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(1)

金子みすずの童謡における哲学思想 : 物心一元的 な自然観・宗教観・人生観

著者 霍 士富

雑誌名 同志社法學

巻 59

号 2

ページ 763‑784

発行年 2007‑07‑31

権利 同志社法學會

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011206

(2)

金子みすずの童謡における哲学思想七六三同志社法学 五九巻二号 (一三三三)

金子みすずの童謡における哲学思想

物心一元的な自然観・宗教観・人生観

霍   士 富

 序

 金子みすずの童謡は、自然や社会や人生の諸相を概念的にではなく直観的に把握し、常人の眼には目に見えない真実や生の源泉へ通ずるものをもやさしい詩的言語で表現して、読者の心を揺り動かすところに魅力がある。それは、いわ

ば詩学的な直覚で、人間が生きてゆくうえでの哲学を表したものである。彼女の童謡世界は、植物から動物、身近にある小さな生命から土、海、草原へ、さらに空にある月、星、太陽へと表現対象が広がっていく。そして、人と自然は対

立する存在ではなく、人も自然の一部であることを、読者に語りかける。

 佐治晴夫は、﹁今世紀が生んだ最大級の天才童謡詩人、金子みすずは、やさしい詩のかたちをとおして宇宙や人間存在の根源的様相を見事に表現しているという意味において、詩人の心と科学の目を併せて持った希有な天才であったと

(3)

金子みすずの童謡における哲学思想七六四同志社法学 五九巻二号 (一三三四)

いえます。"昼でも星はある!"という事実を﹃星とたんぽぽ﹄という詩を通して、これほど美しく、そしてさりげなく、

しかも的確に表現した上で、それを私たちの生き方にまで言及させた詩人は、彼女をおいて他にはない

、はを読み取ろうとする。これ確童かに重要な視点である。が謡の理者いる。彼は宇宙物子学なので、﹁科学の目﹂で金 絶と﹂、賛して 1)

この見解をさらに発展させて、金子が童謡世界において、﹁人間存在の根源的様相﹂をどう表現し、それをどのように﹁私たちの生き方にまで言及させた﹂かというところに注目し、それを詳細に究明したい。

 矢崎節夫は、﹁大正から昭和にかけて、慧星のように現われ、若き童謡詩人たちのあこがれの星とな﹂っていた金子みすずは、﹁作者の内なる宇宙﹂を具現化することによって、﹁どこまでも深く、広く、はてしなく優しい文学宇宙﹂を

作り上げることができた。そのお蔭で、みすずの童謡は、﹁園児から百歳の方までが、その人生観、宇宙観、宗教観の深まりによって、より深く読める、日本人が初めて手に入れた三世代が共有できる文学宇宙

﹂である、と評価している。 2

これは、金子の童謡世界を総括的に評価したもので、卓見である。が、金子みすずは、どのような詩的な技法で、どのように﹁作者の内なる宇宙を具現化することによって﹂、自らの﹁人生観、宇宙観、宗教観﹂を表しているか。その答

が見当たらない。 ミハイル・バフチンは、﹁詩人のスタイルは、外的な制御に従うことのない内的な発話に発するのであり、彼の内的

な発話は、それ自体、全社会的生活の産物である

的をに話発な的内、界っ世たえ捉で力観直よて鋭を詩、し察洞く深界常世いなえ見はに人いつ科をスンセの学持、は女 子。﹂は、、金言がるいてっさとまなにそのよう童謡詩人である。彼 3)

言語で的確に表現している。本論において私は、以上の二氏の説を踏まえながら、金子の﹁人生観、宇宙観、宗教観﹂を具体的に分析するとともに、彼女の童謡が﹁宇宙や人間存在の根源的様相﹂をどう表現し、どのように﹁三世代が共

有できる文学宇宙﹂を創造しているのか、という点を検討してみたい。

(4)

金子みすずの童謡における哲学思想七六五同志社法学 五九巻二号 一、見えるものと見えぬもの  詩人は、

V at es

(預言者)であり、﹁宇宙世界の神聖なる摂理﹂を窺視し先知する預言者である。金子みすずは、確か

にその﹁摂理を窺視する﹂想像力を持つ詩人と言っても過言ではない。彼女の﹁星とたんぽぽ﹂(生前未発表、﹃空のかあさま﹄新装版 金子みずず全集・Ⅱ、一〇八頁)には、次のように書いている。

青いお空の底ふかく、海の小石のそのように、

夜がくるまで沈んでいる、昼のお星は眼に見えぬ。見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。

散ってすがれたたんぽぽの、瓦のすきに、だァまって、春のくるまでかくれてる、つよいその根は眼にみえぬ。

見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。

 一読して分かるように、﹁星とたんぽぽ﹂は、やさしい口語で表現されているが、その構造は、﹁青いお空の・七音﹂﹁底ふかく・五音﹂というように、伝統的な﹁七音・五音﹂に基づいている。即ち、この詩は七音・五音の音数律で組み立

