在日朝鮮人教育実践論・序説
小 沢 有 作
は じめに
日本に住んでいる朝鮮人の子らが学校にいくようになると,日本人学校,朝 鮮人学校,韓国学園に分かれて就学することは,よく知られているところです。
どの学校を選ぶか,その理由は個々の家庭の事情によって異なりますが,注目 しておきたい点がひとつあります。それは,在日朝鮮人の子らは〈学校〉によ って三つに引き裂かれているという現実に,おかれていることです。それぞれ の学校の教授用語・教育内容はまったく異なりますから,どの学校で学ぶかに よって,その子の少・青年期における人間形成の質が左右されてくるわけです。
この点は日本の子どもの場合に見られない特徴でありましょう。
ただ,そうは言っても,〈在日世代〉として共通する生活歴をもっているこ とは疑うことができません。就学前まではほとんどの子が日本語を覚え使って います。また,たとえ朝鮮人学校のように,学校では朝鮮語の世界一色であっ ても,帰宅後はテレビを見,日本語を多用する生活にもどります。日本の社会
・文化に取りかこまれて成長する,その生活基盤のところでは,被差別体験も 含めて,共有する部分が多いのです。ですから,学校レベルでは三つに分岐し たとしても,〈在日世代〉として貫ぬくものがあり,共通の命運をせおってい
るわけです。そこに,彼ら相互の対話を可能とする根拠があります。
しかし,本稿では,このような〈在日世代〉を総合的に論じることはさけま す。焦点を〈日本の学校にいる朝鮮の子ら〉にしぼり,その子らにたいし日本
の学校と教師は何をしてきたか,これからどのようなことをしたらよいのか,
を考えてみたいと思います。〈日本の学校にいる朝鮮の子ら〉にたいする教育
的責任は,日本の学校と教師がまず背負わねぽならぬことであるからです。
1.在日朝鮮人教育実践の系譜
日本の学校のなかに在日朝鮮人の子どもがまぎれもないその姿をあらわした のが1930年代においてであったとみるならば,それから,もう半世紀にもわた って,日本の学校はその子らと〈教育的関係〉をもちつづけていることになり
ます。長いつきあいであり,これは今でもつづいているところです。
その半世紀のあいだ,日本の学校・とりわけ日本人教師はその子らとどのよ
うなつきあいをしてきたのでしょうか。子どもたちにとって教師が学校を体現 するものとしてあらわれます。朝鮮の子らは,日本の学校で,どのような教師
と出会ってきたのでしょうか。
以下,それを〈在日朝鮮人教育実践史〉という視点から,ごく簡単に整理し てみたいと思います。
日本人教師において何を在日朝鮮人教育実践の主要な課題とするかというこ とは,さまざまな条件に影響されて選択されてくることですが,しかし,何よ
りも,その教師が在日朝鮮人のおかれている現実・その生きていく本質的な方 向をどのように読みとるか,これによって選ばれてくることであります。何を 基本的な問題と見,おさえるかということが,実践の課題の質を決めていきます。
そうして選びとられた課題がさらに実践の方法・内容を方向づけます。
このような実践のありよう,とりわけその課題とするところに注目して,こ の歴史をふり返ってみますと,おおよそ,以下のような4つの課題が歴史的に 順次に出され,またそれらが併存・競合しているのが現状であります。
①同化教育の実行
1945年までは,国家意志として,〈天皇のために死ぬ〉在日朝鮮人青少年の 形成を,日本のどの学校でもすすめてきました。同化教育の政治的強制の時代 であり,また在日朝鮮人子弟を「日本帝国臣民」として見る教育意識が目本人 教師に滲みわたって,同化教育以外の実践課題を気づくこともできなかったよ
うな時期でした。もちろん,朝鮮人じしんの手による民族学校の公然たる開設
・運営は,許されるところではありません。いわば,支配者にとっての課題に
教師が全面的に手を貸していた時代です。
8・15解放をへて,在日朝鮮人は独立国民として姿を変えました。民族学校 を創設して,自力で〈朝鮮人になるための教育〉を始めました。同化教育から の解放の歩み出しです。しかし,朝鮮戦争前夜,この民族的な教育運動は,
「日本に住むならぽ,日本の学校に通うのが当然」という名目のもとに,政治 的に封殺されます。1948年の阪神教育事件は,これを端的に証す事件でした。
ここにふたたび,同化教育体制の時代を迎えました。この出来ごとにあって,
在日朝鮮人の子らは日本の学校に多数就学するようになり,戦後在日朝鮮人教 育史における最初のターニングポイントをきざみました。〈戦前〉のいちはや い復活である,と言うべきでしょう。
1948・49年における在日朝鮮人教育運動の権力による封殺という事実は,当 時の日本人教師・教育運動の問題とするところになりませんでした。事態のも っ意味がつかめず,したがって視野に入ってきませんでした。日本人教師にと って,この時点が在日朝鮮人教育とのかかわりで〈戦後〉をひらく絶好な機会 であったでしょうが,空しくそれを逸しさりました。
1950年代前半,日本の学校は在目朝鮮人の子らの大多数を受け入れますが,
在日朝鮮人教育問題の真意と対面することを逸っした日本人教師は,残念なこ とに,「日本人と同じように扱う」という政府の課題(=同化教育の戦後的論 理)をそのまま受け入れ,教育現場の日常意識にしていきました。「日本人に 似せて生きる」ことを是と見たのです。在日朝鮮人の子らを日本人と区別しな いで教えるという戦前からの慣性は,これをすんなりと受容させる土壌として 働いています。
こんにちでも,日本の学校に在学する朝鮮人子弟にとっての支配的な現状は,
日本人と同じように扱われている点にあります。そのように扱う教師は,在日 朝鮮人の子らが奥深くかかえる民族的・人間的な悩みに近づいていこうとする 代りに,その悩み故に引きおこされてくる荒れ・自閉や学習不振の現象に目を
奪われ,厄介者と見,排斥する方向に動きがちであります。日朝関係という軸
でみますと,学校のなかに民族的な抑圧一被抑圧の事実が厳存していることで
す。それが能力主義の秩序(物知りを軸とした差別関係)と重なって,二重の
