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(1)

科学としてのデモグラフィー論 : The Study of Population. An Inventory and Appraisal. Edited by P.M. Hauser and O.D. Duncan. The University of Chicago, 1595.の批判的考察を兼ねて

その他のタイトル Criticism on the View of "Demography as a Science"

著者 市原 亮平

雑誌名 關西大學經済論集

巻 11

号 3

ページ 231‑251

発行年 1961‑08‑20

URL http://hdl.handle.net/10112/15513

(2)

る ︒

科 学 と し て の デ

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二十世紀后半は境界領域の科学の時代であるといわれ︑しかも境界科学の時代は刻々総合科学の時代に移りつA

あるともいわれる︒科学の発展と細分化がもたらしたあたらしい学問領域が既成の分科の枠外にハミ出して諸学の

協力や統合がまじめに考えられている︒いわゆる﹁境界領域の科学﹂

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e 問題もその一礫である︒

たとえば低開発地域の近代工業化の視角から経済学の分野の場外にはみ出して経済学・社会学・文化人類学などを

包括するひとつの新興科学﹁開発学﹂なるジャンルがうみ出されたごとき︑近来のすでにのべた傾向の一例とみられ

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一年参照︶また経済学・数学・技術などの接合点で境界科学の新種として登場してき近時時代の脚光を浴びている

社会工学や経営工学︑またしかりである︵中央公論誌上に展開されている社会工学論争を参照︶︒

モ グ ラ フ ィ ー 論

第二次大戦で新カント

(3)

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派的な旧態の学問体系・分類論が退潮しこれにとらわれないプラグマチィックな行動工学の適用範囲がひろまり︑

高度化した生産力条件と適合した新興科学・境界科学の分化・総合がおきていることは︑時代趨勢の波にのったも

( 1 )  

のといえよう︒われわれが本稿であつかう﹁人口学﹂

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もまたこういう時代傾向の脚光を浴びた境界

科学の見本的存在とみられ︑関係学問領域はじつに経済学・社会学・人類学・生物学・人類生態学'・公衆衛生学・

心理学・応用数学・老齢学・家政学の多きにまたがり︑人口学者になることは百科全書人たることを要求されると

いった現況であり︑その学問的本質と今后の動向とは近代理論科学の興廃につながる認識論的根拠をもつていると

( 2 )  

いつてもいいすぎではあるまい︒

日本文部省の教授調査のカードには経済学関係を財政学︑金融論など二十二項目にわけてあったが人口論の項目

はついになく︑人口論関係の定期講座をもった大学は十指にもたつしていないがこの冷遇は何に因するのであろう

か︒さる三十四年六月に日本学術会議の長期研究計画調査委員会でひらかれた境界領域シンポジウムで館稔氏︵人

(3

) 

口問題研究所長︶や南亮三郎氏︵中央大学教授︶によって境界科学人口論の不遇が忌憚なくかたられたはづである︒お

そらく人口学者の未開発や大学の人口論講座の未設の一因は︑旧帝国大学時代に学科編成の理念となったドイツ観

念論・学問体系論の遺習といったこともあろう︒しかし人口論や人口学の側がたんに境界領域に座を占めているだ

けでなく︑独立科学としての存在を主張できる対象と方法とを用意しているかどうか︑もきぴしく自省してみてよ

人口論のあつかいが生物学説・文化学説・社会学説などに多元的にわかたれ︑人口を独立変数であるかのごとく

考える古典派経済学解体ごの俗流認識の傾向を批判し︑人口論をその発生母胎たる経済学の領域にひきもどし︑長

(4)

.学﹂は人口とそれをとりまく環境の相互依存関係を分析するもので︑

依存関係をあきらかにするものとの視点にたち︑人口論におけるケインズ革命を想定して︑

に放逐した人口論の復位を成長理論中ではかる︒すなわち︑長期分析の活発化は人口増加という長期要因をとりい

学的アプローチ﹂と題した富田富士雄氏は︑ドイツ︑ れる余地を広くし︑人口増加を決定するものとして経済要因以外のさまざまの契機が考へられるから︑これら経済

( 5 )  

