ニックリッシュ商事経営学における企業概念につい ての一考察
その他のタイトル Uber den Unternehmungsbegriff von H. Nicklisch am 1912.
著者 大橋 昭一
雑誌名 關西大學商學論集
巻 10
号 1
ページ 19‑46
発行年 1965‑04‑01
URL http://hdl.handle.net/10112/00021573
19
ハインリッヒ・ニックリッシュ
( H
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c h
)
はシュマーレンバッハ︑ シュミットとならんでドイツ経
営学の三大巨頭の一人である︒ニックリッツュの主著は最初一九︱二年に,,
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( u
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r I n d u s t r i e ) "
A l して祖やわh︑
的に改訂されて書名も,,
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e ^ ^とされ︑さらに一九二九ー・三二年にかけて大増訂さ
れ て
, ,
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t "
として集大成されるにいたっている︒周知のように︑ニックリッシュは︑なか んずくシェーンプルークの規定以来︑規範学派の総帥として︑規範的経営学の最高峰として認められている︒しか しその学説は︑ドイツにおいても︑ひとり規範学派に属する論者たちばかりではなく︑その他多くの経営学者に多
②
大な影響を与えたのであるが︑規範的経営学樹立というかれの中心的問題設定の特殊性もあって︑ニックリッシュ 経営学においては理論的体系の確立といった面が前面にたち︑そうした意味からもいわゆるドイッ的経営学の典型
と考えられてきている︒
骨をドイッからとり︑肉をアメリカに求めてきたわが国の経営学において︑
ニ ッ
ク リ
ッ シ
ュ 商
事 経
営 学
に お
け る
企 業
概 念
に つ
い て
の 一
考 察
︵ 大
橋 ︶
きゞ
は し カ
企業概念についての ニックリッシュ商事経営学における
一九
一ックリッシュ経営学が大いに重視
一 考 察
一九二二年には根本
大
橋
昭
20
注 山
あるが︑本稿では︑
ニ ッ
ク リ
ッ シ
ュ 商
事 経
営 学
に お
け る
業 企
概 念
に つ
い て
の 一
考 察
︵ 大
橋 ︶
され︑経営学徒たるものは一度はニックリッシュに取り組むべきものとさえいわれてきたことは︑けだし当然のこ
シ ュ
研 究
を ︑
ニックリッシュにたいするこうした理解が︑わが国におけるニックリッ
いわば多少ゆがめたのではないかと思われるのであって︑わが国における旧来のニックリッシュ研究
③は︑かれのいわゆる方法論的所説や規範的内容︑主張にとらわれすぎ︑ニックリッシュ経営学説の具体的内容につ
いては余り注目してこなかったのではないかと思われるのである︒もちろんそれには︑さらに︑ニックリッシュ研
M i
究に際して︑ニックリッシュの最良の理解者であり追随者であったシェーンプルークの,,
Da s M et ho de np ro bl em in de r E in ze lw ir ts ch af st le hr
e
"がまず手がかりとされてきたことや︑体系や形式といったいわゆる方法論的研
究よりも具体的研究︑実証的研究︑つまりは内容を重視しほとんどそれに終始してシェーンプルークによって最も 6 非体系的な人物とさえ酷評されたシュマーレンバッハと対照して︑ニックリッシュの特徴が求められてきたといっ
た事情も︑あるであろう︒確かにかれの勘定理論とか賃銀理論とかいった個々の主張が︑それぞれの分野において
個別的に取り上げられ深く究明されてきていることは事実であるが︑しかしながら︑少なくともかれの学説の具体
的内容を統一的に検討し︑その上にたって単にニックリッシュの経営学方法論それだけではなくて全体としての二
ックリッシュ経営学の生成発展の過程を究明することは︑余りなされていないように思われるのである︒
われわれは以上のような問題意識の上にたってニックリッシュ経営学の生成発展の後を追跡しようとするもので
ニックリッシュ経営学の出発点たる一九︱二年の著書を取り上げ︑まずそこにおける企業概念
に焦点をあてて︑これまで余り究明されてこなかった具体的内容について若干の検討をおこない︑この面からニッ 8 クリッシュ経営学に接近しようとするものである︒
F . Schon
pf lu g̀ Be tr ie bs wi rt sc ha ft sl eh re ,
2. A u f l . , h er au sg eg eb en vo n H
・S ei sc ha b, St ut tg ar t
19 54 .
とであったであろうが︑ しかしその反面︑
二0
21
Sc ho np fl ug , a . a .
0 . ,
S . 8 9 .とくに
s .
2 1 5 .
