文 芸 裁 判 と ﹁狼 褻 文 書 ﹂ の 概 念 (中 )
飛
田茂 雄
一︑芸術と狼褻性
e最高裁判所の判断とその論理
⇔芸術性は狼褻性と両立し得るか
⇔芸術作品と刑法一七五条
二︑狸褻文書販売の危険性
e表現の自由とその制約
⇔狼褻文書頒布販売行為と﹁明白にして現在の危険﹂
⇔狼褻文書頒布販売行為の危険性
三︑狽褻の概念と法益の問題
e﹁行動の直前的状態﹂
⇔刑法一七五条の保護法益
⇔狼褻の概念
文芸裁判と﹁狼褻文書﹂の概念(中) の基準
一53一
⑳
人文研究第三十六輯概念規定を改正する必要
四 ︑ 日 米 最 高 裁 判 所 の 憲 法 尊 重 理 念 の 相 違
O基本的人権としての言論の自由に対する認識の相違
伊藤整訳の﹃チャタレイ夫人の恋人﹄は狼褻文書である︑という最高裁判所の最終判決が言い渡されて以来︑わが
国では﹃悪徳の栄え(続)﹄や﹃ファニー・ヒル﹄の邦訳が発禁になったが︑アメリカでは︑一九六〇年に﹃チャタレ
イ夫人の恋人﹄の無削除版は狼褻文書ではないとの連邦控訴裁判所の最終判決が下ったほか︑ヘソリー・ミラーの全
作品や﹃ファニー・ヒル﹄も自由な頒布販売が許されるようになり︑イギリスでも一九六〇年に︑中央刑事裁判所で
﹃チャタレイ夫人の恋人﹄の刊行者に対して無罪の判決が言い渡された︒
チャタレイ事件以後のいわゆる文芸裁判において︑弁護人側は常に︑英米のみならず︑芸術的ないし学問的価値あ
る文書を狼褻の罪に問わぬと定めた各国の法律や裁判例をあげて︑文芸作品に対する可罰的狼褻性の評価基準を改め
るよう裁判所に要請しているが︑下級審裁判所は︑作品の全体的評価の必要性を認めたり︑相対的狽褻の概念を部分
的に認めたりするなど︑ある程度の変化の色は見せながらも︑おそらくは最高裁判所の判示に縛られているために︑
諸外国の範にならうという積極的な姿勢を示すまでにはいたっていない︒﹃悪徳の栄え(続)﹄事件の第二審判決は︑
イタリ!刑法第五二九条︑英国一九五九年法(()σωOOb.①H)口σ一一〇勲什一〇口qo︾O叶Oh一〇いO)第四条一項︑および合衆国憲法
修正第一条等に関してこう述べているー
﹁⁝⁝その立法︑判例にあらわれた狼褻の罪に関する考え方が︑わが国の裁判所のそれと相当の開きが見られるの
である︒これらの諸国における動向は︑わが国の法解釈に多くの示唆を与えるものではあるが︑これらはいずれ
も︑その国特有の性的倫理観念︑狼褻に関する一般的ならびに法的観念に基くものであり︑にわかに事情の異なる
わが国の法解釈の指針とすることはできず︑本件においても︑その考え方は採用できなかった︒﹂(﹃判例時報﹄三六六号一八頁)
裁判所は︑たとえばキンゼイ報告︑チェサー報告︑ラソヴァル報告などによって︑日本人一般と欧米諸国民一般と
のあいだに︑性的な態度ないし行動の相違を見て︑そのかげに性的倫理観念の本質的相違もあると判断したのかもし
れないが︑各国の裁判所が問題にするその国民の性的倫理観念が︑わが国民のそれと本質的に異なっているとは考え
にくい︒少なくとも英米のジャーナリズムに反映している成人の性的倫理観念︑あるいはそれにもとつく青少年の性
的態度や︑文芸裁判や︑性描写を含む文学作品の出版等に対する批判は︑近年の日本のジャーナリズムに反映してい
る同種のものと基本的には一致しているように見受けられる︒かりにそういう点に関して異論があるとしても︑右に
あげたような国々が︑立法および判例によって︑社会的価値ある作品を狼褻の罪に問わぬとしているのは︑なにより
も︑言論・出版の自由を至上の基本的人権と見て︑これを最大限に保障しようとする裁判官︑のみならず芸術︑政
治︑法律等各界の人々の努力のたまものなのである︒もちろん︑そこに性道徳や狼褻に関する社会通念の変化が反映
していないわけではないが︑わが国の裁判所がそういう﹁事情の異なる﹂面のみを強調して︑基本的人権尊重の範に
積極的にならおうとしないのは︑盾の半面に目をおおう態度であり︑偏狭にすぎはしないか︒特に合衆国憲法修正
第一条をも含めて︑﹁その立法⁝⁝に関する考え方がわが国の裁判所のそれと相当の開きが見られる﹂という見解に
は︑憲法学上からも疑問が生じよう︒
文芸裁判と﹁狽褻文書﹂の概念(中)
人文研究第三十六輯
一七九一年に確定した合衆国憲法増補修正第一条︹以下修正第一条と表記︺は︑﹁合衆国議会は︑国教を樹立し︑
信教の自由な行使を禁止し︑言論または出版の自由を制限し︑人民が平穏に集会をし︑また苦痛の救済につき政府に
請願をする権利を縮減する法律を制定することができない﹂と規定している︒これは一切の表現の自由を保障するわ
が国の憲法第二十一条と︑憲法に反する法律︑命令等の制定を禁ずる第九十八条とに相当するものである︒この憲法
