出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 71
ページ 120‑133
発行年 2009‑03‑24
URL http://hdl.handle.net/10114/10895
栃木利夫先生は一九七八年に法政大学第一教養部に着任され、二○○一一一年に学内改組に伴い文学部史学科に移られ、今Ⅱに及んでいます。このたびにとしてご健康化の川川で、この一二Ⅱ一杯をもって退職されることになりました。この三一年の間、教えを受け、また何労の仲間として助〃を受けた骨が多数おります。それらの中から、ごく限られた数ではありますが、先生のお人柄とご業績の一端を語る文を集め、ここに掲載して、先生の長年の労をねぎらい、また感謝の意を衣することといたします。なお、今後も暫くは兼任教員のお立場で学生、院生のご指導に判たってくださることになっています。先生におかれましては、脳かな、然環境のもとで健康を保たれ、とかく制約の多い立場を離れて、史学科、法政史学会の柄動の中で私どもの気付かない点をお教えくださいますよう、お噸いいたします。 法政史学第七十一号
栃木利夫先生を送る
栃木利夫教授の履歴と業績
【略年諦]一九四二(昭和十七)年五川六Ⅱ群馬県に誕生。一九四九(昭和二卜阿)年四月前橋市立城南小学校入学。一九パバ(昭和三十)年三月前橋市立桃井小学校卒業。一几八八(昭和一一一十一一一)年三川前橋巾立第一中学校卒業。一九六一(昭和一一一十六)年三Ⅱ群馬県立前橋伽等学校卒業。一九六五(昭和四十)年三Ⅱ東京教育大学文学部史学科東洋史学専攻卒業。東京教育大学大学院文学研究科東洋史学専攻 qjl1修士課程入学。’九六八(昭和川十三)年
○
三月東京教育大学大学院文学研究科東洋史学専攻修士課程修了(文学修士)。修士論文「中国近代の農民闘争に関する若干の考察l臓東省中山県沙川地帯l」.’九七○(昭和四十五)年三月長崎造船大学工学部(教養)専任助手。’九七一(昭和Ⅲ十六)年
匹月長崎造船大学工学部(教養)市寸任講師。一九七六(昭和五十二年
栃木利夫先生を送る 【主要著作目録]’九七○年「商団事件敗北の歴史的意義’一九二四年広東にお 四月長崎造船大学工学部(教養)助教授。一九七八(昭和五十三)年
四月法政大学第一教養部専任助教授。一九八五(昭和六十)年四月法政大学第一教養部教授(人文研究室)(東洋史日中関係史)。一○○三(平成十五)年
四月法政大学文学部教授(史学科・東洋史)。一○○五(平成十七)年四月~翌年三月国内研修。
【学会活動]歴史科学協議会会員(常任委員、『歴史評論」編集委員歴任)。法政大学史学会会員。歴史学研究会会風。歴史教育者協議会会員。日本現代中国学会会員。その他 [出講大学]埼玉大学・東北師範大学(中国・長春)
ける革命と反革命l」(『長崎造船大学研究報告』’’二一九七四年「国民革命期の広東政府l第三次広東節政府期の国民運動」(「中国国民革命史の研究』第一章、青木書店)「辛亥革命と鈴木天眼’一人の対外硬論者の対応l」(『歴史評論』二九五)一九七五年「アジア民族大会の検討’一九二六年八月l」『中川研究』六五)一九七六年「日本近・現代とヒロシマ・ナガサキ」(『広島・長崎三○年の証一一一一口」下、未来社)一九七八年「長崎の研究者と反原爆の営為」(「歴史評論』三二六)一九七八年「中国国民革命と政権l広東川民政府と民間l」(野沢豊・田中正俊編『識座中国近現代史第五巻中国革命の展開』第三章、東京大学出版会)一九八二年『中国現代史』(法政大学通信教育部テキスト)一九八三年「中国における国民革命史の研究l武漢政府期の「左傾」と『右傾臣(『近きに在りて」四)一九八四年「清水安三先生と中国革命」(『産研通信」九・一○)’九八六年「国民革命期における地方政府l湖南省政府の成立l」(『中国国民政府史の研究」第二章、汲古書院)’九八七年「国民革命期の広東政府I省政府・市政府財政を中心にl」(『法政大学教養部紀要」六二)’九九○年「中国国民革命と日本の知識人lその変動期への認 法政史学第七十一号
