-国民政府内の議論を中心に-
内 田 尚 孝
はじめに
1936 年 8 月、国民政府が猛反対するなか、日本政府が四川省成都の日本 総領事館再開を強行しようとしたことに成都の民衆が激昂し、同月 24 日、
岩井英一(総領事代理)に先行した日本人記者らが殺傷された(成都事件)。
日本政府は、これを 8 月 11 日に決定した新たな対中国政策(1)を推進する好 機とみた。こうして 9 月 8 日、須磨弥吉郎(南京総領事)と張群(外交部長)
との間で予備的会談が行われて以降、12 月 3 日に打ち切られるまで、川越 茂(中国大使)と張群との間で都合 8 回、須磨弥吉郎と張群あるいは高宗武
(亜洲司長)との間で二十数回にわたって国交調整交渉が行われた。本稿は、
このいわゆる「川越・張群会談」のうち、9 月初めの須磨弥吉郎・張群会談 から 10 月 8 日の川越茂・蔣介石(行政院長)会談に至るまでのおよそ 1 ヶ 月間に焦点を絞り、この間の日中交渉の陰で展開された国民政府側の政策調 整過程について解明することを目的とする。
川越茂・張群会談については、外務省関係の文書に加え、海軍側の文書も 比較的良好な形で残されているため、これらの史料に依拠した日本サイドか らの実証研究が、戦後早い段階から進められ、日本史的関心から会談の概要 が明らかにされてきた(2)。しかも、同会談は、中国全土で反日テロが続発 するなか、日中全面戦争勃発の前年に行われた日中二国間の公式な交渉で あったため、戦前の日中関係を論ずる際にはほぼ例外なく言及されてきた。
ただ、会談全体が、双方の激しい応酬の中で平行線をたどってほとんど成果 なく終了し、その後全面戦争を迎えることとなったためか、その始まりの 9 月 15 日の第 1 回会談で日本側が突き付けた要求と、9 月 23 日の第 3 回会談
『コミュニカーレ』3(2014)1-29
©₂₀₁₂ 同志社大学グローバル・コミュニケーション学会
で中国側が提示した回答の間の隔たりの大きさ、あるいは両者の激突に関心 が向かいがちであった(3)。ましてや中国側・国民政府内の動きについては、
史料的制約もあってか、ほとんど関心が向けられてこなかったといってよい。
しかし、この間、川越茂と張群が向き合った会談の現場以上に、といって も過言ではないほど緊迫したやり取りが、国民政府内で行われていた。当時 の模様を、中国側当事者であった張群は、「川越の提案に対し、私個人は第 四項の上海-福岡航空路については受け入れてもいいと考えていた。しかし 蔣介石は……いたずらに譲歩することは国益に反すると考え、受け入れな かった」(4)と、後に張自らと蔣介石の間に見解の相違があったことを認め つつ、淡々と回想しているが、実際には、両者の間では想像を絶する激しい やり取りが交わされていた。
日本側文書や川越茂と張群の公式会談の記録のみからでは、うかがい知る ことのできない国民政府内での議論や政府首脳の現状認識を明らかにするこ とは、日中が全面戦争に入る直前に、両国間にいかなる外交的選択肢が、ど のような広がりで存在していたのかを解明するうえで、きわめて重要な作業 といえよう。
そこで、本稿では、中国側一次史料、とくに近年公開が進んだ国史館所蔵 の『蔣中正総統檔案』を読み解きながら、この川越茂・張群会談の中国側舞 台裏に迫ってみることにしたい。南京で活動していた国民政府首脳は、会談 の中で提起された日本側の要求をどのように受け止めていたのであろうか、
また、刻々と変化していく当時の中日関係の現況をどのように認識していた のであろうか。とくにこの 2 点に留意しつつ、国民政府首脳が対日妥協すべ きとの判断に至った理由を解き明かす。他方、両広事変解決のため広州に活 動拠点を置いていた蔣介石は、南京から逐次報告を受けていたが、南京とは 正反対の方向、つまり対日妥協を認めない方針で会談にのぞむべきとの姿勢 を貫いた。そこにはどのような現状認識や判断があったのであろうか。可能 な限り明らかにしたい。そして最後に、川越茂・張群会談での日中激突の背 景にあった、より本質的な問題に目を向けてみることにしたい。
1.予備交渉
国民政府は、8 月 24 日の成都事件発生の報を受け、情報の収集と事件の 迅速な解決を目指した。
8 月 26 日、蔣介石は、劉湘(四川省政府主席)や張群らに対して、「成都 での日本人襲撃事件が事実であれば、ただちに現地解決すべし。賠償金の支 払いを認めるとともに、犯人を捕えて法にもとづいて処罰し、本件を拡大さ せたり引き延ばしたりしてはいけない。迅速に終結できるなら、譲歩しても よく、多少の委曲があってもよい」(5)、つまり現地で即時解決できるなら譲 歩してもよいとの指示を出した。同日、張群は、葉楚傖(立法院副院長)、
何応欽(軍政部長)、翁文灝(行政院秘書長)の参加を仰いで外交部の緊急 会議を開催し、報道方針、新聞発表のガイドラインとともに、行政院と外交 部が劉湘に対して居留民保護と犯人逮捕に慎重を期すよう要請する内容の電 報を打つこと、さらに外交部が調査員を派遣することを決定した(6)。
他方、日本側は、中国側とは対照的な方針を固めつつあった。9 月 2 日に 許世英(駐日大使)が、有田八郎(外務大臣)を往訪した際、その輪郭が明 らかとなる。
有田は、「禍を転じて福となし、調整の第一歩としたい」と述べつつ、「た とえば排日言論を禁止し、排日教科書を改訂する類で、現在および次代の国 民に排日思想を抱かせないこと、これこそが国交調整の基礎である」と指摘 した。ここで早くも日本側が、予定される日中交渉で中国における「排日」
問題を取りあげる考えであることが明らかとなる。これに対して、許は、「わ が方には正当で合理的な要求を受け入れる用意がある。排日の取り締まり、
居留民保護については、国民政府は、重ねて表明しており、自発的に厳重に 対処する」方針であることを表明しつつ、「本事件を地方事件とし、混同し ないことを希望する」と、成都事件の解決に限定した交渉を求めた。しかし、
有田は、「本件は、中央党部が成都領事館開設に反対して劉(湘)主席、賀(国 光)主任に訓令を発し、民衆運動を起こさせたことによるもので、中央党部 がこれを出したのは、聞くところによれば軍事委員会の決議によるとのこと。
もし確かなら、性質は重大である。おしなべて本件には排日の背景があり、
国交を調整する作業は、まず排日を根絶し、その後、地方が解決すべきであ
る」と、中国全土における排日根絶を強く要求していく姿勢を示した(7)。 それから 3 日後の 9 月 5 日、有田八郎は、川越茂に対して成都事件解決に 向けた交渉を始めるよう訓令を発した。
まず、「根本的解決方法」の一つとして、
(1) 国民政府ハ一切ノ排日ヲ根絶セシムベシ
(2) 国民政府ハ国民党部其ノ他如何ナル団体タルヲ問ハズ其ノ一切ノ排 日的策動ノ禁絶方ニ付其ノ責ニ任ズベシ
の 2 項目を要求するよう指示した(8)。
さらに、訓令は、「具体的事項ヲ実行スルコトニヨリ誠意ヲ示シ自ラ与ヘ タル疑惑ヲ氷解スルノ必要アルコトヲ力説」して、「右趣旨ヲ先ツ原則的ニ 承認セシメ」るとともに、「我方トシテハ右誠意披攊ママノ具体的方法トシテ」
次の 2 項目を求めていく方針を示した。
(a) 重要懸案(例ヘバ上海福岡間航空連絡、台湾福州広東間航空連絡、
輸入税引下ゲ等)ノ即時解決
(b) 或ハ更ニ進ンデ北支問題ノ解決(対支実行策ニ準拠ス)等ノ話合ニ 入ラシムル様支那側ヲ誘導スル腹案ナリ
