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経営経済学における企業および経営の概念  

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(1)

一序  

企業とは何かに関する種々の論議は︑すで軋各方面から行なわれ︑今日では通説ともいうぺき理論が形成された  

かに見える︒このことは経営学あるいは経営経済学において︑とくにそうであるといって過言でほないであろう︒  

すなわち︑そこにおいては︑企業形態論なかんづく﹁経営経済学の叫分科としての企業形態論﹂が︑従来︑企業理  

論の主流をなすものとして論ぜられてきたのである︒しかし〝ながら︑今日の企業の諸活動のうちにほ︑既成の企業  

理論をもってしてほ解き得ない活動が現われるに至った︒ここに新しい企業理論の樹立が少くとも経営学におい七  

重要とならざるを得ない︒いうまでもなく新しい理論の樹立ほ既成の理論の再検討を要求する︒かくして︑今日の  

企業の諸活動を全体を通じて理解することの出来る新しい企業理論の樹立はまた︑既成の企業理論の再検討から出  

発しなければならないこととなる︒ところで﹁経営経済学の山分科としての企業形態論﹂が経営学︑とくにわが国  

の経営経済学紅おける企業理論の主流と見倣される紅至ったのは︑何よりもまず︑増地膚次郎博士の主張に負うと  

ころきわめて大であると思われる︒そこで︑われわれは︑増地膚次郎著﹃企美形態論﹄を中心として︑まず︑企業  

︵1︶  および経営に関する増地説の大要を紹介し︑あわせて若干の考察を行いたいと思う︒    第三十巻 第六号  

経営経済学における企業および経営の概念  

− 増地膚次郎著﹃企業形態論﹄に関する劇考察−  

︵六〇二︶  血六  

(2)

さて︑増地博士は﹁本書に於て私の志す所ほ企業形態の経営経済学的研究である︒即ち経常経済学の仙分科とし  

へ2︶  

ての企業形態論である﹂と述べられる︒この言葉から少なくとも︑第仙に︑経営経済学的研究とほ何か︑および︑  

第二に︑なにゆえに経営経済学的研究においてほ企業形態の研究が必要であるのか︑という二つの問が生ずるであ  

︵3︶ ろう︒第山の点に関して︑博士ほ﹁経営を認識対象とする﹂ものが経営経済学的研究であり︑経営経済学的研究に  

おいては経営とは何かが重要な課題であると考えられるようである︒したがって︑本番でほまず︑経営とは何かが  

問われる︒ここで注意すべきことほ︑経営経済学的研究とは何かが︑経営とは何かに置き換えられていることであ  

﹁lし ろう︒このことは非常に大きな問題点であろうが︑ここでは別の機会にゆずり︑第二点に関する博士の主張を見る  

こととしたい︒博士にょれば経営経済学的研究においては経営が認識対象とされるけれども︑﹁企業にほ種々の形  

︵5︶ 態があり︑之が経営の活動に対して︑極めて大なる影響を及ばす﹂から︑そこにおいてほ企業の形態が論ぜられね  

ばならないといわれる︒われわれは︑これら二つの点に関する博士の主張のうちに︑経営と企業とが区別して考え  

られていることを知る︒すなわち︑企業に関してほ﹁それ自らの活動をなすことなく︑経営の外殻たるの任務を果  

すもの﹂︑また﹁経営の外部機構︑所有単位﹂とされ︑経営紅関してほ﹁経済性を目標とする独立の生産経済﹂と  

︵6︶  

いわれる︒われわれにとって問題なのほこのような企業と経営との区別が現実上妥当するか否かであろう︒   

そこで︑まず︑博士のいう経営とは何かであるが︑ここで︑経済性を目標とする独立の生産経済であるという経  

営の定義を︑闇 単独経済︑闇.生産経済︑㈲ 経済性を目標とする︑および ㈲ 独立の生産単位の四紅分けて  

説明される︒このうち棚と㈲匿おいては︑それぞれ﹁単独﹂および﹁独立の﹂私意味があり︑その内容ほ別のとご  

ろで︑経営経済学においては﹁山ケの組織体たる経営﹂が重要であるといわれる場合の︑組織体の意味と類似し︑  

経営とか生産とかの意味はむしろ②および㈲で説明されている︒それゆえ博士の経営とほ何かに関する考え方ほ︑   経営経済学における企英および経営の概念  

︵六〇三︶ 壱   

(3)

︵六〇四︶ ス  

第三十巻 第六号  

﹁単独﹂︑﹁独立の﹂および﹁山ケの組織体﹂といわれる場合と︑生産とか経済あるいは経済性を目標とするといわ ︵7︶ れる場合とに分けられるように思われる︒企業を説明するにあたって︑﹁経済自体を経営と考へる﹂という場合の  