抑圧として在日朝鮮人の子らにかぶさってきています。
語りつくされていることですが,支配・抑圧をするための教育実践課題とし て同化教育が登場し,それが今なお支配的につづく現状であることを,やはり 指摘しておかねばなりません。このようななかで,埼玉県の上福岡3中の事件 に見られるように,受けもちの子どものなかに在日朝鮮人の子がいても,その 子を朝鮮人と見る目,朝鮮人として生きることを励まそうとする心の動きが,
おおくの日本人教師のあいだから失なわれてきています。
同化教育の事実は「覆すべき教育史的現実」ですが,これを日本教育近代化 の軌道上に必然化された事態とみるならば,近代化の軌道を問うところまで私 たちは進みでなければならないでしょう。
②民族教育権利擁護の思想
支配者にとっての実践課題とは区別・対立するかたちで,日本人教師・その 教育運動が在日朝鮮人教育問題と取りくみはじめたのは,1950年代半ぼからで あったでしょう。取りくむ教師・サークルはごく少数でしたけれど一これは 今もそう変りませんが一,ともあれここに,在日朝鮮人の子らにとっての教 育的解放とは何かという問いが,日本人教師の側に初めて生じてきたのでした。
以後,この問いへの答えを,在日朝鮮人・その子らのおかれている状態をどう 見るかにかかわらせつつ,まさぐり深めていく足どりであった,ともいえまし
ょう。
最初の答えかた一日本人教師の課題としてとらえられたことは「朝鮮人学 校を守れ」ということでした。都立朝鮮人学校の私立移管問題が直接のきっか けでした。朝鮮人学校の関係者が「朝鮮の子は朝鮮の教育のなかでしか解放さ れていかない」という事実を訴え,その訴えから学ぶというしかたで,日本人 教師の少数部分がはじめて在日朝鮮人にとって民族教育がはたす意味に目をひ
らいていく,という経過をとおしてでした。
朝鮮人学校は同化教育と対極に位置しています。その学校のなかで朝鮮人 として育てられていった子どもらの姿を見た教師は,それとは対照的に,日本 の学校のなかで朝鮮を隠し,うっくつした気持で日本人に似せようとしている 教え子の姿を思いうかべざるをえませんでした。ですから,朝鮮人学校の教育
の姿を知っていくということは,在日朝鮮人の子らを日本人の子と区別し,外
国人として重んじることの大切さを学び,それによって今度は,自らがすすめ てきた「区別しない」同化教育を撃っていくことに連動していかざるをえませ ん。朝鮮人学校を守るということと同化教育を批判するということは,ひとつ の教育思想の楯の両面をなすものとして,日本人教師のあいだに少しつつ滲み こんでいきました。1953年に始められた日教組の全国教研集会は,それを醸成 する中心的な場となっていました。
50年代半ばの「朝鮮人学校を守れ」という課題は,このような思想構造をも っていましたが,その後,60年代にかけて,それは在日朝鮮人の民族教育の権 利の思想として昇華していきました。ことに1960年代後半,日韓条約,外国人 学校法案,朝大認可問題とひきつづくなかで,それが朝鮮人学校自立・擁護の 原理として機能したことは,ここで詳説するまでもありません。こうして,民 族教育の権利とその擁護が日本人教師のあいだに定着し,日教組の方針にも盛 りこまれて幾年かすぎるようになると,かえってスP ・一ガソ化して,同化教育 批判というわが身につきささる刃のほうは形骸化していきかねない現状に落ち 入ってきたようにもみえるのです。
当時からこんにちにかけて,在日朝鮮人の子らの問題を日本人教師に語りつ づけてきた朝鮮人は,ほぼ朝鮮総餅・朝鮮人学校関係者に限られていた,とい
ってよいと思います。したがって,日本人教師が思い描く在日朝鮮人子ども像
・その生きる進路というものは,自力でつかみとったというより,朝鮮人学校 の目からとらえた像をモデルにする,というようになっていきました。それに また,政府からの抑圧が朝鮮人学校に集中されてきたという事柄の性質にした がって,在日朝鮮人の民族教育の権利という場合,私たちの目はともすれぽ朝 鮮人学校とそこに学ぶ子らに局限されがちでした。こうして,私たちは,韓国 学園で学ぶ子や日本の学校で学ぶ子の姿を見落しがちでありました。
こんにち,在日朝鮮人の子らすべては,それぞれが生き学んでいる場で〈在
日を朝鮮人としていかに生きぬくか〉を自問する内心をいだいていることと思
います。これらの問いに豊かに答えていけるような「在日朝鮮人の民族教育の
権利」とは何か,あらためて考え深めていきたいものです。とりわけ,日本の
学校にいる朝鮮の子らにたいして民族教育の権利を少しでも実質化していくこ
とは,さしあたって日本人教師がやらねば手のつかない課題であります。
③「朝鮮を正しく教える」課題
「朝鮮人学校を守れ」という課題は,他方に,日本の教育現場の任務として,
在日朝鮮人生徒を朝鮮人学校の門まで連れていくしごとを提起しました。これ は,朝鮮の子の教育は朝鮮人教師の手でまっとうされる,という民族的に正当 な教育原則で裏づけされ,それ故に,日本人教師の実践方向をさし示すものと
して,1960年代をとおして,心ある教師のあいだにひろまっていきました。
しかしまた,原則的に正しい考えかたであるから,この原理に頼りすぎて,
日本の学校にとどまって民族学校に行かぬ在日朝鮮人の子らの生活現実をなぜ だろうと疑問に感じる心を弱めていったことも,反面の事実としてありました。
60年代をとおして,民族学校に送ろうといいながら,行かぬ教え子の現実から 目をそらす,という教師の姿が見られたように思います。
今からみれぽ,このような浅さをかかえながらも,1960年代後半以降,日本 人教師は,自らの朝鮮観のみならず,同席する日本人生徒の朝鮮観を変えるこ
とをぬきにして,朝鮮人生徒だけに朝鮮人として生きる決意をもたせることは できない,と考えるようになって,その目を自らの教育現場・教育実践に向け ていきました。ここに「朝鮮を正しく教えよう」という課題が大きく浮かんで
くる内発的な契機がありました。