外的要因の分析も必要となり︑いきおい経済学を他の諸社会科学との協働にみちびく︑というのであった︒﹁社会

アメリカにおいてそれぞれ独自に発展した社会学

史を通観しながら︑ドイツでは社会学的人口論と社会学的人口法則の樹立に︑

の人口論の位置づけに︑アメリカでは社会学の一分野としての人口の実証的統計的研究にそれぞれ重点がおかれて

いることに国民的特質をみとめ.つA︑これら一二系の流れを再検討して科学方法論の立場から︑それぞれの人口研究

( 6 )  

における理論的意味についてのべた︒人口統計学の立場から報告された上田正夫氏は︑分析論・消費論に重心をお

く形式人口論と別個の存在で、調査論•生産論に重点をおく人口統計学は、実体学としての統計学の応用部門であ

るという見地から︑人口研究における実体的側面を充実させてゆくプロセスで経済学・社会学など関連諸科学と協

のただしさをいつそう確認する結果となった︒ I n

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に共鳴をおぽえ︑

期短期両方よりする一般理論をうち立てんとした

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( 4 )  

わたくしなりの書評をしるしたのもこの自省の作用であった︒本年四月

にひらかれた第十三回日本人口学会でも﹁人口学への接近﹂と題して︑経済学・人口統計学・社会学の三分野の学

究によっておこなわれたシンボジウムは﹁人口学への途﹂がいぜん遠く険しいことをしめし︑クーンツの批判視角

このうち﹁経済学﹂的接近は人口と経済との

一度近代経済学が圏外

フランスでは社会学の理論体系中で Aで経済学的立場から報告をおこなった南亮進氏は︑

(5)

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など各国各界の学究が筆をと ロリマーのほかに地理学者の 専門的職業としての人口学︑の諸章にわかたれてい

働しうる︑というのであった︒このシンボジウムはそれぞれの専門分野の壁を撤去してみせたにとどまり︑撤去さ

れたあとに人口関係の全知識をどう体系化するかという根本問題にはまだ一指もふれていないとの感想をつよくし

しかしこの種の﹁人口学﹂統合への志向は日本人口学会でのシンボジウム以前にプラグマティズムの祖国で強力

にプッシュされていた︒全国科学財団の財政援助のもと︑

上った八六四ページにおよぶ大冊ーハウザー︑ダンカン共編の﹁人口研究﹂・︵一九五九︶は﹁人口学﹂統合への想源

を提供している︒内容は四部からなつている︒第一部の﹁科学としての人口学﹂は編者ハウザー︑ダンカンが執筆

し︑人口学の本質︑

る︒第二部は﹁人口の発展と現状﹂で︑

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r の人口学発展の概況の吟味にはじまり︑

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資料と方法︑

イタリー︑ブラジル︑

イタリアの人口学者 知識体系としての人口学︑

インド︑太平洋地域︑ シカゴ大学を中心とした各界の研究者の協力によって仕

アメリカなどの諸国の人口研究の現況がかなりくわしくのベ

られている︒︵北欧諸国と日本がわづかに無視されている︒︶第三部は﹁人口学の諸要素﹂で世界の人口資料︑人口構造︑

人口分布︑出生︑死亡︑人口成長と補充︑国内移住︑国際移住︑人口推計︑家族統計︑労働力︑人口と自然資源の

各章からなる︒第四部は﹁諸科学における人口研究﹂で生態学︑人間生態学︑地理学︑人類学︑発生学︑経済学︑

社会学などと人口学との相互関係が論ぜられている︒執筆者はハウザー︑ダンカン︑

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社会学者の

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人口学者の

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経済社会学者の

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社会学者の

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などアメリカ学者のほか︑

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ドイツの人口統計学者 フランスの人口学者

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(6)

一見しても全篇三十三章に共編者がもりこんだ結構の大きさーーこの点で日本平凡社がさきに江湖にお くった世界さいしよの﹁人口大事典﹂と比肩するー│ーに睦目するのであり︑人口研究の現代的傾向を批判的に吟味 しようというわたくしに本書が課した負荷は重たい︒しかし﹁人口大事典﹂の項目主義よりする編成とことなり︑

論文別の統合であるため︑共編者の意図の滲透は﹁大事典﹂よりいつそう困難となっており︑しばしば重複した論

6 7 )  

述に人口学統合の苦渋をよみとることができる︒さらにさきにのべたように︑クーンツといういわゆる自由諸国内の ルッター的人口論者の︑唯物史観や相対的過剰人口論にたいする激しい肉迫とこれらを脈絡化することによる体系 的な経済学的人口論への志向を読みとつているわれわれに︑