これに続いて、「尚誠意披攊ママノ具体的方法ハ必ズシモ前記(a)(b)に限ラ ザルモ要ハ本件成都事件ヲ以テ日支国交調査ママノ方向ニ利用セントスルコト本 項ノ趣旨トスル所ナリ」(9)と、とくに説明されているように、日本側は、
今後予定される日中交渉を成都事件という個別案件の解決のためではなく、
本事件を利用して日中間の国交全体の調整を求めていく場にする方針を立て ていた。
この日、許世英が有田八郎を往訪し、「国民政府には誠意があり、これを 機に国交全体の改善を謀りたい」と述べ、日本側の求める国交調整に応じる 発言をしている。成都事件の解決に限定して交渉に臨もうとしていた国民政 府が、当初の方針を修正したことがうかがわれる。続いて、「閣下、どうか 中国側の立場をご理解いただき、決して過酷な要求、例えば、報道されてい るような党の解散等絶対に考慮できない条件を提出し、いたずらに紛議を増 して難局にし、貴方も収拾しがたい状況」とすることのないよう、配慮を強 く要請した(10)。
南京では 9 月 8 日、高宗武の来訪を受けた須磨弥吉郎が、午後張群を往訪 し、2 時間余りにわたる会談が開かれた。川越茂・張群会談に先がけて行わ れた予備会談と位置づけられる。
張は、「今次事件ノ解決ヲ急速ニ片付ケ然ル後徐ニ大局上ノ調整ヲ遂ケ度 シ」と、まず成都事件を解決した後、国交調整に向けた協議に入るべきであ ると主張したのに対して、須磨は、「蔣介石カ行政院ニ与ヘラレタリト云フ 誠心誠意ノ措置トハ思ハレス失望ニ堪ヘス……果シテ誠意アリヤ大イニ疑ア リ」と、中国側の対応に疑念を示し、揺さぶりをかけた。これを受け、張は、
「御話ハ尤モナルモ張北事件、冀東政府、内蒙問題、密輸問題等ヲ列ヘ挙ケ 是等ノ為実ハ支那民心尚激成セラレ居ル際ナルヲ考慮アリ度(シ)」、と日本 軍が関与する諸懸案に注意を向け、「徒ニ支那ハ排日ナリト責ムルコトノミ ヲ為サス其ノ原因ヲモ考ヘ寛容ナル態度ニ出テラレ度シ」(11)、と中国全土 で沸き起こる排日の原因は、そもそも中国の主権を無視した日本側の侵略政 策にあるのではないか、と須磨に糾した。
両者の激しいやり取りの後、須磨は、「然ラハ率直ニ思付ヲ述ヘンカ支那 トシテ進テ此ノ際為スヘキコト多々アルヘキカ誠意ヲ披瀝スル意味合ニテ少 クトモ」以下の 7 項目を進んで実施するよう要求した(12)。
(一) 北支ニ対シ徹底セル特殊制度ヲ設クルコト
(二) 防共施設ヲ実現スル為日本ト協定スルコト
(三) 航空ニ関シ日支合弁会社ヲ設立シ例ヘハ福岡、上海ヨリ事件発生地 タル四川迄ノ航空路ヲ開設スルコト
(四) 行政各部ハ勿論軍政機関ニモ日本顧問ヲ招聘スルコト
(五) 通商ヲ改善スル意味ヨリ日支関税協定ヲ復活シ又輸入税率ノ低減ヲ 行フコト
(六) 事件ノ性質上成都ヲ開埠地トシ且四川省内経済利権開発ニ関シ日本 側ト合作スルノ制度ヲ確立スルコト
(七) 政治犯人不引渡ノ原則等ヲ顧慮スルコトナク金九、金元鳳、李青天 等ノ逮捕引渡ヲ実現スルコト
これらは、これまでに日本側がさまざまな形で中国側に受け入れを要求し、
その都度中国側が拒絶してきた事項に、今回の成都事件に関する第 6 項をあ
らたに加えたものであった。ちなみにこの日、9 月 3 日に発生した北海事件 の情報が広東総領事館に入っている(13)。
2 日後の 10 日、張群は、外交部を往訪した須磨弥吉郎に上記 7 項目に対 する回答を行った(14)。日本側記録によれば、まず最初に(六)を、その後(一)
に戻って順次回答している。成都事件の解決を最優先する中国側の原則的姿 勢を示した順序といえよう。ただ、ここでは先に須磨が列挙した順にみてお くことにしたい(15)。
(一) 支那側トシテ日本側ノ御提案ヲ待チ居ル次第ナルカ要スルニ(一)
財政、金融ノ統一ヲ害セス(二)行政ノ統一ヲ害セス(三)主権ヲ 損セサル程度ナラハ何トカ話ヲ進メ度ク現ニ川越大使ノ御主張タル 経済合作ヲ実施シ得ル仕組ヲ作ルコトヲ眼目トスルニ於テハ欣然応 諾ノ積リナリ。
(二) 防共施設ニ関連スル軍事協定締結方日本側ト相談シ見テ差支ナシ。
(三) 日支合弁会社ノ設立ハ更ニ交通部当局等ヲシテ攻究ハセシムヘキモ 先ツ見込ナク又四川迄ノ航空開設ハ余リニモ成都事件ニ引懸ルコト トナルヘキニ付是非共福岡、上海間ノ例ノ懸案解決ノコトニ折合ヒ 貰ヒ度(シ)。
(四) 日支間ノ空気良クナリサヘスレハ自然日本顧問ヲ招キ度キ次第ナ リ。
(五) 財政部ノ反対著シク又事実第三国カ最恵国待遇ニ依リ均霑スルコト トナリ且日本ニ輸入セラルル支那品目少キ点ヨリモ当分復活ノ見込 ナ(シ)。
(六) 支那ハ此ノ上開埠地ハ不平等条約撤廃ヲ心懸ケ居ル際ニモアリ増加 スル意思モナキニ付全然御断リ致度ク又四川省内経済利権開発ノ御 話モ此ノ事件ニ関連セシメナハ如何ニモ旧時代ノ侵略外交ニ応シタ ルノ感モアリ又事実上日支関係明朗化セハ独リ四川省ノミナラス何 レノ所ニ於テモ合作ハ出来得ル次第ニモアリ之亦応諾シ難(シ)。
(七) 金九、金元鳳、李青天等ノ引渡ニハ異存ナシ。
第 7 項以外は、反対か、あるいは日本側要求を部分的に受け入れてはいて も前提条件を付した形となっている。前提条件の核心は、中国側主権の尊重
であり、とくに華北問題に関する第 1 項と成都事件に関する第 6 項でそれが より明確に示されている。また、「防共施設」については、比較的前向きに 取れる発言をしているかのようではあるが、「協定」を求める須磨と、「相談」
してもよいとする張との隔たりは大きいといわなければならないだろう。
張群は、この会談の模様を蔣介石に報告する電文を、次のようなコメント で終えている。
「須磨は二度来訪し、態度はますます硬化してきた。もとよりわが方の口 ぶりを探り、川越の先遣をなすものであるが、実際の交渉はあまり転換の余 地がないのではないか。かりに決裂ということなれば、わが方の実力はいか がか。もし迎合するなら、可能な限度を決めておく必要があろう(16)。」
川越茂との本会談に入る前から、決裂の可能性を考慮しなければならない ほど、須磨が突き付けた要求のハードルは高かった。蔣介石の南京不在の間、
行政院を切り盛りしていた孔祥熙(行政院副院長)は、呉鉄城(上海市長)
と楊虎(上海市保安処長)に対して、上海市を厳重に防備するよう密命を下 している(17)。
2.川越茂・張群会談(第 1 回会談)
9 月 13 日に上海から列車で南京に到着した川越茂は、15 日、外交部で張 群と約 3 時間にわたって会談した(第 1 回会談)。会談には日本側から須磨 弥吉郎と清水董三(一等書記官)が、中国側から邵毓麟(日俄科長)と周隆 庠(専員)が同席した。会談は、冒頭より激しい応酬となった。
張 : 国交調整ハ本事件ノ有無ニ拘ラス努力スヘキコト素ヨリナレハ本事
件ノ発生ニ当リ特ニ項目ヲ挙ケ之カ実行ヲ要求セラルルハ如何ナル 理由ナリヤ元来国交調整ニハ両国間ノ空気ヲ好転セシムルコト第一 要件ト思惟スル処現在日本側ニテハ支那ノ排日空気ヲ云々シ支那側 ニテハ日本ノ北支那其ノ他ニ於ケル侵略ヲ恐ルル等ノ状態ニテ思フ 様ニ国交ノ改善出来サル有様ナリ。
川越: 両国間ノ空気ヲ好転セシムルニハ此ノ際支那側カ数多ノ懸案等ヲ解
決シテ国民政府ノ誠意ヲ具体的ニ表スコト先決問題ナリ。
国交調整に当たり、日本側が実行を要求している 7 項目を受け入れるのが
