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-33- サミュエル・ベケット

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現在の記憶と自己剰窃:

サミュエル・ベケット

ベケットと記憶

記憶が、あるいはその障害が、サミュエル・ベケッ ト(SamuelBeckett)にとって重要なモティーフである ことはすでに周知の事実であろう。彼の最初期の小説

『マーフィー』 (Murphy: 1935‑36)では主人公が様々な 人物を回想しようとするが、その試みはことごとく失敗 に終わる: 「いままでに出会ったことのある生き物、動 物も、人間も、いずれも心のなかにその姿を思い浮かべ ることができなかった。肉体、風景、手、目、線、色彩 のそれぞれの断片が、何ものをも想起させることなく […]、下からせりあがってきては世界から消えていった」

(Becke仕1963a: 141 [257] (1))。断片的にしか回帰しえ ないマーフィーの記憶はその後のベケット作品の行く末 を暗示しているO例えば『モロイ』 (Molloy:1947)の第 一部でモロイの断続的な記憶とその混乱は次のような 場面で現れる: 「二度に分けて起こったこと、二人の女 を、一つに混ぜてしまっているのかもしれない。仲間の 叫び声と笑いをあとにびくびくと私のほうへやってくる 女と、どちらかと言ったら、しっかりした足どりで遠ざ かっていく女と」 (Becke仕1959:75 [110] (2))。モロイの 記憶障害は小説における語りの信頼度と「事件の厳密な 脈略」 (Becke仕1959:42 [59]を損なうものである。そ してそれは次のような時により大きな問題を季む: 「私 はそのとき自分がだれだったか忘れてしまっていたので あって(それもむりがなかったではないか)、まるで他 人のことのように、私のことをしゃべってしまったわけ だ」 (Beckett 1959: 42 [59‑60])。記憶障害はモロイの主 体の連続性とその語りの一貫性とともに(「私は自分自 身が誰かを忘れて」 [Becke仕1959: 42 [59]])、存在論的 な堅固さも損なう(「自分がいるということも忘れるこ とがあった、存在の忘却だ」 [Becke仕1959:49 [70]] (3))。

『マーフィー』から『モロイ』へと継承された記憶と その障害を巡る様々なモテイープは『名づけえぬもの』

(The Unnamable: 1949)において寄妙なねじれを見せ始 める:

おれは呑みこみが悪いし忘れるのも早い、そこを過 小評価しやがった。親愛なる理解力欠如よ、おれが 最後にはおれ自身[self]たりうるのも、おまえの おかげだ。彼らの嘘八百ももうすぐ消えてなくなる だろうぜ。そのときおれは、ついにおれ自身を吐き 出すのだ。 (Becke仕1959:327 [74] (4)¥

ここでは、忘却は主体性を脅かすものではなく、自己の

『クラップの最後のテープ』

川 島   健

統一を果す要素として期待されている。この逆説は、ベ ケットの中で、忘却の末に獲得される語り手の「自己/

self」とそれ以前の「主体性Iorsubject」の概念が厳 密に区別されていることに起因する。 「主体」とは「そ れを使えばおれも彼らの同族だと告白するほかない」 「彼 らの言葉」 (Becke仕1959327:74)によってでっちあげ られるものである0 ‑万、 「自己」とは「二度とぬけ出 せないほどに戯言に塗り固められてしまった」 (Becke仕 1959: 327 [75])言語の桂格を脱却することで獲得され る。この論文ではベケットにおける健忘症と自己獲得の 奇妙な共犯関係を追及する。なぜ記憶の抹消が自己の条 件となるのか?記憶と自己という概念は両立不可能な のか?このような問いとともに、われわれはベケット のテクストを探索することになる。

プルーストの回想

二〇世紀の文学・芸術全般において記憶は大きなモ ティーフとなっている。記憶の機能を巡る様々なモダ ニスト的試みの中で、マルセル・プルースト(Marcel Proust)の『失われた時を求めて』 (Alarecherchedu temps perdu: 1913‑1927)は様々な記憶の様態を提示する 一大アーカイブを提供し、きわめて現代的な物語を作り 上げている(5)。フロイト(SigmundFreud)の「無意識」

とベルグソン(HenriBergson)の「純粋持続」を継承 したプルーストの「無意志的記憶」と「意志的記憶」の 峻別は後続する文学者達の道筋に大きな影響を与えた。

ジョルジュ・プ‑レ(GeorgesPoulet)がいうように、

プルーストの記憶装置は主体から意識という統一体を剥 奪する。 「無意志的記憶」の爆発的想起において主体と 客体は判別しがたく交じり合い(プ‑レ424)、ここに間 主観性の可能性が生まれる。アレキサンダー・ニーマス (Alexander Nehamas)はプルーストの主体観について次 のようにいっている: 「自己の創造は、低次のレベルの 思考、欲望、行動の調和を目指す高次の秩序の創造であ