古林喜楽﹁ニックリッシュ教授を偲ぴつつ﹂工業経営︑四︑一九五三年︑九ページ︒ 図 岡わが国における最もすぐれた方法論研究者の一人であった馬場敬治氏は︑ニックリッシュが方法論上のイロ^をも心得ず
して︑経営学の方法論を試みており︑その方法論的基礎は甚だ薄弱でありその議論は幼稚である︑と酷評されている︒馬場
敬治﹁経営学方法論﹂三四︑九九︑二五八ページ︒
出
固中村常次郎﹁私経済学時代の独逸経営学﹂馬場敬治編集﹁経営学全集﹂第六巻﹁独逸経営学﹂︵上︶一五ニページ︑一五四
ペ ー ジ ︒
⑲
Sc ho np fl ug , a . a .
0 . ,
S . 2 7 8 .切専らニックリッシュ研究にあてられた高田馨博士の労作﹁経営共同体の原理﹂にしても︑組織論と一九三二年の著書との
関連について︑主として論じられているのみである︒
矧周知のようにニックリッシュは一九
0九年に・,
Ka rt el lb et ri eb
"
なる書を著述しているのであるが︑同書はカルテルを
販売機関
(A bs at zo rg an is at io n)
の面においてのみ取り扱ったもので︑﹁カルテル内における構成員の利害の計算的均衡﹂
の問題、要するに「カルテル決済
(Kartellabrechnung)」の問題のみを扱っているものである。
(H•Nicklisch,Ka rt e‑ l l b e t r i e b , Le ip zi g 1 9 0 9 , G el ei tw or t S . ] [ .
~昭州)知匹ってこの寧自については必要な限りにおいてのみ言及するにとどめる。
なお︑ニックリッシュは一九︱二年の﹃商事経営学﹄の出版に先立っていくつかの論文を書いている︒そのうち本稿での
論題ととくに関係があると思われるものは次の三つであるが︑そのいずれもが一九一
1一 年 の 書 に 収 録 さ れ て い る
︒
" , Re se rv en un d f i na n z ie l l en Si ch er he it
"
Ze i t sc h r if t fu r H an de ls wi ss en sc ha ft un d Handels
pr ax is , 3 . J g . 1 9 ( 1 0 ) , S . 3 0 5 f f .
••Grundsatze
fu r d i e Feststellung
n u d Be ur te il un g d er Re n t a b i l i t i i t un d f i na n z ie l l en S ic h e rh e i t d er Un te rn e‑ hm un ge n, an ge wa nd t a uf un se re r G oB ba nk
"
a. a . O . , 4 . J g . ( 1 9 1 1 ) , S . l f f .
ニックリッシュ商事経営学における企業概念についての一考察︵大橋︶
22
一 般
性 ︑
かかげている︒
ニックリッツュ商事経営学における企業概念についての一考察︵大橋︶︱ ,
D i
e K o n t e n d
e s
f r e m d e n K
a p
i t
a l
s "
a . a . 0 . ,
4 .J g . , S .7 7 f f.
私 経 済 学 と 国 民 経 済 学
ーー出発点としての﹁私的大経営的商事企業﹂ー
ニックリッシュは国民経済学と私経済学とを区別することから出発する︒冒頭においてかれは次の有名な一文を
( W i r t s c h a f t s w i s s e n s c h a f t e n )
その福祉の立場から︑ は二つの相異なる側面から叙述される︒その一っは 一国内に存在する一切の経済の全体の立場から叙述するものであり•他の一っは個別経済、 つまり個々の経済の責任ある指揮者の立場から叙述するものである︒前者の側面からの叙述
は国民経済学
( V o l k s w i r t s c h a f t s l e h r e
) とよばれ︑後者の側面からのそれは個別経済学
( E
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,
l e
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e )
︑とくにそれが私経済を取り扱う限りにおいては私経済学
( P
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l e
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e )
とよばれる︒両学問
の研究対象は全く同一である︒﹂
(S :l )
このようにニックリッシュは︑まず︑国民経済学と私経済学とが研究対象の
﹁ 経
済 科
学
一 般
的 福
祉 ︑
