ソ. オヅ王. ﹁修験役君形生記﹂は江戸時代の修験道の文献であるとはいえ︑役小角の幼年時代をつぎのようにのべている︒. ﹁小角生従四五歳︑不雑賎子不言高声坐静閑所常以泥土作仏像以草茎作堂塔安置彼仏像︑献花水︑投地礼拝因裁敏悟. 博学也﹂︵第四幼稚遊戯之事︶︒普通の子供ならば蝉や蟹取りに夢中になるところであるのに︑小角は﹁静閑ノ所二. 坐シ︑泥土ヲ以テ仏像ヲ作リ︑草茎ヲ以テ堂塔ヲ作リ︑彼ノ仏像ヲ安置シ︑花水ヲ献ゲ﹂︑五躰投地の礼拝をしたと. いう︒いわぼ仏事の遊戯であり︑彼の特異な性格︑﹁敏悟﹂の様子を表わすものであろうが︑こういった幼少時の. 特異性は役小角だけのものではなく︑昔の高僧名僧と呼ばれる人々の伝記にはつきもので枚挙にいとまないといっ. てよいほどである︒ただし︑泥土をもって仏像をつくるという行為を特異のものとせず︑一般的なものとして考察. すれぼ︑人問の内面には何か形を表わすという衝動をもっていることを意味している︒仏像の造型への意欲︵人間. が表現するとは形であらわすこと︶はあえて経典︑儀軌によらず︑本然のものとしてそなわっていると見ることが できよう︒さらにそのあとにつぎのごとくのべている︒. ﹁至干七歳︑無言而凝観念於専摂一心︑擢志而帰仏道︑夜夜撃葛域︑礼法喜菩薩之形体︑朝朝廻葱嶺拝諸仏影向之 光明﹂︒. 専ら観仏三昧に耽り︑葛城山に撃って菩薩を礼し︑葱嶺に至って諸仏の影向を拝したとほとんど対句的に対照さ. せながらのべている︒一説には修験遭の開祖として山に至って誓願を立てたことを指すともいわれる︒いずれにせ. よ︑造仏造塔と観仏による﹁菩薩ノ形体﹂︑﹁諸仏影向ノ光明﹂を礼拝することは不可欠のものとなっている︒造像. 484.
(4) が手による思想であるとすれば︑観仏瞑想は心において直接つながっている︒儀軌︑経輿に規定される以前に︑造. 像行為は人問に本来内在している表現として︑無規定のままつねに包蔵されているのである︒. 常識的にいえば︑世尊在世蒔に造像が起ることぼあり得ず︑入滅後においてはじめて起ると考えられる︒これが. 従来︑仏教美術史のとってきた見方である︒仏像造型の意欲が人閻に内在しているにLても︑これを現実化し開顕 するには宗教による思想的根拠が必要である︒. ﹁仏説大乗造像功徳経﹂はつぎのごとくのべている︒世尊が三月安居にあたり︑伽利天にのぼり︑母麻耶夫人の. ために説法していた間︑閻浮提の中では暗夜星中に月なく︑国に君主なく︑家に主人なく︑衆生は皆孤独無依とな った︒その状況はつぎのごとくである︒. ﹁皆於如来︑心懐恋慕︑生大憂悩如喪父母如箭入心共往世尊曾所住処園林庭宇悉空無仏倍加悲恋不能自止﹂︒. かつて仏陀の住まわれた園林庭宇をたずねたが︑世尊なきあとはすべてが空しく︑﹁悲恋﹂の想いが一層つのっ. たのである︒ここでは﹁恋慕﹂︑﹁悲恋﹂という言葉で︑仏陀への憧僚︑その人格性への熱望が表わされている︒と. きに世尊を敬愛する優陀延王は王宮にあってたえず﹁悲感ヲ懐キ︑仏ヲ渇仰スル﹂のあまり︑生命ある閻に仏に逢 いまつることを願いつぎのごとくいう︒. ﹁我今憂悲不文当死云付令我未捨命間︑得見於仏︑尋復思惟警若有人心有所愛︑而不得見︑見其住処及相似人︑或. 除憂悩復更思惟︑我今若詣仏先住処不見於仏︑哀号感切︑或致於死︑我観世聞無有一人能与如来色相福徳知慧等 老︑云何令我得見是人除其憂悩作是念巳即更思惟我今応当造仏形像礼拝供養﹂︒. 優陀延王は優陀延那︵自ま養§︶といい︑古くは優填︑子闘ともいう︒瞑弥国の国王で仏陀に帰依するところ篤. く︑仏陀の住んでいたところ︑仏陀に似た人を見れぼ憂悩が消えるであろうと思うが︑しかし如来のごとき福徳知. 483.
(5) 5. 慧色相の存在にあうことは不可能である︒そこでせめて仏の面影を偲んで仏の形像を造って礼拝しようとおもう︒. しかし︑この造象は仏に似ていなげればその罪は重いことになる︒国中に勅して彫像に巧みな者を集め仏像をつく. ることを命ずるが︑如来を造型することの難しさを畏れてたれ一人として受諾するものはなかった︒その時王はつ ぎのごとく堅く決心する︒. ﹁我心決定︑勿有所辞如人患渇欲飲河水︑山豆以飲不能尽而不飲耶﹂︒そこで純紫栴檀の木をもって立像にすべきか︑. 坐像にすぺきかを人々に間うたところ︑一智臣がすすみ出て︑つぎのよういう︒. ﹁大王当作如来坐像︑何以故︑一切諸仏得大菩提転正法輸︑現大神通降伏外道︑作大仏事︑皆悉坐故︑是以応作坐 師 子座結駒之像﹂︒. 師子座に結駒扶坐して諸魔降伏をなし遂げた形相を最初の造像とした︒このことば成遣に最夫の意義を見ている. ことがうかがわれる︒砒首掲磨天は逢かにこの様子を見ていたが︑・身を仏師に変じて優陀延王のもとに至り︑香木. にて如来の形相を刻むことを申し出た︒﹁斧操リ︑木ヲ研ル﹂声が三士二天に徹り︑仏の会所に至ったので︑神力 をもって﹁声所及処衆生聞老罪垢煩悩皆得鎗除﹂するに至った︒ ﹁爾時如来即便徴笑種種歎美其王功徳︑乃至蓬授阿籍多羅三窺三菩提記﹂︒. この優陀廷王の功徳を歎美し︑無上菩提を授記したと伝えている︒三十三天主も如来に過去世において仏像を作. った者は解脱して天衆にあること︑北方砒沙門子那履沙婆が菩薩像を造り︑その功徳により王と生れたが︑今天に. 生れることが約束される︒この如来が瞑想した堂で修行していた者や如来の精舎のかたわらで草を食んでいた牛も. その尊容を見て歓喜心を発した︒その他献燈したもの︑仏堂を掃除したもの︑香水で仏像を洗ったもの︑像座の前. で責丹で一像を画いたもの︑いずれも﹁皆永ク苦ヲ離レ解脱ヲ得﹂たと叙している︒. 482.
(6) ﹁若復有人能於我法︑未滅尽来造仏像者於弥勒初会皆得解脱︑若有衆生非但為已而求出離乃為欲得無上菩提造仏像 者当知此則為三十二相之因︑能令其人速致成仏﹂︒. 造像は弥勒初会に解脱すべきことが誓願とされる︒砒首鵜磨天によって造られた像は七尺︑顔︑手足は皆紫金の. 色をたしていた︒王は﹁相好端厳﹂を仰ぎ︑﹁心二浄信ヲ生ジ︑柔順ノ忍ヲ獲︑既二忍ヲ得テ益ミ欣慶ヲ加工﹂︑業. ・障︑憂悩はひとしく消え去った︒やがて他の諸国の王たちもこのことを伝え聞き︑珍宝をたずさえ︑仏像に供養し たという︒. 時に世尊ぱ天中にあって母のために説法をしていたが︑優填王の造像のことについてつぎのように告げている︒. ﹁諸天子諸仏世尊是常住身︑若諸衆生有可度老即為出現教化︑説法若所作事畢︑更無有能受法化者︑如来於此即便. 不現無智之人謂仏実滅︑如来身者法身︑常身実不滅度︑諸天子一切諸仏法皆如是為化衆生有現不現﹂︒. ︒. ここにおいて世尊は法身が常住不減であること︑法身には滅度はないが︑衆生の無智なるために仏の生滅ありと. 思うげれど︑種々姿で仏は教化済度に現ずる︒﹁衆生ヲ化セソガ為メニ現︑不現有リ﹂を知らせる︒. 優陀延王は世尊にこの造像のいとたみのことをおそれながらつぎのようにたずねる︒. ﹁世尊如来遇去於生死中︑為求菩提行︑無量無辺難行苦行獲是最上徴妙之身︑無与等老︑我所造像︑不似於仏︑籍 白思惟深為過各﹂︒. 優陀延王は仏の敬度な渇仰者として造像が仏の聖性を犯したかとおそれる︒これにたいして世尊は王が過各を犯 したことはないと断じ︑むしろつぎのようにその功徳を称讃している︒. ﹁非為過各汝今已作無量利益︑更無有人与汝等者︑汝今於我仏法之中︑初為軌則以是因縁故令無量衆生得夫信利︑ 汝今已獲無量福徳広夫善根﹂︒. 481.
