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申采浩の「我」言説研究 ―

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はじめに

朝鮮が近代国際体系に飲み込まれ日本の植民 地に転落する激動の時代に青年期を迎えた申采 浩(シン・チェホ,1880-1936)(1)は,東北アジ アの伝統的地域秩序の崩壊という現実を最も的 確に認識した伝統的知識人の一人であった。多 くの朝鮮人知識人の骨の髄までしみ込んでいた 儒教的普遍主義から派生する「事大主義」や

「東洋平和論」をもっては,社会進化論に拠っ て立つ「優勝劣敗」「弱肉強食」「適者生存」言 説を盾にした帝国主義侵略に対し,独立を維持 しえないという現実認識である。申采浩は,事 大主義,東洋主義には「国家主義」を,帝国主 義には「民族主義」を対置した。用語としての

「国家主義」の主張は植民地への転落,亡命,

アナキズムへの傾斜によって次第に立ち消えて いくが,「民族主義」の主張は時の経過ととも にその峻烈さを増していった。これら二つの異 なる「主義」の根本には同一の思惟が敷かれて いたものと考えられる。その思惟とは「我」認 識,それも主観的に措定できる観念的な「我」

認識である。申采浩が1924年頃に書いた(2)と される『朝鮮上古史』の総論には,主観による

「我」認識に関する次のような一節がある。

何を「我」といい,何を「非我」というのか。

深く掘り下げることなくいうならば,およそ主観 的位置に立ったものを「我」といい,そのほかは

「非我」という[申1977-a: 31](3)

上記主観的位置を重視する「我」定義からは,

他者から与えられるアイデンティティに対する 拒否を確認しうる。

ところで,申采浩の「我」をめぐる彷徨は,

社会活動の初期から始まっていた。1907年9月 16・17日付『大韓毎日申報』紙上で発表した論 説では,観念的な我,すなわち「大我」こそ,

真正なる不死の我であると説いている。以下は その抜粋である。

小我とは物質的・躯殻的・仮の我であり,大我 とは精神的・霊魂的・真の我を指す。〔中略〕小我 は死して,大我は何法ゆえ不死なのか。小我は,

我の耳目,手足であり一躯殻中に縛られた我であ る。〔中略〕大我は,我の精神,我の思想,我の目 的,我の主義であり,これは無限自由自在の我で あり,往こうとすれば必ず往け,遠近のない我で

*早稲田大学大学院社会科学研究科 博士後期課程5年 論 文

申采浩の「我」言説研究

― アイデンティティの政治という視座から ―

曺   明 玉

(2)

あり,行おうとすれば必ず達し成敗がない我であ る。[申 1977-c: 85]。

上記引用中の「大我」からは,精神,思想,

目的,主義という観念論的外延を確認しうる。

前述した二つの「我」認識は,それぞれ申采 浩の社会生活における末期と初期の言説に属す ことから,申采浩は一生涯主観的かつ観念論 的な「我」認識に対峙し続けたと解釈できよ う。ここから,アイデンティティの追求と,申 采浩の生涯の中で行為として表出された民族独 立運動,歴史研究,アナキズム運動とはいかな る関係にあったのか,という問いが引き出され る。上記の問いに対し,本稿では社会構成主 義(4)の「アイデンティティの政治(Politics of

Identity)」アプローチを適用する。「アイデン

ティティの政治」とは,集団のアイデンティ ティが社会や政治の中でどのように表象されて いくのかを扱うものである[Gergen 2009: 65]。

ガーゲンによれば,アイデンティティの政治に は歴史的に次の三つの波があった。第一に抵 抗,第二に自己定義の試み,第三に政治的再構 成である[Gergen 2009: 51-52]。他者より強要 されたアイデンティティに対する抵抗から発生 したこれら三つの社会現象を,本稿では「アイ デンティティの政治」の基本要素とみなすこと にする。

社会構成主義といったポストモダン的ディシ プリンの中で,申采浩の思想と行動を理解する 試みは,申采浩がイデオロギーの機能にある程 度自覚的なイデオローグであったことと関係し ている。前述の通り申采浩は「我」を定義する 上で何よりも主観と観念を重視した人物であ る。然るに客観と現実を無視したわけではな

い。観念を主観的に操作して現実を作り変えよ うとしたのである。具体的には,「民族」の概 念を定義し,そのアイデンティティに基づく民 族史を書き連ね,ひいては民族の独立を達成し ようとした。その際,「科学」と称される客観 的な方法論を可能な限り取り入れ論理展開する ことを怠らなかった。すなわち帝国主義,民族 主義,社会進化論,マルクス主義,無政府主義 等々,近代主義(Modernism)が投影された諸 観念を継続的に自己の思想に取り込み,その知 識をもって植民地という現実を打開しようとし た。申采浩は知識自体を絶対視することはな い。知識の背後に潜む政治的利害や価値観を 看破し,権力者のそういった知識を逆手にと り,自らが操作して自己解放に利用した。要す るに申采浩は,権力者から発されるメッセージ が現在の我々の言葉でいう「イデオロギー」で あることを見抜き,権力を持たぬ者が現実を作 り変える戦略として自ら自覚的に「イデオロー グ」になったのであった。イーグルトンによれ ば,イデオロギーは,1)記号とか意味とか価 値観が,支配的な社会権力の再生産に,どのよ うに加担するかを述べるとき使われるが,それ だけでなく2)ディスクール(言説)と政治的 利害との重要なからみあいを示す時にも使われ る[イーグルトン1999: 458]。この分類で言え ば,帝国主義のイデオロギーは1)に属し,申 采浩自身が使用した自己解放のイデオロギーは 2)に属す。イデオロギーを理解する上で重要 な概念は言説(5)である。言説とは,言語表現 を「事実」というよりは「関係性」に基づく認 識様式の反映として捉える時に使用される言葉 である。ここからイデオロギーは政治的な言 説,ナショナリズムは国家や民族に関する政治

(3)

的な言説とみなしうる。イデオロギー,アイデ ンティティ,ナショナリズム等が散りばめられ た申采浩の思想と行動は社会構成主義が取り扱 う重要概念に符合する。よって本稿は,「アイ デンティティの政治」の基本要素に従って,申 采浩の言語表現を言説として読みなおすと同時 に申采浩自身をイデオローグとして社会構成主 義の視点から再評価することを目的とする(6)

1.申采浩の「我と非我との闘争」

本章では申采浩が歴史を定義する際に使用し た「我と非我との闘争」というキーワードにつ いて詳しく分析する。

前章でも言及した『朝鮮上古史』の総論には,

「歴史」に対する次のような定義がある。

歴史とは何か。人類社会の「我」と「非我」の 闘争が,時間から発展し空間から拡大する心的活 動の状態の記録である。世界史といえば,世界人 類がそれを経てきた状態の記録であり,朝鮮史と いえば朝鮮民族がそれを経てきた状態の記録であ る[申1977a: 31]。