先か、日本側が華北分離工作をはじめ中国側主権に対する侵害行為を止める のが先か、意見は真っ向から激突した。さらに、川越は、「排日問題ニ付テ ハ日本側ハ国民党部ノ指導精神ヲ重視シ有力ナル一部ニテハ此ノ際党部ノ解 散ヲ要求スヘシトノ主張サヘアリタルカ少クトモ党部ノ排日行為ニ関シテハ 国民政府ニ於テ全責任ヲ負フヘキコトヲ要求スル」(18)と述べ、中国におけ る排日の原因は中国国民党の存在そのものにあるとの考えを示した。これは すでに有田八郎が許世英との会談で言及していた内容である。
いわば総論をめぐる上記川越茂と張群の激論に続いて、須磨弥吉郎と張群 の間で各論をめぐる舌戦が繰り広げられた。張が、「今日両国間最重要ニシ テ且困難ナル問題ハ北支那問題ナルモ先ツ本件ニ関シ日本側ノ方策ヲ詳細承 ハリ度(シ)」、と問うと、すかさず須磨は、「防共施設ノ急務ナル点ヲ指摘 シ其ノ決心ヲ促シ更ニ客年何応欽ニ与ヘタル六項目ノ権限ヲ基礎トシテ話ヲ 進ムルコト可ナルヘキ旨」告げた(19)。華北事態収拾のため前年 11 月末に何 応欽に授けられたとする 6 項目権限を、9 日に続いて再び持ち出したのであ る。6 項目権限については、すでに冀察政務委員会発足を前後して日中間で 激しい駆け引きが行われていた。しかも、中国側はこのような権限の存在自 体認めていなかった(20)。張は、「支那側トシテハ自治政権、独立政権ノ如キ ハ反対ニシテ主権及行政ノ完整ノ範囲内ニ於テ具体案ヲ攻究スル」と主張し、
このまま須磨の求めに応じるわけにはいかない姿勢を示した。また、航空連 絡問題について、張は、「原則上問題ナキモ北支ノ自由飛行問題ヲ解決シ支 那側ノ立場ヲ良クシ本件解決ヲ容易ナラシムル様希望スル」(21)と、塘沽停 戦協定締結以来の懸案であった日本軍による華北自由飛行の停止を条件に協 議に応じてもよいとする考えを示した。ただ、この条件も、中国政府が繰り 返し申し入れを行ってきたにもかかわらず、日本側が応じてこなかったもの であり、日本側が受け入れる可能性はほとんどなかった。
会談前日、張群は、蔣介石が「指示した各項にもとづいて、傲慢でも卑屈 でもない態度で善処し、絶対に受け入れられない要求はもちろん断固拒否す る」姿勢で会談に臨むことを確認するとともに、交渉での日本側の出方につ いて次のような見通しを示していた。「先方は不幸な事件を利用して昔の債 務を清算しようとするだろう。……(第一)われわれに誠意を披瀝する具体
的方法、例えば(甲)重要案件、例えば航空、減税の即時解決、(乙)華北 問題の解決、を表明させる。(第二)一切の排日行動を禁絶させる。上記二 種類の要求のうち、彼らは、第一は懸案であるため、次の事件は(起き)な いと考えている。もともと今回南京では第二について協議することを決めて おり、排日事件の頻発は、有効な方法を採用して杜絶させる、将来決して成 都事件あるいは北海事件解決の条件とはしない。……われわれが第一の要求 に対して承認すれば、(それは)百項目を実行することであり、第二に対し ては相当な範囲内で自発的に処理すれば、情勢の悪化を回避することができ る。さもなく、先方が提起してきたものをことごとく峻拒すれば、事態は拡 大し、対応は容易でなくなるであろう(22)。」張群は、排日問題が今次会談の 主要テーマになると読み、同問題で前向きな回答をすることの必要性を念頭 に本会談に臨もうとしていた。ところが、先に見たように日本側は、排日問 題に加え、須磨弥吉郎が 8 日に求めた 7 項目を軸とした諸要求を並べ立て、
その受諾を迫ったのである。
3.対日妥協をめぐる国民政府内の議論
第 1 回会談前後から、国民政府内では決裂という最悪の事態を回避するた め、対日妥協をめぐる議論が急浮上した。
最初に体系的な形で対日妥協の必要性を訴えたのは、長年対日交渉に携 わってきた何応欽である。何は、蔣介石に対して、日本側の発言のうち、「最 重要なのは、(一)華北五省政府に特権を賦与する、(二)華北防共、(三)
上海福岡間航空連絡」であるとの見方を示したうえで、「岳軍(張群)は、一、
二については、日本側とゆっくり折衝する考えである。ただ、上海福岡間航 空連絡は九一八以前からの懸案で、当ルートの航空連絡は、わが国の国防上、
決して大きな妨げにはならず、しかも昨年汪(兆銘)院長と交通部が同意し ている……可能な範囲内で日本側の要求を一つ二つ処理するのがよい」(23)、 と提言した。交渉を前進させるためには、譲歩のカードが必要で、日本側が 受け入れを要求している 7 項目のうち、差し当たり妥協可能な事項は上海福 岡間航空連絡であろう、との見方である。
また、孔祥熙も蔣介石に対して、「福岡航空連絡の件は、純粋に商業範囲
に属し、わが国の主権の妨げにはならない」、「目下西南はすでに統一され、
中央の権威は昔とは異なる、この商業航空連絡と領空主権はあまり関係がな い、兄(蔣介石)が寛大に飛行を認め、わが国の敢然たる精神を示すととも に、両国関係全体を調整する先導とすれば、あるいは両事件の処理にも裨益 しよう」(24)と、何応欽と同様、上海福岡間航空連絡問題で妥協することが 得策との考えを進言していた。
第 1 回会談を終えた張群は、日本側は「航空連絡、関税および華北の 3 問 題をとりわけ重視している」、と分析、判断していた。先に見た何応欽の提 言にある(一)と(二)については、中国側は、いずれも華北問題に関する 事項であるとみていたため、「関税」が新たに加わったことになる。そして、
蔣介石に対して、「税則調整の案件については、財政部と協議を行うほか、
防共と航空連絡を含む華北問題については、鈞座(蔣介石)の主旨にもとづ いて川越と引き続き会談する。もし先方が先入観に固執した場合には、再び 請訓する。本部が以前草した航空連絡案について、今日の情勢下では先方の 同意を得ることは難しい。かりに拒絶された場合、譲歩してよいか否か」請 訓を求めた(25)。また、張は、「ただちに一つ二つ問題を解決しなければ、必 ずその企図することを何が何でもやってくるだろう。決裂を準備しているな ら、外交上対処しやすいが、そうでなければこの危機一髪の事態に、緩和の 時を逸してしまう」(26)、と一部案件の妥協によって日本を宥め、交渉を進 展させるべきであると進言した。
しかし、このような考え方に対して、蔣介石は、「前簡で述べたのが、わ が最大の譲歩の限度であり、この限度を越えた場合は、最後の犠牲の決心を する。この考えにもとづいて前進させることを望む。いま外交は専門家の目 でこれを見、成都事件と北海事件で怖気づいてはいけない。先方は、最初に 成都事件を解決することを望まないだろう。わが方もまた成都事件がない時 の方針と態度でこれに臨むべきだ。本題は成都、北海両事件にあるのではな いことを知っておかなければならない」(27)との考えを示し、成都事件や北 海事件などの個別案件の解決を交渉の主眼とはしていない日本側の姿勢に もっと注意すべきで、中国側から妥協する必要はないことを伝えた。
蔣介石の主張はもっともであったが、南京の最前線で対日交渉を担う張群
らにとってはことのほか厳しい方針であった。9 月 16 日に孔祥熙は、関係 部長会議を召集し、上海福岡間航空連絡問題について協議した(28)。会議では、
「中日交渉の中でわりと平等、互恵の精神を備えているのはこれのみで、日 本側と協議しないと、その他の問題はなおさら折衝などできないとの認識に 至った」という。何応欽は、この会議の模様を蔣介石に報告しつつ、「岳軍 兄(張群)は辞職に出るしかなく、中日の苦境は打開困難となろう。日本と の決裂を準備しているのか否か、再考を求める」(29)と、張群が外交部長職 を辞する可能性があり得ることをちらつかせながら、蔣に妥協を迫った。
