1.はじめに
何か「会社」の社会科学をやれと言われて いるような気がする。結局やるけれども,も うちょっと優雅な話をしようかと思っている。
学問にも,少しゆとりが必要なのである。何 が言いたいかというと,「会社」という言葉 の,横文字で気取って言うとエチモロジー,
semantic historyというようなことをやろう という話である。
主催者に対する義理立てもあるから,多少 事前に構成を考えてきた。いきなり目次を 言ってしまう。大きく言うと序論と本論と補 足なのだが,序論が三つぐらいに分かれる。
一つはモチーフ。私がこれをやることになっ たモチーフはどういうことか。二つ目が,研 究史で,これは法律家に対するサービスだか ら,法制史的な領域での研究史の話を少しす る。それから,三つ目が今使われている意味 の言葉としての「会社」となる。そこまでで かなり話の筋はわかると思う。そこから後が 本論になるけれども,本論の前段は歴史的な シェーマで,これはわりと短くて2〜3分で 済む。話はでかいけれども,ここでは図柄が わかれば良い。恐らく,それで若干時間が余 ると思う。余ったら,そこから先は,今の歴 史的なシェーマは段階的な話になっているか ら,第1段階,第2段階と,順にやってみる。
古い方が優雅な話で面白い。新しくなればな
るほど社会科学になる。おそらく時間切れで,
7段目ぐらいのうちの3段目ぐらいでおしま いになるだろうと思う。だから,社会科学の 方は,その限りでは余り触れずに済む。ただ,
後でご質問が出たら対応する。お手元に私の
『会社という言葉』(大東文化大学経営研究所 研究叢書 20 < 2001 年 11 月>)があるはずだ。
文献名はこの本の巻末の一覧で見てほしい。
2.序 論
¸
モチーフということで,序論の一部。私はもともと こんなことをやる人間じゃない。やろうとも 思ってもいなかったし,やる素養もない。
「会社」という言葉のエチモロジーをやると いったら,一番やらなければいけないのは多 分経済史家か経営史家である。その経済史家 か経営史家が意外に無学で,幾つか論文を当 たってみたこともあるけれども,良いところ 明治4年の渋澤あたりの文章を挙げるだけで,
その辺で止まってしまう。それが一群。
二群目が法制史家である。法制史家がやっ てないのはけしからんと思っているが,ある いは私が知らずにいる研究があるのかもしれ ない。読んだ範囲で言うと,とことん詰めた のはほとんどない。ただ,経済史家の認識よ りは法制史家の認識の方が良い所がある。と いっても今の法制史家じゃない。穂積陳重が,
今の経済史家よりましだというだけなのだが,
不思議なことに穂積の文章を皆さん,余り引 用してない。私が気の付いた範囲では野田良
「会社という言葉」について
馬場宏二
** 大東文化大学教授,東京大学名誉教授
講演記録
之さんだけだった。
あと残るとすれば,国語史家というか国語 学者である。これは本をまとめるギリギリに なって,人に教わって,あるのに気がついて 拾ってみたが,これは非常にやることが薄っ ぺらくて駄目だった。「会社」なら,「何年の 本にありますよ。」ということしか書いてな い。それは後で出てくるが,当然にこれはオ ランダ語の翻訳なんだけれども,蘭書の何と いう本の翻訳だということが殆ど書いてない。
蘭書のどういう単語,オランダ語のどういう 単語が「会社」になったかなんてことはま るっきりわからない。
会社という言葉のエチモロジーを誰もまと もにやってくれてはいなかった。しようがな いから自分でやってしまった。だけど,それ はいわばネガティブなきっかけで,一番大き なきっかけは今の大学へ行って,あろうこと か,経営学部なんていう所に投げ込まれた。
そこで,慣例でお前が軸になって本を一冊作 れと言われた。論文集を出せと言われて,し ようがないから,社研にいた時の経験がある から,あのスタイルで研究会をやっていたが,
ギリギリこれで書きましょうと,その締めを やる段になって,2〜3人,来ないのが出て きた。あろうことか労務管理を書くやつが 落っこちた。日本的経営を書くのに労務管理 が抜けたら話にならない。それで,しようが ないから俺が書くかということになったが,
私は労務管理も労使関係も専門家じゃない。
一番面白いのはどこだろう,やれそうなのは どこだろうと考え,「社員」という言葉でや ると面白いのではないかと思った。これは皆 さんご存じのことと思うが,社員というのは,
本来は会社を作った方の人間,出資者である。
ところが,世の中で「社員」というのは,雇 われた人間の方を言う。これはどうしてこう なったのだという話なら結構やれそうな気が してきた。ちょうど良いぐあいに,今,埼玉 大学の学長をやっている兵藤
●
つとむ
さん,彼とは 時々研究会をやっていたものだから,やっこ
さんをつかまえて,「こういうのできるか」
と言ったら,「うん,『三菱社誌』を読めばで きるんじゃないか」と言うから,ああ,そう かと。それから始めて,ともかくその本の企 画はそれで間に合わせた。
ところが,そこから後,こっちが病みつき になってしまった。まるっきり素養もないし,
訓練もないのに,やってみたら,やたら面白 くてしようがない。それで,言わば連作みた いに6〜7本,論文を書いて,それをまとめ たのがこの本である。この本だけではちょっ と足りない所があったから,補説の論文を一 個書き足して,この二つは皆さんのお手元に 大体行くように楜澤さんにお預けしたと思う
(「補説『会社という言葉』」大東文化大学経 営論集5号 2002 年 8 月)。その二つを見ても らうと,実は私がしゃべることは余りないの だ が , そ れ で は 時 間 が も た な い か ら も う ちょっとやる。そこまでが序論の一である。
¹
研究史序論の二は研究史ということで,研究史を本 格的にやれば結構面白い。どこにどういう資 料があるかということまで含めてやると非常 に面白い。全部飛ばして一つだけ言っておく と , こ の 中 で 使 っ た 一 番 重 要 な 文 献 は ,
Nederlandsch Magazijn ,『オランダ雑誌』