(7) 仏法においてはじめて造像をなしその規範をつくった王の功徳は衆生のために大信を与えるものとして世尊ぱ称 讃を惜Lまたい︒のみならず帝釈天もまた王に告げる︒. ﹁王今於此勿懐憂櫻︑如来先在天上及此人間皆称於王造像功徳凡諸天衆悉亦随喜未来世中有信之人皆因王故造仏 形像︑而獲勝福︑王今宜応歓喜自慶﹂︒. 仏教において造像の基礎は優填王伝承のこの宗教的思想において規定されたといえる︒仏を形像に造る意味は. ﹁有信﹂という絶対的関係において可能であった︒それ以外の可能性を考えるべきではたい︒. ﹁仏説夫乗造像功徳経巻下﹂は︑﹁巻上﹂の事述を踏まえて︑弥勒菩薩︑大衆が造像の意義を問い︑世尊の言葉を. 弥勒菩薩は﹁世尊が浬繋にはいられた後︑信心あって︑造像する場合の功徳拉びにその仏相を広くお説きいただ. ﹁若有浄信善男子善女人於仏功徳専精繋念常観如来︑威徳自在具足十刀︑四無所畏十八不共法大慈大悲一切智智三. きたい﹂と申しのべた︒これにたいし世尊はつぎのように告げている︒. 十二種︑大人之相八十随形好一一毛孔皆有無量異色光明︑百千億種殊勝福徳荘厳成就無量智慧明了通達無量三味無. 量法忍無量陀羅尼無量神通如是等一切功徳皆無有量離衆過無与等老此人如是諦念思惟深生信楽依諸相好而作仏像功. 徳広大無量無辺不可称数.弥勤若有人以衆雑綴而為績飾或復錯鋳金銀銅鉄鉛錫等物︑或彫刻栴檀香等︑或復雑以真. 珠螺貝錦繍織成丹土白灰若泥若木如是等物随其力分而作仏像︑乃至極小如一指大能令見者知是尊容︑共人福報我今 当説弥勒﹂︒. 常に仏を観ずることによって生ずる﹁信楽﹂の功徳は無量無辺であること︑その表現する仏の形像の素材は︑栴. 檀︑金銀︑銅鉄あるいは繍仏︑真珠︑螺貝︑木石泥灰等々をあげている︒さらに︑造像の功徳を以下に多く列挙し. 480. 聴く と い う 形 を と る ︒. 7.
(8) ているが︑その中には︑王者に生れること︑﹁常遇諸仏︑承事供養或得為王能持正法︑以法教化不行非遣﹂のごと. く︑正法保持し︑相貌は円満具足喜相をなすこと等がある︒叉﹁生死中二於テ︑能ク信心ヲ発シ︑仏ノ形像ヲ造ル. コト﹂は諸種の悪業傷害をまぬかれしめ︑柾械椥鎖その他悪病︑磯饅などの苦悩をまぬかれしめる︒叉いう︑たと. え衆生が﹁モロモロノ罪ヲ作ストモ︑已二発心シテ像ヲ造リ︑求哀麟悔決定自断誓ヒ重ネテ犯サザレバ﹂︑一切の. 先きになした行いは鋪滅する︒﹁生死二於テ速カニ無擬二出﹂︑﹁重障有リト離モ速カニ滅スルヲ得︑生死二在リト. 雄そ︑苦難無ク︑乃至︑当サニ無上菩提ヲ証スベク︑清浄土ヲ獲ソ﹂と積極的な功徳をも説いている︒﹁浄信ノ心. 有ツテ仏ノ形像ヲ造レバ︑一切ノ業障除減シ﹂︑﹁阿褥多羅三墾二菩提ヲ成ジ﹂﹁永ク衆生ノ一切ノ苦悩ヲ抜クコト﹂. を語り︑弥勤菩薩はじめ優陀廷王一切の諸天ことごとく歓喜信受奉行したという︒. 臨終識宿命. 見仏在現前. 不覚死時苦. ﹁仏説造立形像福報経﹂の中で︑同じような功徳が語られているがとくにつぎの偶には来迎に近い表現が見られ る︒. 作仏形象報. また灌仏の根拠となる﹁仏説浴像功徳経﹂には滅度後の二種の舎利が何であるかについて説かれている︒. ﹁一老法身︑二者化身︑若善男子善女人等供養舎利︑造仏形像︑如大麦等造塔如蓄羅果︑表刹如針︑蓋如浮静持仏. 舎利如芥子大安置其中所得功徳如我在世等無差別如是之人得十五種功徳﹂︒この十五種の功徳は︑﹁浄念心﹂︑﹁順法. 心﹂︑﹁葱悦心﹂︑﹁得見如来﹂︑﹁浄信心﹂︑﹁能持正法﹂︑﹁如説修行﹂︑﹁親近諸仏﹂︑﹁仏国土随意受生﹂︑﹁人中生大姓. 供養舎利者. 或造於塔廟. 及如来形像 於彼塔像前. 家︑心柔較人所敬重﹂︑﹁念仏心﹂︑﹁魔軍不能悩乱﹂︑﹁末法時能護正法﹂︑﹁十方諸仏如来加覆護﹂︑﹁成就五分法身﹂. 於如来滅後. である︒つぎのような頼も説かれている︒. 若以清浄心. 4?9.
(9) 浄持以供養 讃礼仏功徳 無量難思議 智慧及神通. 掃塗漫陀羅 以種種華香 散布於其上 以諸妙香水 諸善巧方便. 而浴於仏像. 悉皆到彼岸. 上妙諸飲食. 注目すべきは舎利は世尊の遺骨ではたく︑法身︑化身という宗教的内容に置きかえられていること︑むしろ仏の. 形態的な造像に重点をおいており︑仏在世において造像︑浴像することが︑滅度後も衆生の浄心発起の動因とも危. るのである︒それゆえ︑造像行為があくまでも仏への人格性との関係を重んじていることは明かである︒. ﹁於仏減後︑亦応如是不作執空有想於諸善品︑心懐渇仰不生疲厭︑何以故為成就如来法報身︑故我巳曾為汝説四真. 諦法十二因縁六波羅蜜︑我為汝説浴像法︑諸供養中最為殊勝︑善男子若欲沐像応以牛頭栴檀紫檀︑多摩羅香︑甘松. 育窮白檀欝金竜脳況香慶香︑丁香︑以如是等種種妙香随所得者以為湯水置浄器中︑先作方壇敷妙抹座於上置仏以諸. 香水次第浴之用諸香水周偏詑巳復以浄水於水淋洗共浴像者各取少許洗像之水置自頭上焼種種香以為供養初於像上下 水之時応謂以偶﹂︒. 具三十二. 心に渇仰を抱き如来の法報身を成就するためには︑その有無の論にかかわってはならない︒仏像に香をまじえた. 偏十方刹常芥譲. 獲得金剛身. 水をそそぐ行法を説く︒また香を焼き仏像にふりかけながらつぎのような偶を講するのである︒. 我今灌沐諸如来 浄智功徳荘厳聚 五濁衆生令離垢 願証如来浄法身. 戒定慧解知見香. 廻作自他五種身. 焼香の際にはつぎのような偶をとなえるのである︒. 願此香姻亦如是. 異伝とおもわれる﹁浴仏功徳経﹂︵義浄訳︶では︑仏像の灌浴は偶の終りに﹁速至於彼岸. 478.
(10) 10. 相八十随形好. 済度諸華生﹂とか︑﹁願此香姻亦如是. 無量無辺作仏事. 上菩提心 永出愛河登彼岸﹂などの碩や讃をなすのである︒. 二 薬師仏信仰とその造像. 亦願三塗苦輸息 悉令除熱得清涼. 皆発無. わが国においては薬師如来の造像は法隆寺の﹁薬師造像記﹂で明かであるように︑ひじょうに古くに湖る︒その. 後︑天武朝に至り︑薬師寺︑新薬師寺などの伽藍の建立がおこなわれるが︑薬師如来の信仰や造像は広く深く鰺透. している︒薬師信仰は経典などによらず︑直接仏像や薬事習俗に結び付いているために︑早く一般化され信仰をあ. つめているが︑根拠となす経典があることはいうまでもない︒玄装訳になる﹁薬師瑠璃光如来本願功徳経﹂による. と︑釈迦は曼殊室利に告ぐるには︑この土を去って東方十恒河沙の仏土の外に浄瑠璃と名づげる世界あり︑そこに. 薬師瑠璃光如来が在しまし︑菩薩道を行じていたとき︑十二の犬願を発して衆生の求めるものを得させようとした︒. ﹁第一大願︑願我来世得阿籍多羅三窺三菩提時自身光明熾然照曜無量無数無辺世界以三十二大丈夫相八十随形荘. 厳其身令一切有情如我無異﹂︒一切の衆生が瑠璃光仏と同じく光明織然と照曜し︑無土正等覚を獲ることを願う大 願である︒. ﹁第二大願︑願我来世得菩提時身如瑠璃内外明徹浄無理穣光明広大功徳窺魏身善安住嬢網荘厳遇於目月幽冥衆生悉. 蒙開暁随意所趣作諸事業﹂︒清浄に徹し︑衆生意の趣くところにしたがって︑諸事業をなすの犬願である︒. ﹁第三夫願︑願我来世得菩提時以無量無辺智慧方便令諸有情皆得無尺所受用物莫令衆生有所乏少﹂︒智慧方便によ って受用欠乏なきことへの誓願である︒. 477.