それでも蔣介石は、方針を変えようとはしなかった。「対日交渉の悪化に 備え、あらゆる準備をしなければならない。同時に軍事各機関に対して、積 極的に働き、勤務時間を延長するよう命ずる、手ぬかりなきように。日本軍 が北海あるいは海南島を占領する、すなわち行動を開始すれば、各方面に波 及し、大戦を引き起こすであろう(30)。」蔣は、中日間で戦争が勃発する可能 性をすでに織り込み始めていたのである。他方、17 日に有田八郎と会談し た東京の許世英からも、「再び日本人が被害にあうようなことがあれば、日 本の国論は理由を問わず、実力の発動を主張し、吾輩が阻止することはでき なくなる」(31)と、戦争勃発の可能性を示唆する情報がよせられていた。
9 月 19 日、須磨弥吉郎と雨宮巽(南京駐在武官)が、高宗武と会談した。
その際、須磨は、排日問題について、次の 5 項目を実施するよう迫った。「(1)
中央常務委員会が各級の党部に排日の取り締りを命令する。(2)蔣(介石)
院長がラジオ演説する。(3)教育部が日本人顧問を招き、教科書の改訂に参 加させる。(4)党部が、排日秘密団体すべてを鎮圧する。不幸な事件が発生 した場合、政府が責任者として責任を負う。いわゆる責任者、つまり党員が 行った排日運動について、日本政府は、行政院の職員が行ったのも同然と見 なす。(5)新聞の排日言論を取り締まる(32)。」さらに、排日問題以外の事項 についても、「(1)航空連絡と朝鮮人取り締り問題はただちに解決すること を希望する。航空連絡の草案内容は後で協議する。(2)関税問題は、日本側 の意見にもとづき、二三カ月内に実行する。(3)軍事顧問は、感情が好転し た後招聘する。ただし、その他の機関の顧問は、今ただちに招聘準備を開始 し、好意を示す。(4)防共問題は、まずその方法について協議することを承
認し、双方が委員会を組織し、専門家が検討、決定することを希望する。(5)
華北問題について、日本側は 6 項目を交渉の根拠としなくてもよい。ただ、
必ず 6 項目の精神に依拠しなければならない」(33)と、日本側の要求をのむ よう圧力をかけた。雨宮も、「(1)共同防共について、中国が決意を表明す ることを希望する。(2)中国が二度と欧米に依存しないことを希望する。(3)
今回の交渉が解決をみなければ、川越と両武官は即日南京を離れる」(34)と 述べ、中国側の対応次第では決裂もあり得るとの見方を示した。この日、漢 口で、領事館巡査が射殺される事件が起こっている。
高宗武からの上記報告を受けた張群は、「現在、日本側はいかなる説明も 聞こうとせず、問題解決しか求めていないことがますますはっきりしてきた。
かりに先方が最重視する問題、たとえば航空連絡、関税、防共の原則などを 拒絶、あるいは彼らが受け入れられないと見込まれる案を提出した場合、会 談はにわかに決裂し、情勢はにわかに悪化」すると分析し、さらに「ヨーロッ パは問題が多く、アメリカは国を閉ざし自守の折、中日関係が悪化すれば、
先方に有利で、われわれには不利である」(35)との見方を示し、あらためて 蔣介石に再考を求めた。しかも、張群は、「わが方は、華北問題で方法を議 論できれば、その他の問題はいずれも検討できると、すでに表明してきた。
しかし、先方の意見は、まず航空連絡、関税問題を解決して端緒を開かなけ れば、誠意を示したとはいえない、しかも航空連絡が関税より急ぐ」という もので、「わが方がもし受け入れなければ、会談は必ず決裂する」(36)と情勢 判断し、蔣介石に決裂回避のために航空連絡問題で早急に妥協を認めるよう 訴えた。
9 月 21 日早朝、広州から南京に戻った張嘉璈(鉄道部長)は、蔣介石か らの指示をただちに張群に報告するとともに、各方面からの情報をもとに日 本の現状とその出方について分析を行った(37)。
(1) 財政、経済情勢は日々悪化し、国際情勢も日々孤立へと向かってい る。中国問題を迅速に解決しないと日本は苦境に陥るかもしれない。
(2) 日本はソ連に対して日夜怯えており、中国との関係を解決しなけれ ば後顧の憂いを除くことはできない。
(3) 日本内部に軍紀を正す動きはあるが、裏では不満分子の活動は日々
活発化している。ゆえに中国問題を利用して内部をつなぎ止めよう としている。
(4) 中国分割は伝統的政策である。最近西南を統一して、中央の勢力は ますます強固となっており、ただちに解決しなければ、手を出しに くくなることを深く憂慮している。
(5) 年来の懸案は一つも解決しておらず、(これは)欧米が機を捜して 日本を制ママするのを期待していることの証明ととらえている。
このように分析したうえで、「日本は年々軍備を拡充してきたが、もし速 戦でなければ財政的に難しい。ゆえに極東において必ず一戦に出るが、目下 中国と決裂した場合、世界大戦を引き起こすことになるのか、なお疑問であ り、日本は逆にただちに望みのことを求めることに利がある。ゆえにわが国 は現実の状況下で、多方面で耐え忍ぶことが、実に目下交渉に対処する鍵で ある」、つまり、現段階での戦争突入は中国側にとってきわめて不利である と訴え、対日交渉での妥協に理解を求めた。
また、張嘉璈は個人的と断りつつ、防共問題について、「先方は依然とし て全般的[全部]な軍事同盟を重視し」ているため、しばらく条件をつけな いよう、航空連絡問題についても、「耐え忍んで解決し、今次各懸案の交渉 終了後に実行することを声明する」よう求めた(38)。
さらに、同日張群は、何応欽、呉鼎昌(実業部長)、張嘉璈を招いて懇談し、
次のような認識に至った。「防共について、上海、塘沽協定の取り消しを前 提とするなら、先方は小を以て大に変え、言い逃れをしているととらえるだ ろう。先方は、両協定の取り消しは、わが方がいわゆる満洲国を承認しなけ れば、議論できない、と早くから表明している。また、上海福岡間航空連絡 問題について、もし防共問題、あるいは華北航空連絡問題の同時解決を堅持 すれば、先方を失望させ、交渉が即時決裂するのは必至である。川越らがた だちに南京を離れれば、ひどい状況となり、自由行動を取るであろう(39)。」
張群は、日本側要求に応じる回答をほとんど準備できない中で、危機を背 にして日本側との交渉に臨んでいたのである。
4.川越茂・張群会談(第 3 回会談)
9 月 23 日、川越茂と張群は、午後 3 時 30 分より約 3 時間半にわたって会 談した(第 3 回会談)。双方の顔触れは 15 日と同じである。会談に先立って 蔣介石は、「今日川越と面会する際、新たな要求があるか否か探っていただ きたい。新たな要求、航空連絡などの問題は協議の結果を待ってあらためて どうするか決めるのがよい」(40)と、張群にいわば様子見を指示している。
さしあたり早期に妥協しないよう念押ししたといえよう。
会談冒頭、張群は、中国側対案を示した。まず、「消極的ニハ排日感情ノ 除去ヲ必要トス……日本側ニ於テ武力干渉又ハ高圧的手段ヲ以テ支那ニ臨ム コトヲ避クルヲ要ス」、また、「積極的ニ対日感情ヲ好転セシムルニハ平等ナ ル国交ヲ樹立スルコト必要ナリ」(41)と、排日問題を解決するためには、中 国における主権侵害行為の停止を含む日本側の協力が不可欠であることを申 し入れた。そして、日本側要求に対して中国側回答を示した。そのうちとく にプライオリティが高いと国民政府が判断していた華北問題、関税問題、航 空連絡問題について、日本側記録によれば、張は、以下のように回答した(42)。
