『天神信仰編年史料集成‑‑平安時代・鎌倉時代前期 篇‑‑』訂正増補(稿)
著者 竹居 明男
雑誌名 人文學
号 182
ページ 25‑70
発行年 2008‑03‑15
権利 同志社大学人文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011358
﹃ 天 神 信 仰 編 年 史 料 集 成 │ │ 平 安 時 代 ・
鎌 倉 時 代 前 期 篇 │ │ ﹄ 訂 正 増 補 ︵ 稿 ︶
竹 居 明 男
はじめに
本稿は︑拙編著﹃天神信仰編年史料集成︱平安時代・鎌倉時代前期篇︱﹄︵国書刊行会︑平成十五︵二〇〇三︶年
十二月二十五日刊行︶の増補訂正箇所を一括提示したものである︒拙編著刊行より︑実質約四年余りが経過したが︑
その間に気づいた事柄︑あるいはその後の研究書や関連資史料の刊行等によって訂正増補を要する事柄などを︑ここ
に整理・集成した成果である︒この中には︑拙編著の前段階として小部数刊行した全三冊の報告書作成途中に紛失し
たフロッピー・ディスク︵一一〇六〜一二四九年の分を収録︶が︑平成十七︵二〇〇五︶年五月九日︑研究室の移動
にともなって出現したので︑今回改めて︑そこに収録されていたデータを基に増補したものも含まれている︒
なお訂正増補の箇所の中には︑筆者の担当する大学院科目﹁中世文化史特講﹂の受講生堀井佳代子さん︵現︑同志
社大学大学院文学研究科博士後期課程在籍︶の指摘によるものがある︒記して︑感謝の意を表したい︒
― 25 ―
﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
****
本稿の体裁は︑右拙編著に準拠しているが︑一々の項について︑★記号の直後に︑新規立項︑本項全体を左記にさ
しかえ︑史料追加︑注記追加︑傍線部追加などの訂正増補の趣旨を記しているので︑意のあるところをお汲み取りい
ただき︑この機会に改めて識者の御示教をお願いする次第である︒
史料典拠一覧︵追加︶
あ安楽寺別当次第︵太宰府天満宮所蔵︶︹神道大系・太宰府︺
し神皇正統録︹続群書類従︺
延喜九年︵九〇九︶
四月四日左大臣正二位藤原時平薨去︒これは菅原道真の霊の祟りという︒★史料追加︵本項末尾に︶
︹神皇正統録上・六十代醍醐天皇︺
同︵延喜︶九年己巳歳︑本院左大臣時平公︑故菅丞相之祟ヲ受病痾ニ沈給︑仍浄蔵貴所ヲ請而加持セシム
ルノ処︑白昼ニ青蛇二時平大臣左右之耳ヨリ頭出︑浄蔵父清行ニ示云︑我天帝告纔侫之怨報ント︑而貴子
浄蔵貴所法力ヲ以テ我ヲ押ル︑願ハ厳誡ヲ加給云々︑之ニ依テ浄蔵貴所ヲ諌而潜ニ去︑纔門ヲ出ルニ時平
大臣即薨給︑于時年三十九歳︑ ﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
― 26 ―
延喜十四年︵九一四︶
五月二日この日の左京大火は︑菅原道真の霊の祟りという︒★新規立項
︹神皇正統録上・六十代醍醐天皇︺
同︵延喜︶十四年甲戌五月二日︑京家六百十七宇焼失︑是菅丞相霊之祟ニ依テ也︑
※大日本史料一ノ四︑六〇八〜九頁︑参照︒
延喜十七年︵九一七︶
十二月一日この日の東大寺火災は︑﹁北野天神﹂の仕業という︒★新規立項
︹東大寺縁起
=
続群書類従二七上︺醍醐天皇御宇延喜十七年十二月一日︑当寺大講堂并三面僧坊焼失︑于時御門頓有騎馬之行幸︑着御于佐保
河北岸︑炎火収燼向北還御︑爰僧満有修学住侶持斧登大仏殿伐北壁︑大風吹出免火□□□今炎上者︑北野
天神奉恨朝家示此災之由︑日蔵上人感金剛蔵王之告云々︑
※大日本史料一ノ四︑九四一〜二頁︑参照︒
延喜二十三年
=
延長元年︵九二三︶三月この月︑平安京に雷電おびただし︒菅原道真の霊の祟りという︒★新規立項
︹神皇正統録上・六十代醍醐天皇︺
延長元年癸未歳春三月︑王城夥雷電︑洛中之諸人太以震恐︑是菅丞相霊之祟ニ依也︑
― 27 ―
﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
延長七年︵九二九︶
七月二十六日この日の京都大風洪水は︑菅原道真の霊の祟りという︒★新規立項
︻大日本史料一ノ六︑一八九〜九〇頁︼
︹神皇正統録上・六十代醍醐天皇︺
同︵延長︶七年己丑歳︑菅丞相霊之祟ニ依テ王城洛中大ニ雷電而雨荒風烈︑而世□闇之如大洪水出家々
ヲ︑漂京白河ノ人民多以溺死︑
※日本紀略・扶桑略記の記事は省略︒
延長八年︵九三〇︶
六月二十六日宮中清涼殿に落雷し︑大納言正三位藤原清貫・右中弁従四位下平希世等震死する︒また醍醐天皇
も不予となる︒★史料追加︵本項末尾に︶
︹神皇正統録上・六十代醍醐天皇︺
同︵延長︶八年庚寅歳夏︑雷電夥鳴震而遂大内清涼殿ニ落︑此時大納言藤原清貫
鑄装束ニ雷火
!
付︑之ニ依テ悶譟ト雖消ス︑而遂焼死ス︑右大弁平希世ハ心剛ニ而儀勢ヲ現之処︑五体直ニテ倒死ス︑近衛忠包
"
髪ニ火付而焼死ス︑紀蔭連烟ニ咽絶入云々︑
承平五年︵九三五︶
三月六日この日の延暦寺焼亡は︑菅原道真の霊の祟りという︒★新規立項
︻大日本史料一ノ六︑九〇四〜九頁︼ ﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
― 28 ―
︹四大寺伝記・延暦寺上︺
朱雀院治︑承平五年︿乙未﹀三月十六日︵ママ︶︑中堂以下諸堂僧房四十余个所焼失︑中堂本尊奉取出
之︑是依菅霊也云々︑
︹神皇正統録上・六十一代朱雀院︺
同︵承平︶五年乙未三月六日︑比叡山中堂︑菅丞相霊之祟ニ依テ焼亡︑
※日本紀略・扶桑略記ほかの史料は省略する︒
天慶三年︵九四〇︶
七月十六日道真の霊︑これより先︑この年に﹁あや子﹂に託宣があり︑この日に右近馬場に来現する︑との
説︒★史料追加︵本項末尾に︶
︹神皇正統録上・六十一代朱雀院︺
同︵天慶三︶年七月十六日︑天満天神始而右近馬場ニ現給︑是下京七条之坊ニ住処之婢女文子ニ詫宣而我
右近馬場ニ棲ト欲云々︑爰其女甚貧賎而宮社ヲ営事不能︑依纔家側ニ祠ヲ構而之ヲ崇訖︑
天慶四年︵九四一︶
八月道賢上人︵日蔵︶︑吉野金峯山にて修行中頓死し︑十三日を経て蘇生するが︑その間に菅原道真の霊魂と
会見する︒★史料追加︵本項末尾に︶
︹神皇正統録上・六十一代朱雀院︺
同︵天慶四︶年秋八月︑道県沙門冥途ニ往︑是大和国金峯山ノ蔵王権現之教ニ依行也︑
― 29 ―
﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
天慶九年︵九四六︶
九月二十日菅原道真の霊︑大和初瀬山に影向するという︒★史料追加︵本項末尾に︶
︹菅神初瀬山影向記
=
続群書類従三上︺和州初瀬与喜山大明神者︑天満大神之霊祠也︑原于其本基︑朱雀院朝︑有神殿大夫武丸︑賦性冲擔︑不楽
世氛︑形雖俗相︑無畜妻拏︑殊断葷酒縛茆︑住長谷寺下︑多歳発勤︑精進勇捍︑堅猛難行︑為宗威験︑殊
勝達仏境︑心操通神明︑凡念誦加持︑則還生死魄︑伏散一切精霊︑加旃照知前生︑識未然事︑既而声価達
于朝廷︑一時主上不予︑勅使武丸持念︑則沈痾平安︑上大悦而賜五位退出矣︑時人称後役行者︑村上天皇
天暦元年九月十八日︑武丸夙夜在観音堂持念焉︑寅尅︑夢有烏帽布衣人︑謂丸曰︑我是大威徳神也︑自而
住此山︑値偶大聖︑丸覚後驚異︑感嘆終日矣︑至同月二十
#
俄計十六齢︑士客有︑日下河大山瀬初︑没︑其貌如前夕所夢︑彷徨于武丸宅前︑而后踞石上︑丸誓願視之︑姿相非直也人︑時客士起而徐歩︑漸向観音
堂︑北邁一町許︑至山上四衢道︑
陷畔帰︑之応饗欲丸︑矣息憩上石路下坐人︑勢労困有良︑欲清而水河宅
而餉来︑丸未還至︑客士飄々然︑不登大路︑褐坂直向観音堂︑攀昇溪畔小路︑丸追至道明上人廟前︑人事
言話︑供清饌︑客士有悦懌色︑与丸拝謁観音堂︑丸側侍伺見客士︑数剋礼懴念誦訖︑其夜半黒雲漫々
!