上では全然区別されず︑叙述の立場の相異によってのみ区別されるというのである︒このような叙述の立場の相異
ヽ
と主張し︑それは両学問に共通な領域であって︑両者の境界をなすものであ によってのみ両学問を区別するということが︑方法論的に十分なものたりうるかどうかについては︑周知のように︑
②シェーンプルークが批判を加えているところであるが︑しかもニックリッシュは︑このような私経済学を国民経済
③学から独立した学問として主張するのである︒もちろんその際︑両学問の関係および私経済学の独立について︑こ
心iれ以上の論証はなされていず︑それは︑いわば一方的な宜言であったにすぎない炉︑他方かれは︑私経済学独立化 の主張に急の余り︑両学問の正しい関係を見誤ってはならないとして︑両学問の密接な関係を次の二点において強 調する︒まずかれは︑﹁経済生活には︑個別経済の立場からと同一の側面︑同一の視角のもとに︑一般性の立場か
ら考察される現象が存在する﹂
(S.1)23
たということがいえるのである︒ つまりニックリッシュは︑当時においては︑経営学をあくまで﹁私経済学﹂とし
ニ ッ
ク リ
ッ シ
ュ 商
事 経
営 学
に お
け る
企 業
概 念
に つ
い て
の 一
考 察
︵ 大
橋 ︶
までもなく︑国民経済学と商業学とであったが︑ 一ックリッシュは商業学ではなくて国民経済学に主として依拠し 経営学への改組を試みたということを︑必ずしも意味しないであろう︒新しい学問を形成せんとする場合には︑な んらかの形において既存の学問に依拠せざるをえない︒当時経営学にとって既存の学問として存在したのは︑ 商事経営学の樹立にさいして︑ しかしながら︑ いる︒次に︑両学問相互の内部的な関係については︑両者は共通の根本概念から出発し︑ 概念を共有するものであるが︑ ただその概念価値を異にするにすぎないと主張する
(S .2
)
︒
このような国民経済学との密接な関係は︑少なくとも当時のニックリッツュにおいてはきわめて多くの点におい
て︑しかも理論体系上きわめて重大な諸点において指摘されるのである︒商科大学の創立を直接の契機として当時
起った︑経営学樹立の多くの試みの中では︑ニックリッシュが経営学固有の領域から︑いわばはえ抜きの経営学者
として経営学の樹立に取り組んだものであることは︑
の領域とはいわば商業学をさすものであり︑商業学科学化の企てとしておこなわれたものであることは︑すでに多
くの人々の指摘するところである︒さらに︑当時ニックリッシュがさしあたり樹立せんとしたのほ商事経営学であ
って︑それはあくまで商業の私経済学であり︑商業に専一的に従事するか副業的に従事するか︑常に従事するか例
外的にのみ従事するかを問わず︑ともかく商業を営む商事企業
( k a u f m a n n i s c h e U n t e r n e h m u n g )
を対象とする
ものであった
(S .5
)
︒
ニックリッシュが経営学固有の領域から︑ るが︑その境界は︑
いうまでもないところであり︑ しかもほとんどすべての
しかもここでいう経営学固有
しかも商事経営学の樹立を試みたということは︑その
ニックリッシュが商業学を主たる拠り所とし︑商業学の立場から商業学の科学化︑ 一本の線のごときものではなくて︑
しヽ
﹁比較的巾広い中立的な地帯﹂のごときものであるとして
2 4
ニ ッ
ク リ
ッ ツ
ュ 商
事 経
営 学
に お
け る
企 業
概 念
に つ
い て
の 一
考 察
︵ 大
橋 ︶
立 と
考 え
︑
てうけとっていたのであり︑この点︑生粋の商業学者として生成し︑経営学の樹立をあくまで﹁商業経営学﹂の確 固 ﹁複数の商業学を単数の商業学でもっておきかえる﹂ことを課題としたシェアーとは︑明らかに問題点
を異にするのである︒
ニックリッシュが既存の学問のいずれに依拠したかということよりも︑既存の国民経済学と新し
き私経済学との相異をどの点に認めたかということが︑
済学と個別経済学とが観点を異にするのみで対象を同一にすると主張すると︑国民経済と個別経済との関係をどの
ように考えるかが重要な問題になってくる︒ はるかにより重要である︒ ニックリッシュのように国民経
ニックリッシュは両者の関係を明確に規定しておらず︑
的な
( a
t o
m i
s c
h )
経済観を有していたことである︒ ただ国民経済
についてのみ︑それが﹁一定領域の境界内における個々の経済の全体﹂
(S .3 )
と定義しているのみである︒しかし
注目すべきことは︑経済原則
( d
a s
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o m
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c h
e P
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i p
)
の叙述に関連してではあるが︑﹁経済原則は個別経済
