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−1COミl旬札へ︑訂h盲㌻〜首ミ恥恥3キ已♪PayOt︑−笥N. 三二
モンテルランの﹃ポール=ロワヤル﹄︵二︶
− 虚無の大海を漂うもの −
朝 比 奈 誼
︵四︶
︒ポール‖ロワヤル﹄は ﹁カトリック三部作﹂ の完結篇として発表されながら︑カトリック系の批評家から激しい
非難を浴びた︵1︶︒その中でもとりわけこの作品の似而非カトリック性が指弾を受けたが︑その原因が批評家の示唆す るようにモソテルランによる史実の歪曲にのみ帰せらるべきものかどうか︑私はそこに疑問を持った︒そこで作品そ
のものの検討に先立ち︑とりあえず︑同時代人としてのセゲィニュ夫人の証言や︑創作過程の源流に位置するサント=
ブーヴ︑あるいは現代の歴史家の研究を瞥見したところ︑問題の鍵はむしろ︑この戯曲で取上げられた時点と人物と
にあるらしいことが判明した︒つまり︑一六六四年八月二十六日にしろ︑スール・アンジェリック・ド・サソ=ジャ ンにしろ︑異端邪教の徒の牙城と目されているこの修道院の歴史に︑敵意をもって接近する史家はもちろん︑好意的︑
積極的に肩入れしょうとしたサント=プーヴのような﹁シンパ﹂でさえも︑否定的な評価を下さざるをえない時点で あり︑人物なのである︵2︶︒にもかかわらず︑モソテルランは︑ポール=ロワヤル修道院の百年︵3︶におよぶ歴史の中
から︑改革の立役者として名高いメール・アンジェリックやサン=シラン師が他界したあとの︑いわばデカダンスの
ヽ ヽ ヽ
時期を選びだしたばかりか︑信仰の人としてはあまりに理知的な女性をもってポールー・ロワヤルを代表させたのであ る︒これは一体どうしたことなのだろう〜
モソテルランの﹃ポールーーロワヤル﹄︵二︶ 三三
三田
この間いに答えるには︑作品自体の分析と同時に︑いや実際問題としては︑それよりも先に︑作品が成立するまで
のプロセスをば伝記的事実や先行する作品を頼りに跡づける手続きが必要であろう︒とりわけ︑今の場合︑キンテル
ランとポール=ロワヤル︵ないしはジャンセニスム︵ 4 ︶︶との結びつきは︑作品の制作を決意するよりもずっと早い時
期にはじまり︑まさしく宿縁とも言うべき古さと回さを誇っているから︑なおさらである︒そこで︑しばらく︑作者
自身の証言を頼り︵ 5 ︶に︑ジャンセニスムとの関係という角度から彼の年譜を振返ってみることにしたい︒
それは作者が十代の頃︑作品の執筆に先立つことほぼ五十年の昔に始まるのだが︑かなり明瞭な二つの節目によっ
て二期に分かつことができる︒
第一期はいわば血縁によってのみ繁っていた時期である︒周知のように︑幼少のモソテルランと一つ屋根の下に住
み︑母親とともに養育に当ったのは︑母方の祖母ド・リアソセイ夫人だが︑彼女の生家であるブルターニュの名門グ
ルキュフ一族︵ 6 ︶に︑はかならぬジャンセニストがいたのである︒祖母ほ家中でその噂がでる時には︑異様なほど激し く非難の態度をあらわにして︑そのためにかえって十五歳頃のモソテルランに強い印象を与えたが︑そういう彼女自
身︑夕暮れになると︑明りをともそうともせず︑暗い部屋の中でひたすら祈りつづけるほど信心深く︑実ほこの禁制
の教派に属していた︑少なくとも秘かに共感を寄せていたことを裏付ける数々の証拠を残している︒すなわち︑自室
の壁にパスカルのデスマスクをかけていたこと︑書庫の﹁猥本の棚﹂にヴィレットの春画︵ 7 ︶の切抜帖や医学事典と l
緒に︑十八世紀の熱狂的ジャンセニストの手稿を列べていたことす︶︑さらに死の時にいたるまで︑剛毛で裏打ちした
苦行用シャツを身につけていたこと︑遺品として押入れの奥からジャンセニスト特有のキリスト像︵両腕を開かず︑
胸の前で交叉させている︶が発見されたこと等である︒この祖母について晩年のモソテルランは次のような推測を下 している︒
私の祖母ほ︑事の成行上ジャンセニストたちが守らざるをえない仕来りに従って︑自分がジャンセニストである
ことを一寸隠していた︒それも特に︑夫も息子も婿︵つまりモソテルランの父︒朝比奈︶もそろってイエズス会士
たちの教育を受け︑イエズス会士たちを盲信していたせいだった ー そう考えるべきなのであろうか︵ヱ〜
とほいえ﹁生来陽気な子供﹂︵ 10 ︶だったモソテルランにとって︑祖母は悲劇的な雰囲気を漂わせた人物であるにとど
まり︑ジャンセニスムについての関心も︑医学事典を好奇の目で貪り読む少年のそれに見合う低次元のものでしかな
かったと考えてよかろう︒十八世紀の堕落したジャンセニストたちについては︑宗教感情の高まりから一種の集団的
ヒステリーの状態に陥り︑その挙句︑激しい肉体の痙攣に襲われる者が続出したことが知られているが︑彼らの秘密
集会の模様を信徒みずから具さに記録したものというその手稿から︑初期ポール=ロワヤルの︑新鮮で純粋な信仰の
ありようをうかがい知ることは︑いかに早熟な少年といえども不可能だったにちがいない︒彼は書いている︒﹁私ほ
カリカチュール
ジャンセニスムに︑その戯画と末期的状態 Bas ・ Empire とを介して入門した︒その後もそれ以外には何も知らなか
った︒一九二九年にサント=プーヴの作品を読むまでほ﹂︵ 11 ︶︒
かくて︑サント=プーヴの発見とともに︑ジャンセニスムとモソテルランの関係は第二期に入る︒つまり︑改革精 神の源泉を過去に求めたロマン主義者サント=プーヴの手引きにょり︑端的には﹁ポール=ロワヤルはイエスーーキリ
ストの神性信仰への回帰であり︑その倍加にほかならなかった﹂ の一句︵望 に啓示を受け︑彼はポール=ロワヤルの
真髄に触れたと感ずる︒それと同時に︑その非妥協的なまでの真峯さのあまり正統派から離反せざるをえず︑少数派
たらざるをえない隠士や修道女たちに︑にわかに親近感をおぼえ︑ついにほこの修道院を舞台にした戯曲の執筆を決
意するにいたるのである︵ n ︶︒一九二九年というのほ︑キンテルランの生涯の一転機を画した︑いわゆる﹁追い立てら
れた旅行者﹂く OyageurS traqu 訂の危機が漸く去ろうとする頓にあたっていて︵ 14 ︶︑モソテルランの伝記研究上も特
に重要な年であるが︑今は深入りしている暇ほない︒ただ︑同じ年︑聖イグナチウス・デ・ロヨラゆかりのモソトセ
ラート修道院︵バルセロナ近郊︶に三日間参寵したモソテルランが︑次のような感想を残していることは見逃せない︒
私は信仰を持っていない︒しかし︑何をしようと︑洗礼を受けたからというので︑私はカトリック教徒というこ
モソテルランの﹃ポール=ロワヤル﹄︵二︶ 三五