である。幕府が保存しておいたやつがどこに あったのかというと,上野の国立博物館に あった。それを嗅ぎつけたものだから,借り に行った。
研究史をやり出すときりがないから,多少 サービスの意味もあって,私の知っている限 りでの法制史家の研究史を少しだけ話す。こ れは第3章の中にちょっと入れておいたと思 う。私がとっついたのは,実は利谷・水林論 文(利谷信義=水林彪「近代日本における会 社法の形成」高柳信一=藤田勇編『資本主義 の形成と展開3』東京大学出版会 1973 年)か らだった。今日は,水林さんはいるのか。
(水林:はい。)利谷さんはいない。挑発しよ うと思っているので,いた方がなお良いのだ
が。あれはかなり面白いし,良い論文だと 思って勉強したけれども,ところが語源が書 いてない。語源を書いて良いはずの論文に なっていながら書いてない。だから,僕はあ る時に利谷さんをつかまえて「何でお前,語 源をやらないんだ」と言ったら,あれは弱み だったらしく,こっちはそのつもりじゃな かったのだけれども,利谷さんは怒り出した。
何で怒ったのか,その時にはよくわからな かったのだけれども,あれは多分,向こうず ね蹴っ飛ばされた痛みだったのだろう。
それで,色々拾っているうちに,これは社 研の平石直昭さんが拾ってくれたのだが,私 が,その世代の人たちに,「『会社』の語源を 知らないか。」と言ったら,誰も知らなかっ た。だけど,広渡清吾さんも後で拾ってくれ たと思うが,平石さんがちょっと早かった。
「馬場さん,あれ,福澤だそうですよ」と。
平石さんは,ご存じのように福澤ファンで,
穂積の文章に「福澤」と書いてあるものだか ら,喜んで飛んで来て教えてくれた。読んで みたら,なるほど,ああそうかと。ところが,
面白いのは,穂積の文章は『続法窓夜話』の ものだが,あれに「会社」の記述がある。そ の中に,記憶の通りに言うと,「会社」とい う言葉は,福地,渋澤以来,非常に有名に なったけれども,しかし,これは最初の言葉 じゃない,語源じゃないと穂積は言っている。
その根拠は,福地『会社弁』の「小引」とい うと序文だが,あれの中に,「会社」という 言葉が,昔からcorporation,companyの適 訳として使われてきていると書いてある。福 地は『会社』が渋澤よりもっと前にあったと いうことを知っているわけである。穂積は,
それで何かないかと探していたら,偶然,福 澤の『西洋事情』にあることがわかったと書 いていた。ああそうかと。私もそれまで穂積 も読んだことがない。福澤も読んだこともな い。読んでみたら,なるほどそうだと,一応 わかった。穂積の考証というのはそれなりに はきちっとしていたと思う。他の同時代の文
章とも比較しながら,この本には書いてない,
この本には書いてあると,一応きちんとして いるが,二つ問題点がある。一つは穂積自身 の問題だが,最大の欠陥は,彼は「会社」と いう言葉をいきなり今日使っている営利企業,
つまり営利法人という意味で使ってしまった。
そういう風に理解した上で言葉を探し,福澤 に当たってみたら,「商人の会社」とあった。
しかし彼は,その「商人」の方を飛ばして読 んでいる。だから,福澤の『西洋事情』の初 編が最初ですよ,と穂積は決めてしまった。
それ以外の部分を恐らく読んでなかった。と ころが,『西洋事情』の他の部分を読むと,
「会社」という言葉は他にも何ヵ所か出てく る。「新聞を作る会社」とか,「病院を作る会 社」,これは慈善団体である。それから「学 校を作る会社」,「宗教の会社」というのも確 か出てくる。これは,むしろ有志の集団とい う意味の会社である。後で見るように,蘭学 者が作った「会社」の意味で,福澤はそれを 承知の上で使っている。そこでの見出しは
「商人の会社」だから営利企業,という使い 方だけれど,穂積はそこを読み落としたのだ ろうと思う。本当は福澤で止まっちゃいけな い。もっと遡ることになる。
それからもう一つは,その穂積を使った人 が殆どいない。どうしてなのかいまだによく わからない。もしアイディアがあったらお教 えいただきたいぐらいのものだが,私のあ たった範囲で,経済学畑で穂積を使った人は 一人もいない。法学畑では,利谷・水林論文 にも,確かなかった。それから,三枝さんも,
僕の記憶はちょっと曖昧だけれども,確か 使ってなかったと思う。一番変な気がしたの は福島正夫さんが使ってない。福島さんの,
後に利谷さんのまとめた『日本資本主義と法』
という本の中を見ても,あれはタイトルから いって「会社」が出て来なければおかしい。
実は,ある程度会社をいじっているが,あの 中に語源が出てこない。なぜ出てこないかと いうと,福島さんはどうしてなのかわからな
いが,『続法窓夜話』を一つも拾ってない。
正編の方の『法窓夜話』は何ヵ所か拾ってい る。続編の方は拾ってないので,語源の所に 関心が行ってない。法律家同士の交渉という のはこんなものかなという気がした。穂積は ちょっと古いからどうでも良いやと思ったの だけれども,実は後で引っかかって野田さん を見たら,野田さんは福島を拾ってない。こ れはどういうことか。偶然,穂積がいてくれ たおかげで,経済史家,経営史家よりは,法 制史家の方が少しましなことを言っているの だけれども,その穂積が不完全な上に,法制 史家の間でもあまり穂積というのは使われて いない。そこの所は,法律家を相手にして嫌 みを言う。それで序論の二つ目が終わり。
º
語 義序論の三つ目。現在使われている「会社」
という言葉。これには,ずばり三つある。辞 書にはせいぜい一つ半しか書いてない。一番 基本的な用法は,辞書によって書き方は少し 違うけれども,私は,経済学だから,経済学 の方で一番わかりやすい言い方をすれば,共 同出資の営利企業というのが一番わかりやす い。これが普通の使い方である。法律に引っ かけて言うと,「営利法人」と言うのだろう か。そっちの使い方を出している場合もある。
ちょっと大きな字引だと,それに合わせて
「法律によって会社の種類が色々あって」と あって,合名会社,合資会社,今だったら有 限会社,株式会社と四つある。昔の字引だと,
