満州国における中国朝鮮族の教育について [ PDF
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(2) 民族性を抹殺する一方、教育上の軍事体制化を推し進め. 「書堂」を設けた。当時の教育内容は主に漢字で、 「千字. た。. 文」、「童蒙先習」 、「小学」などであった。1906 年には龍 井に瑞甸書塾という最初の近代的な私立学校が建てられ た。. 序章 民族とは同一の生活基盤・生活様式を中心として固有. 1910 年代から 20 年代にかけて日本は、満洲において. の文化共同体を形成し、長久な時間を経て独自な文化の. 威勢を増大させるにつれて、朝鮮人の教育問題に大きな. 創案と他文化との接触を通じて伝統的文化を形成・発展. 関心を持つようになった。ソウルの朝鮮総督府、満洲の. させる集団である。. 日本領事館及び南満洲鉄道株式会社はいずれも、朝鮮人. 周知のように、中国は多民族国家であり、55 の少数民. 学校の設立や補助金供与に直接関与した。日本は同時に、. 族がいる。朝鮮民族はその中のひとつの少数民族である。. 満洲における反日学校に影響力を及ぼそうとしたり、抑. 中国における朝鮮民族の歴史は一世紀を越えている。. 圧を加え閉鎖させようと試みた。. 長い間、朝鮮民族は歴史の試練と異なる文化の中で、強. 1931 年の「満洲事変」の後、日本は満洲国を建国して、. く民族主体性を保ちながら、独自の文化体系と教育を守. 中国朝鮮族に対する「皇民」化教育を本格的に推進した。. ってきた。. 1937 年まで、朝鮮族学校はすべて朝鮮総督府に管轄され. 朝鮮民族の高い教育熱に注目し、朝鮮族としての民族 性を理解した上にその民族教育を研究することが義務で. る「普通学校」に改められ、反日感情を持つ学校はすべ て閉校となった。. あると思っている。そこで筆者は、朝鮮民族の文化・教. 1938 年には新学制が施行され、「皇民」化教育を強化. 育史の長い発展過程の中で、満洲国における朝鮮族の教. した。植民地統治下では、朝鮮族教育経費は非常に少な. 育についての研究を中心とする。なかんずく「民族協和」. く、また朝鮮族児童の就学率も極めて低かった。当時朝. を統治理念として建国された満洲国における朝鮮族教育. 鮮族人口は 80 万名と推定されたが、実際の就学者は. の位置づけ、朝鮮民族に対しての「皇民」化教育、及び. 43, 000 余名しかいなかった。. 「民族協和」・「内鮮一体」をめぐる相克関係を明らかに. 1943 年 10 月には「教育に関する戦時非常措置令」を. する。その上で、日本植民地支配下の朝鮮族の教育実態. 公布して朝鮮族の大学・専門学校生に「学徒兵」制度を. を考察しようとするのである。. 実施しはじめ、1944 年から「強制徴兵制」を実施した。 1945 年 5 月に「戦時教育令」を公布してからは、学校の. 第 1章. 歴史的概観. 朝鮮人が今日の中国東北地区(満洲)に移住しはじめ. 教育的機能は実際には完全に停止してしまった。 第 2章. 満洲国の建国と「民族協和」. たのは明末から清初(16 世紀末∼17 世紀初期)にかけて であり、大量に移住するのは 19 世紀後半になってからで ある。 1860 年から 1869 年にかけて朝鮮半島北部で発生した 長期にわたる自然災害により、封禁令が廃止される以前. 現在満洲というと、地域空間を示している。一般に満 洲という地域は中国の東北部と呼ばれ、現在の遼寧省、 吉林省、黒龍江省の 3 省と内モンゴル自治区の東北あた りを指している。. からすでに多数の避難民が鴨緑江や豆満江(図們江)を. 日露戦争後、日本の関東州租借権、満鉄経営権の獲得. 渡り、のちに「南満」、「東満」、「北満」などと呼ばれた. に伴い、多数の日本人が満洲に乗り込んできた。とはい. 地域に移住した。. え、日本人の大半は関東洲と満鉄付属地に住み、満鉄の. 一方、それにも増して半島から中国へ大量に移住した. 関係者か、それに群がるサービス業者・小売商がほとん. のは 20 世紀に入ってからであり、日本が朝鮮半島および. どであった。関東州や満鉄付属地では都市整備が進めら. 満洲を統治・支配する過程においてであった。移住者は、. れ、日本と同様の生活をおくることが目指された。. 1904 年に 74, 000 人、1909 年に 98, 000 人、1911 年に. 一方、関東軍参謀の石原莞爾は満洲領有計画の研究. 126, 000 余に増えた。こうして、東北地区の朝鮮族の人. をはじめていた。石原は、 「満蒙問題ノ解決ハ日本ノ活ク. 口は 1913 年当時すでに合計 252, 000 余人となった。. ル唯一ノ途ナリ」との観点から、 「満蒙問題ノ解決ハ日本. 中国への移住と時期を同じくして、初期に移住した朝. カ同地方ヲ領有スルコトニヨリテ始メテ完全達成セラ. 鮮人住民は、不安定な地位と激変する条件にもかかわら. ル」として満洲領有計画を考案した。そして満洲占領を. ず、最初に異国で学ぶ子弟のために私的初歩学校である. テコに、豊富な資源を活用した総力戦体制の構築、朝鮮.