三六
とになっている︒教会によるこの言葉の濫用に︑私ほ便乗したくない︒私は︑明々白々たる事実だが︑カトリック
教の外側にいる︒外側から︑立場をいろいろに変えて︑それを見ている︒そしてカトリック教から︑私の霊的生活
や詩的生活にふさわしいものを取込んでいる︒要するに︑人間的にそれを活用しているのだ︒⁚・ところで︑私に
は分っているのだが︑今に﹁恩寵﹂に打たれるようなことが︑言いかえると︑キリスト教を真剣に受けとめるよう
なことが万一あったならば︑︵それが木の中の樹液さながら︑キリスト教の髄を流れているのが見えるように思える
から︶私がキリスト教の本道−igロedmc指urと呼びたいと思っている道に入るであろう︒それは福音書から︑聖
パウロと聖アウグスチヌスを経て︵さらにカルヴァソをかすめて通るのではないか〜︶ポール=ロワヤルにいたる
伝統である︒私がそれに与える銘ほボシュエの叫び﹁福音書の教義よ!あなたほ何と厳しいのです!﹂であり︑
紋章は︑進めば進むほど狭くなる道の図案である︵ほ︶︒
カルヴァンの名を聖パウロや聖アウグスチヌスのそれに結びつけたあたりにほ︑体制順応のカトリック教徒に対す
るモソテルラン一流の挑発が感じられるにしても︑同時にサント=プーヴの直接の影響を読みとることを怠ってはな
るまい︒ローザンヌでの講義ということもあり︑サント\フープはポールーーロワヤルの指導者サン・lシランを評して
﹁カトリック教会とフランス司教団の内に生まれた一種のカルヴァソ︑秘蹟の精神を再興しようとするカルヴァソ︑あ
ヽヽヽくまでもローマに執着しっづけた内側のカルヴァソ﹂と呼ぶことを悼らなかったのである︵1
6︶︒そして︑その﹁内側の カルヴアンLの企てに︑無神論者の単なる好奇心以上の熱情に駆られて深入りしていったサソト=プーヴ同様︑モソ テルランも一方で﹁信仰を持っていない﹂ことを明言しっつ︑他方でカトリック教徒中のカトリック教徒としてのポ ール=ロワヤリストたちに深い共感を示している︒無神論者によるキリスト教の真髄の追求という志向は︑一見矛盾 に満ちているが︑形式的な洗礼のごとき﹁教会による言葉の濫用﹂に﹁便乗する﹂ことを潔しとしない︑この厳格主義 の一点において︑ポール=ロワヤルとの結びつきを正当化する︒それゆえ︑モソテルランほ結局﹁恩寵﹂に打たれる ことなく無神論者のまま眉ら命を断つに至るのだが︑ポール=ロワヤルへの憧れは終生︑持ちつづけるのである︵17︶︒ ︵五︶ ところで︑ポール‖ロワヤルを舞台にした作品の執筆を決意したものの︑その実現には長期にわたる準備が必要だ った︒ 一体︑モソテルランほモチーフの醗酵に時間をかけるタイプの作家である︒﹃闘牛士﹄ の場合︑初めて観戦した闘 牛の試合に﹁啓示 L 頭︶ を受けた峠から作口望刀成までに十七年︒■﹃内乱﹄の場合︑動機になったのほ一九三四年二月六
日のパリ騒動だというから︑創作までに三十年︒﹃その邑の王ほ童子﹄や ﹃少年たち﹄に至っては︑問題の学園放校
事件の年から数えて実に三十ないし三十七年後にようやく作品として発表されている︒﹃ポール=ロワヤル﹄の場合︑
最終的な形の作品が発表されたのは一九五三年であるから︑モソテルランとしては準備にことさら手間取ったとはい
えないにしても︑やほり息の長い仕事だったことほ疑いをいれない︒
その間︑後に触れる第 l の﹃ポール=ロワヤル﹄に着手する以前にも︑いくつかの習作を試みたことが知られてい
る︒その一つに︑一九二九年︑つまりサント=プーヴのもたらした感動のさなかに着手されたものの︑中途で放棄さ
れた戯曲﹃ドン・ファドリック﹄がある︒現在は﹃無益な奉仕﹄に僅かな断片が採録されているのみだが︑その部分
から判断するかぎり︑活動の舞台こそ十六世紀のスペインに設定されているものの︑その実︑サント=ブーヴの提示 したサン=シランをそっくりそのまま登場させた感が強い︒
ドン・ファドリソク〜−廠悔を! 神父殿! 懐悔を聴いて下され! 余はもう辛抱できぬ︒
神父 I −唸悔をなさりたいですと〜 懐悔なら︑お手前の教区の司祭になされ︒なぜこの私に〜 お手前の罪にな
ど︑私は興味ありませぬ︒
ドン・ファドリック ー ならば︑公けの填で︑サンタ=クルス広場で儀悔するとしよう︒余が囚で煩かせてしまっ
た臣民どもに叫ぶとしよう︑﹁改宗いたせ!﹂と︒さすれば︑余の傲悔がこの地上をおおいつくすであろう︒
モソテルランの﹃ポール=ロワヤル﹄ ︵二︶ 三七
三八
神父−かようなお考えをお持ちだと思うておりました︒さげすむべきお考えだが︒そこにお手前の本性がすっか
り写しだされている︒自らの罪や悔恨で人々を眩惑させようなどと考えるお手前は︑いまだに俗界に未練たっぷり︑
それが手にとるように私にほわかります︒神ほ︑異常なこと︑とりわけお手前の異常な行為を必要となさいませぬ︒
そこにはお手前の自己満足があまりに強すぎる︑それがためになろうはずがありませぬ︒いや︑これでは私の申し
ようがまずい︒お手前ほご自分の内面でこそ異常であるべきだが︑上辺にはそれを出さず︑人から憐みの目で見ら
れるくらいでなければなりませぬ︒私ほ見てくれの華々しさを望みませぬ︒たとえ高慢心をひかえたところで︑悲
愴な態度は不純です︑安易に走るのですから︒︵⁚・︶お手前にとって︑悔俊の道はただ一つ︑祈りはただ一つ︑
神と世の人に仕える方法はただ一つ︑それほ片隅に黙って控えていること︑しかも自分のしていることほはとんど
何物でもないと考えることです︵1
9︶︒ 武勲輝く君主ドン・ファドリックほなぜか従来の反宗教的な態度をにわかに改め︑モソトセラート修道院長イグナ チヨ神父の導きにより信仰の道に入ろうとしている︒ところが︑見せかけの恭順さの蔭に︑英光の過去のひけらかし を鋭く見通した神父は︑一切をかなぐり捨て︑神の前にひたすら謙虚にひれ伏すようにすすめる︒こうした権力者に 対する毅然たる態度︑それと表裏一体をなす謙虚さの重視︑これこそ︑サント=ブーヴがサン=シランについて賞揚 してやまなかった特質なのである︒ この世の権勢家たちは︑にわかにサン=シランの指導に服そうとしても︑披から特別の待遇を得られなかったが︑ 威光を盾に脅そうとするや否や︑もっと冷たいあしらいを受けた︒これこそサン=シランの性格の一特徴で︑彼に よって全ポール=ロワヤルに刻みこまれるとともに︑男性的な独立心によってこの修道院の人々を同時代の他の仲 間から際立たせている︒とりわけ権勢家たちの見せかけの手加減をいささかも好まず︑恐れない︑これは︑神に仕 える人々においても︑時代を問わず意外に稀なことだったのである︵20︶︒ さらに謙虚さについては︑ 彼︵サンシラン︶ によれば︑真の謙虚さ humi −訂かは︑たとえ大きなことにせよ︑己れに仕事をする力がないと