(11) 11. ﹁第四大願︑願我来世得菩提時︑若諸有情行邪道者悉令安住菩提道中︑若行声聞独覚乗者皆以夫乗而安立之﹂︒大 乗菩提道への安立の願である︒. ﹁第五大願︑願我来世得菩提時︑若有無量無辺有情於我法中修行梵行︑一切皆令得不欠戒具三聚戒︑設有段犯聞我. 名已還得清浄︑不堕悪趣﹂︒不欠戒︑三聚戒を具し︑衆生これを犯すことあるとも︑薬師仏の名を聞いて清浄とな. ﹁第六夫願︑願我来世得菩提時︑若諸有情共身下劣諸根不具醜歴頑愚盲聾宿痙撃壁背懐︑白癩顔狂種種病苦聞我. り︑悪趣に堕ちざるの願である︒. 名︑已一切皆得端正籍慧諸根完具無諸疾苦﹂︒諸根頑劣︑盲聾瘡癌︑手足がひきつり︑いざり︑せむし︑白癩のご. とき悪瘡︑狂気等々の病苦あっても︑如来の名を聞いて︑病一切が癒やされることの誓願である︒. ﹁第七夫願︑願我来世得菩提時︑若諸有情衆病逼切無救無帰無医無薬無親無家貧窮多苦我之名号一経其耳︑病悉得. 身心安楽家属資具悉皆豊足乃至証得無上菩提﹂︒衆生の諸の病い逼迫し医薬救いなく貧窮多苦のとき︑薬師如来の 名号をきき︑身心安楽して無上菩提を得る願である︒. ﹁第八大願︑願我来世得菩提時︑若有女人為女百悪之所逼悩極生厭離願捨女身聞我名已一切皆得転女成男具丈夫相 乃至証得無上菩提﹂︒女人の男子変成の願である︒. ﹁第九大願︑願我来世得菩提時︑令諸有情出魔羅網解脱一切外道纏縛︑若堕種種悪見穗林︑皆当引摂置於正見︑漸. 令修習諸菩薩行︑速証無上正等菩提﹂︒一切の外道の束縛︑悪見から離れて正見に戻し菩薩行修習の願である︒. ﹁第十大願︑願我来世得菩提時︑若諸有情王法所録繰縛鞭捷繋閉牢獄︑或当刑籔及余無量災難凌辱悲愁煎迫︑身心. 受苦︑若聞我名以我福徳威神力故皆得解脱一切憂苦﹂︒不慮の災難︑無実の罪や不当の罰にたいする苦悩解脱の誓 願である︒. 476.
(12) 12. ﹁第十一大願︑願我来世得菩提時︑若諸有情磯渇所悩為求食故︑造諸悪業得聞我名︑専念受持我当先以上妙飲食飽. 食其身後以法味畢寛安楽而建立之﹂︒有情磯渇の苦悩とそれによる悪業にたいし︑薬師仏の名を受持し︑畢寛安楽 を得しむるの願である︒. ﹁第十二大願︑願我来世得菩提時︑若諸有情貧無衣服蚊虻寒熱昼夜逼悩︑若聞我名専念受持如共所好即得種種上妙. 衣服︑亦得一切宝荘厳具華髪塗香鼓楽衆伎随心所翫皆令満足﹂︒この誓願は衣住︑貧窮からの解脱である︒. この薬師琉璃光仏の大願が仏土の功徳荘厳をなし︑西方極楽世界の功徳荘厳と等しく差別がない︒この仏土には. 日光遍照︑月光遍照の二菩薩がこの如来の正法宝蔵を保持Lていると説いている︒この二菩薩が形像の儀軌におい ては薬師仏の左右に脇士として侍しているはいうまでもない︒. この十二の大願をもって菩薩行を修習した薬師仏は︑犬医王仏︑医王善逝とも呼ばれ︑梵名ではベシャジュヤ・グ. ルウ︵︸冨ω&這藺9胃目︶といい︑東方浄琉璃国土の教主である︒その犬願は有情の病悩︑無明煩悩の疾を医する法. 薬を与えることに主眼をおく︒薬師仏の特記すべき点は︑﹁像法転時﹂の衆生に利益し安楽ならしめんがために出現. した仏であるという点である︒大集経に正法として﹁法身得住堅固﹂︑﹁解脱得住堅固﹂︑﹁禅定得住堅固﹂があり︑. 後二つが仏入滅後の正法と呼ぶ︒これにたいし︑﹁多聞得住堅固﹂︑﹁福徳得住堅固﹂を像法とし︑﹁闘謡得住堅固﹂ を末法としている︒. 世尊に曼殊室利はつぎのごとくいう︑﹁我当誓於像法転時︑以種種方便令諸浄信善男子善女人等得聞世尊薬師瑠璃. 光如来名号乃至睡中亦以仏名覚悟共耳︑世尊若於此経受持読謂或復為他演説開示若自書︑若教人書恭敬尊重︒以種. 種牽香塗香株香焼香撃髪︑襲瑠幡蓋伎楽而為供養﹂︑四天王およびその春属がこれを護持し︑薬師仏の名号をきいて. 横死することなく悪鬼神によって精気を奪われず︑身心安楽を得という︒これにこたえて︑世尊はこの薬師仏の供. 475.
(13) 13. 養についてつぎのようにいう︒. ﹁若有浄信善男子善女人等︑欲供養彼世尊薬師琉璃光如来︑老応先造立彼仏形像敷清浄座而安処之散種種華焼種種. 香以種種瞳幡荘厳共処︑七日七夜受八分斉戒食清浄食繰浴香潔著新浄衣応生無垢濁心無怒害心於一切有情起利益安. 楽慈悲喜捨平等之心﹂︒さらに鼓楽歌讃し仏像をめぐり︑この経を読講し︑その義を思惟せよと説く︒それゆえ︑. 仏足石歌詠のような歌讃が重んぜられるようにたる︒その根拠はこの経典に依拠する︒. 薬師三尊の形像については︑﹁薬師経疎﹂につぎのごとくのべている︒過去世において仏世に出て電光如来と呼び. 三乗法を説いて衆生を教えた︒その時一梵士あり二子を養育して世の濁乱を見﹁発菩提心︑白仏一一目︑在世尚爾︑何況. 世尊滅度後︑我発願当利諸衆生救苦与楽︑作此言己脱身上衣供養仏而白仏言︑我教化此界諸苦衆生︑於浄土当得菩提︑. 仏謂善哉︑次二予供養仏︑発願︑仏言汝発大悲願︑欲利重病衆生︑改汝号︑為医王︑汝二子皆饒益幽冥衆生長名日. 照幼名月照︑爾時医王老︑東方薬師如来是︒二子彼二大菩薩次第補処日光菩薩月光菩薩是也︒当知彼仏発心已来誓. 願度衆生有感応於此土︑此界衆生有機縁於彼仏明機感自受彼教興実﹂︒世尊滅度後の衆生の苦しみや悩みを思って. 薬師仏が発願したとつたえる︒﹁覚禅抄﹂において﹁薬師像ハ説ク所無ク世二形像流布ス︑左手二薬壷ヲ持シ︑右手. ハ施無畏也・身色黄金︑⁝⁝﹂︑他説では右手が施無畏︑左手が施願︑壷を持たぬ形像もあるという︒脇侍の菩薩は. 日光︑月光菩薩であるが︑観音︑勢至の場合もある︒十二神将が守護する︒また﹁昨迦陀野軌﹂では﹁薬師仏坐宝 蓮華座︑其形金色烏琵相也︒左手取宝印︑置左膝上︑右手取葡萄︑﹂︒. 教理では理と智と教の三つを薬師の三薬といい︑﹁除衆生業病鬼病四大病三也︒以善根薬治業病︑以呪薬治鬼病︑. 以医薬治四大病︑叉以三身薬治三病可知之﹂︵覚禅抄薬師法︶︒この薬師念謂の行法の中でつぎのように表白してい る︒. 474.
(14) 14. ﹁薬師如来立十二上願為東方化主号称薬師︑国名浄瑠璃︒象法転時之文︑独超余教︒一経共耳之願︑更勝諸仏︒求. 長寿得長寿持百年之命︑求富饒得富饒得元辺之福︒凡満一切願此尊勝也︒⁝⁝﹂︒この如来がとくに像法転時の衆. 生の病悩の済度にふさわしいとされていること︑この十二大願は無量寿経の四十八の誓願と阿弥陀浄土と対極相応. ﹁造像量度経﹂ におげる像思想. をなしている点を充分考慮しなければならない︒. 三. 工布査布の﹁造像量度経﹂には続補があり︑この方がむしろ実際には造像問題を考察する上で重要である︒仏・ 如来像にたいし︑﹁菩薩像﹂の造型をつぎのように考えている︒. ﹁八丈適子等︑已成正覚而由其往昔願力︑感化応身菩薩相者彼像造法︑南面正坐与仏像無異若夫陵位歴地之歴地 之菩薩宜置芽列︑与侍奉至尊諸像相類﹂︒. 厳密には仏像は菩薩像︑明王像︑護法像と異るものであるが︑一般にはこれらをも含めた意味に用いている︒し. かし︑ここでぼ明かに区別Lている︒菩薩ぱ過去の願力によって正覚をなすものであるがゆえに︑﹁応身菩薩相﹂. を感化し︑如来と同じく南面正座すること︑至尊に侍奉することは他の諾象と同じである︒註におげる像伝附載に. よれば︑凡夫の身量は竪八十四指︑横九十六指が限度であり︑業息も菩薩にたると少なくなり︑慧息が長くなり︑ 十地を越えて究寛位極処に至ると円満報身を得るといわれる︒. ﹁髪賛吉同八指︑頂尖宝厳二指︑面形似鳥卵︑具喜悦慈愛之容︑目長三指︑寛分一指︑如蓮葦辮﹂︒. 面貌は鳥の卵形のごとく面長にし︑慈悲の相を湛え︑眼は蓮華の花辮のごとくせよと規定する︒髭なく十六歳の. 473.