殿堂︑丸不克看客士︑寒毛卓竪甚驚異矣︑黒雲漸晴︑廻視客士︑既易前服而束帯衣冠︒俄有数万侍衛眷属︑
屯四面︑時瀧蔵権現神殿自開︑内有束帯神人︑率諸従者出来︑逢著客士︑相伸礼話︑相共上宝殿︑客士謂
瀧蔵権現曰︑我是右大臣正二位菅原某也︑遭纔遷鎮西︑是以為報其怨
"
︑起害心多損衆生故︑罪根深重︑痛受苦患︑望今住此山︑値遇大聖︑以除其報応︑願於此山頭︑許造一小社︑向後我易安容膝︑瀧蔵答曰︑ ﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
― 30 ―
我昔鎮坐当山︑然此境仏法流通之霊刹︑故守釈氏遺法︑為輔佐大聖化儀︑索居本郷︑交
!
閙塵︑今以当山奉譲大威徳神君︑永成地主︑大威徳神曰︑我於此山︑以何処住在焉︑瀧蔵遥指東山大松下曰︑彼松樹所
者︑為因曼陀羅峰︑宜断悪修善之地也︑二神乗雲︑大
"
#
跡去矣︑※本記事の日付は︑天暦元年九月二十日となっている︒
天慶十年
=
天暦元年︵九四七︶六月九日菅原道真の祠を北野に建てる︵北野天満宮鎮座︶︒★史料追加︵本項末尾に︶
︹神皇正統録上・六十二代村上天皇︺
天暦元年丁未六月九日︑天満天神︑右近馬場ヨリ北野移︑宮社之構尤纔也︑
天暦二年︵九四八︶
七月大和初瀬山に宝殿を造り︑北野天神を勧請︵長谷寺の鎮守社与喜天満宮創建︶︒つづいて本年九月二十日
には祭礼を始める︒★史料追加︵本項末尾に︶
︹菅神初瀬山影向記
=
続群書類従三上︺後至天暦二年七月︑武丸依神託造霊祠也︑蓋瀧蔵権現言宜断悪修善之地︑故号与喜山明神︑其郷里曰与喜
村︑与喜倭語
$
言宜也︑天暦九年︵九五五︶
三月十二日︵または十一日︶一説に︑この日に︑近江比良宮禰宜神良種の子太郎丸に神託がある︒★史料追加
︵本項末尾に︶
― 31 ―
﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
︹神皇正統録上・六十二代村上天皇︺
同︵天暦︶九年乙卯三月十二日︑天満天神︑近江国比良神主良種七歳之子御詫宣之事︑神詫之如ク王城之
北野ニ一夜之間ニ数千本之松生ス︑是ニ依テ朝日寺ノ沙門最珍ト七条ノ婢女文子ト力ヲ勠テ霊社ヲ建立︑
天徳二年︵九五八︶
三月三日大宰大弐小野好古︑安楽寺に曲水宴を始める︒★史料追加︵本項末尾に︶
︹安楽寺別当次第︵太宰府天満宮所蔵︶︺
或書云︑︵中略︶
一四度宴席内
︵中略︶
曲水︿村上帝﹀天徳二年︿戊午﹀三月三日︑小野好古始之︑
天徳三年︵九五九︶
二月二十五日藤原師輔︑北野社神殿屋舎を造増し︑神宝を献じる︒★史料追加︵本項末尾に︶
︹北野宮寺縁起取要︺
自天暦元年至天徳十三年之間︑造改御殿事五箇度︑回禄之中第五箇度之時︑九条右丞相造増殿舎︑奉宝
物︑
︹神皇正統録上・六十二代村上天皇︺
同︵天徳︶三年己未歳︑九条右丞相藤原師輔公︑北野天神之宮社ヲ改而大廈之構ヲ成︑神威ヲ崇ラル︑本 ﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
― 32 ―
地十一面観音之霊応也︑
︹二十一社記︺
鎮座ノ初︑九条右丞相︑新造ノ第ヲ取亘テ被造進ケリ︑其故ニヤ︑常社ノ体ニ不相似也︑
天徳四年︵九六〇︶
九月僧最鎮が︑北野右近馬場より内裏に雷電が落ちかかる夢を見て間もなく︑九月二十三日に内裏が焼亡す
る︒★新規立項
︹北野天神御記︵北野稾草第八所引︶
=
群書解題六︑一四二頁︺天徳四年九月ノ比︑最鎮カ夢ニ北野ノ上ヨリ黒雲一村引覆ト見ル程ニ︑雷電鳴リ出テ右近馬場ヨリ内裏ノ
上ヘ落ルカト見テ驚キ侍リシカ︑幾程モナクシテ九月廿三日内裏ニ焼亡出ケリ︑⁝⁝
※大日本史料一ノ十︑七六三〜六七頁参照︒
天徳五年
=
応和元年︵九六一︶二月十六日再建内裏の殿舎︑諸門の立柱がある︒この時︑内裏の柱に虫
襍い追料史★︒うとのるす現出が歌加
︵本項末尾に︶
︹北野宮寺縁起取要︺
自貞元々年至天元五年七箇年之間︑内裏焼亡及三箇度︑造営時神謌︑
応和四年
=
康保元年︵九六四︶是歳藤原佐忠︑安楽寺に六庚申を始め︑同寺東法華堂に高比荘を寄進する︒★史料追加︵天満宮安楽寺草創日
― 33 ―
﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
記の次に︶
︹安楽寺別当次第︵太宰府天満宮所蔵︶︺
或書云︑︵中略︶
一四度宴席内
︵中略︶
六庚申︿昔者国衙并府役季別三ケ度宛︑庚申者︑康保元年大弐佐忠
鑄始之︑花山院御宇寛和二年被寄
進府領上座郡内於治田︑於彼講経了︑子細見于大府宣﹀︑
安和三年
=
天禄元年︵九七〇︶是歳某︑壱岐島分寺・中浜荘を安楽寺に寄進する︒★補注追加
※なお安楽寺別当次第︵太宰府天満宮所蔵︶には︑﹁或書云︑菅家︑︵中略︶始着壱岐島給︑︿村上帝﹀天徳二
年︑都督寄進島分寺︑自彼島着中浜庄給︑︿円融帝﹀天禄元年︑都督寄進中浜庄︑奉崇老松於白浜﹂との記
事があり︑年代に相違がある︒
天禄四年
=
天延元年︵九七三︶三月十三日﹁北野天神宮﹂炎上し︑長門国をもって造営させる︒★史料追加︵本項末尾に︶
︹神皇正統録上・六十四代円融院︺
天延元年癸酉三月十三日︑北野宮尽焼亡︑ ﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
― 34 ―
天延四年
=
貞元元年︵九七六︶十一月七日大宰府安楽寺の例に准じ︑菅原氏人に﹁北野寺﹂を領知させる︒★傍線部追加