一つ入れ替わってきて,合名会社,合資会社,
株式合資会社,株式会社と四つになっている。
有限会社は有限会社法ができてから入ったの だと思う。それから株式合資会社は,戦後な くなってしまうから,戦後の字引にはない。
明治の字引だったら違う。「全部で,商法で 四つですよ。」という書き方になっている。
こっちの方が格好良いが。これはしようがな い。
それが,フォーマルな,建前語としての
「会社」,あるいは文書語としての「会社」。
これを「会社1」と言っておく。それだけか というと,そうじゃない。皆さん,すぐおわ かりだと思うけれども,日常会話で使う「会 社」というのがある。日本の字引というのは おかしなもので,私の見た字引にこれが出て きたことはない。どういう風に使っているか というと,強いて言えば,「雇い先,職場,
共同労働の場」となっている。会社員同士は 何と言っているかというと,同じ会社の会社 員同士だったら,「会社」というのは自分の 勤めている会社だろう。それから,他の会社 の人の場合には,これは両方の意味が出てく ると思うが,「あなたの会社」「おたくの会社」
「私の会社」「うちの会社」という言い方,つ まりその場合には,職場の性質が違うという 捕まえ方にもなるし,会社同士で取引すると いう意味があるから,その場合には,さっき 言ったフォーマルな会社で,文語としての会 社の意味になる場合もある。
もっと一般社会というか,家へ帰ってきた らどうなるかというと,奥さんが「宅は会社 に通っています。」というのは,「会社に雇わ れて働きに行っています。」という意味で,
「うちは,今日は会社休みなの。」とか「早番 で会社に行っちゃった。」とか,子供に「パ パ,どこに行ったの。」と聞くと,「パパ,会 社。」と言う。会社へ行って何をしているか,
子供は知らない。奥さんは給与をもらってく ることは知っているのだけれど,何をしてい るかと聞いたら,多分知らないと思う。それ はつまり,職場とか雇い先とかいう意味で,
実は行った先が共同出資の営利企業であるか どうか,本当はどっちでも良いことになって いる。しかし,民間企業だというぐらいの ニュアンス,限定性があるかもしれない。良 いところ,その程度だと思う。
ところが,この「会社」の使い方はやたら 広がっているから,相当広い意味で,ねじ曲 げたのを承知の上で使う場合もかなりある。
早い話が,今,新聞の投書欄で職業を書く時 があるが,多いのは会社員と公務員。要する
に,税金で給与をもらっている方を「公務員」
という。民間企業に行っているのを「会社員」
という。これが大部分で,あとは弁護士でご ざるの,大学教授でござるの,学生でござる のと。実は私の娘も地方公務員である。彼女 は,親父がこういうこと言っているから,そ れを承知の上,うちへ帰ってきて,「私の会 社ではね,」と,ニヤニヤ言う。「お役所」っ て逆に言いにくいところがあるようだ。彼女 ら同士がしゃべる時でも,殊に,第三者が聞 いている場合は「会社」と言う。わざと言う。
もうちょっと面白いのはお巡りさんだそうだ。
お巡りさんは,プライベートライフでは,自 分の勤め先を「会社」と言う。ご存じかもし れない。そういう風に警察が指導しているの かもしれない。
私は今,さいたま市に住んでいるのだけれ ども,かつては大宮市だった。大宮市という のはバカなお役所で,とんでもない道路計画 を持ってきて,しかもその道路が私の家の斜 め前を突っ切っている。区画整理で,お前の ところをこっちへ移すというので,バカ言う なと反対運動やって,結果的には今の所つぶ れているけれども,その時に組んだメンバー が面白い。かなりの会社の技師上がりの重役 さんとか,1級建築士で,後に建築会社を 作った若い人,そういうメンバーの中に税務 署に行っている人も一人いた。その中に一人 警視庁のお巡りさんがいた。性格的におもし ろいところがあるのだけれども,実にラジカ ルで,お巡りだから,道路のことよく知って いる。その彼が,市役所の職員と団交をやる。
彼は,もともとよく知っているのだけれども,
警視庁で仕入れてきた話をしゃべる。我々は 非常に助かる。市の職員に向かっては「うち の会社で聞いてきたことでは」と言う。とう とう最後にばれたが,どうもあれは「『会社』
と言え」と言われているきらいがある。渡辺 治さんもそうでないかと言っていた。
というわけで,「会社」は職場一般みたい になってしまった。行った先が営利企業でな
くてもなんでも。この話のオチが漫画。「天 才バカボン」というのがある。皆さんの世代 だと,子供の時読んだ人は結構いると思う。
「天才バカボン」というのはご承知のように,
主人公は,じつはバカボンのパパで,鉢巻き をしてステテコ履いて腹巻した短足のおじさ ん。普段ノラクラして悪いことばっかりして いるのだけれども,気紛れだから,普段働い てないのに,たまに仕事に行きたくなる。遊 び感覚で,ある建物の所へ行って「わしもま ぜてくれ。」と言う。建物に看板があるのだ が,こういうところをよく見ないといけない。
「カイシャかぶしきがいしゃ」と書いてある。
これは凄いことだと思う。うん,そうかと。
ここまでは「会社2」である。字引には出て こない。
他に,字引に出たり出なかったりする「会 社3」,これが語源である。「会社」というの は,漢字で「会」と「社」を重ねるから,か なりの人は漢語だと思うけれども,漢語じゃ ない。諸橋轍次氏の『大漢和辞典』を見れば わかる。あれに語源がないのは和製漢語であ る。「社会」には語源がある。「社会」は,
『荊楚歳時記』にもあるし,一番有名なのは
『近思録』に出ている。ところが,「会社」は ない。和製漢語で,結論を先に言ってしまう と,19 世紀の初頭に日本の蘭学者が世界情 勢を知る必要上,オランダ語の地理書の本を 幾つか読んだ。その翻訳が幾つか出ている。
その中で,日本人が今まで考えていなかった 種類の組織がヨーロッパにあるのを何と訳そ うかと苦労した挙句に「会社」というのを 作った。これが最初である。だから,その会 社は,例外的に営利企業である場合があるが,