てられており、この点では伝統的な韻律をふまえて浪漫的な詩風を確立した明治期の島崎藤村、土井晩翠らの文語定型

詩と変るところがない。が、その平易な口語表現と、一篇十二行という﹁星とたんぽぽ﹂の詩形は、藤村、晩翠の詩に比べればずっと自由な口語定型詩になっている。けれど、その十二行の基本となる各行の音韻構成は、やはり伝統詩の

 (一三三五)

(5)

金子みすずの童謡における哲学思想七六六同志社法学 五九巻二号

七・五音をそのまま踏襲している。これは、金子がこの詩を童謡として成立させるための必然の結果であったと言えよ

う。童謡は﹁謡﹂として歌われることを想定して創作された詩である。従って、童謡は、定型であることを当然の前提として成立っているのである。

 佐治晴夫は、﹁私たちの五感の感度には物理的限界があるということの認識、さらに、すべての存在は目には見えないほかのものたちとのかかわりの中でできているということの認識、これは科学のセンス

﹂である、と指摘しているが、 4

私はそれを文学的想像力によるものとして捉え直したい。文学的想像力とは、﹁言葉による想像力で﹂、﹁しかも言葉そのものを言葉の根源にもどしての想像力といいますか、日常的な言葉をそのまま採用しながら、しかもその言葉がまと

いつかせているムダな、非本質的なものをあらいおとし、言葉を赤裸の根源にもどして、それによって世界に存在するすべての事物を新しく発見してゆこうとする

の力語による想像になよって、宇宙言的金﹂、はずすみ子詩。るあでとこ 5

遥かかなたにある、常人の肉眼で見えない﹁星﹂を、目の前にある﹁たんぽぽ﹂と類比して、﹁世界に存在するすべての事物を新しく発見してゆこうと﹂している。要するに、金子は、青い空の底深く、海の小石のようにある、眼に見え

ない﹁昼のお星﹂を文学的想像力で見ることによって、常人が日常的に見逃している、﹁すべての存在は目には見えないほかのものたちとのかかわりの中でできている

枚に一、ばえ例。るあでのるす唆示者読を相様的源根の在存ういと﹂ 6

の紙の中に雲や太陽を見ることができる、と想像するのもそれである。 また、その﹁散ってすがれたたんぽぽの、瓦のすきに、だァまって、春のくるまでかくれてる、つよいその根は目に

みえぬ﹂、というところでは、一種の人生の哲学を我々に示唆している。要するに、人々が何かの目的に向かって、苦労や努力を積み重ねて待機していることを、﹁散ってすがれたたんぽぽ﹂が﹁春のくるまでかくれてる﹂姿と重ね合わ

せて表現している。﹁かわらのすきに、だァまって﹂いる﹁つよいその根﹂の存在の顕現化は、見えざる生命の力や人  (一三三六)

(6)

金子みすずの童謡における哲学思想七六七同志社法学 五九巻二号 間の不屈的な精神を暗示しているようである。 金子は﹁すべては他とのかかわりにおいて存在している﹂という存在の根源的様相を、﹁蓮と鶏﹂(生前未発表、﹃空

のかあさま﹄新装版 金子みすず全集・Ⅱ、一八三頁)で、みごとに表現しているのである。

泥のなかから  蓮が咲く。  それをするのは  蓮じゃない。卵のなかから  鶏が出る。  それをするのは  鶏じゃない。

それに私は   気がついた。 それも私の    せいじゃない。

 この詩のリズムを見ると、この柔らかな音調を構成しているのは、日本の定型詩の基本をなす七音・五音である。しかし、その音律形態を、単調なリズムに陥らせぬように、作者は細心の注意を払っているのが分かる。即ち、金子はむ

しろ、その音律を効果的に活かして、泥、蓮、私という、それぞれの立場に立ち、自らの謙遜の気持ちを語っているのである。

 中江嘉男は次のように述べている。﹁出遇いは、その瞬間に出遇っているという事に気付く感性と想像力が必要です。

それも、みすずのいう、見えぬけれども在る、見過ごしてはいけないことがあるということだと思う。﹂我々は、大事なものに﹁出遇っても気が付かず、見逃して、見逃していることすら気付かないで、毎日眼の前の生活、出来事、情報

に眼を奪われて本当に大切なものを見過ごしている﹂のではないだろうか。﹁ぼく﹂は、この﹁見える世界と見えない世界の相対する世界を同時に見せていただくことによって、ぼく自身の超現実的な体験として、指針として考え想像し

創作する糧とさせていただいてい

。味るあでのもな長深意﹂、も摘指のこ。る 7)

 (一三三七)

(7)

金子みすずの童謡における哲学思想七六八同志社法学 五九巻二号

 普通、蓮の花の美に感嘆する常人の眼には、蓮の花しか見えていない。が、金子のまなざしは、常人が日ごろ見逃し

ているところの、その蔭にある﹁泥﹂の存在に気付く。それと同じく、﹁卵のなかから﹂出ている﹁鶏﹂に対して、常人は﹁鶏﹂にしか目を配らないのだが、金子のまなざしは、その﹁鶏﹂の蔭にある﹁卵﹂の存在に注目する。逆にいえ