考えることよりもむしろ︑己れが罪人であり︑神による以外に仕事をする力がないと悟ることにある︒彼ははっき
りと言っている︒﹁己れの考えで︑血気にはやる衝動により︑神のために大事業をおこなって︑神の御指図をはみ
だしてしまうことにまさる高慢はない︒神がわれらにお命じになった手段と御指図を守って︑神のために大事業を
なしとげることにまさる謙虚さほない L ︵ 21 ︶︒
ところで︑イグナチヨ神父の台詞が︑サント=ブーヴのいうように真正なキリスト者にふさわしい自己否定の精神
に︑こうしてすみずみまで支配されている事実は︑逆に︑それがモソテルラン白身の思想にいまだなりおおせていな いことを証しているのではあるまいか︒いかにしても我執を捨て去ることができなかったモソテルランにとって︑イ
グナチヨ神父は所詮︑お仕着せを着た人形に過ぎず︑それがために︑﹃ドン・ファドリック﹄ はモソテルランの作品
としては十分な肉付けを与えられぬまま︑空中分解せざるをえなかったのにちがいない︒
その意味では正反対の例が︑次にあげる﹃若き娘たち﹄の場合である︒モソテルランの高慢で自己中心的な一面を
ほとんど戯画的なまでに誇張したところに設定された人物コスタル︒これを主人公とする小説﹃若き娘たち﹄は︑お
そらく︑サソト=プーヴ的なサン=シランとは最も縁遠い世界だといってもよかろう︒ところが︑こともあろうに︑
この小説の中に十八世紀ジャンセニストの末裔ともいうべき田舎娘パントヴァソを登場させた上︑彼女に対する魂の
教導者の場にコスタルを配置するのである︒彼ほ大兵面目な調子で︑パントヴァソに書き送る︒
⁚・あなたは僕に向って︑苦しみを訴えておられる︒それはあなたにとって祈りの代りをしてくれるでしょう︒ほ
かに何もないとしたならば︒苦悩は︑考えることも祈ることもしない人たちの祈りです︒あなたがどんな誘惑に悩
キンテルランの﹃ポール=ロワヤル﹄︵二︶ 三九
四〇.
まされているか知りませんが︑その誘惑にあうということは神の大いなるお恵みだと︑僕は思います︒あなたがも
しも神の関心の的でないとしたら︑神はあなたをそっとしておかれるでしょうから︒お見受けしたところ危険な状
態にあるあなたを救ってくれるのは︑おそらくその誘惑なのでしょう︵軍︒
救いを求めてきた修道女に対して﹁すべての魂をひと L なみに教導しょうとするのは大変な間違いです︒魂にはそ
れぞれ自分なりの法則があるもの︒⁚・あなたの傷を知っている私は︑それを治してあげなくてはならない︒私ほ治
療に当るべき医者なのです﹂︵讐と言ったサン=シランは︑右のような手紙を書くこともできたであろう︒そこに秘め られた︑信仰に関する深い洞察ほ︑たしかに︑練達の﹁魂の医者﹂にこそふさわしい︒モソテルランが次のように自
負するのも故なしとしないのである︒
悪殊なコスタルほ信仰心ゼロだが︑神秘家﹁マリ・パラディ﹂︵パントヴァソほ自らそう改名したと称している︒
朝比奈︶ から手紙をもらうと︑異端位も含め厳密にジャンセニスム的な精神で彼女を教導する︒彼の手紙のある部
分ほ︑そっくりそのままサン¶シランの手になると言ってもよかろう︵別︶︒
しかし︑これはあくまでも﹃若き娘たち﹄という全体の中にはめこまれた部分である︒その意味で重要なのは︑も
ちろん︑この手紙のジャンセニスムが歴史上のそれを正確に伝えているか香かではなく︑若い女性に対して徹頭徹尾
シニックなアンチ・ヒーローにふさわしい書簡たりえているか否かである︒だから︑キンテルランほ右の手紙の末尾
に︑忘れずに追伸を書かなくてはならない︒﹁念のために書き添えますが︑僕には信仰がありません︒僕が神を探し
求めようものなら︑僕自身を見つけだしてしまうでしょう L ︒これによって作品世界の統一ほ見事に保持された反面︑
魂の医術の意味は完全に逆転し︑サン=シランはいわば﹃危険な関係﹄の世界にひきずりおろされることになる︒し
かも受取人パントヴァソの返信たるや︑内容・文体ともに︑前述の祖母が遺した十八世紀ジャンセニストの手稿を下
敷きにしているらしく︵讐︑フラストレーションがひきおこす生臭い肉体の痙攣をつぶさに描きだしている︒神の恩
寵に浸っていたはずのポール=ロワヤルが︑ここでは︑神のいない世界をのたうちまわる女性たちの閻を際立たせる
ための道具に使われていると言えよう︒﹃ドン・ファドリック﹄ の場合はポール=ロワヤルが作品を殺したのだが︑
今度は作品がポール=ロワヤルを殺してしまっている︒戯曲﹃ポールーーロワヤル﹄ への道のりほ︑まだ遠い︒目的地
に到達するためには︑無様で狂気じみたパントヴァソの苦悩を︑外側から観察するのでほなく︑いわば内側から生き
るという視点を獲得する必要があるだろう︒ゆくりなくも︑その視点をモソテルランに与える端緒となったのは︑祖
国フランスの敗戦であった︒この時期を境にして︑彼とポール=ロワヤルの結びつきほ︑いよいよ最終段階を迎える
のである︒
︵六︶
作者自身くり返し明らかにしているように︑︒ポール=・ロワヤル﹄ と題する戯曲を彼は二度書いている︒普通︑層
一の可ポール=ロワヤル﹄と呼びならわされている作品の執筆開始は︑一九四〇年四月︵が︶とも︑あるいほその数カ月
前︵ 27 ︶ともされているが︑いずれにせよ︑ドイツ軍がベルギーで電撃作戦を開始した五月中旬には中断され︑彼は﹁マ
リアンヌ﹂紙特派員の資格で︵空北フランスの戦線に出かけていく︒この段階で注目すべきは︑前述のようにサント=
ブーヴに触発されて創作の決意を固めてから十年が経過しているにもかかわらず︑なお次のように準備不足を訴えて
いる点である︒
私は意図的に短期で不十分な下準備のあとで仕事に取りかかったのだった︒ジャンセニスムという素材ほ内面的
にも外面的にもはなはだ複雑なので︑用心しないと︑勉強したり整理したりしているだけで︑最後の一歩を踏みだ
して作品に着手できぬまま︑いつまでも愚図愚図する籍異に終っていただろう︒⁚・先ず第 l に肝心なのほ︑すぐ
消してしまってもいいから︑とにかく白い紙を黒くすることだ − この法則が今度ほど物を言うことはないように
モソテルランの﹃ポール・
−ロワヤル﹄︵二︶ 四一
四二
思えた︒私は水の中に飛びこんで︑それから泳ぎを学ぶつもりだった︵空︒
してみれば︑﹁準備不足 L というよりもむしろ︑豊富な材料に圧倒され︑その前で右往左往していたのである︒その
意味では︑﹃ドン・ファドリック﹄や﹃若き娘たち﹄において作者とポール=ロワヤルという対象との問に残されてい