北支問題
防共問題ト経済提携ニ付テハ適宜協議ヲ進ムルコトニ異議ナシ……但シ 防共ノ範囲ハ山海関ヨリ古北口、張家口、綏遠、包頭ヲ連ヌル線以北ニ 限ルコトトシ且其ノ方法ハ防御ヲ主トシ攻撃ヲ目的トセズ。
経済合作ハ苟モ政治的侵略ヲ伴ハズ互恵平等ノ立場ニ於テスル以上素ヨ リ歓迎スル所ナルガ先ヅ
(イ) 其ノ範囲ハ冀察両省トシ
(ロ) 其ノ方法ハ行政機関以外ニ一ツノ共同機関(「シンジケート」)ヲ 設ケ日本側ノ出スベキ資本ハ団匪賠償金ヲ以テスルコト。
関税引下問題
我方ガ現ニ輸入税率改正方研究立案中ニテ三、四箇月以内ニハ実行ノ見 込ナルガ日本側ノ希望ハ関係方面ニ伝ヘ適当ニ之ヲ織込マシムルコトト スベシ。
航空連絡問題
上海、福岡間航空連絡ハ曩ニ交通部及逓信省間ニ於テ協議セル合約草案
ニ基キ此ノ際協定スルコトニ同意ス但シ其ノ際ハ
(イ) 日本大使館ヨリ外交部宛公文ヲ以テ日支両国ハ相互ニ領空権ヲ尊 重シ一国ハ相手国ノ許可ナクシテ其ノ領空ヲ飛行セザルコトヲ声 明シ我方ヨリ同様ノ回答ヲ為スコトトシ
(ロ) 右実施期ハ今回ノ交渉ガ相当程度迄進ミタルトキニ更メテ決定シ 度シ現在ノ空気ニテハ実施困難ナリ。
いずれの項目についても中国側は条件を付しており、受諾の意を示したと いうことはできないが、前述した妥協をめぐる国民政府内の議論を踏まえる と、とくに「関税引下問題」と「航空連絡問題」については受け入れに向け た姿勢、つまり譲歩の跡をうかがうことができる。蔣介石の訓令に従いつつ も、その枠内で妥協可能なぎりぎりのラインを模索して提示したといってよ い。なお、「北支問題」のうち「防共問題」については、かなり明確な地域 限定がなされており、張嘉璈の先の提言を考慮すると、蔣介石の考えが貫か れたといってよいだろう。当時、蔣介石は、「(一)倭寇(日本)が対ソ軍事 同盟を迫る、(二)倭寇が軍事訓練の取り消しを迫る、(三)倭寇が華北五省 勢力の承認を迫る、(四)倭寇が顧問の招聘を迫る……」(43)と記しているよ うに、防共協定の締結が、中国側主権を蚕食的に蝕み、日本の華北分離工作 をエスカレートさせる結果となることを強く警戒していた。山海関から古北 口、張家口、綏遠、包頭を結ぶラインの北側、つまり長城線以北ということ であれば、華北の中心地域は含まれず、影響は最小限に抑えられる、蔣はこ う考えたのであろう。
さて、張群は、続けて「国交調整ニ関シ支那側ヨリ日本ニ対スル希望ヲ次 ニ述ブベシ」と述べ、次の 5 項目を提示した(44)。いずれも国民政府が繰り 返し日本側に申し入れてきた事項である。
(一)塘沽協定及上海停戦協定ノ取消
(二)冀東政府ノ解消
(三)北支自由飛行ノ停止
(四)密輸停止及支那側取締ノ自由恢復
(五)察東及綏遠北部ニ於ケル偽軍ノ解散
これを聞いた川越茂は、「只今ノ話ニテハ一歩モ進展ヲ見サル次第ニテ極
メテ遺憾ナリ」と強い不快感を示し、また、須磨弥吉郎も「支那側提出ノ五 項目ノ如キハ日本側ニ於テ全然考慮ノ余地ナキコトヲ茲ニ言明ス」と、検討 の余地すらない考えを示した。これに対して、張群は、「国交調整ヲ議スル 以上支那ノ立場ヲモ考慮セラレ話合ノ円満ニ進行スルコトヲ考慮セラレ度 シ」と、両国の国交調整を図るためには、日本側からの一方的な要求の押し 付けではなく、中国側の要望についても検討する必要があるのではないかと 理解を求めた。しかし、須磨は、「今日ノ如キ話ニテハ政府ニ報告スラ出来 難キ重大ナル結果ヲ招クコトヲ覚悟セラレ居ルヤ……今日ハ之ニテ話ヲ打切 ルノ外ナシ」(45)と言い放ち、川越らは引き揚げてしまった。
川越と張との会談が終わって間もなく後の午後 8 時過ぎ、今度は上海共同 租界で第三艦隊「出雲」の水兵が射殺される事件が起こった。
翌日、蔣介石は、「倭使(日本の大使)川越とわが外交部の交渉は、昨日 決裂状態となった。先方は一方的に要求するのみで、わが方が提起した 5 項 目は、提出してはならないという。……倭寇の水兵 1 名が上海の租界内でま た銃殺された。倭は、これを口実に必ずさらに脅してくるであろう。倭の素 姓の横暴さから察するに、決して戦争を回避することはできない」(46)と記 すとともに、何応欽に対しては、「昨今の情勢によれば、先方はすでに決心 しているようで、南京、上海、武漢各地にただちにあらゆる準備を行い、厳 戒するよう命じ、随時抗戦できるようにすることが重要」(47)と、また、周 至柔(航空委員会主任)には「外交情勢が急転しており、空軍が積極的に動 員を準備することが重要」(48)との電報を打つなど、万一の事態に備え万全 を期すよう各関係方面に指示した。
5.川越茂・蔣介石会談
南京では 9 月 24 日午前 9 時より中央政治委員会の臨時会議が開かれ、張 群が、中日交渉の状況について、また、朱培徳(中国国民党中央執行委員)が、
前日上海で発生した日本人水兵射殺事件について、それぞれ報告した(49)。 閉会後、須磨弥吉郎が、孔祥熙を往訪し、前日の第 3 回会談をめぐって次 のようなやり取りが交わされた(50)。
須磨: 川越が昨日張群外交部長と会談し、外交部は日本が提出した条件に
対してそれぞれ回答した後、また対案 5 項目を提出した。日本の観
察によれば、外交部が提起した交換条件は、嫌がらせでなければ交 渉を停頓させる。すなわち日本に対する挑戦であり、双方の交渉は 進展の余地はない。現在、川越は電報で日本政府に報告し、請訓し ている。挽回の術がなければ、南京を離れる。
孔 : 蔣介石院長は就任の際、中日国交について調整に尽力したい旨宣言
し、張群外交部長もこの主旨に則って進行に努力している。ただ、
この目的を達成するためには、まずあらゆる障碍を取り除かなけれ ばならない。日本側が提起した 7 項目が障碍を除去するという観点 からのものであるなら、中国側が提出した 5 項目もその意図は同じ である。もし双方が互いに理解し、詳しく検討し、胸襟を開いて協 議するなら、互譲互諒の精神にもとづいて意見を接近させることが できるだろう。
須磨: 成都事件が発生して以降、日中の情勢は良くないと思う。中国が今
また 5 項目を提出したことは、誤解を生じやすく、決裂に向かう。
この危機を挽回する希望はあるのか。
孔 : 中日国交調整は根本的方法から着手する、根本的方法を一度決めれ
ば、必ずやあらゆる枝葉末節な問題を一刀両断に解決してくれるだ ろう。今回のわが方の提案は、この主旨にもとづいたもので、日本 が平等、互恵の精神にもとづいて双方が努力することを理解し、中 日国交調整の目的を達成することを希望する。
日本側の 7 項目要求受諾が先か、中国側の 5 項目条件受け入れが先か、両 者の意見は激しくぶつかった。会談を終えた孔祥熙は、須磨が徐謨(外交部 政務次長)にも同様の発言をしていたことを考慮しつつ(51)、「わが方が提起 した 5 項目を堅持して先方が提起してきた 7 項目を解決する条件とし、同時 に解決を求めるなら、会談は容易に進行せず、決裂しなくても必ず停頓する」(52)
との見通しを示した。
また、雨宮巽は、「(1)外交部長が昨日提起した条件(5 項目)を取り消 す声明を出して、未提出のもの」とし、「(2)蔣介石が南京に戻り、自ら解 決する」よう求めてきていた(53)。蔣介石との会談については、すでに第 1 回会談の際、川越茂がその希望を伝えていたが、実現を求める声が急速に高
まるのはこの頃からである。