日韓条約問題は日本人の朝鮮観を問いなおさせる機会となりました。これが ひとつのバネになって,教科書のなかの朝鮮記述の大国主義的な見かたを問い ただし,自主教材編成の気運が胎動してきました。そうしたところに,日本人 高校生による朝高生暴行事件が瀕発しはじめました。法政二高事件(1962年)は 文化・教育問題としてこれを突きだす最初のでき事であったでしょう。戦後世 代もまた朝鮮人差別・敵視の意識を肉体化しているという事実は,その子らの 思想形成に直接の責任を負う教師にたいして,その教育の質の点検・反省をせ まるものでした。朝鮮人を傷つけることで朝鮮問題が見えてくる,という不幸 な出会いをへて,朝鮮問題を日本の民主教育の不可欠な課題にすえたのが,こ の時期でありました。
このような問題意識を組織化して独自な教育運動の形にしたのが「日朝教研
集会」であったといえましょう。外国人学校法案反対運動(1966〜1968年)を 直接の母胎とし,日朝協会を産婆役として生まれた「集会」では,当面の任務 として「朝鮮人学校を守る」ことをかかげつつ,教育実践上の課題として「日 朝教育交流の促進」「日本人学校にいる朝鮮人生徒の指導」,「朝鮮を正しく教 える」ことをあげ,その経験の交流を重ねてきました。
なかでも,「日朝教育交流」,「朝鮮を正しく教える」実践に力がこめられて いました。
日朝教育交流は,朝鮮人学校の教師・生徒が日本の学校を訪ねることは日本 の学校によって拒まれましたから,もっぼら日本の学校の教師・生徒有志が朝 鮮人学校を訪れ,交流するかたちをとりました。この交流は今でもつづけられ
ていますが,しかし,60年代後半ほど盛んであった時はほかにないでしょう。
この交流は,日本人教師・生徒に個人主義教育を超えた姿を強く印象づけまし たが,何よりも在日朝鮮人にたいして外国人として,他者として目をひらくよ うになった点が大きいものでした。このなかで数は少ないのですが,日校在学 の朝鮮人生徒が,肩身せまく暮している自分にひきくらべて,朝校で解放され ている同胞に感嘆することもありました。ただ,当時の状況下で,韓国学園と の交流はほとんど見られませんでした。
朝鮮を正しく教える授業実践は,当初,教科書における朝鮮記述批判にはじ まり,ついで,これを念頭におきつつ,自主教材の編成に進みました。また,
植民地時代の実相の認識が乏しいから,日本侵略史の教授に重点をおいて取り くまれましたが,これでは上下関係を補強し,朝鮮はかわいそうという考えし かうまないという反応がでて,朝鮮の抵抗と自立の姿を軸にして教材を組みた てるよう,徐々に変ってきました。朝鮮史研究会,歴教協のメソバーがこの中 心として働いていきました。
日朝教研を軸にしたひとつの民間教育運動は,しかし,外国人学校法案が廃
案になり,政治的運動の高揚期がすぎると,とりわけ70年代に入ってから,し
ぼみはじめたように思います。ただ,朝鮮を正しく教えることについては,70
年代において,朝鮮史研究会編r朝鮮の歴史をどう教えるか』,日朝協会編r朝
鮮を正しく教える』としてまとめられ,日常実践としてこんにちも持続してい
るところです。
しかし,ここで二つの問題が残されたままになったように思います。ひとつ は,朝鮮を正しく教えるとはいったいどういうことか,という問題であります。
これはとりわけ朝鮮近・現代史の見かたにかわって出てくる問題です。朝鮮が 二つの政治体制に分れ,歴史記述・評価も大きく裂けている現在,教師はどの
ような事実を提出して生徒に向いあわせたらよいか。この問いにたいする答え は,つきつめられること弱くして,現在に及んでいます。もうひとつは,朝鮮 を正しく教えることの中心的な荷い手が歴史研究者・歴史教育者であったとこ ろから,言語・文学・音楽など朝鮮の文化総体を位置づける点では,不充分で あった・ということです。授業のなかで〈隣人〉を総体としてとらえ,わがも のにするにはどうしたらよいかという問題も,残されたのでした。
④本名を名のリ・呼ぶ実践
在日朝鮮人教育にかかわる以上のような民間の実践史のなかで,これまで,
もっとも大事な問題が見すごされ,あるいは軽視されてきました。いちばん身 近かな問題がよく見えていませんでした。日本の学校で学ぶ朝鮮人の子らの姿
です。これらの子らはもっとも人数が多いだけでなく,もっとも深く朝鮮人と して生きる権利や教育を奪われている子らです。それだけに〈在日をいかに生 きるか〉という問いを人知れず深く追いつづけている子らであります。
この子らと正面から向きあい,この子らを在日朝鮮人教育実践の中心軸にす えたのは,兵庫,大阪のとりわけ部落解放教育実践で鍛えられた教師たちでし た。部落の子にとりくむ教師たちは,そのかたわらにいつも在日朝鮮人の子ら がいることに気づきました。部落の生活現実から学び,差別が子どもにきざま れている実相を見抜く目をもった教師は,目の前にいる在日朝鮮人の子ども・
父母の姿をその生活現実から見てゆき,そこに,朝鮮人差別に苦しみつつ,何
とかそれをつきぬけていきたいとする心を読みとり,この子らの現実から出発
する教育実践に着手しました。70年代に入ってから,それは現実に根ざした実
践の潮流として私たちの目を新しくひらいていきました。兵庫解放教育研究会
編rはるかな波濤』(上下),日本の学校に在籍する朝鮮人児童・生徒の教育を
考える会・機関紙rむくげ』復刻版は,その実践の内容を生きいきと伝えてく
れるものです。
日本の学校に在学する朝鮮人生徒を実践の中心にすえることによって,矛盾 に生きる朝鮮人の子らの姿がより深く見えるようになり,その生きていくうえ での問題点を知るようになるとともに,その子らの立場から日本の学校教育が もつ民族差別の構造をより具体的に照射することができるようになりました。
それは,これまでの在日朝鮮人教育実践がつくりだしたものを活かしながらも,
実践の枠組み・構造を大きく変えていくものでした。
この実践は,朝鮮人であることを隠して日本名で生活している子らを,本名
(朝鮮名)を名のらせることをターニソグポイントとして,朝鮮人として姿を あらわして生きるように翻身させることを核としています。また,このことを