も必要とされるエンサイクロベディアさへ提供してくれてはいない︶︒

マルクス人口論に挑んだ小論文さへみいだしえない本 への息吹を感じることができようか︒現代にあって是非いづれの見地に立つかは別としてマルクス主 義への対決を欠いた︑既成諸科学からの断片的知識の集積だけによる人口学の統合化は︑ヴィジョンの喪失による

デモグラファーじしんの自殺ーー社会科学者の﹁自己疎外化﹂をいみしてはいないか︵しかも本書は人口学徒にもっと

科学の領域も細分され専門化されてゆくのはいわば必然性の傾向であ る︒そこでは蹴業としての学問人・専門家が多量に派生してきヴィジョンとテクニックは分化し︑社会認識は古典 派のもつていた全体性把握をうしなってゆき︑断片化した部分認識とそれを境界科学で機械的に統合することによ

る仮象の﹁全体性﹂把握の回復行為がなされている︵認識の断片性にたいする社会科学者の反省は科学危機論を招くととも

に︑この危機意識を縫合するため︑境界科学が各処にうまれてきて︑全体性認識が回復できたような錯覚を研究主体にあたえ︑

ういう形での分化t統合︑部分認識と全体認識との安直な悪循環が社会科学者の自己疎外化をますますつよめている現況なのであ

科学としてのデモグラフィー論︵市原︶ 近代社会の発展・分業化の深化につれ︑ 書に﹁現代﹂

(7)

視点の導入とを基軸にして長期︑

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基本ラインとしてルカーチ的志向

古典経済学の批判的摂取と唯物史観的

において︑社会存在の全体性把握が

における変革的原理の担い手﹂であること︑そしてこれをマルクスがヘーゲルから批判的に摂取した唯一の合理主義 的方法論であることを前提にして︑古典経済学の解体と社会学の分化・成立を大きな転機とする俗流諸市民科学の

( 8 )  

形成・分化が︑社会認識の﹁全体的視点﹂

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をすてさり︑社会の個別諸領域を断片・機

(9 ) 

械的にとらへようとするいわゆる﹁弧立化的観察方法﹂

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して現代の俗流諸科学が一見洗練された技術主義や実証主義の体裁はとつているが︑じつはこれらは資本主義社会 の﹁分裂性﹂﹁盲目的必然性﹂の物象化された投影ーー'反科学的な科学性と経験的不可知論におちいざるをえないこ とをあきらかにしている︒社会科学や自然科学のヒューマニズム性を再確認したり︑科学の細分化・技術化とそれ

にともなうヴィジョンの喪失を反省したり︑

こういう学内の限界状況をつきやぶる安直な方法としての境界科学の シンポジウムを開催したりーー'する各種の試行のなかで︑デモクラファーは何を考へ何を志向すればよいのである か︒クーンツはその︱つの脱出路をしめしていて示唆的である°││彼はマルサス以后の︑人口理論を生物学説・

文化学説・社会学説などに多元的にわけて研究するという方向を批判し︑

短期分析をあわせもった一般的な経済学的人口論を体系づけようとした︒

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と歩調をあわせながら︑第一部﹁マルサス以后の人口理論﹂をのべているが︑

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その問題意識はおよそ次のように約現

されている°│ー

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われわれはクーツのこの自由諸国内における異端派的発想と︑自由諸国家における有力なデモグラファーを網羅し

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f   Populationでの最大公約数的発想ー~これは西欧諸国内におけるいわばデモグラファーの正統 派的思想といえようかー│土とを交叉させ︑とりわけ后者の第一部

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を批判的に吟味 することにより︑現代境界科学の認識論的特徴性を概括ながら適出してみることにしよう︒

(1

) 論理実証主議への固執と弁証法的思考の捜斥︑機能主義の徹底による全体論的認識方法の拒絶︑技術ー形式的合理主義 の採用によるヴィジョンの投漿ーなど

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  (邦訳久野収

1

1市井三郎︶はさい

きんの﹁人口学﹂や﹁開発学﹂などの境界科学﹁統合﹂論の根底にある︑いわゆる社会工学的思考を分析哲学の立場か らもっとも体系立て

4

いるのが注目される︒日本の社会工学論争文献としては︑ポパーのこの著と市井氏の見解を自説 と軌を一にしていると註記した石本新﹁社会科学から社会工業へ﹂︵中央公論三十六年四月号︶を手始めに︑石本脱に