経済自体の意味も右の後者の場合に相当するであろう︒次に︑博士のいう企業とは︑経営の外部機構︑所有単正そ  

あり︑また︑経営の外殻たるの任務を果すものであるが︑この企業の定義を闇経営の所有単位︑㈲営利を本質的特  

徴としない︑および㈲企業と経営との関係Ⅶ三に分けて説明される′︒このうち闇においては経営を説明される場合  

に︑生産とか経済とか経済性を目標とするといわれる場合と等しく︑企業またほ経営の指導原理が問題とされてい  

る︒したがって︑以下属稿でほ︑博士の論述を︑第一に﹁単独﹂︑﹁独立の﹂およぴ﹁;の組織体﹂といわれる場  

合︑第二に︑経営または企業の指導原理としての経済性︑.および︑第三に経営の所有単位としての企業︑および︑  

それと経営との関係の三紅分けて考察し︑企業と経営の区別が現実上妥当するか否かにつき︑あわせて考えること  

としたい︒   

︵1︶企業および経営に関する増地庸次郎博士の学説の検討のためにほ︑ここでとりあげる﹃企英形態論﹄︵商学全集璽ハ巻昭  

和五年千倉書房刊︶よりも適当な著作があるかもしれないが︑われわれの当面の課題・は博士の企業形態論の内容について  

の考察であるため︑本稿においても右の著書に限定t.て考察することとした︒したがって︑本稿ほ博士の学説を全面的に  

とりあげるものではない︒   ︸  

なお︑本稿ほ右の著諸に関するわれわれの考察のうちの叫部分である︒われわれが別柄なる言葉を用いたのはこのことを  

意味する︒   

︵2︶ 増地相次郎著﹃企蛮形態論=商学全集讐ハ巻昭和五年千倉蕾房刊︶序∵−二君   

︵3︶ 増地前掲蛮序二貫   

(4)

なお︑注︵1︶参照のこと︒  

︵5︶ 増地前掲畜序二百  

︵6︶ 増地前掲巷序二頁  

︵7︶ゝ増地前掲蛮二六真  

二 組織体としての経営   

畿の場合に﹁経営﹂は次のごとく説明される︒経営竃etrieb︶という言葉紅よって通俗的には営むこと︵出etreiben︶︑   

︵六〇五︶ −九   経営経済学における企業および経営の概念   ︵4︶  

1  

2  

3  4  

5  

6  

7  

8  

9  

︵U  1  

1  

1   この点ほ増地学説を全面的にとりあげることによってのみ論ずることが出来るであろう︒博士の主著を次に掲げる︒   

経営経済学序論︵大正十五年同文館刊︶  

経営経済学︵昭和四年改造祉刊︶   

企業形態論   

商業経営︵昭和六年雄風館書房刊︶   

商業通論・︵昭和七年千倉書房刊︶   

経営財務論︵昭和九年束洋出版社刊︶   

我が国株式会社における株式分散と支配︵昭和十劇年同文館刊︶   

株式会社︵昭和十二年巌松堂刊︶   

質銀論︵昭和十四年千倉書房刊︶   

商工経営論︵昭和十五年日本評論杜刊︶  

工業経営論︵昭和一蒜千倉書房刊︑退稿︶  

(5)

第三十巻 罪六号  ︵六〇六︶ 二〇  

へ1︶  つまり﹁凡そ何等かの業務︑事業を多少秩序的に営んで行くといふ行為﹂が意味されるが︑かかる意味に用いられ  

た経営は技術的な内容をもつにすぎない︒すなわち﹁何等かの事業乃至組地体を運営する技術﹂が意味される軋す  

︵2︶  ぎな㌧しかるに︑小われわれが研究せんとする経営ほ﹁此の如き活動を意味するものでほなくして︑︵十字略︶仙ケ  

︵3︶  の組織体たる経営である﹂︒﹁企業なる経済が其の目的を達する為めの手段として保持する技術の組織が経営で透る  

︵4︶  とは解しない﹂︑︒したがって﹁経営は先づ一ケの経済単位である︒単独経済である︒即ち経営は統叫ある意思によっ  

て指揮せられる経済である︒統制態である︒︵二十二字略︶経営には常に主体が存し︑其や意恩たよって経営の融  てこ  切の活動が律せられる︒経営が創設せられるや︑其の組織及び管理は統一的意思の支配下に行はれる﹂︒しかも﹁経  

営は独立の生産単位であればよい︒経営は必ずしも他人の為めに生産する経済であることを必要としない︒︵山行  

︵6︶ 略︶自己の為め軋生産を営むものもある﹂︒かくして︑博士が経営という場合に︑まず︑それが旧秩序的に営んで行  

くという行為ではなくして︑一の組織体であり︑㈲経営には必ず主体が存し︑畑主体の統劇的意思の支配下に経営  

は指揮され︑しかも㈲経営は自己のためであると他人のためであるとにかかわらず独立の生産単位であると主張し  

ていることが知られるであろう︒  

ここで問題は︑秩序的に営んで行くという行為とか︑かくのどとき活動という場合に︑それらがただちに組織体  

を道営する技術︑あるいは目的を達するための手段として保持する技術と同義に︑つまり行為や活動を技術と同義  

に解されていることであろう︒行為や活動はただちに技術ではないことは周知のごとくである︒しかも︑行為︵活  

軌︶ではなくして︑;の組織体が経営経済学の研究対象たる経営であるとするが︑前述のごとく﹁企業には種々  

ヽヽヽヽヽ  の形態があり︑之が経営の活動に対して︑極めて大なる影響を及ぼす﹂から企業の形態が経営経済学において研究  

されると言われる場合にほ︑まったく逆に﹁経営の活動﹂が問題とされている︒このような主張のくい違いはおそ   

(6)