第二十一条をはじめとする基本的人権保障の条項が︑合衆国憲法修正第一条ないし第十条のいわゆる権利章典と成立
の歴史的経緯をまったく異にしていることは言うまでもないが︑それらの基本構造は共通しており︑またそれらが担
っている歴史的な価値に相違がないことも︑わが国の憲法は人類普遍の原理にもとつくと宣言する憲法前文︑および
﹁この憲法が日本国民に保障する基本的人権は︑人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって︑これらの権利
は︑過去幾多の試錬に耐へ︑現在及び将来の国民に対し︑侵すことのできない永久の権利として信託されたものであ
る﹂という第九十七条によっても明らかにされている︒
ユ 修正第一条が言論・出版等表現の自由を絶対無制限に保障するものという見解には賛否両論があるが︑連邦最高裁
判所は︑特にホームズ(9守魯白窪自巴=︒巨①ω︑這o㌣ωN在任)︑ブランダイス(冒巳ω∪・切鎚巳①昼一〇まーいO在
任)両判事以来︑ほとんど常に︑表現の自由という基本的人権の制約を最小限度にとどめるべく努力を重ねてきてお
り︑修正第一条の自由権保障は明らかに制限的であるという見かたを極力排除してきた︒現在の連邦最高裁判所裁判
官のうち最長老のブラック判事(国自αQo目.切宣︒ぎ一〇鶏ー在任)は︑最近のあらゆる文芸裁判において︑裁判所は︑
いかなる内容の言論︑出版物をも検閲する憲法上の権限を持たぬと主張し︑ダグラス判事(毛自9白ρ一)8αq冨℃
一〇いOl在任)もまた︑合衆国憲法は思想表現を検閲したり制限したりする政治的権力を絶対に許すものではない︑と
主張しつづけている︒ただ︑こういう絶対保障論は連邦最高裁判所の過半数を占めたことがなく︑反対にホワイト判
事(切饗oロロ●≦‑置梓ρおひNl在任)のように︑修正第一条は州がその法律にもとついて権力をもって言論を抑制す
るのをさまたげ得るものではない︑と主張する裁判官もいる︒また︑ハーラソ判事(一〇げロ冨・国霞冨Pおい凱‑在任)
のように︑いちいちの事例について表現の自由の個人的︑社会的利益と︑表現を抑制することによって得られる社会
的利益とを較量すべきだという考えを強く前面に押し出す主張もある︒それにもかかわらず︑真に言論の名に価する
言論はこれを絶対に保障するという根本原則は生きており︑利益較量の必要を唱える裁判官の一部を含めて︑連邦最
高裁判所裁判官の大部分は︑いささかでも社会的な価値のある言論や出版物は︑これを完全に憲法で保護するという
立場をとっているのである︒
筆者は︑わが国の憲法が基本的人権を絶対無制限に保障しているか否かの議論に深く立ち入る専門的能力を持たぬ
が︑﹁憲法は︑少なくとも明文上︑基本権に対して︑一般的には何らの制約をおいていないと解するのが︑最も素直
な解釈であろう︒これはアメリカ憲法の系譜を多くの基本権の構成について︑うけついだとみられる新憲法の解釈と
して適当であるし︑憲法全体の趣旨に合致するといってよい︒従って︑裁判所は︑明文上絶対に保障された基本権の
制約の有効性に対して︑アメリカの裁判所と同様に︑具体的事情に照らしつつ判断を与えるという任務を負わされて
る いることになる﹂という伊藤正己︹敬称略︑以下同様︺の見解が最も妥当ではないかと思う︒一般に基本的自由権のう
ち︑経済・社会的自由権が公共の福祉の観点からかなりの制約を受けることは当然のこととされ︑右の論者も︑これ
と精神的自由権との憲法的保障の内容に相違があることは︑憲法に内在する基本的原則であると認めている︒ただ同
じ精神的自由権のカテゴリーに属する表現の自由のうちでも︑集会︑結社︑集団示威行為等は︑原則的には規制を許
文芸裁判と﹁狼褻文書﹂の概念(中)
人文研究第三十六輯
されぬものであるが︑その方法によっては明白にしてかつ現在の危険を生ずるおそれがあり︑その場合にのみ抑制が
あり得るという考えがある︒アメリカでも同様で︑修正第一条の絶対保障説を唱えた元アーモスト大学学長マイクル
ジョソ(≧︒碁巳震冒①筐①Ugp一︒︒鳶山Oひ轟)や︑前述のブラック︑ダグラス両判事にしても︑そういう最小限の抑
(5)制は已むを得ないものと認めているのである︒しかし︑言論・出版の自由については︑それが憲法にょって絶対に保
障されているという解釈が多くの法律学者によって最も正しいとされている︒したがって︑わが国の文芸裁判におい
ても︑原則的には︑言論・出版の自由の絶対的保障をあくまで貫く立場を︑言いかえれぽ憲法第九十七条の使命を帯
びたものとしての第二十一条を法解釈の指針となすべきで︑第十二条︑十三条が基本的人権を当然に制約するといっ
た制限保障の考えを安易に持ちこんではなるまい︒だが︑これにも例外はなくはない︒たとえぽ他人を罪に陥しいれ