(15) 15. 童形で︑服飾は﹁報身仏像﹂と同じく軽健にして華髭をもってかざらなけれぼならぬ︒. ﹁仏之受用身為浄居天主︑変化身作穣土人師︑菩薩之受生亦莫不托於色欲両界天人二種︒故論相者一面二膏為本元﹂︒. 仏如来は自受用身で浄土にあるが︑変化身は現在の人師の形相をとる︒菩薩身は色界欲界に托されたすがたをと. る︒密教秘密部では多面広管などの異相をとることもあるが一面二膏が基本の形像であることはいうまでもない︒. 密教の異相は異怪を調伏するための﹁非常相﹂であって︑怪異の外相を以て像のもつその内的意義を示すためであ る︒. 造像にともなう意義と解釈をここで逐一詳細にのべることはでき恋いが︑その具体例として千手観音の﹁千手﹂. の象徴表現をあげることにしたい︒千手は﹁法身八手︑報身四十手︑化身九百五十二手﹂合せて千手と釈している︒. 法身八替はまず心に当って合掌︑右二手は白水晶念珠︑左二手白蓮華︑右三手金輸︑第四手は施願印︑左三手は弓. 箭︑四手は軍持︵叉は渓瓶︶をもつ︒つぎに報身四十膏は上より下へ向って︑右側二十手は︑仏像︵釈迦像︶︑如意宝. 珠︑精珠︑青優波羅華︑錫杖︑白色金剛杵︑利劔︑鉄鈎︑白払を持し︑左二十手は︑宝殿︑宝慶︑月精珠︑紅蓮牽︑. 鉢孟︑金剛鈴︑傍牌︑羅索︑楊柳枝︑最後に左右第十両手はともに融印をなす︒右は上を仰ぎ︑左は僻した形態を. とる︒右十一手は賢瓶︑宝山︑鰯鐘杖︑梵爽︑鐵鉄︑金剛鉄椎︑施無畏印︑玉印︑長槍交杵をもち︑左十一手より. 宝鏡︑玉環︑白螺︑五彩畳雲︑蓮華心蘂︑鉄金剛概︑禾穂︑蒲萄︑鋼叉︑黄蓮華を持ち︑合せて四十手となる︒つ. ぎに九百五十二手︑ことごとく施願印をなし︑掌中眼目︑参差互いに見︑手はいずれも柔煩円好﹁正開之蓮華﹂の. ごとくせよとのべている︒しかも︑千手に及ぶ多くの手が観る者をして﹁共ノ多キヲ覚エズ﹂と感ずるようにしな. げればならない︒法身八手は形は﹁常制ノ如ク﹂︑報身四十手は﹁法身ヲ徴細ニス﹂るものと考えられている︒. ﹁五行之真性︑為五部仏母︑或仏菩薩被大慈力︑以就世聞之通情︑特化女相者︑或善信女人女神発弘誓︑行大乗︑. 々. 2.
(16) 16. 願満成遣者倶通称仏母L︒. これは仏母像の釈である︒いわば一般の通情にしたがい︑女相と現ぜるもの︑善信女︑女神︵天女︑仙女当時の. 所現の装にもとづく︶にして成道せるものをいう︒衣服荘厳は菩薩像に同じく︑﹁正大窃究﹂の相をなすを良しと. している︒この他に︑盆怒象としての明王部︑悪相護法神がある︒﹁慈カヲ以テ世聞純陰毒種ヲ降服センガ為二︑ 特二猛烈ノ相二変ズル者﹂である︒. 安像法. 造像を了えて仏殿にこれを安置するとき︑霊光を徒らせるいわゆる﹁阿哩伽﹂の儀軌に準ずる儀式をおこなう︒. 荘厳し供養する諸行事のあと︑壇主は鏡を像の前におき像の影を映し︑祝いの言葉をのべ︑陀羅尼を謂する︒﹁如来. 安像三昧経﹂にあるごとく︑壇主は霊を収めている鏡を捧げ︑像にたいしてこれを照らし︑﹁若咋婆母和﹂の陀羅尼. を講して﹁観ジテ其ノ智慧霊光ガ鏡中従リ瞥然ト出デ入リテ像身ヲ潤オスノ想ヲ作ス﹂こと︑ついで﹁庵蘇巴瞳﹂. を諦す︒新たに創った像の場合には︑壇主は﹁黙観シテ清浄法界ヨリ本尊トナリ首ト為セラルルベク像身二入ルノ. 想﹂をおこない︑安住爆呪を謂する︒この創造の像の日には仏工︵仏師︶は最上客としての扱いをうげ︑厚く賜物. をうけて惰われる︒伝によればおよそ像の神霊が喜住するためには︑儀軌の量度が具足し︑工師歓悦すべきことが 必要であるといわれている︒. 造像の基礎に︑観仏瞑想の営みがあることは︑安像法に至るまで充分にうげつがれることは明かである︒三身真. 言を唱え︑あるいは仏像の胎内に陀羅尼や薬師経などを納めて入魂をおこなうことなどはいうまでもない︒. 471.
(17) 17. 四. 古代目本におげる造像記. イ 法隆寺薬師造像記. 池辺大宮治天下天皇大御身労賜時歳次丙午年召於大王天皇与太子而誓願賜我大御病太平欲坐故将造寺薬師像作仕. 奉詔然当時崩賜造不堪者小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉. 出イラギ. 主要部を述べると病気の重くなられた用明天皇は推古天皇︵大王天皇︶と聖徳太子︵太子︶とを召して︑﹁誓ヒ願. ヒ賜ヒシク︑我ガ大御病太平マサシク欲ホシ坐スガ故二︑寺ヲ造リ薬師ノ像ヲ作リ仕へ奉ラマク将ホスト詔リタマ. ヒキ﹂とある︒ところが天皇は崩御されたので︑推古天皇︑聖徳太子は遺勅を受けて﹁歳丁卯二次レル年︵推古天. 天寿国曼茶羅繍帳記. 皇十五年︶二仕へ奉リキ﹂とあるように︑先帝の御意志どおりに薬師如来を造像されたのである︒. 口. 斯帰斯麻宮治天下天皇名阿米久遜意斯波留支比里爾波之弥己等要巷奇大臣名伊奈米足尼女吉多斯比弥乃弥己等為. 大后生名多至波奈等己比乃弥己等妹名等己弥居加斯支移比弥乃弥已等復要大后弟名乎阿尼乃弥己等為后生名孔部間 人公主. 斯帰斯麻天皇之子名蓮奈久羅乃布等多麻斯岐乃弥己等要庶妹名等己弥屠加斯支移比弥乃弥己等為大后坐乎沙多宮 治天下生名尾治王. 多至波奈等己比乃弥己等要庶妹名孔部間人公主為大后坐漬辺宮治天下生名等己刀弥弥乃弥己等姿尾治大王女名多. 470.
(18) ヒ. チギ. ﹃ヲ. トモナイ邑カ. カナン⁝出グ. ク. 〒. 469. 至波奈大女郎為后歳在辛巳十二月廿日癸酉日入孔部間人母王崩︑明年二月廿二日甲戌夜半太子崩. ︹干時多至︺波奈大女郎悲哀嘆息白畏天□皇前目啓︺之難恐懐心難止便我大王与母王如期従遊痛酷先比我大王所告. 世間虚仮唯仏是真玩味其徳謂我大王応生於天寿国之中而彼国之形眼所巨看儒因図像欲都大王往生之状天皇聞之壌然. 告日有一我子所啓誠以為然勅諸采女等造繍帳二帳画者東漢末賢高麗加西渥叉漢奴加己利令者椋部秦久麻. ク一フペノ^タ. 帳は聖徳太子苗屍去後︑妃多至波奈大女郎の悲願により︑推古女帝が勅されて︑采女たちに命じて繍いと. 宝ヒノ︸バ︐. この繍. ナホキ︑⁝. りさせたものである︒下画は帰化人の東漢末賢︑高麗加西濫︑漢奴加已利につくらせ︑椋部奏久麻に差配せしめた モメ ものである︒最後の発願の橘夫女郎の言葉が切々としてひびくものをもっている︒﹁恐ルルト難モ心二懐フコト止. シガタク︑我ガ大王ト母王トハ期リシ如ク従遊レテ痛酷比ヒナシ︒我ガ大王ガ告グル所ニョレバ︑世間虚仮︑唯. スガ出. 仏ノ︑︑︑是真ナリト其ノ徳ヲ玩味セラレタリト我二謂ヒタマフ︒大王応二天寿国ノ中二生レマスベシ︑而モ彼ノ国ノ. 貞ダヒト︐. 形ハ眼二看ルニ巨ル所︑稀ハクハ図像二因リテ大王往生ノ状ヲ親ント欲スト︒天皇之ヲ聞キ給ヒ︑懐然ト告ゲテ目. ヒ給ハク︑有一ノ我子ノ啓スコト誠二然ルベシト﹂仰せられ︑さきのごとくこの繍帳の作成を命ぜられたという︒. 聖徳太子の苗屍去にともなう御一族の悲嘆とともに︑﹁世間虚仮唯仏是真﹂の太子の言葉が橘大郎女妃の心に強く与. えた宗教的意味がこの﹁天寿国繍帳﹂の発願となっている︒ カ⁝サキ ﹁法隆寺金堂釈迦造像記﹂によれば︑法興元升一年歳次辛巳十二月に鬼前太后︵太子の御母穴太部間人女王︑用明天 フ 回. 皇皇后︶が崩ぜられ︑翌年の正月廿二日に太子も弗愈︵不豫︶となられ︑太子妃干食主后も労疾床に着かせられた. ので︑橘大郎女王︑山背大兄王︑諸臣は深く愁い︑﹁共相発願仰依三宝当造釈迦像尺寸王身﹂︵共二相ヒ発願シ三宝ヲ. 仰依イデ︑当二釈迦像尺寸王身ヲ造リ﹂平癒を念じた︒﹁此願力転病延寿安住世聞︑若是定業以背世者往登浄土早昇. 18.