申采浩はまず歴史を「心的活動の状態の記 録」であると,観念論的にとらえる。またその

「心的活動」が記録すべき主要素は「『我』と『非 我』との闘争」であるとの二元論を唱える。世 界史は世界の人類が経てきた我と非我との闘争 の記録であり,朝鮮史は朝鮮民族が経てきた我 と非我との闘争の記録であるとして,申采浩は

「朝鮮民族」を「我」の一単位と認める。

朴賛勝の研究によれば,「時間」と「空間」,

「心的活動」というフレーズは,申采浩が参照

したとされる梁啓超の『中国史研究法』(1922)

及び,梁啓超が参照したとされるベルンハイム の『歴史学入門』中で使用されている(7)。しか しながら朴賛勝も指摘している通り,「我と非 我との闘争」という表現は,援用元の梁啓超及 びベルンハイムの著書には存在しない。この

「我」を,唯識論の「真我」,荘子の「大我」の 思想と関連付けた研究はあるが(8),唯識論や荘 子には「非我」を対置させる構図がない。よっ て「我」と「非我」の二元論は,申采浩自身の 現実認識であるとみてよい。

「我と非我との闘争」を更に掘り下げるため に,申采浩の別の論考を参照する。以下は第一 次世界大戦の終結後に書かれた「利害」という 論考からの抜粋である。

人類は生存する以外に他の目的がない。生存に 符合するものを利とし,生存に反対するものを害 とし,利害の権衡であらゆる論説が生じる中,人 類に利となるものは善といい,害となるものは悪 といい,利となるものは正といい,害となるもの は邪という。〔中略〕倫理・道徳・宗教・政治・風 俗・習慣全てのものが全て「利害」の二字の舌で 批評をするのだ[申1977-c: 145]。

申采浩は,人類の究極の目的は「生存」であ るとする。生存に「符号」すれば「利」であり,

「反」すれば「害」とみなす。そして「利」を もたらせば「正」や「善」であり,「害」をも たらせば「邪」や「悪」とみなされる。また社 会生活における規範の全ては「利害」の見地か ら語られているに過ぎないのだという。

第一次世界大戦を目撃した申采浩は,人道政 治及び宗教に幻滅し,利害の構図に対する信念

(4)

を一層強固にした。以下は前述の「利害」から の別の抜粋である。

今日,欧州戦争につき我が東方の人に評判を下 せといえば,甲も野心をもち乙も野心をもって成 り立った戦争であるのに,協商派は正義の神を呼 び自己を救えよとし,聯合派は人道の筆をとり敵 国を誹る。是非,是非よ,是非がどこにあるのか。

ただ利害の別名だけである。〔中略〕ゆえに一つの 国民となって,この世界で生存を求めようとする のなら,ありもしない是非を区別するのでなく,

ただ利害のために活動するのみである[申1977-c:

146]。

申采浩は前近代の朝鮮が規範とした「是非」

観念は,近代帝国主義の時代には一切通用しな い,世界は「利害」で動いているのだと痛切に 訴える。ところでこの時代の人間はその究極の 目的である生存を一国民としてのみ担保でき た。ここで生存とは肉体的生存ではなく政治的 生存を指す。政治的に生きるためには国民であ る必要があり,世の中が回る原理が利害である なら,我々は国民の利害を優先すべきであると いうのである(9)

「利害」の最終パラグラフでは,「生存」のあ るべき姿が,儒教的倫理観に拠って提起されて いる。

生存を維持するためには是非は問わず利害のみ 顧みるべきとはいえ,売国者も一身の生存のため であり,偵探奴も一身の生存のためであるから,

これは罪がないといえようか。否,否。私の所謂 生存は個身の生存でなく全体の生存であり躯殻の 生存でなく精神の生存である。躯殻と個身の生存

のみ知るは禽獣であって,精神と全体の生存を 知ってはじめてこれを人の生存というのだ。私は 人の生存のために利害を分けよといい,禽獣の生 存のために利害をわけよというのではない。

個身の生存のみ求めて全体の死滅を招けば個身 もひいては死滅する,それゆえ君子は個身を犠牲 にしても全体を生かそうとする,躯殻の生存のみ 求めて精神が死滅すれば不用な一部の臭皮嚢のみ 残るのだから何が大切なものか。

よって烈士は敵国と戦って全国民が白骨を太白 山ほど高く積み上げ名誉の滅亡をしたとしても 奴隷となって苟生はしないのだ[申1977-c: 150- 151]。

申采浩は売国奴と愛国者の利害追求の違いを 禽獣と人間の生の違いで説明する。「禽獣」に とって「生きる」とは,「躯殻」(身体)と「個 身」(個人)を生かすことであるが,「人」にとっ て「生きる」とは「精神」と「全体」を生かす ことである。ここでいう「全体」とは,民族を 入れる器としての「国家」である。であるから,

「人」,「君子」たるもの,「敵国」と戦って「滅 亡」するとしても,「奴隷」として「苟」も「生」

きようとはしないのだ。

精神と全体の生存,すなわち政治的生存を目 的とした「我と非我との闘争」という申采浩の 歴史定義は,政治的なものを「友敵の区別」で 説明したC.シュミットの「友敵理論(10)」に通 底する。シュミットがその著書『政治的なもの の概念』(1927)で発した警告は次の通りであ る。

もしも,一国民が,政治的生存の労苦と危険と を恐れるなら,そのときまさに,この労苦を肩代

(5)

わりしてくれる他の国民が現れるであろう。後者 は,前者の「外敵に対する保護」を引き受け,そ れとともに政治的支配をも引き受ける。この場合 には保護と服従という永遠の連関によって,保護 者が敵を定めることになるのである[シュミット 1970: 59]。

政治的生存を諦めるのなら,その代償として 植民地支配を甘受しなければならない。植民地 支配下で被支配者は,誰が「敵」で誰が「友」

なのか,申采浩の言葉でいえば誰が「非我」で 誰が「我」であるのかを自己決定できない。そ れは保護者によって定められるからである。要 するに政治的生存を諦めるのなら,アイデン ティティを奪われることを覚悟せよと言ってい るのである。政治的生存とは,シュミットに とっては「友敵の区別」を自らが主体的に行い,

戦いによって敵を駆逐して初めて保てるもので あり(11),申采浩にとっては「主観的に」措定 した「我」が「非我」との「闘争」に勝ち,歴 史に民族の名を刻印することである。これは申 采浩がいかに近代国民国家の政治的生存条件に 対し現実主義的な捉え方をしていたのかを示唆 している。

申采浩は一方で「利害問題のために,釈迦も,

孔子もイエスもマルクスもクロポトキンも生ま れた(12)」[申1977-c: 25]として孔子までも切っ て捨てておきながら,「人」の在り方と「君子」

の在り方をオーバーラップさせ,信念のために は戦いの果ての殉死も厭わないという,いかに も儒者出身らしい道徳観を漂わせている。申采 浩においてはシュミット的とも言いうる「政治 的生存」を求めることこそが,その時代の君子 の生き方であり,それが自身追求すべき「人」