これはちょっと後で申し上げるとして,普通 は営利企業ではない。「会」も「社」も,単 なる集まりという意味が一番広くあるのだが,
多少限定すると,これはさっきの『大漢和辞 典』の知識で,「社」の方に一種の資格限定 性がある。「社」というのは,ご存じのよう に神社の「社」である。「示」偏に「土」を
書くから,「やしろ」でもあるのだけれども,
地縁神。そこから転じて地縁神を共同で祭る 地縁集団である。血縁集団だったら祖先神に なるけれども,地縁集団だから,部落とか集 落とかいうものである。その地縁集団のこと をそのまま「社」と言って,行政区画にする 場合もあるが,ともかくそれが「社」であっ て,そこから段々転じてきて,ある神様を共 通で祭る集団や,ある思想を共通で信奉する 集団,篤志家の集団,そういう風に段々資格 を限定してくるわけである。それが「社」だ から,「会社」という時には,集まり,集ま るなんだけれども若干資格の限定がありうる。
会社という言葉は,最初はそういう茫漠と した,むしろどちらかと言えば非営利組織と して使われていた。文人の集団,絵描きの集 団,それを意味する言葉として「会社」と 言っていた。初期の訳書にそう出てくる。福 澤の場合だと,さっき言ったように宗教の集 団もそうであるし,慈善集団,病院を作るの もそう,教育集団,学校を作るのもそうであ る。それが「会社」であった。その言葉が,
19 世紀の初めにずっと変わる。その途中に 二度屈折がある。一つは幕末開港期から後で ある。幕末開港期には,それまで鎖国してい たのが貿易をすることになる。そのときに今 までの体制ではとてももたないということに なって,幕府の官僚が作り出した言葉に「商 社」というのがある。つまり日本の商人の元 手,資本額が小さい。向こうから商会が来る と,とてつもない金持ってきて買い叩くから,
このままじゃ日本が全部商売でやられてしま う。だから,商人どもを結束させて金を出し 合わせて,貿易大企業を作らせようという趣 旨で商社を作らせようとした。これが私の 知っている限りでは 1860 年である。その暮 れぐらいだった。あるいは翌年にかかってい たか。それが最初である。
そこからさらに展開していく。福澤らの使 い方がそうだが,要するに共同出資の営利企 業一般を商社と言うようになる。それが幕末
から明治の初期にかけて殆ど定着しかかった。
それまでに,片方では蘭学者の「会社」はそ のまま使われていたから,二本併存していた。
併存であって,交錯した例は見たことがない。
つまり蘭学者の方が「商社」というのを使っ たのは見たことがなく,幕府の役人の方が
「会社」を使うこともない。僅か例外がある が,特殊な場合なので,殆ど交錯してないと いってよい。それじゃ,その「商社」がその まま「共同出資の営利企業」になったかとい うと,ならなかった。ここがよくわからない。
明治維新があって明治政府ができたが,どう いうわけか明治政府は,せっかく定着しかけ ていた「商社」を押しのけて,公用語として
「会社」を共同出資の営利企業のために使わ せるようになった。最後はご承知のように明 治商法で定着するのだが,その前から,もう かなり使われている。発端は明治2年の「貿 易会社」,「為替会社」だ。これは実際の組織 も,「会社」であるように作られたのだが。
そこから始まって,先ほど言った明治4年の 渋澤とか福地の文書も,その一環だろうと思 う。ここは,実はこっちも十分調べてないの で,よくわからない。利谷・水林論文も,今 一つそこの所が詳しく書かれていない所があ る。私も素人だから,法文を見たことがない が,確か明治 19 年に商社法というのができ て,あれは,まだ「商社」なのだろうと思う。
その時に「会社」というのがどういう意味で 使われているのか,よくわからない。その前 に,すでにもう共同出資の営利企業という意 味の「会社」という言葉が使われ始めている。
明治政府もむしろ使わせたがっていた。明治 23 年には商法が公布になり,そこでさらに 定着した。ご存じの法典論争でその施行にブ レーキがかかって,26 年に商法が部分施行 になる。そこまで来れば完全に定着している。
そこの所はかなり屈折があるというか,その プロセスが面倒臭いのだが,ともかく「会社」
は,19 世紀の初めに翻訳語が出てきて,言 葉としては明治までそのまま来て,維新に
なってから変わった。そこが一つの屈折であ る。
それから,もう一つ「会社2」の方の屈折 は,明治の末から起こり始めるのだが,これ は公的にはよくわからない。人々の用語法か ら言って,むしろ「社員」という言葉から 入った方がわかり良い。ちなみに言っておく と「社員」という言葉も,明治の初め,さっ き 言 っ た 通 商 会 社 の 時 , ほ ん と は , そ の ちょっと前から使っているのだが,そこの ニュアンスがよくわからない。通商会社,為 替会社で「社員」という言葉を使う場合には,
金出して会社を作った人と,行って働く人と,
両方の意味がある。通商会社の方は,金を出 した人が行って働くことになっている。為替 会社の方は,金を出したままで,行って働か ないのも社員という扱いになっている。これ はつまり,合資会社の有限責任社員と無限責 任社員みたいな感じになっているけれども,
為替会社の方は確かそうなっていたと思う。
その社員は,初めは建前上は,「会社に行っ て何かする。」ことになっている。実際に民 間で会社を作り出して後,初めは今のコンサ ルタントみたいなのも社員だったかもしれな い。何某会社に渋澤が来ているというのも社 員だったかもしれないけれども,そうでない 場合もあり,ちょっとよくわからない。初め のうちは出資者が会社に出てきたのが社員 だったのが,だんだん高学歴の会社幹部候補 生みたいなのを「社員」と呼ぶようになって いったらしい。そこからあと,明治の末,大 正の初め,第一次大戦ごろになると,「会社」
と「社員」の言葉の関係がかなり違ってくる。
漱石の小説を片っ端から読んだが,そこで
