明治初期における特殊教育の一研究
伊 藤 幸 恵
特殊教育は普通一般の教育の方法では,学習をすすめてゆくことが,著しく 困難であるような心身の障害をもったものに対する教育である。
すべての人間には教育を受ける権利があるということ,その教育は,あくま でも教育を受けるものの人間性を尊重したものでなければならないということ は,心身の障害者にとっても例外ではないのである。心身の障害者が,その心 身の障害のために,教育上,差別されることがあってはならない。
心身にある程度以上の障害をもつものは,普通一般に行なわれているような 教育の方法では学習をすすめてゆくことができない。従って,心身の障害者 に,その教育の機会が保障されるためには,心身の障害者が,その障害を克服
して,学習をすすめてゆけるような教育の機会が与えられなければならない。
心身の障害者が一個の人間としての教育を受ける権利を保障しようとすると ころに,特殊教育の必要性が提起される。心身の障害者の教育は,まず,その 心身の障害を補償しうるような教育の方法をもってはじめねばならない。特殊 教育は心身の障害者が心身の障害を克服して学習をすすめてゆくことを可能に するためのものである。心身の障害を補償しうるような教育の方法が,特殊教 育である。その教育が,いかに困難なものであろうと,その困難さを理由にし て,心身の障害者の学習権を抹殺してしまってはならないのである。
心身の障害者に対する教育=特殊教育も,障害をもたないもの(障害の程度 が,特別な教育的処遇を必要としないもの)の教育も,その教育の基本的な理 念・目標は同じである。特殊教育の一体系が,普通一般の教育体系とでもいわ れるものから切り離されてあるのではない。また,普通一般の教育水準以下の ものとしてあるのでもない。特殊教育は普通一般の人間教育の体系の中で・そ
・の一環として考えられなければならないものである。
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すべての国民は,ひとしく,その能力に応ずる教育が与えられるとする,教 育の機会均等の原則は,心身の障害者にとっては,現在,まだ,ほど遠い理念 でしかない。現在なお,多くの心身の障害者が,正当な教育を受ける機会から
とり残されているのである。
明治以降,近代的な国民教育の制度が成立し,整備されてゆく中で,心身の 障害者の教育は,長い間かえりみられないできた。
特殊教育の歴史は,差別された教育の歴史であった。
公教育は心身の障害者をその教育の対象から除外してきた。従って,心身の 障害者に対する教育活動が行なわれた時でも,それは,普通一般の国民教育か
ら隔絶されたものとして位置づけられていた。正常ではない「特殊な」教育で
あった。
心身の障害者に対する教育が,正規の公教育の体系の中に明確に位置づけら れるようになったのは第二次大戦後のことである。昭和22年に制定された学校 教育法は,特殊教育の基礎を確立させたものであった。それは,特殊教育史上 画期的なものであった。以来,20年に近い年月のたった現在なお,特殊教育が 対象とするもの就学率は著しく低く,盲・聾児を除いた他の心身の障害児の就 学の義務制は保留されたままでもある。
教育上,差別されたものは心身の障害者のみではなかった。さまざまの社会 的なハンディキャップをもったものを含めて,特殊教育の歴史,差別されたも のの教育の歴史は展開されてゆく。
心身の障害者,社会的なハソディキャップをもったものは,社会からみすて られた存在であった。それら,社会からみすてられたとものの教育の問題がと
りあげられる時,それらは,すべて特殊教育として分類されてきた。特殊教育 は普通教育に対立するものとしてととらえられてきた。正規の教育以外の教育 のよび名であった。特殊教育における「特殊」とは,どのようなものであるか は,特殊教育がかってなかったような進歩,発展をしている現在においても,
なお十分に考えねぽならない問題であろう。
すべての国民の教育を理念として掲げながらも,ある種の人々を「特殊な人
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間」と規定することによゲd,教育上の差別が是認されてきた。この傾向は,
現在でも決してなくなってはいないのである。
心身の障害者等が,教育の対象から除外されていた時代において,それらの 人々に対する教育活動が,まったくみられなかったのではなかった。みすてら れたものの教育をとりあげようとした人々がいた。それらの人々はみすてられ たものの人間性を認めることをよりどころとして,未開拓な教育の分野をきり ひらいていった。
公権力がとりあげなかった特殊教育は民間有志者の必死の努力によって支え られてきた。その教育の成果を公権力は認めようとはしなかった。その教育活 動は正規の教育とは考えられなかった。従って,特殊教育にたずさわっている
ものは奇特な人々でしかなく,その教育は特異なもの,普通でないものとみら
れてきた。
教育の場からしめだされたものの教育の問題を提起して行なわれる特殊教育 の歩みは,当然のこととして,極めて困難な中に進められてきたものであった。
ここでは,明治初期において諸種のハソディキャップをもったもりの教育が どのようにして行なわれていったかをみようと思う。
(一) 「学制」期における特殊教育
明治5年に公布された「学制」は日本で最初の組織的・全国的な国民教育の 制度を規定したものであった。それは,ともかくも「すべての国民」を対象に
して制定されたものであった。
その「学制」において,心身の障害者等の教育は,どのように考えられてい たであろうか。
1 「学制」にあらわれた「廃人学校」
「学制」の中に特殊教育にかかわりがあると思われる字句を探しだすならば
「廃人学校」の名をあげることができる。
「廃人学校」の名称は「学制」の第29章に「中学校ハ小学ヲ経タル生徒二普
通ノ学科ヲ教フル所ナリ。分テ上下二等トス。二等ノ外工業学校商業学校通弁
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学校農学校諸民学校アリ。此他廃人学校アルヘシ」として,中学について規定 した章の末尾に,つけ加えあげられている。
しかし,この「廃人学校」とはどのようなものであるのかを「学制」は明ら かにしていない。 「廃人学校」についての説明は,まったくなされていないの
である。
「学制」は「廃人学校」についての説明をする必要がなかったとみることが できる。 「廃人」とは,心身の障害者等,いわゆる「不具廃疾者」等を広く指 すものであろうが,それらのものに対する教育,すなわち,廃人教育を振興さ せようとの意図をもって,「廃火学校:Jの名があげられたのではないのである。