識をめぐってl」(「近きに在りて」一七)’九九四年「北伐戦争の再検討」(『現代中国』六八)一九九五年「何応欽、孫科ほか(辞典項目六項Ⅱと(山川辰雄編『近代中国人名辞典」霞山会)「対支非干渉運動l無産運動と在日外国人組織との連帯l」(『講座世界史六必死の代案l期待と危機の二○年l」東京大学出版会)’九九七年「中国国民革命l戦間期束アジアの地殻変動l』(法政大学出版局)(共著)二○○|年「中国現代史と清水安一一一lその同時代認識と現代への課題l」(清水安三記念プロジェクト編「清水安三の思想と教育実践l戦前・戦中を中心としてl』桜美林大学)二○○六年「大学令による大学図書館の制度化」「新図書館の完成と活況」(「法政大学図書館百年史」第三章、第阿章、法政大学図書館)
栃木利夫先生を送る
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一 一
栃木利夫先生がお辞めになるという。そういわれてもなんだか現実のことのような気がしない。栃水きんと私は今は文学部史学科に籍を渦いているが二○○二年度末までは第一教養部教授会というところに所属していた。私が法政大学第一教養部というところに職を得たのは一九八五年のことである。その時そこに栃木さんがすでに勝られて、新任の私の研究室は先輩の栃木さんと相部屋となった。それから二○年ほどの間、第一教養部人文科学研究室という組織で、八○年館六階の一室という場所で、栃木さんと私はさまざまな仕事を共にしてきた。といっても必ずしもいつもMじ方向を向いていたわけではない。栃水きんは全法政という教職員組合の委員長もされたし、国庫助成委員会の法政大学における重鎮で他大学の組織からも噸りにされていたが、私はそれらの 法政史学第七十百万栃木さん、お疲れ様
栃木利夫先生を送る言葉
村'11
純
私が前任枝の弘前大学から法政大学第一教養部のⅡ本史担当教員として赴任したのは一九九六年川川のことで、当時所属した、第一教養部人文科学研究室に、歴史担淵の先任教且としておられたのが東洋史の栃木先生と、西洋史の中村純さんとであった。私は赴任するまで、このおニカとは全く町識がなく、それで礼儀と お仕事を積極的にお手伝いしたことはなかった。しかし、今年で二四年を終えた私の法政大学での生活のすべての場面に栃水きんがいる。まだあと四年はご一緒するはずだったのに。私のほうがなかなか気持ちの整理がつかないがご本人は十分にお考えになってのことであろうから〈7更泣き言を一一一口ってもしょうがない。長い間お疲れ様でした。一心休まれた後はまた先縦として人学の行方を見守ってください。
栃木先生を送る
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二 四
小川雅史
して?赴任前に、どんなことを研究しておられる万かおおよそ知っておこうと思い、御著作を探してみたのを記憶している。栃木先生については、法政大学通信教育部のテキスト「中国現代史」(本学通教テキストは全脚の公共図書館に献本されていて、どこでも容易に閲覧することができる)と、東京大学出版会から出版されていた「中国革命の展開』に収められた「広東国民政府と民同」だった