とおして,まわりにいる日本人の子らをして朝鮮人級友を朝鮮人として生きる 人と見,本名で呼ぶように変えていきます。これらの営みを集約して「本名を 名のり・呼ぶ」実践というのでありましょう。この実践は,たんに知識のレベ ルで日朝関係の意識を変えるにとどまらず,日常の生活,人間関係のレベルか ら変え,むしろここを出発点とするところに,以前の実践史を超えた特質をみ せています。それは同化教育の歴史を底から覆えす意味を含んでおりましょう。
これまではおもに〈東京〉で実践が集約・パターソ化されて,これが全国に 流れていくスタイルであったように思います。しかし,「本名を名のり・呼ぶ」
という実践の新しい形は〈阪神〉の教師が創造し,他地域にも受けつがれてい ったものです。在日朝鮮人教育実践の主流に〈阪神〉の教師が立つようになり ました。この事情に根ざして,1979年8月,「在日朝鮮人教育研究全国集会」
が,大阪の教師を中心に初めて開催され,80年に第2回集会を重ね,ともに全 国各地から教師がつどい,実践を交流しあいました。この全国集会は日本人教 師による在日朝鮮人教育実践史に新しい段階を劃するものである,と言えまし
ょう。目の前にいる朝鮮の子らと向き合い,これと寄りそって歩くという実践 の作風がひろまったことの証しでもあります。
2.こんにちにおける実践上の課題
日本の学校にいる朝鮮の子らにたいする実践の系譜として,同化教育の実行,
朝鮮人学校を守る,朝鮮を正しく教える,本名を名のり呼ぶという4つの流れ を辿ってみました。別の言いかたをすれば,それは,目の前にいる朝鮮の子ら をどのような存在と見るか,その見かたの移り変わりの歩みでもあります。
朝鮮の子らを〈日本人化の対象〉と見る見かたが戦前につくられました。そ れが引きつがれて,今では,朝鮮の子らを日本の子と区別しないという見かた,
すすんでは,同学する朝鮮の子らが朝鮮人として見えないという状況にまでた ち至っています。これにたいし,1950年代半ば以降,民族学校に学ぶ朝鮮の子 の姿が目に映じていくなかで日本の学校にいる朝鮮の子らを民族学校の門に までつれていくべき〈仮の存在〉とする見かたが生じてきました。本来は民族 学校に行くべきだが,そこにいたる過渡的在学として日本の学校にいるにすぎ ない・という考えかたです。しかし,1960〜70年代の現実がさし示してきたこ とは,日本の学校にいる朝鮮の子らの数は増えこそすれ減らないという事実で した。永続的な存在であるということです。であるならぽ,日本人教師の任務 とは,この子らを同化のなかにうち捨てておくことでなく,また民族学校の門 にまでつれていくことを重点にすることより,なによりも先に朝鮮を隠して日 本の仮面をかぶろうとする子らをして朝鮮人としての素顔を現わしめること,
におかれてしかるべきである,と考える教師が登場してきたのです。日本の学 校のなかにおいても〈民族的再生を求められる存在〉であるという見かたの成
立です。
戦後30年へて,ようやく,日本の学校にいる朝鮮の子らに朝鮮人としての自 覚をきざむことが日本人教師に課せられた任務だ,とつかまれるようになった わけです。こうして,在校朝鮮人生徒を実践の中心にすえてみると,そこで新
しく見えてきた矛盾,問題があります。それにしたがって実践のスタイルが変 ってきた点もあります。以下,その要点を簡単に記してみましょう。
①根にすえられるもの一ひとつの問い
在日朝鮮人の子らは,こんにち,朝鮮人学校,韓国学園,日本の学校に分か
れて学んでいます。父母や子がそれぞれの学校を選ぶについては,それによっ
てその子が日本でどう生きていくかを深く影響されてきますから,深く重い理
由があります。そこには,本人はもちろん家族全体の生きかたを考えぬいたす
えの選択にもとつく,という重さが伺えます。今,在日朝鮮人の子らのうち日 本の学校に学ぶものが8割前後をしめ,もっとも多いのですが,その子らの一 人ひとりはそれぞれに重い理由をもって日本の学校を選び,通学しているにち
がいありません。日本人教師は,日本の子らが日本の公・私立を選んで就学す るという以上の,いわぽ民族をかけ,生きかたをかけた意味を含んで就学して いる事実を悟らねぽなりません。
このような子らが一様に内心深くいだいている問いは,〈在日を朝鮮人とし てどう生きたらよいか〉という問いでありましょう。彼らはその答えを日々ま さぐっているのであり,その悩みの切実さは民族学校に通う子らより深いとい えるかもしれません。
この問いは,在校朝鮮人の子らにとって切実であるだけでなく,これらの子 を教える日本人教師にとっても,同学する日本人の子らにとっても,この問い への答えを自分じしん出さずしては,隣人としてある在日朝鮮人の子らとつき あうことが本来できない性質のものであります。そうした意味では,この問い
と答えは在日朝鮮人教育の根幹に位置するものでありましょう。
思えぽ,在日朝鮮人教育にかかわる実践は,この問いへの答えを何らかのか たちでもつところで,成立・展開してきました。その答えの内容に応じて,教 育実践として何をすすめるのかが決められていたように思います。その古くて 新しい問いにたいして,在校朝鮮人生徒の民族的。人間的再生という立場に即
して,私たちはどのような答えを作っていったらよいのでしょうか。
②隠さずに生きられる教育環境を
日本の学校にいる朝鮮の子らは,日本にある朝鮮差別を集約して背負って生 活しています。日本にある朝鮮差別の総体・全重量を共同・分担して軽くして 背負っているというより,一人ひとりの背に差別の全重量がかかってきている
のです。差別を受けるとはこのようなことであります。
その差別の重さは,日本・そしてその学校のなかに朝鮮人が占める場所がな いことを,朝鮮の子らに直感させるほどのものです。日本の学校にいる朝鮮の 子らは,差別の棘から自らを守るために,日本名を名のって,自分が朝鮮人で
あることを隠さざるをえません。朝鮮人であることを隠す一ここに日本の学