らく︑﹁目的を達する為の手段として﹂のもろもろの技術のみを断片的あるいは羅列的にとりあげんとする⁝部の  

︵7︶ 経営学者達に対して︑博士の批判が急なあまりに生じたのであろうと思われる︒いずれにしろ︑活動と組織ないし ヽ  

組織体とは切り離して論じられないことはいうまでもない︒けだし組織体は何よりもまず秩序的に営まれるがゆえ   

に︑組織体なのであり︑行為︵活動︶と切りはなされた組織は抽象的観念的にのみ考えられる紅すぎないからであ  

る︒次に問題は︑組織体の内容として主体の存在と主体の統山的意思の支配が主張されるが︑この場合︑なにゆえ  

に統劇的意思の支配が経営紅おいて必要なのかに関して何ら説明がないことである︒思うに︑たとえば特定の生産  

会社において︑限りある資金を倉障の整備に使うべきか︑それとも生産工程内の特定の機械の購入にあてるべきか  

の決定に際して︑資材部と製造部とが対立するごとく︑また利潤の配分にさいして︑労働者の賞与と株主の配当と  

の調整に問題が生ずるどとく︑対立を裡にふくむがゆえに︑統一的意思の支配が要求される︒それゆえ︑﹁統こ  

は必ず﹁対立﹂をも含むものとして説明されねばならないからである︒さらに︑経営は自己のためであると他人の  ヽヽヽ  ためであるとにかかわらず︑独立の生産単位であるといわれる場合にも問題がある︒けだし︑われわれは固有の主  

体が存在し︑その意思によって一切の活動が律せられるときはじめて︑﹁独立の﹂ということが出来るのであるが︑  

\博士があげられる﹁自己の為め紅生産を営むもの﹂の例⁝ ﹁製鉄所の所有者︵固より自然人のみを意味しない︶  

︵8︶   が製鉄に必要なる石炭を採取せんがために炭坑を所有する﹂場合の炭坑1から明らかなどとく︑自己のために  

生産を営むものの主体と他人のために生産を営むものの主体とは全く同じものと解されるからである︒もちろん︑   

経営の主体が所有者︵もとより自然人のみを意味しない︶でないとすれば︑独立の生産単位が経常であるというこ   

とが出来るであろう︒後述のごとく︑博士ほ経営の指導原理と企業の指導原理とは同じであるとするが︑その際︑  

︵9︶   ﹁企業の本質と︑︵十四字略︶企業者の実際上の目的とは観念上区別すべきものである﹂と述べられている︒しか  

︵六〇七︶ 二山   経営経済学における企業および経営の概念  

(7)

︵六〇八︶ 二二  第三十巻.第六号  ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ  しながら︑このように解するとき︑われわれは自己のためであると他人のためであるとにかかわらずという意味を  

解することが出来ない︒かくして︑われわれは博士が︑経営は自己のためであると他人のためであるとにかかわら  

︵10︶ ず独立の生産単位であるといわれる意味を理解し得ないのである︒   

ところで︑右のいくつかの疑問があるにもかかわらず︑博士が経営ほ皿つの組織体であって必ず主体が存在し︑  

その主体の統一的意思の支配下に経営は指揮されると主張している点は今日においても高く評価されねばならない  

ヽヽ  であろう︒もちろんわれわれは︑この場合の組織体が活動しでいるものとしての組織であり︑対立を裡にふくむが  

弘   

ヽヽ  ヽヽ  ゆえに主体の硫一的意思による支配が必要とされ︑しかもその組織体に固有の主体が存在するがゆえに︑独立の組  

織体であることを忘れてはならない︒しかしながら︑なお︑こ七に問題が残る︒それはこのように解された組織体  

がいまだきわめて抽象的なことである︒けだし︑このように解された組織体はあらゆる組抽休−︻官庁であれ︑学  

へ‖﹂  放であれ − を通じて導き出された組織山般と全く同じものにすぎないからである︒ここに博士が経営を説明する  

ヽヽ ヽヽヽヽヽヽヽ  ヽヽ  ヽヽ  にあたって︑経営が単独経済であり︑独立の生産単位であるに止まらず︑それが生産経済であり︑経済性を目標と  

ヽヽ  すると主張されるゆえんがある︒経営が生産経済であり︑経済性を目標とするとの主張は博士の企業および経営転  

関する主張の第二の要点をなす︒次紅この点について考察しよう︒  

︵1︶ 増地前掲啓三頁   

︵2︶ 増地前掲章四頁   

︵3︶ 増地前掲苔四頁 

︵4︶ 増地前掲責二六貢   

︵5︶ 増地前掲巻四−五貢   

(8)