内において貫徹することによって︑国民経済を支配する︒一国民の全体的経済活動におけるこの支配は︑ついで個
別経済に︑とくにいわゆる収益経済
( E
r t
r a
g s
w i
r t
s c
h a
f t
)
にたいして︑この支配が個別経済間において選択過程
を招来する限りにおいて︑反作用するのである﹂︵
S. 3)
とのべていることである︒この叙述から推察されうること
は︑まずニックリッシュが︑国民経済と個別経済との間に原理的な構造上の差異を全く認めない︑いわゆる原子論 6 当時のシェアーと見解を同一にして この点においてかれは︑
いるが︑しかし次の点はこの際重要である︒すなわち︑こうした見解にもとずいて対象とする個別経済の限定がお
こなわれることである︒つまり︑かれの対象とする個別経済は経済原則を貫徹させるもののみであって︑国民経済
の欲求充当に参加するものも︑﹁その給付に︑経済原則を一定最小限度表現している﹂︵
S. 3)
営利経済のみであると
して︑対象からまず家計経済を除外するのである︒ さ て こ こ で は ︑
ニ 四
25
前述のごとく︑商事経営学という特殊性から︑
二五
一ックリッシュがかれのいう狭
もちろんニックリッシュはこの点からのみ営利経済と家計経済とを区別しているのではない︒かれは︑企業を概 念規定するに際して︑個別経済をまず貯蓄または家計経済と営利経済とに区分し︑前者も消費財選択の危険を負担 するものであるが︑後者のように自発的に資産危険を負担するものではないから︑商事経営学の対象とはなりえな
この資産危険を負担するかどうかは︑資産が後述のようにかれの商事経営学において占 める基礎的な意義からいっても︑かれの理論にとって重要な意味をもつものであって︑個別経済を家計経済と営利 経済とに区分し︑前者を商事経営学の対象から除外するこの二つのメルクマールは︑われわれの見解によればニッ クリッシュ商事経営学の二大支柱に関連するものである︒ここでは︑この点についてこれ以上深く立ち入ることは
しかしここで強調しておきたいことは︑国民経済学との関係において︑商事経営学の対象とする個別
で き
な い
が ︑
ともかくニックリッシュは︑以上のような根拠から︑商事経営学の対象をまず営利経済のみに限定するが︑しか しすべての営利経済がその対象をなすのではなくて︑さらに企業にのみ限定される︒企業には︑かれによると広狭 二義があり︑広義においてはすべての営利経済が企業であるが︑狭義においては︑その活動のために編成された業 務組織体をもつ営利経済︑かれの表現によれば︑﹁活動を営むために経営
( B e t
r i e b
)
を必要とする営利経済﹂のみ
が︑企業を意味するのである︒かれの商事経営学が対象とするのはこの狭義の企業のみであり
一切の企業ではなくて商事企業のみであった︒シェーンプルークは
7
これを私的な︑大経営的な商事企業と規定しているが︑ここで注意すべきことは︑
義の企業をば︑経営体を有する単なる大企業としてではなくて︑それを出資者から独立した存在として︑いわば出 資と経営とが分離した近代的な大規模企業としても理解しているということである︒この点について︑節をあらた
ニックリッシュ商事経営学における企業概念についての一考察︵大橋︶
経済の限定が︑なされているということである︒ いとしている
(S S. 42 ,4 3)
︒
(S S. 43 ,4 4)
︑ 文
j
ら
に
26
注
I l l二 ︑ 出 資 と 経 営 の 分 離 論
前掲拙稿︑関西大学商学論集第四巻第三号四ニページ︒ ニックリッシュ商事経営学における企業概念についての一考察︵大橋︶
めて論じることにしよう︒
この引用ページ数は H•Nicklisch`Allgemeine
ka uf ma nn is ch e B et ri eb sl eh re al s privatwirtschaftslehre
e d s Ha nd el s (u nd de r l n du s t ri e ) , B d.
I . ,
Le
ip zi g
19 12 .
のペ ージ 茄が であ る︒ 以下 同様
︒ Sc ho np fl ug
̀a . a.
0 . ,
S .15 9.
2
③増地庸治郎﹁経営経済学序論﹂一八一ページ︒
山中村常次郎前掲稿一五七ページ︒および同﹁﹃経営経済学﹄の成立﹂商学論集︵福島大学︶第二
0巻第二号五八ページ︒
⑤J.
F . Sc ha r, Al lg em ei ne a H nd el sb etriebslehre,
4. A u f l . , L ei pz ig 1 92 1, S .
4
1.
なおこの点に関するシェアーの所説に
ついては︑拙稿﹁シェアー商業経営学における商業学の科学化について﹂関西大学商学論集第四巻第一
1一号︑第四号所収を参
照 さ
れ た
い ︒
6
Sc ho np fl ug , a . a .
0 . ,
S .1 6 7 .