の道なのである。

申采浩の「我」は個人を超え,「全体」と一 体化する我である。この「全体」の対応物とし て「国家」が想定されているが,実は国家は外 延の一つでしかない。申采浩のいう人類の究極 の目標が政治的生存であることに鑑みれば,政 治的生存を担保する政体がたまたま国家であっ たがために,申采浩は全体の境界線を暫定的に 国家としたのだと捉えるべきである。このよう に現実主義的な思惟があればこそ,後に国家を 否定する無政府主義者への転向もありえたの だ。以下はアナキズムの影響下にあった抗日武 装組織「義烈団」のために申采浩が書き下ろし た「朝鮮革命宣言」(1923)からの一節である。

以上の事実に拠り我等は,日本強盗政治すなわ ち異族統治が我が朝鮮民族生存上の敵であること を宣言すると同時に,我等は革命手段をもって我 が生存上の敵である強盗日本を殺伐することが則,

我等の正当なる手段たるを宣言する[申1977-c:

36-37]。

1923年頃からはアナキストを自認(13)してい たとされる申采浩であるが,この段階にあって もなお,「我」は「朝鮮民族」であり,「非我」

は「異族」の「日本民族」であり,我の生存上 の「敵」である「日本強盗政治」を暴力的な「革 命手段」を以て倒すことが至上命題であった。

ただし,日本は「非我」の外延の一つに過ぎな い。「非我」は「我」内,すなわち朝鮮民族内 部にも存在することを認めて,以下のように告 発している。

以上の事実に拠り我等の生存の敵である強盗日

(6)

本と妥協せんとする者(内政独立・自治・参政権 等論者),強盗政治下に寄生せんとする主義をもつ 者(文化運動者)も皆,我が敵であることを宣言 する[申1977-c: 38]。

日本の統治に妥協し,外交は日本に任せて

「内政」のみの「独立」,「自治権」,「参政権」

を得ようとする者は皆,民族としての我の政治 的な生存を危うくするため,「敵」として区別 しなくてはならない。

『朝鮮上古史』総論には,「我の中の非我」に ついて次のような一節がある。

何にしても必ず本位の我があるなら,我と対峙 する非我があり,我の中に我と非我があれば,非 我の中にもまた我と非我がある。よって我に対す る非我の接触が繁劇であるほど非我に対する我の 奮闘がいっそう猛烈で,人類社会の活動は休息 する暇なく歴史の前途は完決する日がない[申 1977-a: 31]。

あらゆるものには本位の「我」があり,それ と対峙する「非我」がある。「我」の中にも「非 我」はあり,「我」は「非我」を切り離す奮闘 を日々繰り広げつつ歴史を刻んでいくというの だ。

国際社会は国民国家の政治的生存をめぐって 覇権争いを繰り広げており,個人の身体や政治 的自由の生殺与奪も究極には国家が掌握してい るという現実に鑑み,申采浩は,個人ではない 民族「全体」の生存と,身体ではなく政治的文 化的社会的自由を包含する「精神的」生存を,

真の人間が追求すべき生存であるとした。申采 浩の闘争の刃は「我の中の非我」をも抉り出さ

んとする。そうすることが,戦いで生き残り歴 史を刻印する民族になることであるという信念 をもって。しかしながらこのように「非我」で あれ「我の中の非我」であれ現前する「敵」を 情け容赦なく告発し排斥する行為から,明日へ の希望と人々の共感を生み出すことは困難であ る。政治や社会運動に携わる者が時として敵と 妥協をしつつ歴史の歯車を前へ推し進めようと するのとは対照的に,申采浩は徹底的に妥協を 拒んだ。「固執不通(14)」――これが申采浩の人 となりを評して同志,知己たちが使用した代名 詞であった。

他方で,申采浩は朝鮮の近代史上初めて民族 史観を確立した人物として,北朝鮮,韓国を問 わず定評を得ている。両国の教科書にも掲載が あるほどである。けだし申采浩が現代人にア ピールする力は,我を非我との闘争に駆り立て る不屈の闘志にあるのだろう。この不屈の闘志 にイデオローグとしての一面が付加された時,

後世の朝鮮人の記憶に「朝鮮民族」の理念型が 刻みこまれた。申采浩のイデオローグとしての 一面は次章で考察する。

2.申采浩が再構成した「我」

「檀君は朝鮮民族の始祖」という言説は,申 采浩が単独で創造したものではない。植民地転 落直前の大韓帝国末期,救国の念に駆られた開 化知識人層が当時の内外の社会政治状況(15)と 共振する中で逢着したのがこの言説である。近 代的な意識を含む「民族」言説は,梁啓超及び 渡日留学生の著作から朝鮮国内に持ち込まれ 1907年頃より本格的に新聞紙上に登場し始め た(16)。当初は「国民」言説が優勢であったが,

(7)

国家が形骸化してゆくに従い,「民族」は国権 回復,独立運動,新国家建設の主体として「国 民」言説に取って代わるようになる(17)。近世 からあった「檀君」言説を近代的な「民族」言 説と結びつけ,檀君民族主義拡散の結節点と なったのは大倧教(18)である。申采浩は1914年 頃,奉天省懐仁縣で尹世復(大倧教第三代都司 教)が設立した学校の経営に参与しつつ,尹と 共に高句麗の遺跡及び白頭山一帯を踏査してい る(19)。『朝鮮上古史』執筆前に上梓したとされ る『朝鮮上古文化史(20)』は大倧教の大檀君朝 鮮史観の影響を受けている(21)。大倧教は,中 国東北,当時の地名で言えば間島で独立運動と 表裏一体の宗教活動を行ったが,当局から度重 なる弾圧を受け,団体としての勢力を次第に 失っていった。申采浩は,大倧教のように宗教 への帰依とその布教によって民族の魂を保存す るよりも,実証主義的な科学によって民族主義 を貫徹する方を選んだ。同時代性への志向が強 かった申采浩は,実証主義で武装した敵には同 じく実証主義で対抗しようとした。それが独立 運動と表裏一体の歴史研究であり,これを通じ て後世の朝鮮人に歴史的な「我」のあるべき姿 を刻印したのであった。

歴史的な「我」については,既出の『朝鮮上 古史』総論に次のような一節がある。

歴史的な我となるには必ず二つの属性を要する。

それらは(一)相続性,すなわち時間における生 命の不絶であり,(二)普遍性,すなわち空間にお いて影響が波及することである。〔中略〕非我を征 服し我を表彰すれば闘争の勝利者となり未来に歴 史の生命を繋ぎ,我を消滅させ非我に貢献するも のは闘争の敗北者となり過去に歴史の陳跡のみ残