︻大日本史料一ノ十六︑八二〜八四頁︒大宰府史料補遺︑一〜二頁︼
寛和二年︵九八六︶
是歳大宰府︑安楽寺に栗田荘及び筑前国上座郡の府領田等を寄進する︒★史料追加︵天満宮安楽寺草創日記の
次に︶
︹安楽寺別当次第︵太宰府天満宮所蔵︶︺
或書云︑︵中略︶
一四度宴席内
︵中略︶
六庚申︿昔者国衙并府役季別三ケ度宛︑庚申者︑康保元年大弐佐忠
鑄始之︑花山院御宇寛和二年被寄
進府領上座郡内於治田︑於彼講経了︑子細見于大府宣﹀︑
正暦四年︵九九三︶
六月二十六日故右大臣正二位菅原道真に左大臣正一位を贈る︒この日︑勅使菅原幹正︑大宰府安楽寺に下向す
る︒★史料追加︵本項末尾に︶
︹神皇正統録中・六十六代一条院︺
正暦四年癸巳五月廿日︑筑前国太宰府天神ニ太政大臣正一位之官位ヲ贈︑
― 35 ―
﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
※ただし本記事は︑左大臣を太政大臣に誤る︒本年閏十月二十日条︑参照︒ 正暦六年
=
長徳元年︵九九五︶正月二十一日大宰大弐藤原有国︑安楽寺廊内で内宴を始める︒★史料追加︵末尾に︶
︹安楽寺別当次第︵太宰府天満宮所蔵︶︺
或書云︑︵中略︶
一四度宴席内
内宴︿一条帝﹀長徳元年︿乙未﹀正月二十一日︑大弐有国
鑄始之︑
長徳二年︵九九六︶
十一月六日北野社社殿焼亡する︒★史料追加︵本項末尾に︶
︹神皇正統録中・六十六代一条院︺
長徳二年丙申十一月六日︑北野社焼︑
寛弘八年︵一〇一一︶
正月この月ならびに二月・八月に︑安楽寺真言院において︑中宮彰子御願の五壇三箇度百五日の御修善を行な
う︒
︹安楽寺別当次第︵太宰府天満宮所蔵︶︺
安楽寺真言院中宮御願御修善所
寛弘八年正二八月︑五壇三筒︵箇︶度百五筒︵箇︶日夜之間︑勤修御修善 ﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
― 36 ―
不動明王阿闍梨大法師叡実
行事座主大法師住算知事法師康増
降三世明王阿闍梨大法師景雲
行事別当大法師安果︵杲︶目代法師
閇応
右︑件阿闍梨二口且言上府解且給職号了︑
軍荼利法伝燈大法師位安澄
行事上座大法師安豪勾当法師
大威徳法伝燈大法師位安円
行事寺主大法師祥静専当法師仁証
金剛薬刄法伝燈大法師位
行事都維那法師安廉預法師鎮□
右︑正月二月八月三筒︵箇︶度十五壇恒例御修善行事米
期日以前各壇行事可請勤︑
以前御修善︑奉為中宮安穏増長︑宝寿毎月毎日
阿闍梨二口・供僧三口共致精誠︑一月内以六日分︑五番三時供養五大等法次第勤修︑但正二八月三ケ度
各々五壇御修善次第日数并百五ケ日夜殊以勤修︑件料物筑前・筑後・肥前・肥後国国司并庄々所弁也︑於
今如御教書︑則令御願僧弥成激励︑令件国国司究下其料物院領庄例進五穀薪炭等︑無妨令調進之︑
― 37 ―
﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
全勤修御願︑
寛弘八年正月日都維那法師安康
寺主大法師祥静
上座大法師安豪
検校大法師
別当大法師︿在判﹀
座主大法師︿在判﹀
左大臣殿仰云︑五壇御修善料故師時支配諸国︑令成其勤之由︑先日所聞食也︑而国々司并庄々預不致事
勤︑動致闕怠云々︑院司殊加其催︑令期可令修御願︑若有懈緩国︑早注其由︑言上随為仰下者︑仰旨如
此︑謹言︑
三月一日左衛門権佐相︿在判﹀
安楽寺真言院所司
長元十年
=
長暦元年︵一〇三七︶六月八日安楽寺の訴えにより︑大宰権帥藤原実成が辞表を提出︒ついで解任される︒★傍線部追加
︻史料綜覧二︑一一二頁下︒大宰府史料五︑九八頁︑同補遺︑二〜一一頁︼ ﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
― 38 ―
寛徳三年
=
永承元年︵一〇四六︶七月七日大宰権帥藤原経通︑安楽寺に七夕宴を始める︒★傍線部追加︑ならびに史料追加︵末尾に︶
︹安楽寺別当次第︵太宰府天満宮所蔵︶︺
或書云︑︵中略︶
一四度宴席内
︵中略︶
七夕︿後冷泉﹀永承元年︿丙戌﹀七月七日︑正二位行権中納言兼治部
鑄藤原朝臣経通始之︑
是歳大宰権帥藤原経通︑安楽寺に二季勧学会・五節句を始める︒★史料追加︵末尾に︶
︹安楽寺別当次第︵太宰府天満宮所蔵︶︺
或書云︑︵中略︶
一四度宴席内
︵中略︶
二季勧学会︑永承元年経通
鑄始之︑︿文人廿人︑請僧廿人﹀︑
饗膳役者筑後国楽得別符役︿給人大浦法橋信快﹀︑
天喜四年︵一〇五六︶
五月本月付の東大寺起請案に﹁依安楽寺憂︑被取帥ヲ﹂例が引き合いに出される︒★傍線部追加
︻大宰府史料補遺︑二〜一一頁︼
― 39 ―
﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
天喜六年
=
康平元年︵一〇五八︶是歳大宰大弐高階成章が︑安楽寺大門に﹁御霊﹂を祀る︒★新規立項
︹天満宮安楽寺草創日記︺
御霊︿大門︑供奉良勢︑康平元年︑大弐従三位高階朝臣成章奉崇之﹀︑
康平五年︵一〇六二︶
十一月九日この日に進発した宇佐使橘為仲が︑宇佐八幡宮奉幣よりの帰途に︑安楽寺に参詣する︒★新規立項
︻大宰府史料補遺︑一二〜一五頁︼
︹橘為仲朝臣集︺
安楽寺にまゐりて︑かまどの山けぶりをみて
まだしらぬ人のみるべきしるしにやかまどの山に煙立つらむ
※進発に関する清
!