孔祥熙と須磨弥吉郎の会談内容について報告を受けた張嘉璈は、雨宮の発 言を踏まえつつ、「わが方が提起した 5 項目は、譲歩して希望事項とし、後 日の検討を待つ、ただ、そのうち密輸取り締まりについては関税改訂を議論 する際に併せて提出する、北方の自由飛行については、華北問題を議論する 際に併せて提起する、察哈爾・綏遠の傀儡軍[偽軍]については、局部防共 を討論する際に併せて提出する」(54)という、中国側 5 項目に関する妥協案 を蔣介石に進言した。
9 月 27 日、広州から楊杰(参謀次長)らが南京に戻り、ただちに何応欽、
蔣作賓(内政部長)、葉楚傖、朱家驊(中央研究院総幹事)、翁文灝、陳紹寛
(海軍部長)、張群、徐謨、陳介(外交部常務次長)ら、国民政府内で外交、
軍事を主管する首脳が、外交部長官舎に集まった。メンバーは、楊杰から報 告を受けるとともに、今後の方針について協議し、外交、陸軍、海軍の三部 長が江西省に赴いて請訓し、最後の決定をすることで意見の一致をみた(55)。 翌 28 日午後には、張群の要請を受けて孔祥熙宅で部長会議が開かれた(56)。 会議では、蔣介石に日本側との直接会談を要請することとともに、「兄(蔣 介石)が最後の犠牲の時と判断するなら、外交は棚上げにし、協議しない。
かりにわが方に十分な準備がなく、和平がいまだ完全に絶望的ではない時は、
外交上解決の道を求めるべき」であり、「およそ重要な問題で即時解決の難 しいもの、たとえば華北および防共等の問題は、しばらく保留とし、双方と も協議しない、その他、航空連絡、関税等の問題は、先に解決して数ヵ月後 に実行に移し、わが方の誠意を示す」ことが方針として確認された(57)。こ の日、蔣介石は、「8 月 11 日に広東入りして 40 日、倭寇(日本)と交渉す るために広東を離れ南京に戻らなければならない」(58)と語り、自ら交渉に 臨む決心を固めた。同日午後、蔣介石は江西省南昌を経由して廬山牯嶺に、
10 月 5 日、牯嶺から九江経由で南京に到着した。
10 月 8 日午前 10 時から、蔣介石は、官邸で 2 時間にわたって川越茂と会 談した。日本側は清水董三が、中国側は高宗武が同席した。
これに先立つ 10 月 2 日、日本政府は、四相会議で「川越大使蔣介石間交 渉ニ関スル方策」を決定し、同日、有田八郎はこれを川越茂に訓令していた
が、会談を前進させるには程遠いものであった。例えば、主要懸案の一つ「共 同防共」について、「防共協定ノ範囲ハ北支五省トスルコト但シ已ムヲ得サ レハ差当リ支那北辺ニ限定スルモ差支ナシ」と、一見中国側に歩み寄りの姿 勢をみせているようでありながら、「北支問題」では、「先ツ南京政府ニ対シ 北支ノ特殊性ヲ認メ北支五省ニ特別ノ政治組織例ヘハ特政会ノ如キヲ創設ス ルト共ニ右新組織ニ対シ財政、産業、交通等ニ関スル特殊ノ権限ヲ賦与スル」
よう求めるなど(59)、「防共問題」を「北支問題」の一部ととらえていた中国 側には到底受け入れられるような内容ではなかった。
席上、蔣介石は、「わが方の要求は、領土の不可侵、主権と行政の完全の 尊重に重点を置いている。ゆえに中日間のあらゆる問題は、絶対的な平等お よび領土、主権、行政の完全の相互尊重の原則にもとづかなければならず、
外交ルートを通じて、平和、親善の雰囲気の中で落ち着いて協議すれば、国 交の調整は必ずや円満な結果を得られることであろう」(60)と述べ、平等、
領土・主権・行政の相互尊重を強調した。これは、前年 2 月に王寵恵(ハー グ国際司法裁判所判事)が広田弘毅(外務大臣)に説明し、同年秋に蔣作賓
(駐日大使)が広田に繰り返し申し入れていた国交調整のための「中国側三 原則」であった(61)。
続いて各地で発生している日本人を標的とした事件について、蔣介石は、
「中国政府が十分に警察権を行使することのできない地域があるため、一概 に論ずることはできないが、中国領土内で発生したこれら不幸な事件は、間 違いなく遺憾なことであり、すでに調査した成都と北海事件に対して、中国 政府は国際慣例に依拠して即時解決の準備をしている」と、両事件について はそれぞれ個別の事件として迅速に解決する考えを示した。ただ、冒頭で「中 国政府が十分に警察権を行使することのできない地域」云々とあえて述べて いるように、蔣は、問題を複雑化させているのは中日間にある不平等条約、
つまり中日の不平等な関係そのものにあることを示唆した。そして、華北問 題について、「華北の行政は早期に完全を回復すべきである」(62)と述べ、華 北を国民政府の施政下から分離しようとする日本側の動きを念頭に、日本側 の今次提案は絶対に受け入れられない姿勢を示した。なぜなら、「北支問題」
に対する日本側要求や、現に華北で日本軍が進行させつつあった事態は、ま
ぎれもなく中国の領土、主権、行政の喪失や破壊を招く事柄であり行為だっ たからである。
おわりに
日本政府は、行き詰まった対中国交渉を、成都事件を利用して日本側のペー スで一気に進めようとしたが、すでに日中間の隔たりはあまりにも大きく、
かつてのように決裂をちらつかせながら中国側に一方的に要求をのませるや り方は通用しなくなっていた。川越茂と張群との会談は、この後 12 月 3 日(実 質的な会談は 11 月 10 日)まで続けられるが、特段成果を上げることなく、
田中隆吉(関東軍参謀)が指導する内蒙軍の綏遠侵攻(綏遠事変)によって 事実上打ち切られることとなった。
ただ、本稿で考察したように、第 1 回会談終了後、国民政府内では会談決 裂を回避するため、妥協をめぐるぎりぎりの調整が行われていた。決裂回避 のために航空連絡問題や関税問題で一定の妥協もやむなしとする南京(孔祥 熙、張群、何応欽ら)と、妥協を一切認めない広州(蔣介石)とのやり取り は、日中間の交渉現場以上に緊迫したものであった。このことは国民政府首 脳が、会談が決裂すれば日本との戦争は避けられないという危機感を共有し ていたことを意味している。
実はこの点では蔣介石も同様の認識であった。第 3 回会談の報告を受けた 後、蔣は、各方面に戦闘態勢を整えるよう指示している。ただ、蔣介石は、
領土や主権を損なう対日妥協は絶対に行わない、つまり 1935 年の年初に確 定した対日方針を貫く姿勢を崩さなかった。なぜなら、同年、天津日本租界 事件に端を発する交渉で中国側は主権を損なう大きな譲歩をしたにもかかわ らず、対日関係は改善するどころか、むしろ悪化の一途をたどっていたから である。
ところで、この間、東京の蕭叔萱は、磯谷廉介(軍務局長)や影佐禎昭(野 砲第 2 連隊付)ら陸軍中堅幹部と会食した際、影佐が、「国民政府を信頼し、
中国統一を尊重して、冀察、冀東の組織を解消することに、余は反対を表明 する」(63)と発言していたことを熊斌(参謀次長)に報告している。川越茂と 張群の会談が行われていた当時の日本の対中国政策は、ほぼこの発言の背後
に存在していた対中国認識にもとづいて展開されていたといってよいだろう。
ところが、同時期、これとは異なる新たな対中国認識にもとづく対中国ア プローチを求める声が上がり始めていた。
例えば、成都事件発生によって日中間の緊張が一層高まり始めた 9 月 2 日 から 3 日間にわたって『朝日新聞』が連載した「日支関係の再検討」と題す る論評が、それである。執筆者の有吉明は、「満洲事変」勃発後の 1932 年 9 月から 36 年 2 月まで中国公使・大使を務め、日中両国の利害が激突しあう 外交の最前線で交渉に当たってきた外交官であった。