「廃人学校」が一教育機関として存在する必要性はなかったのである。「廃人 学校」の名は不用意に「学制」の中に登場したものと,いうことができる。
「学制」の中に「廃人学校」の名があげられたのは,明治維新政府の欧化政 策によってであった。明治新政府は,新しい国づくりをはじめるにあたって,
欧米先進諸国の諸制度・文化・思想などの大規模,広汎な移殖が必要であると 考えた。「学制」は欧米先進諸国の教育の制度を範型にしてつくられた。その 間にあって「廃人学校」の名は,欧米先進諸国に教育的な機関としてあったも のが,そのまま,とりいれられたというにすぎないものであった。
当時の日本において,特殊教育成立の社会的地盤は,まったく用意されては
いなかった。
心身の障害者等に対する教育活動は,ほとんど行なわれていなかったのであ る。特殊教育はおろか,普通一般の人々に対する教育さえもが,一般化してい なかった時代である。普通一般の人々の教育さえもが,あまり行なわれていな いところに,心身の障害者などの教育が,とりあげられうる余地はないといえ る。心身の障害者等の教育の可能性が問われる以前の段階であった。
「廃人学校」が公的に認められたことによって,それを生かし得る廃人教育 の担い手は存在していなかったのである。
この,まったく未開拓な特殊教育の分野に関する,いくらかの考慮として,
「廃人学校」の名が示めさ・れたのでもなかった。
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「学制」に「廃人学校」の名があげられたことによって,各地に「廃人学校」
設立の気運が発生したということはなかった。
明治維新政府の教育政策からは, 「廃人学校」設立の必要性は提起されない のである。明治維新政府が強力に推進させたのは,富国強兵政策であった。富 国強兵の基となる国家有用の人材発開が教育の目的であった・一般国民の就学 奨励は,立身出世主義の観点から行なわれた。「廃人」とは,とうてい,立身 出世の望み得ないもの,国家有用の人材たり得ないものということである。そ の「廃人」に対して,教育の必要性はないであろう。 「自今以後一般の人民,
必ず邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す」国民教育の制度に おいて,「一般の人民」外の特殊な存在として「廃人」といわれるものがあっ
たのである。
一般庶民の就学奨励に最大の努力が払われていた「学制」期に,よほど強力 な人権宣言に基づいて,教育の制度が制定されたのではい限り,普通一一般の教 育と特殊教育が同時的に出発・進展するということは,ありうべきことではな
かった。
「学制」が「廃人学校」の名をあげたことをもって・ 「学制」の中に特殊教 育に関する,なんらかの規定が設けられたとみることはできない。
日本の近代的な国民教育の制度は,心身の障害者等に対して・なんらの考慮 をはらうことなく,心身の障害者を度外視して出発していったのである。
2 「学制」期における盲・聾教育をめぐる動き
心身の障害者等の教育が,まったく未着手であった「学制」期にeいくつか の特殊教育発生の種はまかれていた。心身の障害者の中で盲・聾者の教育が,
比較的早く生長してゆくのである。
「廃人学校」と盲・聾教育機関 「学制」にあげられた「廃人学校」は一般 的には,各府県においては,盲人(盲唖)学校とうけとられていたようである。
日本においては,古くから,盲人に対しては,いくらかの保護・救済の手が
さしのべられていた。鍼按・音曲が盲人の独専的な職業として認められてもい
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た。従って,盲人に鍼按・音曲を伝授する教習所のようなものが,小規模なが らも各地に散在していた。
従って,「廃人学校」の当面の対象として盲人の教育が,とりあげられやす い条件にあったといえるであろう。
しかし,これら盲人に対する教習所のようなものが,盲教育機関設立の母体と なることはなかった。そ?3,らの教育的な機関は,従来の盲人保護の慣行を廃止す る,明治4年の太政官布告によって,精力がいくぶんか弱められてもいたものと は思われるが,教育的な機関としては,あまりにも未成熱であったといえるであ ろう。
文部省年報などの各府県の学事報告書に, 「廃人学校」の名は,ほとんどみ ることができないが, 「学制」にはなんら,あげられていない盲唖学校(盲唖 院)の名が,しばしば記さ払ているのである。
いくらつの府県においては,あくまでも将来計画としてではあるが,盲唖学 校設立のことが記されている。しかし,一般的には盲・聾教育機関設立のこと などは論外のこととされていた。
大阪府の盲唖学校、その間にあって,極めて例外的な動きとレて,大阪府の 盲唖学校設立の事例をあげることができる。
大阪府では府の立案計画によって,明治12年11月, 「学制」が廃止され「教 育令」が公布された直後に,府立の盲唖学校を発足させている。
大阪府は,府の教育行政の一貫として,盲唖学校を設立させようとの意図を もった。明治10年に「盲人学校未ダ設ケズト難モ,唖者ハ己二小学二於テ教フ ル者多シ・コレヲー所二集メ盲人ヲ加へ,廃人学校ヲ開カントス」(文部省第5 年報・大阪府年報)との意志を表明した。盲唖学校設立の意向を表明した県は,
大阪府の他にも,わずかではあるがあった。しかし,これの実現を具体的に計
?たのは大阪府の婆であった。明治12年に「管内各種ノ教育己二着手二付猶ヲ ー歩ヲ進メ」 (文部省第7年報)て盲唖学校を設立隔 「模範盲唖学校」と命名
した。その名の示めす如く,全府下のジひいては全国の模範校たらしめようと
したのであろう。盲唖教則を制定,教員2名,生徒15名で開校された。
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しかし,この「模範盲唖学校」は数ケ月後には,府会の議決によって廃止さ れてしまった。
その他の試み 心身の障害者に対する教育がほとんどかえりみられていなが ったこの時期にも,心身の障害者に対する教育を行なおうとしたものが,わず かではあるがあったものと思われる。(特に盲・聾教育に関しては)
例えば, 「廃人学校」として公的に記録されているものが明治9年に一校あ る。これは東京・麹町に熊谷実弥によって設立されていた盲人学校であ6た。