ービジネス・ニソティティとしての企業
ニックリッシュによれば︑企業規模と企業形態の二面から労働︑経営︑出資が分離し︑企業は企業者とは別個の 独自的存在となるとともに︑他方企業者は単なる出資者として企業の一機関に化すとされている︒すなわち︑企業 者とは本来出資︑経営︑労働の三機能を具備するものであったが︑企業の大規模化とともに労働の機能がまず脱落 して経営と出資とに限定される︒この段階において企業は企業者にたいして独自的存在を保有することになり︑企 業と企業者とはもはや一致せず︑企業者は企業の一機関であって︑危険と指揮の担い手にすぎない︒しかしかかる
二六
27
段階においても企業者は交替可能なのであって︑指揮は管理者
( D i r
e k t o
r )
に委譲することができるし︑危険につ
いても株式制度の採用によって他人に肩代りさせることが可能になった︒かくて株式会社や有限会社では︑企業者
は全危険を負担するものではなくて︑出資金を限度に負担し︑その利害の関心は一面的になって配当にのみ著しく
限定され︑しかもそれが企業の利害に反しても主張されることがある︑とニックリッシュは主張する
(S S. 43 ,4
4)
︒
このように出資と経営とが分離した相対的に独自的存在として企業を把握するこの考えは︑ニックリッシュの資
本にたいする取り扱い方からも︑さらに明瞭に確認されることができる︒ニックリッシュは資本と資産とを全く対
応的に取り扱い︑資本と資産とは﹁私経済的企業では同一物にたいする二表現である﹂とし
(S .5 9)
︑有名な﹃滴汁
11
濠滞﹄なる貸借対照表方程式を提示する
(S .6 3, 64
)
︒周知のようにこの点が︑資本方程式を提示したシェアーにた
ニックリッシュのすぐれた特徴なのであるが︑しところで︑同一物にたいする異なった表現たる資本と資産
とは︑いかなる点において区別されるのか︒
れた説に依拠して︑資産が営利手段の具体的構成
( k
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k r
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u s
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m e
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e t
z u
n g
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r E
r w
e r
b s
m i
t t
e l
)
のにたいして︑資本はこの資産集団において永続的なもの
( d a s
B l
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b e
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n d i
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V
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m o
g e
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) ︑財に
内在する価値の総量
( d i e
S u
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W e
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, d
e r
d e
n G
u t
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o h
n t
)
で あ
る と
し ︑
つづいてさらに︑こ
の結果として資産が財の種類によって分類されるのにたいして︑資本は財にたいする私的所有権
( P
r i
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t u
m
a n
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n w
i r
t s
c h
a f
t l
i c
h e
n G
i i t e
r n )
②
ている
(S S. 59 ,6
0)
︒
本は自己資本と他人資本とから構成される﹂
(S .6 1)
とのべているだけではなく︑さらに︑財にたいする私的所有権
い し
て ︑
ニックリッシュはまず︑ クラーク
( J
o h
B . n
C l a r k )
のいかんによって大きく自己資本と他人資本とに区別されるものであるとし
ニックリッシュのいわゆる企業者に帰属する部分であるが︑
ニ ッ
ク リ
ッ シ
ュ 商
事 経
営 学
に お
け る
企 業
概 念
に つ
い て
の 一
考 察
︵ 大
橋 ︶
ここで自己資本とは︑
二 七
で あ る によって主張さ
かれは﹁企業にとっては︑資
28
資本については︑ をなす部分をも含んでおり︑費用は利潤の構成要素でな
ニ ッ
ク リ
ッ シ
ュ 商
事 経
営 学
に お
け る
企 業
概 念
に つ
い て
の 一
考 察
︵ 大
橋 ︶
に由来するこの自己資本と他人資本との区分は︑企業にとっては︑資産における区分ほど重要な意味を有しないの
であって︑資本のこの区分はむしろ︑危険を負担し従って純利潤にたいする請求権をもつ資本部分の割合と︑企業
にとっては資本コストである利子支払いを必要とするのみであって従って危険とは関係せず純利潤にたいする請求