有吉は、論評の終盤で中国の財政問題を取り上げ、「財政方面からいつて も日本ではかれこれいふものもあるが現在では為替も相当安定してゐるし、
財政上苦しんでゐるとはいひながら、それは二、三十年も前からのことで支 那は財政破綻で苦しむといはれてをりながら今日に至るまで破綻もせず財政 問題でどうかうといふやうな危険も見受けられない様子である」と、中国問 題の専門家の中国情勢分析や言論界の対中国観察が、いかに表層的で誤謬に 満ちたものであるのか、皮肉を交えつつ鋭く指摘している。さらに、「支那 の将来は相当統一的形式を備へて行くのではないだらうか」との見通しを示 し、「もちろん統一といつても日本のそれのやうな完全なものでないことは もちろんであつて各地方地方が自治のやうな形を取りそれを中央政府で統一 して行くといふことになれば外交その他のことを取り運ぶにも万事好都合に なるのでないかと思ふ、またこの傾向は好むと好まざるとを問はず阻止する わけには行かぬ」と論じ、その個性に鋭意目配りしつつ、中国で着実に進展 しつつあった近代国家建設にしっかり目を向けるよう促し、中国に対する日 本の関わり方に再考を迫っている。そして、再度「むしろ日本としてはこの 統一を助成しないまでも阻止するやうなことのないやうにするのが必要では ないかと思ふ」(『大阪朝日新聞』、9 月 4 日)と訴え、日本の対中国外交の 現状に強く警鐘を鳴らした。
急速に変化しつつある中国の現況とその向かう方向を正しく把握、認識し、
その中国とどのように向き合い、いかなる関係を構築していくべきか、川越 茂・張群会談で真に問題となっていたことは、当時の日本の対中国認識その ものであったといえるだろう。
注
(1)具体的には「対支実行策」および「第二次北支処理要綱」。
(2)島田俊彦「華北工作と国交調整(一九三三年~一九三七年)」、日本国際政 治学会太平洋戦争原因研究部編『太平洋戦争への道』第 3 巻、朝日新聞社、
1962 年。また、当時の現地中国での取材情報を織り交ぜてまとめられたも のとして、松本重治『上海時代-ジャーナリストの回想』(中)、中公新書、
1974 年。
中国側から日本の外務省記録を読み込んだ近年の研究として、臧運祜「日 中戦争直前における中日国交交渉」、西村成雄ほか編『日中戦争の国際共同 研究 4 国際関係のなかの日中戦争』、慶應義塾大学出版会、2011 年。
(3)第 1 回会談が開かれた翌日の 9 月 16 日にも川越茂と張群は短時間ではある が北海事件について会談を行っている(第 2 回会談)。
なお、『日本外交文書』は、9 月 16 日の会談を第 2 回会談として扱わず、
9 月 23 日の会談を第 2 回会談としている。
(4)張群(古屋奎二訳)『日華・風雲の七十年』、サンケイ出版、1980 年、72 頁。
(5) 「蔣介石発劉湘・賀国光・張群宛電報(宥辰秘粤電)」(8 月 26 日)、秦孝儀
主編『中華民国重要史料初編-対日抗戦時期・緒編』(三)、中国国民党中央 委員会党史委員会、1981 年、670 頁。(以下、『重要史料初編』(三)と略す。)
(6) 「張群発蔣介石宛電報(宥電)」(8 月 26 日)、『特交文電-日寇侵略之部・
迭肇事端』第五巻、(台湾)国史館所蔵。(以下、『迭肇事端』(五)と略す。)
(7) 「張群発蔣介石宛電報(支二電)」(9 月 4 日)、『特交文電-日寇侵略之部・
迭肇事端』第四巻、(台湾)国史館所蔵。(以下、『迭肇事端』(四)と略す。)
(8) 「有田八郎外務大臣発川越茂中国大使宛第 224 号電報」(9 月 5 日発)、外務
省編『日本外交文書』昭和期Ⅱ第 1 部第 5 巻上、外務省、2008 年、97 頁。(以 下、『日本外交文書』Ⅱ- 1 - 5 上と略す。)
(9) 「有田八郎外務大臣発川越茂中国大使宛第 225 号電報」(9 月 5 日発)、同上、
97-98 頁。
(10)「張群発蔣介石宛電報(陽電)」(9 月 7 日)、『迭肇事端』(四)。
(11)「須磨弥吉郎南京総領事発有田八郎外務大臣宛第 661 号電報」(9 月 9 日発)、
『日本外交文書』Ⅱ- 1 - 5 上、101 頁。
(12)同上、101-102 頁。
(13)「吉竹貞治広東総領事代理発有田八郎外務大臣宛第 382 号電報」(9 月 8 日発)、
『日本外交文書』Ⅱ- 1 - 5 上、562-563 頁。
なお、北海事件とは、広東省北海で日本人が経営していた商店に中国人 暴漢が押し入り、店主が惨殺された事件のこと。
(14)「張群与川越大使部分談話記録」(9 月 15 日)、中国第二歴史檔案館編『中 華民国史檔案資料匯編』第 5 輯第 1 編外交(2)、江蘇古籍出版社、1994 年、
893 頁。
(15)「須磨弥吉郎南京総領事発有田八郎外務大臣宛第 674 号電報」(9 月 10 日発)、
『日本外交文書』Ⅱ- 1 - 5 上、103-105 頁。
(16)「張群発蔣介石宛電報(真電)」(9 月 11 日)、『迭肇事端』(五)。
(17)「孔祥熙発蔣介石宛電報(寒滬電)」(9 月 14 日)、同上。
(18)「須磨弥吉郎南京総領事発有田八郎外務大臣宛第 693 号電報」(9 月 16 日発)、
『日本外交文書』Ⅱ- 1 - 5 上、106-107 頁。
(19)「須磨弥吉郎南京総領事発有田八郎外務大臣宛第 694 号電報」(9 月 16 日発)、
同上、108 頁。
(20) 拙稿「冀察政務委員会の設置と日本の対華北政策の展開」、『言語文化』第
15 巻第 1 号、2012 年、78-82 頁。
(21)「須磨弥吉郎南京総領事発有田八郎外務大臣宛第 694 号電報」(9 月 16 日発)、
108-109 頁。
(22)「張群発蔣介石宛電報(寒電)」(9 月 14 日)、『迭肇事端』(五)。
(23)「何応欽発蔣介石宛電報(刪未秘電)」(9 月 15 日)、同上。
(24)「孔祥熙発蔣介石宛電報(咸京秘電)」(9 月 15 日)、同上。
(25)「張群発蔣介石宛電報(銑子電)」(9 月 16 日)、同上。
(26)「張群発蔣介石宛電報(銑午電)」(9 月 16 日)、同上。
(27)「蔣介石発張群宛電報(篠午機粤電)」(9 月 17 日)、『重要史料初編』(三)、
673 頁。
陳布雷(軍事委員会委員長侍従室第二処主任)は、「委員長は葛(武棨)
秘書に交渉意見を持たせて南京に特派し、張外交部長に手渡し、川越との 折衝の際参考にさせる……葛秘書は 9 時 30 分に南京に飛んだ」と記してお り、冒頭の「前簡」とは、葛に携行させた「交渉意見」を指しているもの と考えられる(『陳布雷先生従政日記稿様(民国二十四年三月一日起)』、
158 頁、9 月 15 日の条)。なお、「前簡」の具体的内容は詳らかでないが、
張群は蔣介石宛電報の中で、「甲案が提起する東北問題、リットンの建議は、
すでに拒否されており、今春有田(八郎)と会談した際も開始早々東北問 題の解決を求めたが、彼は絶対に協議することはできないとの認識であっ た……」(「張群発蔣介石宛電報(銑午電)」(9 月 16 日)、『迭肇事端』(五))
と述べており、蔣介石が東北問題の解決をも求める対案を準備していたこ とがうかがわれ興味深い。
(28)中国側、とくに蔣介石が航空協定締結にきわめて慎重な姿勢であったこと について黄紹竑(浙江省政府主席)は、次のように語っている(黄紹竑『黄 紹竑回憶録』、東方出版社、2011 年、305-306 頁)。「この協定(上海福岡間 航空協定)が一度成立すれば、日本はただちに中国に空軍基地を建設し、