(3) 統治の安定化、対ソ戦の拠点確保、国内政治の刷新など. な配慮が加えられていた。. を実現しようと考えていた。石原ら関東軍によって立案 された満洲領有計画は、日本政府の承諾を得ることなく、. 第 3章. 対立と統一の「鮮満」関係. 1931 年 9 月 18 日「満洲事変」として実行された。 1932 年 3 月 1 日、満洲国は建国宣言を発表した。満洲. 1937 年の日本による満洲国治外法権撤廃に際しての在. はいうまでもなく、台湾、朝鮮、東南アジアなどととも. 満朝鮮人教育行政権委譲問題をめぐる朝鮮総督府と満洲. に日本植民地のひとつであった。この満洲植民地は、ア. 国政府との交渉過程において噴出した、 「民族協和」と「内. ジア諸民族支配の壮大な実験であり、その後に引き続い. 鮮一体」というふたつのイデオロギーの相克とは、満洲. て展開される「大東亜共栄圏」構想の原点という位置づ. 国国籍法を制定して在満朝鮮人を「満洲国の国民」とし. けを持っていた。このことは、満洲における教育にも反. て取り扱おうとする満洲国側と、在満朝鮮人を「日本国. 映されている。. 臣民」として自らの管轄対象とする朝鮮総督府の確執で. 日本は満洲国の建国によって、朝鮮族に対して「皇民」. あった。結局、この交渉過程においては満鉄沿線主要地. 化教育を本格的に推進した。 「満洲事変」後、日本の朝鮮. を除く在満朝鮮人の教育行政権を満洲国に委譲する、と. 人教育計画への干渉を正当化し、延いては満洲事変その. いう事務レベルでの調整により妥結をみたものの、在満. ものを正当化するために、日本外務省は、 「朝鮮人の間の. 朝鮮人の国籍問題及び「内鮮一体」と「民族協和」の間. 子弟に対する教育熱はますます高まっており、朝鮮人た. の矛盾は根本的に解決をみなかった。. ちは自分らの学校を作ることを日本当局に熱心に、絶え. 満洲国における治外法権の全面撤廃後、満鉄沿線主要. ず申請している」と報告した。さらに、日本人教師と教. 地を除く在満朝鮮人の教育行政権を満洲国へ委譲し、. 科書も朝鮮人学校に提供されることになった。東北地区. 1938 年 1 月から「新学制」を実施した。1938 年 3 月に公. の学校に関する行政権は満洲国政府に属し、私立学校が. 布された第 3 次「朝鮮教育令」によって「皇民」化教育. 独自に編纂した教科書は一律に使えぬようにした。日本. はさらに強化された。満洲にあるすべての朝鮮人学校は. 語を「国語」、日本歴史を「国史」として授業させ、朝鮮. ソウルの朝鮮総督府が決めた教科と教科書を採択するこ. 族の児童・生徒には「天皇崇拝」と「皇国臣民」化思想. とを余儀なくされた。この意味では、日本は満洲におけ. を強要した。. る朝鮮人の問題を、朝鮮半島の延長だと考えていたので. 満洲国は、建国の初期に「朝鮮教育令」による朝鮮総. ある。. 督府の植民地教育方針、政策及び制度をそのまま移植し. 朝鮮と満洲では、日本人と朝鮮人の精神的連帯感と共. た。日本の満洲における教条的な植民地政策の結果、次. 通の運命を強調するために「内鮮一体」と「皇民臣民の. 第に多くの朝鮮人学童は朝鮮人学校を離脱して、日本の. 誓詞」といったスローガンが唱えられた。朝鮮人として. 後援する学校に集まり始めた。朝鮮人学童は人文系より. の自覚を高めるようなことはすべて厳禁された。彼らは. も技術、職業科目を学ぶことを奨励され、朝鮮人自身の. 朝鮮族学校で日本語を国語として日本語の授業時間数を. 歴史は忘れるよう強制された。. 大幅に増やす反面、朝鮮語の授業時間数を大幅に減らし. 満洲国は建国理念として「民族協和」というスローガ. た。. ンを掲げていた。 「民族協和」に基づき在満朝鮮人を「満. 朝鮮人学校に対する日本の管理は太平洋戦争中にさら. 洲国国民」として統合しようとした。しかしそれは、在. に強化された。1941 年の「国民学校令」によって朝鮮内. 満朝鮮人を帝国日本や植民地朝鮮の法域から切り離すも. と同じく学校での朝鮮語の使用と教育を禁止したうえ、. のではなかった。. 