権を有しない資本部分の割合とを示すところに意義があると︑企業者すなわち出資者から独立した企業独自の︑
かも経営管理的観点を︑きわめてはっきり打ち出しているのである︒
このことは︑利潤概念︑収益性概念におけるニックリッシュの叙述をみると︑さらに明確になるであろう︒
クリッシュの体系において利潤がどのような意味をもつかについては︑本稿第四節で詳述するところであり︑ここ
では︑ここでの論述に必要な限りにおいてのみのべることにする︒利澗についてニックリッシュは総利潤
( R o h g e , w i n n , B r u t t o g e w i n ) n
と純利潤
( R e i n g e w i n n , N e t t o g e w i n n )
との二つの範疇を設定しているが︑かれが各所
でのべているそれら二つの範疇の内容は︑必ずしも明確ではない︒たとえば資本を扱っている個所では︑自己資本
にたいする利潤を純利潤、収益から一切の費用を除いたものを総利潤しているが(~.61)、
を扱っている個所においてかれは︑実務上一.般に総利潤と純利潤との区別がおこなわれているがそれをみると︑総
利潤は費用
( K o s t e n )
にたいする対価値
( G e g e n w e r t )
し
しかし利潤・費用・損失
いから﹁純理論的にみれば総利潤なるものは存在しない﹂と論じ︑費用にたいする対価値と真の利澗とを峻別する
よう主張している
(S S. 79 ,8 1)
︒さらに収益性を論ずる節では︑まず︑企業の収益性が自己資本収益性ではなくて︑
全体としての企業の収益性であると規定し︑従ってこの場合の資本は総資本を意味するが︑利潤としては︑利潤を
意味しない要素をすべて排除したものである純利潤が問題になる︑としている
(S .1 77
)
︒
ニックリッシュがここでも当然総資本をとることのみを指摘すればよいのであるが︑利潤につ
ニ八ッ
29
のいかんによらず社員にたいして持分の四形の配当を利子として支払うことが
許されており︑それが一八九七年の改正によってはじめて︑利益金が四形の配当をするのに不十分な場合それに応 5 じて配当を減じるよう改正されたのである︒このような事情があって当時ドイツでは自己資本にたいする利子とい 6 一般に費用として把握され実務上もそのように処理されていたのである︒ところ
が︑商法が株式会社ではもともと利子支払いを禁止していたことや︑合名会社の場合の規定が改正されたことやら
から︑自己資本利子にたいする一般の理解に変化が生じ︑自己資本利子を費用とはみない見解が一般に高まってき
たのであるが︑これにたいしてニックリッシュは︑このような法律上の変化は企業収益性の問題にとっては関係の
ない事柄であり︑このことによって︑少なくとも企業収益性の問題においては︑自己資本利子を費用として把握す
mる考えをなんら修正する必要はないと主張したのである
(S S. 18 0, 18
1)
︒
以上のごとくニックリッシュは︑他人資本にたいする利子はいうに及ばず自己資本にたいする利子をも︑利潤分
配部分としてではなくて費用として理解するのである︒当時自己資本利子をば費用として理解するのが一般的であ
っ た
の は
︑
おそらくその会計処理方法に着目したためであって︑どこまで理論的根拠にもとずいたものであったか
は︑疑しいといわねばならないが︑
帰結であったのである︒次節において詳述するごとく︑もともとニックリッシュは︑資産に価値増殖的力があるも
のと主張するのであって︑それに従ってたとえば利潤や損失は︑本来個々の財において︑その経済的価値と費用価
ニックリッシュ商事経営学における企業概念についての一考察︵大橋︶
うものが存在し︑そしてそれは︑ いてはさら今少しくわしくかれの所説をみてみる必要がある︒周知のように当時では︑ドイツに限らず多くの国に
③おいて︑株式会社の場合株主にたいして確定利子の支払いをおこなう例が多く存在していた︒株式会社におけるこ
山の自己資本にたいする利子の支払いは︑ドイツの場合もともと商法の禁ずるところであったが︑合名会社の場合に
( J
a h
r e
s g
e w
i n
n )
は︑年度利益金
しかしニックリッシュの場合には︑それは︑
二九
かれの理論から出てくる必然的な
3 0
ある︒従ってかれによれば︑自己資本にたいしても利子を支払うことは︑理論的にいって誤りでは決してなく正当
⑧なことなのである︒それは︑他の用途に運用すれば当然獲得できるはずの利子にたいする正当な償いである︒かれ
が︑収益性の一方の要素たる総資本の確定は容易な問題でないとしつつも︑その確定は要するに資産の側からのみ
可能であって︑企業にたいして活動的
( w e r b e n d )
に投下されているもののみが総資本をなすとしているのも︑
(S .1 83 ,4 )
こうした考えからくるのである︒またニックリッシュは︑確かに自己資本利子と他人資本利子とを全く同
一視しているのではなく︑たとえば名称において前者を
N i n s v e r l u s t
︑後者
Ni ns au fw an
︐ d
とよんで区別してはい
る が
(S .1 79
)
︑両者をいずれも純利潤にははいらない
Ko st en
として把握しているのである︒ともあれ︑資本とし
てともに利子を生む機能しか有しない自己資本と他人資本とを区別する必要は︑この面においてもニックリッシュ
には全然認められないのである︒
周知のように︑利子のコスト性の問題は︑現代においても︑会計学において論争されている点の一つであって︑
にわかに断定を下しうる問題ではない︒他人資本利子のみならず自己資本利子をも費用とするニックリッシュの主
張が︑理論的に正当なものかどうかについては大いに問題の存するところであり︑われわれもニックリッシュの主