り押し付けである」 (Nehamas 188)。

モーリス・ブランショ(MauriceBlanchot)は「プルー ストの著作をいわゆる教養小説といっしょにするのはい かにも心そそられることではあるが、実はこの両者は まったく異なったものであること」 (ブランショ23)を 主張する。プルーストの登場人物の「成長」はプ‑レが いうように実際は「変貌」 (プ‑レ428)であり、教養 主義小説とは異なり、それは経験、記憶の一貫性によっ て支えられていない。むしろ「無意志的記憶」では経 験と記憶の不一致が明るみに出される。この点はヴァル ター・ベンヤミン(WalterBenjamin)が「ボードレール

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におけるいくつかのモティーフについて」で次のように 指摘している: 「無意志的記憶の構成要素になりうるの は、はっきりと意識をもって(体験された)ものではな いもの、主体に(体験)として起こったのでないもので ある」 (ベンヤミン427)。ベンヤミンは意識と経験の同 質性を切り崩すものとして「無意志的記憶」を同定して いる。それは記憶の中に意識的に記録されたものとは一 切関係がなく、過去の記憶のアーカイブにきちんと記録

されていないものだけに関わる。

ベケットもまたプルーストの記憶の啓示に影響を受け た作家の一人である。彼の第二作目の評論『プルースト』

{Proust 1930執筆、翌年刊行)は記憶の超‑意識的力を 強調することでベンヤミンのプルースト論を先取りして いる。 「意志的記憶」が意識と知性という記憶外部の作 用によって組織されているのとは対照的に、ベケットは

「無意志的記憶」の自律的,非人間的、 「御Lがたい魔術 師」的性格を強調する。それは「みずからの奇跡をおこ なうために、みずからの時と場所を選ぶ」 (Becke仕1969:

34 [141] (6)¥ 「無意志的記憶」は偶発的("accidental") であり、知的予期を超えている:

無意志的記憶は爆発性で[…]ある。それは過去の 対象ばかりでなく、それが魅惑しあるいはさいなん だラザロまでも復活させる。ラザロとは過去の対象 ばかりではない。より少ないがゆえに、より多くを 復活させる。それが、有用なもの、時宜を得たもの、

偶然的なものを抽出するがゆえに、その炎によって

≪習慣》 と 《習慣≫がなしたすべての仕事を焼き尽 くしてしまったがゆえに、その光輝によって、経験 の偽りのリアリティがけっして啓示できず、また将 来もけっして啓示することができないもの、すなわ ちリアルなものを啓示したがゆえに、より多くのも のを復活させるのである(Becke仕1969:33 [141]) ベケットが「ラザロ」の比倫によってプルースト的回想 を説明している点に注目しよう。キリストによって死か ら蘇った男の名に触れることで、ベケットは記憶が死か らの回帰であることを、まさに「復活」であることを強 調している。記憶が生と死の境界線を超えるとき、それ は同時に「習慣」と「経験」が織り上げる主体の同質性 を廃棄する。プルーストに影響を受けたベケットの記憶 を巡る想像力は、彼の中期散文で前景化する、声なきも のに声を与えるようとするレトリックとして現れる。ベ ケットにとって、回想とは正式に経験されていないもの、

記憶されていないもの、承認されていないものに擬人法 的な表現を与えるものである。このような回想とは今‑

ここに存在する主体に属さない、もう一人の「わたし」

を呼び出すことであり、存在論が前提とする現前と主体 の一貫性を崩壊させるのだ。

計量される記憶

「無意志的記憶」の分析で、ベケットは思い出すもの

と思い出されるものの不均衡に注目する: 「より少ない がゆえに、より多くを復活させる」 (Becke仕1969:33 [141])。一九六二年の「芝居」では、壷にそれぞれ首ま で埋め込まれた三人の登場人物が彼らの不毛な三角関係 を回想することを強要される。彼らの語りを強要しまた 任意に打ち切るスポットライトの移動は想起の困難を示 唆している。想起されるものは常に経験の総量とつりあ うとは限らない。要求される記憶と語りうる記憶は一致

しないのだ。

ベケットの記憶に対するアプローチは一筋縄ではいか ない。一九五〇年代後半に書かれた『芝居 下書きⅡ』

(Rough for Theatre II: 1950年代後半)の擬似裁判風景で は、二人の調査員が依頼者の生命と生活を計量化し、そ の価値判断を下す様が措かれる。調査員が書類を査読し、