︵6︶ 増地前掲苔劃 二見   

︵7︶増地博士ほ﹁経営学﹂が﹁商店経営法︵又は経営術︶︑工場経営法︑銀行経営法︑会社経営法︑等々︑を研究するむのと  

見られることが少くない︒是等ほいづれも︑経営を上述の如き技術的意味に解することに関る﹂といわれる︒   

︵8︶ 増地前掲憲一仙−三買および二八責   

︵9︶ 増地前掲蕃二四頁   

︵10︶ なお︑増地博士は製鉄所の所有者が製鉄に必要な石炭を採取しょうとして所有する炭坑を︑﹁主要経営たる製鉄所﹂に対  

して﹁従属的経営﹂とよばれる︵増地前掲憲一八貫︶/︒もしも︑経営が独立の生産髄位であるとすれば︑﹁従属的経営﹂  

ヽヽヽヽヽヽヽ  とほ従属的な独立の生産単位といわざるを得ないであろう︒   

︵11︶ 今日︑経営学において︑たとえば組織則般論︵山城貴著﹃経営学の学び方︹改訂新版︺﹄昭和三千二年白桃書房刊ニー﹁−  

二仙四賀参照︶とよほれるものはへ このような組織一般を間藤とする︒  

三 経営︵企業︶ の指導原理  

第二の場合に﹁経営﹂ほ生産経済軋限定され︑生産経済としての経営の指導原理と企業の指導原理とほ等しく︑  

しかも︑営利でほなくして経済性であるとされる︒このうち︑経営を生産経済に限定するのは﹁生産経済と消費縫  

︵1︶ ︵2︶  済とは其の指導原理を異にする﹂からに外ならないが︑経営も企業も指導原理を等しくし︑しかも営利でないこと  

紅関しては次のごとく述べられる︒﹁経営経済学が企業を研究する場合にほ︑企業なる経営の外被︑所有嘩位に本  

質的なるものを把握せんとするのであって︑︵企業者の︶実際上に於ける利用の目的︵つまり営利目的︶ は本葉的意  

義を有しない︒︵二行略︶経営経済的見地に於て企業を観察する場合に︑経営を観察する場合と昇れる標準を採用  

すべしといふは論理上矛盾でほないか︒︵一行略︶即ち経営の所有単位の内から特に営利目的を有するもののみを  

︵六〇九︶ 二三   経営経済学における企業および経営の概念  

(9)

︵六一〇︶ 二四  第三十巻 第六号  

︵$︶ 抜き出すが如きことほ不必要である﹂︒また︑営利目的を有するか否か匿よって企業と非企業とを分つことほ︑研  

究上からも非合理的であり︑\たと又ほ﹁公企業の如きは営利を目的とするか︑公益を目的とするか判然とせぎる場  

合﹂が多く︑しかも﹁近時社会化運動の進展に伴ひ公企業の設立増加し︑其の重要性も漸く大ならんとしつゝある  

から︑是等を包括せる研究が合目的であると考へられる︒斯くて吾人は経営の所有単位を以て企業と解し︑其の限  

玖に於て目標の如何を問はない︒経営の指導原理は当然に叉企業の指導原理たるべきである︒従って企業者が私人  

であるか︑国家又は地方自治団体であるかほ問ふ所でほない︒公企業︑公私合同企業も私企業と均しく企業である︒叉  

︵ま︶  鹿則として組織自体の営利の認められない所の協同組合︵産業組合︶も亦企業形態に包含せられる﹂︒かくして博士ほ  

企業は営利を本質的特徴とせず︑この限りにおいて企業の指導原理と経営の指導原理とほ等しいとされる︒したが  

︵5︶ って︑また︑﹁経営の指導原理は営利ではない﹂︒しからほ生産経済︑つまり経営︵企業︶の指導原理は何か︒それ  

ほ経済性に外ならない︒博士ほ﹁経営は経済性︵Wirtschaft−ichkeit︶を目標とする︒経営の指導原理は経済原則  

lト︶ である︒経営は経済的合理主義の基礎の上に立つ﹂と述べられ︑経済性とは一般に合理主義とよはれるもののうち︑  

とくに技術的合理主義と区別される意味での纏済的合理主義の発現であるとされる︒すなわち﹁経済活動にょって  

︵7︶  ■ 得られたる結果︑即ち給付︵Leistung︶とこれが為めに費されたついえ︵Aufwand︶ とを比較考慮すること﹂︑換  

言すれば︑﹁仙定の結果に到達せんが為に最少の犠性を払ひ︑一定の犠性によって最大の効果を獲得せんとする  ︑ヽヽヽヽヽヽ ︵8︶ は一般的合理主義の発現である﹂︒そしてこのうち﹁給付とついえ︵即ち分母と分子︶ の双方を数量的に考察する  

ヽヽヽヽヽヽヽ  は技術的合理主義に琴つくものである︒とれほ経済的合理主義の前提をなすことはあり得るけれども︑︵二十字略︶  ヽヽヽヽヽヽヽ  経済的合理主義たるには分母及び分子の双方叉k二万が価侶であることを必要とする︒価値と価値︑価値と数量︑  

若しくは数量と価値との関係の比較考慮が経済的合理主義︑経済的合目的性︑経済性の内容をなすものである︒従   

(10)

︵9︶ ってこれほ如何なる場合にも価値秤量︑評価を必要とする︒所謂採算を要する﹂といわれる︒要するに博士ほ企巣  

の指導原理と経営の指導原理とは等しく︑心ともに営利を本質的特徴とせず︑したがって協同組合や公企業等をも  

含めて企業の形態が考えられ︑㈲経営︵企業︶ の指導原理は経済性であり︑経済性とほ経済的合理主義︑すなわち  

給付とついえの双方または山方を価値によって比較秤鼠すること︑つまり最少犠牲の最大効果なる合理主義の価値  

的表現であるとされるので一ある︒   

ここで問題はまず︑このように解された経済性が︑はた′して生産経済つまり経営︵企業︶ と消費経済とを分つ基  

準となるかどうかであろう︒博士は︑﹁家事経済に於ては最大の欲望充足を期待することほあっても︑此の欲望充  

︵川︶\︵11︶ 足は主観的のもので﹂測定不能であり︑また︑﹁国家の統治の価値は秤量不能﹂であって︑経済性は﹁経営に於て  

︵12︶  のみ実現可能であり︑消費経済並に綜合経済には存しない﹂といわれる︒ここで︑綜合経済と消費経済および生産  

︑13︶ 経.済︵経営︶ とほ統山的意思の有無によって区別されるが︑右の引用からは︑消費経済の例としてあげられる家事  

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ  経済および国家は︑それぞれ最大の欲望充足および統治に価値があるとされ︑生産経済つまり経営︵企業︶ のみが  ヽヽ  ヽヽ  経済的価値秤量をなすがごとく解されているように思われる︒ここでわれわれは︑生産経済とか消費経済あるいほ  