ば、﹁泥﹂や﹁卵﹂は、自らの存在を自己主張してはいないが、﹁泥﹂も﹁卵﹂も﹁蓮﹂や﹁鶏﹂の陰に存在する。﹁それに私は/気がついた。/それも私の/せいじゃない。﹂いずれも謙虚で少しも威張っていない。ここに我々は、﹁謙虚

さ﹂を大事にする日本人の国民性を窺知することが出来るのである。要するに、金子みすずは、﹁蓮と鶏﹂の心情を歌うことを通して、﹁すべては他とのかかわりにおいて存在している﹂だけではなく、﹁他人﹂の支えによって自らの存在

を輝かせている、という存在の根源的様相を読者に示唆しているのである。

二、表と裏の弁証法

 人間は、自然との共存の大切さを自覚すべきであるにも拘らず、動物や植物などの生き物の存在を軽視し、人間中心

主義の世界観でもってものを見、考えてきたのである。だから、物質的な欲望を果てしなく追求する人類は、自然を破壊したり、動物を殺害したりして、この地球上でおのれの存在が如何ほど危機に瀕しているかに気付いても、それにブ

レーキをかけようとしなかったのである。だが、金子みすずは、公害問題や環境問題・資源問題などが表面化した一九七〇年代より半世紀以上も前の時点で、﹁大漁﹂(﹃童話﹄大正三・三︿推薦の二﹀)において、人々が多くの鰮を取って

大漁で喜んでいる表層の現実の蔭にある魚の哀しみを、次のように表している。  (一三三八)

(8)

金子みすずの童謡における哲学思想七六九同志社法学 五九巻二号 朝焼け小焼けだ  大漁だ  大羽鰮の  大漁だ。浜は祭りの  やうだけど 海のなかでは  何万の

鰮のとむらい するだらう。

 矢崎節夫は、﹁この作品を読んだ時、(中略)生き死にをこんなに鮮烈に歌えるなんて。見えない海の底の悲しみにまで佇める、金子みすずとは、どんな人なのだろうか

がり々人、はずすみ子金。るあで通のそにか確。るいてし賛絶と﹂ 8

無視している﹁見えない海の底﹂の﹁鰮﹂の悲しみにまで深いまなざしを向けて、命のこと、心のこと、﹁ほかのものたちとのかかわりの中で﹂自分が生かされていることなど、表面には見えないけれど、その深層に潜在するものを深く

洞察し、それらのことを忘れてしまっている現代人に、その一番大切なことを、やさしい童謡で語り掛けているのである。

 あまんきみこは、﹁金子みすずの童謡を読むと、喜びの裏面にある哀しみ、笑い声のうらにあるさみしさ、そんなものがひっそりと静まっていることに気づきます

し子表い言に確正を髄神の謡童の金。﹂、は摘指のこ。るいてし摘指と 9)

ている。その作品例として、金子の﹁花屋のお爺さん﹂(生前未発表、﹃美しい町﹄新装版 金子みすず全集・Ⅰ、一七

四頁)を挙げることができる。

花屋のお爺さん  花売りに、 お花は町でみな売れた。花屋のお爺さん  さびしいな、育てたお花がみな売れた。

花屋のお爺さん  日が暮れりゃ、ぽっつり一人で小屋のなか。

 (一三三九)

(9)

金子みすずの童謡における哲学思想七七〇同志社法学 五九巻二号

花屋のお爺さん  夢にみる、  売ったお花のしやわせを。

 この詩の音律も﹁大漁﹂とほぼ同様である。一般の人々には、﹁お花は町でみな売れた﹂時の、お爺さんの表の喜び

しか見えていないが、金子のまなざしはその喜びの裏にあるお爺さんの寂しさ、即ち、丹精込めて﹁育てたお花﹂を売って手放す寂しさを見逃さず、ここに表と裏の哲学を表しているのである。

 酒井大岳は、﹁相手の立場に立ってものを考える、という言葉はありますが、みすずさんは違います。立場に立つのではなく相手そのものが自分なのです。見るものと見られるものとが離れて存在しないところに、みすずの詩の魅力

はあ

も、、りなに雲はて見を雲りをなに蟻はて見を蟻、り空見に立人、くなはで在存るす対ては然自と人。るなに空はな草 りののそにか確は界世謡童子は金。るいてし価評と、通で﹂おて見を草、は子金ていにあ界世品作ういうそ。るる 10

自然の一部である。私は、金子の童謡におけるこの種の表現を、日本人の自然観を土台にしたものだという見解を提示したい。

 三、物心一元論的世界観

 金子の発想は、日本の有名な謡曲に歌われる、草木国土、悉皆成仏という言葉のように、動物はもとより、山川草木、石ころや土までが仏となる、否、すでに仏であるという思想に基づいているのである。

 例えば、﹁露﹂(﹃童話﹄大一五・四︿特別募集童謡入選﹀)を見てみよう。  (一三四〇)

(10)