ど略省は事記のな眼使佐宇代歴︑抄︒康平年中
某歳安楽寺住僧の大法師順源が歿する︒★傍線部追加
︻大宰府史料補遺︑一五〜一六頁︼
延久年中
某歳安楽寺学頭の大法師頼暹が歿する︒★傍線部追加
︻大宰府史料補遺︑一六頁︼ ﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
― 40 ―
康和四年︵一一〇二︶
八月四日北野祭がある︒★史料追加︵本項末尾に︶
︹為房
鑄
=
記本年八月三日条古事類苑・神鐵部三︑一六二五頁︺
自右府殿下︑遣所司忠政︑為御使被仰云︑明日北野奉幣可発遣歟︑申云︑尋代々例︑春日神馬之後︑被立
諸社神馬︑又春日神馬︑自春可被発遣之由︑見長徳御堂記云々︑然者明年二月以後︑可被奉行歟︑
康和五年︵一一〇三︶
三月十日同日付の筑前国藤井今武田地売券の加署者の一人に﹁天満宮権大宮司小野朝臣﹂の名が見える︒★傍
線部追加
︻大日本史料三ノ七︑四一二〜一四頁︒大宰府史料補遺︑二三〜二四頁︼
長治二年︵一一〇五︶
三月十日同日付の府老藤原延末田地売券の加署者の一人に﹁天満宮権大宮司小野朝臣﹂の名が見える︒★傍線
部追加
︻大日本史料三ノ八︑四四一〜四二頁︒大宰府史料補遺︑二四〜二六頁︼
長治三年
=
嘉承元年︵一一〇六︶四月二十九日関白藤原忠実︑北野社における新写大般若経供養ほか種々の﹁御祈﹂を行なう︒★注記追加︵本
項全体︶
※大日本史料三ノ八︑五七一〜八〇頁参照︒殿暦・永昌記・類聚世要抄の関係記事は省略︒
― 41 ―
﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
十月三日御悩により︑伊勢神宮以下十社︵うち一社は北野︶に奉幣がある︒★本項全体を左記にさしかえ
︻大日本史料三ノ八︑八一八〜一九頁︼
︹中右記本年九月二十七日条︺
有奉幣定︑左大将被奉行︑是臨時御祈依可有奉幣十社也︑行事権左中弁時範朝臣云々︑
︹中右記本年十月条︺
三日︑︿辛酉﹀︑天陰雨下︑今日臨時有奉幣十社︑依為使巳刻許参内︑上
鑄春宮大夫被奏宣命草之間也︑予
密々行向八省︑︵中略︶漸及申刻︑上
鑄参具︑物幣尋被弁事行召︑否々被使問被︑記外召先︑省八渡了
由︑次内記取伊勢宣命立之後渡東廊︑祭主以下給幣物︑給使王於宣命︑帰着本座之後︑諸社使被立︑石清
水︿下官﹀︑賀茂︿源宰相中将能俊﹀︑松尾︿新宰相中将家政﹀︑平野︿新宰相顕実﹀︑稲荷︑春日︑
鐵園︑
日吉︑北野︿已上殿上人︑皆悉四位﹀︑或社者当方角︿辰巳戌亥﹀︑或社者殊被祈申︑主上従去月十九日︑
玉体頗不例︑仍被行御卜之処︑件方角神社成祟︑仍殊有此奉幣也︑宣命之趣︑随社各異歟︑下官給宣命︑
出従待賢門︑︵以下省略︶
四日︑夜参内宿侍︑今日僧侶参御前御読経︑被入御前︑雖奉幣後斎不例御之間︑召僧侶︑且是依有先例
也︑
※殿暦・永昌記の関係記事は省略︒
十二月十八日散位従五位上菅原陳経︑﹃菅家御伝記﹄を著す︒★傍線部追加
︻大日本史料三ノ八︑九九八〜九九頁︒大宰府史料補遺︑二七〜三三頁︼ ﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
― 42 ―
嘉承二年︵一一〇七︶
正月八日権中納言藤原宗忠︑円宗寺参詣の途中︑北野社の前で下車する︒★傍線部追加
︹中右記同日条︺
早旦従内退出︑申刻許欲参御斎会之処︑蔵人弁為隆送書状云︑円宗寺修正上
鑄可勤仕者︑申承了由︑︵中
略︶
予従此参円宗寺︑相具外記師安・史正助等︑於北野前暫下従車︑戌刻参入円宗寺金堂︑︵以下︑省略︶
五月十一日◆﹁世間不閑御祈﹂として︑二十二社に奉幣がある︒★傍線部追加
︻大日本史料三ノ九︑二〇三〜〇四頁︑及び二一一〜一二頁︼
︹菊亭文書一・勘例﹁祈年穀奉幣雑事﹂︺
五月十三日昨日︵?︶卒去した信濃守高階為行の母は︑安楽寺別当の女という︒★傍線部追加
※大日本史料は︑中右記の﹁安楽寺別当﹂に﹁︵増守︶﹂と傍注する︒為房
鑄記寛治六年二月二十九日条ほかの
関連史料は省略︒
七月十九日六月二十一日の京都諸所落雷以来︑怪異多し︒堀河天皇が崩御したこの日︑権中納言藤原宗忠が︑
﹁延長八年例︵
=
同年六月二十六日の清涼殿落雷︶﹂を想起して﹁甚不吉也﹂と︑日記に書き留める︒蚯延長八
年六月二十六日条★新規立項
︻大日本史料三ノ九︑二五八〜六一頁︼
︹中右記本年六月条︺
― 43 ―
﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
廿一日︑⁝⁝今日午後天俄陰︑雨脚甚︑雷電数十度︑其声勝例︑天下大驚︑申時許雷落京極殿堂北廊上︑
火炎高昇︑堂舎焼亡︑乍驚馳車参京極殿︑煙満東西不可入門︑只於法成寺西大門下︑相待火滅︑北政所御
ママ堂︑并南北廊中門︑西大門︑悉為
!
仲厳荘︑也営造所間任予伊臣朝泰燼年前堂件︑也出取被奉許仏但︑過差不可記尽︑今為雷火︑一日為煙︑誠哀哉︑︵中略︶後聞︑雷落所々︑多以損人︑或所折樹︑或所損人︑
如此事及数十ケ所云々︑皇居堀川院南山大樹折損︑疑是雷所為歟︑凡未有如此事︑誠以希有也︑︵以下︑
省略︶
廿五日︑終日候御前︑⁝⁝蔵人弁為隆下感神院恠異文︑今日可行軒廊御卜者︑︵中略︶則官寮参着︑︵中
略︶又家栄持来恠異二ケ条︑︿去廿一日申刻雷落踏折鳥居事︑同廿二日霊木自然折損事﹀︑官卜云︑公家御
薬︑天下疾疫︑口舌者︑寮占云︑神事不浄︑疾疫︑口舌者︑但二ケ条中雷鳴条︑官寮共重者︑︵以下︑省
略︶
︹中右記同日条︺
卯刻許御悩危急也︑︵中略︶主上辰刻許御気已断給也︑︵中略︶此間恠異事︑
⁝⁝
此六月廿一日雷電落天下廿所許︑就中折皇居樹︑是一之恠也︑思延長八年例甚不吉也︑件雷落
鐵園鳥居︑
仍軒廊御卜被行之処︑公家御薬者︑︵以下︑省略︶
※殿暦・百錬抄の関係記事は省略︒
八月四日堀河天皇崩御︵本年七月十九日︶により︑北野祭︑停止される︒★全体注記追加 ﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
― 44 ―
※殿暦の関係記事は省略︒
天仁二年︵一一〇九︶
二月二十五日吉祥院において︑初めて法華八講を修する︒★史料追加︵本項末尾に︶
︹神皇正統録中・七十四代鳥羽院︺
同︵天仁︶二年二月廿五日︑始而北野御忌日ヲ行ハル︑
天仁三年
=
天永元年︵一一一〇︶七月二十八日摂政右大臣藤原忠実︑賀茂・松尾両社に封戸を寄進するも︑
鐵園・北野両社は延引する︒★史料
追加︵本項末尾に︶
︹朝野群載第七﹁摂
!