「会社」と「社員」がどういう風に使われて いるかというと,面白い。ちゃんとわかるの です。有名な『吾輩は猫である』の中に出て くるのは,隣の金持ちの金田という嫌なうち の奥さんが,苦沙弥先生の家に来るが,ほら 吹いて,「宅が本当は来るところなんだけれ ども,宅は会社が忙しくて,会社も一つじゃ
ない,三つも,四つもやってます」と言う。
この場合は,会社を持っているという意味だ ろう。彼は社長かもしれないし,重役かもし れない。ところが,同じ漱石でも,末期の小 説になりますと,『彼岸過迄』だったのでは ないかと思うが,その主人公の家で書生をし ていた人が,高商出かなんかで,帝大じゃな い。その人と会おうという時に「それなら僕 が君の会社へ行くよ。」という言い方である。
「君の会社」というときには,彼が持ってい る会社じゃない。勤めている会社である。だ から,片方も「じゃ,僕は会社を早引けして。」 と答える。同じ漱石が書いていた文章でも,
後ろの方になると,会社と社員の関係は,雇 われる人間という感じになる。これがその後,
大正デモクラシーの中でずっと下に広がって きて,第二次大戦の途中になると,軍部とい うのは意外に左翼だから,生産力増強のため に下っ端を大事にする。会社の中で一番下の ステータスは職工だろう。その職工の地位を 段々持ち上げてきて,こいつを「工員」と呼 べとなる。そうすると,上の方にいたホワイ トカラーの方は,うんと上の方は「社員」な んだろうけれども,下の方は「傭員」とか
「雇員」とか言っていた。こいつを一括して
「職員」にした。「工員」と「職員」を合わせ て「従業員」にした。この言い方が第二次大 戦中に殆ど定着した。これが戦後改革の中で 大闘争をやるが,労働組合は,どういうわけ か職員がリーダーシップをとった。大卒の労 働組合員はそこを平等にしろと言って,相対 的には自分の地位が下がることになるのだが,
「職員」,「工員」は差別だから「社員」にし ろと言った。それがどうも戦後の一億総社員 化の始まりのようである。十年ぐらいたって 高度成長期に入ると,人手不足により,実際 に会社もそうした扱いをせざるを得なくなる。
そうすると,給与体系や給与の払い方も,も ともとはブルーカラーは時間給,上の方はサ ラリーで月給をもらっていた。そこを月給一 本にしてしまい,事務職1級,2級,3級,
技術職1級,2級,3級という,全社的な統 一的な体系ができる。そこまで行ってしまう と,全員「社員」と言っても余り不思議じゃ ないということになるので,そこから先は,
一番下で働いている人も,常勤であれば社員 で,あとは近ごろの言葉で,パートだの,ア ルバイトだの,派遣社員だのは,あれは準社 員だと,そういう扱いになってしまう。そう すると,会社とは何だというと,人々が集 まって働く場だというニュアンスになってし まう。そこまでが現在使われている「会社3」
の語義の変遷である。ここまで行ったら,こ の話は終わりなのである。
3.本 論
¸
シェーマこれから後が本論である。本論の最初の部 分は,本論のシェーマだから非常に短い。
一番最初に,この「会社」という系統の言 葉が日本語としてどう出てきたか拾うと,一 番最初に「こんぱんや」や,「こんはんや」
や,「こんぱにあ」など,何でも良いのだが,
それらしいことを仮名で書く時代があり,
「こんぱんやの時代」と言っておく。これは 18 世紀である。19 世紀の初めまで,この用 法は残るのであるが,ただし,18 世紀ギリ ギリ,それから 19 世紀の初めの二十年間ぐ らいは,実証的というよりむしろ理論的な仮 説として言っておくが,「空白の時代」があ る。これが二つ目である。
三つ目は 1820 年から後,一括すれば「会 社」の時代である。用語としては「会社」と いう言葉が出てくる。ただし,そこから先は,
先ほど申し上げたように 1860 年ぐらいの幕 末開港期以降になると,商社,会社が併存す る時代になる。明治維新になると,実は「商 社」という言葉で言われていた内容を,明治 政府は「会社」に押しつけた時代であった。
それが法律的に定着したのはいつかわからな い。法案が出た時にはまだ定着してないのだ
ろうと思うけれども,私は,現物,資料を見 た こ と が な い の で よ く わ か ら な い 。 そ の ちょっと後になると,政府がしょっちゅう 使っているから,定着してしまうが,法的に 最終的に定着したのは明治商法である。とこ ろが,さっき言ったように明治商法ができて 十年ほど経ったら,段々その「会社」の意味 も変わってきて,「会社」は,「作る会社」で はなくて,「雇われる会社」の方になったと いう話になる。
そういうわけで,ここまでで四段階目か五 段階目の所と思うけれども,それは全体の シェーマで,残りは,少し意地悪混じりに,
ごく最近のところまで話を持ってきておく。
恐 ら く 1990 年 以 降 は , 経 済 学 の 世 界 で グ ローバリズムの時代だと言っているが,この 時代,一番日本に影響が強くなったのは,
コーポレート・ガバナンスというヘンテコな 新造米語が入ってきて,要するに株主が会社 を勝手に売買して良いものだという理念をぶ ち込んでしまった。せっかく日本で「会社主 義」というのが定着していたのに,アメリカ かぶれで皆まねして,バカな会計学者とか おっちょこちょいな商法学者とかがくっつい て,政府の肝煎りでコーポレート・ガバナン ス研究会とか何とかいうのを作って,一刻も 早く会社の売買ができるようになるのが合理 的だとか,日本経済を立て直すゆえんだとか。
バカ言っちゃいかん。あれは,逆の話だ。ア メリカの資本主義というのは,元来,非常に 破壊的なものなんで,それをそっくり外国で まねしたら,昔,インディアンが滅ぼされた のと同じで,こっちが滅びる。そんなことぐ らいわからなくて,お前ら,アメリカ史を勉 強したことがあるのかと,こっちは腹が立っ ている。そこがもし屈折するとすれば,もう 一段階ある。ただ,そこはあまり言わないこ とにしておく。
¹
はじめの三段階やっぱり少し,優雅な話をしなくてはいけ ない。そうすると,最初の「こんぱんや」,