また,福岡県教育史には, 「明治8年,三瀦県下の石門小学校教員,亀山寿 平が同校で唖生を教育し,他の常体の児童と同等の学力を持つまでにいたらし めたという苦心の教育」があったことを記している。
このような事例は,他にも数少ないながらもあったであろう。しかし,それ らは,いずれも個人の一時的な努力としてのみとどまり,その成果を残し得な いで終ってしまっていた。
能谷実弥による盲人学校は文部省年報の記すところによると,明治9年に開設 され,教員1名,生徒18名で事業を行なっていたが,翌年には廃校となっている ものである。
「学制」期,わずかにとりあげられ得る可能性のあったものは,盲・聾者の 教育であった。しかし,それも,成立し得ないで終ってしまった。
西洋事情の紹介 文明開化の風潮の下で,欧米先進諸国の文化・文物の紹介 が盛んにおこなわれた。その中には,特殊教育に関するものも含まれていた。
欧米先進諸国の特殊教育の成果が,いわゆる西洋事情として紹介されたのであ る。文部省発行の「教育雑誌」には高木治荘の「米国の盲者教育論」 (明治9 年)や,目賀田種太郎によるパーキンス盲学校の紹介などがのせられていた。
しかし,それらは,たんなる西洋事情の見聞録としてとどまり,特殊教育成立 の原動力となりえるものではなかった。
ただ,この間にあって,当時の工学頭・山尾庸三が盲・聾教育機関設立Q提 案を政府に対して行なっている。
山尾はイギリスに留学,造船学を学んで帰国した人である。滞英中,山尾は
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造船所等で聾者が一労働者として働いているのをみて驚いたのであった。盲・
聾者の教育の可能性を知った山尾は,明治4年,盲・聾教育機関設立に関する 建白書を太政官に提出したのであった。
山尾は建白書の中で「無用ヲ転ジテ有用」となすための提案を行なっている。
山尾は日本においては無用の存在でしかない盲・聾者が一労働者として働い ていることの中に,強国イギリスの繁栄をみてとったのである。「無用ヲ転ジ 有用」たらしめている「彼国文教隆盛ノ景況」を知ったのである。
山尾は海外の・盲聾教育事情の一紹介者としてとどまらず,接極的な提案を 行ったのであるが,山尾の日本の盲・聾者も教育できるはずであるという主 張,盲・聾者を一個の労働者として,したてあげようとする構想は,当時の日 本においては,現実的なものではなかった。
(二)特殊教育成立の準備期
「学制」期には,特殊教育を成立・発展させるような社会的条件は用意され ていなかった。特殊教育成立の地盤が,しだいにつくられてゆくのが,明治10 年代から20年代にかけてである。
1盲・聾教育機関の設立
心身の障害者等に対する教育活動を持続させることが困難な時代にあって,
存続し得る条件に豊まれたものが,京都と東京の地に,それぞれ,おこされた 盲・聾教育機関設立の運動であった。京都の運動は公立小学校内における盲・
聾教育実践の成果の中からおこされ,東京の運動は,文明開化の風潮にのって,
啓蒙思想家による盲人教育運動として展開されたものであった。
東京での盲人教育機関設立運動に貢献した,中村正直・津田仙・大内青轡(初 代院長)等は児童保護の観点から,触法少年のための教育的施設(感化院)を設 立する運動にも参加している。
(1)楽善会訓盲院の開設
明治8年,東京で外人医師,宜教師を中心に,古川正雄,津田仙,中村正直,
明治初期における特殊教育の一研究 (207)
岸田吟岸が集まって,盲人に聖書を教えることを目的とした,楽善会が組織さ れた。楽善会鉢同年の6月と11月の二回にわたって,訓盲所設立のための請願 書を,東京府知事に提出した。しかし,その請願書は, 「訓盲所の土地や建物 等を渡してほしいとか,経費の支出を願いたいということ」(文部省・盲聾教育 八+年史)であったので,府の認めるところとはならなかった。
この時,府はこれを,府の窮民収容所であった東京養育院内に設置しようとす る意向もあった。 (石神井学園史)
そこで,楽善会は世の富者・篤志家から訓盲所設立の資金を募集しようとし た。会は目的達成のために,有力官僚の力をかりようとした。「訓盲院設立の 運動を進めるにつれて,有力な官吏の協力が必要であることが痛感された」
(盲聾教育八十年史)からだという。従って,訓盲院建設の資金募集のために出 された「訓盲所設立勧進広告文」には,本来の会員以外に,前島密等の有力官 吏の名がつけくわえられている。「広告文」はひたすら世の憐れなる盲者に対す
る慈善心を訴えるものであった。山尾庸三も懇請されて入会した。楽善会は,
山尾が入会するにあたり,提出した意見を入れて,会の当初の目的(聖書教育)
をすてて,仏教各派,神道関係の有力者をも会員としていった。
こうした準備の後に,楽善会は有志者の寄附金で訓盲所を開設することの許 可を東京府知事から得た(明治9年3月)
明治12年21月,楽善会は盲人教育の校舎を築地の海軍省用地に新築落成させ ることができた。これを楽善会訓盲院と名づけた。
楽善会の訓盲院設立の運動は,各界の有力者,高位高官の力にすがり,世の 富者の「善を為する心」(広告文)なるものに,ひたすら訴えかけることによっ
て進められた。
楽善会訓盲院は「山尾の努力によって多数の官民から資金の援助を受けるこ とができ,……なかでも山尾の陰の尽力と参議官木戸孝允の厚意あっせんによ
り,明治9年12月御内幣金3,000円の下賜があり,それから各方面からの寄附 金が激増した」(盲聾教育八十年史)ことによって設立されたものであった。
楽善会訓盲所は,御内幣金の下賜を受けることによって,慈恵の一・施設とし
(208) 明治初期における特殊教育の一研究 て,社会的に,その存在が認められたのであった。
(2)京都における盲・聾教育機関設立の動き
特殊学級(痔唖教場)の成立 明治6年の頃,京都市上京区19組長であった 熊谷伝兵衛が,組内の二人の聾児の教育の可能性を確信したことに,その源が
ある。熊谷は管下の京都第19小学校(後の待賢小学校)の訓導・古河太四郎に,
その聾児の教育を依頼した。
古河は最初,聾児の教育の可能性を認めなかったが,熊谷に熱心に説得され て,その教育を試みるうちに,聾児教育の可能性をみいだしていったという。
(京都府教育史)
明治8年,地元有志者の賛助醸金により,小学校内に「瘤唖教場」が開設さ れた。他組からも聾児をむかえいれるまでに成長していた。瘤唖教場は範例と すべき聾教育が他に行なわれていない中で,独力で,その教育の方法を開拓し ていった。瘤唖教場の顕著な教育の成果は,その生徒数を増大させていった。
明治11年には,盲児をもつ親の切望によって,盲児の教育をも開始した。