生の評価に勤しむ姿と、依頼者が客席に背を向け微動だ にせず立っている姿は明確なコントラストをなしてい る。この静と動の対照法は、人生が他人によって計量さ れるというコミカルな様態と同時に、経験と記憶が計量 化しうるもの以上の価値を持たないという悲劇を描き出 す。書類を調べながら調査員は「記憶…記憶…」 (Becke仕 1986:239 [32](7))と咳く。ここで記憶はプルースト的 な予測不可能な爆発力を剥奪され、用語索引にまで堕し ている。

記憶と数量化のねじれた関係は『モノローグ一片』 (A Piece of Monologue: 1979)で特異な形として現れる。身 動きをせずに舞台に立つ「話し手」は感情を排した声で 己の人生を量的な価値に還元しようとする: 「揺りかご でもベッドでも同じ調子。乳を吸うときにまず人生最初 の失敗。よちよち歩きはじめる段になってもそうだっ た。おふくろから乳母へ、乳母からおふくろ‑0 [‥.]

葬式から葬式へ。かくて現在にいたる。今夜にいたる。

二十五億秒だ。一年は約三千万秒とかぞえて、八十年で ざっと二十五億秒。もういちど。二十五億秒」 (Becke仕 1986:425 [222](8))。 「揺りかご」と「葬式」によって両 端を確定された人生は計量の対象として同定される。こ こで想起とは計量に他ならず、記憶は生の数量的総体と 一致する。

記憶を計量可能な対象とするとき、ベケットの記憶‑

のアプローチはプルースト的「無意志的記憶」を特権化 する‑両性を逃れている。ベケットにおいて注目すべき は、記憶の数学的還元と「無意志的記憶」の爆発とが両 立可能だということであろう。 「ふたつの欲求」 (1938) という未刊の断片でベケットは次のようにいう: 「その 構築が無理数に依存している聖なる数字、つまり正方形 の対角線と辺の通約不可能性」 (Becke仕1983: 56 (9)1。

ベケットの中では非合理的なものは合理的なものと補 完しあう関係にある。 『モノローグ一片』でも二度繰り 返される「わけのわからぬ unaccountable」 (Becke仕 1986: 428/429 [230/233])というフレーズは数学的に構 築された同質性の壁を穿つ役割を果たす。また「闇を 切り裂くとどめの一言」 (Becke仕1986:429 [232])は 人生を計量化しようとする単調さと対置される。 "[U]

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naccountable"は説明可能なものに対して超越的なもの ではなく内在的なものなのだ。同様に、ベケット的記憶 のパラダイムでは、想起の突発性は記憶の計量化に内在 している。合理性と非合理性が補完しあうように、ベ ケットの記憶は数学的厳密性と通約不可能な不条理性の アマルガムなのだ。

記憶の物質化

ベケットと記憶の関係を探る上で『クラップの最後の テープ』 (Krapp's Last Tape: 1958)は格好の材料となる。

ジョン・エリクソン(JonErickson)は「プルーストが

『意志的』 『無意志的記憶』と呼んだ二種類の回想の記録 方法を考えるとき、クラップの自己対象化の方法はその 両者に関係しているのがわかる」 (184‑85(10))といい、

アーサー・オベルグ(ArthurK.Oberg) 「ベケットは意 志的記憶を廃棄したのではなく、意志的記憶と無意志的 記憶が経験の異なる秩序に属していることを指摘した のだ」 (334)という。重要なのは記憶の数学的局面と予 測不可能な局面の絡まりあいを丁寧に観察することにあ る。

この芝居を特徴付けるのは舞台上の机上に置かれた テープレコーダーの存在である。机とその周辺はスポッ

トライトに照らされ、その周囲を蔽う暗闇とは明確なコ ントラストにある。テープレコーダーは毎年クラップの 誕生日にその年の出来事を記録するために使用される。

舞台の時間はクラップの六九歳の誕生日であり、彼が テープに自らの声を吹き込もうとしているところで幕が 上がる。テープレコーダーを前にした彼の落ち着きのな さは(Becke仕1986: 215 [264‑65])、思い出を録音するこ とに対する優柔不断を示すだけではない。というのもそ れは記憶の語り方の喪失をも示唆しているからだ。そこ で録音の前にウオーミングアップをかねて、クラップは 彼自身が三九歳の時に録ったテープを聞き始める。この 聴取の姿勢がクラップの行為の大半を占めるのだが、そ れはまた思い出を語ることの困難と、想起の方法を喚起 する努力とにそれぞれ比例している。語ることへの戸惑 いから聞くことへと避難することによって、クラップは 的確な回想の術を剥奪されたベケット的人物の典型とな