金子みすずの童謡における哲学思想七七一同志社法学 五九巻二号 誰にもいわずにおきましょう。朝のお庭のすみっこで、花がほろりと泣いたこと。

もしも噂がひろがって 蜂のお耳へはいったら、わるいことでもしたように、 蜜をかえしに行くでしょう。

 金子の童謡では﹁露﹂も﹁花﹂も﹁蜂﹂も擬人化されていて、すべて﹁命﹂があり、やさしい﹁心﹂を持っている。

この作品﹁露﹂では、﹁露﹂は﹁蜂﹂のために、﹁花がほろりと泣いたこと﹂を誰にも言わずに私だけの秘密にしておこうと、ひそかに決心する。なぜなら、もしも﹁花がほろりと泣いた﹂という噂が広がって﹁蜂のお耳にはいったら﹂、

花の蜜をもらった﹁蜂﹂は、自分が悪いことをしたから﹁花﹂が泣いたのだと誤解し、﹁花﹂に﹁蜜をかえしに行く﹂であろうと思い遣るからである。この﹁露﹂と﹁花﹂と﹁蜂﹂のドラマをとおして金子が読者に訴えようとしている思

想を、今日の生態学の成果を援用して解説すれば、どのような解説が可能か。 蜂が花に﹁蜜をかえしに行く﹂ようなことが起これば、花と蜂との共生関係が破壊され、生態系が破壊されるのであ

る。蜂は花の蜜を吸って生き、花は蜂に蜜を提供することと引き換えに、蜜を吸いにくる蜂を利用して、雄しべの花粉

を雌しべに付着させ、実を成らせる。そうした花と蜂の共生関係、花と蜂を共生させている深い自然の摂理を、金子はすでに一九二五年の時点で、この童謡をとおして、やさしく歌物語風に読者に語りかけているのである。

 このように、金子の童謡世界は、天地の間に存在する生物も無生物もすべて自然として登場し、﹁自然を神として崇め、自然と親和し、自然と共生しようとする東洋の﹃物神一元論的自然﹄(物心一元論的自然観

)﹂を、具現化している。そ 11

の自然はすべて慈しみに満ちた仏のような存在である。言い換えれば、金子の童謡世界では、人間と自然と神が一体と

 (一三四一)

(11)

金子みすずの童謡における哲学思想七七二同志社法学 五九巻二号

なっている。従ってこれは、西洋の、神の下に人間が存在し、自然は神の被造物であって人間以下の存在だという、単

線的な図式で示される﹁終末の思想﹂とは異なり、その対極にあって﹁輪廻転生の世界﹂を繰り返すという、終末のない﹁円の世界﹂である。これが、金子みすずの自然観である。

四、死と再生

 日本には、暑さ寒さも彼岸まで、という諺がある。彼岸は、あちら岸の世界という、元來は仏教の用語であって、変化の激しい現実を超えた、極楽浄土を意味した。それは、死後の世界である。私たちは極楽浄土に行くことによって、

はじめて寒暑の苦しみから完全に解放されるというのである。金子の童謡を読むと妙に気にかかるのは、﹁死﹂に対する一種の郷愁のようなものがあり、その発想には﹁極楽浄土に行く﹂ような死への憧憬、あるいは楽園や隠れ里に行く

かのような死へのあこがれが窺えることである。日本人の深層心理における海のイメージは、その彼方の天(=宇宙)の川に行き着くことを想定したようなイメージであるように思われる。全国各地にある盆の終わりの、川を使っての灯

籠流しという習俗においては、死者の魂は海に流されていく。海に流された死者の魂は、あの世の川に行くのであるが、あの世の川はどこかで天の川につながっていくのである。

 例えば、金子の﹁海へ﹂(生前未発表、﹃美しい町﹄新装版 金子みすず全集・Ⅰ、

JU L A

出版局、一九八四年八月、二二六頁)を見てみよう。

祖父さも海へ、父さも海へ、兄さも海へ、みんなみんな海へ。  (一三四二)

(12)

金子みすずの童謡における哲学思想七七三同志社法学 五九巻二号 海のむこうは よいところだよ。みんな行ったきり 帰りゃしない。おいらも早く 大人になって、やっぱり海へ ゆくんだよ。

 高田宏は、﹁漁業のさかんだった仙崎では、実際にも、海へ出て行って帰ってこなかった男たちが、少なくなかった

にちがいない。みすずは二十歳までほぼ仙崎で暮らしている。そのころの漁船は、ごく小さなものが多く、しばしば遭難している。(中略)海に沈んだ男たちの遺体も浜に打ち上げられることなく深い海底に眠ることが多い。浜辺に立っ

て海を見る少女みすずの目に、そういう現実を越えて、別の世界が映っていたのであろう。海のむこうはよいところだよ、と異界への憧れのようなものを育てていたようだ

ろ田ことういと崎仙がずすみ、は高、にるす要。るいてべ述と﹂ 12

に育ったがゆえに、﹁海﹂という﹁異界へのあこがれ﹂を抱いた、と言っているのだが、この説は、﹁海のむこう﹂の﹁異界へ﹂﹁憧れ﹂る日本人の深層心理への理解不足による言説だと言えよう。言い換えれば、金子のこの発想は、日本人