瘡唖教場の実践の成果は,しだいに貯えられていった。瘤唖教場での教育の 成果は,癌亜教場を支えていた人々の手によって,それを,より公共的なもの
として位置づけようとする運動へと進展した。
古川らは癌唖教場を社会的に継続・発展させようとしたのである。そのた め,明治11年1月,独立した教育機関として,盲唖学校を建設するための願書 が,京都府知事・槙村正直に提出された。ここに,盲・聾者の教育の機関が,
公的なものとして位置づけられる端緒が開らかれたのである。
遠山憲美の「建議書」 古河らが独立した盲・聾教育機関設立の要求を提出 した頃,遠山憲美もまた,古河らの活動とは,関係なく独自に「盲唖訓畏設立 ヲ促ス建議意見書」を京都府知事宛に提出していた。この遠山の建議意見書 は,古河らの学校設立の運動を促進させ,府立の盲唖院を成立させることとも
なった。
遠山が盲唖学校設立の建議書を提出した動機は,先にあげた山尾庸三と同様
に,外国の盲・聾教育の事情を見聞したことにあった。
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遠山は盲・聾者を,ただ,見る・聞く・話すという用器を欠失しているだけ で,他とかわりのない一個の人間として,とらえている。その欠失した用器を 補ない,盲・聾者の天賦の才力を開働させるために盲・聾教育機関が設置され ねぽならないと主張している。
遠山の建議書は,盲・聾者を自分と同じ一個の人間とみることによって,山 尾庸三のものよりも一層,盲・聾者に同情的なものであり,盲・聾者自身のた めの教育ということが前面におしだされている。
また,遠山は楽善会の人々のように,盲・聾者を,たんに憐れむべきものと はみていない。遠山は慈善救済事業としての,盲・聾教育を提唱したのではな かった。遠山にとって,盲・聾学校は,府の公的な教育機関の一つとして設置 すべきものであった。
京都府立訓盲唖院の設立時を同じくして,二つの盲唖学校設立に関する願 書が,京都府知事に提出されることになった。一つは遠山の建議書であり,他 の一つは,公立小学校内の瘡唖教場を,独立した盲唖教育機関として発展せし めようとする古河らの計画であった。
古河らの計画は,主として上京区第19小学校区の有志者の手によって成立し ていた瘤唖教場を基にしたものであったため,民間有志者の寄附金によって,
盲唖学校を設立・運営しようとしたものであった。これに反して,遠山は「各 蟹漸ヲ以テ設立成リ,既二尋常小学ノ如キハ備具完全スル」にいたった京都に おいて,盲聾教育機関のないのは「文政二就テ,不足ヲ鳴サザルヲ得ザルノー 挙」であるとして,速急に盲唖学校を開設するために,公費をもってすべきこ
とを主張した。
そこで,古河らの計画が,まず,認められるところとなったが,これに対しr 遠山はあくまでも府費をもって,学校を設立・経営すべきことを主張してやま なかった。遠山は現状において,盲聾教育機関を成立・発展させるには公費を
もってする以外に方法はないと判断したのであった。
遠山は建議書において,「官設開挙ヲ促スハ必ズモ其当ヲ得タルモノト思ハザルナリ」
と述べている。それは,「廃疾トテ人外二処ル者」ではなく「我国土に生ヲ共ニスル同
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明治初期における特殊教育の一研究
胞ノ兄弟」であり,その廃疾者のための教育機関の設置は「人間同胞相共二扶助シテ之 ヲ成サザル可カラザルモノ」ではあるという。しかし,遠山は現在,「人間同胞相共二 扶助」するの人心を期待できる時ではないと判断したのであった。盲聾教育施設を開設 すべきことは現在の急務であり,「人心の響フ所ヲ竣ツテ」なすべきことではないとし て,官設開挙が主張された。
当時,遠山が「人間同胞相共二扶助」する人心を期待できないと判断したのは正当な ものであった。
教育の対象とは考えられていなかった,盲聾者の教育機関が,一般住民の醸金によっ て設立されるということは,ありえないことである。近代的なヒューマニズムの精神 は,まだ人の心に中に育ってはいなかった。一般的に教育の対象と考えられなかった 盲・聾者等が慈善救済事業の対象として,とりあげられることさえ困難な時代であった。
楽善会の「訓盲所設立勧進広告文」は,しきりに善を行なうことを呼びかけているもの であるが,その「広告文」において,日本では従来,善行美挙が世の不幸なる人間の救 済にむけられてはいなかったことを指摘している。楽善会は百事維新の時に当り,人々 の善を行なわんとする心のあらわれる方向も,また,変えられなけれぽならないと説い ている。人々の慈善心が盲・聾者の教育に対して,むけられることを訴えているのであ るが,その慈善心の喚起も「百金の纒頭を芸妓に贈らんよりは一枚の弊衣を貧民に施す」
というような呼びかけでしか,なし得なかった時代であった。
遠山は「府費を以て盲唖教育機関を率先創設し,堂々範を天下に示めすべき である」(京都府教育史)と主張したのであろう。遠山の主張は,ついに府の認 めるところとなった。
明治11年5月,とりあえず上京区第29区の民間有志者の家屋を仮りの校舎と して,開校式が挙行された。7才から13才までの盲および聾児を入学させるこ ととし,開校式当時の生徒数は54名(盲児18,聾児36名)であった。(京都府教
育史)
明治11年,仮校舎で出発した盲唖院は,翌年4月に校地を上京区釜座椹木町 ilC移し,正式に京都府盲唖院として設立された。
ここに,日本で最初の公立の盲聾教育機関が開設されることになったのでは
あるが,「その設立及び維持に要する資材は管内社寺並に市中人民有志より寄
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附する所の7,308円50銭及び市中各校より毎校金1円を毎月募集し,此の金額 毎月64円を以て之に充てた」 (京都府教育史)という状況であった。
(3)草創期の盲・聾学校
明治10年代から20年代にかけて存続した盲聾教育機関は三校あっただけであ
る。
京都と東京の地にそれぞれ設立されたものと,当初公立の盲唖学校として設 立され,ただちに,民間有志者の手に,その運営が渡された大阪の盲唖学校と
であった。
京都の盲聾学校の展開 公立小学校の一教場内での教育実践を基にして設立 された京都府立盲唖院は,開校早々から「開設後本年十二月末二至ルマデ其授 業ノ日数ヲ算スレバ僅二四百有余日二過ギスト錐モ,其生徒進歩ノ徴アルハ実
二想像外ニアリ」(文部省第7年報)といわれる実績を示めして,その事業を開 始していた。