と忠う。やがて赴任して、ご本人に対伽することになったわけであるが、読後の印象から得られた予想に反して、そのあまりの柔和さ、物腰の柔らかさに少々驚いた。しかしその後、すでにI数年、先生は一風して笑顔を絶やさなかったが、その行後にある芯の強さは折に触れて伝わってきた。そしてごn身の研究・教育にも強い誇りを持っておられたのだと思う。今皿のご退職の直接のきっかけは、昨年の講義巾での体調の恐化であろうが、単に体調が悪いということだけではなく、誇りある講義(とくに私ども教養科Ⅱ担当教員が持つ大教室でのそれ)に責任がもてなくなったという精神的ご負担の方が大きかったのではないかと推測している。しかしそうはいってもまだまだ先生はお薪い。かつて私もお仲間であった超遠肌離通勤もこれからはさほど頻繁ではなくなります。どうぞこれからは、気楽にご研究をお続けください。またそのにこやかな笑顔に時折接することができればと願っております。
栃木利夫先生を送る 栃木先生との初対面は私の法政における前任者河原正博先生の最終講義の時で、私の法政着任の少し前であった。私とは同年なのだが、すでに法政在職八年で、その前にも長崎で八年教鞭を執っておられたという。とかく無駄な年川と回り道の多い私に比べると、まことに無駄の少ない経歴をお持ちであった。人学は違うが、学生時代のことを話していると、栃木先生の論題に出てくる人々が私にとっては学雁上の先裁に淵たる人々である。それはさておき、着任初年の私のゼミ生の四年生のうち何人かの積極的なメンバーが栃木先生を中心とした勉強会を続けていて、私のゼミ運営でもずいぶん助けてくれた。これらの諸耕は一年間だけの付き合いであったのだが、強く印象に残っている。先生とは長い間所属を異にしていたのだが、いろいろな場でご一緒になることがあったので、文学部に合流された際にも、なぜかずっと前からご一緒であったような気がした。栃木先生の専門飢域は主として民脚期、私は消代で、時代としては近いのだが、扱う史料の違いもあって、承なり合うことが意外と少ない。もっといろいろお教え頂けばよかったと思っている。先生は瀦いときから地学に関心がおありで、またヒメギフチョウの保存に象徴される向然環境保護の活動にも携わってこられたと聞く。このような一見地味で無私な活動も先生のお人柄と、そ 同僚、先輩としての栃木先生
一
二 五
山名弘史
栃木利夫先生が法政大学をお辞めになる。そのHが来るのはあと数年先と思っていただけに、ご健康上の理由でいたしかたないこととはわかっていても、戸惑いと寂しさを禁じえない。私が栃木先生と初めて親しく交わる機会を得たのは、法政大学に着任した平成元年、人試問題作成時であった。着任早々の「新米」を優しくご指導いただいたことは忘れられない。栃木先生は当時、第一教養部に所属なさっていて、ふだんはご一緒する機会は少なかったものの、入試業務ではその後も〃年ご一緒させていただき、人間ができていない私などは、先生の穏和で実直なお人柄、そして、ごn分の信念に忠実でプレることのない姿勢から、多くを教えていただいた。文部省が全国の大学の教養部解体という方針を打ち出したため、法政大学第一教養部も二○○二年度末をもってその歴史を終えることになり、一部の先生方は新学部に移り、残る先生方は各自が希望する既存学部に移籍ということになった。もう時効だと思うので打ち明けるが、その際、「個人の希望で移籍先を決め、既存学部側からの事前交渉は認めない」という原則を無視して、栃木先生をはじめ第一教養部所属の歴史学専門の先生方に、ぜひと の上に立つ専門研究に厚みを添えているのではないかと勝手に推察している。 法政史学第七十一号栃木利夫先生を送る後藤篤子
栃木先生とお近づきになったのは、私が法政に着任して以来なのでかれこれ十年ほどとなる。先生は私より六歳年長でおられるので、そのころの先生の年齢を私は現在超えてしまった。先生は当時既に法政大学在職二十年、学内ネットワークの広さを生かした活動の一方で、落ち着かれ、物躯に動じない立ち居振る舞いが印象に残っている(n戒するとそれが今のn分にはないのであるが)。先生とは、初めは入試関係の業務でご一緒し、ついで教養部から史学科に移られて学科の川僚としてのお付き合いとなった。先生は、教育面では主に教養課郷の東洋史の授業をもたれ、学生に熱心に接されたが、そのご活朧は学内外において多面にわたっておられた。