これが一番面白い。その次の空白の時代とい うのは歴史としてちょっと面白いので,皆さ んも多少ご存じのことになるが,少し言って おく。最初の「こんぱんや」の時代というの は,これは,仮名で「こんぱんや」と言うし かない。私の知っている最初の使用例は,近 松の芝居の脚本で,二例知っているが,二例 とも『国性爺合戦』にかかる。『国性爺合戦』
だから,場所は台湾だと思う。一つの例は,
芝居の中身を詳しく見ていただけばわかるが,
語呂合わせである。「さいるりはりすもろと こんぱんや」と,これは意味がわからない。
わからないのが当たり前で,近松自身が,恐 らく台湾の人たち,あるいは福建出だろうか ら 南語である。それをしゃべっているのを 日本人の耳で聞くと,こう聞こえるという意 味で言っている。だから,昔だったら,日本 人が,毛唐はピーチクパーチク言っていると いうのと同じである。だから,意味がわから ないのは当たり前で,ただし最後に「こんぱ んや」と出てくるから,これは台湾に来た ヨーロッパの会社だなという所まではわかる。
もう一つの例で,「アアどうよくなこんぱ んや」と声を限りに泣くというのがある。こ れは台湾人が閉じ込められたり,駆り立てら れたりして,ひどい目に遭わされたという。
こんぱんやって,何てひどいことをするのだ と言って怒ったという,その話だと思う。こ んな話を私は昔から知っているわけではない ので,これを書いたのは斎藤毅という人で,
もう亡くなったと思うが,すごい大学者であ る。ちょっと調べてみたら,昔,建国大学に いて,敗戦で引き揚げてきて国会図書館で勤 めていた人らしい。知っている人は,凄い学 者だと言う。私は知らなかった。本も知らな くて,他人から教えられたのだが,読んでみ たら凄い知識であって,『明治のことば』と いう本だが,「西欧」「東洋」とか「アメリカ 合衆国」のあの「衆」の字を使う理由とか,
「哲学」とか「個人」とか「主義」とか,「会 社」「社会」「銀行」,その語源を全部洗って
いる。凄く面白い。ただし,お年だったと見 えて,誤記,誤引用がかなりあり,そのまま 使うと危ない。しようがないから,こっちも 義理立てで,近松まで全部図書館に当たった。
だから,ここから先言っていることは間違い ない。
16 世紀の末以降,極東まで来たヨーロッ パの国というのは,ポルトガルが最初,後で オランダが来る。ポルトガルは,どうも「こ んぱんや」と言ってないと思う。言葉は,ポ ルトガル語で,「こんぱんや」はcompanhia と書くから音としては合うが。ポルトガルは,
航海を国営事業でやるか,そうでなければ冒 険的な個人に王がチャーターを与えてやらせ て,それを「カピタン」と言っていたらしい。
後の日本で「オランダ・カピタン」という言 い方がある。オランダ人が江戸城にお礼参り に来た時に,「オランダ・カピタンが参上し ました。」と言う。カピタンはオランダ語で はなくて,どうもポルトガル語らしい。南蛮 時代に「カピタン」というのを知っていて,
紅毛時代にそれをくっつけて「オランダ・カ ピタン」になったらしい。であるから,「カ ピタン」であって「こんぱにや」じゃなさそ うである。ポルトガルが「こんぱにや」と 言っていれば話が全部片づいたのだけれども,
そうはならない。
ポルトガルの勢力を追ってきたのがオラン ダで,これもやはり台湾に拠点を作るが,そ のオランダの勢力は,普通にVOCである。
Vereenigde Oost-Indische Compagnieで あ る。そうであるから自分で「コンパニー」と 言っている。そうすると台湾の人たちが「こ のこんぱにやどもめ。」という言い方になる のは不思議ではなく,まあそれだろうと思う。
ただ,もう一つルートがあり得て,台湾と いうよりも中国で,マカオの方が先かもしれ ないが,南の方で「こんぱにや」を取り込ん でいた可能性がある。それは「公斑衙」と書 く。わが友人の矢吹晋君によると,そういう 翻訳というのは音訳と意訳が合ったときに褒
められるのだそうである。合うとどうなるか というと,相手の言っている発音が「こんぱ にや」で,こちら側は「公斑衙」で「公」の 字は税関みたいなものらしく,それで重なっ ているものだから,わりと良い訳だと思われ たらしい。その「公斑衙」というその漢字を 日本の蘭学者が後に「会社」の解説をする時 に使ってる例があるから,そっちから入って いる可能性がなくはない。なくはないのだが,
オランダの東インド会社を「こんぱにや」と 言った,それを日本でも音のまま取り込んだ と解釈するのが一番素直かと思う。この使い 方,これは芝居だから,意味がわかってもわ からなくても良い話である。
後になると幾つか例を挙げておいたが,
『紅毛訳問答』という,これは通訳が書いた のだが,これを斎藤先生は『紅毛問答』とい う別書と混同していた。ちょっと引用してお いたが,「こんぱんやとは国王のことに候哉。」 と聞くと,答えて曰く「富饒のもの銀の出し 合いで,商売の元銀とし……」それで,儲 かったら,後でその額に応じて分けるよとい う。株式会社であるとちゃんと言っている。
それが 18 世紀の半ば頃である。その「こん ぱんや」という字を音読してたのだが,大槻 玄沢を動員してやった『蘭説弁惑』という本 の中で,玄沢は「こんぱくぎい」と言ってい る。玄沢は大学者で文字から得た知識だから,
サイレントのgを読んだのだと思う。
一番最後が 19 世紀に入っているのではな いかと思うが,『浮世床』で式亭三馬が,こ れは凄い。床屋に来たあんちゃんが,何だか かんだか威勢の良いせりふを吐いた挙げ句に,
「じゃがたらのこんぱんやはおらんだの出張 にござい。」と言う。「出張(でばり)」と言 うのは「出張(しゅっちょう)」のことだが,
「おらんだ」は紅毛と書いている。つまり,
市民は,町民は,実態をちゃんと知っている。
これは大変なレベルだと思う。
ところが,後で幕末開港期になって,幕府 がようやくそれをつかむことになる。その問
答は何かで引いておいたけれども,詳しくな りすぎるから止めておく。
「こんぱんや」の用例はそこまでだが,次 に空白期については言っておく。空白期とい うのは,これはむしろ皆さんの方がよくご存 じのところがあるが,二つ重なる。要するに 結論はオランダが言わなくなったということ である。つまりせっかく日本が「こんぱんや」