張もそのまま認めるものではないが︑それはともかく︑本稿でのわれわれの問題設定たるニックリッシュの企業観
という観点からみるならば︑
とが︑注目されねばならないであろう︒ る︒かくしてかれは︑
ニ ッ
ク リ
ッ シ
ュ 商
事 経
営 学
に お
け る
企 業
概 念
に つ
い て
の 一
考 察
︵ 大
橋 ︶
値
(A uf wa nd we rt )
との差異として発生し︑それが期末に損益勘定において集計されるものにすぎないという立
資本というものにはなんら利潤を造出する契機がないと考えているのであ
一言にしていえば︑資本には利子が発生し︑資産にこそ利潤が発生するものと理解するので
ニックリッシュが自己資本利子の費用性をば企業の収益性の問題において強調するこ
ニックリッシュにおいてほ企業の指導原則として経済原則と収益性とが存 場をとっているのであって
(S .7 9̀ 19
1)
︑
゜
31
ハ
Hu
在し︑しかも収益性は総資本収益性のみが可とされるのである︒このような意味をもった収益性において自己資本 利子の費用性を主張することは︑かれがその対象とする企業をば出資者から独立した企業として理解していること
を︑如実に示しているであろう︒
ところで︑出資者から独立した企業といっても︑いろいろのニュアンスや段階のあることは周知の通りである︒
ニックリッシュの場合︑前述のごとく企業者即出資者として把握され︑企業の大規模化と株式制度とによって企業 者が企業から分離し︑企業者から企業が独自化するものと理解されている︒しかも︑かかる企業者が企業から分離 した後における企業の具体的な経営主体がどのようなものであるかは︑少なくともニックリッシュの著述している 限りにおいては︑はっきりしていないのである︒確かにかれは︑企業者の二機能のうち指揮機能は
D i
r e
k t
o r
に 委
譲されうるものとして︑
D i
r e
k t
o r
なるものを登場させてはいる︒また︑個別経済の立場とその責任ある
L e
i t
e r
の
立場とが等しいものであるかのように表現してはいるのであるが︑
D i
r e
k t
o r
や
L e
i t
e r
をどのようなものと理解
しているかは︑少なくともはっきりしていないのである︒このようにニックリッシュが出資と経営の分離に言及し ながらもいわゆる経営者論を展開しなかったところに︑当時におけるかれの考え方の一根本がはからずも露呈して いるのである︒それは︑少なくとも当時においては︑かれが経営の主体︑少なくとも人間には全然関心をよせず︑
企業を純即物的に︑客体的にのみ理解し︑企業を人の組織ではなくて物の組織としてのみ把握していたことを示す
l lであろう︒その物も︑次節において詳論するごとく︑資本としての物ではなくて︑まずもって資産としての物︑物
それ自体としての物であったのである︒
このような出資と経営の分離論は︑経営学において経営者支配の問題として一般に論議されているそれとはやや ニュアンスを異にするものであって︑もし類似の企業観を強いて他に求めるとするならば︑会計学におけるいわゆ
ニ ッ
ク リ
ッ シ
ュ 商
事 経
営 学
に お
け る
企 業
概 念
に つ
い て
の 一
考 察
︵ 大
橋 ︶
32
の企業観にこそ通ずるものということができるであろう︒企業実体の概念は︑す
り
でに一九二二年アメリカにおいてペ・イトンによって七つの会計公準のうちの一っとして指摘されたものであり︑!会
計学において基底的意義をもつものであるが︑しかし今日においても︑必ずしも一義的なものとして一般に認めら
れているわけではなく︑いろいろな解釈が試みられてきているところである︒高松和男助教授によると︑一口に企
業実体の概念といっても︑会計公準論におけるそれと会計主体論におけるそれとは︑問題の次元を異にするのであ
tH"
i
り︑会計主体論における企業実体の概念ほ︑端的には︑企業の本質にたいする理解の問題︑企業観の問題であるが︑
黒沢清博士ほ︑企業の客体的条件の変化に着目して企業実体の成立を把握され︑﹁このコンベンションが成立する バ
hu
ためには︑企業財産すなわち資本が︑家計としての私有財産から解放されるという歴史的条件の成熟が必要﹂であ 日
hu
ると論じられている︒いずれにせよ︑今やわれわれは︑ニックリッシュの貸借対照表方程式の今一方の要素︑資産
について論じなくてはならない︒
注山ニックリッシュによるとそれは一九
0七 年
に ,
D , a s W e s e n d
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K a p
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と し
て N e i t s c h r i f t f t i r V q l k s w i r t s c h a f t ̀ S o z i a l p o l i t i u k n d V e r w a l t u n g
に 卒
ギ 衣
さ れ
た も
の で
あ る
︒
図結局︑ニックリッシュによれば︑企業における資本は次の四種類に区分されうることになるが︑日と口とほ厳密に区別し
て 使
用 さ
れ て
い る
の で
は な
い ︒
日 企
業 者
出 資
資 本
︑ 口
自 己
資 本
︵ 企
業 者
出 資
資 本
に 留
保 金
を 加
え た
も の
︶ ︑
︐ 曰
他 人
資 本
︑ 四
企
業 総
資 本
︵ 自
己 資
本 と
他 人
資 本
を 加
え た
も の
︶ ︒
N i c k l i s c h , R e s e r v e n u n d f i n a n z i e l l e n S i c h e r h e i t , S . 3 0 6 .