学内でよく知られているのは、一つは法政平和大学の世話人としての活動である。平和大学は長い歴史を持っているが、先生はその運営に熱心に取り組まれてきた。これは、学 も「文学部史学科希望」にしてくださいと頼み込んだ。栃木先堆ははじめ、ご専門が近い山名先生へのご遠慮もあってか逵巡のご様子であったが、結局は史学科のためになるならとご快諾くださった。今でも感謝に堪えない。その後、先生が史学科のためにいかにご尽力くださったかは、皆さんご承知の通りである。栃木先生、本蜥にお疲れ様でした。そして、これからもご健康にご翻意の上、ますますご活確ください。
栃木先生を送る ’’一一ハ
加納格
唯時代からの平和迎動、さらに及崎造船大学で教鞭をとられた人年ほどの経験を踏まえ、Ⅱ本の平和同家としてのあり方に強い関心を持たれたからであったと聞く。教員・学唯・巾氏の、発性と協同に依拠するこうした「学びの場」は、営利団体と異なる歴史的社会的な知的共同体として大学の情報発信の仕方、一つのあり様を示していると私は考えるが、平和大学の活動は先生が大学に持たれている一つの忠いを一不していると想う。先堆の学内の活動でもう一つよく知られているのは、教臓凶組へⅡ活動である。昨今の社会経済怖勢悪化は労働組合の社会的意義を高めているが、私は、組合は個々人の様々な政治的社会的立場を聴取することが取笈だと考えている。この意味で、個人を教条的に縛り上げるものであっては本来ならない。光雄は、聞くところによると法政大学教職員組合の委員長を二期、副委員長を二期、中央委貝については数知れず務められたという。その立場はうかがうところでは、様々の意見を幅広く認めるものであった。学外ではインターュニヴァーシティ活動で私学川庫助成運動に取り組まれたが、これについては紙幅も尽きるので触れない。ご退職後は、会長を務められている地元群馬の自然保護・調査団体「赤城姫を愛する会」の活動を継続される川である。ここ数年法政で吹き荒れた「改革」という名の強梅化・非民主化については、先叱とよく意兄を交わさせていただいた。その「リベラル」など意兄には私も人いに鴬陶を受けたが、それはlに述べたこれまでの大学内外のご活躍からは当然のことであったと思う。そうしたご意兄を直接お聞きする機会が失われるのは、私に
栃木利夫先生を送る 教養部に長く所属された先生が文学部史学科にお出でになったのは二○○三年Ⅲ川からですので、いくも満六年が経ちました。昨年後半、今年腱で現臓から身を引きたいというお話しをうかがいました。まだ七○歳までに四年もあるので、なにか残念な気がいたしました。しかし、〃全ではない体飼も関わっているとのことでしたので仕方がないかも知れません。一九八○年代の後半以後、社会主義を人類のユートピアとする思想の矛盾が肚界各地の同家体制の破綻として表川化してきました。先生のご専門である中国近現代社会においても、国外の資本・技術の導入や市場経済推進などを内容とする改革開放政策、民主化運動の帰結として八九年六Ⅱには天安門事件が起き、今Ⅱもなお新たな価価観の模索が続いていることは広く知られています。先生と坂野良吉との共拷に「中川国比雌命l戦刑期束アジアの地殻変動l」(法政大学川版M)というお仕蛎がありますが、私は、このような価値観の変動が続く現代中川社会と小川赦命が本来、持っていた価値観とを比較し、中脚咽社会主蕊を聡山の中に位椴づけるために大いに役立つ研究だと考えています。どうぞ、これからも研究に、それからヒメギフチョウの保護活動に、ご活躍ください。 は残念である。どうかこの後も折に触れいろいろとご兄識を承る機会があればと念ずる次第である。
惜別の辞
七
澤登寛聡