京都盲唖院は詳細な盲唖院通則を設けて,組織的・計画的に教育活動をすす めていた。近代的な一教育機関として出発したのである。
京都盲唖院の教育の課程は普通科を5ケ年の修業年限として,読書・書取・
綴字・地理・算術・習字の当時の小学校とほぼ同じような教科目を設け,さら に盲児には触感・聴覚を聾児には発音法・画掌問答法・画学を加え,女子には 特に裁縫を課したものであった。
また,普通学科学習の傍ら,盲児に音曲・鍼按術・紙撚細工を聾児には彫 錨・刺しゅう・指物細工を兼修させた。
盲唖院は当初,6才から13才までの学令児童を対象にしていたが,明治13年,
新たに規則を設け(工学科規則)30才までの年長者を入学させて,かなり高度
の専門教育・職業教育を行なうようになった。その職業教育としては,盲者に
対しては紙撚細工・刺しゅう・鍼按術・琴を,聾者には銅器彫刻・銅版・和木
細工を教授した。14年には,さらに盲者の三弦.生理・病理・解剖学が,聾者
に唐木細工・織機が加えられた。
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寄宿舎も設けられた(14年)。17年には生徒の60%を寄宿舎に収容し,父兄の 送迎が不可能な通学生のため,人力車での送迎が行なわれ,盲唖院所属のしる
しをつけた車旗を立てた人力車が12台にも及んだという。 (文部省,盲聾教育八
十年史)
盲唖院は盲聾教育に関して考えられうる限りの創意くふうをこらし,多くの 教育方法・技術を案出し,教材教具を作製し,教育内容を充実していった。生 徒数も年々増加していった。 (明治13年,82人;同14年,142人;15年,102人 16年,116人;17年,129人;18年,147人)
教育内容の充実,生徒数の増加により,盲唖院は,その敷地を拡張し,校舎 を増築,設備を改善,職員数を増加させ,年々,その事業規模を拡大していった。
かくて, 「京都府立盲唖院は京都に於ける特殊の存在として,内外に知られ るように至った」(京都府教育史)のである。
宮廷人をはじめとして,多くの貴顕名士が参観にくるようになった。
明治15年頃から盲唖院は積極的に,国内および国外の教育博覧会等に,教授 方法・教材教具・生徒の成績品を出品するようになった。京都府立盲唖院の名 声は高まり,その教育の成果は海外からも注目されるようになった。
こうした盲唖院教育の発展は,逆にその経営を困難におとしいれることにな
った。
京都府立盲唖院は府立とはいえ,有志者の寄附金に依存して経営されてい た。その寄附金も漸次減じてゆき,明治19年には全く途絶するに至ったという。
(京都府教育史)明治15・6年頃か昏の全国的な経済不況・デフレーションによ り府の財政も逼迫していた。盲唖院は明治19年,知事の諸願で内務省より下附 金をうけたり,19年10月から23年3月まで,院長以下教員4名の俸給を文部省 から支給されたりなどして,かろうじて存続していた。
盲唖院の事業は縮少された。古河らは盲亜慈善会を組織して,篤志家の喜捨
を集め,盲唖院の維持費を得ることを計画した。この時の古河の京都慈善会主
意書は「抑々本院は海内諸府県下に先だち創立せしを以て,諸府県下に於ても
倣立し,或は倣立を謀るものあり,然るに本院経済の為に衰退して実功を奏す
明治初期における特殊教育の一研究 (213)
る能はざるは此慈善美挙をしで,世人に無用視せらるるに至る,海内盲唖の廃 疾者をして,永世の大不幸に陥らしむるに非ずや。且つ,海内万国に皇国人の 忍耐力なく,初ありて終りなきを冷笑せらるるに至らん」との悲痛な訴えをし
ているという。 (京都府教育史)
しかし,慈善会の組織づくりも思うようにゆかず,府の特別支出金も打切ら れ,盲唖院は廃絶の危機に当面したのであった。明治22年11月,初代院長古河 太四郎は,その職を解任された。
その後22年12月,盲唖院は京都市参事会に,その管理が移され,京都市立盲 唖院と改称された。市立盲唖院は事業規模を縮少することになり,職員数を減 じ,貸費規則を全廃し,職業科を盲部に二科,唖部に三科を残し,他は廃止し
た。
市の盲唖院への支出金は少なく,関係者の資金集めの奔走によって,盲唖院 は維持されてゆくこととなるのである。
古河太四郎の教育 明治の初年,盲・聾者の教育がまったく行なわれていな い時代に古河太四郎が行なった教育は,多くの点において極めてすぐれたもの
であった。
その古河が盲聾者をどのようにみ,どのような教育を行なったかを渡辺平之 甫のあらわした「古川氏盲唖教育法」によってみてみようと思う。
「古川氏盲唖教育法」は古河の死後,渡辺平之甫が古河の残した手稿の断片や,
古河から直接きいていたことを基にして,まとめたものである。
古河は盲聾者の教育が,まったく行なわれていない時代において,よく,教 育の対象・盲聾者の身体的,精神的特徴・特質を研究し,独力でその教育の方 法・技術を考案確立していった。
渡辺の紹介するところによると,古河は,よく「近時の人は欧米人の糟粕を嘗
むもの多し,素より欧米人の糟粕を嘗めた古人の後を追ふも事によりて不可なし
と錐も人情風俗性格を異にする我邦に欧米の事物のみを輸入せんとするに至りて
は甚だ厭ふべきこと」と語っていた。そして,盲唖院を開くにあたっても「其教
育法教授器械器具等より諸般の設置に至るまで皆先生独特の考案に出でたるもの
のみを用いた」という。
(214) 明治初期における特殊教育の一研究
欧米から教育の方法,教具・教材等を古河に紹介した人は,古河が,すでに同 じようなものを案出しているのに驚うかされた。それに対して「彼も人なり我も 人なり,事物に接し懇切熱心に研究討尋せば其事物の上に現はるべき法則を知得 し帰着を固うするは当に然るべき所なり」という古河のことぽには,盲・聾教育 に対する積極的な態度と自信のほどがあらわれている。
古河は特殊教育の本質をよくつかんでいた人であった。古河が特殊教育論の ようなものを書き残していたら,それは恐らく,現代においても十分なる価値 をもち得たものであろうと思われる。
特殊教育は世界的に慈善博愛事業からはじめられているといわれている。日 本の盲聾教育のはじまりも同様の性格をもつものであった。しかし,古河の行 なおうとしたものは,たんなる盲聾者の保護救済事業ではなかった。古河の行 った教育は,京都の盲唖院をその実質的な面において,近代的な一・教育機関た らしめていたものであった。、
古河は盲・聾者を一個の人間と認めた。従って,その教育の可能性,必要性 を信じた。古河は心身の発達不充分なものこそ,不充分であるが故に,普通の 人より以上に,教育が必要なのだという。その教育はそのために特別に用意さ れた教育の機関でしか行なうことができないとする。