家事経済といわれる場合の﹁経済﹂なる語に注目しよう︒これらが等しく経済といわれるからにほ︑経済の実体が  

これらすべて紅あるからと解されねばならないであろう︒しからほ︑経済の実体とほ何か︑それは︑本書における  

博士の主張を手掛りとするかぎり︑経済的価値秤鼠︑つまり経済性であるといわざるを得ない︒.もしそうでないと  

すれほ︑博士の経済概念は不明確であり︑価値概念は不統一であるといわざるをないからである︒もっとも測定不  ヽヽヽヽ  能といわれる意味を経済的に測定ないし秤騒が不可能であると解することも出来る︒しかしながら︑測定ないし秤  

量不可能であるからといって︑経済の実体には変りがないであろう︒かくして︑経済性をもって生産経済つまり経   

︵六一こ 二五   .経営経済学における企業および経営の概念  

(11)

︵六仙二︶ 三ハ  ず  第三十巻 第六号  

営︵企業︶と消費経済とを分つ基準とすること紅は非常紅大きな無理があることが知られるであろう︒ただ︑ここ  

︵‖︶  で博士が経済性を説明するにあたって︑﹁生産費の減少﹂あるいは﹁採算を要する﹂といわれていることにほ注意  

しなければならない︒このことについ七の博士の考察をより充分に検討するとき︑消費経済と区別される意味で  

の︑生産経済つまり経営︵企業︶の指導原理である経済性の概念につき︑われわれはより一層明確に把握すること  

が出来るかもしれない︒しかしながら︑少くともわれわれがとりあげている著書陀関する限りこのことについての  

博士の考察を見出すことは出来ない︒   

このように︑われわれほ﹁経済性﹂をもって生産経償っまり経営︵企業︶と消費経済とを分つ基準とすることに  

ほ︑非常に大きな無理があるといわざるせ得ないが︑それにもかかわらず︑博士が経営︵企業︶を生産経済に限定  

したことには︑きわめて重要な意義を見出さざるを得ない︒▼けだし︑経営経済学とか経営学と呼ばれている学問の  

対象 − それが企業と呼ほれるにせよ︑︑ぁるいはまた︑経営と呼ばれるにせよ ⁝ が経済単位としては生産経済に  

属するものであることは︑少なくとも今日においては否定し得ないからである︒本稿の初めにわれわれほ︑︑経営経  ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ  済学の研究対象を企業と区別される意味での経営とする博士の主張を引用し︑われわれにとっての問題ほ︑企業と  

経営の区別が果して現実上妥当するか否かであるとした︒この間題の答は博士の企業および経営に関する主張の東  

三の要点すなわち︑所有単位としての企業︑および︑それと経営との関係を考察することによって得られるであろ  

えノ0  

︵1︶ 増地前掲畜六頁   

︵2︶ 経営を生産経済のみに限定する理由として︑増地博士は次の点も主張されるようである︒すなわち︑自足経済においては  

生産と消費とが﹁劇ケの単位内﹂で営まれていたーこれを﹁鎖封的家内経済﹂ ︵Gesch−OSSe完七a宏W烹scFaft︶という   

(12)

︵3︶ 増地前掲讃二四克︑ただし括弧内ほ筆者︒  

︵4︶ 増地前掲蓄二五君   

︵5︶ 増地前掲惑六頁   

︵6︶ 増地前掲雷七頁   

︵7︶ 増地前掲蓄九貫   

︵8︶ 増地前掲蕾七頁︑ただし傍点ほ筆者︒  

︵9︶ 増地前掲薔九−山○貢︑ただし傍点は筆者︒  

︵10︶ 増地前掲無二〇菖  

︵11︶ 増地前掲諸一一賃  

︵12︶ 増地前掲吉山○員  

︵13︶ 増地博士は綜合経済について︑﹁統忘恩恩の支配なき経済であり︑多数の単独経済が分葵父換の機構によって結付けられ  

たる組織であるから︑意識的に経済性を目標として活動することは不可能である﹂と説明される︵増地前掲書山○頁︶︒   

︵六山三︶ 二七   経営経済学における企業および経常の概念   ーが︑経済の進展にともない︑経営は﹁消費を目的とする複事経済﹂から離れて生成したこと−これを﹁細胞分裂﹂とい  う1これである︵増地前掲吉山−三貴︶︒  なお︑生産経済について博士は次のごとくいう︒すなわち︑﹁生産経済とは単に有形の財貨の生産に従事する単独経済に  止 工業を営む経済のみならず︑商業︑交通業︑銀行業︑保険巣等紅従事する経済も亦経営である﹂ ︵増地前掲讃五−六頁︶︒  ヽヽ  ヽヽ  こLで生産経済といわれる場合の﹁牡産﹂と︑財貨の壁産とか生産配給に関連する各種の勤労給何といわれる場合の﹁  生産﹂と把関しても問題があろうが︑この点軋考察ほ本稿では行わない︒  

(13)