す,これは古今の歴史で変えられない原則である

[申1977-a: 31-32]。

「我」に「相続性」と「普遍性」をもたせる こと,すなわち「歴史的な我」となることは未 来に歴史の命を繋ぐことを意味する。過去の

「我と非我との闘争」が現在の「我」をつくり,

現在の「我と非我との闘争」が,未来の「我」

を創る。では我が住まう空間に連綿と受け継が れてきた我の普遍性とは何か。申采浩は,未来 に引き継ぐべき我の普遍性を過去から探ろうと する。ただし,申采浩の相続性と普遍性探し は,あくまでも現在の問題意識,すなわち目の 前の現実に対する不満に基づいている。1927年 頃(22)に書かれた随筆「大黒虎の一夕談」の中 で,申采浩は現実に対する態度を次の三つに分 類した。

不満の現実―すなわち最大偉力をもつ現実から 逃避する者は隠士であり,屈服する者は奴隷であ り,格闘する者は戦士である。上記三者から一つ を選択せざるを得ないとすれば,我等は並ぶ列を 自覚すべきである[申1977-d: 324]。

現実から逃避するのか,現実に屈服するの か,現実と戦うのか,これら三つの選択肢の中 から申采浩が選んだのは「格闘する戦士」で あった。この選択の結果は本文中に明記されて いないにしても,執筆当時アナキスト的破壊活 動に没入していた申采浩が「格闘する戦士」の 列にいたことは言わずもがなであろう。

愛国啓蒙運動当時より申采浩が問題視してい た現実は,普遍的で相続性のある「我」を過去 からみつけて未来に引き継ごうにも,「非我」

(8)

である日本が「我」の歴史に干渉し,それに よって未来を日本に有利な方向に運ぼうとして いることであり,「我」である朝鮮人が日本の

「近代的な」歴史叙述に幻惑され,朝鮮の精神 的な隷属を見て見ぬふりするか,事実としてそ れに屈服してしまうことであった。

朝鮮史の研究は当時大陸進出を準備していた 日本の参謀本部と国策への貢献に関心をもつ日 本人知識人らによりリードされていた(23)。近 代的な叙述方法―新史体―を取り入れた初の代 表的な朝鮮通史であったがゆえに,朝鮮国内 の知識人に大いに参照された林泰輔の『朝鮮 史』(1892年)は,「任那日本府の加羅七国統 治」,「神功皇后の新羅侵攻」,「百済の日本への 服属・朝貢」,「日本の保護による百済の滅亡回 避」,「高句麗の日本への朝貢」,「耽羅(24)の日 本への朝貢」,「統一新羅の日本への朝貢」等,

古代から朝鮮が日本に従属していたという叙述 に満ちている。本書はまた朝鮮史の起源を箕子 とし,これに基づき朝鮮の中国との関係は「支 那の属国のようなもの」と叙述する(25)。檀君 にまつわる諸説については,議論の余地さえ付 与せず「荒唐無稽で信じがたい」と一掃しなが ら,『日本書紀』の「檀君即素盞嗚」説は付会 に近いとしつつもそれを可能にする条件を挙げ ている(26)

『日本書紀』の一節を根拠にして日本の優位 性と朝鮮の他律性を強調する志向は,既に日本 の近代教育(27)に反映され一般の人々の朝鮮観 に浸透していた(28)。それがどのような効力を もつのか,申采浩は「読史新論」(1908年)中 で次のように指摘している。

日本人は一切の歴史書の中にこれらの語(すな

わち,高麗が元来日本の属国であった等(29))を 掲げ相伝相誦し,学校講義で童子が雀躍し,間 居読書に丈夫が気湧し,古くから韓国を自家所 有物のごとく認定し,一般国民の外競思想を鼓吹 する。この事実の有無が如何にあろうとも,国民 の精神を振作する点はこれもあるいは一途であろ う。然りと雖も歴史の捏造がどうすれば此に至る のか。彼は日々誣い,我は日々愚となるのだから,

これ等もまた細事と看過することはできない[申 1977-a: 497]。

日本は,朝鮮が古来より日本の「属国」で あったとの観点を近代教育に組み込みんだ結 果,末端の国民に至るまで朝鮮を「自家」の「所 有物」のように考えさせ,国民の間で競って外 にすなわち朝鮮及び中国大陸に国権を拡張しよ うとする「外競(30)」意識を奮い立たせた。こ のように申采浩は,近代日本版中華意識とその 拡散が人心にもたらす効果を構造的に把握して いた。

前述のような日本人の朝鮮観を投映した「朝 鮮史」が近代的な叙述方法という形で朝鮮に 及んだ時,朝鮮の知識人はいかに対応したの か。困難にあった20世紀初頭に近代的な方法論 によって歴史を修めた朝鮮人知識人は実のとこ ろ皆無に等しかった。近代的な手法による朝鮮 史研究は,「内安外競」,「大陸雄飛」という日 本の当時の歴史的課題を自己の使命と認識して いた新進気鋭の日本人研究者によって着手され たのであった。当時の朝鮮人知識人が日本人研 究者の叙述する朝鮮史に違和感を覚えたとして も,近代高等教育を受けていない彼らには反証 する術がなく,彼らにとって新しい「史実」に 譲歩するほかなかったであろう。前述の林泰輔

(9)

の『朝鮮史』(1892年)を「翻訳」した朝鮮人 知識人玄采を例にあげてみよう。当該書籍を朝 鮮国内で『東国史略』(1906年)として翻訳出 版した(31)玄采は,新史体(32)『朝鮮史』に網羅 された内容の全てを忠実に翻訳してはいない。

林が「荒唐無稽で信じがたい」と切り捨てた檀 君を,朝鮮の他の教科書と同じように朝鮮史の 起源とし,神功皇后の新羅征伐や任那日本府設 置など日本的植民史観が反映された記述は大幅 に削減している。さりとて申采浩にしてみれ ば,こういった教科書に投影された「非我」的 史観を痛嘆せざるを得ない。前述の『読史新 論』中,申采浩は次のように朝鮮人の歴史を見 る眼差しを批判した。

我が国の中世頃には歴史家が支那を崇拝し,支 那人の自尊自傲の特性から自尊貶外した史蹟を我 史に盲目的に収め,一般,卑劣歴史を編成した故,

民気を墜落させ,幾百年国恥を醸した。近日の歴 史家は日本を崇拝する奴性が長じ,我神聖なる歴 史を誣蔑する。嗚呼,此の国は将にどの地に脱駕 せんとするのか。諸公よ,歴史を編す諸公よ(33)

[申1977-a: 496]。

過去は中国に対する,「近日」は日本に対す る崇拝心から,彼らの眼差しをそのまま受け入 れてしまえば,彼らが描くままの自己を再生産 することになる。他者が作り上げた自己が形成 されるのだ。申采浩は,現実と格闘する戦士と して,現前する巨大な権力秩序に屈服する「奴 隷」を憎んだ。言うなれば,中国や日本といっ た「非我」に自己のアイデンティティをゆだね る朝鮮人を「我の中の非我」として憎悪した。