栃木先生、長い間、法政大学における研究と教育に御尽力なされましたこと、ありがとうございました。先生が教養学部の解体に伴って、文学部史学科に移られることを知り、扱う地域が違うとはいうものの、同じ近現代史を専攻するものとして勇気づけられたことを今も覚えています。移られて早々に、新たに担当なされることとなった演習科目(略称ゼミ。卒業論文指導を同時に担当)において受講生の人数調整があり、私が担当する日本近代史ゼミの受講希望学生を何人か気持ちよくお引き受けいただきまして、ありがとうございました。移っていった学生は先生から中凶近現代史のみならず中倒語のご指導も受けられると知り、喜んでいました。彼らは、充実した学習ができたことと思います。それまで多忙などを理由に先生と研究に関してお話する機会がなかったことを今頃になって悔やんでおります。幸い、先生は来年度も非常勤講師としてご州講なされるので、今ⅡのⅡ中関係や今後の展望など忌蝉なくお話が出来たらと思っております。先生の益々のご健勝とご活躍をお祈りし、ひとまず先生を送ることばに代えさせていただきます。 法政史学第七十一号栃木先生を送ることば長井純市 栃木利夫先生を送る小倉淳一一九八五年の大学入学以来、教養科目時間割の「東洋史」には常に栃木先生のお名前があった。私は受講制限の関係から先生の教室に出かけることはなかったが、年次が変わって時間割を見るたびに先生のお名前を見つけることができ、教養部に歴史の先生がいらっしゃることを密かに頼もしく感じていた。後號の中にも栃木先生に教えを受け、東洋史に進んだ者もあった。教養東洋史の授業は多くの文学部学生が受講した看板科目だったのである。その後、史学科の教員として先生と仕事をさせていただいたのは幸いというほかない。先生はすべての場面でベテランの手腕を発揮され、なおかつ常に柔和な笑顔で学科の諸先生に接しておられた。ひとたび問題が生じると、慎頑かつ適切なご判断を下され、有益な提言をなさった。そして議論になった際も対話の姿勢を崩さず、冷静に話を続けられた。長年にわたり様々な難局を乗り越えてこられた先生ならではのご対応なのだと理解している。また、シーポルトに関して先生と共通の話題が生まれたことも幸運であった。たまたま二○○八年に大学で開催されたシンポジウムにてH・V・シーポルト(大シーポルトの次男)について発表したところ、先生がかって長崎のシーポルト邸のそばに住んでおられ、そこから前任校に通勤されていたことや、シーポルトに大きな関心をお持ちであることをお教えいただき、日下のところさらに期待がふくらんでいる。もとより私の関心は近代考古学の
八
私は前に勤務していた大学を定年退職した後、この法政大学に採用していただいてから、ようやく二年になるかならないかの新参者である。一度定年になったようなロートル〈老頭児〉にはたしてまともに務めができるのであろうかと、内心気にもなり、引け目も感じたのであったが、この史学科には私より一歳年上の先生が二人もおられるとわかったとき、大いに安堵の念を覚えたのであった。そのお-人の栃木先生が退職なされることになった。まだこれから何年もご一緒させていただけると思っていた私にとっては、この突然の御決断は驚きであり、まことに心寂しくならざるをえないことである。しかし、同時にそこはかとなく、先生は、かくあるべし、という手本を示されたようにも私には感じられるのである。早目の退職を決められたその御心境は、借越ながら、私に 形成過程にあるのだが、この件に関しては今後とも先生からのご教示を賜りたく、ここにお願い申し上げる次第である。先生にはあと三年間は専任教員としてご一緒いただけるものと考えていただけに、今回のご退職は誠に残念であるが、ゼミをはじめ先生のお力添えをいただかなければ立ちゆかない仕事も残されている。先生が早々にご体調を回復されるとともに、末永く私どもにご指導いただけることを願うものである。