たあと一歩の距離が︑いよいよ﹃ポール=ロワヤル﹄に着手した段階でも︑なお埋まらずにいたと言ってよかろう︒
いくさ
しかし︑その距離が︑ドイツ軍の急進撃にそそのかされ︑仕事を中断して出かけた戦場で︑祖国の放け戦を目の当
りにする過程で︑徐々に縮まっていったように思われる︒
わが軍のドラマを私が生きた三週間︑私はもうーつのドラマ ︵言うまでもなく︑﹃ポールー=ロワヤル﹄ のこと︒
朝比奈︶ に浸りきっていた︒われにもなく︑両者をまぜあわせていた︒宗教と政治的成功とほまったく無関係だ︑
否︑宗教にとっては地上で中傷されることこそもっとも願わしいという考えに深くとらわれ︑ポール=ロワヤルに
加えられた虐待の数々が念頭を去らぬまま ︵他方では︑今の出来事を好きになる方便を本能的に求めていたのだろ
うが︶︑私は夢想していた − 今フランスの上で荒れ狂っているものは新たな迫害の始まりとなるにちがいないが︑
キリスト教ほこの迫害の結果︑若返り︑生気を取戻すだろう︒なぜなら︑迫害ほ連帯感を生んで︑自らは裏切られ
るものだから︵空︒
﹃秋分﹄︵一九三八年︶での彼の予想が適中して︑フランスの防衛力はその脆弱さをまたたく問に実証したわけだが︑
ヽ ヽ ヽ
そうして虚妄の繁栄が瓦解していくさ中にあって︑モソテルランはポールーーロワヤルのドラマを身をもって生きたと
いう︒その点で︑ポール=ロワヤルとの結びつきが一段と深化したらしいことが窺える︒一握りの修道女たちを押し
つぶそうとした迫害の重みを他人事でなく感じえたことによって︑﹃ポールー・ロワヤル﹄ ほようやく作者の中で生き
ほじめたと言ってよかろう︒ただ︑﹃秋分﹄のエッセイ類と同様︑右の文面にほいまだに改革への期待が立ちこめて
いる︒そもそもモソテルランは︑二十世紀前半期の多くの作家の例に洩れずニーチェの影響下にあったらしく︑近代
文明の衰微の原因をキリスト教︑とりわけブルジョア化したカトリック教の真に帰すことが多かったが︑だからとい
ってキリスト教そのものを全面的に否定していたわけでもないことはすでに見たとおりである︒少なくともこの時期
の彼には︑﹁今の出来事﹂︵すなわち︑フランス軍の敗退を指すのであろう︒朝比奈︶ を﹁好きになる﹂︵すなわち︑
観念的に超克する︿聖︶ために︑ポール‖ロワヤルの修道女たちの強敵さが頼みの綱だったにちがいない︒苛烈な弾圧
に耐えつつ︑四面楚歌の状況の中で信念を守り通した彼女たちへの人間的な共感︑連帯感を媒介として︑抵抗の原動
力を彼女たちに与えたと思われる﹁キリスト教﹂に︑フランス再生の︑奇蹟を期待するにいたったのである︒そして
﹁キリスト教﹂がかつてポール=ロワヤルを改革せしめたように︑フランスをも改革せしめることを︑敗色濃いフラ
ンス軍の堕壕の中でいっそう強く﹁夢想﹂したのである︒﹁キリスト教﹂への期待が真の意味での信仰に発していたか
どうかは疑問だし︑他方で彼がパガニスムの荒々しい力に捧げていた讃美︵撃 とどのように結びつくのかという懸念
も残るが︑改革の必要を痛感していたこと︑しかもその改革の実現に少なからぬ希望をつないでいたことだけは確実
だろちノ︒
やがて負傷した彼は︑六月初旬︑パリ経由でマルセイユに達し︑そこで休戦を迎える︒中断していた﹃ポール川ロ
ワヤル﹄にふたたび取りかかる機会を得たわけだが︑休戦そして全国民的な混迷・虚脱という新状況の中に於ても︑
先頃までの改革の夢をはたして持ちつづけえたのであろうか〜一九四三年に書かれた文章の中で︑彼は休戦直後の混
迷期を生き抜くために不可欠だった麻酔剤的仕事 t ⊇く ai − na 岩 Otiqu のに言及している︒
私も一度︑一度だけだが︑麻酔剤的仕事なるものを経験したことがある︒一九四〇年六−七月︑不吉なものとグ
ロテスクなものとが絡まりあい︑一緒くたになって︑死体︵何の死体かはあまりに明らかな︶の上で死の舞踏を踊っ
ていた︑とある町で ︵名を挙げたくない︶︒その時の私は︑数日前ソンム河の聖壕の中にいた時と同様︑ホテルの
ロビーで︑一言でも口にすると︑たちまち人の璽鴬を買う始末だった︒この時ほど孤独だったことはないし︑また︑
モソテルランの﹃ポールーーロワヤル﹄︵二︶ 四三
四四
私の内面にあるものと余りに違い過ぎる世界からいよいよ引きあげる潮時だと︑この時ほど確信したことほなかっ
た︒そんな私を仕事が救ってくれた︒私はポール H ロワヤルに関する戯曲にとびついた ︵あまり﹁鳴り響いて﹂︑
銃後に戻って t 一週間たってもなお︑綴り字がきちんと書けなかった︶︒私にとって作品はもう意味を失っていた︒
私には想像がつかなかったのが T −−それがいかなる社会で陽の目を見るのか︑いかなる社会がそれを迎えいれるこ
とができるのか︑そもそもそれが迎えいれられるような代物であるのかどうか︒しかし仕事は意味を持っていた︒
お蔭で他人の存在や自分自身の存在を忘れることができたのだから⁚・︵警︒
ここには︑帝晦することの多いモソテルランにしては珍しく赤裸々な絶望の告白があるように思われる︒この告白 を信ずるかぎり︑一九二〇年代後半の﹁追い立てられた旅行者﹂の危機とはちがって︑外発的であるとはいえ︑第二
の危機に彼が臨んでいたとさえ言えるかもしれない︒しかし︑これが三年を経た後の︑回顧的文章だということを忘 れてほならないだろう︒一九四〇年六月から翌年の五月にかけて執筆され︑﹃夏至﹄ におさめられたエッセイ類は︑
全般にむしろ楽観的な気分を漂わせているからである︒そのあまり︑ひと頃モソテルランに対独協力者の嫌疑をかけ
た人々が︑それらのテキストを格好の証拠とみなしたくらいなのだ︵警︒ドイツ軍どころかベタソ政府に対してすらど
こまで協調的だったのか︑その政策の成果にどこまで甘い夢を託していたのか︑についてほにわかに判断できないに
しても︑ゲィシー体制の限界があらわになった一九四三年の文章が絶望的であればあるほど︑むしろ逆に一九四〇−
四一年当時のモソテルランほ︑将来について希望的な見通しをもっていたと言えるかもしれない︒たとえ敗戦により
挫折を経験したとしても︑彼はそのショックから急速に立直ったのだ︑少なくとも表面的には︒
l 九四〇年の末頃︑多くのフランス人は︑フランスの改革 r か fOrme は可能だと本気で信じていた︒私も︑言う
なればその大勢の一人だった︒そしてこの改革という理念が同時に﹃ポール=ロワヤル﹄と﹃夏至﹄に糧を与えて
いた︒つまり︑キリスト教の改革と︑国家の改革である︵聖︒
しかし︑﹁麻酔剤的仕事﹂によっても︑改革の期待の中でも︑第一の﹃ポール‖ロワヤル﹂ほ脱稿にいたらなかっ