・Jo

機械に条件づけられるクラップの回想は「自己認識 の物体化による自己所有の完壁さへの欲望」 (Erickson 186)を暗黙のうちに宿している。記憶はテープレコー ダーによって操作の対象として客体化される。この傾向 は具体的にはクラップの数学的オブセッションとして例 示される: 「統計か。過去八千有余時間のうち、千七百 時間を飲み屋にて費やす、か。二十パーセント以上、い や起きている時間の、そう四十パーセントだ」 (Beckett 1986:218 [270‑71](ll))。 『モノローグ一片』と同様、こ こでもまた経験は数量化され、行為は割合で示される。

このようなクラップの数字への熱狂が歴史的時間の概念 と相容れないのは明白である。 「クラップの方法とは時 間に対する戦闘」であり、 「過去の経験を完壁に掌接し

ようとする試みである」 (Erickson185)という主張は正 しい。また、歴史的時間の抹消はベケットの創作の根本 原理でもある。テクスト生成の過程を巡る研究でローズ マリー・パウントニー(RosemaryPountney)は「タイ プ原稿3の最初で試みられた日時の様々な特定は、 [後 のタイプ原稿では]削除されている」 (137)ことを指摘 している。それは時間と歴史という概念を数量に還元し てしまおうとする傾向と一致している。クラップの時間 は継起的連続性から引き剥がされ、断片化され、テープ という物体に還元され机の上に積み重ねられる。それは

「時間的実在を完壁に空間化する」 (Erickson 185)試み であるとともに時間の物質化でもある。

このような時間の様態は記憶の機能にも影響を及ぼ す。昔のテープを聞くことは過去を回復することではな い。三〇年前のテープのなかで、死に行く母について 語った描写がある。そこで現在のクラップは意味不明な 言葉「寡婦性/viduity」に出くわす。彼は困惑し、辞書

の中に該当する意味を探索し始める:

(辞書を読みあげる)やもめ‑またはおとこやも め‑である‑またはありつづける‑状態‑

または状況。 (顔をあげる。解せぬふう。)である

‑またはありつづける?‑‑ (間。また辞書をの ぞく。読みあげる。)用例「深く生い茂れる寡婦性 の草むら。」 ・‑‑また、動物、とくに鳥に関しては

・‑寡婦鳥、または、鴬。 ‑‑‑雄の羽は黒く‑・‑ (顔 をあげる。悦に入った様子。)寡婦鳥か!

間。辞書をとじ、スイッチを入れ、耳を傾ける姿 勢に戻る。 (Becke仕1986:219 [273])

辞書の知識はクラップの記憶の空自を穴埋めしてくれ るわけではない。彼の「悦に入った様子」は記憶の回 復によるのではなく、新たな文脈で発見された新たな 意味によって得られたものなのだ。 「寡婦性」という言 葉はクラップの母の「やもめ」状態を修飾する言葉か ら鳥の名へとその意味を変容させる。ここでユージン・

ウェブ(EugeneWebb)の次の指摘は重要である: 「母 親の長いやもめぐらし‑『深く生い茂れる寡婦性の草 むら』‑は彼女を暗闇と人生からの引きこもりに結び つける。辞書の中で現在のクラップが発見する雄の寡婦 鳥の黒い羽衣‑の言及は、クラップとその母の類似性を

‑クラップ自身にではないにしろ‑我々に喚起す る」 (73)c "[V] iduity"の異なった解釈を提示すること で、過去と現在は喪失された意味の回復によって競合さ れるのではなく、別々の時系列に属している様を強調す る(12)。クラップの記憶は多面性と同時性によって支配さ れている。ステイ‑ヴン・コナ‑ (StevenConnor)が「自 分自身のテープを聞く三九歳のクラップは彼自身との皮 肉な不一致を示している」 128 というとき、この問題 を提起している(13)。

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忘却の記憶

さてこのような記憶はどのようなロジックによって記 録されているのか?三九回目の誕生日にクラップはい う: 「暖炉の前に目をつぶってすわり、木の実の殻をむ いた」 (Becke仕1986:217 [268])。この行為は明らかに その一年を思い起こし、記憶を選り分けるクラップの想 起方法のメタファーとなっている占 ここで回想のロジッ クは思い起こすもの、忘れるべきものの間に境界線を 引くことである。しかしクラップが続いて次のように咳

くとき、事態はより複雑なものとなる: 「木の実が、実 とはいったいどういうことだ、それはつまり‑‑‑ (ため らって) ‑‑サベてが・‑‑このおれのすべてが‑‑‑一握 の塵に帰したそのとき、持っているに値するもののこと だ。おれは日をとじ、そういうものを心に措いてみよう

とする」 (Becke仕1986: 217‑18 [269])。ここに灰めかさ れる黙示録的イメージ(「一握の塵に帰したそのとき/

when all my dusthas settled」)に注意しよう。それは不 特定の未来ではなく、すべての終わりを告げる唯一無二 の未来である。

それではそのような黙示録をクラップはどのようなも のとして措いているのか:

精神的にはきわめて暗く貧しい一年だった、そう三 月のあの記念すべき夜までは。夜、突堤の端で、吹 きすさぶ風の中で、決して忘れない、おれは突然す べてを見たのだ。ついにひらめいた悟りの瞬間。こ れが、思うに、今晩録音すべき主な事件だろう。い つかおれの作品が完成し、そしていかなる書跡が

‑・ (ためらって) ‑‑いかなる炎がそれに霊感の 火を点じたのが、その熱い思い出も冷たい思い出も おれから消えてなくなる、そんな日がやってくるの に備えて、録音しておかなければならん(Becke仕

1986: 220 [275]

ここに記憶のパラドクスが露呈する。記憶の中に明確な かたちで書き込まれることを主張しているのは、すぐに 忘れられそうなたわいもない経験ではなく、全く忘れが たい貴重な出来事である。メリー・カタンザロ(MaryF.

Catanzaro)が投げかける「決して忘れないのであれば、

なぜそれを録音し保管する必要があるのか」 407 とい う疑義がその逆説の本質をついている。それは逆説的に 聞こえるかもしれないが記憶の本質でもある。記憶を留 めようとするのはそれが常に抹消される恐れがあるから だし、すべての終わりに備えてのことなのだ。

ベケットにおける想起と忘却の関係を再構成するため に、彼の『短編』 {stories)の中に含まれている「追放 された男」 (TheExpelled: 1946)を参照してみる必要があ る:

記憶ってやつはまったく始末におえないものだ。だ から、何か気にかかるようなことは考えないことだ。

いやむしろ、そのことを一心に考えるべきだ、とい うのは、考えないでいるとかえって記憶のなかで少 しずつそれを見つけ出してしまうという破目に陥り かねないからだ。つまり、しばらくの間、たっぷり 時間をかけて、毎日、日に五、六回、それが泥のな かに深く沈んでしまうまで考えなければいけないの だ。これは至上命令だ。 (Becke仕1995:47 [10] (14))

ここでベケットが持ち出す「至上命令 order」とは想 起の努力(「考えなければならない」)が記憶の喪失(「泥 のなかに深く沈んでしまう」)を促す、また逆に、考え ないという無関心が想起(「考えないでいるとかえって 記憶のなかで少しずつそれを見つけ出してしまう」)を 可能にしてしまう、という逆説のことである。

ベケットが繰り広げている記憶のレトリックはプルー スト的なものと似て非なるものである。というのもベ ケットが強調するのは記憶のネガであるとともに、それ を可能にするものとしての忘却である。ベケットにおい て忘却と記憶は相互に排除し合う関係にはないのだ。 『プ ルースト』 (1930 ですでにベケットはユニークな記憶 と忘却の関係を述べている:

プルーストの記憶はよくなかった‑彼の習慣が役 立たずであったように、そして、彼の習慣が役立た ずであったがゆえに。記憶のよい人間が何も思い出 さないのは、忘れるべきものが何もないからである。

そういう人間の記憶は一定不変で、いわば、日常の きまりきった仕事から生み出されるものであり、そ の人間の非のうちどころのない習慣の‑条件である と同時にまた機能である。つまり、発見のための 手段ではなく、引照のための手段なのだ(Becke仕

1969: 29‑30 [138]

ベケットは忘却こそが「無意志的記憶」の大前提である と主張する。厳密な意味では、アーカイブにきちんと保 存された記憶は想起の対象とならない。というのもそれ は忘れられていないからだ。それが「引照」ではなく「発 見」ならば、喚起されるのは忘却された経験であり、記 憶化されていない記憶である。このような記憶のパラダ イムにおいて、ベケットの焦点は想起に抵抗する記憶、

忘却された経験にあてられる: 「われわれが思い出すこ とのできるものは、われわれの極度の不注意によって記 録され、われわれの存在のあの終局の、あの近づきがた い土牢に貯えられてきたものだけである」 (Becke仕1969:

31 [139] 。

自己の剰窃

『クラップの最後のテープ』はプルーストの定式の延 長線上にある。想起する必要のあるものとそうでないも のを分別する記憶術のメカニズムは覆されるために持ち

出される。というのもベケットが本当に目指すのは「夢 の記憶と現実の記憶のあいだ」を区別しない「徹底的な

(5)

民主主義者」 Becke仕1969:33 [141] であるからだ。

重要なのは、思い起こすべきものと忘れるべきものを峻 別するシステムを撹乱する要素としての記憶である。こ の戯曲の目的は、記憶化されていない記憶を、忘却の中 に完蟹に沈んだ記憶を回想することは可能であるのか、