賛同しつ4J.J

・スペングラー式の﹁開発学﹂を﹁開発工学﹂と銘打ち後進国開発問題にあてはめ︑資源諸科学︑農 学土木建築をはじめとする工学各分野︑経済学︑人口学︑政治学︑生態学︑人類学︑社会学︑地理学︑心理学︑教育学︑

衛生学︑医学︑歴史学︑芸梱学等々を統合して健唆きわまりない﹁開発工学﹂を構想される川喜田二郎﹁開発工学のす

4

め﹂︵中央三十六年七月号︶︑さらに石本の徴視的工学方法がそのま

4巨視的社会問題にあてはめ難いことを省み︑

環境要素を分析しこれを操作することによって行動を計画的に強化する﹁行動工学﹂なるものを提唱する花田隆﹁社会 工学論争に参加する﹂︵中央三十六年八月号︶が︑分析哲学に立つ主要なもの︒社会工学に批判的な論文として論争を まきおこしたのが︑関恒義﹁社会科学における歴史と論理﹂︵中公︑三十六年五月号︶であり︑わたくしも若干異論はあ

るが根本論として関氏に替成である︒なお︑﹁人口研究﹂には﹁開発学﹂の中心的提唱者である

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・スペングラーが

第三十二章﹁経済学と人口学﹂を執筆し︑本書の全執筆者中もっとも社会工学的な思考をしめしているが︑共編者はこの点

科学としてのデモグラフィー論︵市原︶

(9)

科学としてのデモグラフィー論︵市原︶

4慎重で︑政策問題ー﹁社会工学的問題﹂

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への過度の没入を戒めてはいる︵序文をみよ︶︒

(2

) 日本の風土に戦前密着していた新カント派的ドイツ観念論的学問論として河合栄治郎編﹁学生と科学﹂所収恒藤恭﹁学 問の分類﹂および木村健康﹁社会科学の方法﹂を参照︒要するにこれは封鎮的体系であり︑境界科学は来る者拒まぬ式

の解放的技術的体系なのである︒

(3

) 毎日新聞大阪版七月二日所収﹁境界領城ツンポツウムの報告と討論﹂を参照︒

(4

) 関西大学経済論集三十四年六月号拙稿﹁経済史観的人口論の一方向﹂︒

(5

)

念のため同一主旨の中山伊知郎ー南亮進﹁適度人口﹂参照︒

(6

) 南亮三郎絹﹁人口論史﹂第八章富田﹁アメリカ社会学における人口論﹂を参照︒

(7

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たとえば

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などへの礼讃の辞が頻繁に重なって顔を出しているような︒

(8

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(9

) 平井俊彦﹁ルカーチにおける社会存在の論理

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﹂経済論叢八

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( 1 0 )

マルクス主義人口論の側では︑資本論のなかの相対的過剰人口論をそれぞれ公式的に特殊な各国別資本主義の分析にあ てはめる傾向がつよく︑日本マルクス主義も例外ではない︵昭和人口論争時における河上葱︑淡徳三郎氏など︶︒こう いう資本論の教条的抽出による人口論理解をこえようとする機運は漸く熟しているようであるが︑クーンツの仕事は創 造的に解釈し発展さすべきであろう︒不振のソヴエト人口学界で戦前

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a者﹁人口論﹂(‑九

五九︶がさいきんの反体制的人口論としては出色のもので︑社会主義的人口論の展開︑ケインズをはじめ近代経済学の いわゆる資本主義的人口論の紹介と批判︑公衆衛生の問題︑人口政策などの四章がふくまれ︑三五

0ページにおよぷカ

作で邦訳がまたれる︒しかし理論的寄与︵人口理論としての︶という点では︑スムレヴィッジのものはなおスターリン 主義を完全に脱していないので︑むしろクーンツの方に多くが期待できよう︒しかしクーンツのばあい︑その唯物史観

把握が

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Seligman流で—セリーグマン流の俗流唯物史観解釈は河上蓋、堺利彦らに想像以上に大きな影響をあた