四 所有単位としての企業  

第三の場合には経営でほなくして﹁企業﹂が取りあげられ︑博士はまず︑企業とほ何かに関する国民経済学者と  

︵1︶  経営経済学者との見解の相違を述べ︑次に経営経済学者の見解として︑ドイツのバツソー︑ライトナーおよびレー  

︵2︶  マンの説をそれぞれ紹介・批判したのち︑企業を次のどとく説明される︒博士が﹁企業概念を認むる所以は ︵十一  

︵3  字略︶主として所有関係を明らかにせんとする﹂にあり︑この場合﹁所有関係とは形式的︑法律的所有関係ではな  

︵1︶  くして︑実質的︑経済的所有関係を意味する﹂︒したがって︑山企業が二以上の会社に分割されて︑親会社によって  

支配される別の子会社が設立される場合にも︑﹁実質上両者が夫々独立の所有単位を形成するものではなく︑所有  

︵5︶  単位としての企業は単に〟ケあるのみと解するを正当とする﹂︒そして︑﹁企業は経営の所有単位であるが︑総ての  

︵6︶  経営に夫々企業の存在が認められるわけでは﹂なく︑また﹁生産上全然関係なきニケの独立の経営が劇企業に属す  

︵7︶  る場合もある﹂︒このように︑いくつかの経営が山企業に属する場合には︑二.市場に対する交通ほ常に共通の企業に  

︵8︶  よって﹂行われ︑それぞれの経営の間には市場が存在せず︑﹁取引には価格の発生なく︑売冗の成立もない﹂︒︑かく  

て﹁企業ほ経営の外部機構︑外延組織︑外被である︒経営という実体を包被する外殻である︒経営の外部に対する活  

動は総て企巣を通じて行われる︒即ち経営転必要なる諸財貨は企業を通じて︑企業の名に於て市場より調達せられ  

結果たる貨物又ほ勤労給付は企業を通じて︑企業の名に於て市場に提供せられる︒企業の経営に対する関係を比愉  

へ9︶  的にいえば衣服の人体に対する関係に略ば該当するであろう﹂︒ところで︑﹁経営なき場合には企業の存在はない︒    ︵六山四︶ 二八  第三十巻 第六号  ︑  ︵14︶ 増地博士の論述は次のごとくである︒すなわち﹁経営において問題となるのは前者に限り︑数量的に現れる技術的能率の  

増進ほ生産費の減少を伴ふ限りに於て考慮せられる﹂︵増地前掲畜八東︶︒  

(14)

︵五行略︶経営と企業とは各自独立の涌動を営む別個の具体的な存在ではなくして︑生産単位として見る場合には  

経営となり︑所有単位として見る場合には企業となる︒両者の区別は観念上に於て存在する︒二言にしていへば経  

営は内部組織であり︑企業は外部機構である︒而して本書ほ此の外部機構の諸形式︑即ち企業形態の研究を目的と  

︵10ノ  するものである﹂︒要するに博士は︑仙企業概念を認めるのは実質的︑経済的な所有関係を明らかにするにあり︑㈲  

経営の外部活動はすべて企業を通じて行なわれるがゆえに︑企業は経蜃の外部機構と考えられ︑また㈲経営という  

実体を包むものとして︑企業は経営の外殻︑外被あるいほ外延組織といわれる︒そして︑企業と経営との関係につ  

いては︑㈲企業を所有単位︑外部機構とし︑経営を生産単位︑内部組織として︑両者を区別するが︑㈲この区別ほ  

観念上においてのみであり︑具体的存在としては両者は別個のものでほなく︑経営という実体がない場合にほ企業  

の存在はないとされる︒それゆえにまた博士ほすでに考察せるごとく︑経営の指導原理は当然また企業の指導原理  

たるべきであり︑ともに営利を本質的特徴としないと主張されるのである︒   

ここで問題はまず︑博士が企業を経営の外殻︑外被あるいは外延組繊であるとされる占⁝である︒この点につき博  

士は﹁経営を包被する﹂とか﹁比愉的にいえば衣服の人体に対する関係に略ば該当するであろう﹂と説明されるが  

前述の引用から明らかなごとく︑これらの説明ほ企業を経営の外部機構であるという主張のいいかえにすぎず︑わ  

れわれは外被︑外殻あるいは外延組織ということに特別の意味を見出し得ない︒そこで︑問題は経営の外部活動は  

ヽヽヽヽ ヽヽヽヽ  すべて企業を通じて行われるがゆえに︑企業は経営の外部機構であると主張され︑また︑企業を所有単位︑外部機  ヽヽヽヽヽヽヽヽ  構とし︑経営を生産単位︑内部組織として両者を区別することが果して妥当か否かであろう︒ここで︑仙活動︑組  

織および機構︑似内部と外部および㈲所有単位と生産単位切区別に注目しよう︒このうち揖については︑われわれ  

ほすでに粗放と活動との関係につき考察し︑また機構については本書に説明が全くないため︑ふれないこととしよ  

︵六副五︶ 二九   経営経済学における企業および経営の概念  

(15)

第三†巻 第六骨  ︵六二ハ︶ 三〇  

う︒■そこで㈲および㈲であるが︑われわれは果して︑経営活動を内部と外部とに分かち得るかとうか︑また所有単  

位と生産単位とを区別しうるかどうかを疑わぜるを碍ない︒けだし︑第〟に経営活動が内部と外部と監分かたれう  

るものとすれば︑経営において﹁統血的意思の支配﹂の鼠徹を全うし得ないことがおこりうる可能性が生じ︑第二  

に﹁経営に必要なる諸財貨は企業を通じて︑企業の名に於て市場より調達せられ︑結果たる貨物又ほ勤労給付は企  

業を通じて︑企米の名に於て市場に提供せられる﹂ものとすれほ︑所有単位としての企業と生産単位としての経営  

とは全く耐二と解されねばならぬからである︒もし︑第二の場合に所有単位と生産単位が区別されるものと考えれ  ヽヽヽ  ば︑生産単位つまり経営は博士の否定する技術的なものとならざるを得ない︒このことは博士が生産単位︵経営︶  