という問いを掲げることにある。

記憶が忘却から蘇る奇跡の瞬間は、荒れ狂う海を前に 突堤に件む自らの姿を語るクラップの過去の声によって もたらされる: 「いかなる炎がそれに霊感の火を点じた のか、その熱い思い出も冷たい思い出もおれから消えて なくなる、そんな日がいつかやってくるのに備えて、録 音しておかなければならん」 (Becke仕1986: 220 [275] 。 現在のクラップの「いらだってスイッチをきり、テープ

を先に回す」 Becke仕1986: 220 [275])行為は彼の驚き と苦悶を表している。想起の可能性を辞書的な知識に置 換する「寡婦性」から「寡婦鳥」 ‑のシフトとは対照的 に、この場面はクラップの驚きとあせりを露にする。ベ ケット自身のシラー劇場での演出でもこの驚きは特に強 調されている(15)。

ところで何がクラップをそこまで追い込んだのか?

ここにはすべての終わりを予言する黙示録的トーンが 色濃く反映しているが、それ以上に大切なのは、その 予言の言葉が喚起するイメージがそれを聞くクラップの 現在の状況を言い当てていることである。過去の声の描 写(言葉)はステージ上のクラップの姿(イメージ)に 一致する。 「おれがいつも押さえつけよう押さえつけよ うとしてきたあの暗闇が」 (Becke仕1986:220 [276])と いうフレーズはクラップの周りを覆う暗闇と一致する。

つまりテープが喚起するのは(「その熱い思い出も冷た い思い出もおれから消えてなくなる、そんな日がいつか やってくる」)クラップの過去の記憶ではなく現在の記 憶である(16)。クラップの記憶化されない記憶は失われた 現在・現前として喚起される。記憶の自己対象化で抑圧 されていたのは彼の現在そのもの、成功を逃し貧困の中 に生きるクラップそのものなのである。

現在の記憶が喚起されたとき、過去が現在に蘇るとい う単純なアナクロニーが起こるだけではない。というの もそれは存在論的現前をも問題化するからだ。このよう な見解はすでに『プルースト』のなかに充分に表明され ている:

眠っていた者が目覚めると、彼の習慣を運ぶこの密 使は、疲労といっしょにその人間の個性まで消えて しまったわけではない、と安心させるのである。 (こ ういう思索に興味をいだく人びとが)魂の復活を、

同じ源に発する不適切のきわみ、とみなすというこ とは考えられる。記憶は、あのもっとも必要にして 健全で単調な剰窃‑すなわち自己瓢窃、を主張し てやまない。 (Becke仕1969: 33 [140‑41]

「自身の失われたリアリティを、すなわち、失われた 自我のリアリティを回復」 Becke仕1969:41 [147]す

ることは、 「自己剰窃」を前提として可能であり、そこ で明らかにされるのは存在論的自己がすでに失われてい たという事実である。 「無意志的記憶」の機能は失われ たものの追想を可能とするだけではない。失われていた ことに気付いていなかったという状況をも、つまり知ら ずに起こっていた「自己剰窃」をも喚起する。

ベケットにおいて「意志的記憶」と「無意志的記憶」

の弁別はここでより大きな問題を含むことになる。 「意 志的記憶」はパズルに失われたピースが復元されたよう に時間的一貫性を回復する。それは「用語索引」 Becke仕 1969:32 [140])の如く現在において欠如しているもの を過去から探し出す。思い出す主体と思い出される客体 はそこでは敵齢を起こさずに合致する。一方「無意志的 記憶」で想起されるのは目的‑対象ではなく、主体で ある。主体と客体の関係は分断され、 「およそいかなる 同時性の体系をもってしても結びつくことのない、二つ が別個の内在的な動力体」 (Becke仕1969: 17 [128])と してしか表象されない。忘却から喚起された記憶は行き 場のない現在として蘇る。それは帰るべきところのない

「ラザロ」 (Becke仕1969:33 [141])、帰属すべき時制を 持たない時間の孤児である。思い出すもの(主体)と思 い出されるもの(客体)の不一致を前面化する「自己劃 窃」 ‑ 「無意志的記憶」の論理は問う:誰が誰を思い出 すのか?

現在について語り始めたクラップだが、結局彼が繰り 返し聞いてきた淡き思い出のノスタルジーに回帰する。

語ることから聞くこと‑、現在から過去へと逃避を図る のだが、そのような感傷も彼自身の過去によって拒まれ る: 「たぶんおれのいちばんいい時代はもう過ぎたのだ。

幸福になれるチャンスのあった時代は。だがおれはそん な時代をとり返したいとは思わない。いまのおれには、

こんなに活力がみなぎっているんだから。そうだおれは そんな時代をとり返したいとは思わない」 (Becke仕1986:

223 [283‑84])。 「いちばんいい時代」のノスタルジーに 浸ろうとする現在のクラップは、 「そんな時代をとり返 したいとは思わない」と力強く宣言する過去のクラップ に放逐される。現在と過去の不一致は、行き場を無くし たクラップの今を象り出す。過去に浸ることも、現在を 語ることもできない現在こそ黙示録的時制なのである。

一九六〇年と七〇年にクラップを演じたジーン・マー ティン(JeanMartin)はマクミランとフェ‑ゼンフェル

トに宛てた一九七七年の手紙で次のような興味深い事実 を述べている「その翌日クラップは必ず死ぬのだとサム はいつも言っていた。彼はいつもクラップが残骸である ことを力説した。彼は自らの終わりのすぐ手前にあり、

もはや幾歳でもない("hardlyanyageatall")ような老 人なのだ」 257 。時間の非特定性は「すべての人に訴 えかける効果/仇e Everyman effect」 (Pountney 257)に、

「いつにでもどこにでも当てはまる時間」という普遍性 に寄与するわけではない。それは過去と未来を結ぶ時系 列から解き放たれた現在を描出する手段なのだ。

『クラップの最後のテープ』のなかで働いていたのは

(6)

脱一現前化の論理であるならば、それはより具体的には クラップとレコーダーの関係によってより鮮明に舞台化 されている。当初、その機械はクラップの感情的な仕 草と「愛情に満ちた関係」 (「シラーノート」 :Knowlson 205)によって擬人化され、人称化される。そしてそれ は彼の「自慰行為的代行」あるいは「伴侶」 (Knowlson 181)としての役割を担うことになる(17)。しかしその擬 人化のプロセスはクラップ本人の脱存在論化との対照と しての機能することになる。マシンの擬人化と人間の 反擬人化は相補的な関係を形成するのだ。この相補関係 をエリクソンは次のような言葉で定義する: 「現在のク ラップは録音されたものの亡霊となる」 (185)(18)。舞台 上のクラップがテープの声の単なるアリバイとなるにし たがって、肉体的存在と声の非一存在は転倒する。この 相補性の緊張関係は最終場面のフェイドアウトで頂点に 達する: 「幕引きに中断されるまで、録音機につけられ

たマジックアイがかすかに光を放つ」 (Knowlson233)c それに対して、 「前を見つめたまま動かない」クラップ は「夢に消耗された男」 (Knowlson233)として、空虚 な存在として措かれる。あらゆる時制から追い出された 主人公の様態はその呆然とした態度(「クラップは前を 見つめたまま動かない」 Becke仕1986:223 [284])に反 映される。この最後の場面、観客が目にするのはクラッ プの行き場を失った現在である。

近代科学の進歩がある種の忘却によって促進されてい ることホルクマイヤー(MaxHorkheimer)とアドルノ (neodorW. Adorno)は主張する。彼らは『啓蒙の弁証 法』のなかで、手術と生体解剖の積み重ねによる医学、

生理学の進歩を次のように邦旅している: 「積年の自然 支配、医療技術やそれ以外の技術は、 [他者としての被 験者の]苦しみから蔽い隠す幻惑から、その力を汲み とっている。それらは、忘却によって初めて可能になっ たのではなかろうか。科学の超越論的前提としての、記 憶の喪失。あらゆる物象化は忘却である」 (ホルクマイ ヤー・アドルノ366)。対象化・物象化することとは、主 体の対象‑の同情を、自らが科学的実験の被験者であっ たかもしれないという想像を、禁じることの上に成立す る。ホルクマイヤーとアドルノがいう「忘却」とは、主 体・客体という二項カテゴリーの絶対性、その不可逆性 の結果である。ベケットはこのような対象化‑忘却の科 学を超越しようとする。忘却の深遠から敵い出された

「現在の記憶」は、近代科学的主体・客体の関係を、観 察の対象として切り離された対象と、それ‑の同情を禁 じられた施術者としての主体の関係を覆す。というのも 忘却の末に回復されるベケット的自己は存在論的なカテ ゴリーに属さないからだ。記憶を巡る考察でベケットが 描き出そうとするのは、非存在論的な自己、過去も未来

もないような現在である。

注(1)翻訳は『マーフィー』川口喬‑訳した。以下、英語 版の頁数の後に[ ]内に日本語訳の頁数を挿入し

>,

(2)翻訳は『モロイ』安堂信也訳を参照した。

(3) 『モロイ』の第二部でも忘却は重要なモチーフとな る。主人公モランの忘却は次第に彼の記憶を侵食 する: 「もう一度、モロイを見つけ出したときにど うしたらよいかを思い出そうとしてみた」 (Becke仕 1959:146 [221])という台詞が何度も繰り返される。