る法廷証言や︑脅迫や︑医薬に関する虚偽の広告のように︑明白にして現在の︑実質的な危険を与えるものは︑やは
り法律にょって規制されねばならない︒すなわち︑真に言論の名に価しない︑社会的に無価値であり︑かつ暴力的
な"言論"や出版にかぎっては︑正しい意味でのーということは︑常に参与者個人の福祉に還元できるー公共の
福祉によって調整ないし規制されるのが当然である︒そういう意味でならぽ︑﹁言論の自由といえども︑国民の無制
約のままに許されるものではなく︑常に公共の福祉によって調整されなけれぽならないのである﹂(最判昭25・9.25︑刑集四巻九号一七九九頁)と
いう最高裁判所の判旨もー逆に無制約の原則を強調するのが当然だとは思うがー一応うなずけないこともない︒
ところが︑往々にしてわが国の裁判所は︑憲法第二十一条が﹁善良な風俗の維持﹂や超越的な全体主義を思わせる
﹁国家の秩序﹂なるものによって当然に制約されるかのごとき判断を示す︒そこには︑個人の侵すべからざる権利と
いえども︑個人をはるかに超えた集団意識ないし社会秩序によって制約されるのは当りまえであるという安易な考え
がしぼしば見られるのである︒チャタレイ事件第二審判決は︑﹁日本国憲法の規定する公共の福祉は︑世界人類の進
歩発展に寄与することを目指すにしても︑日本の現代という時と処によって制約されたものであり︑従ってその時と
処に適合する具体的内容を持つものと考えられることをいおうとするものと解すべきである﹂と言い︑さらに︑得意
のトートロジーを用いて︑﹁公共の福祉は︑個人の基本的人権を包摂しつつも︑これを超えた集団的共同生活に関す
るものであるから︑公︹共︺の福祉の解釈については︑個人的立場を離れた国民全体の集団意識の立場において判断さ
れなけれぽならない︒このような集団意識は︑国家意識または社会意識と観念し得るのであって︑これを合して︑国
民意識としての﹃一般社会通念﹄と称することもできるのである﹂(﹂端翼理責)と述べ︑遂に公共の福祉を﹁個人的
な立場を離れた﹂国家ないし社会意識の枠のなかに閉じこめてしまった︒そこから当然出てくるのは︑﹁社会通念に
反した価値判断を主張する少数者の利益を無視したことが︑直ちに︑憲法第十三条の個人尊重の規定や同法第十五条
の公務員の本質に関する規定の違反を来すものと解することはできない﹂(﹃判例時報﹄一〇五号四七頁)という考えである︒一見ごく
当然なことを言っているようであるが︑こういう一面のみを強調する議論は︑憲法の基本的な精神を見失なった常識
論に堕しやすい︒なぜならば︑現在の︑かつ既成の社会秩序に反しない︑あるいは現在の社会の多数者の価値判断と
公けに認められているものに適合する集会︑結社︑言論︑出版等の自由のみが憲法で保護されているというのなら
ば︑法律の留保をはっきり伴なった上で表現の自由を保潭する旧憲法第二十九条とその本質において変りはなく︑新
憲法第二十一条の保障する自由は﹁人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果﹂として﹁過去幾多の試錬に耐へ﹂て
きた永久の権利であると謳った意味が失なわれてしまうからである︒かつてホームズ判事は︑﹁思想の自由とは︑わ
れわれの同意する思想の自由ではなく︑われわれの憎悪する思想の自由を保障することである﹂(qミ︑ミ9ミ題§
文芸裁判と﹁狼褻文書﹂の概念(中)
人文研究第三十六輯
即ぎ§§ミ・一〇No)と述べたが︑憲法第二十一条も︑敢えて言うならぽ︑いわゆる公序良俗︑世論︑社会道徳等に反す
る少数者の"不穏な"︑"異端的な"︑"悪趣味な"︑"不潔な"︑"反逆的な御言論・出版等一切の表現の自由を保障する
ところに立法上の真の意義があり︑また︑それゆえにこそ︑この自由の擁護と公共の福祉増進との調整という至難の
問題が︑裁判所に1多数意志の支配する立法部の行き過ぎを防ぐ一手段たる違憲審査権を持つ裁判所に1課せら
れているのである︒
⇔社会秩序の維持と表現の自由の抑制に関する理念の相違
アメリカ合衆国においては︑特に民主主義の根底をなすものとして︑少数者の意見が尊重されてきた︒それは︑少
数意見も将来は多数意見に転化する可能性があるからというだけではなく︑思想の市場における各派各説の競争が自
由であり公正であれぽあるほど︑民衆の選択に誤りがなく︑平和のうちに思想の淘汰と改善がなされるという歴史的
教訓に従った態度である︒連邦最高裁判所は一九三七年の判決において︑表現の自由こそ社会の安全の基盤であるこ
とを明らかにしているー
﹁われわれの制度を暴力をもって顛覆するような扇動から社会を保護することの重要性が大であれぽあるだけ︑自
由な政治的討論の機会を維持するために︑言論︑出版︑集会の自由という憲法上の権利が保障される必要がます