栃木利夫先生を送る 栃木利夫先生を送る河内祥輔せっかく史学科に入学したにもかかわらず、歴史学とは関係のない教養科Ⅱばかり受講しなければならず虚無的になっていた私にとって、二年生になり受講することになった栃木先生の東洋史概説は、まさに「救い」の講義であった。当時の私は中国近代史を専攻したいと希望していたため(なぜかその後アメリカ史研究となってしまったが)、ようやく勉強したいことが学べると意気込み、先生の講義には特に熱心に取り組んだSもりであった)。そして一年間の講義を受講し終え、試験を受けた結果先生からいただいた成績は、(なぜか?まさかの)Bであった。それまで受け取る成績は、良くても悪くても、すべて「想定内」を通してきた私は、この結果に当惑した□どこがまずかったのか?どうしても気になったが、なかなか確かめる勇気を持てなかった私は、卒業して一○以化も経過したあるとき、ついに先生に「どうして私はBだったのでしょう?」と伺った。すると先生は「あれ?A も実感として推し測ることができるように思われなくもない。おそらく先生は今、一屑の荷を降ろし、来し方を静かに振り返っておられるのではなかろうか。短い期間ながら、先生の流厚で篤実なお人柄に接する機会に恵まれたことは、幸せというほかはない。先生のお導きに感謝し、一層の御活躍をお祈りするばかりである。
成績をめぐる繰り一一一一口
九
佐藤
偏差値絶対の受験勉強にやられ、登校拒否児だった私は、大学にも将来にも希望を感じなかった。史学科を選んだのも、過去の墓場に埋もれてしまいたい。それだけだった。ところが、栃木先生の「東洋史」講義第一日Ⅱ、先生は開口一番「私は渡辺真知子の”迷い道〃が好きで、この〃現在過去未来“と一言う順番がいい。 じゃなかった?」とこともなげにおっしゃられた。「いいえBでした!」しつこい私は少し食い下がったが、学生時代に中同近現代史の研究会を組織した際、お忙しいなか時間を割いて指導してくださった恩師に、こんな繰り一言をいつまでも一言うのは潔くないなと思い直し、結果を粛々と受け入れることにした(はずであった)。それでも、今またこうして、先生がご退職なさるという特別な機会に、潔くない繰り一一一一口を書いている。栃木先生、これが私の先生に対する、そしてその先生の学生であった回分に対する強いこだわりだということを、どうかご理解卜さい。先生が法政大学にいらっしゃらなくなると、そこの学生だった自分も記憶のかなたに消えていきそうで、本当に寂しいです。私は今でも、実力もないくせに先生に評価されたがっていたあのころの懐かしいn分を引きずりながら、毎週趾校へ通っています。(八三年度卒、法政大学兼任講師、大妻女子大学教且) 法政史学第七十一号「迷い道」
hiIlll 忠子
現在がまず一番に来て、現在を理解するために過去を学ぶ、そして過去の経験がよりよい未来を築く道標となる」と。この一言葉は墓場で不貞寝していた私を叩き起こした。在学中からⅡ中学院で中脚語を学び、川年時に雲南氏族学院に短期制学。満州図を避けたつもりが、逆に昆明で抗日戦争の生々しい歴史を学ぶことになった。卒業後向学院で一年日本語教師を務め、その後、米国マサチューセッツ州立大学大学院にて多文化(反人種差別)教育、外凶語教育で修lを取得。九七年からノースカロライナ州立大学でⅡ本語講師を務めている。リベラルなマサチューセッツから保守的で人種差別の強い南部へ。この相違を理解する為に奴隷制、キリスト教史、南北戦争の歴史を学び直す。9.n.テロより自分の無知にショック。中東史や米国外交政治史の本を漁り読む。そして、問。先行き不明な世界で、微力な語学教師に出来ることは何か?ゲームやアニメが大好きな学生達の間川を広げ、広い世界に誘い、語学習得だけでなく、異文化、異人種に対して寛容性を持ち、平和な社会建設に貢献出来る人間を育てることだろう。渡米一三年が過ぎた。しかし、未だに毎日が未知との遭遇、学びのⅡ々である。何を読んでも、全てが耐向いほど縦横に地の果てまで繋がっていることに気づく。連Ⅱ仕事に草の根ボランティアに駆けⅢる私の胸の中で「現在過去未来」は今も大切な礎であり、私の学生に送るメッセージでもある。栃木先生、歴史は本当に現在未来への架け橋でした。溢れる感謝を込めて。(八三年度卒、ノースカロライナ州立大学常勤Ⅱ本語講師)