の﹁海中他界、海上他界﹂という水平方向の﹁他界﹂観に根ざしているものである。 水平方向の﹁他界﹂観については、柳田国男の﹁海から次第に遠ざかって山々の間に入って住んだ日本人は(中略)

谷水の流れに沿うて、他界に近よらうとする精霊を信じた

、さういと舟のぼつう、は神な小﹁の雄哲折山、と説ういと﹂ 13

中が空虚になった入れ物にのって、はるか常世の彼方から海を渡ってくる﹂という﹁卵生神話のパターンと魂(たま)の発生経路﹂に関わり、﹁桃太郎やかぐや姫の説話やこびと神の伝説は、﹃たま﹄と﹃たまご﹄の相互交渉から発展した

もの

。る 楽を常世の彼方にある﹁﹂園界と見る点で共通してい﹂他る﹁いう説との、両説があが﹂、どちらも水平方向のと 14

 また、金子の作品﹃海へ﹄にある、﹁海のむこうは よいところだよ。みんな行ったきり 帰りゃしない。﹂という思

 (一三四三)

(13)

金子みすずの童謡における哲学思想七七四同志社法学 五九巻二号

想・理念は、陶淵明の﹃桃花源記﹄にも似ていて、﹁隠れ里﹂の他界観にも通じ合っていると読み取れる。陶淵明の﹃桃

花源記﹄は、晋の太元年中(東晋孝武帝の世、西暦三七六

三九六)のころ、武陵の漁師が谷川をさかのぼって行くうちに思いもよらず桃花の咲き乱れる林と出会い、その林の奥の洞穴をくぐって行くと、秦の時代(前三世紀)に戦乱を

さけてこの地に逃れた人々の子孫が平和に暮らしているのと出会うという話である。 この対比から分かるように、﹁海のむこうは、よいところだよ﹂、という発想は、﹁武陵の漁師が谷川をさかのぼって

行くうちに思いもよらず桃花の咲き乱れる林と出会﹂うのと似ている。﹁みんな行ったきり 帰りゃしない﹂という詩的表現の深層には、﹁その林の奥の洞穴をくぐって行くと、秦の時代(前三世紀)に戦乱を避けてこの地に逃れた人々

の子孫が平和に暮らしているのと出会う

事生とるえ考を態実活の数ちた民庶るいてし、多生てたっかなこてっ帰っく行に漁へ海が々人の活に仙の代年〇二九崎 る通のもるす底メにジー潜イういがとんと一、はのうい。でるれわ思﹂、いと 15

実を見聞きした金子の心の深層には、そうした死者たちがみんな海の向こうで﹁平和に暮らして﹂ほしい、という願望があったにちがいないからである。

 さらに、この詩の終りの﹁おいらも早く 大人になって、やっぱり海へ ゆくんだよ﹂という結びは、日本の伝統信仰﹁隠れ里﹂に通底する、日本人の心性を表している。川端香男里は、﹁民衆的な他界観の最も典型的なものが隠れ里

である。他界は本質的に死の世界であり、民衆にとって仏教やキリスト教が説くような完全な理想郷ではなく、近寄り難い恐ろしいところと、何不足することのない富貴で楽しいところという両義的な二つの面をもっていた

。﹂と力説し 16

ているが、金子の童謡世界はまさにその通りで、他界へのあこがれと一種の郷愁とが心の底に潜在しているようである。 ところが、金子の童謡世界にある、﹁他界へのあこがれ﹂はいつか変っていくのである。﹁繭と墓﹂(﹃蠟人形﹄昭六・

九)においては、次のように書かれている。  (一三四四)

(14)

金子みすずの童謡における哲学思想七七五同志社法学 五九巻二号 蚕は繭に    はいります、 きゅうくつそうな  あの繭に。けれども蚕は  うれしかろ、 蝶々になって    飛べるのよ。

人はお墓へ   はいります、 暗いさみしい    あの墓へ。そしていい子は 翅が生え、  天使になって    飛べるのよ。

 この詩について、高田宏が、﹁金子みすずにとって、死はもう一つの世界への通路と感じられていただろう。はじめ

に引いた﹃海へ﹄の奇妙な明るさは、おそらくそこから生じている。﹂と言っているが、高田はここで言おうとしているのは、金子が﹁死﹂をもう一つの世界として信じていたのであり、死は﹁異界へのあこがれ﹂であれ、﹁もう一つの

世界への通路﹂であれ、後者が前者の延長線にあるということである。しかし、私はこの説に同意できない。というのは、﹁繭と墓﹂に表現されている﹁墓﹂は、明らかに死者たちの再生のための装置であり、生命の永遠回帰を可能にす

る舞台なのである。それは、﹁蚕﹂が繭に入り、きゅうくつそうに見えるが、それで蝶々になって飛べるのと同じである。言い換えれば、人は墓に入り、暗くさみしいが、それを通して﹁いい子は、翅が生え、天使になって飛べる﹂のである。