ます強くなる︒それによって政府が人民の意見に反応し︑変革は︑それが望ましいときに︑平和的手段によって獲
得されうるのである︒ここに共和国の安全︑憲法政治の真の基盤が存在するのである︒﹂(富㍉§鷺ミ・o§偽§﹄oo
(7)
d.oり.駿い︹一〇鶏︺●)
こういう連邦最高裁判所の基本理念に対して︑これまでのわが国の最高裁判所のそれは︑前項にも述べたとおり︑
言論・出版を既成の社会秩序の枠内に止めなければ危険であるという正反対の発想に支配されているかのごとくであ
る︒
﹁人間個人は社会と必然的な相互依存の関係に立つのであるから︑言論の自由といえども社会の安全が保持される
ことによって自由そのものの存立が確保されるのであり︑またその自由の展開する場としての社会が健全に存立し
てゆくのである︒従って言論の自由は︑社会の安全を脅かさないぎりぎりの線を限界としそこに均衡を保って存立
することができると解すべきであって︑個人の自由の比重が不当に増加するときは︑社会の安全はそれに対応して
影響を受けることを免れず︑両者の均衡はここに崩れ︑遂には逆転して自由そのものの存立に危害を及ぼすことに
なるであろう︒ここに至れば自由はもはや限界を越えたのであって︑社会はその自律作用により求心的に自由を制
限する現象をおのずから示すに至るのである︒この現象は法治国組織を確立した近代民主国家においては法律現象
として現われ︑立法となり︑また間接には裁判の形においても現われてくる(自由と制限の対立が逆な場合でも反
対の形で同様な現象が起る)︒ここにいう社会の安全は︑いいかえれぽ国家の秩序であり︑さらにこれが憲法にい
うところの公共の福祉にほかならない︒それゆえ公共の福祉は別の面からいえば国民が一定の秩序の下に基本的人
権を妨げなく享有している状態であり︑また一切の表現の自由を含む基本的人権の享有が円満に保障されている形
態でもある︒﹂(最判昭25・10・21︑大法廷判決︑集四巻一〇号二〇二頁)
公共の福祉すなわち国家の秩序というこの論法は︑一歩誤れば︑時の立法権や法治体制をすら左右し得る多数政党
が秩序として示すものに表現の自由が屈服させられるという事態の正当化に利用されかねない︒百歩を譲って︑憲法
文芸裁判と﹁狼褻文書﹂の概念(中)
人交研究第三十六輯
に言う公共の福祉が右のごとき社会の安全であるとしても︑この安全を脅かすという自由濫用の危害なるものは︑は
なはだ抽象的で明確性を欠く︒アメリヵにおいては︑修正第一条の適用範囲を正当に拡げるために︑(上の部︑二のe
および口で触れた)﹁明白にして現在の危険﹂の基準についての理論を発展させてきた︒これは︑わが国の裁判所にお
いても援用された例がなくはないが︑いまだにこの基準の具体的意味が明確にされていないし︑その適用例も僅少で
あり︑特に最高裁判所が表現の自由に関する法の適憲性判断の基準としてこれを積極的に適用する姿勢を示していな
き いので︑その価値は一向に生かされていない︒なによりも残念なのは︑﹁明白にして現在の危険﹂の基準をわが国の
憲法解釈に採用することが適切でないとしている裁判所が︑それに代るべき理論をなんら提起しないのみならず︑具
体的な判決によって︑憲法の保障する表現の自由の枠を拡げる勇断をなかなか示さないことである︒
アメリカにおいて︑﹁明白にして現在の危険﹂の基準‑正しくは︑﹁連邦議会が防止する権限を持つような実質的
害悪を生み出す明白にして現在の危険を作り出す﹂(即§審ミ・q§ミ9ミ塗Nおd・ω﹄刈︹一〇一〇︺・)か否かの基準1が
多数意見となり︑憲法判例として確立するにいたった︑その最初の判決が︑政治的言論ではなく︑出版による裁判所
侮辱に関する裁判において言い渡されたことは意味深い︒この基準を説明するブラック裁判官にょる多数意見は傾聴
に価する︒
﹁スケソク事件の﹃明白にして現在の危険﹄の文言は︑表現の自由の憲法上の保護の範囲が争われた多種多様の事
件において︑実際上の指針を与えてきた︒⁝⁝相当の害悪の生ずる可能性がいかに大であっても︑それのみでは言
論出版の自由の制約を正当化することはできない︒その害悪自体が実質的なものでなければならず︑それは重大な
ものでなけれぽならない︒⁝⁝﹃明白にして現在の危険﹄の諸判例から最終的にひき出されるものは︑発言が処罰
されるには︑実質的害悪が極度に重大であり︑切迫の程度が極度に高くなけれぽならないという指導的原則なので
ある︒L(bご黛ミ︒・題§O§誉ミミし=d.o︒.NいN︹6£︺・)
この﹁明白にして現在の危険﹂の基準は︑アメリカにおいても絶対的︑普遍的なものではなく︑連邦政府にょる極
端な反共立法との正面衝突を避け︑国家の統一的意志の形成を保護しようとの配慮からか︑一九五〇年代以後︑ある