た︒そればかりでなく︑おそらくはふたたび作者の手から一たん離れたのち︑ようやく一九四二年真に完成した︒
私の手許を離れたこの作品︵﹃ポールー=ロワヤル﹄︶に︑長い間︑私は言わば片手をかけたままでいた︒普通なら︑
私は創作を終えるなり︑早速それから身を引き離し︑それに背を向ける︒それほ私を焦立たせ︑うんざりさせるの
だ︒﹃ポール=ロワヤル﹄にしても︑芸術作品としては︑この綻から免れてはいなかった︒しかし︑それと同時に︑
この作品の制作のお蔭で二年間私が生きてきた生き方に対するノルスタルジアが︑私に貼った︒私には︑わが身に
もっともふさわしい空気を吸えた場所が︑失われてしまったように思えたのである︵讐︒
一九四二年といえば︑モソテルランの年譜の上で一つのエポックを画した年である︒といっても︑二年越しの苦心
作﹃ポールーーロワヤル﹄が完成したからではなく︑それより前︑五月から六月にまたがる五週間で一気に書き上げら
れた﹃死せる女王﹄が︑十二月にコメディー・フランセーズで初演され︑劇作家モソテルラン誕生の年となったから
である︵3
7︶︒この作品の成立には︑時のコメディ・フランセーズ理事長⊥=Lヴォドワイエの懇溝が大きく作用した ことほよく知られている︵讐が︑ジャン・ド・ペニルによると︑もともとヴォドワイエほ﹃ポール=ロワヤル﹄の上演 を希望して断われたために︑次善の策として︑スペイン戯曲の翻案をすすめたのだという︵空︒モソテルラン自身もそ の事実を否定せず︑ただ﹃ポール=巾﹁アヤル﹄を出ししぶった理由として︑﹁警察・家宅捜索・投獄といった話の出 てくる内容が︑ドイツ側には当時の状況へのあてこすりに満ちているように見え︑そのため上浜を禁止されるだろう と考えたからだ﹂︵40︶と述べている︒前年の﹃夏至﹄がドイツ軍当局の発禁処分にあった事情︵41︶もあり︑彼がきわめ て慎重な態度をとらざるをえなかったことは推察できる︒しかし︑もしそれほど内容の政治性に神経をとがらせるの であったら︑﹃死せる女王﹄を執筆しその上演に応じることこそ躊躇すべきだったのではあるまいか︒なぜなら︑こ の芝居を一種のレジスタンス劇のように理解して拍手喝采を送る観客が跡をたたなかったことを彼自身認め︑迷惑顔
モソテルランの﹃ポール=ロワヤル﹄︵二︶ 四五
四六
をしてみせている︵雲が︑それが予め見通せなかったとは考えにくいからである︒まして︑ゴーリストとしても文学者
としてもこの芝居を高く評価しているペニルなどほ︑当時の状況の中でこれほど﹁倣憬な﹂芝居ほなく︑まさにそれ
だからこそ﹁観客に受けた﹂︵ 13 ︶ とまで断言しているのである︒そうだとすれば︑﹃死せる女王﹄の時局性についての
論議はともかく︑﹃ポールーーロワヤル﹄ の発表を差控えた理由が内容の政治性以外にもあったことを窺わせるに十分
であろう︒それ以外の理由としてほ︑﹁﹃ポール=ロワヤル﹄について﹂︵空︵一九四四年︶でも︑﹃サンチアゴ騎士団長﹄
の ﹁あとがき﹂︵ 15 ︶ ︵一九四六年︶ でも︑作者自らくり返し訴えている作劇上の技術的困難が有力であろう︒彼がこの
作品に対していつまでも後髪を引かれるような思いを禁じえなかったというのも︑内容に対する愛着もさることなが
ら︑もとを臥せば︑出来栄えそのものに今一つ得心がいかなかったことが大きいように思われる︒
果せるかな︑第一の﹃ポール=ロワヤル﹄は︑ドイツ軍の検閲がなくなって作品発表の自由が回復されたあとも︑
上涜どころか︑出版の機会すら与えられることがなかった︒そして久しく筐底深く眠らされたあげく︑ l 九四八年に
なって漸く再読した作者自身に﹁よい印象を与えなかった﹂のみならず︑一九五三年にほ情容赦もなく﹁誤まり﹂との
最終判定を下され︑ついに破棄されてしまう︵璧のである︒そして︑それに代るものとして第二の︑決定版﹃ポールーー
ロワヤル﹄が執筆されるのだが︑そのためにほ一九五三年の一夏が充てられたにすぎない︒難産のあげく結局は死産
に終ってしまった第一作とは︑何たる相異だろう! しかも︑両者の問には損 T に創作に要した時間の多寡にとどまら
ず︑もしも作品に関する審美的もしくほ思想的な価値観の相異までが存在するとなれば︑モソテルランとポール=ロ
ワヤルの関係は段階的に深化したと考えているわれわれにとって︑両者の比較ほきわめて重要な意味をもつことにな
る︒ ︵七︶
二つの﹃ポール=ロワヤル﹄の比較ほたしかに魅力的な課題ではあるが︑実は︑すでに述べたように第一作のガは
いわば聞から闇に葬りさられたわけだから︑本来の比較対照は不可能なのである︒残る手段としてほ︑作者の気まぐ
れで断片的な情報を集積し幻の作品を再構成した上で比較を試みるしかないが︑さいわいロビシュ教授の著書に手際
よくまとめあげられているので︑それを適宜参考にして整理すると次表のようになる︒
場 所=シャンの修道院本院︒ 丁りの修道院別院︒ 第一﹃ポール=ロワヤル﹄
資料︵ 48 ︶ 露揖=ノ紺㌦‖三″㌔その他ほ不明
扱われて いる時期 ﹁格子戸の日﹂つまり一六〇九年九月二十五日︵4
9︶︒ 登場人物 台 詞 構 成 主 題 メール・アンジェリック︒ メール・アニェス︒ 両者の父と母︒ 兄アルノー・ダンディイ︒ 第二﹃ポールーーロワヤル﹄
きわめて多数︒中でもアンジェリック・ド・サン=ジ
ャン﹃囚われの記﹄を代表とする手記類︒
一六六四年八月二十一日︑二十六日︒
スール・アンジェリック・ド・サン=ジャン︒
メール・アニェス︒
スール・フランソワーズ ︵実在せず︶︒
パリ大司教︒
改革への情熱︒
恩寵対人問愛︒
コルネーユ的な意志の勝利︒
モソテルランの﹃ボール=ロワヤル﹄ ︵二︶
.‖一巨0冶月㌦1四幕︒
迫害との戦い︒
ジャンセ:スム対イエズス会主義︒
信仰の危機︒
多数派と権力の勝利︒
四七 当時の文言を大胆に転用︒ 一幕︒
四八
作品の外的条件を明らかにしようとする本稿の趣旨から見て︑右の表で特に注目すべきは︑資料・時期・台詞の各
項において顕著な相異であるが︑台詞については作劇術上の問題が中心になると考えられるので︑さしあたり質料と 時期の問題に限ってその相異の意味を探り出すことにする︒
前者に関しては︑サントーーブーヴの作品の資料的価値の変化︑というより低下が目につく︒第一の﹃ポール=ロワ
ヤル﹄については推測でしかないが︑いずれにせよサント\フーヴの比重が圧倒的に大きかったことほまちがいな い︒当時のモソテルランが︑文献︑さらにはサント=プーヴ自身が用いた第一次資料を十分に参照しなかった︑ある