校にいる朝鮮への子らの最大の矛盾・被差別が凝縮されている姿をとらえるの です。別の面からいえば,日本の学校の「教育」諸力は,全体として,朝鮮を 隠させる方向に働いている,ということでありましょう。
自分が朝鮮人であることを隠しているかぎり,その子は自分を閉ざし,自ら の解放へむけて旅立つことはできません。朝鮮人である自分を前にさらすこと によって,はじめて朝鮮人としての自分をつくる長い旅に赴くことができるよ うになります。それは日本の社会と学校に巣喰う民族差別と正面から向きあう ことであり,また日本の学校のなかに朝鮮に正当な座を占めさせよと要求する ことであります。
朝鮮人生徒の立ちあがり,要求をうけて,日本の学校も総体として変ってい かねぽなりません。日本人教職員と朝鮮人生徒,また生徒どおし,その人間関 係を日本人対亜日本人の関係から日本人対朝鮮人の関係に変えねばなりません。
授業をはじめ課外活動。文化祭などのあらゆる文化活動の面において,正当な 姿において朝鮮が存在するようにしなければなりません。日本の学校がこのよ うに変われぽ,そこに学ぶ朝鮮の子はますます朝鮮人として生きることを励ま されるでしょう。
ひとりの朝鮮人生徒を立ちあがらせることを出発点にして,日本の学校のあ りかたを朝鮮の視点から全体的に改造していく,この巨大なしごとのイニシア チブをもつものは,日本人教師をおいて他にありません。しかもそれは,一人 の日本人教師がひとりの在日朝鮮人の子と歩くことから始まり,その輪を同学 の日本人の子らに,また他の日本人教師に少しつつ拡げていくものでしかない でしょう。
その歩みがいかに長くかかろうとも,私たちは,目標として,学校内外で朝 鮮人の子らが朝鮮人であることを隠さずに生き,すすんでは朝鮮人として生き
ることを励ますような教育環境をつくりだしたい,と思うのです。このことが,
日本の学校でとりくむ在日朝鮮人教育の目標的課題といえるのではないでしょ
うか。
③ 実践の構造
在校朝鮮人生徒を中心にすえた実践は,すでに数多くの足あとを残していま
す。その記録のいつれもが,人の生きかた(=価値観)を変えることに焦点を しぼっています。朝鮮人生徒が,他方日本人教師・生徒が相互に変りあい,そ れぞれのみちに生きることで交流が可能になる道すじが描かれています。日本
の学校に朝鮮の子らを合わせていこうとするのでなく,朝鮮の子らが朝鮮人と して生きることを励ませるよう日本の学校のほうを変えていこうとする尽力を 伺うことができます。そのもとには,日本人教師の側に,朝鮮人生徒の現実か
ら学ぶことで自らを変えようとする不断の心もちが働いています。
日本人教師が朝鮮を知り,自らを変えるなかで,朝鮮の子らは今まで口外し なかった悩み・本音を教師に語るようになり,それを知って,日本人教師も何 をしたらよいか,わかってくるようになります。こうして積みあげられてきた さまざまな実践を領域化してみると,次のようになろうかと思います。
④ 本名を名のり・呼ぶ
再三ふれましたように,日本の学校にいる朝鮮の子らは出自を隠し,日本名 を名のり,友だちを家によぶことを避けて,できるだけ朝鮮人であることを知
られまいと努めています。このように日本の仮面をかぶって閉じた生きかたを 変えて,朝鮮人としての素顔をだして生きるよう,生きかたの向きを転換させ
ていくことが,日本の学校における在日朝鮮人教育の第一歩であり,タt−一・ニン グポイントをなします。
通名を本名にもどす。それは即朝鮮人であることを宣言することであります が,それがこのターニングポイソトを具体化するもっとも端的な実践にほかな
りません。通名でとおしてきた生徒が本名を名のっていくということは,その 生徒にとって朝鮮人に生まれ変ることであり,まきに翻身そのものであります。
それを決意するまでの深い苦悩と,名のったあとの解放感とは,人間再生と同 義であります。
本名を名のって朝鮮人として姿をだした級友にたいして,日本人生徒は本名 で呼ぶよう変るだけでなく,級友がもつべき朝鮮を自分も知るよう求められ,
友を朝鮮人として支えきる人間にまで進みでなければならないのでした。
本名を本のり・呼ぶ実践は,民族学校にはない,日本の学校に固有な実践で
ありましょう。それは在日朝鮮人教育実践史のなかでもかってなかった質のも
のであります。
@ 朝鮮人生徒サークルをつくる
朝鮮人であることを隠すことのうらはらの関係として,同じ学校にいる朝鮮 の子らが相互にばらばらであり,孤立しあっているという状況がみられます。
ばらばらでいるかぎり,日本の学校のなかで朝鮮人として立ちつづけていくこ とは,困難でありましょう。朝鮮の子らが相互にはげましあう民族集団が,ど うしても求められてきます。「朝鮮文化研究会」等とよばれる朝鮮人生徒のサ ークルの組織化と活動が大切になってくるわけです。
朝鮮人生徒サークルは,語りあうそれぞれの生育史をとおして共通する被差 別の経験を知り,差別に負けぬ思想をきたえ,すすんで朝鮮の国語・歴史・文 化を集団学習して,朝鮮人として生きる力量をつける場であるとともに,日本
の学校のなかの「朝鮮基地」となって,日本人学友に朝鮮を訴えひろめる文化 的根拠地の役割をはたすものです。
本名を名のることと「朝文研」をつくることとは,在校朝鮮人生徒が立ちあ がり,立ちつづける主体的な活動において,車の両輪をなすものでしょう。形 は異なりますが,大阪のいくつかの学校に設けられるようになった「民族学級」
は,これを小学校レベルで具体化したものであります。「民族学級」は,週1〜
2日の放課後,在校する朝鮮の子らを集めて,校外から招いた朝鮮人の先生か ら朝鮮のことば・文化・歴史を勉強するところです。運営がどこもうまくいっ ているわけではありませんが,この学級が朝鮮人として生きることを励ますか けがえのない場所になっていることは,疑いのないところです。
⑳ 授業に朝鮮を存在させる
教科書と授業のなかで朝鮮は正当な位置をしめていません。通常,それは朝 鮮人生徒に誇りの代りに劣等感をうえつける内容であり,祖国の歴史・文化・
現在にたいする関心を閉ざしてしまっています。教科書のなかで朝鮮が小さく 描かれたうえに,それを教える教師のなかの朝鮮がおとしめられたままであっ たとするならぽ,その授業をうける朝鮮の子らは,二重の差別を蒙むっている