魂は,領土を喪失しても集団的自己として存在

し続け捲土重来を期する最後の拠り所である。

その魂を闡明すべき歴史家が,本来果たすべき 歴史的使命を果たせないとすれば,申采浩自身 が乗り出すほかなかったのであろう。申采浩は なるべくして近代朝鮮初の「民族史観」の樹立 者となった。

朝鮮史における「民族史観」とは,朝鮮の歴 史を,王朝史ではなく民族史を基軸に解釈する ことである。その歴史は,自己の力を恃んで現 実を肯定的な方向に作り変える効果をもたなく てはならなかった。事大主義や植民主義を肯定 するのではなく,それらに民族主義で対抗す る,戦う民族の魂を発掘しなくてはならない。

その作業はすなわち,申采浩自身の理想を投影 した朝鮮史を再構成することであった。

申采浩は朝鮮民族を単一民族とはみていな い。「東国〔朝鮮――筆者〕民族は大略六種に 分けることができる。一に鮮卑族,二に扶餘 族,三に支那族,四に靺鞨族,五に女真族,六 に土族を挙げられよう(34)」[申1977-a: 473]と 述べているように,民族の雑種性を認めてい る。ただしこれらのうちいずれの民族が「形 質上,精神上他の五族を征服し,他五族を吸 収」[申1977-a: 475]したかという基準に従っ て,「主」族を論じたのである。申采浩に選ば れた朝鮮の主族は「扶餘」族であった。申采 浩は,扶餘族を朝鮮の始祖檀君の子孫(35)であ り,高句麗・渤海は扶餘族によって建国された とした(36)。このようにみなすことで,申采浩 はいかなる朝鮮民族像を打ち立てようとしたの か。他民族(中国)の侵略を幾度となく撃退 し,領土を現中国東北地域まで拡張した強大な 高句麗・渤海を有する朝鮮民族像である。申采 浩によれば扶餘族の尚武精神は檀君古朝鮮時代

(10)

の「宗教的武士魂」[申1977-c: 181]を淵源と する。倫理と教養を包含する朝鮮固有の郎家思 想である尚武精神は三国時代に花開き,高句麗 では「先人」として,百済では「蘇塗」として,

新羅においては「冒険,尚武,歌舞,学識,愛 情,団結,熱性,勇敢による相互引導に美と堅 固が加わり」[申1977-c: 221-222],「花郎」と して昇華され,この「花郎」精神が高麗に至る まで連綿と受け継がれていった(37)。申采浩は,

花郎を「我が歴史の骨であり,国の花である」

[申1977-c: 222]と措定し,扶餘族の尚武精神 をこれに代表させた。このような叙述により,

実質的な所有領土においても精神文化において も他民族に引けをとらない強大な朝鮮民族像が できあがるのである。これを「大檀君民族主 義」[パク2004]と呼ぶことにする。

申采浩は,中世の朝鮮人史家の事大主義王朝 史研究,近代の日本人による植民史観的な朝鮮 史研究を通じ,史観によって客観的事実がいく らでも操作されうることを認識し,朝鮮の事大 主義史観,日本の植民史観に対抗的な民族史観 を定立した。この民族史観は前述したように,

民族の固有性―国祖檀君及び花郎の精神文化―

を基軸にしており,その根底には「我=自民族」

と「非我=他民族」との闘争を歴史の本質とす る思想がある。朝鮮民族を構成する民族の中で 申采浩が主族と目した扶餘族はいわば,『朝鮮 上古史』総論でいうところの「我の中の我と非 我」との戦いにおける勝利者であり,理想を凝 縮させた理念型のアイデンティティとでも表現 しえよう。

勝者に至上の価値を置く考え方に,当時の東 北アジア思想界を席巻していた社会進化論的現 実認識が反映されていることは疑いない。た

だ,この認識が即,「適者生存」,「優勝劣敗」,

「弱肉強食」といった帝国主義的な価値観を是 認し,植民地支配の甘受を自明視することと結 びつくかといえば,申采浩の場合,必ずしもそ うとは言えない。社会進化論を受容した多くの 民族主義者の行きつく先が,社会進化論的現実 に対する絶望に起因する「民族背反」やあるい は否認に起因する「売国」行為であったのに対 し,申采浩は,その現実をあるがままに認識し た上で,純化された理念型の「我」と「非我」

との戦いによって真正面から現実を作り変えよ うとした。日本の統治を打倒した後に作るべき 新たな現実は,少なくとも前述の帝国主義的な 価値観が反映された社会ではない。次に引用す る一節は1923年に執筆された「朝鮮革命宣言」

からの抜粋である。

民衆は我が革命の大本営なり。暴力は我が革命 唯一の武器なり。我等は民衆の中に行きて民衆と 携手し不絶の暴力―暗殺,破壊,暴動を以て強盗 日本の統治を打倒し,我等の生活に不合理なる一 切の制度を改造して,人類を以て人類を圧迫すべ からず,社会を以て社会を剥削すべからざる理想 的朝鮮を建設すべし[申1977-c: 45-46]。

執筆当時既にアナキストを自認していた申采 浩が,3.1独立運動のような非暴力主義では なく暴力主義すなわち武装闘争を通じて破壊し ようとしたのは,「人類」や「社会」を圧迫す る近代国民国家的な制度,引いては帝国主義で あった。その後に建設すべしとする世界は,人 類同士,社会同士が互いに抑圧しあい搾取しあ うことのない平等で公正な世界であった。

(11)

3.アイデンティティの再構成と,

 再構成すべき現実との関係

第2章でみたように,大檀君民族主義は,事 大主義と植民地奴隷精神への対案として申采浩 が打ち出したものである。彼の事大主義と植民 地奴隷精神への批判は,当時の民族独立運動で 露呈していた問題点をあぶりだし警告を与える 行為でもあった。実際申采浩は「我と非我との 闘争」を,既存の制度及び権力の破壊行動に よって身を以て実践した。

日本の統治を打倒し,一切の不合理なる制度 を改造した後,申采浩が築こうとしたのは,反 帝国主義の社会である。しかしながら,申采浩 が提示したアイデンティティは,強大な領土と 尚武精神の伝統をもつ国民であって,これは帝 国主義の映し鏡に過ぎない。このアイデンティ ティから,反帝国主義の平等で公正な世界に住 む民衆像を想像するのは困難である。再構成さ れたアイデンティティと再構成すべき現実に齟 齬があるのだ。再構成すべき新たな現実すなわ ち未来を平等で公正な社会としたにもかかわら ず,そこに住まう人々の具体的なアイデンティ ティを提示し得なかった点はイデオローグとし ての申采浩の限界であったとみることができよ う。