(19) 19. 妙果﹂とあるように︑平癒の御願ではあるが︑もしこれが定業であるならば︑﹁往イテ浄土二登リ︑早ク妙果二昇. ラソ﹂という御誓いでもあった︒御願空しく太子も后も世を去られたので︑この釈迦像は冥福を祈るものとなった. こと︑﹁遂共彼弊普遍六道法界含識得脱苦縁同趣菩提﹂の願文はそのことを示し︑﹁司馬首止利仏師造﹂と最後に記. している︒聖徳太子等身の仏像を造って平癒を願ったとあるが︑このような信仰態がほかにあるかどうか︑秘仏と. 東大寺大仏造像の事業. 称せられる救世観音もまた太子等身の仏であるという伝説もある︒. ハ. わが国におげる仏教渡釆以来多くの歴史的な変化はあるが︑聖武天皇の国分寺国分尼寺の創建と総国分寺として. の東大寺大仏及び大仏殿建立の事業において︑造像運動の絶頂の一つを見ることができる︒. 天平十三年三月二十四日の詔によれば︑五穀稔り乏しく︑疫癒多い国家的苦難の時︑国民の景福を願い︑一丈六. 尺釈迦牟尼仏の造像︑大般若経の写経を国分寺に命じている︒さらに七重塔の造立︑金光明最勝王経︑妙法蓮葦経. の写経も命ずるとともに天皇御自身も写経をつとめられた︒﹁所糞聖法之盛︑与天地而永流︑擁護之恩被幽明而恒. 満︒共造塔之寺兼為国華︑必択好処︑実可長久︒⁝⁝﹂︒造像︑造塔の事業は国家隆昌の精華と見られるからである︒. 東大寺に納入された聖武天皇造国分寺勅書銅版は︑天平勝宝五年正月十五日︑東大寺大仏殿︑夫仏造営の荘厳已畢. りたることを銅版に刻したものである︒この勅書でのべられているようにすでに天平十三年二月十四日に﹁金光明 四天王護国之僧寺﹂の造立を発願された︒. 天平十五年十月十五日の詔には︑﹁発菩薩大願奉造盧舎那仏金銅像一彊︑尽国銅而鋳象削大山以構堂﹂とあり︑. その規模の壮大なることは最後の語句に充分にうかがわれる︒同時に﹁毎旦二拝盧舎那仏︑自当存念各造盧舎那仏. 也︑如更有人情願持一枝草一把土助造像者︑盗聴之︒⁝⁝﹂︒盧舎那仏は世界最夫の金銅仏であるが︑その夫きさ. 468.
(20) 20. を誇るだげのものではなく︑日に三度ずつ礼拝し︑自己の中に仏を造ることに意義があるとされる︒またこの造像. のために国民の生活を圧迫することのないように官吏に留意させ︑この事業に一枝草︑一把土でもたずさえて助力 したいと願い出る者にはその願いを遂げさせるようにと配慮をさせている︒. 銅版勅書の裏板には﹁施﹂と称して︑天平勝宝元年五月二十日︑諸寺にたいし縄綿布︑稲・墾田地喜捨の勅書が. 記載されている︒これは後の平安期に追彫されたものであろうといわれている︒その中に﹁⁝⁝法界有情共成仏. 道︑以代代国王為我寺檀越︑若我寺興複天下興複︑若我寺衰弊天下衰弊︒⁝:﹂の言葉が伝えられており︑東大寺. 盧舎那大仏の造像と国家の一体の誓いが立てられている︒聖武天皇︑光明皇后におけるこの造像事業は︑朝廷が国. 宇治橋断碑. 家の運命をかげた大がかりなものであることをこれらの勅書から充分に知ることができる︒. 二. 挽洗榛流 其疾如箭 修︵修征人︶︵停騎成市︶. 出︵自山尻︶︵恵満之家︶. ︵欲赴重深︶︵人馬忘命︶︵従古至今︶︵莫知杭竿︶. 世有釈子 名日道登. 髪発大願. 結︵因此橋︶. 成果彼岸. 大化二年︵丙午之歳︶︵構立此橋︶︵済度人畜︶. 却回徴善. ︵法界衆生︶︵普同此願︶︵夢裏空中︶︵導其昔縁︶. この断碑は山城国宇治常光寺から出土したもので︑原型の三分の一にあたり︑残りの三分の二はまだ発見されて. いない︒寛政三年四月二条城城番の幕吏によってはじめて断碑であることが明かになったといわれている︵古京. 46フ.
(21) 21. 遺文︶︒. 人畜の往来のはげしい宇治川に架橋したのは︑道登という僧侶であった︒この碑はこの道登の遺徳を偲んで建て. られたものである︒道登は﹁日本霊異記﹂︵上巻︶﹁人畜所履騒霞救収示霊表而現報縁第十二﹂にも載っている﹄山. 背の恵満の家の出で︑高麗の学生であり︑元興寺の沙門である︒﹁扶桑略記﹂にも道登が大化二年丙午之歳︵二二〇. 六︶に橋を造ったとつたえている︒宇治川は急流で渡舟の設備があったことは万葉集巻七にも﹁氏河乎船令渡呼跡. 難喚不所聞有之撤音毛不為﹂︑﹁氏河歯与秤滞無之阿自呂人舟召音越乞所聞﹂と詠まれているごとくである︒ここの架. 橋がこの地方の生活全体に与えた影響は大きかったとおもわれる︒この橋の碑が造られたのが大化二年直後であっ. たか︑廷暦十七年再建の頃か︑それともその中間か︑あるいはずっと後代であるかは明かにしがたい︒古代日本の. 金石文は造像銘がほとんどを占めている中で︑この字治橋断碑は当時の庶民の生活と直結する架橋工事であったと. いう点に注目したい︒この遣登の事業はたんに造像造塔にとどまらずこのような作業のいとなみとなっている点︑. ﹁像法﹂の意味はけっして狭く解釈してはならないのである︒このほかに河川の堤防工事︑溜池︑池沼の放水の土. 木事業も含まれるのである︒とくに本碑の四言二四句は文学的にもすぐれているが︑大願を発して人畜を済度すべ. くこの橋を因とLて﹁成果彼岸﹂の行為は︑そのまま仏典による﹁到彼岸﹂︵無上菩提に至る︶ものとしているので. ある︒役小角が山に道を拓くとか︑行基菩薩が溜池を掘襲したとかの事業も︑いずれも造像造塔とたらぶ仏国成就. 薬師寺の創建と仏足石碑. を目ざす﹁像法﹂行為であったと考えられる︒. ホ. 天武天皇のときに発願された薬師寺は飛鳥浄御原宮の西北部に位置して建立された︒橿原市木殿にあり︑元薬寺. と呼ぶ︒そののち平城京に移るとともに︑西ノ京にある現在の薬師寺に移建された︒この場合旧薬師寺の遺構をそ. 466.
(22) 22. のままうつしたか︑改築したか︑東塔は新造とみるかは︑建築史学者の見解︑学説の分れるところで現在定説はな. い︒とにかくここでばつぎの﹁薬師寺東塔擦銘﹂に見るように︑天武天皇が中宮︵後の持統女帝︶の不愈を憂い建. 立しようとした薬師寺がかえって天武天皇がにわかに崩御されたために︑その遺詔を嗣いでおこなう造塔造像の事. 業となったことに注目するにとどめたい︒持統女帝十一年七月に﹁公卿百寮︑設開仏眼︑会於薬師寺﹂とあり︑薬 師寺で仏開眼の供養が記録されている︒ ﹁薬師寺東塔擦銘﹂はつぎのごとくである︒. 窺々蕩々薬師如来大発誓願広運慈哀猜狽聖王仰延真助髪錺霊宇痒厳調御亭々宝剰寂々法城福崇億劫慶渥万齢 薬師寺仏足石碑 釈迦牟尼仏跡図. 案西域伝云今摩掲随国音阿育王方精舎中有一大石有仏跡︑各長一尺八寸広六寸輸相花文帯相各異︑是仏欲浬築北. 趣拘戸南望王域足所蹟処近為金耳国商迦王不信正法︑段壊仏跡襲已還生文相如故︑叉拾於河中︑尋復本処今現図写. 所在流布観仏三昧経若人見仏足跡内心敬重先量衆罪由共而滅今口倶口非有幸之所致乎︒叉北印度烏伎那国東北二百. 六十里入大山有竜泉河源︑春夏含凍農夕飛雪有暴悪竜常雨水災如来往化令金剛神以杵撃山崖暴竜出伏帰依於仏恐悪. 起斎跡示之於泉南丈石上現其跡随心浅深量有長短今立慈国城北四十里在仏堂中玉石之上亦有仏跡斎日放光道俗至時. 同住慶修観仏三昧経仏在世時若有衆生見仏行者及見千輻輸相即除千劫極重悪罪仏去世後想仏行老︑亦除千劫極重悪. 業難不想行見仏跡者見像行者歩歩之中亦除千劫極重悪業観如来足下平満不容一毛足下千輻輸相穀鯛具足魚鱗相次金 剛杵相足痕亦有梵王頂相衆象虫之相不遇諸悪是為休祥︒. 465.