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学生生活に終止符を打って十五年ほど経つと、往事がとても懐かしく思われる□法政での学生生活において栃木先生は忘れ得ぬ恩人のおひとりである。当時の法政は、一~二年次が教養科目中心のカリキュラムで、高校生の頃から中国近現代史に関心を持つ私にとってはとても辛いものであった。開講科目がなくてもやりたいことがあれば、自分で学べばよいとは、今になって思うことで、当時の私は他者に責任を転嫁しようとする愚行を繰り返し、精神が荒んだ。その荒れた生活の中、唯一先生の人文特講が癒しの時間であった。兎角授業づくりに乏しい方が多い大学の先生のなかで、栃木先生の授業に対する良心的な姿勢が、穏和な人柄とともに印象に残っている。|年をダブリ、教養課程を三年で終えた私は、学部の山名弘史先生のゼミに入れてもらった。第一校舎囚階の研究室で、遅くまで学問に打ち込まれる山名先生をはじめ、お隣の考古学研究室の伊藤先生や院生の方々に大層お世話になった、諸氏には学問に本気で取り組んでみたいと考えるきっかけを与えていただいたような気がする。きっかけが学部ゼミであったなら、その後の卒論執筆、大学院進学等の進展は、ひとえに栃木先生のおかげであったと今でも激しく感謝している。
栃木利夫先生を送る 栃木先生のこと吉原伸行 ご承知のように、戦後のわが国における中国近現代史研究は、中国共産党と毛沢東に関するものがほとんどであった。栃木先生も執筆者の一名である論文集『中国国民政府史の研究』(中国現代史研究会篇)は、私が初めて読んだ専門論文集である□この本は「反動」の一言で捨て置かれた巾国近現代史のもう一つの側面を私に気づかせてくれた座右の書である。そこから、先生には公私にわたって様々な薫陶をうけた。方法論、研究史、史料読解、それと何より役だったのが研究会への参加を促して下さったことである。先生はいつも偉ぶらず、研究者としての悩みや、ご自分の学生時代、下積み時代の苦労話も臆せず聞かせて下さった。当時の先生は前橋からの遠距離通勤に加え年齢的にも相当しんどそうに思われることが多かったが、研究への情熱と後進を育成せんとする気概に満ちていたように思われる。先生本当にごくろうざまでした。これからは、山積する研究外の雑務もなくなるはずです。先生なら、定年後に何もすることがないというような寂しいことはないはずです。存分に人生をお楽しみ下さい。(九○年度文学部史学科卒、英数学館中学高等学校教諭[広島二私が大学に入学して最初にお邪魔した研究室が栃木先生のお部 「送る言葉」に代えて
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竹茂教
屋でした。当時は八○年館にあり西洋史の中村純先生と相部屋だったのですが、中村先生のスペースをかなり〃浸食〃しているにもかかわらず書架に収まりきらない程の本があり、文字通り本の山でした。〃ピカピカの一年生“だった私はその量にすっかり圧倒されるとともに、「大学の先生の研究室とはこういうものなのだな」と鮮烈な印象を受けたことを、今でもよく覚えています。お部屋に伺うことになったのは、栃木先生の教養課程の特識(ゼミ形式)で発表をすることになり、そのレクチャーのためだったと記憶しています。栃木先化は報土、を行う学生と必ず謂前打ち合わせの時間を設定し、様々な参考図諜や資料を引き合いに川しながら丁寧な説明を施してくれていました。そんな中で、栃木先生の気さくさや中国・アジアヘの情熱を感じた学生は多かったと思います(もちろん私もそんな学生の一人であり、栃木先生とお会いしたことが、中国やアジアへの関心を深める大きなきっかけとなったのでした)。