申采浩が残した課題を批判的に発展継承し た人物の一人としては,安在鴻(38)(アン・ジェ ホン,1891-1965)を挙げられる。安在鴻は申 采浩の11歳年下で申采浩同様に朝鮮史学の近 代化という問題意識を共有していた。安在鴻 は,申采浩が『朝鮮上古史』総論を執筆した 年と同じ1924年(11月1日)の『朝鮮日報』

社説に「朝鮮日報の新使命――民衆に申明す」

を発表した。

個人我として,民族我として,社会我として,

人類我として,もっとも侵逼と抑圧と冒涜と蹂躙 なく,その権威と尊厳と安全と幸福のあらゆる権 利と機会を均等的に享受すべきである。そして種 族と階級と性の差なく,全ての経済的平等の安全 な基礎を保障すべきである。そして全ての社会的 栄誉と教化の施設への齊進並参を力図すべきであ る(39)

上記抜粋は,内容としては,申采浩が「朝鮮 革命宣言」で提起した理想的朝鮮と軌を一にし ている。どちらも社会同士,人類同士が抑圧し あうことのない平等な社会を作ることを謳って いるからである。だが,安在鴻の「我」の外延 は申采浩のそれとは異なる。安在鴻は,個人と しての我から始まり,民族,社会,人類として の我に至るまでを個人の延長線上に描いてい る。非我を排除するのでなく我を非我に包含さ せているのである。この我認識は1935年1月号 に掲載された『新朝鮮』第8号「朝鮮と文化運 動――巻頭言に代えて」において更に深まりを みせている。

今日,二十世紀上半期にもっとも穏健妥当な各 国民各民族の態度は即ち民族から世界へ――世界 から民族に交互に調剤される一種の民世主義を形 成する情勢である(40)

上記「民世主義」とは,文脈からも明らかな 通り民族主義と世界主義の統合を意味する。

世界に開かれた民族主義をもつ朝鮮人のアイ デンティティとは何であろうか。申采浩が檀君

(12)

朝鮮から「尚武精神」を引き出したのに対し,

安在鴻は同じ檀君朝鮮から「弘益人間精神(41)」 を引き出した。弘益人間とは,檀君神話に登場 する建国理念で,その意味は端的には広く人間 社会を益することである。要するに弘益人間は 開かれた民族主義を実現する社会に住む人たち が発する「共生」のメッセージである(42)。こ こにきて申采浩が残した課題であった,あるべ きアイデンティティと作り変えるべき現実との 間の齟齬の一つが解消されることになる。「尚 武精神」から「弘益人間精神」への転換である。

もう一つの齟齬は,申采浩が払拭できなかっ た「大国主義」への願望である。前章で述べた ように申采浩は中国東北までの広い領土を有し た高句麗・渤海を理想の朝鮮民族像と重ねてい た。これに関しては,植民地時代を独立運動の 闘士として生き抜き,解放後の1947年に安在鴻 同様あるべき国家像を「私の念願」として公表 した金九(キムグ,1876–1949)の思想がアン チテーゼとなるだろう。

私は,我国が世界で最も美しい国となることを 望む。最も富強な国になることは望まない。おの れが他人の侵略に胸を痛めたのだから,おのれの 国が他の国を侵略することを望まない。我々の富 の力は,我々の生活を豊かにするに足ればよく,

我々の強い力は,他の侵略を防ぐに足ればよい。

ただ際限なく欲しいものは,高い文化の力である。

〔中略〕そして,真の平和が,我国から,我国によっ て,世界中に実現されていくことを望む。「弘益人 間」という我が国祖檀君の掲げた理念は,まさに このことをいっているものと信ずる。

国力としては,富と強さより文化の力を養い

たいとする金九の文化国家論は,大国主義に 対置された小国主義と呼びえよう(43)。そして,

ここでも檀君朝鮮の「弘益人間」が,自国から 世界へと平和を伝播させる基本理念として掲げ られている。

おわりに

本稿では「アイデンティティの政治」アプ ローチをもちいて第1章で申采浩の「我と非我 との闘争」を言説として解明し,第2章以降で 申采浩のイデオローグとしての側面を「抵抗」

「自己定義」「現実の再構成」の各段階別に考察 してきた。これにより,当時の帝国主義に対抗 し政治的生存および自由を担保するための究極 の方法論が「我と非我との闘争」であったこ と,そして事大主義および植民地奴隷主義に抵 抗して措定した我認識が大檀君民族主義を反映 したものであることを確認した。しかしながら このアイデンティティは帝国主義の映し鏡の域 を脱っしえず,申采浩自身が再構成しようとし た「民衆」のための平等な社会に符合しなかっ た。この点が申采浩のイデオローグとしての限 界であることを指摘した。

今日,申采浩を批判的に継承した安在鴻や金 九の「世界に開かれた」我認識は解放後の南北 朝鮮に定着していない。現実の政治の世界で は,申采浩的な我認識がそれに符合しない未来 像との間で絶え間なく自家撞着に陥っている。

アイデンティティと再構成すべき将来像の間 の隔たりは,両者間の葛藤や摩擦に起因する。

申采浩の言葉で言えば,生死を賭けて「闘争」

すべき緊迫した状況がそこにあるからである。

我々は生死にかかわる緊迫した状況に放り込ま

(13)

れると否応なく他者の排除を意識させられる。

申采浩が生きた時代は植民地状況の打開という 戦いが現前していたが,韓国の民主化闘争の時 代には独裁政治との戦いが現前し,現在の北朝 鮮には貧しさと国際的孤立との戦いが現前して いる。このように切羽詰まった状況下で頭をも たげるのが申采浩の言説なのだ。民主化闘争が 本格化していった1970年代に申采浩の民族主義 は民主化闘士らによって再発見され,最近北朝 鮮が掲げているスローガン「強盛大国」は申采 浩の我認識の焼増しであるいってよい(44)

申采浩が陥った矛盾は,安在鴻や金九が掲げ た「開かれた民族主義」によって思想的営為と しては既に乗り越えられているが現実の政治の 世界では克服されていない。克服のための鍵は 対話の力でもって政治や経済の場に「生死に関 わる絶体絶命の状況」を作らないようにするこ とにあろう。安在鴻や金九の思想が新しい民族 主義として注目され始めたのは,グローバリ ゼーションが深化する中でポストモダンの在り 方が真剣に問われ始めた20世紀末頃からであ る。地域の国際政治分野で東北アジア共同体的 な国家間の「共生」が想像されるようになって からは,排他的な民族主義を相対化する思想が 次々と過去から発掘されている。

申采浩の現実主義的な状況認識を橋渡しにし て,朝鮮人は近代初期の事大主義的な東洋平和 主義から出発し,現代の自主的で自由な開かれ た民族主義を掲げるまでになった。近世から近 代の過渡期(45)に民族の課題に取り組んだ申采 浩の「我認識」は,自戒の念も込めて東北アジ アの記憶に残してしかるべきであると確信す る。