えているーーー経済進化論にゆがめられており︑それに経験論的発想もおりまざつているので︑人口論の多元的部分認識 ー社会学︑経済学︑文化学説︑生物学などーの俗流性にたいする批判も︑ルカーチのように弁証法的立脚点が強くは

(10)

ハウザーとダンカンの﹁序文﹂は本書の成り立ちを問わず語りしている︒ーーー全国科学財団の︑政策の発展にと

つて必要な第一歩は合衆国における科学の現状についての適切な事実群の蒐集にあるという意図に沿つて︑科学と

しての人口学の現状研究がはじめられたのが一九五四年の秋のこと︒この企ての多岐な性格からして仕事は必然に

綜合的な共同作業となった︒かくて此本の準備作業として第二部︑三部︑四部を構成している寄稿者たちのシンポ

ジウムが開かれ︑研究機関の同僚たちの協力やシンポジウムにくわわった各章の執筆者たちの基本的な作業に促が

され︑共編者が実行できる分担として第一部﹁科学としての人口学﹂が用意された︒この冒険にくわわった学者の

めざましい協力によって︑執筆予定者三十名のうち一名が死亡し二名が他の約束事に力をとられて抜けはしたが︑

予定表は慨してよく守られたといえる︒大体においてこの研究の参加者は注意深く関連用語を吟味してはいるが︑

執筆者のうち幾人かはこのましい限度をはるかに大胆にこえて提示された申し合せの枠を離れてしまったし︑さら

つまり政策問題に気をとられてはいけないという戒めを充分には守りきらなかつ

た︒ーーと︒共編者によって組織され財団の援助と志向とにみちびかれたシンポジウムや共同執筆は︑もちろん思

想・イデオロギーの共範が大前提となり背骨となつているが︑それでもその間に方法や問題意識の微妙な落差や違

和があることはこの﹁序文﹂からでも察知できるであろう︒

科学としてのデモグラフィー論︵市原︶ に幾人かは社会工学的な問題︑ なく認識論的透徹を欠いている︒

(11)

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と﹁人口研究﹂ ろい領域にわたる︒﹂とのべている︒ 第一部の初章﹁概説と結論﹂.で共編者は︑人口学・人口研究が三世紀の歴史をもつており︑他の科学研究の領域と同様に盛衰の歴史をかさねてきたが︑現代は人口研究のきわめてさかんな時代であると前おきしたのち︑学の領域や構造について単一の標準概念があるわけでない︒人口学が何であるかの概念は見透しや志向の変るのに応じて︑場所・時代により種々異なりうる︒人口研究に従っている学者数は自分じしんを人口学者と定義づけている数よりはるかに多い︒くわえて人間の人口現象に関心をいだいている人たちの学問は自然科学︑社会科学の幅ひ編者はいちおう人口学に次のような定義をあたえている。ー~「デモグラフィーとは人口の量・地域分布・構成・その点における変動はどの研究︑および出生・死亡・地域移動︵移住︶とみなされる諸変動や社会的移動︵階層変化︶の構成要素の研究のことである︒﹂

( p.

2)デモグラフィーをこのように三方面よりなる変動要素の研究であると定

義づけると︑多くの学者はデモグラフィーの資料をめぐつて相互に交渉しあわなければならないのはあきらかであ

り︑たとえば発生学者︑生態学者︑地理学者︑考古学者︑人間資源にかんする専門家︑公衆衛生の専門家︑心理学者︑社会学者︑歴史家︑経済学者︑さらに他の諸専門学徒はおのおのA研究活動の場内で人口学的分析をおこなわ

ざるをえない︒他方﹁人口学者﹂

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とよばれる専門家は︑人口学的諸問題との関連で他の専門領域で

の分析要具を間々使用せざるをえない︒そこで境界科学につきまとうこの種の錯雑を避けるため︑共編者は慎重に

( p.  