いほできなかったとすれば︑彼の作品ほ当然サント=ブーヴに対する全面的な信頼の上に築かれねばならなかっただ
ろちノ︒ 彼が第一の﹃ポール=ロワヤル﹄の主題として﹁格子戸の日﹂を選んだことが︑その何よりの証拠である︒なぜな
ら︑サント=ブーヴに忠実にポールーーロワヤル史を辿ろうとするかぎり︑﹁格子戸の日﹂こそ第一の︑そしておそらく 唯一の山場であり︑このエポックをもってポール=ロワヤルを代表させることはど自然な選択ほないからである︒根
っからの懐疑主義者のことゆえ当初から限界があったとはいえ︑敬虔なカルダィニストの地ローザンヌでポール=ロ
ヮヤル史の講義を始めた時︑サント‖ブーヴはキリスト教︑とりわけポール n ロワヤル修道院に対して熱っぽい憧れ を抱いていた︒その憧れほ︑詩集︒慰め﹄をも凌ぐほど甘美でメランコリックな調子で歌いあげられた﹁格子戸の日﹂
︵第一巻五章︶において頂点に達したのち︑第二巻﹁サン・・シラン氏のポール‖ロワヤル﹂にまでしか持続せず︑第三
巻﹁パスカル L 以降ほむしろ急テンポで失望に変り︑本稿臼の引用文から察せられるような冷淡さを章ごとにつのら
せつつ最終巻にたどりつく︒さて︑サント=プーヴをかくも感動させ︑強いノスタルジアの原因となった﹁格子戸の 日 L − aJOum 紆 duGuichet ︑フランス史上に名高い﹁バリケードの日﹂− a − Ourn 紆 desBa ⁚已 cades や﹁欺かれた
者たちの日﹂− aJOum 軒 des Dupe00 とも比肩する︑ポール‖ロワヤル史上の一大事とされる﹁格子戸の日﹂とほ︑
そもそも︑いかなる日だったのか〜 ここでサント=プーヴの記述を要約しておこう︒
十六世紀末から十七世紀初頭にかけてフランス国内に生まれた反宗教改革の気運の中で︑ポール=ロワヤル修道院
でもそれまでの弛渡した修道生活の規律を粛正する動きが起こったが︑その先頭に立っていたのが若き大修院長メー
ル・アンジさリックである︒改革の重要テーマの一つは︑俗世間との交流の自由を断ち︑隠世の誓穂 く招 uH d の
C −賢∈・ e を文字通り実践することだったが︑問題の一六〇九年九月二十五日︑従来通り面会にやって来た父母を前に
して︑アンジェリックほ神への誓約か骨肉の惜か︑二者択一を迫られる破目に陥った︒父にしてみれば︑修道院とほ
いい条もともとは自分の所有物︑それを当時の風習に従い持参金代りに娘に与えたまでだという腹があるので︑どん
な事情にもせよ︑立入りを娘に拒否されることなどとうてい理解できなかった︒激昂する父︑なげき悲しむ母︑自分
だけは特別扱いするだろうと高をくくって見守る修道女たち︑その中にあって︑執拗に父母の院内立入りを拒みとお
し︑格子戸の内側に懸命に立ちはだかっていた彼女は︑ついに精根つきて卒倒してしまう︒ところが︑娘の身の安全
を気づかう父親はこれを機に軟化し︑立入りを断念する︒かくして誘惑にうち勝ったアソジェリックは︑以後の改革
の土台を見事に築きおおせた ー これが﹁格子戸の日﹂の願末である︒ さて︑一部始終を語りおえたサソトーープーヴは︑かよわい修道院長の見せた超人的な強さに感動するあまり︑その
かげに神の恩寵の働きを読みとる︒そしてこの恩寵の介入を︑明らかにギリシア悲劇のデウス・エクス・マキナにな
ぞらえ︑﹁単なる経験論的見解﹂と断わりながら︑次のような特徴を列挙している︒
l ︑﹁泥棒のように﹂とつぜん侵入してくること︒
二︑障害がかえって神慮の道具となること︒
三︑当の人物は︑理性的な立場からすれば狂気としか思えぬ振舞いに及ぶこと︒ 四︑恩寵に関するかぎり中庸とか節度とかはなく︑全てか︑しからずんば無であること︒
五︑恩寵の状態にある者は︑神への全的な帰依・自己犠牲・利他心など︑どのケースにも通有の性格を有すること︒
こうした諸特徴を︑サント=プーヴのもう二つの説明︑例のスタンダールの理論を応用した説明と重ねあわせてみ
よ六ノ︒
モソテルランの﹃ポール=ロワヤル﹄︵二︶ 四九
五〇
この神の愛の低級な形にはかならぬ︑もう一つの愛についてある才人が適用した巧みな比喩を用いるならば︑恩
寵はいわば魂を結晶させる︒それまでほ︑ぼんやりとして︑ばらばらで︑流動的だった魂を︒そう︑一瞬前までほ
ヽ ヽ ヽ ヽ
バビロン河のように流れ下り︑両岸の景色をいたずらに映していた魂が︑停止し︑一気に固まり︑形をなす︒それ
はきれいな水晶︑ダイヤモンドになり︑きらきら輝く難攻不落のシオン砦になる︒そこでは神秘的な精妙さで︑す
べての対立が同時に結び合わされる︒それまでほ流動的で移ろいやすかったものが︑定着し固体となる︒固くて不
透明だったものが︑あとからあとから湧出し光り輝くものになる︒水ほクリスタルとなり︑巌は泉となり︑すべて
が光となる︒ l 言でいえば︑それは結晶作用である︒しかも︑固定的なばかりでなく︑動的な︑氷でほなく火のよ
うな結晶作用︑活溌で︑光り輝き︑燃えたぎる結晶作用である︒︵傍点︑サント=ブーヴ︶︵聖
以上の説明がそっくりそのまま︑いわゆる芝居の山 cOup deth 小野 re にあてほまることは自明だろう︒サント=
プーヴはいつしか﹁格子戸の日﹂のポールーーロワヤル修道院を舞台に見立て︑主人公アンジェリックの卒倒を大きな 山とした一篇の芝居を書いているつもりになったのだ︒その証拠に︑彼はこの卒倒を︑さっそく︑アシェエリユスを
前にしたエステールのそれになぞらえた上︑ラシーヌに対し︑芝属の作者としてほ﹁格子戸の日﹂に多くを負うてい
るにちがいないくせに︑﹃ポール=ロワヤル略史﹄の著者としては︑アンジェリックの卒倒に二言も触れていないこ とにつき︑大きな不満の意を洩らしている︒
ダウ
⁚二フシーヌのこの失念︑この省略の中に私は文学上の臆病さと好みをかいま見る︒おそらく彼は例の場面が強
烈すぎる− 1 −性格の点でも素直さの点でも強烈すぎると判断したのだ︒彼は冷やかされることを恐れたのだ︵讐︒
サント=ブーヴはそれでもなおあき足らず︑さらにコルネーユの﹃ポリユークト﹄さえ引合いに出したあげく︑こ
トラジコメディ
の日およびそのあとの修道女たちの生き方に︑﹁まるでコルネーユの悲喜劇さながら L ﹁人は微笑み︑そして涙を流
す﹂︵警 とまで書いている︒
ここにほ劇作への誘いかけ︑あるいは挑発が露骨に感じられる︒してみれば︑サント‖ブーヴにそもそも触発され
てポール=ロワヤルの劇化を思いたったというモソテルランが︑他のどのエピソードよりもこの﹁格子戸の日 L の魅
力にとりつかれてしまったのほ︑けだし当然といわなくてはならない︒と同時に︑これほどまでに劇的要素の完備し