そのような栃木先生がこの度退職なさるとのことで、本淵に残念でなりません。ただ、完全に引退なさるというわけではなく、来年度も史学科での州織をご予定とのこと。ご体調の問題などもあろうかとは存じますが、ぜひ今後とも、可能な限り長く、中川近代史ひいてはアジア近代史の楽しさを学生に教え続けていっていただきたいと願っております。本来ご退職を記念すべきこの場においてぶしつけなこととは存じますが、あえて慰労の言葉ではなく私の願いを記すことをもって、栃木先生への「送る言葉」に代えさせていただきます。 法政史学第七十一号
私の栃木先生との出会いは一年次の学科面接でした。高校を州たばかりで来京にでてきたのも初めての私に、栃木先生の優しい笑顔が安心感をあたえてくれたことを今でもよく覚えています。それからはゼミの決定までに悩むこともなく、Ⅱ本史を学ぶために大学にきた私でしたが、より広い視野で学びたいと思うようになり栃木先生のゼミを選びました。私は一年の頃、n分の狭い考えに凝り固まり、持論を正当化するための対立意見批判しかできなかったように思います。しかしそれだけではなく、双方の相違点を認めていくことも大切であるということを私は栃木先生から学びました。今あの当時を振り返ると、栃木先生との出会いが自分の成長へのターニングポイントだったのだろうと思います。この考え方の変化は、大学時代の私の大きな財産です。卒業前に先生は私に「考えが柔軟になったね」という言葉をかけてくれました。しかしそれは先生の薫陶を受ける中で変化させることができたのだと思います。先堆が与えてくれたものすべてを栂に、今も私は中学校というn分の選んだ舞台で精一杯がんばっています。きっと栃木先生は、私だけでなく関わってきたすべての人に、私にしてくれたように優しく諭すように接し、良い方向へと導いてくれていたのでしょう。これからは自由になった 恩師に贈る一一一一□葉 (九七年度卒、社会科学研究科博士後期課程)
前田友之
入学当初から東洋近現代史を志望していた私でしたが、栃木先生が授業でおっしゃっていた言葉にさらに感銘を受けたのです。「歴史の認識は一つではない。今あなたが生きているこの時代も歴史上の一幕なのです。起きた事柄は一つですが、その人におかれた状況・見た人の捉え方で、まったく違う事実として認識されるのです。だから歴史は過去のことを学ぶだけのものではありません。今を生きるために学ぶ学問なのです。」と。私は大学時代、アジアを中心にバックパッカーとして数多くの国を旅し、また国際支援のNPO法人に参加し、文化や思想に触れてきました□そこでは様々な歴史認識が存在し、また意見を求められることがありました□そこにおける私の思想の根底には、「生きた歴史」がありました。相手を否定するのではなく、先ず相手の意見を聞く、この柔軟な考え方を持てたことによって、私は今を生きるアジアの若者と意見を交わすことができましたnlnm奔放なゼミ|期生 と一一一一口えます。 時間をn分のために使ってください。お体に気をつけて次の舞台でもがんばってください。本当にありがとうございました。長い間お疲れ様でした。(○六年度卒中学校教諭)
私の大学時代において、栃木教授との出会いはあまりに大きい
栃木利夫先生を送る 栃木教授との出会い植田香織 であったにも関わらず、研究テーマをディスカッション形式で決めるなど、各人の興味を尊重した形で常に私たちを優しく導いてくださったことを心から感謝しています。栃木教授から学んだことを糧に、これからも私たちは頑張ってまいります。これからもお体に気をつけて、新たな場でご活躍されることを祈っております。(○六年度卒)
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