の例として︑製鉄所と炭坑とが区別されるといわれる場合に︑われわれはこれらが博士の意図に反して︑技術的な  

区分であると考えざるを得ないことからも明らかである︒けだし︑製鉄はエ業であり︑採炭は鉱業であるにせよ︑  ヽヽヽヽヽ  製鉄と採炭との区企は︑製鉄と製鋼との区別あるいは切羽作業と撰炭作業との区別と等しく︑生産技術的区分であ  

って︑決しで経済的区分でほないかちである︒次に問題︑は︑博士が魔済的な所有関係を実質的な所有関係であると  

して︑法律的な所有関係と区別されることである︒このことは別稿においてわれわれが博士の企業形態論の抜系に  ヽヽ  つき考察するさいに改めて問題としたいが︑ただ︑ここで注意すべきことは︑博士も﹁外部機構の諸形式即ち企  

巣形態﹂といわれるごとく︑企業形態論においては経済的な所有関係もまた形式的にとりあげられることである︒   

したがって︑われわれほ経済的所有関係を実質的とし︑法律的所有関係を形式的として︑両者を区別することは︑  

へ‖︶  少なくとも企菜形態論としてほ重要でないといわざるを得ない︒さて︑最後に問題は︑企巣と経営の区別が果して  

魂実に妥当するか香かである︒博士が主張されるどとく︑経営と企業との区別が観念上においてのみであり︑具体  

的存在として両者は別個のものではなく︑経営という実体がない場合にほ企業の存在はないとすれば︑なにゆえ   

(16)

に︑企業と経営とを㊥けて考える必要があるのであろうか︒もっとも博士は企業概念を認めるのは﹁主として所有   関係を明らかにせんとする﹂一からであるといわれる︒ところが︑われわれが考察せるごとく︑少くとも経営を経済   単位であるとする限り︑所有単位と切り離なされた生産単位ほ考えられず︑また︑経営の活動を外部と内部と紅区   分することほ出来ないのである︒このことから︑われわれほ企業と経営とを区分することにほきわめて大きな無理   があるといわざるを得ない︒   

このように︑われわれは経営と企業とを区別して考えることには非常に無理があるといわざるを得ないが︑博士   が企業概念を認めるのは﹁主として所有関係を明らかにせんとする﹂にあると主張せる点を見逃がしてほならな   い︒けだし︑この主張のうちに︑企業概念が所有から切り離なされ得ないものであることが暗示されているとわれ   ゎれほ考えるからである︒経営も企業も所有から切り離され得ないがゆえに︑経営学みるいほ経営経済学において   企業が問題とされねばならず︑また︑企業の形態が問題とされねばならないのでほなかろうか︒このことほ博士が   企業形態の区別を︑まず所有が公的か私的であるかによって︑私企業︑公企業および公私合同企業に分類したこと  

︵12︶ からも認められねばならないであろう︒そこで︑われわれ紅とって︑﹁経営経済学のご分科としての企業形熊論﹂  

の性格および体系に関する増地博士の主張が問題とされねばならないこととなる︒この問題ほ別稿にゆずり︑本稿   では次に企業および経営に関する増地説の考察から︑われわれが学び得た諸点をまとめて結びとしたい︒   

︵1︶博士ほ︑国民経済学者は綜合経済の立場に立ち︑企業を外部的に観察するから︑経営を技術的嘩億と解するが︑経営経済  

学者は単独経済的観察を行うから︑経営を経済単位として苧鷺といわれる︵増地前掲讃仙二1二義︶︒   

︵2︶ここでとりあげられるバッソしライトナーおよびレーマンの著醤ほ︑2assOW⁚Be−琵b去n−2rneぎung︸只○コ買P  

Jeコa−浩訪こ訂it琵⁚W富c邑−s匡red2rU已er邑ヨun2・⁝u−−・野−in邑1eip倉−琵および=r首ma賀   

経営経済学紅おける企業および経営の概念  

︵六右︶ 三   

(17)

A青邑n2翌−iebswlr−sc邑−sle雷e・12ip2ig∵忘領である︵増地前掲啓三⊥五頁︶︒   

︵3︶ 増地前掲琶山六頁   

︵4︶ 増地前掲書一一〇貴   

︵5︶ 増地前掲書二一束   

︵6︶ 増地前掲章一八頁  

︵7︶この場合の例としては襲来会社が海運業を営む場合があげられる︑︵増地前掲璧九責︶︒   

︵8︶ 増地前掲苔一九貫   

︵9︶ 増地前掲省一・七頁  

︵10︶ 増地前掲撃三ハー二七菖  

︵11︶山城教授は﹁いずれにせよ企共形慧は形式的な課題であるにすぎない﹂とい究る︵山城茸著﹃経営学の学び更改訂  

新版︺﹄昭和三十二牛白桃蓄房刊三二貫︶︒   

︵12︶.増地前掲書四二−四七日   

五紙  

企業および経営に関する増地博士の主張の考察から︑学び得た諸点は次の三に要約されよう︒  

第這われわれは︑観念上の区別として企業と琶と寡けるには︑非常特大きな慧があり︑是︑所有単位  

として︑企業を否定⊥得ないことを知った︒このことから︑これまでは博士にしたがい経営︵企業︶と表現してき  

票︑現雷存在するもの柊経営ではなく企業であると考えねばならないであろう︒しかし︑われわれの研究対象  

︵1︶ は企業ではなく︑企業の経営滞動であると考えたい︒﹁企誉経営﹂のどとく二元的苦りあげずた︑﹁企業の経    第三十巻 第六号   ︵六山八︶ 三二  

(18)