〔投稿受理日2011.9.24/掲載決定日2012.1.26〕

⑴ 申采浩は,朝鮮時代末期に忠清南道大徳郡にあ る没落した在地両班の家に生を受けた。18歳(1898 年)にソウルへ上京し,成均館にて更に漢学の研 鑽を積む。25歳(1905年)にして成均館博士に抜 擢されたが,これを断り新聞社に入る道を選んだ。

このとき大韓帝国はまさに日本の植民地へと転落 しつつあり,申采浩はそれを食いとめ国権を死守 しようと,春秋の筆法で時論および史論を紙面上 で展開した。一方で同時代の知識人が推進する政 治団体,学会,教育及秘密結社活動にも積極的に 参与している。こういった活動を後世の歴史家は

「愛国啓蒙運動」(1905-1910)と名付けたのである が,新聞及び学会誌を通じた文筆活動による影響 力から言って,申采浩はこの運動の主導者の一人 に数えられよう。1910年,母国が日本の完全なる 植民地に転落すると,申采浩は所属していた秘密 結社「新民会」の計画に従って独立運動を行うた めに中国に脱出する。その後,沿海州で同胞向け の新聞の主筆をし,上海で臨時政府に参加し,間 島で大倧教系の運動家のもとに身を寄せ遺跡踏査 と歴史研究を行い,北京で文筆活動をしつつアナ キスト運動に傾倒していく。48歳になる1928年,

台湾で「外国為替偽造容疑」で逮捕され,これに より申采浩の社会における全ての活動は終結した。

申采浩は移送先の旅順監獄で1936年(享年56歳)

に獄死する。

⑵ 韓国独立運動史情報システム>独立運動家文献 類解題>丹齋申采浩解題>丹齋申采浩全集(イ・

マ ン ヨ ル )https://search.i815.or.kr/OrgData/html/

IndeHeje/ShinChaeHo.html ※2011年6月15日ア

クセス

⑶ 申采浩の入監中,知人の安在鴻の奔走で「朝鮮 史」のタイトルで1931年6月10日より『朝鮮日報』

に連載されたのが初出である。『朝鮮上古史』とい うタイトルは,1948年10月に鐘路書院から刊行さ れた時のものである[申1977c: 504-506]。多くの 研究書に倣い,本稿では便宜上「朝鮮上古史」と 呼ぶ。

⑷  社 会 構 成 主 義(Social Constructionism) は, 知 識 社 会 学(Sociology of Knowledge) の 範 疇 に 属 し,ポストモダンを立脚点にしている。実践面で 社会構成主義をけん引するガーゲンによれば,社 会構成主義の基本的な考え方は次の5項目であ る。1)私たちが世界を理解する方法は,「事実」

(“what there is”)によって規定されない。2)世界

に対する記述や説明の形式は,関係性の結果であ る。3)構成(Constructions)は,その社会的な効

用(social utility)から意義を付与される。4)私た

ちは,何かを記述したり説明したりするとき,同 時に,自分たちの未来をも創造(fashion)してい る。5)自分たちが当然視している世界について反

(14)

省(reflection)することが,健全な未来にとって 不可欠である[Gergen2009: pp5-13]。

⑸ 言説又はディスクールがもつポストモダン的視 点については,磯前順一の次の説明を参照された い。「われわれの認識は独立した客体そのものを 捉えることはできないのであり,じぶんの認識や 思考が帰属する言語体系や特定の歴史的・社会的 な認識様式をとおして物事を理解しているに他な らないのだというものである。このような理解に たつとき,わたしたちの認識する対象の形状はつ ねに同一のままではなく,その認識様式の産物に すぎなくなる。今日ひろく流布している「言説」

という言葉も,そのような歴史的制約をこうむっ た認識様式のあり方を示している。いわゆる言語 論的展開とよばれるところのものである」[磯前 2003: 4]。

⑹ 申采浩関連の主たる研究は1970年代以降に始ま り,政治学,歴史学,文学の領域で論じられてき た。中心的論点は,申采浩の思想ないし認識であ る。申采浩が研究対象となる最たる所以は,近代 以降,植民地支配と南北分断経験を通じて朝鮮人 につきつけられてきた「民族」ないし「民族主義」

という命題を申采浩が主体的に考え,論じ,体現 した点にある。そのため申采浩は,「民族」が想 起される政治的社会的状況が発生するたびに再照 射の対象となる。近年の例をあげると,中国が 2002年に「東北工程」と称される東北辺境の歴史 研究プロジェクトを立ち上げた際,申采浩の「満 州」をめぐる国際関係観および歴史認識が研究対 象(一例は韓国独立運動研究所編,2005,『韓国近 代史と高句麗・渤海認識』)となり,東アジア共同 体が議論されると申采浩の東アジア認識が考察対 象(一例は張寅性,2003,「韓国の東アジア論とア ジア・アイデンティティ ―『東アジアへの新た な想像』と『国際社会としての東アジア』」,早稲 田大学COE学術会議セッション)となった。また グローバリゼーションや地域主義の深化,ポスト モダン思想の台頭が触媒となって,近代朝鮮史の 主体であると目されてきた「民族」の蓋然性が見 直されつつある中,「民族」概念の草創期に朝鮮民 族言説の根幹を築いた申采浩の思想が再照射され ている(一例は[ユン2011])。本稿の研究史上の 意義は,申采浩の「我」言説の背景にある儒教的 理想主義であると同時に現実主義的な認識を考察 する過程で,現実を変革するために言説を操作す る非権力者側のイデオロギー戦略という側面を炙 り出したことにあると考える。

⑺ [朴2004]。

⑻ [ユン2011: 299-301]。

⑼ [申1977-c: 146]。

⑽ シュミットは,1927年初版の『政治的なものの概 念』の中で,政治的な行動や動機は「友敵の区別」

に基因すると定義した[シュミット1970: 15]。

⑾ 政治的存在として国民が有すべき能力と意志に ついては,[シュミット1970: 55]を参照されたい。

⑿ 「浪客の新年漫筆」『東亜日報』1925年1月2日 付。

⒀ [ハン2001: 246]。アナキズムを理解しはじめた のは1921年頃からという研究もある[崔2004: 44]。

⒁ 固執不通とは,頑固一徹で融通性がないという 意味である。『丹齋申采浩全集』別集に収録され た追慕文の中で,申采浩の性格に触れた箇所では 必ずと言ってよいほど「固執不通」[申采浩1972- c:376, 390, 392,404],「絶対非妥協」[申采浩1972- c:397]等の文字が躍っている。

⒂ 具体的には民衆及び儒教エリートの鄭鑑録信仰,

カトリック信仰,プロテスタント信仰,東学信仰,

近代主義の受容,そして日本の神道及び仏教の流 入と不安定な国内外情勢との相互作用を指してい る。詳細は,筆者の修士論文[曺2007]を参照さ れたい。

⒃ 朝鮮における「民族」概念の形成については,

[朴2008]を参照されたい。

⒄ [朴2008: 100-116]。

⒅ 大倧教の1909年創設時の呼称は檀君教である。

大倧教は国権回復まで民族の魂を灯し続けるため に檀君民族主義を宗教として温存しようとした。

一方で,国学研究,学校教育,武装活動にも関わっ た。植民地転落後に本部を朝鮮国内から中国東北 の和龍県に移すと急速に教勢を拡大し学校教育と 武装組織で独立運動を行ったため,大陸亡命中の 独立運動家の多くが一時期何かしら大倧教と関わ りをもったのであるが,申采浩も例外ではなかっ た。