1 )

人口学の領域で単一概念が成りたち難いことをみとめたうえで︑

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との区別の要をみとめる︒1

﹁人口学者と非人口学者とがひとしく他の変動要素の体系との関連で人間人口をあっかうという事態からひきおこ

ざれるあきらかな混乱は人口学的分析と人口研究とを区別することによって免れることができよう︒人口学的分析

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(12)

とは人口の変質・移動要素の研究にかぎられる︒人口研究とは人口変動だけでなく︑人口変数と他の社会的・政治

的•生物的・発生的・地理的等々の諸変数との関連をあっかう。…•••かくてデモグラフィーは狭義においては人口

学的分析と同義語と考へてよいし︑また広義において人口学的分析と人口研究の両者をあわせもつているとみても

こういう規定づけに従うと﹁人口研究﹂は脈絡一貫した︑自体存在としての関係領域を固有す

る︑単一の理論体系ではない︒それはむしろ︑

︳ 七

いくつかの関係領域の専門家が動員さるべき実体科学の頷域といえ

ば︑もつともよく特徴づけたことになろう︒個々の人口研究は︑特定の型の人口学的分析が重要な役割をはたす際

使われるカテゴリーの︑いくつかを包含することになりがちである︒だれも人口学的分析がもつあらゆる可能性を

くみつくすことはできない

( p.

3)︒だから人口研究を一の統合された包括的な理論が説明できるような研究題目で

あると考へるのは少々困難である︒このような人口研究のための理論体は︑経済学・社会心理学・発生学など︵た

とえば︶のような学問のさまざまの先行分野を包含しなければならないであろう︒﹁いわゆる人口理論はだから次

の事柄のいづれかでなければならない︒:・⁝人口学的分析にふくみこまれている諸関係や︑そこで用いられている

より立ちいった研究か︑あるいは人口現象を包含したり人口学的分析を利用したりする特別な理論的計

画の一部分かいづれかである︒﹂

( p.

3)

ー﹁要するに︑限られた人口学的分析の構造の埓内での研究科学として

の人口学︵こ4

する研究にぞくさせているのだ︶の核を形成しているとみられる︒人口研究の形での研究は︑人口学的分析だけでな

く、人口変動・変質と事態に応じて社会学的・経済学的・地理学的・歴史学的•生態学的•生物学的Iといった

他の学問体系と密接につながる諸変数との間の関係の発見や解明といった仕事をあわせふくんでいる︒﹂

( p.

4) 

(p

p.

23)

(13)

成科学の諸分野の接触点をひろいあつめ︑形成論理による﹁統合﹂

( i n t

e g r a

t i n g

)  

( m u l

t i

デモグラフィーにとつて不可欠のことは︑ たんなる人口学的分析に視野を局限せず︑ひろく資料を蒐集し加工し

﹁人口学は経験科学から区別されたものとし︐ての観測的な科学の︱つである︒す

なわち実験室のなかで多かれ少なかれ制限された条件のもとでなされる経験よりもむしろ︑無限の世界のなかに生

起した事実の観測や記録をもとにした資料を頼りにしているのである︒この点において人口学は化学・物理学や経

験的心理学よりも︑むしろ天文学・地理学・人種起源学に類似している︒﹂

( p.

5)こういう形での現実への接近は

資料の本質にからまる︑あらゆる社会科学が必ず直面する歴史主義の問題を人口学に課することになる︒つまり時

間と空間とにおいて局限されている資料からひき出された普遍化が︑どのような限度内で特殊唯一の状況記述に逆

らつて一般的命題へと導くことができるかという制約の問題なのである︒このような歴史主義の制約というものが

考へられるにせよ︑デモグラフィーの知識の集成は︑すくなくともニー︳︱‑世代の長きにわたって人口現象について

の断定可能性と説明とをあたえてきているということは認めねばならない︒

論理実証主義が科学の細分化・技術化によって失われつAある全体認識を︑弁証法的全体観によってではなく既

s c i e

n c e   ap

pr

oa

ch

によって回復しようというのは︑科学的な反科学性と社会科学の自己疏外化をますますおしすA)

めることになるであろう︒論理と歴史と政策とが形式論理の認識構造でもつて機械的に切断され︑科学者の参与する

ものがテクリックだけとなり︑歴史的決定論が拒絶されて︑デモグラフィーにしても開発学にしても経営ないし社会

工学にしても︑科学者はどこかで政策主体によって設定したヴィジョンー政策目標を論理にはめこむ悪しき専門家

j技術者になりおわるのである︒しかも歴史主義の亡霊はたえず境界科学者を脅かし︑デモグラフィーにも存在理 て人口研究にせまることである︒

(p

p.