(23) 知識家口男女大小 三国真人浄足. この銘は仏足石の側面に陰刻されており︑上面にはいうまでもなく仏足が彫られている︒年月久しく閲している. ために︑読みがたい字や石面の欠損部分もあって未だに確定しがたいところもある︒西域伝に伝える摩掲陀国の阿. 育王の精舎の仏足石︑抱戸の仏足石をqべ︑現図のもとになるものは︑観仏三昧経にもとづく新たな仏足石であ. る︒観仏三昧経を惨し︑仏行を見︑千輻輸相を見る老は千劫の極重悪罪が消減すること︑仏足跡を見る後世像行の. ものも同じく除かれることがのべられている︒さらに石の左側面につぎのごとき仏足跡彫刻の由緒をしるす銘があ る︒. 大唐使人王玄策向天竺磨 掲陀国中転法輸処因見 跡得転写搭是第一本 日本便人黄書本実向. 夫唐国於善光寺得 転 写搭是第二本此本在. 右京西条一坊禅院向禅. 院壇披見神跡敬転 写 搭是第三本従天平 勝. 464.
(24) 24. 宝五年歳次癸巳七月十五日尽 廿七日井一十三箇日作口檀 主従三位智奴王以天平勝 宝四年歳次壬辰九月七目. 改王写成文室真人智奴 画師越田安万書写. □石手□□口呂人足 □仕奉□□□人 三国真人浄足. 至心発願為. 亡夫人従四位下 茨田郡王法 名良式敬写. 釈迦如来神 跡伏願夫人. 之霊駕遊. 人元勝之妙邦. 463.
(25) 25. 受ロロロロ之 聖口永脱有. 漏高証元為同. 霜三界共契一真 諸行無常 諸法元我 浬繋寂静 フムヤノ守ピトチ 罧. この仏足石の施主は従三位文室真人智努である︒続日本紀によれば︑智努は﹁養老元年正月授無位智努王従四位. 下︑天平勝宝四年八月従三位︑智努王等賜文室真人姓⁝⁝宝亀元年丁酉従二位文室真浄三莞︑一品長親王之子也︑. 歴職内外︑至大麹言年老致仕退居私弟︑臨終遺教薄葬︑不受鼓吹︑諸子導奉︑当代称之﹂︒万葉集巻に︑﹁天地与久. 万氏ホ万代ホ都可倍麻都良牟黒酒白酒乎﹂の倭歌がある︒この真人浄三︵智努︶は︑先立たれた夫人甲撮趾鵜ホ葺法名. 良式︵従四位下︶の追善供養のために天平勝宝四年九月七日から画師越田安万とともに平城京右京四条坊禅院にあ. る仏足石を転写し︑︵あるいは安万に命じて写させ︶翌五年七月十五日完成させたとのべている︒ キプミノモ︸⁝. 唐の長安の普光寺に仏足石がある︒これは天竺に使いした王玄策が磨掲陶国の釈迦の遺杜から写したものといわ. れる︒この普光寺の仏足石を使者として唐に赴いた黄書本実が写しとって帰国した︒これはさきにのべた右京四条 坊禅院にあり︑さらに転写して造立したのが文室真人智努のこの仏足石となる︒. 王玄策は旧唐書によれば︑貞観二十二年天竺に使したと伝え︑新唐書によれば太宗︑高宗と二度にわたって天竺. 462.
(26) 26. に赴き︑摩詞菩提祠に碑を立てたと記されている︒黄書本実は︑姓氏録によれば高麗帰化の人久斯那であり︑日本. 紀によれば︑﹁天智天皇十年三月黄書本実献水泉﹂︑﹁天武天皇十二年︑黄文造等三十八氏賜姓日連﹂︑﹁持統天皇八. 年以黄書違本実等拝鋳銭司﹂︑続日本紀によれば︑﹁大宝二年十二月︑太上皇崩以黄文連本実為作残宮司﹂とあるよ うに︑諸種の技術に長じ︑朝廷に仕えた一族であったらLい︒. 五 仏足石歌における像法讃嘆. 仏足石とその銘文とならんでいるいわゆる仏足石歌がある︒わずか十七首しか残っていないけれど古代の万葉集︑. 紀記歌謡の中で仏足石歌体として独特なものであり︑奈良朝時代の仏教の感情内容を知る上でも重要性をもってい. 毛呂比止乃多米ホ. る︒この仏足石歌の倭風の表現からは今までのいかなる漢文風の銘文よりも血肉化した目本人自身の仏教思想︑と. 一十七首. 伊志乃比鼻伎波 阿米ホ伊多利. 都知佐閑由須礼知々波々賀多米赤. くに造像造塔への情熱をうかがうことができるからである︒. 恭仏跡 美阿止都久留. ﹁美阿止﹂︵御跡︶とは仏足跡のことであり︑これを彫る ﹁伊志乃比鼻伎﹂︵石の響き︶ が天地に鳴りひびく︒こ. のひびきは父母衆生に対して報恩の行為となる意である︒. 461.
(27) η. 弥蘇知阿麻利. ﹁弥蘇知阿麻利. 布多都乃加多知. 夜蘇久佐等. 曾太礼留比止乃. 布美志阿止止. 已呂. 麻礼ホ母阿留可毛. 布多都乃加多知﹂は心地観経観仏三昧経などでいう﹁三十二相﹂で︑﹁夜蘇久佐﹂︵八十種好︶と. 麻佐米赤美那牟. 美阿止須良乎. 和礼波衣美須亘 伊波休恵利都久 多麻亦恵利都久. ともに仏如来の特徴をなすもので︑これを具足する釈迦の足跡を尊きかなと讃嘆した歌である︒. 与伎比止乃. ﹁与伎比止﹂︵よき人︶は仏菩薩を意味し︑阿弥陀経﹁諸上善人倶会一所﹂の語がある︒仏菩薩たちは釈迦の教え. 波奈知伊太志. 毛呂毛呂須久比. 和多志多麻波奈. 須久比多麻波奈. を直接きくことができたであろうが︑その足跡さえ見ることもできぬわたしは︑せめても磐石に仏足跡を彫りつげ. 夜与呂豆比賀利乎. て仏を偲ぶのである︒. 己乃美阿止. ﹁夜与呂豆比賀利﹂は八万の光明を放つことで︑観仏三味経に﹁仏︑足下ノ千輸相中出大光明︑足践毛孔中有八万. 比止ホ伊麻世可. 伊波乃宇閑乎. 都知止布美奈志. 阿止乃郡留良牟. 多布刀久毛阿留可. 四千蓮華﹂とあるように︑この仏足跡から八万の光明を放って衆生を済度したまえかしと願じた歌である︒. 伊可奈留夜. 460.
(28) 28. 多太ホ阿布麻亘ホ. 麻佐示阿布麻亘ホ. 仏ばいかなる貴き人であるのか︒この盤石をやわらかい泥土を踏むかのように踏んで足跡をのこし給うていると いう意である︒. 麻須良乎乃 須々美佐岐多知 布売留阿止乎 美都々志乃波牟. ﹁麻須良乎﹂︵ますらお︶は如来十号の一つ調御丈夫にもとづいて日本語にあてはめて用いたもので︑元来勇士︑. 伊麻毛乃已礼利. 美都々志乃覇止. 奈賀久志乃覇止. 貴人を意味する︒仏が先立って開いた真実の歩みをこの足石に見たがら信敬しよう︒直に会って浄土に往生するま での意である︒. 麻須良乎乃 布美於那留阿止波 伊波乃宇閑ホ. 前歌とほぽ同じ発想をもつ作品であり︑類例が多くたるのは︑唱和的な性格があるからである︒. 多豆彌毛止米旦. 伊麻須久亦々波 和礼毛麻胃且牟 毛呂毛呂乎為亘. 已乃美阿止乎. 伊麻須久休﹂︵善キ人ノ在マス国︶はいうまでもなく仏の住む極楽浄土である︒多くの衆生ととも. 与伎比止乃. ﹁与伎比止乃. に仏法の道を求める意室詠みこんでいる︒. 459.
(29) 29. 舎加乃美阿止. 伊波ホ宇都志於伎. 宇都利佐留止毛. 宇夜麻比亘. 止己止婆ホ. 乃知乃保止気ホ. 由豆利麻都良牟. 佐々義麻宇佐牟. 佐乃己利伊麻世 乃知乃与乃多米 麻多乃与乃□口. ﹁乃知乃保止気﹂︵後ノ仏︶は釈迦入減後に衆生済度のため下生する弥勒菩薩である︒. 己礼乃与波. ﹁佐乃己利伊麻世﹂︵栄残り坐せ︶は︑栄えて在りませの意︒現世は変化推移してゆくげれど︑この仏足跡はいつ. 麻為多利且. 麻佐米ホ弥那牟 一阿正乃止毛志囲一宇礼志久毛阿留可. までも変ることなく存続してほしいという想いを詠んだ歌である︒このあとに﹁麻須良乎能 美阿田一﹂の一首が彫. 阿都伎止毛加羅. られているが欠損して読みがたい︒. 佐伎波比乃. 和我与波乎閏牟. 多布止可理家利. 字夜麻比麻都利. 伊麻乃久須理師. 己乃与波乎閑牟. コ固止乃止毛志一固﹂︵跡のともしさ︶は︑印度に仏蹟をたずねた王玄束のような人を指す︒しかも元の仏足石を写. 麻良比止乃. 由伎米具利. したこの石は貴きものであり︑見ることを得てうれしいという意味である︒. 都彌乃母阿礼等. 舎加乃美阿止 伊波ホ宇都志於伎. 久須理師波. 458.