程度の後退的修正が行なわれてきた︒また狽褻文書に対しては最初からこの基準を適用することに批判的な学説が
右力であったことは︑すでに(上の部︑二の口で)触れたとおりである︒しかし最近は︑政治的言論と異なって︑憲法
の保護を受けないというのが定説であった︑いわゆる"狽褻〃文書や名誉殿損の文書にまで︑﹁明白にして現在の危
険﹂の基準を生み出した修正第一条尊重の根本精神が及んで︑こちらの面では時とともに一層言論・出版の自由の保
り 障範囲が拡大しているのである︒また︑﹁明白にして現在の危険﹂の基準が適用できぬと判断した事件に関しては︑
たとえば﹁償いとなる社会的価値﹂の基準など︑可罰的違法性判定の理論を常に探究し︑発展させる努力がつづけら
れている︒
筆者は表現の自由を抑制する基準として︑やはり﹁明白にして現在の危険﹂の基準が現在では最もすぐれたものだ
と考える︒だが︑もし文芸裁判において﹁明白にして現在の危険﹂の基準を可罰的違法性の評価に適用したならば︑
狽褻文書の頒布・販売罪そのものが成立せず︑ひいては刑法一七五条の無用論︑あるいは違憲論まで導き出されるか
もしれない︒筆者は(少なくとも文書に関しては)根本的にそうあるべきだと考えるが︑そこにいたるまでには相当
の年数をかけて青少年の教育︑未成年者の悪質文書からの保護対策︑学問︑芸術尊重の社会的風潮の醸成などが図ら
ヌ サンスれねばならない︒法律的には︑狼褻文書の押し売りのような不法妨害は軽犯罪法で取締り︑(たとえば警察官に採用
文芸裁判と﹁狽褻文書﹂の概念(中)
人文研究第三十六輯
される年令以下の)少年に対する狼褻文書の頒布・販売は地方条例をよく整備しなおして規制するなどの方法をとれ
ぽ充分であると思うが︑それほど早急な改革は期待し得ぬとしたならば︑裁判所が性行為非公然の原則などという
(文書に適用した場合には)不可解きわまる概念を持ち出して"露骨な"性行為描写を含む文学作品のすべてを罪悪
視することはやめ︑せめて社会的価値ある文書を狼褻の罪に問うことはしないというアメリカ連邦最高裁の判例にな
らうことによって︑改革の第一歩を踏み出すべきであろう︒それが自主性を失うどころか︑かえって日本国憲法の根
本的な精神にたちかえる所以であることは縷々述べてきたとおりである︒アメリカにおいて第一次大戦後(修正第十
四条の適法手続条項によって修正第一条の保障する表現の自由が︑州の権力を超えて憲法上保障されるという判例の
確立後)に︑表現の自由がコモン・ローよりも憲法上の基本的自由権の問題として一段高い立場から論ぜられるよう
になったのと同様︑わが国においても︑狼褻文書の定義に関する戦前の大審院判決をそのまま踏襲するような刑法上
の判例に固執しすぎた裁判から︑もっと高度の憲法的判断に立った刑法の論理的解釈や適用による文芸裁判が行なわ
れるようになってほしいものである︒
五 ︑ 社 会 通 念 と 裁 判 所 の 判 断
O裁判官の主観が判断を支配する危険性
アメリカの連邦最高裁判所が示した狼褻文書の概念について論ずる前に︑社会通念の問題に再度触れておきたい︒
チャタレイ事件判決において最高裁判所は︑ある文書が﹁刑法一七五条の狼褻文書にあたるかどうかの判断は︑当
該著作についてなされる事実認定の問題でなく︑法解釈の問題である︒問題の著作は現存しており︑裁判所はただ法
の解釈︑適用をすればよいのである︒︹中略︺この故にこの著作が一般読者に与える興奮︑刺戟や読者のいだく差恥
感情の程度といえども︑裁判所が判断すべきものである﹂と述べ︑つづいて︑﹁裁判所が右の判断をなす場合の規準
は︑一般社会において行われている良識すなわち社会通念である︒この社会通念は﹃個々人の認識の集合またはその
平均値でなく︑個々人がこれに反する認識をもつことによって否定するものでない﹄こと原判決が判示しているごと
くである︒かような社会通念が如何なるものであるかの判断は︑現制度の下においては裁判官に委ねられているので
ある﹂と説明し︑さらに﹁裁判官が良識に従い社会通念が何であるかを決定しなければならぬことは︑すべての法解
釈の場合と異るところがない﹂(﹃判例時報﹄一〇五号七七頁)と結んでいる︒循環論法めいて不可解な点が多いが︑要は裁判官の良識
が判断の最高の基準であるというに尽きる︒
陪審制をとらぬわが国の裁判所が︑社会通念のなんたるやを裁判官の良識に従って判断することは一応当然のこと
と言わなければならない︒しかし︑それはふたつの大きな条件のもとにおいてのみ是認されるものである︒ひとつは
裁判官の独断を排すること︒いまひとつは社会通念をもって︑憲法の保障する基本権を制約する当然の枠としないこ
とである︒現行の判決は︑一般社会人は﹁専門人または最高知識人のみによって構成されていないことが明らかで