トーマス・ボスルウェイト(ThomasPostlewait)は すでにベケットにおいて記憶の損失がナラテイブの 硬質さを切り崩す重要なモチーフであることを指摘 している: 「ベケットの芸術では内的時間のクロノ ロジーは充溢する記憶によって現在から逃避するよ うには機能しない。それは過去の経験から切り離さ れた現在の瞬間を悲しくも喚起するものとして機能 する。プルーストでは、過去が再発見される瞬間に 現在は削除される;ベケットでは通常、現在の断絶 の感覚によって過去が削除されるか、よそよそしい 断片のなかに隔離される」 (Postlewait 474‑75) 。 (4)翻訳は『名づけえぬもの』安藤元雄訳を参照した。

(5)ボードレールの有名な『現代生活の画家』は「記憶 の芸術」という章を含んでいる: 「其の芸術家がい よいよ作品の決定的な製作にとりかかった時、モデ ルは助けになるよりはむしろ邪魔になるだろう。そ れどころか、ド‑ミエやG氏のように長年来、彼 らの記憶力を行使してこれを影像で満たすことに慣 れてきた人々は、モデルを前にし、モデルにそな わる細部の複雑さを前にすると、自分の主要能力が 乱され、麻痔したようになることさえ起こるのだ」

(174‑75) 。

(6)翻訳は『ジョイス論/プルースト論』収録の「プルー スト」糊揮雅子訳を参照。

(7)翻訳は『ベケット戯曲全集3』収録されている高橋 康也訳を参照したが、やや改変した。

(8)翻訳は『ベケット戯曲全集3』収録されている高橋 康也訳を参照。

(9)拙訳。

(10) 『クラップの最後のテープ』を『プルースト』か ら解読する批評はもはや古典的なものとなりつつ

あ る Arthur K. Oberg, "Krapp's Last Tape and the Proustian Vision" (1966)のほかは以下の文献を参 照: Eugene Webb, The Plays of Samuel Beckett (1972:

67); Per Nykrog, "In the Ruins of仇e Past: Reading Beckett Intertextually (1984: 308); Jon Enckson,

"Self‑Objectification and Preservation in Beckett s Krapp's Last Tape" (1991: 184); Hwa Soon Kim, The Counte坤oint of Hope, Obsession, and Desire for Death in Five Plays by Samuel Beckett (1996: 87).

(ll)翻訳は『ベケット戯曲全集1』収録の安堂信也・高 橋康也訳を参照。

(12)ダグラス・マクミラン(DougaldMcMillan)とマー サ・フェ‑ゼンフェルト(MarthaFehsenfeld)は

「寡婦性」を巡る自己言及性について指摘してい る: 「編集作業において、ベケットはクラップの母 の寡婦性からクラップ自身が近親者に先立たれて いる状態へと強調点を移している(McMillanand

Fehsenfeld 253) c

(13)ダニエル・オルブライト(DanielAlbright)の主張 する「非収数の原理」もまたこのことを指してい

(7)

る。というのも、それは「意図と出来事の、観念と 行動の、言葉と意味の[…]合間」 (Albright109‑10) を指しめすものであるからだ。ロルフ・プリュワ‑

(RolfBrewer)の次の意見も参考にしておこう: 「一 方で、人生の三時期に存在する一人のクラップがい る;また一方で三人のクラップがいる。 L]前者 では、クラップは彼自身を三つの時期にわたる一つ の自己[oneSelf]として理解しているが、後者で は三つの自己[threeselves]として理解している」

(Breuer 564‑65) 。

14 翻訳は『短編集』収録の「追い出された男」片山昇 訳を参照。

(15) 「シラーノート」では「この‑年」という台詞と 同時に「クラップの録音機に対する怒り」が引火 し、次第に「興奮した、急速の態度」をとらせる

(Knowlson 113) 。

16 「現在の記憶」というボードレールの『現代生活の 画家』にすでに出てきている二「古代芸術の中に、

純然たる技術、論理、一般的方法以外のものを研究 する者にこそ、禍あれ!そこに溺れこんで、現在 についての記憶を彼は失う。めぐり合わせによって 提供される価値や特権を、彼は放棄する。けだし、

われわれの独創性のほとんど大部分は、時がわれわ れの感覚するところに押しつける刻印からくるのだ から」 (ボードレール172)。

(17)メリー・カタンザロもまた次のように指摘してい る: 「クラップはもともと最愛の人に注ぐべき感情 を物に転移させている;彼はテープを「奴さん/

rascal」、 「こいつ/ scoundrel」などと名づけて呼ん でいる 404‑5 。

18 「テープレコーダーの擬人化された傾向」の転倒に 関して、ダニエル・オルブライトも語っている:「実 際クラップはテープレコーダーの産物として考えら れる。彼はテープの声の存在を説明するために必要 とされる薄っぺらな仮説に過ぎない」 (Albright93)。

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参照

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