(30) 30. 甲ラヒ︸. クス︐ツ. ﹁久須理師﹂︵くすりし︶は︑呪術をかねた医師で︑大已貴︑少彦名などの日本古来の医術薬法の神々をここでは. 指す︒﹁麻良比止﹂︵賓客︶は外国から来た新しい今来の薬師である仏をさす︒﹁仏為医王﹂︵法華経︶のごとく︑仏. 教は宗教思想︑哲学的思索だけではなく︑医学︑天文学︑諸種の生活技術を包含する仏教文化を伝搬Lた︒この仏. 足石歌碑は︑元来興福寺のものであったが︑奈良の町はずれの小川の橋に架げていた︒古梅園の松井元景が発見し︑. 多麻乃与曾保比. 知与乃都美佐闇. 於母保由留可母. 保呂夫止曾伊布 乃曾久止叙伎久. ︵玉の装ほひ︶玉の如く尊き釈迦の姿が目に見るごとく偲ばれ. 美留期止毛阿留可. 薬師のこの歌から薬師寺の仏足石と関係ありと想像して同時におさめたという︒拾遺和歌集にはこの仏足石歌第二. 阿止奴志乃. 伊ホ志加多. は仏で︑﹁多麻乃与曾保比﹂. 麻婆利麻都礼婆. 首をあげ︑光明皇后の御作としているが︑ここではにわかに確定しがたい︒. 己乃美阿止乎. ﹁阿止奴志﹂︵足跡主︶. 美ホ久留比止乃. るという意である︒. 於保美阿止乎. すでにあげておいた仏足石の銘文の中にこの千輻輸相を見る老は︑ 千劫極重悪罪業を消除するとのべたことがら をここで歌として詠んでいる︒. 呵噴生死. 457.
(31) 31. 比止乃徴波. ﹁比止乃徴波. 衣賀多久阿礼婆. 乃利乃多能. 衣賀多久阿礼婆﹂︵人の身は. 伊都 々 乃 毛 乃 々. 阿都麻礼流. 与須加止奈礼利. 都止米毛呂毛呂. 伊止比須都閑志. 須々売毛呂母呂. 波奈礼須都倍志. 得がたくあれば︶は︑経奥にいう﹁人身難遇﹂をいう︒人間として. 伎多奈伎徴乎婆. 生れ得たことをよすがとして仏法に努めはげめと同行にすすめた歌である︒. 与都乃閑美. 已礼乃徴波. 志ホ乃於保岐美. 都爾ホ多具覇利. 於豆閑可良受夜. もの ﹁与都乃閑美﹂︵四つの蛇︶︑﹁伊都々乃毛乃々﹂︵五つの鬼の︶は四大五麓よりなる罪業と汚稜の身をすてて︑仏法. 比加利乃期止岐. の清浄の道をつとめ歩めよという意である︒. 伊加豆知乃 L匡. ﹁志赤乃於保岐美﹂︵死の大王︶は正法念経の中で﹁死王呑衆生﹂︑浬築経﹁死王不免﹂等による︒﹁呵噴生死﹂と. ロロロロ比多留. ロロ乃多赤. 久須理師毛止牟. 与伎比止毛止牟. 佐麻佐牟我多米ホ. 題するごとく︑一瞬の閃光のごときこの身の無常を観ずることの急務を説いている︒. □都口□ロ. この最後の歌は下段末行の石が欠損剥落しており︑野呂元丈﹁仏足石碑丼図﹂には﹁字体自異疑後所補也﹂との. 456.
(32) 32. べているが︑彫る岩の面により字体を小さくしたもので後補ではないとおもわれる︒欠落の個所は﹁仏足石歌詳解﹂. の中で︺田都閻一願一四一畠困一困一畠比多留田一一岨多亦Lと補っているのがもっとも妥当な解とおもわれる︒歌意は今ま. での作品とほとんど同じである︒. この二十一首︵文字不明二首︶は︑万葉集︑古事記︑目本書紀︑旧事記などに全然記載されておらず︑また歌体. も仏足石歌体として全く独自なものである︒とくに仏徳讃嘆の唱和の詠風は︑結句二句によくあらわれている︒今. まで掲げてきた多くの仏像の造像銘と比べても︑歌詠としての人間︵信仰老︶の感情︑精神の表白の内容がより深. く具体的に表われている︒とくに仏足跡にたいする熱烈な讃仰は︑奈良朝の全般の造像造塔の運動の真撃で力強い. 素朴な宗教性を感ぜしめる︒万葉︑記紀の中でこれに比すべき作品は存在しない︒おそらく︑仏法を信ずるに篤い. 文室真人浄三か︑その追慕をなす人々の手によるものであろう︒光明皇后の作とするは︑拾遺集によるけれど︑拾. 遺集がすでに伝説化したこの歌をそのまま取り上げたもので信拠するに足らない︒これらの歌は歌才に長じた人で. はないが︑仏法を信ずるに篤い人が素朴にひたむきに詠んだためにかえって熱情がこもった詠風となったもので︑. 目本霊異記における造像経典の意義. 独特 の 歌 と し て 前 後 に 比 を 見 な い ︒. 六. ﹁日本霊異記﹂は薬師寺の沙門景戒が中国の冥報記︑般若験記などの影響︑刺戟からわが国にも仏教の霊験乏し. からずとして仏教の霊験説話︑民間伝承︑史実中の話などを集成したものと伝えられる︒. ﹁信敬三宝得現報縁第五﹂︑﹁愚念観音菩薩得現報縁第六﹂︑﹁購亀命放生得現報亀所助縁第七﹂︑﹁僧憶持心経得現報. 455.
(33) 33. 示奇事縁第十四L︑﹁遭兵災信敬観音菩薩像得現報縁第十七﹂︑﹁憶持法花経得現報示奇異表縁第十八﹂︒これらは上巻. に収められている説話であるが︑いずれも﹁現報ヲ得ルノ縁﹂とたっている︒現報は直接の利益を得ることのよう. にいわれるが︑庶民一般の信仰は︑現実に働きかけられるその強い現実性に霊験の確かさをみたのである︒霊異記. の恩索の浅さは批判されるであろうが︑当時の民間に発揮されつつある仏教の働きの多様た側面を知る好個な資料 である︒. ﹁現報﹂としての説話の中には︑つぎのようなものもある︒. ﹁現義覚者本百済人也︑其目破時当後岡本宮御宇天皇之代︑入我□﹈︑住難破百済寺桑︑法師身長七尺︑広学仏教︑. 念諦心般経︑時有同寺僧慧義独以夜半出行︑因見室中光明耀僧乃怪之羅穿煽紙窺看法師端坐講経︑光従口出僧以驚. 陳明日悔過用告大衆時覚法師語弟子言一夕謂心経︑一百遍許︑状後開目観︑共室裏四壁穿通庭中顕見吾於是生希有. 之想従室而出廻膳院内還来見室壁戸皆閉即外後講心経開通如前即是心波若経不思議也︑賛日︑大哉釈子多聞弘教閉 居諦経心廓融達現所玄寂焉為動揺室壁開通光明顕輝﹂. 点ガラカ一一出ヨ. これは応報講ではなく︑﹁般若心経﹂読諦百遍の中に︑室中光明照耀し︑義覚の中より光を出すを見たというこ. とで︑価値高く︑趣深き心経なることを讃えたものである︒﹁現ズル所玄寂﹂︑﹁心廓融ヒ達ル﹂と賛嘆してる︒こ. の場合︑心経の修証の精神的深まりや心解といった事柄ではなく︑心経の読謂そのものが働きかける人格的な神呪 の力である︒. つぎの説話は観音信仰の一つである︒. 454.
(34) 34. ﹁・⁝:心念観音︑即時老翁乗舟迎来︑同裁共渡渡寛之後従舟下道老公不見︑其舟忽失乃疑観音応化也︑便発誓願造 像恭 敬 ⁝ ⁝ ﹂ ︵ 上 巻 第 六 ︶ ︒. 行善という老僧が︑推古帝の御代︑高麗に仏教を学びに赴いた︒唐によって高麗は破れ︑戦乱の中を行善は各地. をさまよい歩いた︒その時︑ある河の橋は破壌され︑渡ることもできずにいると︑一人の老人があらわれ︑舟に乗. せて向岸に渡らせ︑渡りおえると︑老人も舟も忽ちかき消えた︒行善はこれぞ観音の応化であると信じ︑誓願をお. こし︑象を造り恭敬し︑無事唐に赴いて日夜︑帰敬した︒養老二年︑目本に帰り興福寺に住み︑世を去るまでその 像を供養したと伝えている︒. 行善老僧は一つの信仰体験をこのように説き伝えている︒ある意味ではこのような難に出合ったときの観音の働. きはすでに観音経に説かれているのである︒ここで留意すべきは観音を心に念じ︑観音の応化を感じ︑しかも︑こ. 霧載松木以為一兎. 奉請其像 安置舟上 各立誓願念彼観音. れを仏像に造って恭敬したという点である︒すでにのべた仏造像の行為は念仏行や結伽扶坐と同じほどに︑重要な 意義 を も っ て い た 行 の 一 つ で あ る ︒. 八人同心. 第十七話の﹁遭兵災信敬観音菩薩像得現報縁﹂も同じである︒. 直来筑紫. 我八人同住洲簾得観音菩薩像信敬尊重 嚢随西風. 453.