ここで、金子の童謡世界における﹁死﹂は、﹁異界へのあこがれ﹂から転調し、死者たちの再生へ、生命の永遠回帰へ

と昇華されているのである。

五、無差別自然の哲学

 荘子の﹁斎物論篇﹂によれば、人間は何かを理解しようとする際に、必ずそれを﹁分別﹂して考える。例えば、﹁此

 (一三四五)

(15)

金子みすずの童謡における哲学思想七七六同志社法学 五九巻二号

処と彼処﹂﹁善と悪﹂﹁美と醜﹂﹁幸と不幸﹂﹁長命と短命﹂﹁生と死﹂のように分別して理解するのがそれである。その

証拠に、このことは﹁わかる﹂という語源が﹁分ける﹂(分別する)からきていることからも﹁わか﹂るのである。このようにして、本来、人間は﹁渾然としたもの﹂(混沌の状態)を、そのまま理解するのは困難であるから、それを理

解しようとすれば、どうしても﹁差別﹂という﹁分別手段﹂によらなければならないが、荘子によれば、そのような﹁人為﹂(差別)こそが、自然の在りのままの姿、本当の自然を見損うことになる。即ち、人間は、﹁本当の自然を見ようと

すれば、差別という人為を捨てて無差別になった時、はじめて本当の自然を見ることが出来る﹂ということである。そのため荘子の自然の哲学は、﹁無差別自然の哲学

荘読、に層深の現表的詩のそ、とむを謡童の子金。るいてれば呼と﹂ 17

子の無差別自然の哲学に通じる思想を読み取ることができるのである。金子の﹁私と小鳥と鈴と﹂(生前未発表、﹃さみしい王女﹄新装版 金子みすず全集・Ⅲ、一四五頁)には、次のように書かれている。

私が両手をひろげても、    お空はちっとも飛べないが、

飛べる小鳥はわたしのように、 地面を速くは走れない。

私がからだをゆすっても、   きれいな音はでないけど、あの鳴る鈴は私のように、   たくさんな唄はしらないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、  みんなちがって、みんないい。  (一三四六)

(16)

金子みすずの童謡における哲学思想七七七同志社法学 五九巻二号  現代人は、物事に対して、初めから差別して対象を把握したり価値判断したりしがちであるが、もしその﹁差別という人為を捨てて無差別﹂の視点によって、万物を観察すると、本来、万物はすべて平等である。小鳥は、お空を飛べる

が、﹁私のように﹂地面を速く走れない。﹁私がからだをゆすっても﹂、鈴のように﹁きれいな音はでない﹂が、鈴は﹁私のように﹂たくさんの唄は知らない。従って、﹁鈴と、小鳥と、それから私、 みんなちがって、みんないい﹂のである。

 金子みすずは、万物はそれぞれ違っても、みんな平等である、という無差別の思想をさらに発展させて、適者生存・優勝劣敗の現実社会とは、違った人間社会の理想像を暗示している。﹁土﹂(﹃童話﹄大正四・二︿佳作﹀)にはそれが次

のように表現されている。

こッつん こッつん  打たれる土は  よい畠になって  よい麦生むよ。朝から晩まで     踏まれる土は  よい路になって  車を通すよ。

打たれぬ土は     踏まれぬ土は  要らない土か。いえいえそれは    名のない草の  お宿をするよ。

 現実の社会は、優勝劣敗の競争の社会である。言い換えれば、現代人は依然としてスペンサー以来の適者生存の思想に基づいて、競争社会を作っているのである。しかし、金子は、よい麦を生む﹁土﹂や車を通す﹁土﹂もあれば、﹁名

のない草の お宿をする﹂﹁土﹂もあるのではないかと語る。これは、人はそれぞれに自らの価値を有し違った場所で違った役割を果しているのだという、人間の有り様の隠喩として読むこともできるし、金子が心の底に持っている﹁自

由・平等﹂の社会像をここに読み取ることもできるだろう。

 (一三四七)

(17)

金子みすずの童謡における哲学思想七七八同志社法学 五九巻二号

 人々は、社会の上流・中流・下層のいずれに属するかによって、人の幸不幸を判断しがちである。しかし、金子みす

ずは、人間の深層心理を深く洞察して人間である以上、誰もそれなりの悩みがあってそれほど差がないと語る。 金子はまた、﹁積もった雪﹂(生前未発表、﹃空のかあさま﹄新装版 金子みすず全集・Ⅱ、

JU L A

出版局、一九八四年

八月、二四二頁)において次のように表現している。

上の雪   さむかろな。  つめたい月がさしていて。下の雪   重かろな。   何百人ものせていて。

中の雪   さみしかろな。 空も地面もみえないで。

 酒井大岳は、﹁みすずは、つもった雪を見ているうちに、ついに"中の雪"と一つになってしまいました。相手と自分とのあいだに距離がありません。そのものになっています。これを仏教では﹃観達﹄と言ってい

﹂る、と述べている。 18

即ち、酒井は、金子の童謡が、物事を肉眼でなく、心眼で深く見たものを表現しているのだと言い、それは仏教でいうところの﹁観達﹂であり、その﹁観達﹂から慈悲が生まれる、と主張している。この読み方にも一理あるが、この﹁上・