と感じざるをえないでしょう。
また・朝鮮人生徒を朝鮮人としておこしても,授業のなかで旧態にしたがっ
ているのであれぽ,それは自分で自分の首をしめるようなやりかたになります。
朝鮮文化の全体性を反映するように授業の内容を組みかえていかねばなりませ ん。それは,日本人教師じたいが今まで身につけさせられてきた朝鮮について の〈文化の体系〉を全面的に洗いなおして,新しい〈文化の体系〉をつくりだ
していくことなしには,できかねぬことであります。
朝鮮人として生きることを励ます〈文化の体系〉とは何か,あらためて問わ れていることです。すでに朝鮮の歴史を教えるについては自主教材が編まれ,
実践がつまれています。朝鮮語をカリキュラムに入れる試みも高校レベルでは 試みられ,朝鮮人生徒には朝鮮人としてのリアリテをまし,日本人生徒には外 国人として朝鮮人を見ざるをえない契機となっています(兵庫湊川高,尼崎工,
大阪今宮工)。小学校では,民話や音楽の自主教材をとおして,朝鮮を実感さ せています(大阪市外教編集のサラム各編。生活編,民話編,音楽編があまれ ています。幼稚園,低学年用に絵本も完成。歴史編も準備中。このように朝鮮 にっいての総合的・系統的な副読本の自主編成は,今までになかった劃期的な 試みであります。)また,祖父母・父母の生活史を学ぶことで朝鮮人として出 立する決意をかためえたように,在日朝鮮人の歴史を伝えることは,ことに欠
かせません。
授業のなかに朝鮮を存在させる新しい方法と探究を重ねていきたいと思いま す。そのさい,心にとめておきたい点は,教室のなかに朝鮮の子と日本の子が
同座しているということです。もちろん,その関係を上下に引きさき,溝をひ ろげる方向にではなく,朝鮮の子には朝鮮人として生きる元気をもたせ,日本 の子には古い朝鮮観から脱皮させることを同時におこなって,その間に新しい 結びつきをつくりだすという格別な課題を背負っているのです。ここでは,知
らないことを知った,誤まって知ったことを正したという啓蒙のレベルで事が 済まされるのでなく,具体的に人間関係をただす意識変革・関係変革にまです すむことが求められております。
㊥朝鮮人の生活圏につなぐ
日本の学校にいる朝鮮の子らは,朝鮮人の生活圏と切りはなされがちですし,
またはなれようとする気持をもちがちです。それは学校に1人,2人と少人数
しかいなかったり,地域に散居したりしていると,よけいそうなっています。
朝鮮人としての生活台が稀薄になってきているのです。
今,日本人教師ができていることは,高校の場合ですと,朝鮮奨学会につな ぐということでしょう。そのサマーキャンプに参加した生徒は確実に変ってい くようです。また,朝文研などのサークルと民族学校の生徒との交流も,少し つつ出てきました。それは,日本の学校と民族学校の交流史に新しい要素をつ け加えるものでありましょう。
親から朝鮮語を習いはじめた子がいます。地域の民族団体の朝鮮語講習会に 通っている子もいます。農楽を習い,朝鮮料理を覚える朝文研があります。祖 父母・父母の世代がうけつぎ所有している朝鮮の生活文化に多様なルートで子
らをつないでいくということは,緊急な課題になっております。この点,兵庫,
大阪の学校文化祭において,朝鮮の子らが朝鮮の歌や踊りや楽器を習って披露 しはじめましたが,これは注目してよい最近の現象であります。これを一歩す すめて,大阪市外教では,「子ども民族音楽祭」をひらき(第1回,1979年),
学校の壁をはらって,各学校にいる朝鮮の子らの横の交流を実現しました。こ れらは〈民族の心〉をわがものにしたい希求をどの子も持っている証しであり
ましょう。
朝鮮人が多住している地域で朝鮮人子ども会を組織することも,大事なこと です。大阪高槻市の「成合子ども会」はその先馳けであったように思えますが,
こんにちでは,八尾市の「トッカビ子ども会」と川崎市の「青丘社」が東西を 代表する活動でありましょう。ここでは,地域の朝鮮人青年・親が子どもを朝 鮮人としておこし,支える主体になり,そうして地域で朝鮮人として生きる子 が学校でも朝鮮人として生きぬくことを励ましています。トッカビ子ども会で は学校側もこれに応えていますが,しかし,青丘社にあっては学校・教師が動 かないという壁にぶつかっています。地域と学校をとおして,つまり生活の日 常において朝鮮人をさらして生きていけることが,子どもにもっとも必要なこ
とであります。
㊥進路を保障する
長いあいだ,就職における民族差別,そのひとつのあらわれとしての国籍条
項は,日本社会に生きる在日朝鮮人の進路を閉ざしてきました。朝鮮の子らは,
父母・兄姉・親類の体験を見聞きして,この事実を熟知しています。それで,
中・高の最終学年になると,荒れたりふさぎこんだりしていきます。また,
日本の学校は就職差別の前にもろく,アテにならないので,身内をたよって働 く先を探すしかないとも,覚悟を決めています。その覚悟に日本人教師ものっ て,朝鮮人だからしかたがないと身をひいてしまいます。
在日朝鮮人の子らにおけるこのような進路の閉塞状況をもっともするどく感 じとった日本人教師が,この子らを実践の中心にすえていた教師群でした。そ して,社会へむけての行動をおこしていきました。兵庫の教師は,企業の国籍 条項を一つひとつ点検して,その壁を破って,本名で就職させていく活動を展 開してきました。大阪の教師は,幼稚園から大学まで,朝鮮人を理由に入学さ せない学校に,個別にその門戸をひらかせる活動を重ねてきました。さらに,
双方の教師が協力して,日本育英会の奨学金制度から国籍条項を撤廃させ,本 名で受給することを実現しました。
このような活動は,一面,本名を名のらせる実践の必然的な帰結でもありま す。朝鮮人として姿をあらわして生きる決意をかためた子が,そのままの姿を
さらして,進学校や企業に入るように力をそえるということは,進路保障は教 育の総和という観点にたつかぎり,当然に引きつづく実践でありました。