営活動﹂として考えるのである︒しからば企菜の経営活動とほいかなるものか︒それほ経営学の全体によってのみ答  

えられるであろう︒以上の考察からわれわれがいえることほ︑それが企業のいとなみ︑すなわち企業の全体的な活  

動であることであり︑また︑企業において必然的に形成される組織を切り離なしては︑企業を全体的紅理解し得な  

いことである︒われわれはまた︑組織が活動するものとしての組織であり︑それが人と人との関係とともに︑技術  

っまり人と人との関係に結びついている人と物との関係をも︑含むものであることを追加しておかねぼなるまい︒  

けだし︑技術を含むものとして組織をとりあげるときにほじめて︑最も具体的なありのままの姿で︑企業の経営活  

︵2︶ 動が考えられるからである︒   

第二にわれわれは︑血般に組織にほ対立が必然的に存在するがゆえに︑固有の主体による統心的意思の支配が要  

求されることを知った︒企業の経営活動匿おいて︑統山とともに対立が問題とされねばならないことはいうまでも  

ないであろう︒しからば企業の経営活動の主体は何か︒それほ企業においていかなる対立が存在するかの考察によ  

って明らかにされよう︒この問題は経営学︑とくに労務管理論の中心的課題の劇つであるがー︑ここでほ⊥応次のご  

とく考えておきたい︒企業内の対立の根源的なものは資本主義的企業においては資本家対労働者の対立である  

が︑今日においてはそのはか各部門間や管理各階層問さらには企業内各グループの間の対立が注目される紅至っが什  

そこで︑より劃般的抽象的に考えれば︑個々人の意思は個々人の意思の統合である全体の意思と対立するというこ  

之が出来る︒かくして︑一般的抽象的に考える限り︑企業を貫徹している意思ほ個々人の意思の統合である全体の  

意思であり︑それゆえにまた︑企業の経営活動の主体は企業それ自体であるといわざるを得ない︒しかし︑企業を  

個別的具体的√にみるとき︑少なくと滝資本主義的企業においてほ︑企業それ自体の意思に近い人々と遠い人々とが  

いることを否定し得ないであろう︒いずれにせよ︑企業それ自体の意思により︑企業の経営活動が営まれると解さ  

経営経済学における企菜および経営の概念  

︵六一九︶ 三三   

(19)

︵六二〇︶ 三四  第三十巻 璽ハロウ  

れなけれほ︑企業を経済単位とし︑また独立の存在とすることは出来ないのである︒  

第三にわれわれは︑消費経腐と区別される意味で企業︵あるいは経営︶を考えるとき︑その指導原理を営利では  

なくして経済性であるとする紅は︑非常に大きな無理があることを知った︒経済性にょって企米を消費経済から区  

別し簡ないとすれば︑ここに改めて営利が問題とされねばならなぃ︒企業の経営活動の内容である生産が典型的に  

ほ︑工業経営において見出される事実を忘れてはならないし︑また︑企塞が資本主義社会において存在している事  

実を見逃がしてはならない︒この二つの事実からも︑企業の経営活動が営利を目標として営まれるといわぎるを得  

ない︒.しかしながら︑企業の経営活動が営利を目標として営まれるといっても︑われわれは公企慧∵−しそれは増地  

博士にょれば営利を目的とするか︑公益を目的とするか判然としない場合が多いとされる ーを企業でないという  

のでほない︒われわれ紅とって重要なのほ営利が私的営利として現われたり︑また公益性とか公共性とかの言葉に  

よって︑あたかも営利ではないかのごとく現われることである︒このことのうちに︑実ほ営利とは何かのなぞが港  

んでいるのではないだろうか︒   

要するにわれわれは︑企業の経営活動を考え︑その主体を企業それ自体と考え︑企業それ自体の意思において営  

利を考えるのである︒企業の形態をとりあげる場合には︑何よりもまず︑今まで自明とされてきた営利概念を再検  

︵4︶  謝しなけれほならない︒本稿軋おいて残された問題ほこの自明の営利概念の再検討である︒   

ヽヽ  ︵l︶ 企其の経営活動を研究対象とすることから︑われわれの学問を経営経済学でほなく経営学とよぶのが︑適当であると考え  

る︒   

︵2︶ われゎれは組織をとりあげることによって︑経営経済学等が成立し︑技術をとりあげることによって︑経営技術学等が成  

立するとは考えない︒なお︑この点に関する蒐要なわが国の文献には︑薄利霧降著﹃経営学の基礎﹄ ︵昭和三十劃年森山   

(20)

窃店刊︶︑とくに﹁第二章経営学の課題﹂がある︒  

︵3︶ 人間関係論は企業内各グループ問の対立に注目する︒アメリカにおける人間関係論の主要文献については︑森本・河野稿  

﹃アメリカ経営学の主要文献解題﹄︵PR七巻八号︶の第三項を参照されたい︒  

︵4︶ 薄利教授は︑注︵2︶に掲げた著畜の第笑章以下において企業における営利原則を正面からとりあげられている︒  

︵昭和三十三年鵬月十六日稿了︶  

経営経済学紅おける企業および経営の概念  ︵六二一︶ 三五   

参照

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