民族教育の温床であった私立学校を廃校させた。日本は. 満洲国が唱えた民族協和は、指導民族である日本人の. 満洲にいる朝鮮人に対し、厳しい行政政策を課した。. 統率のもとで実現されるものであった。日本人を頂点と. 1940 年から日本は、朝鮮本土と同じく「創氏改名」を. する各民族の統合が民族協和の基本理念で、各民族の多. 要求して朝鮮族の氏名を日本化式に改めさせた。さらに. 様性が認められていなかった。また、制度面でも民族協. は朝鮮の歌や舞踊、民族祭祀すらも禁止された。こうし. 和を促す試みは行われていなかった。日本人と日本人以. て、朝鮮族学校は 1935 年の 353 ヶ所から 1941 年には 257. 外の民族は別扱いされる部分場合が多く、民族協和と相. ヶ所に減少してしまった。. 容れない方向性がとられていた。 日本人は民族協和の指導民族と位置づけられ、他民族 とは異なる存在であっただけではなく、制度的にも特別. 1943 年「学徒兵」制度を実施しはじめ、1944 年から「強 制徴兵制」を実施すると同時に日本語講習所・朝鮮青年 特別訓練所を設立して、学習と訓練を受けるようにした。.
(4) 学習と訓練の後、朝鮮人青年たちは戦争の犠牲になって. 強制連行真相調査団『朝鮮時局関係法規』東京: 柏書. しまったのであった。このように帝国日本は在満朝鮮人. 房. 1996 年. に対する皇民化教育を進め、その民族性を抹殺する一方、. 李!畛『中国朝鮮族教育史』コリア評論社 1988 年. 教育上の軍事体制化を推し進めた。. ○姜東鎮『日帝の韓国侵略政策史』ソウル: 韓一社 1980 年 ○《中国朝鮮族教育史》編写組 『中国朝鮮族教育史』 延. 終章. 辺: 東北朝鮮民族教育出版社. 1991 年. ○延辺朝鮮族自治州概況執筆班『延辺朝鮮族自治州概況』 中国の朝鮮族教育について、朝鮮族学者を含めて様々 な研究や実践が展開されているところである。本研究で 筆者は、 「民族協和」を統治理念として建国された満洲国 における朝鮮族教育の位置づけ、 「民族協和」 ・ 「内鮮一体」 をめぐる相克関係について考察を行った。 朝鮮族教育の位置づけについて、筆者は満洲国におけ る「皇民」化教育の全般的な流れに関して叙述したが、 そのなかの「言語」教育については、 「朝鮮語の禁止・日 本語のみの使用」という当時の言語政策だけに言及して いる。 日本での留学生活のなかで実感していることがある。 それは時の流れが何十年も経た現在に至ってもなお、中 国の朝鮮族、韓国の韓国人たちが使用している言葉のな かに、日本語そのまま使用されている言葉が結構多いと いうことである。このようなことは、日本植民地であっ た朝鮮半島及び満洲国に対する「皇民」化教育での言語 政策の具現である「朝鮮語使用禁止・日本語のみ使用」 から見られる影響ではないだろうか? 日本語のまま使用している言葉を、地域・種類によっ て整理して朝鮮人の言語を研究することがこれからの課 題であると考えている。勿論その方面の先行研究が展開 されていると思いながら、中国朝鮮族である筆者の特徴 を活かして研究を行うことは、朝鮮族教育史にもっと重 要な意義があると考えている。 主要引用・参考文献(○は朝鮮語文献; ◎は中国語文献) 小林龍夫、島田俊彦、『満洲事変』「現代史資料 7」みす ず書房. 1964 年. 嶋田道禰『満洲国教育史』東京青史 1982 年 武田徹『偽満洲国論』 東京: 河出書房. 1995 年. 田中隆一「対立と統合の『鮮満』関係―『内鮮一体』 『五 族協和』『鮮満一如』の諸相」 (大阪歴史学会『ヒストリア』152 号 京都:柳原書店)1996 年 塚瀬進『満洲国「民族協和」の実像』吉川弘文館 1998 年 角田順『石原莞爾資料−国防論策編−』東京: 原書房 1967 年 朝鮮総督府企画部、帝国地方行政学会朝鮮本部、朝鮮人. 延吉: 延辺歴史研究所. 1984 年. ◎朴奎燦『延辺朝鮮族教育史稿』吉林教育出版社 1989 年.
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