た一日をせっかく取りあげて作品に仕上げながら︑それを﹁誤まり﹂と断じて破棄したという行為が︑彼と﹁格子戸
の目﹂との関係のみならず︑サント=プーヴその人との関係にまで重大な影響をもたらすことも避けられないであろ
ぅ︒そうだとすると︑第一︒ポール‖ロワヤル﹄から第二﹃ポール=ロワヤル﹄への発展のうちに︑キンテルラン対
サント=ブーヴ関係のいったいいかなる変化を読みとることができるのだろうか〜
︵八︶
すでに㈲で述べたように︑モソテルランとしては︑サント=ブーヴからある程度離れられなければ︑作品を完成さ
せることは不可能だが︑そうかといって︑ポール=ロワヤルから離れすぎてしまえば︑かりに作品ができあがったと しても︑本来のモチーフを裏切る結果になる︒
その後︑銅で明らかになったごとく︑敗戦前後の体験を通じてポール=ロワヤルほ作家の内面に急速に食いこみ︑
作家と一体化するに至った︒かくして第一の﹃ポールー一口ワヤル﹄が生まれたが︑出で見たとおり︑そもそも構想自
体に︑いわばサント=ブーヴ離れが不十分だったために︑モソテルランにはいつまでも欲求不満が残ったのである︒
だから︑第一の﹃ポール‖ロワヤル﹄をはっきり﹁誤まり﹂として斥けえたことほ︑その時点で︑モソテルランが
サント‖プーヴ一辺倒の隷属状態から独立したこと︑言いかえれば︑外面的にも内面的にも︑偉大な先人の業績を乗
りこえ︑独自のポール=ロワヤル像を提示しうる境地に達したことを予想させる︒
外面的には︑史実の取扱いに関する次の宣言に︑第二︒ポール=ロワヤル﹄にかけた彼の自信がにじみ出ている︒
モソテルランの﹃ポール=ロワヤル﹄︵二︶ 五一
五二
この第二﹃ポールーーロワヤル﹄の執筆にあたり︑私ほ史実に対していくつかの点で自由な裁量を加えた︒第一
﹃ポール=ロワヤル﹄ 執筆中はそこまで踏みきれなかった点である︒そして︑まさしくこの細心な配慮がわざわい
して︑私の第一作は冗長でごたごたした芝居になってしまっていたのである︵聖︒
このあと彼ほその﹁自由な裁量﹂のうち主要なものを遂一列挙するのだが︑それらが大局的に見てポール=ロワヤ
ル修道院史の歪曲にならないことを知る者にしてほじめて可能な態度であろう︒じじつ︑文献の調査には︑当代随一
のポール=ロワヤル研究家ルイ・コニュ緬の指導を受け︑十分に手を尽したことが知られており︑モソテルランの血︵
拠を調査したモソディーニ氏作成による文献目録には︑主要なものだけでも︑サント=プーヴの著書以外に二十数点
が挙げられている︵警︒もっとも︑ルイ・コニュ師秘蔵のメール・アンジェリック・ド・サン=ジャン自筆書簡やセ
シル・ガジュ著﹃ポール=ロワヤル修道院史﹄︵一九二九年刊︶などごく少数の例外を除けば︑いずれもサント=ブー
ヴが活用した史料の域を出るものではない︒つまり︑モソテルランは別個の新資料に拠ったわけでほなく︑サント=
ブーグがすでに渉猟しっくした記録文書の類を自分の目で精読したにすぎなかったのである︒この事実は︑一面にお
いて︑サント=ブーヴの旺盛な研究意欲と周到な調査活動の規模をあらためて実証したものといえるが︑他面におい
て︑サント=プーヴのポール=ロワヤル観の偏向︑少なくともキンテルラソのそれとの喰違いをいっそう鮮明に浮彫
りにしたことも争えない︒
喰違いの中でも特に顕著なのほ︑アルノー家に対する両者の態度である︒サント\フーヴは︑オーギュスタン・ガ
ジュが指摘する︵ 56 ︶ように︑当初からアルノー安気質を好まず︑ことごとに嫌悪の色を露わにして悍らなかった︒一
例を左に示そう︒ここで槍玉にあがっているのは︑後に大アルノ 1 と呼ばれるようになったアントワーヌ・アルノー
の︑母の死に際しての言動である︒
まず第一に︑まだ聖職者でも神学博士でもないくせに︑修道女たる母が危膏だというので︑彼が修道院への立入り
許可を強く迫ったことを述べながら︑サント=ブーヴは︑時の教導者サンダランが﹁それでは余りに人間の自然な感
情に護ることになる﹂という判断から拒否したことを強調している︒彼がサンダランの処置に共鳴していることは容
易に見てとれる︒
次に︑母から﹁神の道の弁証にはげんで決して弛むな﹂という遺言を受けた彼が︑獄中のサン=シランに宛てた手
紙の中で︑﹁思うに︑母が私たちに残した数々の大いなるしるしほ︑神に選ばれた人々の列に彼女を加えるにふさわ
しいでしょう︒そして奇蹟について言えば︑私が今この心に感じている奇蹟にまさるものを知りません︒⁚・聖アウ
グスチヌスが聖女モニカの涙の息子であるのと同様︑私は母の涙の息子なのですから﹂と書いたことを引き︑次のよ
とノにコメントしている︒
ヽ ヽ ヽ ヽ
それにしても︑家族感情の■粧いの下にぅぬぼれがしのびこんでいる有様︑高慢が聖性の衣をまとっている有様が︑
感じられるのではないか〜
最後に︑この批判を大アルノーのその後の全業績にも拡大して︑次のように断罪する︒
大アルノーほ何よりもまず博士であって︑キリスト教的騎士道を志して代父たち︵サンーーシランらをさすのであろ
ぅ︒朝比奈︶ の意図をはみ出し︑行き過ぎ︑闘い過ぎた︑そしてあまりに正当で︑また自己の正当性を強調しすぎ
たために︑ポール=ロワヤルとその仲間を当初の道筋から外へ連れだしてしまったが︑その道筋の限界ほすでにこ
の時にもう︵つまり母の死の時の態度︒朝比奈︶越えられていたのだと私は思う︵ 57 ︶︒
サント=プーヴのむしろ苛立ちに近いこのアルノー批判は︑ジャンセニスム全般にもしばしば拡張され︑﹃ポール=
ロワヤル﹄の第二版で加筆された注では︑ついに﹁不可欠の荷物としてアルノー全集四十巻を持ち歩かねばならなか
ったジャンセニスト﹂よりは︑メソジストの方がよほど自由で︑それだから布教にも成功した︑とまで書いてしま
モソテルランの﹃ポール=ロワヤル﹄︵二︶ 五三
五四
う︵讐︒これはただの小さな注ではあるが︑その精神において﹃ポール=ロワヤル﹄という膨大な著作のモチーフを否
定することになりかねない︒見るに見かねたプレイヤード仮の編者マクシム・ルロワは︑次のような見解を述べて︑
サン L ﹁⁚‖ブーヴを弁護している︒
冒頭ではかすかに聞こえる程度の苛立ちが︑時とともにはっきりしてきて︑この注では明確な批判の形をとって
いる︒この書物の読み方としては︑こうした不機嫌さの徴仮にはあまり重きをおかず︑次の事実を認識するだけに
した方がよいように思われる︒すなわち︑サント=ブーヴほジャンセニスムの中で︑道徳的態度︑敬慶さ︑勇気を
真に愛しはしたが︑三百代言的な執拗さ︑神学上の詭弁は好まなかった︒これらの欠陥は知的な面で彼をますます
不快にさせ︑ついにはうんざりさせてしまったのだ︑と︵哲︒