古河は盲者や聾者の心的特性や能力が,普通人とは異っているとか,劣って いるとか考えるのはあやまりであるとしている。
したがって,盲人には普通人が視覚により文字を読むのに対して,触覚をも って文字を読むことを教え,聾者には,いかにすれば普通人の用いる言語が通 ずるかを考えて教育すれば,必ずその効果をあげることができるという。その ため古河は盲人のために,紙撚文字,松脂文字,凸凹木刻文字,蝋盤文字,針 跡文字,五十音符号文字などを,聾者には手勢法を中心にした数々の方法をく
ふう案出した。
古河は盲人に基礎教育,人間としての教育を授けることを重視した。専修科
(職業科)を修めようとするものは,原則として,普通科を卒業したもの,ま
たは,それに準ずる学力あるものとした。京都の盲唖学校の教育方針は,たん
なる職業的技術の伝習を目的とするものではなかった。そのために,盲人に文
明治初期における特殊教育の一研究 (215)
字を読ませる方法,聾者にことばを理解させる方法をあくことなく探求したの
であった。
古河は詳細に音声を分析研究し, 「発音起源図」を作製した。それをもとに して,聾者が「唇舌歯喉の運動の開合」をみて「世人の互談を推知する」に至 らしめるため「発音視話法」を「言語を発し得るは発声機関の適当なる位置配 列の機械的結果なれば,若し教師たるもの唖人の発声機関をして,正当なる位 置に置かしむるを得ば,唖人も亦言語を発し得るや必せり」として, 「発音教 授法」が提示されている。
この方法は古河の場合においては,主要な聾教育の方法とはなりえなかった が,古河がすでに,口話法の源泉ともなるべき方法の研究に着手していたこと は注目すべきことである。
また,古河は盲・聾者の体育をきわめて重視している。すなわち,盲者は運 動不足になりがちであるから,盲人に適当した体操・遊戯をすすめる必要があ るとして,具体的な体操・遊戯の実例を示めしている。それらの遊戯・体操 は,盲人の身体の訓練となるとともに,方向感覚を訓練し,歩行練習ともなる 十分な教育的効果を考慮に入れたものであった。
聾者の身体訓練としては,唖人は普通人より呼吸器が弱いから,胸部運動に 適した体操・遊戯が選ばれなければならないとして,その例があげられてい
る。呼吸器の弱い聾者のためには,特に空気の流通をよくすることに留意し,
新鮮な空気を呼吸させるために,学校に緑の樹木を植えなければならないこと が指適されている。
古河は盲・聾者のそれぞれの特性に相応じた教室の状況,机の配置,黒板の 位置,生徒の姿勢,教師の教室での位置,運動場の施設・設備等々について詳 細な配慮をはらっている。
古河が盲・聾教育のためにあみだした,あまたの方法・技術は,古河が,よ く,盲・聾術の特性・特質を観察・研究したことによったものである。その特 性・特質に相応じた教育を行なおうと努力していた。
盲・聾者を普通人とかわらぬ同じ人間であるとし,その教育の可能性を信じ,
(216) 明治初期における特殊教育の一研究
その教育の方法を開拓していった古河は,盲聾者の真の理解者であったといえ
るであろう。
古河の残したすぐれた教育の遺産は,後の時代にひきつがれ,十分に生かさ れたということはできない。古河の残した教育の成果を継承発展させるには,
日本の特殊教育の地盤はあまりにも脆弱であった。古河のすぐれた教育の実践 例が示めされた後においても長く,盲・聾者をはじめとして心身の障害者の教 育はとりあげられることがなかったのである。古河が盲・聾教育史上に果した 業績は,ともすれば埋れがちであった。
京都の盲唖学校を辞職した後の古河は,まったく盲聾教育界から離れてしま っていた。社会から忘れられた存在となってしまっていた古河が改めて世に出 てきたのは,明治31年になって米国のグラハム・ベルが来日し,各府県に盲・
聾学校を必設すること,教員養成機関を設置すること聾教育に口話活を採用す べきことを講演したときに古河を高く評価したことによってであった。
渡辺平之甫はこの時,ベルは「斯の如き人何故に世人は之を顧みざるか我米国 ならしめば相当の待遇を与ふるものを」と嘆じ,米国に渡ることをすすめたと記 している。
明治33年大阪盲唖学校長としてむかえられたが,古河は十分その力を発揮する ことができなかったという。
盲・聾教育・心身の障害者の教育はかくも認められていなかったのである。
楽善会の盲聾教育機関 明治の初年に京都と東京で,それぞれあい前後して 盲聾教育機関設立の運動がおこされた。京都の運動は,すでに行なわれていた 盲・聾教育の成果が,独立した校舎建設の要求となって表われたものであっ た。東京の楽善会の場合は,百事御一・新の風潮にのった盲人教育運動として展 開されたものであった。楽善会の人々が直接に感じとった,現実の必要性から 出発したものではなかった。いわば,欧米先進諸国の盲・聾教育事情に魅せら れて,学校を設立させることのみに運動の焦点がしぼられていたといえよう。
楽善会の運動をすすめた人々は,その教育の対象を具体的にはとらえていなか
ったのである。
明治初期における特殊教育の一研究 (217)
明治12年12月,校舎は無事建設されたが,生徒がいないということになった のである。府下の盲・聾者を調査し,職員を派遺して就学をすすめたりなどし たが応ずるものはなかった。ようやくにして,二人の盲の生徒を入学させて,
明治13年2月授業が開始された。
同年6月からは聾者も入学させることにした。その名称も楽善会訓盲唖院と 改められた。しかし,その後も生徒数もたいして増加せず,寄附金をよりどこ
ろにして経営されているものであるから,財政的にも維持困難となった。明治 ユ8年,楽善会は,その訓盲唖院を投げだし,文部省の直轄学校移管を申し入れ
た。18年11月,文部省への移管が認められ,20年,東京盲唖学校と改称され
た。
慈善事業としての盲・聾教育機関 明治の初期に,京都,東京,大阪にあっ た盲聾教育機関は,いつれも慈善救済事業的な存在であった。一つの教育の機 関としては,認められなかったのである。
明治12年には,たまたま,京都と大阪で,それぞれ公立の盲亜学校が設立さ れた時であった。その時の文部省年報は,京都盲唖院ですでにあげられてい た,みるべき教育の成果を記した後に次のように記している。「(京都の盲唖院 をみれば)他日其慈恵ノ趣意ヲ虚シクセズシテ適応ノ功ヲ奏スルヤ必セリ。然
リト難モ此二校ハ皆府庁ノ直轄二係リ真二有志人民ノ慈恵二出ダタルニ非ズシ テ其校費ノ増減維持ノ方法等ハ悉ク府会ノ議決二起因スルヲ以テ,其向来ノ盛 衰弛張ノ如何二至リテハ未ダ今日二於テ予メ之ヲ想定スルコト能ハザルモノア