(35) 35. 伊豫の越智直は百済救援の出兵に加わり︑戦敗れて唐軍にとらわれ︑唐国につれてゆかれた︒残った八人は心を. 一つにして観音菩薩の像を得て信敬尊重し︑やがて松で舟をつくり︑これに像を講じ︑安置して誓願を立てて観音. を念じ︑西風にのって筑紫にたどりつくことができた︒天皇のゆるしを得て︑この像のために郡に寺をたて︑子々 孫々相続して帰敬した︒﹁蓋シ是レ観音ノカ︑信心ノ至リナリ﹂とのべている︒. ここで注目すべきは︑前掲の説話と同じように苦難災厄にある衆生に﹁無畏﹂の慈悲を示す観音経の済度の経文 がここで実証され︑体験されていることである︒. つぎに注目すべき点は︑霊異記でも造像の行為が最大限に﹁信心の至り﹂として称揚されている︒古代信仰︵古. 神道︶においては︑神カの﹁より代﹂はあったげれども︑神友を像として刻んだり鋳たりする造型は認められてい. なかった︒神々を鎮めるために︑いかに苦心Lているかは︑﹁倭姫命世紀﹂によっても明かである︒神の荒魂を鎮. め︑和魂と在すこと︑神の鎮めは︑同時にその地方を鎮めることにつながっていった︒仏の造像は無条件で積極的. であり︑少くとも﹁日本霊異記﹂には︑観音菩薩の信仰は︑そのまま観音像への信仰につながっていた︒つぎの説 話も同じである︒. 作観音木像. 患葱経之数年⁝⁝山継脱殺全命之者︑観音助救也︑故於己作善功徳︑発信至心︑. ﹁被観音木像之助脱王難縁第七﹂. 彼妻為今脱賊難. 即大歓喜︑被助脱災故. 武蔵多摩の郡︑小河の郷の夫真山継は︑夷地の毛人討伐にも加わったが︑妻のつくった仏像によって無事国に帰. 452.
(36) 36. るを得た︒その後︑恵美押勝の乱に巻きこまれ︑とらわれて十三人の者とともに斬罪にあい︑つぎつぎと処刑され. ているとき︑勅使馳せ来って︑信濃流罪に変更された︒その後さらにゆるされ︑官に復されて郷に帰ることができ. た︒これは観音の力であり︑﹁己ノ作善ノ功徳﹂であるとし︑﹁信ヲ発シ心ヲ至シテ﹂大いに供養したと伝える︒. ﹁中巻観音銅像及鷺形示奇表縁第十七﹂も同じである︒観音像が盗まれたが︑池にいる鷺によって像を発見する︒. 哀突敬礼. 発誓璽言. 唯聖霊示. 更不応疑也﹂︵未作畢仏. 請有縁処 勧人集物 離造阿弥陀仏弥勒 何而出声. 我必奉造 木是元心. 有因縁故遇. 今居置吉野郡越部村之国堂也. 第十六︶. 既詑. 引置浄処. 鷺を観音の変化とみることは︑﹁をなり神﹂を信じていた古代の人々にとってけっして奇異な思考ではなかった︒. ﹁禅師大恐 仏観音菩薩等像. 芋. 像而棄木示異霊表縁 ム. 上総武射の人︑俗姓下毛野朝臣といわれた禅師広達は︑吉野金峰山に入り︑樹下を読経しながら歩き仏道をっと. めていた︒ある山里の橋を渡ろうとすると︑﹁鳴呼︑療ク瞼ムコト莫カレ﹂という声がする︒あやしんでみても周囲. には人がいない︒よく橋を見るとそれはまだ仏像を造ろうとして造り了わらぬままで棄てた木であった︒広達はお ナ それうやまって︑その木を引き移し︑﹁哀レビ突キ敬礼シ︑誓願ヲ起シテ︑因縁有ルガ故二遇ヘリ︑我必ズ造リ奉. ラム﹂と願を発Lた︒その後︑阿弥陀仏︑弥勤仏︑観音菩薩を彫りおえたと伝える︒﹁木ハ是レ心無シ︑イカニシ テ声ヲ出サム︑唯聖霊ノ示ストコロ︑更二疑フベカラズ﹂と碩している︒. これと反対に仏像を粗略にしたために︑悪死をうけた︵下巻第二十九︶とか︑寺塔の階をへらしたり︑瞳幡を什 して悪報を得た︵下巻第三十六︶など枚挙にいとまないほど説話をあげている︒. そのほかに︑昔からの民間説話や日本書紀などの史実の一端をも例証として引いている︒. 451.
(37) 歌. 向薬師仏像. 願眼而日. 非惜我命一. 惜我子命. つぎの信仰説話は薬師仏に盲女が帰敬して︑開眼したものである︒. ﹁使子控手 迄子其堂 盲女人帰敬薬師仏木像以現得明眼第十一︶. 一旦已二人之命也. 願我賜眼﹂︵二目. 奈良の都︑蓼原堂の薬師如来の木像に︑七歳の女の子をもつ盲目のやもめが祈願Lた︒極貧でまさに飢えて死の. うとしている︒﹁宿業ノ招ク所ニシテ唯現報ノミニハ非ジ︑徒ラニ空シク飢工死ナムヨリハ︑シカジ︑善ヲ行ヒ念. ゼムニハ﹂とおもい︑子の手を引いて堂に赴き︑﹁我ガ命一ツヲ惜シムニ非ズ︑我ガ子ノ命ヲ惜シムナリ︑一旦二. 二人ノ命ヲ亡サム︑願ハクハ我二眼ヲ賜へ﹂と念じ︑二日遇ぎると眼が開いたという︒これはあまりにも素朴単純. な信仰説話ではあるが︑古代民問信仰に交って︑仏や仏像がどのような功徳の力を示すかは︑仏教の民間に働きか ける濠透度を示しているといえないことはない︒. 仏像につづいて︑経典経文類の説話が多い︒. ﹁誠ノ心ヲ至シテ法華経ヲ写シ奉リ︑験有リテ異事ヲ示ス縁第六中巻﹂によれぱ︑聖武天皇の代に︑山背相楽の. 人が発願して法華経を写経し︑これを納める箱として白檀︑紫檀でつくらせたが︑経典は長く箱が短く入れること. ができなかった︒そこで誓願をおこし︑経典の示すごとく衆僧を請じて二十一日悔過し︑精進して経を納めると箱. がのび経がちぢまったのであろうか︒ぴたり納まったと伝える︒頚して日く︑﹁誠二知ル︑大乗不思議ノカヲ示シ︑. 願主至深ノ信心ヲ試ミタルコト︑更二疑フベカラズ﹂と︒写経︑造像が霊異記では大きな説話の群をなしている︒. 応報講は民間説話をとり入れてさまざまに語られているけれども︑造像︑写経はこの古代仏教受容には著るしく一. 450.
(38) 38. 般の民心に影響感化を及ぼしていることに注目したい︒それは庶民だげではない︑むしろ朝廷においては一層壮ん. であったことは︑天武帝御不豫に際しおこなわれたかずかずの祈願のことの中でつぎの一例でも明かである︒. ﹁是月講王臣等︑為天皇︑造観世音像︑則説観世音経於大官大寺︒八月己巳朔︑為天皇度八十僧︒庚午︑度僧尼井. 一百︒因以︑坐百菩薩於宮中︑読観世音経二百巻﹂︵日本書紀巻第二十九天武天皇下︶︒. 造像︑写経による仏教の受容は︑多面的であり︑それ自体で一つの信仰の情熱をもっていたことが知られる︒つ. ぎの﹁仏足石歌﹂も造像の一つと見られるが︑直接釈迦に遇いがたい時代と場所に生れたことが︑かかるものを壮. んならしめたし︑かかる見解思考をもって仏教に接し近づいていったと見られるものである︒. ﹁妻為死夫建願図絵像有験不焼火示異表縁第皿川三﹂︒河内石川の郡八多寺のほとりに賢い女がいた︒死のうとして. いる夫のために阿弥陀像を造ろうとおもったが︑貧しさのゆえ遂げず︑ようやく絵師の謝礼をつくって画師に依頼. した︒﹁親載供養霊︑情泣悼﹂︵親ヲ載メテ霊二供養シ︑情︵ココロ︶二泣キ悼シブ︶︒画師もその志をあわれに感. じ︑うつくしく画き上げ画像の法会をおこなったという︒のちにこの寺に盗賊がはいり︑放火したために堂は焼げ. 落ちた︒ところがこの仏のみひとり無事であった︒これは今昔物語でも引用しているように︑賢き女の心をこめた. 願をあわれみ﹁霊験ヲ施シ給フ也ケリ﹂と考えられ︑秋には賢女は亡夫の追善法事をして仏恩を謝したという︒こ. のような寺院堂宇が焼失しても仏の絵像がのこったことに︑信仰の感応をみたという素朴な説話である︒この当時. は信仰と造象は分離しては考えられず︑経典は信仰そのものであった︒経典が信心とは別のものと見るようになる のは︑ずっと後代の こ と で あ る ︒. ﹁口知識為四恩作絵仏像有験示奇表縁第五﹂も同じである︒河内の国若江郡遊宜︵弓削︶の里にさる若い尼がおり︑. 449.
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