下・中の雪﹂を、社会の上流・中流・下層の人々の状況や心理に置き換えて理解することもできる。この童謡で金子は、﹁雪﹂を中心形象にしていながら、常に人生と社会を観照している。どんな位置に立つ人間も、それなりの悩みや苦し

みがあるはずであり、社会のどの階層に位置するかどうかということだけで、人の幸不幸を判断することができない。 金子は、﹁上の雪 さむかろな。/下の雪 重かろな。/中の雪 さみしかろな。﹂と、雪の形象に託して、それぞれ

の立場に立つ人間の深層心理を、﹁寒・重・寂﹂に形象化することによって、どんな人間もそれなりの楽しみや不幸が  (一三四八)

(18)

金子みすずの童謡における哲学思想七七九同志社法学 五九巻二号 ある、という人生理念を表象している。これは、慈悲の観念を表したものとも読めるが、無差別自然の哲学による人生観を表出したものとして読むこともできるのである。

結びに

 金子みすずの童謡は、鋭い直観力で自然や社会や人生の諸相を把握し、常人の目に見えない真実や生の源泉に通ずるものをも、やさしい詩的言語で表現しているところに魅力がある。彼女の童謡世界は、植物や動物、身近にある小さな

生命から土、草原、海へ、さらに空にある月、星、太陽へと表現対象が広がって行く。そして、人と自然は対立する存在ではなく、人も自然の一部であることを読者に語りかける。だから金子の童謡の評価は近年になって高まり、今日で

は﹁園児から百歳の方までが、その人生観、宇宙観、宗教観の深まりによって、日本人が初めて手に入れた三世代が共有できる文学宇宙﹂を創り出したと評価されている。

 彼女は﹁星とたんぽぽ﹂で、宇宙の彼方の﹁星﹂を目の前の﹁たんぽぽ﹂と類似し、目に見えない﹁昼のお星﹂を想像力で見ることによって、﹁すべての存在は目に見えないほかのものたちとのかかわりの中でできている﹂という、存

在の根源的様相を読者に示唆している。また、散ったたんぽぽの﹁瓦のすきまに、だァまって、/春がくるまでかくれてる、つよいその根﹂という見えざる存在を顕現化することによって、見えざる生命の力や人間の不屈の精神を暗示し

ている。

 公害問題や環境問題・資源問題が初めて表面化したのは一九七〇年代であったが、金子はそれより半世紀以上も前に、大漁で喜んでいる表層の現実の裏側にある海の底の魚の悲しみにまで深い眼指しを向けて、﹁大漁﹂という童謡を発表

 (一三四九)

(19)

金子みすずの童謡における哲学思想七八〇同志社法学 五九巻二号

し、命のこと、心のこと、﹁ほかのものたちとのかかわりの中で﹂自分が生かされていることなどを示唆し、それらの

ことを忘れてしまっている現代人に、その一番大切なことを、やさしい童謡で語りかけているのである。 金子はさらに﹁花屋のお爺さん﹂において、町で花を売り尽くしたお爺さんの喜びの裏にある寂しさ、即ち、丹精込

めて﹁育てたお花﹂を皆手放した寂しさを歌っている。読者はここに、表と裏の哲学を読み取ることができるであろう。 そういう作品世界において金子は、草を見ては草になり、蟻を見ては蟻になり、雲を見ては雲になり、空を見ては空

になる。人と自然は対立せず、人も自然の一部である。こうした金子の発想は、日本の有名な謡曲などに歌われる、草木国土、悉皆成仏という言葉のように、動物はもとより、山川草木、石ころや土までが仏となる、という思想に基づい

ている。童謡の﹁露﹂では、﹁露﹂も﹁花﹂の﹁蜂﹂も擬人化されていて、すべて﹁命﹂があり、やさしい﹁心﹂を持っている。そして天地間に存在する生物も無生物もすべて自然として登場し、﹁自然を神として崇め、自然と親和し、

自然と共生しようとする東洋の﹃物神一元論的自然﹄(物神一元論的自然観)﹂を具現化している。その自然はすべて慈しみに満ちた仏のような存在である。これは、西洋における、神の下に人間が存在し、自然は神の被造物で人間以下の

存在だという単線的図式で示される﹁終末の思想﹂とは異なり、その対極にある﹁輪廻転生﹂を繰り返す﹁円の世界﹂である。

 金子の童謡を読むと妙に気にかかるのは、﹁死﹂に対する一種の郷愁、あるいは極楽浄土へ行くような死への憧れが窺えることである。例えば﹁海へ﹂には、﹁海のむこうは よいところだよ みんな行ったきり 帰りゃしない﹂と歌

われている。こうした金子の発想の根底には、日本人の深層心理に潜む他界信仰、即ち、海の向こうにあると信じられた妣の国(常世の国)または極楽浄土への憧れが潜在している。これは陶淵明の﹃桃花源記﹄の桃源郷や﹁隠れ里﹂の

他界観にも通底する。  (一三五〇)

(20)