リ」。
文部省年報の予見した通り,大阪府は翌年,その盲唖学校を放棄してしまっ
た。
明治14年の文部省年報は,民間有志者の手に移管された大阪の盲唖学校と楽 善会訓盲院について,楽善会訓盲院は「目下猶ホ教授法ノ試験中」であり,大 阪の盲唖学校は「其生徒僅二20名二過キス」まだ,成果をあげてはいないが,
「此二校ハ人民ノ慈恵二成ルモノニシテ俄二旺盛ナルヲ期ス可カラスト難其美
挙タルハ固ヨリ言ヲ待タサル」ものだとしている。盲・聾学校は府県が,その
(218) 明治初期における特殊教育の一研究
公的な一教育機関として設置すべきものとは考えられていなかったこと,盲・
聾者の教育を考えようとする活動は,一美挙にしかすぎなかったことを示めす
ものである。
京都の訓盲院は府立とはいえ,民間篤志者の寄附金をよりどころにして,設 立・経営されていた。教育活動の面では成功しながら,財政的にはゆきづまっ てゆくのである。それでも,なおかつ,公立であったがために,かろうじて存 続し得たのでもあった。
楽善会の盲唖院は,当初から慈善救済事業の色彩をつよくもってはじめられ た。その事業のゆきづまりは,国立に移管されることによって救われている。
京都・東京の二校とも,特に東京の場合は廃絶の運命にさらされていたので ある。それを,とにかくも存続させたのは,官公立であったということによっ てであった。この時代,盲・聾教育の機関が設立し,存続してゆくことがいか に困難であったかを示めすものである。
官公立になったということは,公的な一教育機関として認められたことを意 味するものではなかった。楽善会の訓盲所建設が政府の要人・高位高官と結び つくことによって行なわれたように,上から下への施し,慈恵物としてであっ た。官公立であったために生きのび得たということは,有力者の力にすがるこ とによって存続し得たということである。官公立であったことによって,公権 力の全面的な援助が受けられたわけではなかった。その困難な時代に,事業の 経営を支えていたのは,事業担当者による経営資金集めの必死の努力であっ
た。
京都・東京の二校が存続するにあたって,京都盲唖院が設立された当時の府 知事・槙村正直とか,東京の山尾庸三という個人の力がかなり大きな役割を果 しているのである・山尾の楽善会訓盲院の設立に果した力は大であるし,また,
国立に移管されるにあたっても,いわぼ,山尾と時の文部大臣・森有礼との直 接交渉とでもいわれるようなかたちで行なわれている。
また・両校が天皇・皇族から慈恵金などを受けたりしていたことも,存続の
一原因でもあったであろう。
明治初期における特殊教育の一研究 (219)
明治初期の二つの盲聾教育機関は(特に京都の場合には)その教育の内容に おいて,教育実践者のめざす方向において,十分に近代的な教育機関たり得る
ものを含みながら,慈善事業としての性格を持たせられたのである。
二つの盲聾教育機関(京都の盲唖院は当初からすぐれた成果を表わし,東京 の盲亜院も20年代に入ると,しだいに充実してゆくのであるが)の設立と,そ の成果に基づいて,盲聾教育が全般的に進行してゆくということはなかった。
二つの学校は社会的には孤立した特異な事例にしかすぎなかったのである。
明治20年代には,少なくも10校以上の盲聾教育機関(主として盲学校)が設 立されている。しかし,20年代の各年度に公的に記録されている学校数は,1・
2校である。明治26・7年度の文部省年報は学校数すらあげていないのである。
30年代に入ると,各地に教育機関設立の気運が生じ,30校位の学校が設立され ている。明治初年の盲・聾教育・特殊教育に関する海外事情の紹介は制度的な ものに限られていたが,この頃になると,その内容・方法にまでおよぶように なってきた。しかしそれらの学校は,いずれも民間の篤志家による小規模なも
のであった。
明治40年頃まで,官公立の学校は東京と京都の学校だけである。公立の盲聾 教育機関が設置され慧じめるのは大正期に入ってからのことであった。
2 社会的ハソディキャプをもったものの教育
心身の障害者に教育を受ける機会がなかったとの同様に,貧困,その他の社 会的な障害のために,教育の場からしめだされているものが多くあった。
心身に欠陥のあるものや貧窮者,養護に欠ける児童に対して国家は,いかな る施策も行なってはいなかった。
救貧に関する法律としては,昭和3年になって「救護法」が公布されるまで,
「済貧他窮ハ人民相互ノ情誼二因テ其方法ヲ設クベキ筈二候共」とする前近代 的な「位救規則」(明治7年12月,太政官達)があるだけであった。
社会からみすてられたものは,その教育はおろか,生命すらが保障されては
いなかった。
(220)
明治初期における特殊教育の一研究
社会からみすてられたものの保護救済事業が,まず始められ,その中から,
それらのものの教育の問題,更には,特殊教育に関する問題が提起されてくる
場合がある。
特殊教育の一つの発生源は,さまざまな障害をもつものの保護救済事業の中 に求めることができるのである。
貧窮者,心身の障害者,養護に欠ける児童の保護救済の運動は,明治の20年 代に入ると多く民間人の手によってすすめられるようになる。明治10年代まで は慈善博愛の精神の呼びかけ,天賦人権思想に基づいて,窮貧等,社会的な問 題に対し,とりくむことが訴えられていた時代であった。これが,20年代に入 ると,海外の慈善救済事業・社会事業の具体的な紹介が行なわれるようにな
り,多くの社会問題に対する認識の高まりとともに,各地で慈善救済事業が成 立するようになる。
20年代の主要な運動の荷い手は,キリスト教プロテスタントであった。神の 前での人間の平等観と人間愛の実践者としての活動が開始されたのであった。
この間に最も活発な運動を展開したのは石井十次であった。
石井十次は熱裂なキリスト教信仰者であり,その宗教的情熱と使命感に基づ いて,明治20年,岡山に孤児教育事業を開始した。石井は文字通り,全生涯を 育児事業に捧げつくした人であった。その児童救護活動は極めて広汎,大規模 なものであった。石井十次が日本の児童救済事業に果した役割は大なるものが あった。明治の30年代以降になって,より社会的な形態をもって成立する児童 養護事業の先がけをつくるものであった。石井十次が孤児教育事業をはじめた 頃,芽ばえはじめていた慈善事業を勇気づけるものでもあったであろう。
児童救済事業から出発して,精神薄弱児の教育を開拓していったのが,石井 亮一であった。明治24年に濃尾地方に大地震があった。その頃,東京で立教女 学校の教頭をしていた石井亮一は,濃尾地震で孤児になったものの悲惨な状況 を知り,現地におもむき,20数名の孤児を集めて帰り,育児事業をはじめた。