あるから︑専門人または最高知識人の判断を直ちに一般社会人の判断と同視することはできない﹂(﹃判例時報﹄一〇五号七三頁)とし
て︑原則的には専門家の判断を排除し︑裁判所が独自で﹁一般社会人の判断又は見解を包括しつつも︑これを超えた
ものとしての集団意識﹂はかくかくなりと定め︑それを社会通念と呼ぶべきだと主張しているのである︒
われわれ一般の社会人は︑わかろうと充分に努力してもわからないものに対して︑無知または半解のまま是非善悪
文芸裁判と﹁狼褻文書﹂の概念(中)
人文研究第三十六輯
等の価値判断を下すことの無責任さを知っているし︑無知または半解なものに対して︑自分にわからないから無価値
ないしは悪いものときめつけるような批評が一層無責任かつ愚劣であることを知っている︒したがって理解のために
専門家の説明や意見を求めることはもちろん︑しかもなお不可解なことに関する判断は一切専門家に任せるべきだと
考える︒それもまた社会通念というものであろう︒そこで︑いかなる文書が現行の刑法によって処分すべきほど悪質
な狸褻文書であるかという問題は︑一般社会人の思案に余るものであり︑だから今日われわれはこれを法律の専門
家︑最終的には裁判官に任せているのである︒もし裁判所で行なわれることが︑右に引用した最高裁判決が言うよう
に純粋な法の解釈と適用だけであるならば︑たとい扱われているものが文学作品であろうとも︑文学の専門家が立ち
入る余地はほとんどない︒(英米の陪審審理も︑この種の純粋な法律問題にまで立ち入るものではない︒)しかし︑法
の内容を漠然不明確にしたまま︑すぐれた芸術的作品の頒布・販売を抑制している現実の事態を改善するためには︑
どうしてもtここでも法律以外の各界の専門家の意見を徴した上で1憲法の精神を生かした形での狼褻被疑文書
の可罰的違法性の大原則を樹立する必要がある︒もしその原則が︑アメリカや︑イギリス︑西ドイツ︑イタリア等の
関係法律や判例のように︑当該文書の社会的︑学術的︑芸術的価値や︑全体的評価にかかわるものであるならば︑裁
判所は自らの独断をもって社会通念による価値判断とすることなく︑充分に専門家の学説ないし判断を聞き入れ︑こ
れを尊重すべきである︒また︑右に言った原則は︑いちいちの事例について裁判官の主観の入りやすい社会通念に
よる判断をなるべく持ちこまなくてすむような︑明確さ︑具体性を備えたものでなくてはならない︒なぜならば︑
(四のeでも述べたとおり)社会通念という曖昧な概念は伸縮自在であり︑場合によっては自然法理念にまで拡大して︑
憲法をその枠内に閉じこめる危険すらなくはないからである︒
すでに(三の日で)触れたとおり︑チャタレイ事件判決において最高裁判所は︑﹁裁判所は良識をそなえた健全な人
間の観念である社会通念の規範に従って︑社会を道徳的頽廃から守らなけれぽならない﹂(傍点筆老)と明言し︑﹁性
行為非公然の原則﹂という自然法理念を持ち出して︑法の上に法を立てるがごとき姿勢を示した︒だが︑社会の道徳
的頽廃に対してわが国の裁判所が示す規範は実定法であり︑社会通念は実定法の解釈の過程に用いられる判断の基準
にすぎぬはずではなかっただろうか︒
チャタレイ事件の裁判に加わった一最高裁判事は︑かつて尊属殺加罰規定(刑法一〇五条二項)は合憲なりや否や
を問う裁判において︑同僚裁判官が﹁不平等な規定が道徳の名の下に無暗に雨後の筍のように作り得られるものとし
たら︑民主憲法の力強く宣言した法の下における平等の原則は︑果して何処え行ってしまうであろうか︑甚だ寒心に
堪えないのである﹂と自然法理念の濫用を戒めたのに対して︑判決文のなかで︑﹁ただ徒に新奇を逐う思い上った忘
恩の思想というべく徹底的に排撃しなければならない﹂とか﹁民主主義の美名の下にその実得手勝手な我儘を基底と
け して国辱的な曲学阿世の論を展開するもので読むに堪えない﹂など︑口をきわめて非難した︒こういう悪罵的表現も
さることながら︑見逃がせないのは︑憲法の根本精神にたちかえって議論をする同じ裁判官に対して︑﹁人倫の大本︑
人類普遍の道徳原理﹂と独断的に認めるものをふりかざして問答無用の態度をとる裁判官の存在である︒筆者はこの
裁判官ですら︑新憲法が﹁人類普遍の原理﹂にもとつくものであり︑またその原理に従って解釈さるべきことを忘れ
ていたわけではないと思う︒筆者はまた︑憲法を超えた人類普遍の原理が存在することを決して否定するつもりもな
い︒しかし︑裁判官が︑人権保護のためならともかく︑罪の構成要件として憲法に成文化されぬ自然法を新たに採用
するのは︑実定法秩序を危うくする愚かな時代逆行ではあるまいか︒
文芸裁判と﹁狼蓑文書﹂の概念(中)
人文研究第三十六輯
遺憾ながらチャタレイ事件上告審判決にも︑こういう罪刑法定主義の軽視がうかがわれる︒真野毅裁判官は︑﹁道