家﹂︺割封戸奉寄諸社
奉寄封戸拾烟事
尾張国五烟播磨国五烟
右割給封内︑奉寄石清水八幡宮如件︑
天永元年十一月︹ママ︺廿日摂政右大臣正二位藤原朝臣
鐵野烟五波阿︑烟五後備︿烟十社北園﹀烟五波阿︑烟五芸安︿烟十社﹀
賀茂下社十烟︿尾張五烟︑美作五烟﹀賀茂上社︿備後五烟︑阿波五烟﹀
松尾社︿尾張五烟︑備後五烟﹀
― 45 ―
﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
已上書様效上︑件寄文摂政之後︑各書分以下︑家司等被分進六社︑是前例云々︑
天永二年︵一一一一︶
八月四日内裏の
襍殿れを行なう︒★暦にを左記にさしかこ日穢をにより︑北野祭延五引する︒ついでえ
︻大日本史料三ノ十一︑三七六〜七七︑七八頁︼
︹殿暦本年八月条︺
三日︑癸巳︑︵中略︶頭弁午剋許従内来云︑此両三日所方有物香︑仍尋見之処有犬死︑余云︑早可奏院︑
頭則退出了︑還来云︑聞食了︑五日奉幣早可停止︑院同触穢︑明日北野神馬停止︑依穢也︑件社祭可有否
例︑有其沙汰︑外記師遠申云︑内蔵寮無其穢者可被行︑仍召蔵寮官人尋之処︑申状云︑越中守宗章成奉幣
料︑件宗章昨日候院︑頭弁同座︑然者蔵寮已為穢︑仍延引之由仰下了︑但於祭者付社被行之︑仍明日非神
事之由︑外記師遠所申也︑
四日︑甲午︑今日北野祭延引︑依内裏穢也︑但雖内裏穢時︑諸社祭皆被行之︑而今度内蔵寮其穢尤不審︑
仍被止了︑
天永四年
=
永久元年︵一一一三︶四月十五日興福・延暦両寺大衆の発向により︑伊勢神宮以下七社︵うち一社は北野︶に奉幣がある︒★本項全
体を左記にさしかえ
︻大日本史料三ノ十四︑一六〇〜六六頁︼
︹殿暦本年四月条︺ ﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
― 46 ―
十三日︑︿癸亥﹀︑⁝⁝依大衆沙汰頭弁来︑又雅兼来︑凡大衆事実無術歟︑今朝僧正許に送消息了︑︿大衆
事也﹀︑南北大衆競発間︑公家実無術御坐歟︑不便無極︑
十五日︑︿乙丑﹀︑天晴︑今日依大衆事七社奉幣也︑︿伊勢・八幡・賀茂・春日・日吉・
鐵園・北野等也﹀︑
殿上人為使︑於伊勢者如常中臣︑又別に伊勢・八幡・賀茂皆有御祈︑仰社司等︑於八幡者召別当於院被仰
云々︑
︹中右記本年四月条︺
十三日︑入夜従殿下有召則参入︑雖御物忌依召参御出居方︑是依南京大衆乱発事可制止由所遣惟信朝臣
也︑件間事等所被仰也︑
十四日︑︿甲子﹀︑従院有召則馳参︑雖御物忌依召参御前︑而南北大衆欲合戦間為世間大事︑可云合摂政被
仰旨︑又申殿下帰参院︑奏御返事帰家︑
十五日︑今日有奉幣七社︑上
鑄御文命宣見細子︑々云祈衆内大是︑弁人蔵事行︑臣大︑
七社
伊勢︑石清水︿左大弁﹀︑加茂︿大蔵
鑄﹀︑春日︿左中弁顕隆﹀︑日吉︑
鐵園︑北野︑
為平神人大衆乱発殊被祈申也︑
※永久元年記・長秋記・石清水文書等の関係記事は省略︒
永久二年︵一一一四︶
十一月二日本日付の︑福岡県四王寺山出土経筒銘に﹁安楽寺﹂の名が見える︒★傍線部追加
― 47 ―
﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
︻大宰府史料補遺︑三三〜三四頁︼
十二月二十一日荷前︒この日︑後田邑陵︵光孝天皇陵︶に向かった権中納言右近衛中将藤原忠通らの一行は北
野社の前で下馬したという︒★全体注記追加
※殿暦・本朝世紀等の関係記事は省略︒
永久四年︵一一一六︶
五月二十三日去る永久元年の北野行幸賞として︑真尊が権律師に任じられる︒★史料追加︵僧綱補任︵彰考館
本︶の次に︶
︹同右・裏書︺
真尊為正別当︑可蒙今度行幸賞︑而依申正員辞散位︑仍権別当頼延蒙此賞云々︑
永久五年︵一一一七︶
八月四日北野祭がある︒★傍線部追加
︻大日本史料三ノ十八︑三四四〜四五頁︼
永久六年
=
元永元年︵一一一八︶正月十二日菅原氏長者の在良︑氏挙に背いて安楽寺別当を競望した在殷・厳実を義絶する︒★全体注記追加
※尊卑分脈の関係記事は省略︒
五月二十二日関白藤原忠実以下︑院殿上に会し︑安楽寺別当補任にかかる延暦寺大衆下山の報を議し︑検非違
使等にこれを禦がせる︒★傍線部追加・訂正 ﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
― 48 ―
︻大日本史料三ノ二十︑一六〜一八頁︼
※中右記五月二十七日条︵ただし底本には当該条を欠き︑大日本史料に掲載する︶の関係記事は省略︒
五月二十八日仁和寺僧信永を安楽寺別当に任じる︒★傍線部追加
︻大日本史料三ノ二十︑二三〜二九頁︒大宰府史料補遺三四〜三五頁︼
八月七日掃部頭従五位下大江佐国︑菅公化現説話を筆録する︒
蚯
=
月線傍★条日八年八太元承天年六治部追加
︹菅家文草巻六奥書
=
日本古典文学大系︺大治二年︵一一二七︶
八月六日伊勢神宮以下五社︵うち一社は北野︶に神事の違例・不浄を注進すべきことを下知する︒★全体注記
追加
※中右記本年八月七日条も参照のこと︒
大治五年︵一一三〇︶
二月十八日◆祈年穀奉幣があり︑北野社奉幣使は菅原清能が勤める︒★傍線部追加
※中右記本年二月五日・十四日・十五日条の関係記事は省略︒
三月十三日松尾・北野両社行幸行事所始がある︒★全体注記追加
※長秋記同日条も参照︒
四月八日伊勢神宮以下九社︵うち一社は北野︶に奉幣して︑松尾・北野両社行幸を祈る︒北野奉幣使は菅原清
― 49 ―
﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
能︒★全体注記追加
※長秋記同日条︑ならびに中右記本年四月七日条の関係記事は省略︒
四月十九日権大納言民部
鑄ての方向につい問在い合わせる︒★所御藤言原忠教︑権中納源幸師時に︑北野行傍
線部追加
︹長秋記同日条︺
民部
鑄方歟経誦御有又︑哉向何消所在御幸行野北︑息︑
御所西向也︑有御誦経由︑答之︑
四月二十八日北野社に行幸がある︒北野別当忠尋を権大僧都に任じ︑同権別当信永を法橋に叙する︒★史料追
加︵北野宮寺縁起取要の次に︶︑ならびに注記の追加︵傍線部︶
︹公
鑄補任大治五年﹁藤忠教﹂条尻付︺
民部
鑄位︶賞幸行野北・尾松︵二︑正日︺カ八廿︹八十月四︑
※中右記所見の﹁直永﹂は信永の誤りと見られる︒僧官補任・華頂要略の関係記事は省略︒なお松尾社行幸
は︑これに先立つ二十五日に行なわれている︒
天承元年︵一一三一︶
八月八日藤原広兼︑保安五年二月頃より書写した﹃菅家文草﹄を︑この日に北野社に奉納する︒★史料追加
︵文草奥書の巻六の次に︶
︵巻七︶ ﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
― 50 ―
天承元年八月八日︑進納北野廟院︑今生之望已絶︑来世之果宜求︑匹夫之志︑神其尚饗︑霊粹令還本覚
之時︑必預化導矣︑
朝散大夫藤広兼︵自天承元年至藤広兼︑底本無之︑拠版本補︶
天承二年
=
長承元年︵一一三二︶十一月二十二日権大納言藤原実行が︑筑前国観世音寺領杷岐荘のことについて︑東大寺に送った本日付の書状
に安楽寺との相論のことが見える︒★注記の全文を左記にさしかえ
※把岐荘︵把木荘とも︶は︑筑前国上座郡内︑現福岡県朝倉郡杷木町内に所在した︵日本地名大辞典・福岡
県︶︒なお書状中の﹁新大納言殿﹂
=
﹁権大納言﹂を︑平安遺文は源師頼とするが︑大宰府史料や日本地名大辞典は藤原実行と解している︒また平安遺文二二〇七号参照︒
是歳太宰府天満宮境内出土の瓦に﹁天承二﹂年の銘が入ったものがある︒★傍線部追加
︻大宰府史料補遺︑三五頁︼
※大宰府史料は︑銘文を﹁□︵安︶楽寺︿天承二
!