その中に二人の精神薄弱児がいた。石井はその精薄児をあくまでも教育しよう
としたことに,日本で最初の精神薄弱児施設である「滝乃川学園」の起源があ
明治初期における特殊教育の一研究
(221)った。
精神薄弱児の教育施設としての「滝乃川学園」の基礎が固められるのは明治 30年代になってからである。「滝乃川学園」は,その後の日本の精神薄弱児教 育振興の基をきつくものであった。
明治の初年に貧窮者の収容者として成立し,現存のいくつかの児童福祉施 設・社会福祉施設を残すことになったものの例として,東京養育院をあげるこ
とができる。
東京養育院は明治5年,東京市内の窮民浮浪者をかりあつめて収容したこと にその起源がある。その直接のきっかけは「露国皇子の来遊あり,東京は帝都 の体面上,市内に多数俳徊する浮浪乞食の徒を一定の場所へ取集むるの必要に 迫られた」(養育院七十年史)ことによる。この収容所は仮設されたものであっ
たが,これを常設することとし,東京養育院は設立されたものである。明治維 新の動乱は府内の浮浪者・窮民を激増させた。府もこれを放置することがでぎ
なくなっていたのであった。
当初,養育院は市の営繕会議所(市内の有力者から選ばれた委員により運用せられ,
土木架橋等の公共事業を営んでいた)の管理下にあったが明治9年,東京府知事の直轄 事業となった。明治7年,渋沢栄一が院長となった。 (以後,昭和6年まで渋沢は院長
の職にあった。)
ところが東京府会は「府が窮民を養育するのはむしろ惰民の養成になる」として,咀 治16年限りで,これを廃止することにした。以後,明治21年までは,渋沢院長が発起人 となって結成した婦人慈善会によって経営が続けられていた。明治22年に東京市制が施
行された時,渋沢の建議により養育院は東京市の社会事業として認められることとなっ
た。
養育院は現に市内を俳徊している浮浪乞食の徒を収容するものであったが,
しだいに市内住居の貧窮者の救助を行なうようになった。
収容されたものの中には児童も多く含まれていた。それらの児童に簡単な手
習いなどをさせるために明治6年,院内に筆算所が設けられたのが養育院内の
教育的な事業のはじまりであった。
(222) 明治初期における特殊教育の一研究
明治11年,児童室を設け,従来までの成人と児童の雑屠制を改めている。児 童に対する教育的な措置の一つのあらわれでもあった。筆算所も,その内容が
ととのえられつつあった。明治29年には院内に小学校が建設されている。
明治16年頃から棄児・遺児を収容するようになり,18年からは正式に区郡よ り送致されてくる,それら児童の受け入れ所となった。
養育院は,さらにすすんで,送致されてくる棄児や遺児の範囲からもれる浮 浪児童の保護救済を行なおうとしている。それらは広汎な虞犯・非行少年群で あった。それら少年群の実態調査をつけて児童保護の急務であることの建議を 市に対して行なっている。(明治29年)
日清戦争後,巷の虞犯少年群は激増していた。養育院もその内部に問題児童 をかかえるようになっていた。上記建議をなかなか認めようとしなかった市 も,養育院内の感化部設置を認めざるを得なくなった。かくして,明治32年,
院内に感化部が設けられることとなった。
また,養育院内の児童には多くの結核患者がいた。なかんずく日清戦争前後 に入院する児童には虚弱児が多く,その大半が肺結核であった。児童の死亡率
も高まった。その対策は,それらの児童を別離し,療養所を設置する以外にな かった。虚弱児施設は,このようにして設けられることとなった。(明治33年)
養育院の成人に対する保護救済事業も多方面にひろげられるようになり,養 育院は総合的社会事業施設として発展してゆくのであった。
しかし,それらの発展も市の積極的な施策によってではなかった。院内の有 志者の懸命の努力によって,少しつつ開拓されていったものであった。市は社 会政策上必要とされる限りにおいて,それを認めたにすぎなかった。
児童保護の提唱は一つには育児事業を成立させたが,同じその立場が他方で は教護院(感化院)を成立させることになった。
当時,少年犯罪者は明治5年11月の太政官達「監獄則」の規則によって「懲 治監(懲治場)」へ送られ,純然たる犯罪者として処遇されていたのである。
これに対して,児童保護の立場から懲治場の非教育的なことを論じ,感化院
設立の要を説くものが明治14・5年頃からあらわれた。設立運動も同時に起さ
明治初期における特殊教育の一研究 (223)
れた。
明治20年代までに,いくつかの感化院が設立されることになった。すなわち,
明治16年に大阪で池上雪枝により,同18年,東京で高瀬真卿により,それぞれ 教護事業がはじめられており,同19年には千葉感化院が仏教関係者の救済事業 として,21年に岡山感化院が石井十次の育児事業に対抗する仏教徒の手によっ て設立されている。感化院の事業も各地に普及されるようになるのは,明治30 年代以降である。
明治10年代から20年代にかけて,社会からみすてられたものの救護が民間の 慈善事業としてとりあげられはじめられるようになってきた。特に20年代に各 地で提起された貧民救済運動は,日清戦争後,明治30年代に入ると,いっそう の発展をみせるようになる。日本の資本主義の成立期にあって,それにともな う諸種の社会問題は,多くの慈善救済事業を成立させることになるのである。
この頃になって提起された運動は,その成果が後の時代に継承されるように なるまでに生長してきている。それは特殊教育が困難な中にも成立し,発展し うる基盤が少しつつ用意されてきていることをも示めすものである。社会から みすてられたものの教育の問題がとりあげられる可能性が生まれはじめたので
ある。
3 明治10年代および20年代の教育の法規
国家がとりあげなかった心身の障害者,貧窮者,養護に欠ける児童等,社会 からみすてられたものの生命保護の問題さらに,その教育の問題が,民間の 社会事業家の手によって少しつつとりあげられはじめた。京都と東京では盲聾 教育に,みるべき成果が示めされてきていた。その時, 「すべての国民」の教 育に関する法規はどのようになっていたであろうか。
明治12年, 「学制」が廃止され, 「教育令」が制定されることとなった。こ
の時にあたり,文部省が日本教育令として政府に提出した草案の第18章は「学
校ハ小学,中学,大学,師範学校,専門学校,盲学校,聾唖学校,改善学校其
他各種の学校ナリ」として, 「盲学校ハ盲人ヲ教導シ,聾唖学校ハ聾唖人ヲ教
(224)