という言葉を使いつけていて,ある程度,実 態までわかるようになってきていたにもかか わらず,向こう側で「こんぱんや」と言わな くなった。これには理由が二つある。重なっ ているのかもしれない。一つは,1799 年に オランダの東インド会社,VOCの特許期限 が切れた。普通は特許会社というのは期限が 切れてもすぐつなぐのであるが,これはそ れっきりになってしまった。オランダの中の 事情で反対があって止めたのか,フランス革 命のために止めたのか,そこは私は学がなく てよくわからないが,ともかく止めてしまっ た。止めてしまって,1824 年になるが,四 半世紀たってから再建された。再建された時 の 会 社 は , Nederlandsche Handel- maatschappijと言う。Handelはドイツ語の
Handelである。私は発音できないが, sch
appijというのはドイツ語のNachtの ch である。これ,石坂昭雄さんは「オランダ貿 易会社」と訳していたけれども,後との関係 で言うと,私は「オランダ商社」と訳してお いた方が都合が良いので,「オランダ商社」
としておく。つまりオランダの東インド会社 がいっぺん潰れて,実際に来なくなったのか,
来ているのに名乗らなかったのかよくわから ないが,多少調べたが,見当がつかない。24 年になると会社が再建されたことになるから,
そこでは名前が変わって,compagnieだっ たのが,Handelmaatschppijだから,相手が 変わっている。日本側がどこまでちゃんと掴 んでいたのか,わからないけれども,それが 空白の理由の一つである。
もう一つの空白の理由はフランス革命であ
る。ここから先は皆さんの方がよくご存じか もしれないが,亡くなられた山本桂一さんと いう方が『フランス企業法序説』を書かれた。
あれによると,ことにフランスではcompag- nieという言葉は「王の会社」というニュア ンスが非常に強く,あの設立法は実際には公 法だとする解釈が多いのだということを確か 書いてあったと思う。オランダもイギリスも 同じように特権会社を作るが,どうもフラン スは,特に中央集権が強くて,王立会社とい う意味が強かったみたいである。そこへ平等 主義の革命が起こり,あれを止めてしまえと いうことになって,compagnieという言葉 はそこから使わなくなった。ナポレオン法典 というのは 1804 年で良いのか,ご承知のよ うに立派な会社法を作っていると,山本さん がそう書いている。それによると,これから
「会社」を名乗る場合には,soci
é
téにしろと
あるはずである。compagnieという,前か らある名は使ってもよろしいということに なったらしい。そこをついでに後で教えてい ただけばありがたいのだけれども,確かその 時の法典だと,フランスでは自由設立になっ ているのが株式合資会社で,本当の株式会社 は,元国営だからわりときつい。参事院が認 可しないとできないだろう。今のsocié
téと
いうのを株式合資会社の範囲だけで使ったの か,そうじゃないのか,そこはよくわからな い。そこはある意味でどうでも良いことだけ れども,フランスで用語を変えると,フラン スは,大陸ヨーロッパに非常に影響力がある。ナポレオンが占領したこともあるが,それだ けではなくて思想的な影響があり,たしかイ タリアでも,この頃,compagniaをsocieta に変えたはずである。それと同じで,私はオ ランダ法の歴史なんて見たことはないけれど も,オランダもどうも変えてしまったらしい。
ところが,オランダ語はゲルマン系だから,
同じ語感でと言ってもsoci
é
téとは言えない。
オランダにはsocieteitという言葉はあるは ずだが,それは使っていない。恐らくオラン
ダ人から言うと,societeitというのは外来語 だったのだろう。何を使ったかというと,そ れがmaatschappijである。maatschappijと いう言葉を蘭和辞典で引くと,大きく意味が 三つあって,今の「社会」,それから「集団」
とか「学会」とか,これもソサイエティだが,
それがあって,それから「会社」という意味 と,三つあるようである。恐らく「会社」に なったのは,この時から「会社」になったの で,その前は広い意味の社会,集団の意味の 社会というので使っていたのではないかと思 う。
英語で該当語があるかと思って引いてみた けれども,mate-shipという言葉はない。あ れば一番良いのだけれども,ない。ドイツ語 にMaatschaftというのはある。あるが,こ れは船員の集団という意味らしく,ちょっと 違う。
恐らくオランダ人の語感では,それが一番 いかめしくなくてなじむ語感だったのだろう。
だ か ら , フ ラ ン ス でcompagnieを 止 め て soci
é
té
にした時に,こっちもcompagnieを 止めて,maatschappijにしたということだ と思うけれども,聞く方からは長い。だから,こんぱにーと言ってせっかく聞き慣れていた のに,「私どもはHandelmaatscahppijである」
と言われても書けない。それを実際問題にし ている。幕府の文章に「お前の国では,はん でるまあとすかっぺというものを作っている そうだが,」という文章が出てくる。あれは,
大変だったと思う。
そういうようなことがあって,そのHan- d e l m a a t s c h a p p i jが 商 社 と 訳 さ れ , maatschappijの方は,今言ったように会社 でもあるけれども,社会とも訳された。ここ から後が「会社」という言葉の性質の話にな る。
先ほど申し上げたように「会社」という言 葉を日本語として最初に使ったのは,青地林 宗という大蘭学者だった。ついでに言ってお くと,彼は水戸公,慶喜の親父さんの斉昭だ
が。斉昭は,ご承知のように水戸藩だから,
海から攻められたらかなわんので海防に熱心 で,そのためにオランダ語を訳させる必要か ら,幕臣だった青地林宗を引っこ抜いてきて,