徳ないし良風美俗の守護者をもって任ずるような妙に気負った心組で裁判をすることになれば︑本来裁判のような客
観性を尊重すべき多くの場合に法以外の目的観からする個人的の偏った独断や安易の直観により︑個人差の多い純主
観的ないし強度の主観性をもって事件を処理する結果に陥り易い弊害を伴うに至るであろう︒思想・道徳・風俗に関
連をもつ事件においてことにしかりであることを痛感することがある﹂(﹃判例時報﹄一〇五号八二頁)と多数意見を批判しているが︑
こういうごく当然の見解がわずか一名の少数意見にとどまったことからしても︑(当時の)最高裁判所の憲法感覚に
対する強い疑惑を禁じ得ないのである︒
⇔﹁性行為非公然の原則﹂は不可侵の規範か
最高裁判所は︑社会通念の規範を云々しながら︑実は社会通念を超えた自然法的原理を冒すものとして﹃チャタレ
イ夫人の恋人﹄の翻訳者と発行人を有罪にした︒判決はこう言っているー
﹁要するに人間に関する限り︑性行為の非公然性は︑人間性に由来するところの差恥感情の当然の発露である︒
かような差恥感情は尊重されなければならず︑従ってこれを偽善として排斥することは人間性に反する︒﹂(顯㎝
炉七〇肛号)
﹁性一般に関する社会通念が時と所とによって同一でなく︑同一の社会においても変遷があることである︒︹中略︺
つまり往昔存在していたタブーが漸次姿を消しつつあることは事実である︒しかし性に関するかような社会通念の
変化が存在し︑また現在かような変化が行われつつあるにかかわらず︑超ゆべからざる限界としていずれの社会に
ロ おいても認められまた一般的に守られている規範が存在することも否定できない︒それは前に述べた性行為の非公
然性の原則である︒﹂(﹄繋八頁・傍点筆者)
わずか三年後に︑イギリスの中央刑事裁判所において陪審が全員一致して﹁無罪﹂と評決した文学作品の翻訳を︑
超ゆべからざる限界としていずれの社会においても認められている不可侵の原理を冒すものと判断した最高裁判所の
不明を責めることは容易だが︑肝心なのは今後の問題である︒もし当時の社会通念に照らして狼褻と認めたのであれ
ば︑社会通念の変化を理由に最高裁判所が判断を改める可能性はあっただろうが︑右のごとく自然法的原理に反する
と断じた以上︑伊藤整訳の﹃チャタレイ夫人の恋人﹄の紐︑削除版は︑(警察および検察当局が黙認しないかぎり)実
質的には永久に再版を許されぬことになる︒にもかかわらず︑もし(前項で筆者が説明したような意味での)社会通
念を真に重視するというならば︑最高裁判所は(かりに伊藤整訳﹃チャタレイ夫人の恋人﹄が再版され︑ふたたび裁
ほ 判にかけられた場合を考えてみても)今後長年にわたってこの作品の頒布・販売を厳禁することはできず︑結局抜き
差しならぬ立場に追いこまれるおそれがありはすまいか︒もし判例に固執するならば︑性行為非公然の原則なるもの
が崩壊する不可測の時期まで﹃チャタレイ夫人の恋人﹄の原文に忠実な邦訳はわが国では出版できないということに
なる︒チャタレイ事件上告審がそういう引くに引けない判決を下しているだけに︑現在の最高裁判所がよほどの勇断
をもって判例法への固執から脱却し︑憲法の精神にたちかえった新たな原則を樹立しないかぎり︑自由諸国のうちで
はわが国だけが︑わずか一部門だけにすぎないとしても︑文化面で不当な制約を受けなけれぽならなくなる︒これ
を︑たかが性文学の問題ではないかと軽く見てはなるまい︒また︑狼褻文学を禁圧する者の動機が道徳的だからとい
って︑行きすぎを大目に見るのも正しくない︒ゲルホーソはこう警告している1
文芸裁判と﹁狼蓑文書﹂の概念(中)
人文研究第三十六輯
﹁わたしは︑悪意を持つ人々が︑われわれを欺いて︑完全な国家の安全という到達不可能な目的を︑いちずに追求
させ︑次々と自由のとりでを放棄させることに成功することはないと思っている︒ほんとうは︑誠実に自由を守る
ことを願いながら︑自由を制限することが自由を守る最上の方法であると考える者が危険なのである︒彼らは将来
多くの自由を守るために︑今少しばかりの自由を制限することを提案している︒その動機は賞めてよいが︑その判
断は不健全である︒われわれアメリカ人は︑非常に大きな自由を享有しているので︑少しばかり自由が制限されて
も︑制限されたことに真に気づかずに大きな自由を享有していると信じがちである︒︹中略︺しかし︑困ることに
は︑この小さな自由の制限が︑積み重なって行くと︑大きな自由の制限となり︑そうなる間に︑われわれが以前に
は自由に慣れていたと同様に︑自由を制限することに慣れてしまうことである︒﹂
まったく同じことが日本についても言える︒文学界においてすら︑伊藤整訳の﹃チャタレイ夫人の恋人﹄が発禁に
なったことで︑自分たちの自由が制限されたという認識を持たぬ人々が多いようであるが︑この種の制限に慣れるこ