進路保障の運動では,当の朝鮮の子らが朝鮮名を名のって前にすすみでるこ とが,不可欠の条件であります。朝鮮人として入学・就職していくということ です。1970年代はこの点でも大きく前進しました。それは二つの闘いに象徴さ れます。ひとつは日立就職差別にいどんだ朴鐘碩君の闘いであり,1974年に は,就職における民族差別は誤りであるという勝訴の判決を横浜地裁から獲i得
しました。もうひとつは,在日朝鮮人は司法試験に受験できても,合格後,司
法修習生に採用しないという壁にたいして,金敬得君がいどみ,見事,風穴を
あけたことです(1977年)。このような就職差別構造への挑戦は一世たちには
考えられぬ試みであり,他の〈在日世代〉を大きく鼓舞する役割を果していま
す。これらがまた進路保障の運動を励まします。西宮西高による電々公社就職
闘争もその一例です(1977年)。これは,労働組合(全電通労組)も動き,協
働するという新しい地平をひらいた点で,注目される取組みでした。
在日朝鮮人の子らの進路保障を運動的に実践するということは,これまでの 日本人教師による在日朝鮮人教育実践史でもっとも弱かったところです。朝鮮 の子らを実践の中心にすえたことで,これら日本人教師は,その弱点をこえる 道すじを提出してくれたわけです。
ただ,このようななかで,意見の割れる問題がひとつ出てきています。一般 公務員に就職することの是非をめぐってであります。地方公務員には国籍条項 の規定がありません。これに着目して,70年代の半ばに兵庫の高校教師たちは 地方公務員試験門戸解放の運動をおこし,これに成功,何人かの朝鮮人高校生 を本名で就職させました。その後,職場にある教え子の状況を見て,同化につ ながるおそれを感じ,受験させることを凍結しております。しかし,これに刺 激されて,他の府県で,朝鮮人の教え子を受験・就職させる動きがおきてきた のです。公務員試験に国籍条項をはずさせる点においてはだれしも異論がない のですが,そこに朝鮮の子を受験・就職させることについて賛否の意見に割れ るようになったのです。
㊦ 教育行政の姿勢を変える
1978年に大阪市教委が学習資料として出した「在日外国人子女教育一主とし て在日する韓国人・朝鮮人の子ども」は,教育行政の側が自ら同化教育の方針 を否定,目本の学校のなかで朝鮮の子らを朝鮮人として出立させる方向を打ち だした包括的な文書として,注目に値するものでありましょう。
同文書は,「まず日本人と同様な取り扱いは,決して日本人・外国人子女に とって,ともにプラスにならない」と,教育行政において長年採られてきた同 化教育の方針を否定しております。歴史への自省をふまえるのです。そのうえ で,朝鮮の子らを「独立外国国民としての人権」をもつものとして尊重し,そ のために「民族的な自覚と誇りを高める教育」をすすめることを述ぺています。
ひるがえって,「もし,かりに教師が外国人子女の人権を尊重せず,差別的な
教育をしているとすれば,それは日本人子女の正しい人間性の成長をむしばむ
ことになる」と指摘,「日本人子女のなかにある民族的偏見と差別意識を排除
し,ともに学ぶ在日外国人子女の立場を理解し,支えあわせる」方針を明らか
にしています。さらに,このような観点から,本名を名のり・呼ぶ方法を始め として,教科指導・生活指導・進路指導など学校教育の全領域を組みかえてい く手だてを提示しております。この文書は,朝鮮の子らにかかわる教育行政の 姿勢を全面的に変えた日本で最初の指針である,といってよいでしょう。
このような文書が出されるにいたった背景には,もちろん,「考える会」を 先頭にした大阪の実践者集団のやむにやまれぬ行政要求のつみ重ねがありまし た。本名を名のり,呼ぶことを軸とした実践は,この実践の事実をもとにして,
学校当局・教育委員会にも,朝鮮の子を朝鮮の子として民族的に識別すること を求めざるをえなかったのであります。
そうした行政交渉をとおして最初に変えられたことは,指導要録に本名で記 載するということでした。1973年,市教育長は「原則として公簿には本名を記 載し,そのふりがな表記は母国語の発音に近づける」という通達を出したので す。梅南中学校長・佐伯重義氏は,当時,これを促し支えるために,朝鮮語を 学習,r人名仮名表記便覧』を執筆・自主出版しました。現場からのこのよう
な努力があって,本名記載の通達も意味あるものになります。
翌74年,市教委は「教育指針」のなかで特に留意すべき事項の一として「在 日外国人子女教育」をあげるにいたりました。日・朝の子どもがともに変わり あっていく方針を示すのです。それは「在日外国人の子どもが,民族的自覚と 誇りを高めることができるようにするために,本名を使用する指導を徹底し,
学校生活全般の場で科学的認識に基づいて指導すること」と,「日本人の子ど ものなかにある民族的偏見と差別意識を排除し,ともに学ぶ在日外国人の子ど もの立場を理解することのできる集団の育成に努めること」という二つの柱か ら成っています。在日朝鮮人教育・実践が練りあげた原理・原則を行政の側も 採り入れざるをえなかったのです。以降,この教育原理が引きつがれていきま
す。
こうした歩みがあったうえで,78年の学習資料が出されたのですが,それを 読んで思うことは,教師が実践のなかで苦労しながらつかみとってきた思想・
実践の方法をもとにし,それを内容にしているということです。これは実践が
行政の質を変えた数少い例のひとつであると思います。
大阪におけるこのような教育行政の姿勢の変化は,在目朝鮮人教育に取りく む各地の日本人教師を励まし,この問題にかかわる行政のありかたに目を向け
させていきました。東京では,東京の「考える会」を中心にした都教委交渉が 何度も重ねられています。横浜でも,「横浜の民族差別と闘う会」を先頭に市 教委交渉がもたれました。このような行政交渉において特徴的なことは,行政 のこれまでの無関心・日本人と区別せぬ姿勢を声高に非難するのではなく,目 の前にいる朝鮮の子らの被差別のうちに閉じられた姿・朝鮮人とに生きたいと いう奥底にある本音を事実として語りつづけることに徹している,ということ です。実践の事実で行政の質を変えるという態度です。