⒆ [申1977-c: 499]。

⒇ 独立記念館韓国独立運動史情報システム内申采 浩原文資料の解題執筆者の一人パク・コルスンに よれば,『朝鮮上古文化史』執筆は主に1910年代か ら20年代にかけて行われた。ただし,公けにされ たのは1931年及び1932年の『朝鮮日報』誌上にお いてであった[申1977-c: 504]。

 朝鮮上古文化史は,扶餘族の国家である檀君朝 鮮が統一と分裂を経て三国に至る過程を特に文化 史の視点から叙述した。檀君朝鮮前半期一千年の 政治と文化,宗教の先進性を語り,「もし子孫が武 力でもってこの檀君朝鮮の文化を保存し拡張した のなら朝鮮は東洋文明史の主座を占めたばかりか 地球全土を独占したであろう」[申1977-c: 399]と いう大国への野心を記した一節もある。

 全集[申1977-d: 323-324]には執筆年不明の遺 稿として掲載されているが,イマンヨル[イ2010: 18]によると,アナキズム活動に従事していた 1927年頃の作品であるとされている。

 明治期日本人の朝鮮史研究の目的と内容につい

(15)

ては李萬烈論文[李2005: 224-226]を参照された い。

 古代から中世にかけて済州島に存在した王国。

 [李2005: 234]。

 [李2005: 233-234]。

 咸東珠[咸2005: 273-301]によれば,明治期日本 の小学校における日本史教科書では,神功皇后と 豊臣秀吉の朝鮮征伐が重要項目として扱われてい た。1875年に文部省が小学校用に出版した『日本略 史』の記述は,神功皇后個人の指導力と策略を英雄 化し,朝鮮征伐の過程については新羅だけでなく高 句麗,百済が恐れて朝貢を約束したという二点から 構成されている。また,豊臣秀吉の朝鮮征伐につい ては,日本が戦争期間中,常に軍事的優位を守った 半面,朝鮮は従属的な位置にあったことを前提とし て,朝鮮征伐の目的,準備過程,国威高揚につき記 述されている。咸は,「近代的日本史像が形成され る過程で,朝鮮の存在は絶えず登場しながら,日本 史の一部として定着した。朝鮮は歴史的記憶におい ても日本の一部になったのであった」と結論付けて おり,奇しくも申采浩による「自家所有物」という 喩えと軌を一にしている。

 朝日新聞1989年2月1日朝刊解説面「天皇そし て昭和」(テーマ談話室)に掲載された読者からの 投稿(千葉市,掲載当時70歳)に次のような件が ある。「例えば神功皇后の三韓征伐,秀吉の朝鮮征 伐と,侵略の話なのに朝鮮を悪者のように思わせ,

また明治末期から戦前にかけては,朝鮮や中国が 自分たちで国を治めることができないのだと信じ 込ませた。この結果私たちは朝鮮の人を『チョウ セン』,中国の人を『チャンコロ』と呼び捨てにし て抵抗を感じなかったのです。こうして朝鮮の植 民地化も,中国大陸への侵略も至極当然のことと 考え,軍や政府を支持協力したのです」。終戦まで 続いた近代歴史教育がいかに国民に浸透していた かを示す一つの例証となろう。

 他に申采浩は「檀君が素盞嗚尊の弟」という説 があることを前述している[申1977-a: 409]。

 1885(明治15)年頃福沢諭吉が提唱した国家戦 略―「内安外競」論を踏まえて,語義を解釈した。

「内安外競」論が朝鮮との関係を踏まえ提唱された 経緯については石川一三夫の論文[石川1992: 33- 34]を参照されたい。

 林の『朝鮮史』の朝鮮における受容については,

金仙煕の論文「韓国における『歴史叙述』の問題

-林泰輔『朝鮮史』の受容を中心に―」(2010年)

を参照されたい。

 『東国史略』以前の歴史教科書は全て伝統的な

「編年体」か「綱目編年体」であったのに対し,『東 国史略』からは「新史体」による歴史叙述方法が 取り入れられていた[金2010: 135]。

 「読史新論」の「第六章 新羅・百済と日本の関

係」より抜粋。「読史新論」は1908年に『大韓毎日 申報』に連載された申采浩執筆による史書で,朝 鮮における「近代国史学」[愼2004: 252]の嚆矢 であると広く目されている。

 「読史新論」の序論,一,人種の冒頭部分[申 1977-a: 473]。

 [申1977-a: 474]。

 [申1977-a: 478-479]。

 [申1977-c: 181-182]。

 安在鴻は京畿道平沢の生まれの民族主義者,独 立運動家であり解放後は政治家となったが,朝鮮 戦争時に北に拉致され北朝鮮で生を終えた。申采 浩同様幼くして漢学を修めたが,キリスト教系の 皇城基督教学校で近代教育を受け,早稲田大学政 治経済学部を卒業するなど,申采浩より恵まれた 境遇にあった。共通点は,大倧教との交流,古代 史への関心,そして新聞社(朝鮮日報社)の主筆 経験である。安在鴻は植民地期に計9回,7年あ まりを獄中で過ごした筋金入りの民族主義者で あった。申采浩の死後,朝鮮日報に追慕文を掲載 し,雑誌『朝光』に申采浩学説の紹介文を寄稿し ている[申1977-c: 377-389]。

 [キム1998: 208-209]。

 [キム1998: 215]。

 安在鴻は,1945年9月に発表した『新民族主義 と新民主主義』という文で「万民の共生」を呼び かけ,朝鮮人が太古の昔から受け継いだアイデン ティティとして檀君神話の「弘益人間」,風流道の

「接化群生」等の言葉を挙げた。[イ2011: 214]。

 キムドンファンによれば,弘益人間は,檀君精 神の究極の志向点であり,これは「あなたと私」

ではない「我等」を志向する生であり,「閉じた社 会」を超え「開かれた社会」を展望するものであ り,「同士で生きる価値」ではなく「共に生きる価 値」に連結するという点で,民族に対する世界主 義的解釈の可能性を開いているという[キム2011: 133]。

  金 九 の 小 国 主 義 に 関 し て は 崔 元 植 論 文[崔 2009]を参照されたい。

 [崔2009]。

 安在鴻は追慕文(1936)の中で申采浩を「歴史 的新段階に向かってすばらしい過渡的任務を果た した」と評価した[申1977-d: 389]。

参考文献

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【日本語】五十音順

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(16)

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参照

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