さらに続いて欧亜航空公司(中独合資)、中国航空公司(中米合資)の先例 を必ず援用して、内地航空連絡を求め、あわせて基地を建設するだろう。
その時はもう彼らを拒否することはできない。日本は武力で一部の土地を 占領しているが、それはわずかに一部の土地の損失でしかない。もし、日 本の飛行機がわが領空を自由に航行でき、内地に基地を建設すれば、われ われのあらゆる国防、防空は、掌の中のようによくわかり、すべてが彼ら に破壊されてしまうだろう。ゆえにこの協定は必ず調印をやめなければな らない。」蔣介石が、国防上の理由から航空協定締結に強く反対していた様 子がうかがわれる。
(29)「何応欽発蔣介石宛電報(篠申秘電)」(9 月 17 日)、『迭肇事端』(五)。
蔣介石は、「岳軍(張群)が、進退を以て上海福岡間航空連絡問題を争う とは、電報を見て悲憤した。ああ!国人はまったく底力がなく、少し脅迫 されるだけで、すぐに潰走してしまう。こんな性格で、どうして外交を主 宰できようか?……余は、まず防共あるいは経済を議論し、航空連絡はし ばらく協議しないよう命ずることにする」(黄自進・潘光哲編『蔣中正総統 五記-困勉記』下、国史館、2011 年、514 頁、9 月 18 日の条)と、辞任を 仄めかしつつ蔣介石に対日妥協を認めさせようとする張群の姿勢を、厳し く非難する言葉をもらしている。
(30)「蔣介石発何応欽宛電報(巧午機羊電)」(9 月 18 日)、『重要史料初編』(三)、
673 頁。
(31)「張群発蔣介石宛電報(嘯電)」(9 月 18 日)、『迭肇事端』(五)。
9 月 15 日に軍令部は、「北海事件処理方針」を策定していたが、その「処 理方針」には、「国民政府が責任を回避し、又は徒に解決を遷延せんとする 場合には期限を附し抵抗排除に関する実行を強要すると共に兵力を増派し 実力行使に伴ふ支那並に各国に対する外交的措置を講じ且現地に於ける非 戦闘員の撤退を要求す」などという方針が示されていた(軍令部第二課「北 海事件経過概要其の六」(9 月 15 日)、島田俊彦・稲葉正夫編『現代史資料 8 日中戦争 1』、みすず書房、1964 年、211 頁)。(以下、『現代史資料 8 日中 戦争 1』と略す。)
(32)「張群発蔣介石宛電報(晧午電)」(9 月 19 日)、『迭肇事端』(五)。
(33)「張群発蔣介石宛電報(晧電)」(9 月 19 日)、同上。
須磨弥吉郎の高宗武に対する要求は、日本側の整理では以下のとおり。
なお、須磨は、「回答を二十二日までの期限付きとした」という(『現代史 資料 8 日中戦争 1』、286 頁)。
一、共同防共を原則的に承認し、委員会を作つて考究すること。
二、財政・実業・交通・鉄道・内政各部に、遅くも十二月までに日本人 顧問を招聘のこと。
三、福岡・上海間の航空路開設を即時調印実行のこと。
四、 「不逞」鮮人の即時引渡し。
五、関税協定締結と輸入税引下げを、遅くも三カ月以内に実現のこと。
六、前年十一月に国民政府が決定し、日本側にも内示した……華北五省 六項目案……に対する確定的意見を提出すること。
(34)「張群発蔣介石宛電報(晧電)」(9 月 19 日)、『迭肇事端』(五)。
(35)「張群発蔣介石宛電報(晧京一電)」(9 月 20 日)、同上。
(36)「張群発蔣介石宛電報(號戌電)」(9 月 20 日)、同上。
(37)「張嘉璈発蔣介石宛電報(馬亥電)」(9 月 21 日)、同上。
(38) 同上。
(39)「何応欽・張嘉璈・呉鼎昌・張群発蔣介石宛電報(馬戌電)」(9 月 21 日)、
同上。
(40)「蔣介石発張群宛電報(漾巳機粤電)」(9 月 23 日)、『重要史料初編』(三)、
674 頁。
(41)「須磨弥吉郎南京総領事発有田八郎外務大臣宛第 739 号電報」(9 月 24 日発)、
『日本外交文書』Ⅱ- 1 - 5 上、113 頁。
(42) 同上、114-116 頁。
(43) 秦孝儀編『総統蔣公大事長編初稿』第 3 巻、1978 年、326 頁、9 月 10 日の条。
(44)「須磨弥吉郎南京総領事発有田八郎外務大臣宛第 739 号電報」(9 月 24 日発)、
116-117 頁。
(45)「須磨弥吉郎南京総領事発有田八郎外務大臣宛第 738 号電報」(9 月 24 日発)、
『日本外交文書』Ⅱ- 1 - 5 上、112-113 頁。
(46)「蔣委員長日記一則」(9 月 24 日)、『重要史料初編』(三)、674 頁。
(47)「蔣介石発何応欽宛電報(敬未機粤電)」(9 月 24 日)、同上、675 頁。
(48)「蔣介石発周至柔宛電報(有酉機粤電)」(9 月 25 日)、『革命文献拓影-統 一時期・華北局勢与対日交渉』(下)、(台湾)国史館所蔵。
(49)「中国国民党中央執行委員会政治委員会第二十二次会議紀録(臨時会議)」、
(台湾)中国国民党中央文化伝播委員会党史館所蔵。
(50)「孔祥熙発蔣介石宛電報(敬京秘電)」(9 月 24 日)、『迭肇事端』(五)。
中国側は、第 3 回会談において日本側が中国に対して要求した事項を、
以下の 7 項目にまとめている(『総統蔣公大事長編初稿』第 3 巻、330 頁、
9 月 23 日の条)。これ以降、中国側が「日本側の 7 項目(要求)」とういう 場合には、これらを指す。
(一)河北、察哈爾、山東、山西、綏遠五省を緩衝区域とする。南京政府 は以上各省内において領土宗主権を保つ。ただ、その他あらゆる権 利と義務、例えば官吏の任免、税の徴収および軍事の管理などは、
現地の「自治政府」に移管する。
(二)華北「経済提携」方式に照らし、中国全土で日中経済提携を行う。
(三)「共同防共協定」を締結する。
(四)日中間の航空交通線、とくに上海福岡線を整備する。
(五)中国政府は日本人顧問を招聘する。
(六)日本の貨物を特別優待する関税協定を締結する。
(七)排日宣伝を完全に抑え込む。各級学校の教科書改訂も含む。
(51)「張群発蔣介石宛電報(敬亥電)」(9 月 24 日)、『迭肇事端』(五)。
(52)「孔祥熙発蔣介石宛電報(敬京秘電)」(9 月 24 日)、同上。
(53)「張嘉璈発蔣介石宛電報(敬戌電)」(9 月 25 日)、同上。
(54)同上。
(55)「王世傑・呉鼎昌発蔣介石宛電報(感子電)」(9 月 27 日)、同上。
(56)「孔祥熙発蔣介石宛電報(勘京秘電)」(9 月 28 日)、同上。
(57)「孔祥熙発蔣介石宛電報(勘二京秘電)」(9 月 28 日)、同上。
(58)高素蘭編『蔣中正総統檔案-事略稿本』第 38 巻、国史館、2010 年、528 頁、
9 月 28 日の条。
これに先立つ 9 月 25 日、蔣介石は、前日夕に広州入りした呉鼎昌(実業 部長)、王世傑(教育部長)と対日外交について協議し、「余(蔣介石)は、
今倭寇(日本)はまだわれわれと正式に戦争するつもりはないと考えている、
間もなく彼らは必ず回避の道を捜すであろう。しかし、われわれは早期に 全体計画を準備しなければならない。戦争が一度始まれば、長期戦争となり、
以て最後の勝利を期さなければならない」と述べるとともに、「余は、まず 南昌に行ってからどうするか決める。ただ内心では川越と会談しなくては ならないと考えている。ゆえに南京に戻る準備をして、自ら処理する」(『総 統蔣公大事長編初稿』第 3 巻、332 頁、9 月 25 日の条)と語っており、こ の頃から川越との直接会談を考え始めていたことがうかがわれる。