承長に日一十月八︑は年二天歳おな︒るすと﹂﹀子壬次承と改元されている︒
長承四年
=
保延元年︵一一三五︶四月二十一日霖雨により︑臨時に二十二社に奉幣がある︒北野社奉幣使は藤原政業が勤める︒★傍線部追加
※中右記本年四月十九日・二十日条︑及び十三代要略の関係記事は省略︒
保延四年︵一一三八︶
― 51 ―
﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
七月十五日今日薨去した藤原経忠は︑安楽寺別当増秀の女を母とするという︒★新規立項
︹尊卑分脈・藤原氏道隆孫︺
経忠︿母法橋増秀女︑保延四四十五出家︑同年七十五薨︿六十四﹀︑号堀川中納言﹀
康治二年︵一一四三︶
三月十二日僧俊源を︑安楽寺別当に任じる︒★傍線部追加
※安楽寺草創日記の関係記事は省略︒なお俊源は興福寺僧で︑菅原在良の子︵尊卑分脈︶︒
天養二年
=
久安元年︵一一四五︶正月薩摩国庁︑同国国分寺が安楽寺領たることを無視する僧永修の妨げを停止させるよう︑国分寺留守所に命
じる︒★傍線部追加
︻大宰府史料補遺︑三六頁︼
久安三年︵一一四七︶
五月二十八日内大臣藤原頼長︑外記局所在の北野﹁神筆﹂の拝見方を大外記中原師安に問う︒
蚯本年六月十
二日条★本項全体を左記にさしかえ
︹台記本年五月条︺
廿七日己丑︑︵中略︶大外記師安︑仰可見所在外記局之神筆︿北野﹀之由︑此事︑先日申禅閤︑有御許
容︑但仰曰︑先可申請北野也︑︿此事︑未有先趾﹀︑︵以下略︶
廿八日庚寅︑︵中略︶今日︑召内蔵助賀茂周憲︑問奉幣於梅宮・北野︑及見神筆之由︑︿為御使来臨之次︑ ﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
― 52 ―
便令時信問︑依為家司也﹀︑申曰︑六月四日丙申︑梅宮幣︑同月十二日甲辰︑︿北野奉幣︑及見神筆﹀︑不
成勘文︑
十月二十三日某︑太宰府天満宮境内に如法経一部を埋納する︒★新規立項
︻大宰府史料補遺︑三七頁︼
︹経筒︵太宰府天満宮境内経塚出土︶墨書銘︺
父母為衆生
□法界
久安三年︿十月廿三日供養︑如法経一部﹀
┐│┘┌│└ 氏
仁平三年︵一一五三︶
三月二十七日雅仁親王の御子︵守覚法親王︶の仁和寺渡御にあたり︑一行が北野社の前を通過しなかった︒★
傍線部追加
︻史料綜覧三︑三一四頁上・下︼
︹兵範記同日条︺
若宮渡御仁和寺宮︑一院殿上人十五人︑依仰勤仕前駆︑下官候其中︑︿布衣﹀︑午剋出御︑︵中略︶自大炊
御門西行︑自大宮北行︑自一条西行︑自宮城西大路更南行︑不可令過北野︑伏拝給之故也︑自正親町末西
行︑自西猪隈末北行︑自一条末又西行︑経円宗寺南西両面︑着御北院︑︵以下︑略︶
― 53 ―
﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
久寿二年︵一一五五︶
十一月十四日前左大臣藤原頼長︑内覧をめぐる祈願を込めて︑今日より今月二十日まで毎日︑石清水以下八社
︵うち一社は北野︶を遥拝する︒★全体注記追加
※藤原頼長の内覧停止は本年七月のこと︵公
鑄補任ほか︶︒
保元二年︵一一五七︶
二月十二日春日祭に際し︑朝に石清水八幡宮以下の諸社︵うち一社は北野︶に誦経が行なわれる︒★傍線部追
加︵引用史料の前後に︶
︻史料綜覧三︑三六一頁下︼
※底本では︑この記事は正月条に纔入している︒
八月四日北野祭があり︑権大納言藤原基実︑米・絹を祭料として送付する︒★傍線部追加
︹兵範記同日条︺
今日北野祭会頭料︑大納言殿令奉送給︑見米卅石︑絹卅疋︿代手作布三十段﹀︑下知政所︑用見済︑御封
内成送文︑家司下官加判︑付宮寺了︑
殿下以往︑代々納言之間︑有此御勤︑随則︑去月中旬寺家進差文︑為流例之上︑依厳重神事︑殊有御沙
汰也︑
保元三年︵一一五八︶
正月六日叙位の儀があり︑﹁左大臣北野行幸行事賞﹂として︑藤原伊保が従五位下に叙せられる︒★新規立項 ﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
― 54 ―
︻史料綜覧三︑三七〇頁下︼
︹兵範記同日条︺
今夕叙位儀也︑︵中略︶
従一位藤原宗輔︑︿太政大臣﹀︑
︵中略︶
従五位下︵中略︶藤原伊保︑︿左大臣北野行幸行事賞﹀︑
永暦二年
=
応保元︵一一六一︶七月六日◆本日付の聖人覚西祭文中に﹁廿二社諸神﹂が見える︒★新規立項
︹聖人覚西祭文︵石山寺所蔵聖教目録裏文書︶
=
平安遺文三一五五号︺七月二十五日祈年穀奉幣がある︒北野社には菅原氏の五位の者が遣わされる例であるが︑貞衡・定宗とも都合
が悪く︑このたびは式部大夫為範が遣わされる︒★全体注記追加
※菅原貞衡の﹁勅勘﹂については︑永暦元年十月十二日条参照︒
十月二十一日北野社行幸があり︑行事権大納言藤原公通を従二位に︑左中弁平親範を正四位下に叙す︒★綱文
文言追加︵傍線部︶と︑史料追加︵本項末尾に︶
︹弁官補任・永暦二年条︺
左中弁従四位下平親範︿十月廿一日叙正四位下︑︵松尾・北野行幸行事賞︶﹀︑
― 55 ―
﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
応保二年︵一一六二︶
閏二月十三日安楽寺において﹃息心抄﹄四帖が﹁略抄﹂される︒★傍線部追加︵本項冒頭に︶
︻大宰府史料補遺︑三八〜三九頁︼
応保三年
=
長寛元年︵一一六三︶五月十日◆臨時二十二社奉幣がある︒★史料名表記追加︵傍線部︶
︹惟憲比丘筆記﹁石清水社使始用納言事﹂︺
永万二年
=
仁安元年︵一一六六︶是歳飛騨国の︑本年の雑物進未注進状の中に﹁天満宮﹂の名が見える︒★傍線部追加
︹年月日未詳飛騨国雑物進未注進状︵宮内庁書陵部所蔵中右記部類巻十六裏文書︶
=
平安遺文三四一〇・一号︺仁安二年︵一一六七︶
閏七月四日◆二十二社に祈年穀奉幣がある︒★史料名追加︵本項末尾に︶
︹玉葉本年七月十八日条︺
仁安三年︵一一六八︶
正月一日安楽寺別当安能︑同寺に日別供を始める︒★史料追加︵天満宮安楽寺草創日記の次に︶
︹安楽寺別当次第︵太宰府天満宮所蔵︶︺
或書云︑︵中略︶
一日別御供︿仁安三年正月一日始之︑第十七代別当安能蒙御示現︑被始之﹀︑ ﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
― 56 ―
四月三日僧栄西︑入宋のため︑この日博多にて﹁解纜﹂するに先立って安楽寺に参詣する︒★新規立項
︻大宰府史料補遺︑四二〜四四頁︼
︹栄西入唐縁起︺
︵仁安三年︶二月八日︑達博多唐房︑未庸舩解纜之前︑安楽寺天神・竈門法満・筥崎・香椎・住吉︑如是
霊社無不経歴︑一々得渡海之感応︑即四月三日解纜︑同十八日放洋︑
承安三年︵一一七三︶
七月二十五日◆祈年穀奉幣がある︒★傍線部追加
︹玉葉本年七月十七〜二十日・二十四日・二十五日条︺
承安五年
=
安元元年︵一一七五︶七月十九日安楽寺の巽方の嶺に銅鉾が出たとの報告があり︑先例を調べさせる︒★傍線部追加
︻史料綜覧三︑五五二頁下︒大宰府史料七︑八一〜八三頁︑同補遺︑四五頁︼
八月二十九日安楽寺の巽方の嶺に銅鉾が出現したことを議す︒★傍線部追加
︻史料綜覧三︑五五四頁上︒大宰府史料七︑八一〜八三頁︑同補遺︑四五頁︼
十月三日◆蓮華王院惣社祭を始修し︑以後恒例とする︒★傍線部訂正