とが︑より大きな自由の制限に対する抵抗感を薄めることになるという危険性は否定できまい︒ことは決して狼褻被
疑文学の発禁問題にとどまるものではない︒裁判所による社会通念や自然法理念の独断的濫用によって表現の自由の
一角が崩されたならば︑そこで用いられたのと同じ原理によって憲法の保障する基本権がつぎつぎと蝕まれる可能性
があるからだ︒(﹃新日本史﹄の検定をめぐるいわゆる﹁家永教科書裁判﹂においても︑文部省は︑検定は﹁社会通念
によってはっきり認められている﹂と主張している︒筆者が憂える社会通念の独断的濫用の典型的な例であり︑これ
に対する裁判所の判断が注目される︒)
⇔違法責任との関連において
ここで︑裁判所の判断と関連して刑法一七五条違反の責任の問題に言及する必要を感じる︒チャタレイ事件におい
て︑翻訳者伊藤整は刑法一七五条に違反する犯意はなく︑狼褻文書の頒布・販売に積極的に加功した事実もないとの
弁護側の強い主張にもかかわらず︑第二審判決は︑﹁刑法第百七十五条の狽褻文書販売罪における犯意の成立につい
ては︑当該文書の内容たる記載のあることを認識し︑且つこれを販売することの認識あるをもって足り︑右文書の内
容たる記載の狽褻性に関する価値判断についての認識︑即ち︑右文書の内容たる記載あるが故に当該文書が︑﹃狼褻
文書﹄に該当することの認識はこれを必要としないものと解すべきである︒即ち︑性交等性的行為に関する記載ある
が故に狼褻文書販売罪が成立する場合においては︑当該性的行為に関する記載のあることを認識し且つこれを販売す
ることの認識あるをもって足り︑右性的行為に関する記載あるが故に当該文書が﹃狼褻文書﹄に該当するの認識はこ
れを必要としないものというべきである﹂(﹃判例時報﹄一〇五号四〇1四一頁)という論拠をもって︑伊藤整を本件狸褻文書販売罪を成立
せしむるに必要な共同加功の意思および行為の分担があったものと認めているのである︒
故意の成立には事実の認識があれぽ足り︑違法性の意識を必要としないというこの見解は︑刑法学的にはそれなり
の歴史を持ち︑積極的な意義を負ったものであるかもしれない︒筆者は犯罪論の中心的な課題のひとつであるこの問
題を論ずる資格はないが︑文学書の翻訳に多少の経験を持つ者としての立場から私見を述べたい︒
ある文書が﹁性行為非公然の原則﹂を中核とする﹁性的道義観念﹂に反するか否かを︑裁判官がその﹁良識﹂に従
って判断する現状では︑翻訳者が﹁性的道義観念﹂を害するものでないと信ずる文学作品(ないし研究書)でも︑裁
判所によって狽褻文書と判断されることがあり得る︒そこで翻訳者や出版社は安全をはかって度のすぎた自己検閲を
文芸裁判と﹁狼褻文書﹂の概念(中)
人文研究第三十六輯
するか︑または自らの信念に従ってこれを出版する︒後者の場合︑事実認識があるために故意と見なされて違法の責
任を負わされる危険が伴なう︒しかし︑事実認識があるといっても︑睡眠薬を飲んで自動車を運転したというような
コ 事例とはおよそ性質がちがう︒自己の行為が法律上許されないものであるか否かを知ろうと充分に努力しても知り得
ないままに︑まじめな意図をもって︑社会的価値ありと信ずる文書を出版した者を破廉恥罪で罰するのは︑きわめて
不当ではなかろうか︒
アメリカでは︑表現の自由を抑制する法律が違法性に関して明確な規定をしていない︑または判例にょる充分な予
測可能性が備わっていない場合には︑その法律を違憲とするというのが連邦最高裁判所の原則となっている︒すなわ
ち︑ふつうの著者︑翻訳者︑出版者︑販売者が自己の行動を律するために想像力を行使するほかないような法的規制
け は許されぬとするのである︒また︑ある文書と同程度の性行為描写を含む多種の文書が多数すでに公刊されている場
合︑その文書の出版もまた一般社会の暗黙の是認を得ているというのも︑アメリカでは通説となっている︒もちろん
文学的︑学術的等の価値が明確なものについて︑頒布・販売者が違法を恐れる心配はまったくない︒また後述(六の
あ 口)のとおり︑たとい狽褻文書であろうと︑裁判所の判決をまたずして発禁や押収の処分を受けることはない︒わが
国では︑こういう法の保護をまったく欠いたまま︑著者︑翻訳者︑出版者等々が裁判官の主観的判断によって違法の
責任を問われる状態がつづいているのである︒もし裁判所が︑社会的通念の変化によって狼褻文書の可罰的違法性の
評価も変ってくるという立場をとったとしても︑いったん発禁にした文書の禁を解くとの決定が後年になって裁判所
から自発的に示されることはないのであるから︑出版者その他は︑現在の裁判官の(また取締り当局の)社会通念に
関する判断はどう変っているかと暗中模索的な推測をし︑その上で冒険的な再出版をしなければならない︒事実︑言