金子みすずの童謡における哲学思想七八一同志社法学 五九巻二号  漁業の盛んだった仙崎に生まれ育った金子は、多くの人々が漁に行って遭難し、帰ってこなかった現実を知っている。金子の﹁海へ﹂は、そうした死者たちが、桃源郷の住人(秦の時代に戦乱を避けて桃源郷へ逃れた人々の子孫)と同様

に、﹁海のむこう﹂で平和に暮らしてほしい、という民衆の願望(および作者自身の願望)を表現していると思われるのである。さらに、この詩の﹁おいらも早く 大人になって、やっぱり海へ ゆくんだよ﹂という結びも、他界は近寄

り難い恐ろしいところである反面、富貴で楽しいところだという日本民衆の両義的な他界観を踏まえている。 だが、こうした金子の他界観・死生観に変化が生じる。﹁繭と墓﹂に描かれた﹁墓﹂は、死者たちの再生のための装

置であり、永遠回帰のための舞台である。つまり、﹁きゅうくつそうな あの墓に﹂入った﹁蚕﹂が﹁蝶々になって 飛べる﹂のと同様に、﹁人﹂も﹁暗いさみしい あのお墓へ﹂入るが、﹁いい子は 翅が生え、天使になって 飛べる﹂

のである。他界への憧れに象徴されていた﹁死﹂は、ここで死者たちの再生へ、生命の永遠回帰へと昇華されている。 金子の﹁私と小鳥と鈴と﹂を読むと、その詩的表現の深層に、荘子の無差別自然の哲学に通じる思想を読み取ること

ができる。彼女はこの童謡で、﹁私が両手をひろげても、お空はちっとも飛べないが、/飛べる小鳥はわたしのように、地面を速くは走れない。﹂﹁私がからだをゆすっても、きれいな音はでないけど、/あの鳴る鈴は私のように、たくさん

の唄はしらないよ。﹂と語る。このように万物を観察すると、万物はそれぞれ違っていても、本来、すべて平等である。

だから﹁鈴と、小鳥と、それから私。 みんなちがって、みんないい﹂のである。 金子は﹁土﹂でこの思想をさらに発展させて、適者生存・優勝劣敗の現実社会とは違った人間社会の理想像を暗示す

る。この童謡で金子は﹁打たれる土は よい畠になって よい麦﹂を生み、﹁踏まれる土は よい路になって車を通す﹂が、﹁打たれぬ土﹂や﹁踏まれぬ土﹂も﹁要らない土﹂ではなく、﹁名のない草の お宿をするよ﹂と語る。これは、人

はそれぞれに自らの価値を有し、違ったところで違った役割を果しているのだという、人間の有り様の隠喩として読む

 (一三五一)

(21)

金子みすずの童謡における哲学思想七八二同志社法学 五九巻二号

こともできるし、金子が心の底に持っている自由・平等の社会像として読むこともできる。

 金子は﹁積もった雪﹂で、﹁上の雪 さむかろな。つめたい月がさしていて。/下の雪 重かろな。 何百人ものせていて。/中の雪 さみしかろな。 空も地面もみえないで。﹂とも語る。これを慈悲の精神の表れとする見解があり、

そうも読めるが、この上・下・中を社会の上流・中流・下層の人々の置かれた状況と心理に置き換えて読むことも可能である。この詩は﹁雪﹂を中心形象にしながら、雪の形象に託して、それぞれの階層に立つ人それぞれの人生の苦悩を

﹁寒・重・寂﹂に形象化することにより、無差別自然の哲学による人生観を表していると見ることもできる。詩的言語の意味解釈は固定しない。まして優れた詩ともなれば、一通りの解釈を拒んで幾通りもの解釈を包摂しながら、すべて

の解釈を超えて読者の心をつかむ。 現代は一元性神話の崩壊した多元化の時代、混迷の時代である。こうした時代には、科学もまた、多元的な方法によ

って普遍性を目指さなければならない。 金子みすずの童謡は、そうした現代に生きる読者に、見える世界と見えない世界の相対する宇宙や人間存在の根源的

な様相を開示して見せる。しかも、やさしい詩的言語で表わされ、多様な解釈の可能性を包摂した童謡のテクストで、それを開示するのである。その意味において金子みすずの童謡は、北原白秋、西条八十らが切り開いた日本の童謡のジ

ャンルに、より深く読めて三世代が共有できる文学宇宙を創り出したのである。

――1﹂() 

2﹁﹃) ﹂(﹃

m York, Acadeicue Press, 1976,ew, NiqudM. Bakhtin, Fritreianism : A Marxist C3) 

4) ﹄(  (一三五二)

(22)

金子みすずの童謡における哲学思想七八三同志社法学 五九巻二号 5)  6

1

7) ﹂( 8) 

4

9) ﹂(

10――﹂()  11) 

17――﹁﹃﹂(

12﹂() 

13﹄() 

14) ﹄( 15) 

16﹄( 18) 

10

    稿︾、、﹁西稿﹄、稿)、

 (一三五三)

(23)

金子みすずの童謡における哲学思想七八四同志社法学 五九巻二号  (一三五四)

参照

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