③
K . L e h m a n n , D a s R e c h t d e r A k i e n g e s e l l s c h a f t e n , I [ . B d . , B e r l i n 1 9 0 4 ̀ s .
42 5.
山普通ドイッ商法典︵旧商法︶ニ︱七条︑現行ドイツ商法︵旧株式法︶ニー五条︑現行株式法五四条︒なお︑K・レーマン
に よ
る と
︑ 一
0
九
四 年
す で
に 次
の 各
国 商
法 に
同 様
な 利
子 支
払 禁
止 規
定 が
設 け
ら れ
て い
た ︒
ハ ソ
ガ リ
ー ︵
一 六
五 条
︶ ︑
イ ク
リ ー
︵ 一
八 一
条 ︶
︑ オ
ラ ン
ダ ︵
四 九
条 ︶
︑ ス
イ ス
︵ 六
一
1 ‑0
条
︶ ︑
ボ ル
ト ガ
ル (
‑ 九
二 条
︶ ︑
ス ウ
ェ ー
デ ン
( 1 1
条
1 0︶ ︑
セ ル
ビ ヤ
( ‑
︱ ︱
︱ ︱
一 条
︶ ︑
そ の
他 英
︑ 米
に も
同 様
な 規
定 が
あ っ
た と
い わ
れ る
︒ L h m a n n , a . a . 0 . ,
S .
42 6.
る企業実体
( b
u s
i n
e s
s
e n
t i
t y
)
ニ ッ
ク リ
ッ シ
ュ 商
事 経
営 学
に お
け る
企 業
概 念
に つ
い て
の 一
考 察
︵ 大
橋 ︶
33
四 国
貸借対照表等式
( th e ba la nc e' sh ee t e qu at io n)
の 公 準 ︒
財務状態と貸借対照表との関連︵日
na nc ia lc on di ti on an d t he ba l a nc e ' sh e e t) 1 l
つ い て の 公 準 ︒
ニックリッシュ商事経営学における企業概念についての一考察︵大橋︶
口 継 続 企 業
( th e go in g c on ce rn )の 公 準 ︒
但し収益性は安全性
( Si c h er h e it )
との関連において論じられている︒
u l J
本稿むすび︑とくにその注固︑⑥参照︒
⑫
W .
A. Pa to n, Ac co un ti ng h T eo ry , 1 9 2 2 .
酒井文雄助教授の紹介によるとそれは次の七つで︑そのうち︑とくに企業観
に関連すると思われるものは
Hー国であるが︑それらがいずれも一九︱二年のニックリッシュの所説に含まれていることは︑
真に興味深いことである︒酒井文雄﹁会計公準論の一考察﹂関西大学経済論集第四巻第六号九五ページ︒
企業実体
( th e bu si ne ss en t i ty )
の 公 準 ︒
H (10)
土岐訳一七六ー一七九ペー 固旧商法一〇六条および現行株式法一
1︱一条︒但し旧商法の場合には条文上の表現も利子であったが︑一八九七年の改正に
よって表現も利益配当
(G ew in na nt ei l)
とかわった︒ちなみに日本の商法にはこのような規定はなく︑利益がない場合に
財産の分配をなしても違法ではないとされている︒大隅健一郎﹁会社法概説﹂二六ページ︒
佃その一例としてニックリッシュは
Da rm st ad te Ba nk
の一八六四年度損益勘定の例をあげている
( S . 1 8 0 )
︒
m自己資本利子については︑なお︑
E .
Sc hm al en ba ch , D yn am is ch e B i la n z ,7. A u f l . , 1 9 3 8 .
ジ 参 照 ︒
によるべきであり︑し ⑧従って自己資本利子の率は︑ニックリッシュによれば一般利子率
( de r l an d e st i b li c h e Zi ns fu B)
かもそれは︑より適当な基準がないためである
( S . 1 8 2 )
︒
⑨当時のニックリッシュにおいては
V er l u st , Au fw an d, K os te n
との関係が明確とはいえない︒従ってかれは明文でも
って自己資本利子が
Ko st en
であるとのべているが
( S . 1 8 1 )
︑利子が
Ko st en