 1 1

2 )  

(14)

由を問いつづけ︑ヴィジョンを人口推計のような予測能力におきかえて安心している﹁統合化﹂論や﹁多科学的接 近﹂論には汝は科学であるか否か︑と反覆設問してやまない︒ー﹁人間にかかわるいかなる科学においてもそれ らが真に科学であるかどうかという潜在した疑問がほとんどあらゆる場合におきるのである︒もちろんある種の思

想学派は社会科学

( so c

i al

s ci e n ce s ) は科学ではない︒それらはもつと近似的な意味で社会研究

( so c

i al

s tu d i es )

と名づ

けられるにすぎないという見解をいだいている︒この問題点にかんし論争を避けるために︑

一 九

そしてシンボジウムに

よってひき出された傍証に立脚した自信によって︑次のことは確言できるであろう︒ーーデモグラフィーは科学と して必要な形式と方法とのすべての要素を具備しているから一の科学である︑と︒デモグラファーは他の科学者と ひとしく真理へのたえざる研鑽に身をうちこんでいるのだ︒﹂

( p.

20)

しかし共編者の﹁人口学的分析﹂と﹁人口研

﹁狭義のデモグラフィー﹂と﹁広義のデモグラフィー﹂との区別による︑困難な人口学体系化への斗いに

もかかわらず︑

八六四ページにたつする大冊のどこにも︑体系科学であることの有機的な裏付けをみいだすことは

できなかった︒こA

での屈強の分析用具は数学であり

( p.

1 0 )

形式論理でありこういう中立的な用具があたかも中 立の無色透明な境界科学デモグラフィーを保証するかのようである︒ー│贔しかし超科学的主体︵それは政治家であり 実業家であり官僚であり本書のように財団である︶の提示するヴィジョンに科学の断片化・技術化︑それを縫いあわせる ための統合・多科学化によってこたえていく以上︑もはやそこには物象化され仮象化された中立性・自主性がある

にすぎないであろう︒こA

で総じて欠落しているのは形式論理の狭溢な方法論の枠をうちゃぶるべき弁証法的認識 である︒クーンツのばあい経験的思惟の影響下にありながらもマルクス主義文献への味到によって弁証法的視座が ある程度あたえられており︑これが本書と対照的に体系性獲得の屈強な支えになつていた筈である︒

(15)

ーを雑然とした雑炊学に堕してしまう危険を慎重に配慮しなければならなかったのではあるまいか︒本書は多くの て ︑

そのかぎり他の多くの執筆者とくにスペングラーとはちがつ

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ulti'science 

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h)

 

安易な学

共編者の﹁概説と結論﹂を敷行したのが第一部本論であって︑もちろん考え方の骨子はいささかも変つてはいず

反覆し詳説されているCすでにふれたように本書の各執筆者は︑

ほぽ同一志向で人口学をうちたてようとしながら 微妙な点で違知を生じていた︒これが本論では顕微鏡的に拡大してあらわれている

Cすなわち科学としてのデモグ

ラフィー論に関し共編者は次のようにのべている︒ー│︱﹁すでにしめした見解が全人口学徒によって︑

ンボジウムの参加者によってさへも共鳴されるということは要求する方が無理である︒各執筆者が実際人口理論と 他の諸科学からもたらされた諸理論との統合化

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nt

eg

ra

ti

ng

)

を望むことはむしろ普通といつてよい︒

ヴァンスが裏書きしているようにスペングラーは人口理論は多科学的接近 約言している︒ヴァンスは﹃人口の動態分析にはいくつかの社会変動にかんする基本学説を統合してかかる必要が ある﹄といいきつている︒ムーアは人口変動にかんし適切な理論を使って望ましい結果にみちびくには^社会学的 理論の統合>の要を主張している︒⁝⁝人口研究が必然に他の諸学問のペースペクティヴからなされるということ は一般的な承認をえているようにおもう︒しかしこれらの異つた種類の研究分野がとにかく首尾一貫した学問体系 と統合された説明原理とをもった単一の学問へと合一できるか否かについてはほとんどあきらかになっていない︒

かように統合的な多科学的な理論︑あるいは学問体系が一体どのような形態をとりうるか︑という疑問を人は出し

( p.  

37)Aに︒ハラドックスがある︒共編者は﹁序文﹂

問統合論や多科学的接近論にたいしいだいている︒

いやこのシ

を要求すると

でも示唆したような疑問を︑

﹁人口学﹂をかりそめにも科学本質論として考ヘシンポジウムを組織した以上︑安直な統合論がデモグラフィ

参照

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