︹玉葉本年十月三日・六日条︺
安元三年
=
治承元年︵一一七七︶十月十九日◆蓮華王院惣社祭がある︒★新規立項
― 57 ―
﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
︹玉葉同日条︺
治承三年︵一一七九︶
二月二十九日二十二社に祈年穀奉幣があり︑北野社奉幣使には散位菅原長守があたる︒★傍線部追加
※玉葉本年二月三日・七日・二十六日・二十九日条︑百練抄本年二月二十四日条の関連記事は︑省略︒
治承五年
=
養和元年︵一一八一︶四月二十日◆祈年穀奉幣がある︒★史料名追加
︹玉葉本年三月二日条︺
十月三日◆蓮華王院惣社祭がある︒★傍線部訂正
︹玉葉本年十月二日・三日条︺
養和二年
=
寿永元年︵一一八二︶是歳藤原定家︑この年に詠作した﹁堀河院題百首﹂の序文自注に﹁正治・建仁に及び︑天満天神の溟助を蒙
り﹂云々と書き記す︒★新規立項
︹拾遺愚草員外
=
新編国歌大観︺但件人望僅三四年歟︑自養和百首披露之後︑猶可詠堀河院題之由︑
文治建久以来︑称新儀非有厳訓︑仍寿永元年又詠此歌︑今見之一首
拠達磨歌︑為天下貴賎被無可採用之歌︑仍漏歌了︑而倩案之︑当初
悪︑已欲被棄置︑及正治詠出此歌時︑父母忽落感涙︑将来可長此道 ﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
― 58 ―
建仁︑蒙天満天神溟助︑之由︑被放返抄隆信朝臣寂蓮等︑面面吐賞
応聖主聖朝之勅愛︑僅継翫之詞︑右大臣殿︵﹁後法性寺殿也﹂の傍書あり︶故有称美御消息︑俊恵来
家跡︑猶携此道事︑秘而拭饗応之涙︑時之人望以之為始︑依思此往
不浅事︑更書加此奥殊有赭面之思
︵以下︑和歌は省略︶
寿永四年
=
元暦二年=
文治元年︵一一八五︶十二月二十七日九条兼実が︑この日の日記に︑本年十二月六日付の源頼朝書状を引用した後に︑﹁菅丞相事﹂
に言及する感想を書き付ける︒★新規立項
︹玉葉同日条︺
而内覧両人之条︑偏禍乱之源也︑敢非静謐之計︑延喜・仁平之例︑古今彙少之非拠也︑醍醐帝者︑雖我朝
無双之聖代︑以菅丞相事為失︑是則其権分二之故也︑鳥羽法皇者︑末代之賢王也︑而依寵賞凶悪之臣︿宇
治左大臣是也﹀︑顕万代之失︑保元以降天下之乱逆︑論其源︑非因仁平之両権哉︑上古・中古︑治政之
代︑其乱猶如此︑
文治二年︵一一八六︶
十一月六日◆蓮華王院惣社祭がある︒★新規立項
︹玉葉同日条︺
― 59 ―
﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
建久二年︵一一九一︶
春のころ某︑安楽寺の梅を折る︒★傍線部追加
︻大宰府史料補遺︑四六〜四七頁︼
建久八年︵一一九七︶
六月日向国在庁等が同国図田帳を注進し︑その中に安楽寺領が見える︒★新規立項
︻大宰府史料補遺︑四七〜五九頁︼
︹日向国図田帳写︵島津家文書︶
=
鎌倉遺文九二二号︺日向国
住︵注︶進国中寺社庄公惣図田町︵帳︶
合田数八千六十四町
寺領田代二百三十八町
弥勒寺領百十五町
︵中略︶
安楽寺領六十三丁︿地頭須江﹀
馬関田庄五十丁︑右諸県郡内
太郎︑不知実名︑
湯宮十三丁︑右児湯郡内︑︿地頭平五﹀ ﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
― 60 ―
花蔵院御領六十丁
︵中略︶
社領田代二千百六町
︵中略︶
右︑去元暦年中之比︑武士乱逆之間︑於譜代国之文書者︑散々取失畢︑雖然寺社庄公惣図田︑太︵大︶略注
進如件︑
建久八年六月日
日月大部依包・権
!
失︵矢︶田部恒包権介日下部盛直・権介日下部行直
権介日下部重直・権介日下部宿禰
盛綱
五郡田代
︵以下︑省略︶
正治二年︵一二〇〇︶
三月十日この日付の周防国在庁官人起請文案中に﹁天満天神宮﹂の名が見える︒★この項︑全文削除
▽以下︑全文削除の理由を述べる︒拙編著において本項を立てたのは︑鎌倉遺文補遺第一巻の補三六〇号の
末尾の日付﹁正治二年三月十日﹂に従ったものである︒しかし︑それより以前に刊行された鎌倉遺文第三
― 61 ―
﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
二巻には︑同文の文書が﹁正和二年三月十日﹂の日付で収録されており︵二四八二〇号︶︑また近刊の
﹃山口県史﹄史料編・中世2においても︑後者と同様に﹁正和三年三月十日﹂の日付で収録されている︒
以上三種の翻刻には︑相互に文字の小異も存するが︑本文中には三者共通して﹁正治二年十一月八日﹂
云々の記述があり︑結局︑末尾日付のうち﹁正治二年﹂の年代は﹁正和二年﹂の誤りと判定される︒以上
により︑本文書に基づく綱文は正和二年三月十日の史実として立項されるべきである︒
正治三年
=
建仁元年︵一二〇一︶二月九日大宰府︑肥後国人通綱の郎従国通が安楽寺において自害したことを奏する︒ついで五月四日に宣旨を
下して穢所を祓い清めさせる︒★史料追加︵史料冒頭に︶︑ならびに末尾の注記削除
︹平戸記寛元二年十月三日条︺
八幡事︵前日条︑参照︶准拠例等引勘之処︑︵中略︶︑此外正治二年香椎宮神殿五宇汚穢︵割注︑略︶︑建
仁元年宰府言上天満宮寺門廻廊汚穢事︿肥後国住人通綱郎従国通自害之間也﹀︑両所事後々沙汰之趣不分
明︑︵以下略︶
八月十二日祈年穀奉幣がある︒北野社使は大内記菅原為長が勤める︒★本項全体を左記にさしかえ
︻大日本史料四ノ七︑八九〜九一頁︼
︹三長記本年八月条︺
十日亥︑︵中略︶今日行水︑立神事札︑明後日祈年穀奉幣奉行之故也︑前三ケ日潔斎之由︑見都護殿御
記︑︵以下略︶ ﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
― 62 ―
十二日己丑︑︵中略︶今日被発遣祈年穀奉幣使︑予奉行也︑︵中略︶内記進諸社宣命︑上
鑄次第召使々給
之︑︿公
鑄臣使伊経・仲資等朝︑四北野使大内記為長位︑使弁新藤中納言︑左大︑督右京大夫︑右兵衛︑
自余諸大夫等﹀︑︵以下略︶
※猪隈関白記本年七月十八日︑八月十日条︑三長記本年七月二十一日条も参照︒
十一月本月付の高良宮造営所課荘々田数注文案に安楽寺領が見える︒★新規立項
︻大宰府史料補遺︑七三〜八六頁︼
︹高良宮造営所課荘々田数注文案︵国立歴史民俗博物館蔵︑田中穣旧蔵文書三七六︱三︶︺
筑後国
注進任宣旨・大府宣・府施行及国司御庁宣等旨︑令支配高良宮上下宮并小社等造営所課庄々田数大略
事︑
合令支配田壱萬参仟肆佰参拾肆町肆段壱丈
一上宮分切宛料田六千七百四十九町三段一丈
︵中略︶
一下宮分切宛料田四千五百八十一町一段三丈
︵中略︶
一諸小社分宛料田四百八十九町六段
︵中略︶
― 63 ―
﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
一阿志岐宮分
宛料田千六百十四町三段二丈
︵中略︶
観世音寺百九十八町二段一丈
大山寺百九十町
安楽寺千五十四町七段
山本西郷弥益二町
件御宮御宝殿者於社家之役如法被造畢︑拝殿并広門社者未被造営之間︑于今無御遷宮︑然者彼拝
殿与広門社尤可造営之︑
右︑件御神殿等支配任宣旨・大府宣等状︑依田数多少不論庄公大略注進如件︑但於材木口
!