横浜市内の公立小・中学校には1200〜1300名の朝鮮の子らが学んでいますが,
そうした事実に動かされて,市教委は「在日外国人児童・生徒の人権を尊重す る教育」を1980年度から方針化することになりました。大阪市教委のそれと同 様に,一方で「在日外国人(特に韓国・朝鮮人)児童・生徒が自ら民族的自覚
と誇りをもち,たくましく生き抜いていこうとする努力を勇気づけ,助力して いくこと」,そのための第一歩として「自ら本名を名のることができるよう,
本人・保護者とよく話し合い,助力に努める」ことをあげるとともに,他方
「日本人児童・生徒に,外国人を外国人として尊重し,その上に相互友好関係 を築いていける資質・態度を育成する」ことを記しております。ここでも,実 践者の実践事実を反映して,日本の学校にいる朝鮮の子を変えていく最初のタ ーニソグ・ポイソトとして「本名を名のり・呼ぶ」実践が位置づけられるよう になっています。
①夜間中学のなかのオモニたち
これまで,日本の学校にいる朝鮮の子どもたちにかかわる教育実践について 述べてきました。最後に,1970年代に入って見られるようになったもうひとつ の在日朝鮮人教育の姿にふれてみたいと思います。
高野雅夫氏が火をつけてから,大阪にも夜間中学が設けられていきました。
1969年に天王寺夜中がつくられたのを初めに,今では10校を数えています。そ
こに在日朝鮮人のオモニたちが多数通いはじめたのです。たとえば,1979年度
の天王寺夜中生400名のうち,在日朝鮮人生徒は260名をしめ,そのなかでも50
歳以上のオモニたちが過半に及んでいます。これは大阪の他の夜間中学につい ても同じであり,兵庫(3校),奈良(1校)の夜中でも見られる状況であり ます。近畿に公立夜間中学ができたから,一世のオモニたちが日本の学校に姿 をあらわしはじめたのです。東京にも夜間中学が8校ありますが,こうしたこ
とはあまり見られません。また,戦前の夜間小学校にたくさんの朝鮮人が通っ ていましたが,それらの生徒はおもに10〜20代の男子を中心にしていました。
ですから,〈夜間中学のオモニ〉という姿は,今になって出てきた新しい教育 事実であります。
日本で生れ育った二世とは異なって,オモニたちの多くは朝鮮語のはなしこ とばの世界で生れ育っています。しかし,儒教文化の社会に成長して,教育機 会から疎外され,ハソグルの文字を知らない人も多いのです。それなのに,朝 鮮語の読み書きを習わないで,なぜ,夜中に入って日本語の文字を習おうとし
ているのでしょうか。私の知りたい第一の疑問でもあります。
ひとりのオモニは,生れて初めて学校の門をくぐり,「机と椅子に座る気分 は何ともいえない充実した気持でした」と語っています。学校から排除された
ものが,一度は学校を取りもどしてみたいと念願し,それをわがものとした喜 びが伝わってくるようです。そうして,これも生まれて初めて鉛筆をにぎり,
自分の名前を書きおぼえることから始めます。「よしだはなご」と何度も書き,
くり返し読みます。「吉田花子」と漢字もおぼえ,「そうや,この字は私や,吉 ひよんく 田花子や」とたしかめます。それから,外国人登録の字を教えてと言い,「玄時 至……そうや,そうや,これがほんとうの私や。これを書きたかった,これが
いるのや」と落ちつくのです。このようにして夜間中学での勉強を始めていく わけです。
今まであいうえおや計算を知らなくて,不便して日本社会を生きてきました。
また,日本の学校に通う子や孫に聞かれて,教えてやれないくやしさも味わって いました。そうした日本文字を知らないことからおきる生活するうえでの不自 由さを減らしたい,という気持から学びはじめたのでしょうか。r字知らんの
と,金ないのん,便利悪い」といいます。そうして,学校という自分にとって
は未知の世界に身を入れ,たとえそれが日本文化であるにしても,知らなかっ
たことを知る喜びにつつまれます。それは具体的なもので,「道,歩いてたら 看板に習うた字,出てくるやろ,あの時は嬉しい」,「テレビで,五木ひろしの 横に五木ひろしが立っている」,「娘が私用にひらがなの電話帖をつくってくれ たんで,どこでも電話できる」というわけです。世界がひろがったという実感 でありましょう。
しかし,それだけでなく,オモニたちにとって日本文字をおぼえていくとい うのは,それをとおして自分のなかにある朝鮮をもういちど確認していく意味 を果しているように思われます。「オモニ,ポコシッポ(母さんに会いたい)」
と作文に綴ることで,自分につながる朝鮮と出会いなおしているのです。そう であってみれぽ,別の心配にとらわれてもいくようです。「朝鮮語しゃべれる のは,オモニとアボジだけです。私たちが居なくなったら,子たちはどうなる のでしょう。カスミ タツタ ハムニダ(胸が苦しいです)」と嘆くのです。
朝鮮のこころとことぽをわが子にも引きついでもらいたい,という心根が表出 されてくるわけです。
夜間中学のオモニたちの心根が,日本の学校にいる朝鮮の子らに,まっすぐ と深く受けつがれていってほしい,と願うものです。日本人教師はそれをつな
ぐ位置にありましょう。
<補記>
1981年1月,東京都公立学校教員採用試験に,2人の在目朝鮮人青年が合格,これを 機会に「東京都での在日朝鮮人の教員採用を進める会」が発足しました。すでに大阪,
三重では義務制の教員に就いており,また兵庫の高校には朝鮮語担当の教員がいます。
公立学校に多数の朝鮮の子らが在学している現状では,この子らを朝鮮人として生きる ことを励ますためにも,在日朝鮮人が教師としていることの現実的な必要性はありまし ょう。これと呼応する位置にあって,「国公立大学に外国人教員を任用する」運動が進 められています。教授会メンバーに外国人は一人も採用されていないからであります(こ の詳細については日高六郎・徐龍達編r大学の国際化と外国人教員』を参照)。公立学 校の教員に在日朝鮮人がなることの意味を考えあう時がきている,と言えるでありまし
ょう。