やれ訳せ,これ訳せと,とうとう青地林宗は それで過労死したという。学者の過労死第一 号はこの人だと思うけれども,青地林宗が,
その当時 19 世紀の末になると,黒船は入港 しないけれども,そばへ来るわけである。あ るいは,お前の国の漁船が漂流しているのを 拾ってやったからって,入りたがる。そうす ると,ほっとけなくなって,外国の事情を知 る必要がある。外国の事情というのは,とり わけ蘭書で知るしかない。来ていたオランダ 船に命じて,外国の事情を一番よくわかるの は地理の本だ。つまり蘭学というのはもとも と外科医学があって,次に遠近法という絵の 技術があって,その次が天文学である。幕府 は暦を作る必要があって,天文方に蘭書和解 御用というのを置いて,そこにオランダ語を まかせていたのだけれども,それだけじゃ 段々間に合わなくなる。段々緩めながら解禁 してきて,それで翻訳が出てくるのだが,青 地林宗は,もともとドイツ人のヒューブナと いう人の本だが,蘭書から訳し,『輿地誌略』
という本を作った。『輿地誌略』という本は,
全部漢文である。私はどうして漢文が読めた のかよくわからないけれども,ともかく読め た。この中に「会社」という字が二回,「社 会」という字が二回,使われている。「社会」
という字が二度あるということは,先ほどの 斎藤毅先生が書いている。斎藤先生は,そこ にさらに書き加えており,原語はKlooster であるとしている。修道院と訳すが,斎藤先 生の解釈では,「同信の人々の集団」という 意味なら,『近思録』で使っていた「共に励 む仲間」という意味にほぼなるだろう,だか ら 青 地 は そ れ を 使 っ た の だ ろ う と い う 。 ちょっと強引だと思うが,意味はある程度わ かる。ついでに言うと,『近思録』というの は,儒学の『近思録』で,朱子が弟子の何と
かという人と一緒に書いたものだが,調べて みたら 19 世紀になると,日本では,塾がか なり流行っていて,あちこちの塾でかなり
「近思録」を教えている。だから,「社会」と いう言葉は『近思録』を通じて日本にわりと 広く入っていたと思う。だから青地林宗も,
わりと何でもなく訳したと思う。「会社」の 方は多分非常に困ったのだと思う。「会社」
という言葉の原語は何だと探した。これは ちょっと我ながら物好きだと思う。そもそも 斎藤先生は何も書いてない。「会社」という 言葉を使っているとも書いてない。どうも 使っているらしいということが他でわかった ものだから,『輿地誌略』をもう一遍読み直 して,「会社」という字が二ヵ所あるのを見 つけた。その時に,どうしたかというと,こ の原語に当たるのは国会図書館でマイクロ フィルムを見るしかない。相手はオランダ語 だから読めない。第何章の第何節辺りだとい うのをノートして,随分時間がかかった。
二ヶ所出てきた。これは面白いといえば面白 い。訳語の原語が違う。文脈は同じだが,一 方の訳語の意味がRidderorden。Ritterとい うのが騎士である。Ridderordenで騎士団と 訳すらしい。ついでに言うと,英語で言うと Templarに当たるが,Templarを幕末の英和 辞典で「会社」と訳している。重なっている のだが,解説によると,クリスチャンがエル サレム詣でをする時,一般の民衆が行くのを 護衛する騎士団のそれだという話である。そ ういう風に動いたという文章じゃないけれど も,そういうRidderordenが,この町に幾つ かあるよという文章である。それが一つ。
も う 一 つ , こ れ も 面 白 か っ た の だ が ,
Scholenというのが出てきた。これはスクー
ル,学校である。その両方を青地林宗は「会 社」と訳している。これが私の知る限りの
「会社」の最初である。片方は学校で,片方 は騎士団だから,違うじゃないかといえば違 う。ただ,ある種の人間の群れという風にで も解釈すると,かなり共通性が出てきて,青
地林宗はそのつもりでやったのかなという気 もするが,それ以上はわからない。
そこから後は飛ばすが,次に小関三英が,
渡辺崋山という人は蘭学をできないことから,
渡辺崋山のためにオランダ書を翻訳して,そ れが二冊は残っている。世の中に売られてい るか,読まれたのかどうか知らない。公刊さ れているかどうかも知らない。崋山の手元に あったことは事実だが,これの中で「会社」
という字は数回出てくる。これの原語は 仮 名を使ったので,maatschappijだというの はかなりはっきりわかる。「会社」の隣に
「マートシカッペー」と仮名を振ってある。
そのネタ本と同じネタ本を底本にして訳した のが,正確に言うと 1848 年が最初だと思う が,杉田玄端という,これは杉田玄白の義理 の孫である。息子の玄卿がよくできる弟子を,
養子に取り立てて「玄」を名乗らせた。これ が玄端なのである。この人が訳した同じネタ 本で,こっちは『地学正宗』という訳になっ ている。小関三英が訳したのは『新選地誌』
だが,訳した所が少し違う。こっちは,杉田 玄端は,「会社」という言葉を十何回使って いて,それはことごとく文人集団である。そ の辺まで来て「会社」という言葉が,蘭学者 の間で定着した。ここまでが,「会社」の第 一であるが,話は,この辺までにしたい。
馬場宏二 1933年群馬県に生まれる 東京大学経済学部卒業 経済学博士
神奈川大学講師・助教授,東京大学 助教授・教授を経て
1994年より大東文化大学教授
《主要著書》
『アメリカ農業問題の発生』(東京大学出版会 1969年),『世界経済―基軸と周辺』(東京 大学出版会 1973年),『現代資本主義の透視』
(東京大学出版会 1981年),『富裕化と金融資 本』(ミネルヴァ書房 1986年),『教育危機の 経済学』(お茶の水書房 1988年),『新資本主 義論』(名古屋大学出版会1997年)。
《主要編書》
『シリーズ世界経済Ⅰ〜Ⅳ』(お茶の水書房1986 年〜 1989年),『日本企業の建前と実態』(大
東文化大学経営研究所1999年)。
*本講演記録は,早稲田大学 21世紀