等者︑各所課庄々来役之時︑臨社頭可注渡之︑
建仁元年十一月日︵以下︑署判省略︶
※本文書は︑寛元四年︵一二四六︶七月に︑醍醐寺法印通円が︑筑後国高良社造営荘々の対捍に関し神官所司
等の重訴状を本家鷹司院︵藤原長子︶に取り次いだ際の副進文書︒鎌倉遺文未収︒
建仁三年︵一二〇三︶
九月十五日早朝に︑﹁黄門殿︵藤原公経か︶﹂の﹁北野辺﹂御物詣でがある︒★新規立項
︹明月記同日条︺ ﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
― 64 ―
天晴︑早旦︑依黄門殿御物詣北野辺︑巳時許御共入道大納言衣笠亭︑考定事終日被仰合︑在其座多以聴
聞︑日入之程令帰給︑予自路帰家︑于時秉燭︑
※大日本史料四ノ七︑九一七〜一八頁︑参照︒同書に引く明月記は︑﹁御物詣北野辺﹂を﹁御約儲北野辺﹂と
する︒
建永二年
=
承元元年︵一二〇七︶八月四日北野祭がある︒★史料追加︵本項末尾に︶
︹明月記本年七月八日条︺
庁頭久景持来放生会牒︑請判八枚也︑如判返給︑其状︑
左近衛府牒紀伊国衙
応被早任先例︑先例与使者共催貢︑来八月石清水御放生会︑同五日北野宮御会相撲役︑兼使者供給伝馬
状︑使番長︑火長壱人︑
近衛小野信守︿藤井四郎﹀︑旧貢平郡︹群︱傍書︺高平︑同高守︑則綱︑近貞︿男﹀︑国貞︿男﹀︑藤井
則友︑新点白丁︑自国衡可差進︑
牒︑件相撲人等︑為令勤仕恒例厳重神事︑各守式日︑無懈怠可被催進之状︑牒送如件︑以牒︑
建永二年六月廿八日正六位上行将曹大石宿禰
正六位上行将曹中臣朝臣
正四位下行権中将藤原朝臣
― 65 ―
﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
和泉︿書様同﹀︑河内︿新点白丁︑重吉可差進﹀︑摂津︿々々︑五太可差進﹀︑播磨︿新点︑八尋四郎妻
鹿四郎可差進﹀︑伊賀︿同和泉﹀︑近江︿新点白丁︑差進貞包﹀︑若狭︿年貢白丁二人﹀︑
建暦二年︵一二一二︶
是春藤原秀能︵如願︶︑安楽寺に参詣して和歌を詠む︒★傍線部追加︵本項冒頭に︶
︻大宰府史料補遺︑六四〜六五頁︼
建保二年︵一二一四︶
正月五日宇佐使藤原光家︵定家男︶︑安楽寺に参詣する︒★新規立項
︻大宰府史料補遺︑六五〜六九頁︼
︹浄照房集︺
︵建保元年︶正月五日︑安楽寺にまゐりて
かをるえにはるをわすれぬむめのはなふるさと人をあはれともみよ
※明月記建保元年九月八日︑十一月二十八日条︑及び仲資王記建暦三年十一月二十日・二十八日条の関係記事
は省略︒
承久二年︵一二二〇︶
十月大山寺別当代官成慶等が︑壱岐島公田百数十町を押領することを伝える文書中に︑安楽寺領押領のことも
見える︒★新規立項
︻大宰府史料補遺︑七〇頁︼ ﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
― 66 ―
︹民経記寛喜三年十月記紙背文書︺
壱岐島公田内観厳阿闍梨押領四十町︿始号吉富名﹀造営米催事︑観厳在江州︑帰洛候時可相催之由︑謹承
候了︑早可召立候︑抑自由押領所々可相催之由︑被仰下候之間︑先安楽寺押領卅三丁六段分加催候之処︑
最前被止其責候了︑又催彼阿闍梨□︵候︶之処︑如此被仰下候︑已迷子細候了︑庄公田分于今合夕も不催
出之国︑未承及候︑庄園︵○後欠︶
※大宰府史料七︑三五九〜六一頁も参照︒
安貞三年
=
寛喜元年︵一二二九︶九月十七日浄照房︵藤原光家︶︑主人藤原良輔の死歿によって出家し︑筑紫修行の旅に出る︒この日︑安楽寺
にて和歌を詠む︒★新規立項
︻大宰府史料補遺︑七〇〜七三頁︼
︹浄照房集︺
つくしのかたす行し侍りけるに︑︵中略︶
安楽寺にまゐりて︑九月十七日︑あめふりさびしきに︑
たまがきはむかしみしにもかはらぬをそでにあやしきよるのあめかな
※明月記寛喜二年六月二十一日条の関係記事は省略︒
貞永二年
=
天福元︵一二三三︶正月十七日権中納言藤原頼資・治部権少輔藤原経光父子︑北野社に参詣する︒★史料追加
― 67 ―
﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
︹民経記︵暦記︶同日条︺
天晴︑参北野︿奉幣﹀︑依有労事不出仕︑
五月十六日前権中納言藤原頼資・右少弁藤原経光父子︑この日より三日間連日︑北野社に参詣する︒★史料追
加︹民経記︵暦記︶本年五月条︺
︵十六日︑庚申︶︑天陰︑入夜時々雨降︑⁝⁝参北野︿中納言殿令参給﹀︑
︵十七日︑辛酉︶︑天陰︑臨夕雨下︑参北野︑
︵十八日︑壬戌︶︑天晴︑時々雨下︑今日依有労事不出仕也︑為休息也︑参北野︑中納言殿・女房・予等所
参也︑奉幣︑
嘉禎四年
=
暦仁元年︵一二三八︶四月九日天台座主慈源の拝堂があり︑北野別当承兼が僧綱の一人として扈従する︒★新規立項
︹経俊
鑄記同日条︺
今日︑山座主法務拝堂也︑予為見物向桟敷︑長静法印来会︑
行烈
︵中略︶
法師原
扈従僧綱五人 ﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
― 68 ―
左大臣法印良禎︿前駆六人︑上童一人︹装束尽美︺︑八葉車︹車物見懸簾︑又懸下簾︺︑牛童二人遣之﹀
大納言法印隆承︿前駆四人︑上童一人︑車已下同左府法印﹀
北野僧都承兼︿前駆已下同隆承﹀
︵以下︑略︶
寛元四年︵一二四六︶
三月二十六日◆祈年穀奉幣がある︒★傍線部追加
︹民経記︵暦記︶本年三月二十四日・二十六日条︺
五月二十九日参議左大弁藤原経光︑この日より三日間連日︑北野社に参詣する︒★傍線部訂正︵前者︶ならび
に追加︵後者︶
︹民経記︵暦記︶本年五月条︺
︹民経記︵暦記︶本年六月一日条︺
六月二十六日参議左大弁藤原経光︑この日より精進を始め︑今月二十八日・二十九日両日に北野社に参詣す
る︒★傍線部追加
︹民経記︵暦記︶本年六月条︺
七月二十二日参議左大弁藤原経光︑北野社に参詣する︒★傍線部追加
︹民経記︵暦記︶同日条︺
八月二日◆祈年穀奉幣がある︒★傍線部追加
― 69 ―
﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
︹民経記︵暦記︶同日条︺
八月十六日大納言二品こと藤原能子の沙汰による北野社多宝塔の上棟がある︒★傍線部追加
︹民経記︵暦記︶同日条︺
八月二十六日参議左大弁藤原経光︑この日より三日間連日︑北野社に参詣する︒★傍線部追加
︹民経記︵暦記︶本年八月条︺
十二月二十三日参議左大弁藤原経光︑北野社に参詣して奉幣する︒★傍線部追加
︹民経記︵暦記︶同日条︺
寛元五年
=
宝治元年︵一二四七︶十月一日◆蓮華王院惣社祭がある︒★傍線部追加
︹経俊
鑄三条日二十・日・記日一月十年本︺
十二月一日安楽寺別当法印長円の重任の宣旨を下す︒★傍線部追加
︻大日本史料五ノ二十三︑三九五〜九九頁︒大宰府史料補遺︑八六〜八八頁︼
︹追記︺︵初校に際して︶
︵編年資料集成
5 7
頁・最終行︶★傍線部︑訂正被贈太政大臣之後託宣 ﹃天神信仰編年史料集成││平安時代・鎌倉時代前期篇││﹄訂正増補︵稿︶
― 70 ―