この弁護は当を得たものと考えられるが︑ここに言う三百代言的執拗さ︑神学上の詭弁こそ︑大アルノーに代表さ
れるアルノー家気質の一面だったことを忘れてはならない︒
これとは対照的にモソテルランは︑高慢さのためにかえってアルノー宏一族に特別の敬愛を感じていた︒資料の提
供など実際的な便宜を受けたせいもあるだろうが︑それにしても晩年にいたるまでアルノー・ダソディイ家の末裔と
文通をつづけた︵伽︶という事実は︑一宏に寄せる彼の感情が︑単なる作中人物に対するそれを超える深さを持っていた
ことを証拠だてている︒その意味で︑第二﹃ポール=ロワヤル﹄の次のやりとりは︑さながらモソテルラン対サント=
プーヴの対決を思わせて興味深い︒
スール・フラグィ 1 十二名の人たち ︵追放されることとなった修道女たちのこと︒朝比奈︶ がいない修道院にな
っても︑私は困りませんよ︒その結果︑アルノー殿以外の方を大司教にお迎えすることになるのでしょうから︒
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
スール・アンジェリック 1 その名を聞いても私が恥じる必要ほありません︒なにしろ︑わが一族の家名をロにす
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
ることほ︑ほとんどそのまま神の御名を口にすることなのですもの︒
スール・フラグィ ー これからの境遇が︑あなたのその高慢の鼻を︑へし折ってくれるでしょうよ︑修迫女様︒高
慢こそ︑この場にもっともふさわしからぬものなのですから︵飢︶︒︵傍点 朝比奈︶
スール・フラグィがパリ大司教と内通して修道院の仲間を裏切ったというのは︑最近の研究によると︑彼女のごと
きアルノー一族外の有力者をライヴァル祝していたアンジェリック・ド・サソ=ジャンの悪意に満ちたデマにすぎな
い︵聖ようであるが︑とかくアンジュリックに批判的なサント=ブーヴも︑フラグィ自身の人となりや彼女と大司教側
との密着ぶりについては︑アンジュリックの記述の信憑性を疑っていない︵撃︒だから︑サント=プーヴと同時に﹃囚
われの記﹄を典拠にしたモソテルランが︑このエピソードを重視し戯曲の一つの山に仕立てたのも首肯できるし︑こ
とフラグィに関するかぎり︑両者は同じ側に立っていると考えてよかろう︒ところが︑モソテルランがアンジェリッ
クの台詞に彼女自身の文言︵鋸︶をそっくりそのまま採用する︵傍点部分︶一方︑フラグィにはサント=プーヴの持論を
いわば代弁させたことによって︑場面はにわかに対決色を帯びてくる︒むろん︑作劇法上︑アンジェリックとフラグ
ィとを対等に取扱おうとする配慮が働いていることは事実だろう︵ 65 ︶︒しかし︑それと同時に︑いやそれ以上に︑よか
れあしかれモソテルラン的人間たるアンジェリノクを︑ことさらサント=プーヴの批判の矢面に立たせたと考えられ
ないだろうか〜 それはモソテルラソ好みの比喩を用いるなら︑牛の突進をせきたてるべく︑危険を承知で足踏みを
する闘牛士の態度だ︒サント=ブーヴに対する挑戦であり︑アルノー的精神との連帯意識の表明であった︒それとい
ぅのも︑フラグィ ︵=サント=ブーヴ︶がアンジェリックの欠陥として指摘した ﹁高慢の鼻﹂︵髄︶ ︵フラグィは芝居の
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
冒頭でも﹁狛介﹂で﹁何かにつけいちゃもんをつける人﹂と評している︶ こそ︑モソテルランが人間にとってかけが
えのない稟質 qua − it かとしてたえず尋ね求めてきたもの︵ 67 ︶にほかならぬからである︒実をいうと︑この qua − it 小の
概念は模糊として的確な訳語を当てがたいのだが︑はっきりしているのほ︑この稟質の有無というきわめて素朴で本
質主義的な基準こそ︑彼の描く人物たちのキー・ポイントであり︑そもそも彼自身この実質︵ある人ほいささか大仰
キンテルランの﹃ポール=ロワヤル﹄︵二︶ 五五
五大
に﹁一千年におよぶ︑フランス個人主義特有の倣岸不遜Lと呼んだ︶︵68︶ の当代における体現者だということである︒
こう見てくると︑サント=プーヴが一方でその人物の大きさを認めつつも︑むしろそのために冷遇せざるをえなか
ったアンジュリック・ド・サン=ジャンの裡に︑すぐれてモソテルラン的な稟質を探りあてた時に︑第二﹃ポールー一
口ワヤル﹄は︑フごフソトやアルヴァロを育んだ土壌に成立の基盤を獲得したということができる︒その意味では︑
アンジェリック・ド・サン=ジャンの発見ほ︑﹁格子戸の日L の放棄と表裏一体をなし︑モソテルラン的﹃ポール=
ロワヤル﹄成立の一大要件だったのである︒
︵九︶
さて︑アソジェリック・ド・サソ=ジャンとモソテルランとの結びつきを決定的に深める機縁となったのは︑彼女
が一六六四年八月l一十六日にポール=ロワヤル修道院を追放後アノンシアード会修道院に幽閉され︑弧独のうちに過
した十カ月の体験を綴った︑﹃囚われの記﹄︵空 である︒この手記をはじめ︑この時期の苛烈で執拗な迫害の実態とそ
れに対する修道女たちの反応をこと細かに記した記録文書︵空に︑モソテルランがいかに多くを負うているかほ︑いず
れ作品そのものの分析の過程で明らかになるだろう︒ここでは︑同じ文献を渉猟したサント=ブーヴの読み方に関す
るモソテルランの感想を取りあげて︑修道女たちに対する両者の態度の喰違いを指摘するにとどめる︒左に引用する
′−ト・
のは︑第二﹃ポール=ロワヤル﹄に付された﹁覚書﹂︵一九五四年︶ の一節である︒
ポールnロワヤルの修道女たちは︑事態を誇張してメロドラマ調にしてしまったと︑サント=プーヴは書いてい
る︒これは︑多くの点で身の毛のよだつような史実をあまりにも無神経に想像することだ︒世論は︑サント=プー
ヴ以上に﹁苦悩の味方﹂につくだろう︒当時の迫害がいかに今日のそれに似通っていたか︑そしてジャンセニスト たちが今日のヨーロッパ人にとってどこまで兄弟姉妹であるかを実感したとするならば︵空︒
すでに述べたように︑サントーーブーヴの好むポール=ロワヤルは︑改革を志し一歩一歩実現へと地道な努力を重ね
トラジコメディ
る若者たちを主役とした︑悲喜劇の世界であった︒その立場からすれば︑たとえ政治権力と結託したイエズス会側の
強圧的な出方に非があるにせよ︑身のほどを忘れた反抗的態度を頑なに改めようとしない修道女たちは︑自らすすん で迫害を招き寄せ︑メロドラマ調の殉教劇を演じている ー こうした見方が出てくるのも無理からぬところだったろ
六ノ〇